「ニャイ」
植民地の性支配


ニャイ ロロ キドゥル、ニャイ ダシマ、ニャイ オントソロ・・・・。他にも名前の知られたニャイはたくさんいる。ニャイ ポハチ、ニャイ ラトゥ コマラサリ、ニャイ サリケム、ニャイ スミラなどと挙げていけばきりがないくらいだ。この「ニャイ」という言葉はいったい何なのか?


< 妾と貴婦人 >
ニャイ ロロ キドゥルやニャイ ポハチと他のニャイたちとの間に違いがあるのはきっとお気付きにちがいない。ニャイというジャワ語は元々年齢的に熟した婦人に対して使われる尊称であり、英語のLadyに通じる感覚の言葉だったようだ。ニャイ ロロ キドゥルやニャイ ポハチはそういう意味合いで使われているように感じられる。ちなみにKBBIによると、1.未婚あるいは既婚女性の呼称、2.自分より年上の女性を呼ぶ際の呼称、3.外国人(特に西洋人)の妾、という語義が記されている。
ジャワ語辞典では「若くない婦人への尊称」、スンダ語辞典では「年齢に関係なく自分の家族の女性への尊称」、バリ語辞典では「女性に向かって使われる二人称代名詞(非敬表現)」と説明されており、スンダやバリではまた違う使われ方がそこに含まれているように思われる。

一方、ニャイという言葉は夫婦を意味するsuami-istriあるいはlaki-biniといった組み合わせと同じようにkiai‐nyaiという組み合わせで使われ、pak kiai ‐ bu nyaiという表現が民話の中にしばしば登場する。ジャワでキアイはイスラム宗教学者であるウラマの尊称として使われるが、カリマンタンでは宗教的なポジションとは無関係な、王国の大臣や地方首長の称号として使われていた。王家の一族である貴族はもちろん別の尊称を使っており、キアイと呼ばれたひとは貴族出身でない高官を意味していた。ニャイはそのキアイの妻である女性に対して使われた尊称であり、貴族出身ではないが高位の女性を意味する呼称だったと見ることができる。バンジャル王国のスルタン・アダムの王妃だったニャイ ラトゥ コマラサリというのは、コマラサリ王妃にニャイという言葉が添えられたものであり、そのニャイという言葉によって王妃の出自が貴族でなかったことを、われわれは知ることができる。

もともと貴婦人を指す言葉だったニャイは、西洋人がヌサンタラの島々を支配し始めたころから、一転して異なる使い方をされるようになった。いや、一見異なるように見えてはいるが、同じ本質の上を同じように歩んでいたのかもしれない。


ヌサンタラの島々にやってきた初期の西洋人たちはすべて男だった。男の生理は定期的な精液の排出を男に強いる。その問題を処理するためには売春やレイプが必要になるが、あらゆる男がそういう粗野な振舞いを好んだわけでもない。さまざまなリスクを考慮したかれらは擬似的婚姻制度をヌサンタラの島々に設けた。つまり社会的に公認されている婚姻制度の外でプリブミ女性のひとりを妻の立場に置き、家庭生活を営んだのである。正式な妻にするのは同じ文明を共有する知的な白人の女性でなければならず、いつの日か帰国したあかつきには正式な婚姻をして文明人としての家庭を築くのだが、それが当面困難である以上はこの熱帯の地で、あまり文明的でない、むしろ野蛮な慣習を持つ原住民と似たような暮らしをしなければしかたがない、というのがかれらの根拠だったにちがいない。
そしてそんな西洋人の仮初めの妻になった女性たちに、「ニャイ」という尊称が供されたのである。こうして「ニャイ」という言葉は西洋人の妾になったプリブミ女性の呼称としても使われるようになった。貴婦人と妾が同一の名称で呼ばれることの矛盾がそこに生じる。

たとえ仮初めとはいえ、支配者層たる西洋人の妻の立場に立ったわけだから、たいていがお屋敷や大邸宅といった住居の中で営まれている家庭を整え維持するために必要な金を委ねられるのは当然であり、また社会的地位を有するトアンに恥をかかせないようにするために豪華な金糸銀糸を織り込んだソンケッやカインを着用し、宝石を散りばめたかんざしやクバヤの留めピン、そして派手やかな装身具を身にまとってプリブミ女の美しさ艶やかさを思う存分ふりまかなければならない。男がこの女を自分のものにしようと思うのは、その女を従えた自分の姿が世の中で見栄えよく映ると想像させる自己顕示欲の影響が必ず混じっていることを忘れてはなるまい。女は男にとっての宝石だという言葉はそういう意味を持っている。
加えて、ニャイになればトアンから与えられる金の一部を流用して自分の親兄弟への援助に回すこともできる。情の移った仮初めの妻に、余っている金を流用して親族にこういう援助をしたいと懇願されたとき、ノーと言うトアンはきっと稀だろう。似たようなことはどこの国のどんな夫婦であれ、行なっているのではあるまいか。だから娘が西洋人のニャイになることをその親兄弟が強く拒否しなかったとしても不思議はあるまい。小説「ニャイダシマ」に描かれていたダシマの境遇を見ると、ダシマがエドワードのニャイになることをその一族が望んでいたように書かれている。


貴族でない女性が貴婦人扱いされるためには、王族貴族の妻や公認の妾になること、次いで大金持ちの妻や公認の妾になることが成就の近道になる。ところが相手の男が同じプリブミ社会の人間である場合、その競争と審査選別はとても厳しいものになる。ましてや、出自が奴隷身分や卑賤な平民だということになれば、王侯貴族や金持ちの男を取り巻く親族が受け入れてくれる確率はゼロに近づく。もし男がその女をどうしても自分のものにしたければ、あとは世間から隠れた非公認の妾とするしかなくなるが、それだと女は社会的に貴婦人扱いされなくなってしまう。
家族主義一辺倒の時代、一族の独身男性が妻に娶る女性は、まず夫個人の妻になる前に一族の嫁にならなければならなかった。妻は夫にとっての存在でしかないが、嫁は親族全員にとっての存在なのである。婚姻によって一組の妻と夫ができあがるとき、その夫婦関係を絆にして妻と夫が代表する各自のファミリーが親戚となって結びつきあうという形態はインドネシアで今でも生き続けている。だから、どれほど愛し合っているふたりが妻と夫になりたいと願ってみても、親族のひとりがその者を、ひいてはその者の一族を、自分のファミリーとして受け入れられないと納得性のある理由を明らかにして言い張れば、愛し合うふたりに幸福な明日は訪れなかったのである。

しかし相手の男が万里の波濤を越えてヌサンタラの地にやってきた西洋人支配者のひとりであるなら、美貌と頭の良さでたとえ奴隷女であろうと夜な夜な男のベッドに添い寝することは可能だった。そのようにして、奴隷女が一夜にしてニャイに引き上げられるという実例は掃いて捨てるほど作られた。初期の時代、トアンの邸宅で使われているプリブミはみんな奴隷であり、そんな奴隷の境遇から「ニャイ」という社会経済的に貴婦人と並び得る境遇に登りつめた当時の女性たちの心の中は、どのような感慨で満たされていたのだろうか。
インドネシアでは古来から、富裕な人間が社会的に尊敬されてきた。今でも、派手な金遣いをして世間から金持ちだと見られるように努めているひとびとは数多い。外国人は往々にしてそれを見栄っ張りだと評するが、インドネシア社会はその見栄に対して賞賛を与え、社会的な尊崇を示すのである。つまり金持ちであると世の中から見られることは、社会的な尊敬に直結しているというわけだ。だからコルプシで得た金を使って本人とその一族郎党が贅沢三昧を尽くしている姿は世間一般のものになっているし、コルプシでイージーに得た金をイージーに撒き散らして自分は贅沢を思い切り享受するという、独特の金銭観人生観が実践されている。そんなかれらがレストランやハイパーマーケットでの支払いで小銭のつり銭をとやかく言うわけがない。

だから突然トアンの手がついて富裕層の仲間入りをしたニャイは社会経済生活面で貴婦人の称号を与えられるのにふさわしいということになるにちがいない。つまり妾と貴婦人が同居できる理由がそこにあったということなるわけだが、だったらプリブミ男性の公認の妾がどうしてニャイというカテゴリーの中に含まれなかったのか。かれらプリブミ男性が持った妾にはその地位に応じてselir、gundik、candik、gula-gula、istri gelap、simpanan、piaraan、munciなどという言葉が使われたものの、ニャイという言葉は使われなかったのである。
正式な婚姻をしないまま異教徒にして憎むべき搾取者である西洋人支配者に性的快楽を供しているという点でニャイはムスリムプリブミ層にとって人倫にもとる背徳者なのである。富裕層に属しているという賞賛と背徳者という侮蔑の二律背反を一身に背負ったニャイたちを取り巻くプリブミ社会のニャイに対して示すアンビヴァレンツな待遇姿勢は、きわめて興味深いものがあると言える。そんな立場に置かれたニャイがどのような生き方を模索したか、それを具現させたのがプラムディヤの描いたニャイ オントソロだったと言えるだろう。
ニャイダシマにしても、G.フランシスが描いたバン・ポアサは酷薄な暴れ者の殺人鬼でしかなかったが、西洋人の持ち物となった背徳者のニャイに天誅を加える形で西洋人支配者に対する反抗を示したという見方が世の中に出現し、かれを民族主義の先駆者に押し上げる見解がプリブミインドネシア人の間に今でも存在している事実はわれわれを当惑させてくれる。果たしてダシマは、狡猾な男の誘惑に乗って道を踏み外しただけの心の清らかな少女だったのか、それとも毒婦だったのか?


西洋人がやってきてはじめてヌサンタラの地に妾という慣習が生まれたわけでは決してない。ずっとはるか以前からも、王たちは複数の妻を持ち、そしてもっとたくさんの妾を持った。王の責務のひとつに血統を絶やさないことという一項があるため、それは是非を問わない必須事項だったにちがいない。そして王を取り巻く貴族や家臣たちがそれを真似、更には高級軍人や金回りのよい豪商たちまでもがそれを真似た。それが社会原理に従った行為であったのは、言うまでもない。

歴史の中にニャイとして登場するのは西洋人の手がついたプリブミ女性がマジョリティではあるものの、華人金持ちの相手になったプリブミ女性、更にはそれら外国系の男に囲われた華人女性から日本人女性までもが含まれた。「からゆきさん」のたどった運命も千変万化だったようだ。
プリブミ男性と外国系女性という組み合わせも皆無ではない。少なくとも、男女のいずれかが非プリブミつまり外国系であるということが、ひょっとしたらニャイという言葉にとっての絶対要件なのかもしれない。
ただし、これまで説明してきたニャイという言葉をわたしはその訳語である「妾」という面からとらえているが、「社会的に公認されている婚姻制度の外でひとりの女性を妻の立場に置き、家庭生活を営んだ」という面からアプローチするなら、このニャイという存在は合法的な婚姻をしないまま夫婦関係をはじめたという面で妾という意味合いをもっている一方、同時に社会的に地位のあるトアンが生活しているお屋敷の下男下女を統率して邸内を整える執事のような役割も果たしていたことを忘れてはなるまい。前者だけを見るなら、囲われ女や売春婦と変わらないふしだらな女だということになるものの、後者は正妻なら行なって当然のしごとを正妻でないのにしているということになる。前者の面は社会的な目から見ると、きわめて私的で社会からは秘匿されてしかるべきものと位置付けられるものの、後者の面は明らかに地位のある男の公的生活をサポートしており、秘匿するなど不可能なことがらと見ることができる。
だから、妾という日本語がもたらす「囲われ女」「日陰者」というイメージはニャイの全貌の一部にすぎないというように思えるのである。もちろん、日本にも妾が旦那の商いを助けて商売を発展させるというようなことはあったかも知れないが、それは妾という語が表している一般的なイメージではないだろう。そういう意味で、インドネシア語でも日本語でも、ニャイを単純に妾と訳している現状は、どうも言葉足らずのように思えてしかたない。
もっと言うなら、たとえば外国人男性に囲われた華人女性や日本人女性がニャイと呼ばれたとしても、それは妾としての意味合いで使われたケースでしかなく、通常のニャイのイメージである「公式な立場で家政を切り盛りする執事」という機能をそこに当てはめた場合、すべてプリブミである下男下女を華人や日本人がはたして容易に統率でき、外部者からあの家のニャイはすばらしい手腕を持っているというような評価を受けられただろうかという疑問が湧いてくる。そういう意味から、ニャイというのは、妻としての家庭内を整える仕事と夫の性行為の相手をつとめるという双方の機能を具備した仮初めのリーガルでない妻であるという定義がより正確なもののように思えるのである。
つまりは、ニャイが仮初めのイリーガルな妻であったとしても、高い地位のトアンを助けてあたかも正式な妻のように大きなお屋敷の中で下男下女に君臨する立場に立って腕をふるっているというイメージが間違っていないものであるのなら、合法的に結婚した妻とかの女との外見上の違いはいったいどこにあると言うのか?高い地位にあるトアンの正式な妻は言うまでもなく貴婦人であり、伝統的用法としてのニャイと呼ばれて当然なものだ。それとまったく同じようなことをしている女性を、下男下女や世間一般のプリブミたちが貴婦人扱いしたとしても何もおかしくないのではあるまいか。

結局のところ、ニャイという言葉はKBBIでさえ「外国人(主に西洋人)の妾」という語義を示しているものの、本来的なイメージから言えば「家庭内を整える下男下女頭という機能を備えた妾」というのが正確な語義なのではないかというように思えるのである。ただし妻であれば、それらは最初から求められている機能なのであり、当然の仕事なのだ。世の中の普通の妾はそこまで要求されなかったということでしかないのではあるまいか。そうであるなら、婚姻制度という法的な面における合法非合法だけに焦点を当ててニャイを十把一からげに「妾」という言葉の中に押し込んでしまうのは、文化的な意味合いから見てあまり適切な態度であるとは思えない。
ニャイという言葉の中に同居している妾と貴婦人というふたつの矛盾する観念は、ニャイという存在の中に包まれたふたつの要素の中の関連性の希薄な面が採り上げられたことによって発生しているのであり、もうひとつの面に焦点を当てるなら、あまり違和感なしに受け入れることのできる問題であったのではないかという気がわたしにはするのである。

非プリブミであれプリブミであれ、男が妾を囲うのをあくまでもふたりだけの性と愛の舞台に限定できるならまだしも、仮初めの妻として家庭を営むということであるなら子供ができることがその視野に含まれて当然だろう。もっと突っ込んで言うなら、妾が自分の立場を強化しようとしてひそかに相手の男のタネを身ごもろうと努めた事実も歴史の中に散見される。「子はかすがい」という原理は夫婦の間だけに存在する真理なのでなく、もっと拡大された男と女の間に存在するものなのであり、非合法の妻がその原理を巧みについたありさまは不遇な女の深慮以外のなにものでもないように思えてくる。
ニャイという言葉の周辺に異国の血が混じりこんでいるのなら、その子供たちは混血ということを宿命に持つことになる。混血というのは生物学的に姿かたちが他の純血の子供たちとは異なるケースが多いということだけでなく、かれらが育つ環境の中で父親と母親という存在から吸収するビヘイビアや風習、それは言葉で教え諭す以上に両親の行為行動を見習い真似て身に着けているほうが多いものなのだが、つまり単一でない価値観を見習いながら育つということに帰する。父親と母親がそれぞれ自分の文化、つまりそれが自分であるというアイデンティティの中に含まれている価値観、を異にしている以上、それは避けることのできないものだとわたしは思う。
そんな状況下に置かれた子供たちが自分のアイデンティティを父親の文化に求めるかあるいは母親の文化に求めるか、それはもちろん意識するとしないとに関わらず父親と母親がそれを方向付けていくことになるのだが、そこに文化を異にする父親と母親の関係が浮き彫りにされてくる。血肉を分けた実の子供だというのに、わが子が父親の価値観に倣って実の母親を劣った文化の人間として接してくるとき、そんな異文化のわが子を養育しなければならない母親の心もきっと無惨なものであるにちがいない。


冒頭で述べたような、熱帯の後進的な暮らしを快適なものにするための方便がそれだと考えたヨーロッパ人で、自分の故郷や親族の価値観を正直に実践しようとした男たちは、熱帯の地における勤務が満了したとき、仮初めの妻と混血の子供たちを放り出して、まるで何事も起こらなかったかのような顔で帰国した。仮初めの妻が男のそんな無責任な行動をまったく容赦できなかったとき、ヨーロッパ人の男は船が本国に到着する前に奇妙な死を遂げた、という物語がアジアをテーマにしたヨーロッパ近代文学作品の中に、さまざまに語られている。
残された混血児の多くは必然的に白人支配者に反感を抱く心情に傾いた。外見は白人でありながら、プリブミの価値観と風習をたっぷりと内面にたくわえたかれらの多くは、純血白人支配者層からの差別に耐えながらヨーロッパコロニアリズムに対する批判の舌鋒や筆鋒をふるったのである。

しかし、自分の血肉をすべて見捨てて去るという無情な男たちばかりだったわけでもない。プリブミのニャイを連れて帰るわけにはいかないが、自分の子供は連れ帰ってヨーロッパ文化の中で育てようとした男も多かった。帰国して知的で教養のあるヨーロッパ人女性と正式に結婚し、子供たちは連れ子としてその家庭内に迎え入れられる。自分はヨーロッパ人であるという確固としたアイデンティティのもとに生涯を終えた混血児もたくさんいる。そのようなケースでは、ニャイは腹を痛めたわが子と引き離され、故郷の村へ追い返されるのが常だった。
トアンが熱帯の地で生命を落とした場合でも、ヨーロッパにいるトアンの一族がその混血の子供を要求してヨーロッパへ連れ去り、トアンとニャイが経営していた資産もヨーロッパのトアンの親族が所有権を主張してニャイから取り上げるといったことも当たり前のように起こっている。ニャイは故郷の村へ追い返されるわけではないが、自分がこれまで居た場所から追い出されるという点ではさしたる違いがない。
そのように、生木を裂くようにして子供との生き別れを強いられたニャイにとって、それは心に大きな傷をもたらすものだったにちがいない。とはいうものの、たとえトアンとニャイと子供たちの一家全員が同じようにひとつの家庭の中での暮らしを続けたとしても、トアンがニャイの文化を劣等視し、そんな父親の価値観を子供が継承したとき、悲劇の種は同じようにそこに芽吹くにちがいない。それは生活の場所がヌサンタラの地であろうと、ヨーロッパであろうと、違いはあるまい。
例はあまり多くないとはいえ、ニャイと混血の子供たちを全員丸抱えで故郷に連れ帰ったトアンもいる。家族主義という、まるでお蚕ぐるみのような生活習慣や愛情関係の中にいたヌサンタラの女にとって、そういう人間関係から切り離され、暗く寒く厳しい季節を持ち、人種差別に満ちた土地に連れてこられたニャイがはたしてその地で真実の幸福を見出すことができたのだろうか?ましてや、わが子がヨーロッパ人の目で母親を眺めるようなことになれば、なおさらだろう。だから、上にあげたいくつかのパターンはトアンのニャイに対する責任の取り方という観点から優劣をつけることはできたとしても、そんな形の上からだけでニャイの幸不幸を簡単に判定することはできないし、またそういう評価が不毛であることもわれわれは自戒するべきだろうと思う。


< 文学の中のニャイ >
文学の世界にもたくさんのニャイが登場する。それはインドネシア人の現代文学の中にばかりか、かつてヌサンタラの地に関わった西洋人が書き残したものの中にも、そしてヌサンタラのプリブミたちがムラユ文学を盛んにする以前に、ヌサンタラの各地に居住した印華人たちの著した華人ムラユ文学の中にも姿を見せるのである。
西洋人、中でも女流文学者の作品に登場するニャイたちの多くは、西洋人の男を性的にたらしこんで自分に貢がせ、その金を使って贅沢で怠惰な暮らしを楽しもうと画策する性悪女として描かれた。

西洋人が来てヌサンタラの地を支配するようになってから、プリブミの男たちは西洋文化に馴染もうと努めた。長ズボン・シャツ・上着・ネクタイなどを着用して西洋人の手伝い役つまりプンバントゥになったのである。ところが女性は違っていた。たとえニャイになったとしても、かの女たちはカインサルンとクバヤの着用を続けた。当時の西洋人女性の服装は全身を覆う衣服でしかも重ね着をしたわけだが、プリブミ女性たちはそんな暑苦しい目を見ることをはなから嫌ったようだ。トアンはむしろニャイのカインクバヤ姿をエキゾチックなものとして楽しんでいたのかもしれない。
慣れた楽な服装が許される以上、プリブミ女たちが通常行なっている生活習慣も許されるのは火を見るよりも明らかだ。重いナイフやフォークを使い、細かい決まりの設けられたテーブルマナーに従って会話を楽しみながら食事する習慣はプリブミ女たちにとって苦痛以外のなにものでもなかったのではあるまいか。だから、どうしても避けられない機会がやってこないのであれば、台所で気に入りの仲間と一緒に、皿の中をかき混ぜながら指を使って食べるマナーが優先されたことは疑いないだろう。
「・・・間断なくシリピナンを噛みながら、奴隷たちに囲まれて背中をクロッさせ、かの女たちはそうやって自分の人生を浪費しているように見える・・・」近代西洋女流文学者たちはニャイたちの生活習慣がもろに前時代的な価値観によって構築されており、トアンのセックス相手になる以外の義務はなく、あとは家内の奴隷たちの頭として家政を整えさせるために命令を下すだけ、という人生のあり方を憐憫と軽侮で眺めていたようだ。

少し説明を試みるなら、シリピナン(sirih pinang)というのはシリの葉・ピナンの実・石灰・ガンビル(gambir)に少量のタバコ葉を混ぜたもので、いわゆる「噛みタバコ」の一種であり、それを噛むと口の中が真っ赤になる。言うまでもなく常習性を持っており、習慣化するとチェーンスモーカーのようにそれを噛み続けて終日を過ごすことになりかねない。だから終日そんなことをする、あるいはできるということは、一日中たいしてすることを持たない人間の特権を示すようにも見える。
古代から、封建支配層は偉ければ偉い人間ほど自分では何もしなかった。やれ食事だ、服の着替えだ、顔洗いだ、水浴だ、トイレの世話だなどと、かれらは常にお付きの人間に取巻かれ、お付きの者がその世話を焼いた。地位が高ければ高いほど、その人間の行動の細かい部分までお付きの者が付けられ、ひとりが何人もの手を借りて生きていた。地位が下がってくればお付きの者は人数が減るため、自分自身でしなければならないことがらが増えてくる。つまり、そういう習慣が、「何もしなければしないほど、その人間の地位は高い。つまり俗っぽい言い方をするなら、偉いひとだ」という価値観をジャワの地に育んだのである。それは言い換えると、地位の高い人間が自分で身体を動かして雑事をするようなことは社会的に相応しくない振舞いなのであり、偉いひとはだれか下位の者に命じてそういう雑事をさせるのが社会の秩序に即した振舞いとなるわけだ。その結果、たとえば事務所で床に落ちているゴミを外国人役職者が自分で拾うと、周囲の現地従業員の間にありうべからざることが起こったような異様な雰囲気が漂うのは、そういう価値観で構築されている世の中がひっくり返されたようにかれらが感じるためだろう。会社の偉い人間が下賎な地位の人間の真似をするのだから、そんな人間の下に使われている現地従業員たちの感性に何が起こるかは、ジャワ文化の中で育たなかった者にも想像はつくにちがいない。
あるいは事務所内のレイアウト変更で全員の机の位置を動かすような場合でも、そのような力仕事の雑業はオフィスボーイの役割であり、現地従業員はオフィスボーイがやってくるのをただ待っているだけという状況下に、外国人役職者が自分で机を動かし始めたとたんに、それをさせまいとして周囲の現地従業員が飛んできて自分たち自身で上司の机を運んでいくというようなことは枚挙にいとまがない。
だからそのような現象を、自分が自分の机を動かさないのは怠け者の証拠であり、上司の机に飛びついてそれを自分で運ぶのは上司から良く見られたいというおべっかだ、という理解に外国人が走るなら、その外国人にとってジャワ文化の中にある生活原理を把握できる日はなかなかやってこないだろうという気がする。

もうひとつ、クロッ(kerok)というのは、風を引いて体調が萎縮しているようなときに、背中に油やローションを塗り、コインや翡翠、あるいは瓶のふたや底、ビー玉など人間の肌を傷つけない硬いものでこすって血行をよくするという民間療法であり、子供から大人までインドネシアでは今でも人気の高い代替療法として重宝されている。硬いもの以外にしょうがやバワン(玉ねぎ・エシャロット)などを扱いやすい形に切ったものも使われることがある。
クロッ療法を受けた背中は赤い筋が魚骨状に走って一見痛々しいが、本人は身体がホカホカして実に気持ちよいものだ。この療法に類似のものはアジア諸国にあるらしい。施療のやり方にもよるだろうが、普通はこすられて真っ赤になった部分の肌が痛んているため、痛んだ皮膚が回復する前に同じことを繰り返すと痛くてしかたない。だからクロッと間断なく噛まれるシリピナンとの頻度はまったく違うものなので、ニャイが有閑マダムよろしく奴隷たちに囲まれて毎日毎日そういうことをしているということでは決してない。
ただし、少なくとも奴隷たちの頭となった貴婦人格のニャイが、その時代のジャワにおける「何もしない偉いひと」という価値観を引き被ったことは言うまでもなく、自分が行動して自分の人生を描き出していくのだという西洋の価値観では受け入れることの不可能な存在を演じていたことだけは確かなように思われる。
ところで余計な話だが、シリの葉・ピナンの幹の皮・シリ用石灰・ガンビルの実を使うと女性のヴァギナを小さく狭くすることができるそうだから、新しい恋人を得た男性がテストドライブしてかの女の前歴を推し測ろうとしてもかわされてしまうという話がジャワにはある。さらに、ヴァギナを香りよくしたり、ヴァギナの肌を一層滑らかにする処方もあるという話で、そういう情報を得たい方はジャワ人のお友達を持つのが良いかもしれない。

上述のような西洋女流文学者の見解が当たっているニャイもいたのだろうが、だったら西洋人の男たちは性欲に目がくらんで愚かな性悪女をつかまされ、熱帯での勤務における私生活を一生の不作と嘆きながら、数年の我慢でそれから解放されるという期待の中で生きていたということなのだろうか?いくら西洋人の男が性的に放縦だったからとはいえ、頭脳の中までそのように愚昧視するのは、極論ではあるまいか。


理解力と柔軟な思考力を持ち、綿が水を吸い取るように教えたことを素直に吸収した上それを日常生活で実践できる能力を持つ女。加えて美貌と女らしい包容力を持つ女をかれら西洋人男性が奴隷もしくは使用人の中から見出したとき、かれらの多くは理想の女を発見したと思ったにちがいない。たとえ出自が貧困で下賎であったとしても、トアンが教える価値観を受け入れてそれを実践するのであれば、たとえ仮初めとしても共にひとつの家庭を経営するパートナーとして不足はないにちがいない。
まるで天下った天使のような、美しく、魅力的で、トアンが買い与えた美麗な衣装と装身具に身を包み、愛情と優しさに満ちた微笑をトアンに向けてくる若きニャイたちも、西洋文学の中に数多く登場する。ミルクチョコレート色の肌とフランス人が詩にうたい、イギリス人が美しい子牛皮の靴のような色と表現した、陽に焼けた肌を持つジャワの娘たちが漆黒の髪を垂らしている姿は、幼い頃から見慣れて育った青白い肌と金髪茶髪の娘たちとはひとあじ異なったセックスアピールをヨーロッパの男たちに感じさせたようだ。現代作家リチャード・マンはジャワの女の魅力を次のように書いている。
・・・・ジャングルの獣のように野生的で飼いならされるのを拒み、動物的感覚でアクセントがついている美しさ。ベッドの中でかの女たちの奔放な暖かさを味わった者は、簡単にそれを捨てるようなことをしない。オリーブ色の肌、黒い瞳。土着の娘の卑屈なまでの忠実さ。男に尽くそうとする情熱。愛欲的な性向。まぶしい笑顔。そのどれを取っても、白人の女には太刀打ちできないものだ!・・・・

性的なことがらから離れた面でも、ジャワ女性に対する西洋人の評価は決して低くなかった。ジャワ女性の多くが示す家政の切り盛りのベースに置かれた経済生活の基本観念に西洋人たちは賞賛の言葉を与えている。
「ジャワ女性の労働はジャワ男性のそれに匹敵するレベルにあると思われる。金銭の運営管理は言うまでもなく、普通の労働者から州の総督に至るまで夫は家政の一切を妻に委ねるのが普通だから、その面は女性のほうが男性より優れていると見るのがユニバーサルな考え方ではある。そのことを認めた上で、ジャワ女性はひとりでパサルに赴き、商品売買ビジネスのすべてを自力で片付けるということを理解したとき、金銭関連のことがらにおいて、ジャワ男性は愚か者だ、という箴言が言えるにちがいない。」ラッフルズの著した『ジャワの歴史』にそういう一節が記されている。


プリブミによるムラユ語文学が盛んになる前、華人によるムラユ語をメインにした文学が勃興した。華人ムラユ文学というカテゴリーに属すインドネシア文学史初期の諸作品は、19世紀末のヌサンタラ社会の姿を文学という切り口から見せてくれるもので、西洋人の文芸作品に希薄な面を補完してくれるものでもある。
当然ながら、華人ムラユ文学にもニャイがたくさん登場する。ニャイが主人公のものから脇役として登場するものまで、さまざまだ。そんな中で、純愛小説をひとつ、かいつまんでご紹介しようと思う。
著者のクイ・テッホアイ(Kwee Tek Hoay)は1886年ボゴールに生まれ、1951年にチチュルッで没した。ジャーナリストおよび多くのメディアで編集者として活躍したかれは、115を超える作品を発表した華人ムラユ文学界の大御所であり、国際的な評価も受けている。かれの作品は文芸の世界にとどまらず、政治・社会・文化・教育・言語さらには女性教育問題に触れたエッセイや論説まで多岐にわたっており、文学者の域を超えた思想家としてかれを見る見解もある。では、1927年の作品「チクンバンのバラの花」をどうぞ。


「チクンバンのバラの花」を読む


オランダ人の文芸作品もひとつ紹介したい。西ジャワ州チマヒで出会ったスンダ人少女を自分のニャイにし、最終的にかの女を生涯の伴侶にして一生を終えたオランダ人がその妻について物語った短編小説「クラン(一族)」がそれだ。
作品の中にニャイという言葉が一度も出てこないとはいえ、トアンの家の中を整え、更にトアンのセックスの相手をつとめるという意味でのニャイ、つまりステータスはイリーガルだが機能は妻、というあり方がかれらふたりの間で展開されたことは疑いないだろう。残念ながらこのトアンは大勢の使用人を使う地位になかったわけで、もしそんな立場であったなら、そのスンダ人少女は古来からのニャイそのものの役割を果たしたにちがいない。
もちろん、東インドで行なわれてきたニャイの制度がオランダ本国で徹底的に糾弾されたあとの時代だから、自分の自叙伝でもあるその作品にニャイという単語を使うわけにいかなかったのは明白だが、筆者ウィレム・ワルラーフェンにとっても、その少女にニャイという呼称を与えることはかれ自身の意識の中できわめて不本意なことだったのではあるまいか。

ウィレム・ワルラーフェンは1887年にオランダのゼーランドで生まれ、1909年にアメリカに渡って5年間をカナダとアメリカで過ごす。帰国したワルラーフェンは故郷と両親に失望し、蘭領東インドの蘭印軍に志願して南洋へやったきた。1915年からかれの西ジャワ州での軍役生活が始まる。
軍役を終えたかれは東ジャワ東端のバニュワギ(Banyuwangi)に職を得て、バリ島を海峡の向こうに望みながら新たな市民生活に入る。かれが西ジャワに住んでいた頃に知り合った少女イティをバニュワギ鉄道駅に迎えたのは1918年9月1日のことだ。イティはワルラーフェンのニャイになり、翌年8月に長女を産んだ。1920年1月、ワルラーフェンはイティと正式に婚姻した。トアンがそのような法的なことがらを気にかける理由をイティはよく呑み込めなかったようだ。この夫婦の間には8人の子供が生まれたが、欧亜混血の子供たちが成長して自分の意志を主張し始めると、父親はかれらに失望して親子関係は疎遠なものになっていった。
かれが自分の人生の中心に置いたイティについても、東インドの女とヨーロッパの女のあまりにも隔たった差異をかれは何度も実感し、そしてついに適応し切れないまま生涯をこの地で終えたように思われる。とはいえ、かれ自身が存分に見て取ったその差異にいかに大勢のオランダ人が気付いていないかということにかれは驚きを表明しているのだ。「西洋的コンセプトにおけるLove というものをジャワの女は持っていない。それはかの女たちが持っているハーレムメンタリティのせいだ。つまり、呼ばれたときにだけやってきて、そのあとは機械的なプロセスがあるだけ。東洋の女は何百年にも渡って世の中にある多妻的慣習に虐げられてきた。かの女は見捨てられたり、あるいは他の女と夫をシェアしなければならなかった。」
東インドの女は冷たいという非難についても、ワルラーフェンは弁護を試みる。女たちは「男を信じてはいけない」という教訓に拘束されているがゆえにそういう姿勢を示すのだとかれは分析する。容易に嫉妬に変化するその不信が実はワルラーフェンとイティの夫婦生活の棘になった。「クラン」の中でワルラーフェンは筆を極めてイティを賞賛しているが、それはひとりの西洋人男性がスンダ女性に抱いたLove の証であり、そして西洋的価値観から見たときの東インドの女が持つ生活態度との大きな落差のバランスを保つための錘であったのかもしれない。


「クラン」の中にわれわれは、外国から来た男がジャワ島の女に恋し、所帯を持ち、子供を作って一家をなし、そしてジャワ島の女の一族の中に受け入れられて入っていくというひとつの人生の記録を見出すのだが、その中に散りばめられているジャワの、あるいは東インドの文化が持つ特徴的なポイントはかれの透徹した視線を示していておもしろい。たとえば、「そのときかの女が答えることのできた疑問は『how』だけであり、『why』については決して答えることができなかった。かの女の世界のひとびとは、『why』に決して頭を悩ませることをしない。」という文章は現代にも通用している卓見だろう。既存のものごとをあるがままに受け入れ、すべてそこから出発させようとする現状肯定的精神にとって、既存のものごとを奥底まで分析して行こうという意欲は薄い。why にあまり拘泥しない民族が確かにこの世界に存在しているのだ。

1942年2月28日、日本軍がジャワ島に上陸し、オランダ軍の抵抗は二週間で潰えた。その年7月にかれと息子たちは日本軍に捕らえられて抑留キャンプに送られ、七ヵ月後の1943年2月13日、かれはそこで生涯を閉じた。それは、1940年にかれが自分の運命を予言したとおりのものになった。「わたしは二度と故国に戻る日が来ないことを確信している。しかし慰めがひとつある。墓に入っても、帰郷の想いは決して凍結することがない。」
イティは戦争を生き残り、1950年にオランダに渡った。1969年にかの女はオランダで没している。


バニュワギという、ジャワ島のイスラム化を最後まで妨げたヒンドゥ=ブッダ勢力の生き残りであるブランバガン(Blambangan)王国の都だったこの町にも、日本軍が駐留した。オランダ人が経営していたスコウィディ(Sukowidi)砂糖工場に軍本部が置かれてその周辺は原住民から隔離され、そのエリアに入って行こうとする者は日本兵の厳しい誰何を受けることになった。また、そこから少し離れた場所にあるイングリサン(Inggerisan)と呼ばれている地区には憲兵分隊本部が置かれ、地元民の中に拷問を受けた者がいたという話がいまだに人口に膾炙している。

ジャワ島からバリ島に渡るフェリーの発着港であるクタパン(Ketapang)に向かってシトゥボンド(Situbondo)方面からやってくると、巨大な踊り子の像が海岸に建てられている場所に出くわす。民族衣装を着てガンドゥリン(Gandring)と呼ばれる踊りを踊っているその像は海に向かって突き出した建物の屋根の上に乗っており、クタパン〜ギリマヌッ(Gilimanuk)間フェリーからはるかかなたに遠望することもできる。バリ海峡の北端にあたるその地区は現在バニュワギ県カリプロ郡に属し、ここはワトゥドドル(Watu Dodol)行楽地として地元民に人気のある場所だ。
このエリアは東がバリ海峡、西が小高い丘になっており、海岸線に沿って南北に道路が走っている。奇妙なことに、その道路のど真ん中に大きな直立した岩が立っており、交通の流れを左右に割っている。実はその大きな黒岩がワトゥドドルと呼ばれているものなのである。ワトゥというのはバトゥの古語であり、ドドルというのはもち米粉、ココナツミルク、やし砂糖を煮て作る「ういろう」を固くしたような菓子だ。縦に楕円形をしているその岩の形がドドルに似ていることから名付けられたそうだが、わたしの知っているドドルの形にはまったく似ていない。
この大岩は神秘な力を持っていると言われている。その岩が道路交通の障害になるため、昔からその岩を道路脇に移す試みが何度も行なわれてきたが、ワトゥドドルはそんな人間の営みにびくともせず、最期に行なわれた日本軍の努力をも見事に断ち切って現在もその勇姿をそこに誇示していると地元民は語っている。

実は、日本軍在バニュワギ駐留部隊はこのバリ海峡北端という戦略的要衝に哨戒部隊を置いて海上の監視に当たらせた。やってきた哨戒部隊もそのワトゥドドルを邪魔者と感じたようだ。現地人を数十人徴用して岩を切らせ、小さくなった岩を押し倒して道路脇に除けようと目論んだが、うまくいかない。それで船をその沖まで持ってきてワトゥドドルにロープをかけ、海側に引き倒そうとしたらしい。岩の形は上部が大きく、下に向かってすぼんでいるため、簡単に引き倒せると思ったようだ。ところがワトゥドドルはそこに佇立したままで、沖でロープを引いていた船のほうが沈没してしまったという話だ。どうして船が沈没してしまったのか、明快な解説は得られなかったが・・・。

ところで、この哨戒部隊はそこに陣地を設けて駐留した。陣地はその丘の麓に洞窟を掘って作られ、丘の麓と丘の上が洞窟でつながれている。この洞窟陣地を地元民はグアジュパン(Gua Jepang)と呼んでおり、この地区の観光資源とされているが、ほとんど放置されたままの状態になっている。
ゴアジュパンと呼ばれる洞窟はインドネシア国内のあちらこちらにあり、日本軍の戦術的防衛構想の基本をなしていたように思われる。全国のゴアジュパンを訪ねて回れば、そのまま全国周遊旅行になるのではあるまいか。余談はこのくらいにして、ウィレム・ワルラーフェンの1941年作品「クラン(一族)」の内容をかいつまんでご紹介しましょう。


小さい名前に大きい心を持った女性イティはプリアガンのチマヒに近いチググル村で生まれた。生年月日ははっきりしないが、ウィルヘルミナ女王の結婚式を記念する祭りを覚えているので、今世紀に入る前だったにちがいない。そのとき、かの女が四〜五歳以上だったとは思えない。
母親の一族は村の名士だったが、父親はそうでなかった。かの女の一家頻繁に転居した。パダラランに住んだときは、そこに大きな滝があったことを覚えている。バンドンに住んだこともある。稲刈りのために他の少女たちと水田に出て、稲穂を切ったことも覚えている。祭日の夜には、母親が作った料理が小さな家の中に並べられ、やはり小さなランプの灯りの中で子供たちが料理を囲んで床に座って円座を組み、かの女の記憶の中でそのできごとは大王の宴に匹敵するものであって、今日もはやそのような素晴らしいできごとは二度と起こりえないものになってしまった印象をかの女はつぶさに感じている。
当時、同い年の男の子を仲良しの友達に持っていたが、かの女が娘に成長したころに少年はかの女の前から姿を消した。その事情をかの女が知ることはなかったが、かの女はいまだにその純真で愛らしい少年を理想の友として胸の奥にしまっており、かれを愛し続けている。きっとその少年は広いプリアガンの大地のどこかで暮らしており、幸福な子供時代に持っていた素敵な性質は既に他のものに入れ替わっているに違いないのだが。

イティの娘時代の終焉は盛大な祝祭で彩られた。それはウマルに嫁ぐための結婚式の祝宴であり、かの女が生まれてはじめて体験する盛大な祝い事だった。イティはそのとき、きっとまだ16歳になっていなかったにちがいない。ウマルは多分アラブの血を引いている裕福な家庭の子供で、自分の大きな飲食ワルン(食堂)を持っていた。食事の時間になると〜プリアガンでは常に食事の時間なのだが〜、独身者や自宅に食事に戻れないひとびとがそこへやってきて飲食した。ウマルは多分、千一夜物語から抜け出してきたようなハンサムな若者だとひとびとから見られており、イティとの結婚は似合いの夫婦だと評価されていたようだ。ここでは当たり前のことだが、ウマルのファミリーもイティのファミリーも、イティの意向などまったく無視してその結婚を進めた。イティにとっても、自分の結婚相手への関心は二の次だったようだ。その結婚式に関してイティの記憶にもっとも深く染み付いているのは、山のような贈り物のことだ。親族・友人・隣人そしてイティが名前を聞いたことがあるだけで会ったこともないひとびとからの贈り物。新婚生活を開始するのに必要なありとあらゆる道具や小物類、食器・鍋釜・枕・シーツ・マットレスそしてイティが着るカインやクバヤまでが贈られた。それらの贈り物に囲まれて、イティはあたかも戴冠式の場の女王のように、顔に白粉を塗り、髷に花を挿して、晴れの結婚式の中央に座っていた。イティの歯を削る儀式が始まったが、一分もしないうちにイティはそれを拒んだ。イティはものごとを拒否するとき、実にそれを巧みに行なう。かの女は生まれながらの気丈な女性だったのである。

盛大な祝宴が終わった。日常生活が始まり、ウマルは夫の権利を求め始める。同じようにウマルの一族も。おまけに、常に多忙な大きい飲食ワルンもイティの労働を求めた。飯を炊き、サユルを料理し、サンバルを作り、皿を洗う、延々と続く終わりのない労働。イティの、多少栄養不良気味で細身の身体にとって、それは過重労働だったようだ。おまけに妊娠が重なり、憂鬱な毎日に襲われてかの女は病に倒れた。そうして、里帰り。
母親だけがそんな状態のイティに安らぎを与えることができた。きっと、イティのあらゆる体験を心の奥底で真に理解した唯一の人間がかの女の母親だったにちがいない。子供が産まれ、そしてその子は短い人生を終えた。月日が流れたが、イティはウマルの元に戻ろうとしなかった。花は手折られ、プリアガンのひとびとにとっては、今こそ望ましい時がやってきたのだ。ひとびとは、まだ手折られていない花を好まない。ところが、イティのそれからの軌跡は、かの女の気丈さのおかげで、よくあるケースとは異なる道を歩んだ。バブ(女中)になり、再婚し、あるいは娼婦になるという、多くの結婚に破れた女たちがたどる道はイティのものではなかったのだ。かの女は自分の境遇に屈せず、自分に忠実であろうとし、体験した悲惨を忘れようと努めた。それはあたかも、かの女が奇跡を待っているかのように見えた。


わたしがイティを最初に見たのは1916年ごろで、かの女はチマヒの義理の叔父のワルンで働いていた。そのワルンはまったく寂れた商店の敷地の地べたに設けられた竹作りのスタンドで、兵隊相手の品物を扱っていた。商店のほうは、たくさんの子供を持つアフリカ人が住み、だれも決して買いそうにないがらくたが集められ、その店がだれの生計をも助けていないことは一目瞭然だった。
イティは凝縮コーヒーとコンデンスミルクで作る安いコーヒーを売っていた。兵隊たちはそれよりおいしいコーヒーを他の場所で見つけることができなかった。周囲にはクッキーやシガーの入った容器が並べられている。このスタンドの屋根は、雨が降ると必ず水が漏った。そしてここは雨の多い土地だ。水滴はそれらの容器の上に落ちてきた。シガーの上にも。わたしはそれが気になってしかたなかったが、イティにとってそれは自分が何かをするべきことがらではまったくなかったようだ。最初わたしはそのことに驚いたが、その性格は後年わたしを頻繁に驚かせるものになった。

わたしがシガーを別の場所に移したことで、いやひょっとしたら別のことだったかもしれないが、われわれは知り合いになった。わたしは毎日そこへ来たし、イティもたいていいつもそこにいた。わたしはマレー語をほとんど話せず、スンダ語においてはもっと貧弱だったから、かの女と会話することはなかった。しかし会話の必要など少しもなかったのだ。当時、わたしを二年半に渡ってチマヒに縛り付けていた軍役が満了する日をわたしは待っていたのだ。だからわたしはいつも座って、ただいろんな考えごとをするばかりだった。
かと言って、そこでの暮らしから早く脱け出したいとわたしを駆り立てるようなものでもなかった。軍のオフィスで働いてはいても、規律は緩やかなものだった。しばしば、山のように仕事を与えられ、そしてわたしは一日中働いていた。一日の仕事を終えると、わたしはパサルアントリと呼ばれる通りに出て中華料理やマレー料理のワルンで食事し、そのあとイティのコーヒーを飲んだ。それは本当に愉しい暮らしだったし、癇癪玉を破裂させるようなことは一度も起こらなかった。ただ、真に自分の生を生きていなかったために、激情に自分が揺さぶられるようなものごともなかったわけだ。だから、この軍役が満了して自分の生を取り戻せる日がくるのを、わたしは待っていたのだ。恋もせず、あらゆるものごとが単調な平穏さの中で過ぎ去って行った。あとになって、ずっとあとになって、あの日々の中にあった幸福をわたしは理解することができた。

イティに関するここまでの話をわたしが知ったのは、ずっとあとのことだ。当時、わたしはかの女の名前すら知らなかった。小さく、細身で痩せた身体のかの女がただそこにいただけだ。かの女が容器の並んだ小さい棚の後ろにまっすぐに立つと、頭は細い首と不釣合いな大きさに見えた。かの女は頻繁にその棚の後ろに隠れて通りを見渡し、笑みをもらした。口の端を下におろして、まるでだれかを嘲笑しているみたいに。時おり、かの女は火鉢でプユムを焼いた。それはキャッサバを発酵させて作った湿性のケーキで、必然的にアルコールの匂いがした。時には、わたしが頼んでもいないのに、焼け炭の上でわたしにトーストを作ってくれた。かの女はオーストラリア渡来の小さい缶に入ったバターをパンに塗る。かの女がトーストという英語を知っているのにわたしは気付いた。後になって知ったことだが、かの女はパダラランでの少女時代にオーストラリアへ馬を買付けに行った士官の子供たちの世話を手伝ったことがある。その士官は妻を伴って帰ってきた。知に聡いイティは、その女性からいくつかの英単語を学んだということだ。かの女が黙ってキャンディをわたしのコーヒーに添えてくれたこともある。

かの女の白いコットンのクバヤが開いて現われた胸の膨らみの一部にわたしの指が触れたとき、かの女は「ティダボレ!」と言って身を引いた。プリアガン地区の軍駐屯地という品格の劣った世界にいながら、まったくスポイルされないまま自分を維持できているかの女の品性を、わたしは奇跡のように感じた。時には粗野な男たちがそこへやってきて、夜中まで居続けることもあるのだ。かれらは女を連れてやってきて、一晩中騒ぎ、兵舎やカンプンの卑猥な言葉を撒き散らすのだが、しかしイティがそんなことに悩まされることは少しもなかったようだ。

かの女は朝早く市場へ行って、その日必要なものを買い調える。それからクッキー屋がやってきて容器を満たす。こうしてかの女の一日の商売が始まる。売上のすべてはかの女の義理の叔父か叔母の手に渡る。たいていの場合は叔父のようだ。かの女への報酬はまったくないが、映画やカンプンでのタンダッやワヤン上演を見に行くようなとき、なにがしかのお小遣いが渡されているようだ。
道路をはさんで向かいにあるのは竹で建てられた大きな映画館だ。当時はまだ映画の黎明期だった。新しい映画のポスターが掲げられると、イティは小さい発育不全の足を引きずるようにしてポスター目がけて殺到した。本当にかの女の足は、まるで少女時代にくる病を患ったかのような印象をわたしに与えた。かの女はジゴマ、エディ・ポーロ、マチステの大ファンで、そんなときかの女はコーヒースタンドのことなどまったくかえりみなかった。その貧弱な足でかの女は半ば溶けたような粘土質のプリアガンの丘の上の映画館に登り、けばけばしいポスターに描かれた暴力シーンにわれを忘れた。それがイティの文学だった。もっとずっと後になって、「オッエンシーン」を手始めに、カルティニ、セケリールロフス、パール・バックなどを読むようになり、ドームを愉しみ、デュ・ペロンと個人的に知り合って互いに愛するスンダ語で歓談するようになった人物とそんなかの女が同一人だったのである。


わたしの軍役は1918年6月に満了した。わたしを勧誘する仕事先は山ほどあった。結局、石油会社の会計係りの職を得たわたしは、バニュワギに移った。会社が家を用意してくれたので、わたしは必要なだけの家具を競売屋から買った。生活に必要な金はたっぷりあり、ジャワ人のサーバントを雇ったが、わたしは日曜日もお構いなしに毎日働いた。ほとんどがらんどうに近いその新居にわたしはあまり馴染めなかった。サーバントすら、何かがおかしいという感触を得ていたようだ。わたしはどうしても、地元にあるオランダ人ソサエティに加わる気にならなかった。わたしはそんなものなしにこの熱帯で十分永く暮らしていたし、かれらを信頼していなかったし、束縛なしに自分の脚で立っていたかったからだ。一日中働いて、夜は読書したいと思っていた。そして、戦争が終わればヨーロッパに戻ろうと考えていたが、その日はやってこなかった。
わたしはチマヒにいる知り合いにわたしの近況を書き送り、イティのことももちろん尋ねた。イティがわたしのことを尋ねていたのがはっきりした。この手紙のやり取りはイティ通信とでも呼べそうなものに発展し、ある日「バーキスは望んでいる」という一文が届いた。デイヴィッド・コパフィールドの有名なフレーズだ。
わたしは25フルデンをチマヒのその知り合いに送った。自分が負けることを知りながら自分のカードにそれなりの金額を賭け、同時に自分がそれ以上負けないことを確信しているギャンブラーのスマイルを浮かべながら、わたしはノンシャランにそれを行なった。電報が届いた。『きょう、出発した』

かれらは早朝、イティを叔父と叔母の家から文字通り誘拐してスラバヤ行き急行に連絡する列車に乗せたのだ。生まれ育ったプリアガンを離れたことのないイティは、たまたま善人だったドカルの御者に中国人の宿屋に連れて行かれて宿泊し、小さな客室の天井との間に隙間のある仕切り壁から優しい魂がかの女に毛布を投げてよこした。翌日、かの女はスラバヤの町を後にしてバニュワギに向かった。列車がカリバルあたりを通っているとき、かの女が少し泣いたことをわたしは後で知った。その日は日曜日で、わたしは午後三時半ごろ、駅でかの女を待っていた。わたしは旅行者の群れの中にかの女を見つけた。小さくて目立たないがどこか違っているスンダの女を。その冒険に満ちた長い長い旅路の果てにわたしに会えたことを、かの女は喜んでいるように見えた。
そのときかの女の心をよぎったものを、かの女はわたしに伝えることができなかった。高潔な心を持ち、それゆえにあらゆる曲がったことを否定するかの女が、未知の世界に向かうその大きな旅路をどうやって決断できたのか、そのわけをわたしはいまだに見出せないでいる。かの女が待ち続けていた奇跡が起こったのだが、それがどのように起こったのかをかの女はわたしを含めてだれにも明かさなかった。そのときかの女が答えることのできた疑問は『how』だけであり、『why』については決して答えることができなかった。かの女の世界のひとびとは、『why』に決して頭を悩ませることをしない。
かの女は多分、自分のファミリーに対して自分に非があると感じていたようだが、それ以外に自分ができることは何もないということも確信していた。かの女はあそこで、不名誉で精神を抑圧する奴隷の一形態である年季奉公に入れられたような毎日を送っていた。それはいつか終わりにさせなければならないものであり、かの女は一種の絶望と共にそれを行なったのだ。アモックに陥った人間がナイフに手を伸ばすように。未来が何をもたらすか知らないまま、かの女は自分が熟知していた人生を破壊してしまったのである。かの女が知っているのはただわたしだけであり、それ以外のものごとはすべてがはじめてだった。

チマヒの知り合いたちはわたしが送った金をイティに与えたが、イティの手にはまだたくさんの金額が残っていた。わたしたちが再会すると、かの女はすぐにその金をわたしに返そうとしたので、わたしはかの女にそれを持っておくように言った。かの女が「明日の朝、帰る」と言ったので、わたしは少し金を足してやり、明日は工場へ仕事に行かなければならないので、もう会えないだろう、とかの女に言った。翌朝、わたしはかの女と別れる前に握手し、キスし、スラバヤ行きの列車が何時に出るのかを教えた。わたしは穏やかにかの女を残して出勤した。ところがその日夕方帰宅したら、かの女はまだそこにいた。かの女はポットや鍋やクバヤを買い、飯を炊き、あれこれと何かをしていたようだ。かの女がパサルへ買物に行くと、前日、列車の中でかの女が泣いているのを見かけた男がかの女に気晴らしを与えようと努めてくれた。その男はカインや布製品の商人で、現在に至るも、かの女が何か困難に直面したとき、わたしのアドバイスを参考にするよりもその見知らぬ他人の忠告に従っている。こうしてかの女はわたしと一緒に暮らしはじめ、それが今まで続いているのだ。しかし、あのころのイティはもういない。今わたしのしている話はだれか別の女性のことであるかのように思えるのである。


わたしたちはバニュワギで二年間暮らし、その間に長女が生まれた。幸福な時はたくさんやってきたが、不幸な時も少なくなかった。わたしはもう三十歳を超えており、わたしの存在をそのコントロール下に置こうとする女性よりもむしろわたし個人の人生をかき乱そうとしない生涯の伴侶を望むようになっていた。イティはまだ二十歳前で、カルティニが自分自身そして他のジャワ女性について書き記したように、ヨーロッパ人が呼ぶところの「Love」についてほとんど知らなかった。かの女の知っているLove はプリアガンの村に関わるものであり、苦悩をもたらすものであり、確信をもたらさないものであった。男というものはあらゆる機会に妻を裏切ろうとする存在であることをかの女は素朴に信仰しており、わたしがどれほど頻繁に、わたしの愛情を、特にかの女への尊重を理解させようとしても、またどれほど頻繁に、わたしが妻に不実であれば自分の心の平穏が粉砕されてしまうからもっと緑の色濃いよその庭を求めることには興味がないことを主張しても、かの女がそれを信じた気配は少しもなかった。

かの女が塞ぎこみ抑うつ状態になったとき、わたしには長い間その原因が判らなかった。終末的なきちがいじみた嫉妬の爆発の中で、決してわたしには起こらないであろうその理由をわたしは見つけたのだ。何年も続いたその悲惨はわれわれの人生を苦いものにした。それはずっと後になって、かの女が子供たちと一緒に読書するようになり、小説や他の書物を読むようになったとき、やっと消滅した。同時にわたしは、かの女の知性やものごとを理解しようとする意志の強さに驚かされた。かの女が完璧に信頼を寄せることのできるオランダ人の友を得た後で、それは更に強まった。しかしそれまでの数年間の悲劇は、消え去ることがなかった。この女性、たとえ自尊心や広い意味での貞操のためにですらよろめくこともなく常に真実であったこの女性は、優美で且つ他の大勢のひとびとに勝る人格のもたらしたものを享受することができなかった。
デュ・ペロンは作品「ふるさとの地」の中で、スンダ女性は冷たいと書いているが、それは正しくないとわたしは言いたい。その冷たさは単なる仮面なのだ。何世代にもわたって第二の本能と化した男に対する根深い不信のゆえに、かの女たちはそういう態度を自分に課しているのである。伴侶が自分を裏切らなかったことで相手の性格を何年もかかって理解できたような本当に稀なケースを除いて、男は恋人として信頼することができない、とかの女たちは常に確信している。そして現実に、そんな稀なケースというのは滅多に起こるものではないのだ。

われわれは、特に月の下で、よくバニュワギの町を散歩した。当時、抑留されたドイツの貨物船が、バリの原生林と岩肌の海岸を背にしてバリ海峡の中ほどに碇泊していた。月が雲を破って顔を見せると、その船はまるで魔法の船のように見えた。イティはここへ来るまで、海を見たことがなかった。しかしかの女の父親は名高い船乗りのブギス人だ。イティは海と船を愛した。われわれはよく、この小さな町のひとけのない場所を歩いた。墓地を通り過ぎるとき、かの女は恐怖で震えた。しかしわたしが、生きている人間のほうが死者よりはるかに危険なのだという明白な事実をかの女に教えたとき、かの女はそれを理解してくれた。誤った理解は他にもある。かの女はオランバグース(orang bagus)を、きれいな衣服をまとった人間を指して使ったが、グッドパーソン(good person)とはあなたを幸福にする人間のことだとわたしが説明すると、かの女は即座にわたしの意図を理解した。


タイトルの「クラン(一族)」に関連する叙述はこの後に続く。インドネシア人との結婚を通してインドネシアの家族制度の中に関わっていく外国人が見たその家族制度のあり方については、ニャイと直接の関わりがないため割愛したい。


< 祖母はニャイだった >
もうひとつのエピソードは実話だ。1854年11月17日、オランダ人ピーテル・バアイ26歳は故郷のヘレヴーシュエスでの船大工の生活を捨てて東インドに渡った。下流経済層のかれが経済ステータスを高めるためには、東インドでの軍務に就くのがその扉を開く近道だと考えたようだ。それから二年が経過した1856年10月11日、ピーテルは退役した騎兵隊長の娘、ドロテア・ポルティエと中部ジャワ州スラカルタで結婚した。かれはスラカルタのススフナンに仕える立場となり、6年間の軍務を終えたかれをススフナンはブロンズのメダルを与えて慰労した。ピーテルとドロテアの間には6人の子供が生まれた。
その6人のひとり、ダニエル・ピーテル・カスペル・バアイが父親の夢を実現させた。かれはススフナンから広大な土地を借り受けてサトウキビを栽培し、そのサトウキビ農園が巨大な利益をかれにもたらしたのである。かれはスラカルタの上流層西洋人が集まっている高級住宅地のヴィラパークに二軒の家を持って上流階級のひとびとと交わり、またたくさんのサラブレッドと馬車を持って西洋人に賃貸しした。そういうビジネスの才能とは別に、かれはジャワ文化、中でもジャワ文学に興味を抱き、大きな図書室にジャワ文学の書物を集めて研究した。かれはジャワ語の上流層言語であるクロモインギルを使いこなし、ジャワ人上流層と親しく交際した。ススフナン宮廷の貴族たちもかれに親しみ、宮廷に出向けばかれはいつでも歓迎された。


レギー・バアイは父親が自分の母親の話をまったくしないことに違和感を覚えていた。父親と息子の会話がそちらの方向へ発展していくと、父親は「自分の母親のことを覚えていない」と言うなり口を固く閉ざしてしまうのだ。レギーは物心付いて以来、そのことが頭の片隅に常に引っかかっていた。父親がレギーに何かのはずみで語ったことは、母親がジャワ人だったということだけだ。エピソードなどなにひとつない。写真や思い出の品もない。そしてもっと致命的なのは、名前すらわからないということだった。「いつどこで生まれてどんな人生を送ったのだろうか?だってぼくの祖母じゃないか。」
レギーの心の中の声は父親に届かないまま終わってしまった。ジャワ島のスラカルタで生まれた父親の人生は、日本軍の進攻、そしてインドネシアの独立闘争という激動の中でもみくちゃにされ、ろくに持ち帰れるものなどほとんどない状態で自分には縁遠いオランダに帰国し、そこで新たな生活を始めることを余儀なくされたのだ。それは1950年ごろのできごとだ。

植民地支配者と非支配者の双方の血を受け継いだ人間が、自分の半分はあなたがたと同じだと思っているインドネシア人から過酷に追い払われたのである。父親と似た境遇と体験を持っているひとたちは、みんな共通して多くを語ろうとしない。レギーはそれを残念に感じていた。
1998年に父親が79年の紆余曲折の人生を終えた。レギーが父親と一緒に暮らしていた自宅で父の遺品を整理していたとき、一通の手書き書類が見つかった。かれはその書類の中に書かれているこんな一節を目にした。
・・・・本日、1926年10月23日、常勤職員の代理を務めるスラゲン市民登録事務所非常勤職員であるわたくしエミール・クレインの前にスラバヤ在住のルイ・アンリ・アドリアアン・バアイが出頭して次のように申し出た。1919年9月11日午前5時半にスラカルタで男児が誕生し、・・・・・その男児を自分の子供として認知することを表明した。
続いて年齢25歳前後と見られるプリブミ女性ムイナ、無職、ソロのジュンキルン在住、が出頭し、民法典第204項に従って自分がその認知を承認することを表明した。・・・・・

これは、東インド植民地時代にたくさん作られた認知証書のひとつだ。認知を行なった人物がレギーの祖父であり、認知された子供がレギーの父親だったのである。そして、ムイナという名の女性がレギーの祖母であることが、その書類から明らかになった。レギーはついに、祖母の存在を示す証拠品を手に入れたのだ。父親を産んだ後、祖母はヨーロッパ人正妻に場を譲るため、自分の故郷に帰るよう命じられたにちがいない。それからほぼ7年経って、自分が産んだ子供を父親が認知するため、ムイナはまた呼び戻されて市民登録事務所でその認知を承認するむね宣言するよう命じられた。そんなストーリーがその証書から読み取れる。その手続きが終わったら、ムイナは再びそこを去り、そうして関係者たちから忘れ去られたのである。
それは、ニャイ、つまりヨーロッパ人男性の妾、になった当時のプリブミ女性たちの多くが体験した悲しむべき運命だった。母親の記憶を持たず、あるいはあってもそれを物語ろうとしなかったレギーの父親の振舞いに見られるようなトラウマチックな体験を母と子にもたらしたのだ。父親は「覚えていない」と言いながらも、自分の出生に関する事実を示す書き付けをこのように保管していた。妾という制度がひとりの人間の精神にどのようなトラウマを残すものなのかということも、その一事が示して見せてくれている。レギーの父親は、そのことに関する特異な例では決してないのだ。2008年時点で、そのルーツを東インドに持っている人間がオランダに80万人いるのである。オランダの外にも同じような人間が10万人おり、その大半はインドネシア共和国に住んでいる。かれら90万人の三分の二はレギーやかれの父親のように、家系図のどこかにアジア人が先祖として混じっているにもかかわらず、その人物の周辺には濃いもやが立ち込めていると推測される。

父親の認知証書を手にしたレギーの心に、祖母をもっと具体的に知りたいという欲求が燃え上がってくるのに、それほどの時間はかからなかった。このシンプルな名前を持つジャワ人女性の一生は、どのようなものだったのだろうか?父を産んでから、かの女は別のプリブミ男性と結婚したのだろうか?もし他の子供を産んでいたなら、レギーには自分の知らない叔父や叔母がいることになる。スラカルタの周辺に自分のいとこたちが今現在暮らしているかもしれないのだ。そして、そのジャワ人の血が、レギーという人間を形成する要素の一部になっている。それはいったい自分のどこに顕れているのだろうか?自分は祖母から何を受け継いだのだろうか?ニャイ・ムイナというひとりの人間を知ることがそれらの疑問に答えをもたらしてくれるにちがいない。自分のルーツを探る旅がレギーの人生の目標になった。
父親の認知証書には、父親が7歳のときにムイナは25歳前後だったと書かれている。つまり、ムイナが父親を産んだとき、かの女は18歳か、あるいはもっと若い年齢だったかもしれない。18歳だとすれば、かの女は1901年にスラカルタのどこかに生まれたことになる。かの女の一家はどんな階層の人たちだったのか、そしてどのような経緯でヨーロッパ人青年の妾になったのだろうか?


レギーの家系がジャワと関わりを持つようになったのは、曽祖父のピーテル・バアイが1854年11月17日、26歳のときに故郷のヘレヴーシュエスを去って東インドに渡ったのが事始になる。その息子ダニエル・ピーテル・カスペル・バアイはオランダのコロニアル制度の中で成功者となった。ジャワ人社会の頂点に立つスラカルタのススフナンの宮廷で客人扱いされるようになったダニエルは、宮廷の下級貴族の娘パリイェムとそこで知り合った。
19世紀の終わりに近付いているころ、パリイェムはヴィラパークのダニエルの家に入って一緒に暮らすようになる。正式の婚姻はなされないまま、1930年に没するまで、ふたりはその家で一緒に暮らし続けた。レギーはパリイェムの写真を見たことがある。当時まだ20歳前後だったと思われる若く美人でエレガントなジャワ人女性が背筋を伸ばして真っ直ぐカメラのレンズに相対している写真だ。ジャワ風に大きな耳輪を着けたジャワの美しい女性はとても印象的だった。
ふたりの間にレギーの祖父ルイ・アンリ・アドリアアン・バアイが生まれた。1899年2月11日のことだ。残念ながら、この息子の才能は父親のダニエルに及ばなかったようだ。ダニエルが打ち立てた王国を維持するため、ルイはサトウキビ農園の管理で身を立てるようにという配慮から、ダニエルはかれを会計士に育てた。
1918年にダニエルの家庭のプンバントゥとしてムイナが働くようになった。そしてルイの手が着き、1919年9月に子供が生まれた。それがレギーの父親だ。しばらくの間、ムイナは若主人のニャイとしての暮らしを楽しむことができたようだが、子供の授乳期が終わったからだろうか、1920年にムイナはそこを去って実家に帰るよう命じられた。子供の様子を見ようとしてヴィラパークのこの家に近寄るようなことは絶対にしてはならない、とかの女は厳しい禁止命令を与えられたにちがいない。
ルイは農園事業の経験を積むために、子供を父親ダニエルに委ねてスマトラへ移った。だから、レギーの父親はダニエルとパリイェムに育てられたのだ。とは言っても、具体的にその世話をしたのはダニエルの家のプンバントゥたちだったのだろうが・・・。レギーの祖母ムイナの消息はぷっつりと途絶えた。1926年の認知手続きの日だけを例外にして。

植民地時代に作られた一通の認知証書だけを頼りにして、レギーはムイナの捜索を始めた。バアイ家の側にムイナ個人に関する記憶がまったく欠如していることがこの捜索を困難なものにした。お屋敷に女中奉公にあがった娘がほんのわずかな期間に若主人の想い者になり、手が着いて妊娠し、子供が生まれて一年ほど経過してからお屋敷から下がらされたというわずか数年間の出来事でしかなく、またもともとバアイ家と関わりのある環境の出身でなかった娘であるがゆえにそのような形で縁が切られたことと併せて、ムイナという人間に関する記憶がバアイ家に残されていなかったのも無理はないだろう。
インドネシア共和国の住民管理行政が始まってから半世紀以上が経過している。植民地時代の管理行政と今現在インドネシアにある実の姿を結びつけるものは何もない。植民地時代から共和国時代へと住民管理データを追っていかなければならないことになるのだが、はたして一本の線でつながっているのかどうかの問題があり、加えてインドネシアの公式書類やデータが本当に実の姿を反映しているのかどうかについて考えるなら、レギーの努力は果てしない障害で埋め尽くされているようにしか思えない。ともあれ、レギーはムイナの生涯を注意深く再構築しはじめた。


ムイナがルイのニャイになってから、ふたりはヴィラパークのもうひとつの家で夫婦の暮らしを始めた、それはつまり、ダニエルがふたりの関係を公然とではないにせよ、承認していたことを意味している。それは当時でさえ、世間一般の普通の家庭が持つ姿勢ではなかった。
もしその現象を拡大解釈してみるなら、ムイナはパリイェムの親族あるいは交際関係の輪の中にいた人間だからという憶測も成り立つ。しかしもしそうであるなら、あのように若主人との関係が断ち切られ、ヴィラパークの家に近寄ってはならないという禁令が与えられたこととまったく矛盾する。
認知証書が作られたとき、ムイナはソロのジュンキルンに住んでいた。今のジュンキルンはスラゲン県スンブルラワン郡プンデム村の中心地区であり、昔からのプリブミ農村地区でオランダ人やジャワ人上流層の生活とは無縁の場所だ。往時からそのような地区では貧困生活が当たり前の姿だったのだ。するとパリイェムとの関係などありえないことになる。

ムイナは多分、スラカルタの貧困家庭に生まれ、女中の仕事を探すために自ら申し出て、あるいは既に女中として働いている者の助けを得て、ダニエル家に雇われたようだ。かの女の実家はもともとスラカルタ郊外の農村部の貧農家庭で、生活のためにスラカルタに引っ越してきたにちがいない。お屋敷を下がらせられたムイナは貧困農村というプリブミ社会に戻らざるをえなかった。そういうケースで一般的に考えられるニャイのその後の人生は、ふたたび家を出てヨーロッパ人のお屋敷に女中奉公の口を探し、女中のままで、あるいはまた別のヨーロッパ人男性のニャイになってその後の人生を続けていくもの、もうひとつは戻ったプリブミ社会で同じプリブミ男性の妻となり、大勢の子供を産み、経済的にたいへん厳しい生活を営んだというパターン。もしムイナが後者の一生を送っていたのなら、レギーにはスラカルタ周辺に大勢の叔父や叔母そしてレギーのいとこにあたる叔父や叔母の子供たちが今現在さまざまな暮らしを営んでいるはずで、レギーはその大家族の一員の資格を持っているということができる。しかしレギーにとって、それは雲をつかむような話でしかなかった。
ヴィラパークの家への出入りはもとより、そこに近寄ることすら禁止されたムイナは、果たして自分がはじめて産んだ子供を容易に忘れることができたのだろうか?ニャイという制度の中で起こった悲劇のもっとも一般的な例がそのような母子関係喪失の問題なのである。わが子がたとえ西洋人の姿をしているにせよ、自分の第一子への愛着は断ち切りがたいものがあり、そのためムイナは何度もヴィラパークの家の周辺に現われてはその家の様子をうかがい、わが子が遊んでいる姿をじっと眺めて心を癒していたにちがいない。父親の出生を示す認知証書の裏に父が書き残した短い文章を読んだレギーは、ムイナの心を、そして無惨に押しつぶされた父の心をも、暖かく抱きしめることができた。
「わたしがまだ幼い頃、みすぼらしい衣服を着たジャワの女性がひとり、家の垣根の近くに立っているのを何回か見た。その女性は何度もわたしと接触しようと努めたが、すぐに家の下男に追い払われた。かの女がわたしの・・・・・・?」

2008年にオランダで「ニャイ、蘭領東インドにおける内縁制度」が出版され、二週間後には増刷が行なわれるほどの評判を取った。その著者がレギー・バアイ氏だ。西洋人の内縁の妻という定義を持つニャイの歴史に関するAからZまでが、その著作に盛り込まれている。祖母を探し出そうとして踏み込んだニャイというテーマを追求する中でかれが集めた多くの情報がその著作に注ぎ込まれた。結局、祖母を見つけることはできなかったが、かれが情熱を注いで完成させたこの書は、かれ個人が持ったそういう背景のたまものだったと言えないだろうか。


< バタヴィア娘 >
国家行動としてアジアへ最初にやってきたのはポルトガルだ。小国で人口の少ないポルトガルがアフリカからアジアに渡る広大な地域を支配するためには、はるかに多くの人間を必要とした。高速帆船と圧倒的な威力を持つ兵器を用いてアジアの各地を征服して行ったポルトガル人は、かれらが定住した占領地でアジアの女性を妻にし、子供を増やした。メスティーソと呼ばれるその混血児たちがポルトガルのアジア支配の一翼を担ったのだ。ある占領地では、要塞の兵員のほとんどがメスティーソで、純血ポルトガル人は司令官以下部隊長クラスまでの数えるほどの人数しかいなかったそうだ。あるいは、ポルトガルの軍船の中に、船長だけがポルトガル人で、残りは全員がメスティーソだったというようなケースも垣間見られる。

そしてポルトガルのアジア支配からおよそ百年遅れてやってきたオランダ人も同じようなことをした。ただし、オランダ人はポルトガル人が先に用意してくれていたメスティーソを、同じキリスト教徒という理由で、そっくりそのまま頂戴するというメリットを享受している。オランダもさして人口の大きくない小国だったから、ポルトガル人の占領地をオランダ人が奪ったとき、その地にいたメスティーソたちは今までボスだったポルトガル人がオランダ人に代わったという変化を受けただけで、たいていの土地ではそれまで通りの町行政や日常活動が継続された。オランダ人がバタヴィアを確保したとき、バタヴィアの町に活気と生命を吹き込むために旧ポルトガル占領地からメスティーソが大勢移住させられている。しかしその後華人の勤勉さに強く印象付けられたオランダ東インド会社(VOC)は、バタヴィアの町を華人庶民で埋めようと努めるようになった。おかげで増えすぎた華人の処置に困ったVOCは、1740年に起こった華人大虐殺事件に向かって急坂を転げ落ちて行くのである。


オランダ船が東インドの各地に来航して、友好的な通商と軍事力を背景にした強奪を緩急織り交ぜながら香料貿易を進め、結局は要所要所を占領してプリブミの王から支配権を奪ったとき、占領地の経営に携わるオランダ人たちは、奴隷を持って豪勢な暮らしをした。占領地はあくまでもVOCという会社のものであり、会社の事業活動である交易と通商を営むために港と商品倉庫が不可欠で、その操業のためにVOC本社から管理実務者が派遣されてくる。買付け、在庫の出し入れ、仕入れや売上の記帳、船積み、操船と航海、船舶の修理、その他もろもろの活動とそれをサポートする活動がひとつの会社の中で行なわれるのだ。そしてそのすべてにわたって、警察と軍隊という要素がからんでおり、それすらもVOCという会社の内部で行なわれていた。だから、VOC東インド総督は現地支店長であると同時に、現地派遣軍総司令官でもあったのである。
占領地の経営や防備には上級から下級に至るまでVOCの社員が送り込まれたが、中でも若い独身の下級職員たちにとって家庭を築くための伴侶となるヨーロッパ女性を東インドで見つけることができるようになるのはもっとずっと後の時代であり、1600年ごろから始まったVOCの東インド経略の初期には、何ヶ月もかかる生命のリスクを冒して船旅をし、また同様に生命のリスクの高い熱帯の地に住み着くようなことをするヨーロッパ女性はいなかった。だからかれらオランダ人たちは手っ取り早く奴隷女をベッドの友にしたのだが、奴隷女が女主人並みの手腕を発揮しても、かの女が正妻に昇格するには困難があった。VOC社員の結婚は上司の許可が必要であるという規則が、たとえ主人のオランダ人がプリブミ奴隷女に愛情を抱いたとしても、正式な婚姻をかれに思い止まらせることになった。
その結果一般的に広まった形態は、奴隷女を当座の性欲処理の相手とし、家政を整える指揮能力を買ってその家の女主人の役割を担わせるという姿であり、そういう内縁制度がオランダ人の間に普遍化してしまったと言えるにちがいない。そういう家庭生活が人間の精神を荒ませるであろうことは容易に想像できる。文化を共有する男女の間で生じる愛の交感が、人間が文明生活を送る上での必須条件だと言えないだろうか?


生命のリスクを冒して最初に東インドにやってきたオランダ女性が、第四代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの妻、エヴァ・メントだったと言われている。かの女は1627年9月27日、妹とふたりで果たした長い航海の末に、バタヴィアの土を踏んだ。たとえ危険に満ちた長い航海であっても、オランダ女性はそれをやり遂げることができるのだということを示すためにクーンが仕組んだデモンストレーションがそれだった。
クーンはVOCのアジアにおける根拠地を後にバタヴィアとなるジャヤカルタに定めて、バンテン王国スルタンの婿の領地だったその地を力ずくで奪った。ジャヤカルタ、あるいはヨーロッパ人が呼ぶジャカトラ(この言葉は日本に伝わってジャガタラとなった)でオランダ風の街づくりがクーンの指揮下に行なわれたが、オランダ風の家庭生活がきわめて希薄なジャカトラの街はクーンにとって受け入れることのできないものだった。そこに住むVOC上級下級職員たちはオランダ人の妻子を持って幸福な家庭生活を営み、日曜日には教会に集って神を讃え、そのようにして人間の義務を果たすというイメージがクーンを支配していたにちがいない。だから、部下たちがプリブミのニャイを生活の伴侶にしているありさまをかれが赦せるはずがなかったのである。
総督クーンがオランダにいた妻エヴァ・メントを呼び寄せてジャカトラでオランダ市民として本来あるべき家庭生活を行なおうとしたのは、東インドに広まっていたニャイ制度を否定して理想的な生き方を部下たちに示すことが目的だったようだ。しかし若いヨーロッパ女性がいなければ、男たちはニャイを持つしか方法がないことも確かだ。だからVOCはオランダの孤児院で品行方正な生き方を教えられた結婚年齢に達している未婚の女性たちの中で、東インドに渡って現地職員と結婚する意思を持つ者を募った。応募者はあらゆる費用が免除され、おまけに支度金まで付けられた。こうして何度か花嫁船がジャカトラに到着し、街中に華やかさが増加するようになった1620年12月11日、クーンは東インド在住の全VOC職員に対し、妾を持つことを禁止した。ひとり以上何人であろうが、妾を自宅あるいは他のいかなる場所でも決して持ってはならない、という禁令は宗教教義に立脚したものでもある。

ところが、実際にやってきた娘たちは品行方正など看板だけのあばずれだったことがわかった。夫以外の男と遊びまわり、泥酔してふしだらな行為を恥ずかしげもなく公衆の面前にさらす。クーンの激しい抗議でVOC重役会「ヘーレン十七」は検討を重ねた末その対応を改善することにし、オランダ各地の評判の良い孤児院から良き妻となりうる娘たちを厳選して東インドに送り込むように変えた。
クーンはその一方で、VOC職員でないオランダ人の移住をも認めた。VOCが建設した街であっても、オランダの街にするためには一般市民の数が増加しなければ街としての機能は不十分なままだ。こうしてVOCの占領地に作られた街が植民地化の歩みを踏み出すことになった。
男女の孤児たちを熱帯アジアの植民地に入れてオランダのコロニーを作るというクーンの計画は、一族係累を持たないがゆえにコロニーを生涯の地として暮らす意志を孤児たちが持つであろうという期待を踏まえてのものだった。もちろん孤児でない平民の渡来も受け入れたわけだが、コロニー運営の核になるのは文民や軍人のVOC職員であり、またかれらの妻である孤児たちであって、妻が里心を起こさないかぎりVOC職員たちは落ち着いて職務に専念できるだろうというのがクーンの思惑だったのだが、そのようなお膳立てを進めて行ったにもかかわらず、クーンの期待通りにはならなかったのである。
VOC職員がプリブミの女と家庭生活を営むケースが目立って減ったわけでもなく、それに輪をかけて、もっとおかしなことが増加した。妾を持つことに関するVOC職員への禁令が総督命令として再度出されたのだが、そこにはキリスト教徒の女性が異教徒(ここではムスリムを指していると思われる)と性関係を結ぶことへの禁止令が追加されていたのである。何が起こっていたのかは、想像にあまりあるにちがいない。


クーンの計画したコロニー作り方式への抵抗も最初から存在していた。それはVOC本社内にもあったし、ジャカトラにもあった。係累のいないオランダ女性たちが本当に熱帯の植民地を墳墓の場所と考えるのだろうか、という疑惑だ。かえってVOC職員に出稼ぎ者心理を植え付け、コロニーで蓄えた財産を抱えた上に妻子を連れて故郷へ錦を飾る夢を見させることになるのではないか?そうなれば、職員本人は自分のための蓄財に精を出し、祖国と会社への貢献という心は見失われてしまう。もっと危険なのは、蓄財を腐敗した方法で行うように妻が夫を仕向けていく可能性があることだ。そもそも、熱帯コロニーへの花嫁を仕立てるためにあらゆる経費を無料にし、支度金までつけたことで、VOC本社は大きいコスト負担をかぶっている。その募集に乗って集まる娘たちが、最初から金目当ての者たちであり、熱帯コロニーで贅沢三昧の生活を送り、夫をそそのかせて蓄財に精を出させ、十分に金が溜まれば一家で帰国するように夫を動かすという最悪のシナリオを演出しないなどと、いったいだれが保証できるだろうか?
その疑惑の答えは、その後の長いVOCの歴史の中で起こった諸事情に見ることができる。強靭な意志と鉄の統率力を示したヤン・ピーテルスゾーン・クーンも、男と女の本質的な関係というものを見極める目に今ひとつ甘いものがあったということなのかもしれない。

クーンの方針に反対する勢力は、ひとつの懸念をあたかも真実であるかのように吹聴した。熱帯コロニーでオランダ人夫婦が生んだ子供は、その風土に耐えることができず、病気勝ちになってしまうのだ、と。その解決策は、熱帯の地を生まれ故郷にしているアジアの女をVOC職員の伴侶にすればよいというアイデアだ。そんな母親から生まれた子供は、オランダ人夫婦の子供のような健康上の心配をする必要がない。ポルトガル人が行ったメスティーソの先例があるように、オランダ人VOC職員もアジアの女との間に子供を作ればよい。プリブミの女もメスティーソの女も、より取り見取りではないか。
1650年から53年まで第11代東インド総督を務めたカレル・ライニールスとその後任で25年間総督の地位を維持したヨアン・マーツォイケルは、VOC職員はアジアの女性と家庭を作ればよいという考え方を強く支持した。

ヨーロッパの女性を妻にしたいと考えるVOC職員にとって、もはや会社がそのような世話をしないのだから、巨額の渡航費は職員の個人負担となる。その負担は決して小さいものではない。そんな不経済なことをしなくとも、地元女性は掃いて捨てるほどいるではないか。ヨーロッパ女性は、生まれ故郷との心理的紐帯から、いつかは夫に帰国を勧めるようになるだろうが、地元女性であれば反対に夫をいつまでもこの熱帯コロニーで暮らすよう誘導するにちがいない。VOCにとっては、そのほうがメリットが高いのである。また地元女性はヨーロッパ女性ほど欲張りでないため、夫の給料が低くてもあまり苦情しないで生活を営んでいく。その結果、VOC職員が腐敗行為を行なって蓄財に精を出す傾向は小さくなる。
そんな家庭に生まれたユーラシア混血の子供は、男であればVOC現地採用職員になり、女であればVOC本社から送られてきた若い職員の妻にできる。このほうが、熱帯コロニーにおけるVOCの維持にとって間違いなく都合が良い。この考え方はその後19世紀まで東インドで維持された。ヘーレン十七も、クーンのアイデアになびくことは二度となかった。


クーンがバタヴィアで没したあと、そのようにして花嫁船の話は姿を消した。反対に、ヨーロッパ女性の熱帯コロニーへの渡航が禁止されさえした。1669年に禁止令は緩められ、男女の移住者が再びコロニーに受け入れられるようになったが、今度はコロニーに15年以上居住しなければならないという条件がつけられた。熱帯コロニーに派遣されるVOC職員は独身者が優先されるようになり、エリートである上級管理者には一家で移住する許可が与えられた。その結果、バタヴィアに住むヨーロッパ女性はきわめてマイノリティとして存在したのみであり、いくらそんな女性たちが熱帯コロニーのエリート階層に属すひとびとだったとはいえ、そこでの社会生活の方向付けが行なえるような勢力になることはなかったのである。
バタヴィアの社会生活をリードしたのは、ヨーロッパから移住してきた夫婦の間にできた少数の現地生まれの純血娘たちのほかに、VOC職員とアジア女性の間にできた大勢の混血娘たちだった。この欧亜混血の息子や娘たちはオランダ語でIndo-europeaan略してIndoと呼ばれた。この意味のインドという言葉は現代インドネシア語の中にも生き残っており、インドネシアのTVや映画あるいはファッションモデルとして活躍している白人の姿かたちをした美男美女たちを指してよく使われる単語になっている。インドネシアを略したIndo-も、会社名やブランド名によく使われているが、その場合のインドは必ず複合語として別の単語を後ろに従えており、インドネシアの略語として単独で使われることはない。
一方、オーストラリアのマスメディアは時に、インドネシアを略してIndoという使い方をするケースがあり、それに倣ってインドネシアの一部の若者たちが自国名称をIndoと略す傾向を見せている。元々それがなされるのは基本的に英語での表現の中に限られていた。しかし時間の経過とともに、それがインドネシア語表現の中にも浸み込むようになってきたが、欧亜混血児の意味のインドと紛らわしいことから、その用法がマジョリティになれる日はまだ遠いと思われる。

宗教上の関係から、独身VOC職員の熱帯コロニーにおける妻に選ばれる女性は、ヨーロッパ人夫婦の間にできた娘、メスティーソの娘、そしてキリスト教に改宗させられたアジア女性(中には奴隷もいた、これはニャイが正妻に法的ステータスを変えた例だろう)が生んだ娘のいずれかだった。一方、若きVOC職員の優れた者は、歳月とともに現地VOCの上層部へとのしあがっていく。現地たたき上げの人間が総督の地位に登りつめていった例は限りない。時代が下ってくれば、そういう現地上層部の妻たちの間に欧亜混血女性がマジョリティを占める現象が増加した。
1678〜1681年を任期とした第13代総督ライクロフ・ファン・フーンスの三人目の妻となったヨハナ・ファン・オメレンはバタヴィア生まれだったし、その後任で1684年まで総督を務めたコルネリス・スペールマンの妻ペトロネラ・ウォンデラルも、1704〜1709年の第17代総督ヨアン・ファン・ホールンの妻スサンナ・ファン・オウトホールンもバタヴィア娘たちだった。1761〜1775年の第29代総督ペトルス・ファン・デル・パッラの妻アドリアナ・バケはランベルトゥス・ドゥデの孫娘だ。ランベルトゥス・ドゥデは若くしてバタヴィアに移住した平民で、後にバタヴィアの裁判所長にのし上がった人物だ。かれは地元の奴隷女を妻にした。1780〜1796年の任期を務めたウィレム・オルティン総督の二人目の妻マリア・フレベルも祖母はアジア人奴隷女だった。


< オンテンバアルのコルネリア >
1623年に平戸のオランダ商館長となって日本に駐在したコルネリス・ファン・ナイエンローデは在任中にトケシヨという日本女性を妻にしてへステルという娘をもうけ、その後で洗礼名スリシアという日本女性と結婚してコルネリアを得た。ナイエンローデが1633年に病のために平戸で死去したことから、父親の遺言に従ってへステルとコルネリアは1637年にバタヴィアへ送られ、バタヴィアの孤児院で成長した。この姉妹もバタヴィアの欧亜混血娘たちの一員だ。ヘステルは1644年にイギリス軍人と結婚し、後になってオランダ人と再婚した。
コルネリアは1647年に17歳でピーテル・クノルと結婚した。ピーテル・クノルは東インドで赫々たる職歴を誇ったVOC職員で、中国との貿易に力を注ぎ、VOCの商務員長にまで昇格した男だ。1672年にクノルが没してから、コルネリアは夫の遺産で裕福に暮らしていたが、その後悲惨な運命に見舞われることになる。

寡婦で厖大な遺産を持つコルネリアに目をつけたのがヨハン・ビッテルだった。ビッテルは大学で法律を修めてアムステルダムの法曹界で活動を始めたが、うだつが上がらない。そのころから、かれの性格の悪さは既に法曹仲間の間に知れ渡っていた。性格の悪さというのは、法律条文の巧みな解釈を使って利己的な行為を弁護することに長けていたという意味だ。公序良俗を損なうものではあっても、法律を扱う技術という点でかれは優れた腕を持っていたということができるだろう。
うだつの上がらないアムステルダムでいつまでやっていても仕方がない。ビッテルはバタヴィアに赴くことを決意し、バタヴィアの司法評議会で働きたいとの希望を看板に掲げてVOC本社の上層部にコネを求めるようになる。そしてついにその推薦を得て1675年1月、妻と5人の子供たちと共にオランダを去った。その年の9月12日にバタヴィアに着いたとき、航海中の事故と病気で妻と子供一人を失い、かれは4人の子持ちの寡夫になっていた。かれはそのとき、既に38歳に達しており、熱帯コロニーではあと数年で引退生活に入るような年齢だったのである。
かれは100フルデンの月給で希望する職に就いたが、やがてそんな金額ではバタヴィアで4人の子供を育てながら、それなりの地位を持つオランダ人としての人並の生活ができないことを思い知らされることになった。バタヴィアの生活費はアムステルダムの二倍を超えており、地位を持つ公職者たちはみんな、そういう生活費を十二分にこなした上に贅沢三昧の暮らしを見せびらかす日々を送っていたのである。

こうしてビッテルは、そのとき46歳になっていた大金持ちの寡婦コルネリアへの接近を開始する。バタヴィアでできた知り合いたちの助力を得てコルネリアと知り合いになり、甘い言葉や紳士的な振舞いでコルネリアの心をつかみ、最終的に婚約するまでにたどりついたとき、ビッテルの心は歓喜で燃え上がったにちがいない。一方のコルネリアはどういう気持ちでヨハン・ビッテルの接近を受け入れたのだろうか?コルネリアは1653年から1670年までの間に10人の子供を産んでいたが、ビッテルの接近が始まったころには9人が世を去っていた。そんな状態のときに自分の将来を思いやってくれる男性が出現すれば、気持ちは揺れ動くにちがいない。加えて、相手の男はバタヴィアの法曹界の最高府である司法評議会の判事だ。バタヴィアのエリートソサエティでの交際の舞台が、その狭い扉を自分のために開くだろう。そしてまた、自分に残された人生の中で、自分の財産を狙ってくる者たちがどのような悪だくみを仕掛けてくるかわからないリスクをひしひしと感じているかの女にとって、そんなターゲットにされている自分の社会的地位や財産を守ってくれる人間として、これほど条件のよい相手はいないではないか。ビッテルと婚約したコルネリアがそういう考えを抱かなかったはずがない。ところが、結婚生活が始まってビッテルの本性がベールの下から現れたとき、自分がたいへんな思い違いをしていたことをコルネリアはやっと悟ることになる。


15世紀から始まったヨーロッパ人の世界進出に伴って世界のあちらこちらに植民地が作られ、白人コロニーでは純血を守る白人家庭と共に地元の女性を家族の一員に加えた混血家庭が共同体を形成していった。そういう家庭の子供たちが何代にもわたって新たな家庭を作り、相伝された財産を次世代に引き継いでいく中で、もともとその財産分与にあずかれる関係になかった人間が合法非合法の手段を用いて財産を掠め取ろうとする事件は、引きもきらずに発生している。だからこそ、コルネリアのような立場に立たされた女性が判事を再婚相手に選ぶ傾向はたいへん高かったのである。
アメリカ南部のスペイン系の土地でも、上流家庭出身の純血女性たちは判事を結婚相手に選ぶ傾向が顕著だった。そうすることで女性の側の一族の社会ステータスが維持されるとともに、判事である夫を通して一族の社会的な影響力も強化されることになったからだ。
類似の現象はポルトガル人が入植したインドの植民地でも見られたが、こちらの場合は財産を持つ一族の遺産相続人である欧亜混血女性を妻にしようと働きかける傾向が判事のほうに強かった、とある研究者は指摘している。判事のそのような行為をポルトガル王が禁止したにもかかわらず、実態として国王の禁令は無視されたらしい。

そういう時代からコルネリアの時代まで含めて、妻の財産は法的に夫のものとされていた。男女同権思想がまだ存在せず、ヨーロッパですら女は男に頼って生きていかなければならない存在とされていたわけだ。現代文明で常識とされている男女同権思想を踏まえてヨハン・ビッテルを感情的に悪辣な人間と見なす姿勢は、時代背景をわきまえない浅薄なものの見方しか残さないのではないかとわたしは思う。
ともあれ、このコルネリアとヨハン・ビッテルの間に起こった離婚や財産権に関する訴訟問題の全貌は、「おてんばコルネリアの闘い」という邦題のつけられたレオナール・ブリュッス氏の作品が出ているので、興味のある方は是非ご一読されるようお勧めしたい。日系混血女性が被害者の物語であり、おまけに女性が権利を踏みにじられているストーリーになっているため、上のような感情的な見方に誘導される読者が出るかもしれないが、その時代には男にそのようなことをする権利が与えられていたのだということを頭の片隅に留め置いていただきたいものである。


< コロニーの女 >
17世紀から18世紀にかけて、バタヴィアのVOC上層部では閨閥関係作りが積極的に進められた。オランダ人の父親が、まだ年若い自分の欧亜混血娘を高官や未来の高官の妻にと運動する。そして妻になったり、あるいはまだ婚約者のままでも、高官が死亡すればその娘は唯一の遺産相続者になれるのである。すると、そういう遺産を持つ寡婦を妻にと狙う男が出現するのは、ヨハン・ビッテルの例が示すとおりだ。そういうメカニズムの中で上流層女性は異なる男性を相手に何度も結婚した。初婚では、女性はまだ子供のように若い年齢で、男性は既に社会的な成功者になっているから年齢も高い。そして何人も子供を産んでから、夫が先に世を去る。夫の財産を受け継いで子供を育てながら豊かな暮らしを継続していると、バタヴィアのエリートソサエティに足を踏み入れんばかりの自分より若い男がその女性を妻にしたいと求めてくる。コルネリアの例はそういうバタヴィアの社会生活をそのまま示すものだったと言えるだろう。
似たようなものにフランソワーズ・デ・ヴィッの例がある。オランダからの移住者夫婦の間で1634年バタヴィアに生まれたかの女は、1648年に商務局長カレル・レイニエルス44歳と結婚した。1650年、レイニエルスは第11代総督に就任する。レイニエルスが死去した数ヵ月後の1653年にフランソワーズは別の高官と再婚した。夫が死去すると瞬くうちに再婚していくかの女たちの振舞いに歯止めをかけるため、1642年に先夫の死後三ヶ月間は再婚を禁止するという規則が出された。フランソワーズが再婚を数ヶ月間待ったのは、その規則を満たすための「おあずけ」だったということらしい。

血統がどうであれ、バタヴィア生まれの娘たちが現地VOC高官たちの妻になったのである。バタヴィアでの社会生活は、成功者が豪奢で贅沢三昧の暮らしを世の中に誇示するライフスタイルが普通だった。この伝統は現代インドネシアにも生き残っているようだ。そしてそういう暮らしを誇示する人間が、世の中で高位にあり、社会的に優れた人間である、という理解を一般庶民にもたらしていることも同様に。つまり世間一般のひとびとにとって、金持ちは偉い人なのであるという理解がそれなのだ。
だから、世間から見上げられるために豪奢な生活を世に示そうとする傾向が高官たちの妻の生き方にもろに現われてくるのである。その傾向は現代の世界中の国々で同じように見ることができるとわたしは思っている。贅沢で豪奢な生活というのは、実にさまざまな面に渡っている。まず、バタヴィア城市の中での暮らしでは、普段から豪邸の世話をするための奴隷の人数、女主人の外出に付き添う奴隷やサーバントあるいは日傘持ちの人数、付き添いたちが持つ女主人の道具類、女主人の衣服や装身具、バタヴィア城市の外に別荘を持つこと、別荘との往復に飾り立てた馬車を使うこと、知己友人を集めてパーティを開くこと、そういったシチュエーションが富を見せびらかす機会となった。しかし無制限な競争や本人同士の感情的な不和対立を抑制するために、夫の地位が何であれば日傘持ちは何人まで、あるいは馬車の飾り立てはどこまで、といった規則も作られている。


バタヴィアにおけるオランダ人VOC職員の日常生活では、家庭を顧みたり、妻子と親密に触れ合ったりすることは、あまりなかったようだ。つまりバタヴィアにおける社会生活の彩りは、プリブミ社会の色合いが濃いものだったと言えるようだ。その典型例が、シリピナンという噛みタバコの習慣だろう。この連載のはじめの方で紹介しているニャイたちの行動の中にあるシリピナンは、正妻たちも同じようにそれを行なっていた。言うまでもなく、バタヴィアの街に住んでいる夫人たちが全員正妻であるわけがなく、多くのニャイがそこに混じっていたわけだから、シリピナンをかれらが法的スタータスのシンボルなどにするわけがない。VOC職員の子供のための学校も設けられていたが、たとえ正妻であっても欧亜混血夫人の多くは子供を学校に入れないで、自分自身あるいは夫人お気に入りのプリブミ奴隷やサーバントが子育てのかたわら教育を行なった。それが学校で与えられる教育のクオリティとまったく異なるレベルだったことは想像に余りあるにちがいない。だから子供たちがプリブミ文化を比較的色濃く持って成長してくるのは避けられないことだったようだ。そういう妻子たちと心置きなく親しみ触れ合うオランダ人VOC職員がどれほどいたかということが、かれらの日常生活の中に描き出されているように思える。結局、妻も子供たちもオランダ文化を夫や父親からあまり教えてもらうことなく成長したため、かれらがオランダ人の妻になったとき、また同じようなサイクルが循環することになったにちがいない。

ヨハン・スプリンテル・スタヴォリヌス大尉が1769年にバタヴィアでの日常生活について故国の親族に書き送った手紙は、当時の生活をあからさまに示してくれている。
・・・・オランダ人にせよ、他国人にせよ、ヨーロッパ人の生活は階層を問わず似通っている。空が白み始める午前5時かそれ以前に起床し、寝間着である長い薄物を身にまとってコーヒーや紅茶を飲む。家の表門前の階段に座って飲む人もいれば、家の中で飲む人もたくさん居る。それが終わると仕事着に着替えて、それぞれの職場に向かう。
職場には午前8時までに来ていなければならない。午前11時あるいは11時半まで仕事する。12時に昼食を摂り、午後4時まで午睡。そのあと夕方6時まで仕事するひともいるし、郊外に馬車で出かけるひともいる。夕方6時ごろから晩餐が始まり、そのあとカードで遊んだり会話をはずませたりしながら夜9時ごろまで楽しむ。それから帰宅するひともあれば、居残るひともある。かれらはたいてい夜11時に就寝する。かれら男性の晩餐には女性がいない。女性は女性たちで晩餐しているのだ。
家庭を持った男性たちは一般的に、あまり夫人をかまっていないし、また特別扱いすらしない。かれらは重要な話を妻とはしないのだ。だから夫人たちの知識は結婚初夜からほとんど変化しておらず、夫婦生活が何年になろうが、たいして変化しない。夫人たちの頭が悪いということでは決してない。夫たちが妻を教育しようとしないのだ。・・・・

相手がヨーロッパ純血女性にせよインド(欧亜混血)女性にせよ、バタヴィアにおけるVOC職員の公式結婚はあまり多くない。地位が低いほど公式結婚をしにくいという状況が、ヨーロッパ人男性にまつわる公式結婚の起こりにくいベースのひとつになっている。VOC職員の大部分を占めている下級職員や兵士たちヨーロッパ系男性の日常生活の伴侶になったのはアジア人女性たちであり、公式結婚という社会的法的な拘束を受けないものだった。つまり内縁関係だ。ヨーロッパ系男性は決してオランダ人だけでなく、個人としてVOCに雇われたフランス人・ドイツ人・デンマーク人・スコットランド人・イギリス人たちが含まれており、かれらは日常業務の中で地元の現地人と接触する機会がきわめて頻繁であり、同時に自分の居所で家の中を整える仕事に使っている奴隷もたくさんいたことから、アジア人女性と個人的な男女関係が成立する強い傾向を抱えていたのである。それらの奴隷は基本的に会社(VOC)の資産であり、会社が赴任してきた職員の個人生活をサポートするために用意しているものだったとはいえ、そういう奴隷女をベッドの友にするのに、さしたる心理的抵抗は生じなかったようだ。

1617年以来、VOC職員と非キリスト教徒女性との結婚が禁止された。会社との契約任期が終わり、職務から解除されてコロニーに住み着いた者にも同じ禁令が適用された。公式結婚をしたアジア人女性をヨーロッパに連れ帰ることも禁止された。奴隷女を正式な妻にする場合、まず会社の上司あるいはコロニー管理者からの許可を得なければならず、次に会社の資産を個人のものにするために会社に対する支払いが不可欠であり、またその女性をキリスト教徒にするための洗礼や改名など、さまざまなプロセスを経なければならなかった。
ともあれ、初期に赴任してきたVOC職員たちが試行錯誤しながら東インドのコロニーにニャイの制度を広げていったあと、新規に赴任してくる職員たちは居所に住み着くのとあまり違わないタイミングで内縁の妻を持つようになっていた。それは、ニャイが用意されている居所に入るという雰囲気に近い。そうして数年が経過し、コロニーにおける暮らしの要領がつかめてくると、かれらは自分の昇進の道を切り拓くことに意識を向けるようになる。業務や交際の中で見出した影響力を持つ同僚の娘を妻にすることで、姻戚関係という人脈で形成される派閥の勢力伸張がかれの将来を導く手綱を用意することになる。こうして公式結婚が行なわれ、ニャイの居場所は消滅し、ニャイはかれの居所から外に追い出されることになる。そのときニャイが妊娠していようが、それが公式結婚に影響を与えることはない。もし先に子供ができていた場合、かれが子供だけは自分のものとして認知することもある。バタヴィアのVOC高官だった者の間でさえ、そのようなことが普通に行われた。今のデポッ(Depok)市一帯を私有地にした東インド評議会有力メンバーのコルネリス・シャストリンは若い時代にその評議会の有力メンバーだったコルネリス・コルベルフの娘と結婚し、バリ人女奴隷のレオノラを離縁したが、レオノラの生んだマリアとカタリナというふたりの娘を認知している。
ヨハン・スプリンテル・スタヴォリヌス大尉の見解が示している通り、コロニーでは一般にひとびとはあまり家庭的でなかったということであり、妻をあまりかまってやらないのであれば子供にも同様だった可能性が高く、ましてや心ならずもニャイに産ませてしまった子供への肉親の情というのは、現代のわれわれが抱く感覚とは相当にかけ隔たっていたことが想像される。
こうして父親から見捨てられた欧亜混血児がコロニーを徘徊するようになり、社会問題と化していく。17世紀初頭からこの問題は既に発生していた。


バタヴィアの貧困地区では1624年に孤児院が既に設けられており、最初はヨーロッパ純血児童と欧亜混血児童がそこに収容されていたが、歳月の経過とともにそこで見出されるのは欧亜混血児だけになった。しかも、母親が属しているアジア人社会から見捨てられた孤児だけが孤児院に収容されるようになり、大半の混血児は母親や母親の一族の庇護のもとに、アジア人社会で成長するように変わっていった。混血児たちは成長すると、男はVOCの兵士に雇用され、女はたいてい奴隷になったが、ヨーロッパ系VOC兵士の妻になる者もあった。孤児院で育った真の孤児はさまざまな職を身に着けさせられてコロニーで営まれる社会生活の一員となっていった。バタヴィアの土着化を少しでも弱めようとするVOCの方針によって、かれらはキリスト教とオランダ語を孤児院で叩き込まれたのである。バタヴィアは発足の当初から、完璧なオランダ人の街にならなかった。コロニー生活のマジョリティはメスティーソやアジア人女性たちによって占められていたため、日常社会生活の大半はポルトガル語とムラユ語を共通語として営まれていたのである。オランダ語はVOC職員たちの間でのみ使われており、オランダ人が日常生活の伴侶とした女性にオランダ語やオランダ文化をしっかり教育しようとしなかったことがそういう結果を招いたのは疑いもない。

アジアのコロニーで盛んになったこのような内縁制度に対する批判は、オランダ人の間にも強かった。そのため、ニャイになったアジア人女性やかれらが産んだ欧亜混血児に対する蔑視と偏見も生やさしいものではなかった。ニャイたちは「さかりのついた家畜のような黒い女たち」と呼ばれ、セックスだけはたいへん好きで活発だが、それ以外の日常生活は怠け者で愚鈍で嘘つきであり、魔術を使って憎む相手を殺害するとまで言われた。ニャイの制度を嫌悪したヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、手紙の中でそうアジア人女性を評している。混血児に関しても同様だ。当時のヨーロッパ人は、異種族間で混血児が生まれると、その子供には両種族の劣った性質が合わさってくると考えていたから、混血児は純血児よりも虚弱で劣悪な人間だという見方が強く、それに輪をかけて欧亜混血児はアジア的性質のほうがより顕著に見られるという証言がオランダ人の間では一般的だった。かれらは長時間にわたってしゃがんでいることを苦にせず、またオランダ風の衣服を着せると動きがぎごちなくなった、というコメントが付随している。そのコメントはさらに続けて、「混血児は克苦勉励を厭い、快楽の追及に熱心で、特に娘たちは金を使うことを極度に愛好する。娘たちは母親と同様に怠け者であり、自分の子供の教育すら面倒がる始末だ。東インドで生まれた者たちは利発さに欠けており、もっと的確に言うなら、自分の子供をすら利口者に教育しようとする意欲さえもたない怠け者なのである。かの女たちは、まだ年若い自分の子供たちをプリブミと結婚させることにためらいすらもたない。VOC高官の妻となった娘たちも、嫉妬深く、身を飾ることに精を出し、他人にちやほやされるのを喜び、奴隷を残酷に扱い、シリピナン中毒になっている。」ニコラス・デ・グラーフの書いた『東インドの鏡』にはそんなコメントが記されている。
欧亜混血娘に対する舌鋒は、混血男児にも向けられる。「男たちも愚鈍でプライドに欠け、信用することができない。だからアジアのコロニーの主導的地位に就ける者はオランダで生まれた純血の人間でなければならないのである。現地生まれの人間は、純血であれ混血であれ、VOCの下級職員か、せいぜい部門長のアシスタントにしかできない。」

そのようなロジックがコロニー支配階層の勢力強化と現地で育った者を権力中枢から排斥することに使われたが、現実には金を持つオランダ人の父親が子供を幼いころから本国に送って教育を受けさせ、成人してからVOC本社の中枢に伝手を持ってコロニーに戻ってくるとバタヴィアの支配階層に納まるという裏口ルートの形成にもひと役買うことになった。1732年から1735年まで第23代バタヴィア総督を務めたディルク・ファン・クローンは1684年にバタヴィアで生まれた欧亜混血児だ。かれは幼少のころからオランダに送られて学校教育を受け、VOC職員としてバタヴィアに赴任してきた。商務員の職を皮切りにしてバタヴィアのVOC内で頭角をあらわし、最終的に総督の地位にまで昇りつめた。バタヴィアの上層階級に属す一族の中に生まれた欧亜混血児には似たような軌跡を歩んだ者が何人もいる。かれらは本人の能力も優れていたのだろうが、父親の影響力が加わってVOC機構の頂点に立つことができた。しかし欧亜混血児の全体から見るなら、そのような例はほんの一握りでしかない。マジョリティの混血児たちは、ヨーロッパから送り込まれてきたVOC職員の後塵を拝し、ヨーロッパ人コミュニティのマージナルな領域の中で生きることしかできなかった。


1799年にVOCが倒産した。オランダ本国が1794年にフランス革命軍に占領され、バタヴィア共和国という親フランス政権がオランダ本国の政治を掌握している中でのできごとだった。VOCが東インドに打ち立てたあらゆる権益はバタヴィア共和国に移管され、会社がビジネスとして行なっていた東インド支配はいよいよ国家支配というビジネス形態に移行する。
その後オランダ領東インドがイギリスに占領されてイギリス東インド会社のトーマス・スタンフォード・ラッフルズによる統治が5年間続き、ヨーロッパでナポレオン体制が崩壊すると再びイギリスからオランダに統治が移るという変化が政治の舞台では起こったものの、ニャイダシマの物語を読む限りでは、ニャイの制度にさしたる変化は起こらなかったように見える。しかしたとえ5年間にせよ、イギリス式の東インド統治はそれまでオランダ人が行っていた生活習慣とそこに照らし出されている価値観に変化をもたらしはじめたのである。

ラッフルズは多くのイギリス人に東インドへの投資と入植の門戸を開き、それまで行なわれていたオランダ式風習に新風を吹き込んだ。イギリス人の目には、オランダ人がアジアで行っていた家庭生活作りから始まる社会作りは軽蔑されるべき野蛮なものと映ったようだ。
ヨーロッパに築き上げられた高い文明をアジアに啓蒙する中で、ヨーロッパ人とアジア人との間の人間関係も倫理の規範に則したものにならなければならない。イギリス人が求めた、夫と妻が社会の中でそれぞれの役割を果たすという理想のあり方をラッフルズは妻のオリヴィア・マリアンヌと共に実践して見せ、東インドの行政に携わっているオランダ人たちにそういう思想的な影響を植え付けようとした。オリヴィアは1814年11月、熱病のために亡くなり、ラッフルズはその死を悼んでボイテンゾルフの総督官邸に記念碑を建てた。ボゴール植物園には今もその記念碑が残されている。
人間のコミュニティを新たな思想の色に染め上げるのに、5年という期間はあまりにも短かすぎる。だからイギリス的理想主義から見れば野蛮で軽蔑されるべきニャイ制度はイギリス統治期を過ぎても頑健に生き残ったが、オランダ人の中に東インドにおけるニャイ制度への批判的な視点が築かれることにもつながっていったのである。そうであったとしても現象的には、イギリス人によるオランダ領東インドの倫理改革はニャイ制度の払拭を実現させることができなかった。レギー・バアイ氏はニャイダシマの物語を指摘して、イギリス人ですらニャイを持つことがあったと述べている。

19世紀後半になって、オランダ人のトアンとアジア人のニャイが同棲生活をするケースが顕著に増加した。その変化を直接的にもたらした原因は、奴隷制度の廃止だった。家の中を整えている奴隷女のひとりが夜トアンのベッドに呼ばれるというありかたは、その家の外からはわからないものだ。だから現実にそういうケースがたくさんあったとしても、世間にはほとんど見えていないということだったにちがいない。ところが、奴隷がいなくなったとたん、事態は変わったのである。
奴隷売買を禁止する法律は1818年に定められたが、実際にオランダ人の邸宅から奴隷と呼ばれる存在が姿を消したのは1860年代になってからだった。奴隷が買えなくなったとき、アジア人のニャイを求めるオランダ人トアンはプリブミの中から妾を探すことを余儀なくされた。奴隷には命令できるが、妾の場合は女性の自由意志に従わなければならない。結局行き着いたのは、邸宅の家政を整える家政婦に夜の仕事を追加させ、そのための報酬を上乗せするという方式だった。ヨーロッパ人の間で同僚や仲間の身上について語られる「かれはプリブミ家政婦と一緒に暮らしているよ。」という言葉が何を意味しているのかは、当時知らない者とていなかった。それが公開された求人マーケットで起こることがらだっただけに、ニャイ制度の広がりが社会的にますます顕著に見えるようになっていったということだろう。


1869年11月にスエズ運河が開通したことで、東インドのニャイ制度にも影響の波が押寄せた。航海距離の短縮でオランダから東インドまでの航海日数は4割まで縮小し、風に頼る帆船から蒸気機関によって自力航海する新型船がその成果を確実なものにした。
1870年オランダ東インド政庁はジャワとマドゥラで土地の私有化を認め、ヨーロッパ人の入植を促した。1870年から80年までの10年間に東インドに定住したヨーロッパ人は1万人にのぼる。そのほとんどが独身男性だった。女性が多数東インドに渡航するようになるのは1900年代に入ってからだ。1880年ごろの東インドで、ヨーロッパ系男性10万人に対して東インド外を出生地にしているヨーロッパ系女性のコロニー定住者はわずか123人しかいなかった。両親が純血ヨーロッパ人であれ、あるいは異種族間結婚であれ、東インドで生まれたヨーロッパ系女性はその中に算入されていない。東インドへの渡来者の男女間人数比がバランスするようになるのは1930年ごろのことであり、そのおよそ半世紀の間、東インドにやってきたヨーロッパ人が家庭を持とうとする場合、ニャイへの需要は一貫的に存在していたということになる。
新参の男たちは東インドに一定期間居住しなければ公式結婚が許可されなかった。それがニャイの需要を一層煽ることになった。コロニーに既に定着してしまっているニャイに関する規範や価値観は、新参の男たちにとって自分の生活基盤を固める上できわめて重宝なものだった。簡便で安上がりで、拘束性も厳格さも緩く、社会管理者からの監督も緩く、熟慮と慎重さを必要とする公式結婚よりはるかに手軽にあらゆるものを手に入れることができる。ニャイ制度つまりプリブミ女性との内縁関係が急速に拡大していったのも当然だ。下は事務員・農園下級管理者・商店主から上は地区行政官・判事・東インド評議会議員にいたるまで、ニャイを暮らしの伴侶にしているひとびとはいたるところにいた。都市生活ばかりか、農園生活にも、そして軍隊の兵舎での生活にもニャイが関わっていた。ヨーロッパ人とアジア人が入り混じって暮らす東インドでの植民地生活の中で、ニャイ制度は切っても切り離せないものと化していたのだ。

東インドにおけるプリブミの生活習慣にも、奴隷制度の廃止は新しい風を吹き込んだ。白いご主人様に奉仕する褐色の奴隷というシステムは基本的に奉仕者の自由意志を前提にしないものであり、奴隷という立場がかれらに奉仕を強制していた。その構図は主人と使用人という関係のみならず、強制栽培制度の中にも一貫して流れている。強制されて仕方なく行なっていたかれらが突然、自分で考えて自由意志による選択を行なう権利を与えられたことで、かれらの立場は変わってしまった。引き続いて流れ込んでくるリベラル経済思想がかれらに自分自身の主人になれと命じているにもかかわらず、自分の自由意志による労働で賃金を稼ぐという思想を身に着けるまで、かれらははるかに長い歳月を必要とした。


< コロニー生活 >
19世紀後半の爆発的なヨーロッパ人の渡来で、個人にせよ会社にせよ、やってきた新参事業者たちは厖大な求人を生み出した。ところがその時期、プリブミの経済ポジションは悪化の一途をたどったのである。
東インド植民地政庁が土地私有化を認めて民間事業の振興を開始した1870年から1900年までの間に、ジャワ島のプリブミ人口は1,620万人から2,840万人に増加した。ところが食糧生産は同じペースで増加しなかった。その一方で、植民地政庁がジャワ島外で支配を拡大して行ったことはオランダ人行政官僚の増員を促し、インフラ土木工事を増加させ、そしてアチェ王国を屈服させ支配するためのアチェ戦争が政庁の支出予算を巨大なものに膨れ上がらせた。歳入の頼りにできるのは、平穏で且つ生産性の高いジャワ島だけだ。ジャワ島のプリブミたちを苛斂誅求が襲ったその一方で、植民地政庁がヨーロッパ人の民間事業に歳入の支援を求めなかったのはなぜだったのだろうか?
その偏向した政策がジャワ島農村部にどのような疲弊をもたらしたかについては、論を待たない。その実情を見聞してきたオランダ人自身が、政庁の政策に激しい批判を投げかけている。幸いにも米の価格が下がったおかげでジャワ島での大量餓死事件は起こらなかったものの、いくつかの地方では餓死事件も起こり、食い詰めた農民が村をあげて逃散したり、あるいは栄養不良のプリブミたちがどんどん病気に罹って死んでいった。当時ジャワ島を旅行したヨーロッパ人は、ジャワ島農民の悲惨な生活をさまざまに書き残している。

東インド植民地における民間事業の振興で大きい雇用が起こり、それまでほとんど賃金労働というものを経験しなかったジャワ島のプリブミに賃金労働の習慣が広まっていった。それはつまり、プリブミたちがより一層植民地経済への関わりを強めていったことを意味している。ここで言う関わりとは、経済主体者になることでなく、依存者になるという面が突出して大きいことに注目しなければならない。プリブミたちが雇用されてヨーロッパ資本に労働力を提供するようになったものの、それがかれらの福祉レベルを向上させることにはならなかった。ヨーロッパ系会社がプリブミに支払う賃金はきわめて低く、おまけにかれらの地位が上がって昇給が起こることもたいへん稀だったのだから。
そのあり方が現代にまで尾を引いていると見るのは、考えすぎだろうか?現代独立インドネシア共和国の労働者たちの多くは、一度雇用されると最低賃金しかもらえず、最低賃金が毎年アップすることでかろうじて収入が増えているという姿が一般的であり、外資系企業が普通に持っている勤労報酬の習慣からは想像もできないような待遇に甘んじているたくさんの労働者がいる。労働者デモが戦闘的になる必然性をわたしはその辺りの状況に結び付けて見ている。


19世紀末から20世紀初頭にかけて、農園産業は目覚しい発展を遂げた。労働力を増やせば増やすほど農園は大きな収益をあげることができたため、どうやって労働力を集めるかということが農園主の焦眉の的となり、ラディカルな方法が採られるに至ったのである。中でも、スマトラ島北部東岸地方は深刻な問題を抱えていた。地元プリブミたちはただでさえ少ない人口である上に、賃金労働を嫌ったのだ。そのため農園は契約労働者を遠方まで求めた。最初はマラッカを中心にして華人や他のアジア人を呼び込み、需要がまかないきれないためにジャワ人を集めるようになった。コミッションで動く人集め仲介屋が文盲のジャワ人に契約書を示し、その内容説明に何を言ったかは一切が闇の中でしかなく、サインしたが最後、思いも寄らぬ待遇が遠いスマトラの空の下に待ち構えていることを予期できる者はほとんどいなかった。この構図も、今現在あちこちの国内貧困農村でチャロと呼ばれる仲介屋が若い娘たちを集めて人買組織に売り飛ばしているありさまとほとんど変わっていないようにわたしには見える。

1880年に出されたクーリー法は、クーリー側からの契約打ち切りを違反行為とする内容を定め、農園主だけがクーリーを解雇できるようにした。そのような無体が行なわれて、そのまま済むはずがない。農園に半ば強制的に閉じ込められたクーリーたちの間に倫理崩壊や犯罪が蔓延したことは言うまでもあるまい。農園主に雇われてその手足として働いている、クーリーを使う立場のプリブミも、クーリーを食い物にしようとし、暴力と欺瞞を織り交ぜた手口で借金を作らせ、農園から離れられないように仕向けた。給料日のあとは決まって賭場が開かれ、給料を一晩ですってしまったクーリーたちが借金漬けにされていくプロセスは、農園主にとってもメリットのあることだけに、そういった倫理崩壊に農園主が口出しすることもなかった。
ともあれ、そのようにして大量に移住したジャワ人の子孫は、北スマトラ州人口1千3百万人のうちの三分の一を占めている。種族比率は、バタッ42%、ジャワ33%、ニアス6%、ムラユ5%、華人3%等であり、宗教別に見るならイスラムが66%を占めていてキリスト教31%の二倍になっている。
そのような植民地経済の好況をよそにして、ほとんどが農村部に居住しているプリブミたちの経済状況がどん底に落ち込んでいるありさまは、ヨーロッパ人独身男性が作り出すニャイの需要に見合う供給を実現させる背景になっていた。
農村部での経済悪化は、都市への上京者を増加させる。しかし当時その受け皿となりうる都市はジャワ島内にほんのひとにぎりしかなかった。当時、ジャワ島内で人口10万人を超える大都市はバタヴィア・バンドン・スマラン・スラカルタ・ヨグヤカルタ・スラバヤの6つだけだったが、それでもそこへ行けば、労働市場が存在しており、職にありつくことができたのである。工場・商店・運輸そして家庭プンバントゥも・・・・


1870年以降、ニャイ制度はどんどん拡大して行った。東インドの諸都市でヨーロッパ人の人口が増加したこと、農村部からの上京者が太い流れを形成していたこと、ヨーロッパ人男性がプリブミ女性と接触する機会があまりなかったことなどがその要因だ。もちろん、ヨーロッパ人男性が買物をして店員であるプリブミ女性と接触する機会はあったものの、自分の家の女中との接触のほうがはるかに密度の濃いものであったのは言うまでもない。
植民地では、自分の家の中をプリブミ女性が整えるのは普通のことだったし、またプリブミ女性が仕事を強く望んでいるという事情もあった。女中の人件費も廉く、若い年代で東インドに渡ってきたヨーロッパ人男性ですらプリブミの労働力を使うという習慣がひとつの労働力需要を形成していたのである。コロニーでの生活で、社会的なステータスを持っている人間というのは経済的な成功者でなければならず、金を持っている人間が日常生活の雑用を自分で行なうわけがないというのが常識だった。そういう社会生活の常識に沿って生きていこうとするなら、女中や使用人をたくさん使おうという心理傾向が生じるのは当たり前であったし、自分が行なっている事業においても雇っているプリブミの人数の多寡が事業の成功度合いを世間に示すバロメータとされたことは言うまでもない。女中を雇うことは、そういう社会的な評価や自尊心と関係する要素のひとつだったのである。それは同時に、アジア人に対するヨーロッパ人上位の象徴であり、ヨーロッパ人の繁栄を示すものでもあった。

1870年代に入ってから、東インドのコロニーで生活するための多種多彩な手引書が出版されるようになった。当時バーレン(baren)と呼ばれたコロニー新参者たちは、みんなそういう手引書を勉強して順調なコロニー生活のスタートを切ったようだ。手引書には、コロニーにおける服装に関する注意や、家庭内を整える方法、さらにコロニーで絶対に行ってはならないことなどが記されており、プリブミの女中や使用人とどのように接触するのがよいのかという教えも盛り込まれていた。
どの手引書も内容に大きな違いはない。家庭の使用人に関するページを見ると、使用人は2〜3人必要である、と書かれている。しかしもし子供がいるのであれば、使用人は5人いるほうが日々の暮らしはもっと快適になる。ヨーロッパ人の家庭に雇われるプリブミ使用人は、まず男性の雑用係ジョゴス(djongos)、庭師のクボン(kebon)、女性雑用係のバブ(baboe)、洗濯女のワスバブ(wasbaboe)、料理女コキ(kokkie)という区分に分けられ、次のように内容が個別に説明されている。

ジョゴス:使用人の中で、給料が一番高い。住み込みでない場合、かれは毎朝まだ暗いうちにカンプンの自宅を出て、朝6時にやってくる。表テラスの椅子とテーブルを整えてコーヒーを淹れ、次いで主人一家の朝食を用意する。かれは他の使用人たちの統率者だ。主人一家の寝室を整えるのはバブの仕事であり、かれはそういった仕事を自分では行なわない。家庭内でなされなければならない仕事の一覧表をかれに渡すことを忘れないように。かれは他の使用人が行なわなければならない仕事を監督する立場にあるのだから。
家庭内で物が無くなることに対する責任をかれに与えるように。それだけでなく、他の使用人に対しても、盗もうという気を起こさせたり、あるいは物が盗まれやすい状態にしないように。たとえば、現金をそのへんの場所に置いておいたり、扉の開いている戸棚の目に付くところに置いたりしないこと。そういうシチュエーションでかれらはそのまま現金を盗み取ることをしない。まずその現金を別の場所に移動させる。こうして現金紛失の第一ステップがはじまる。数日間そのままの状態で、ご主人がその現金を探す動きをするかどうかを見守る。もし直接尋ねられたら、その現金を移動させた場所を教えてあげて、ご主人の感謝と評価を一身に浴びるという寸法だ。もし何の動きも示さないのであれば、ご主人にとってその紛失物はなんら重要でないものだという判断が下される。
家庭の使用人は労働時間が長い。かれらは普通、夕食が終わるまで働く。つまり21時半ごろまでが勤務時間になる。東インドでは夕食時間が普通20時ごろになっている。夕食後ヨーロッパ人は表のテラスに座ってひんやりした夜の空気を楽しむのを習慣にしている。その19時から21時半までの時間帯は客の来訪を受けたり、あるいは自分が客になって友人を訪問するという、東インドにおける社交儀礼の時間なのである。そんなとき、服装は盛装するのが常であり、ましてや公式訪問ともなれば当局の許可が必要になり、そして訪問時間は1時間と定められる。気の置けない友人や同僚であれば、そういう堅苦しいことは無用とされ、いつでも自由に約束もなく訪問してかまわないことになっている。
客の来訪があったとき、食事のあと酒やソーダ水あるいはレモネードなどを供する仕事がジョゴスに残されている。だからジョゴスの労働時間が使用人の中ではもっとも長い。

もうひとりいる男性の使用人は庭師のクボンだ。クボンの仕事は次の通り。
クボン:クボンはジョゴスのアシスタント役である。名前は庭師だが、庭の手入れだけが仕事でなく、靴磨きをし、自転車のメンテをし、届け物を届けに行ったり取りに行ったりする。床の掃除や浴室の掃除をし、皿洗いを手伝い、昼にはご主人の勤め先に弁当を届けたりする。最後に、花に水をやり、庭を掃き清め、草取りをする。
クボンをオランダに送りたいと思うひとが多い。オランダでは、ありとあらゆることを自分がしなければならないのだから、クボンがオランダにいてくれたらどんなに良いことか・・・・

次は女性使用人のバブだ。バブは家の中でいつもはだしで行動し、「一切物音をたてない」と言われている。
バブ:寝室を整え、戸棚を綺麗に保つ仕事、衣服を週一回虫干しし、女性の靴をメンテし、上着や下着のほころびを繕い、汚れた衣服の洗濯をワスバブにさせる。
ワスバブ:子供がいる家庭では、汚れた衣服を一日に何度も取り替えるため、ワスバブは大いに必要とされる。浴衣・寝間着・下着・シャツやブラウス・靴下・ハンカチなど山なす洗濯物をワスバブはしょっちゅう家の中で洗濯している。

コキ:コロニーで円滑な家庭生活を営むためにコキは不可欠な存在だ。コキは台所の支配者である。コキが台所で何をどのように行なっているのかは、奥様方にとって永遠の謎である。しかし重要なのは衛生と清潔さであり、その点の監督をおろそかにしてはならない。世間一般の奥様方がコキとどういう接触をしているのかということについては、料理メニューの相談と、パサルへ買出しに行ったコキが戻ってきたときのお金に関する会話がもっぱらのようだ。
コキはたいてい、その買出しのために渡されたお金をできるだけ自分の個人利益に回そうとする傾向を持っている。だからほんの数センであっても、あまりにも許容的態度を示すのは家計節約のためによくない。もしチャンスを見出したなら、たいした得にはならないだろうと奥様が思っても、コキはその何倍もの利益を得るのだから。


20世紀に入ると、東インドにやってくる女性の数が激増したために、主婦に向けられた手引書が顕著に増加した。その中でベストセラーになったのが、C.J.ルッテン=ペケルハーリング著の「どう考えるべきか?どうするべきか?東インドへ行って主婦になるオランダ女性へのヒント」と題する書籍で、当時東インドに向かうほとんどすべてのヨーロッパ人女性がこの書籍を携えていたと言われている。驚くべきことに、その中に次のような現地人に対する同情的な記載が見られる。
・・・・プリブミつまり東インドの女性からあなたはいろいろと学ぶことができる。首都に住む白人のひとりであるあなたは、かれらとあまり接触することはないだろう。しかし田舎へ行けば、白人よりもかれらのほうが多いのである。その有色人女性たちが孤独なヨーロッパ人のために働いて生活の糧を得ることに努めているのだ。かれらは家庭の維持運営者として働き、パラダイスを作り出してくれているのである。・・・
当時のさまざまな書籍はほとんどがプリブミ住民に対するネガティブな見解を示していたことから、この種のコメントはきわめて例外的なことがらだったと言える。

当時やはり人気を集めたJ.クロッペンビュルフ=フェルステーフ著「東インドにおけるヨーロッパ女性の暮らし」という書籍も、コロニー暮らしを始めようとするヨーロッパ人女性に向けられたもので、特にプリブミサーバントとの関係についてアドバイスを与えている。
そこに見られるプリブミサーバントに関する保証をどのように得るべきかというアドバイスは現代にまで連綿と引き継がれているようだ。著者は言う。
・・・・ジャワ人プリブミはヨーロッパ人の家庭プンバントゥとして働いているひとびとだ。状況や労働環境からの影響をたっぷり受けている結果、かれらが原住民の中でプンバントゥにもっともふさわしいひとびとであると言うのは難しい。「うちの女中はかれら生来の劣悪さとヨーロッパ人から学んだ劣悪さをその性向の中に持っている」と語るひとのほうが、そうでないひとより多数を占めている。残念ながら、その通りなのだ。かれらは信用が置けないのである。もしかれらの劣悪な習慣や傾向あるいは低いモラルから免れていたいと望むのなら、かられのことをよく知らなければならない。
もしあなたが女中を雇うのであれば、村長からの一筆をもらっておきなさい。その者がかつて警察沙汰を起こし、警察にその名前が登録されているのかどうかをそこで明らかにしておかなければなりません。またその者が以前にどこで働いていたのかを尋ね、その事実を証明する書付があるかどうかも確かめなければなりません。・・・
それらの書籍に記されたアドバイスは東インドに移り住んで家庭生活を送ろうとするヨーロッパ人女性に向けられたものだが、実際に大勢のヨーロッパ人女性が東インドにやってくるようになるのはもっともっと時代が下ってからのことになる。1870年以降に東インドに移り住んできたのは多数の独身男性であり、コロニーで自分の将来を切り拓くことを目的にしてやってきたひとびとだ。コロニーに移り住んでから間もなく住居の一切を世話する女性を手に入れたかれらは、自分の境遇を喜んだ。当時プリブミ女性の労働力供給の下地は十分にあり、そしてどれほど薄給であろうが、かの女たちがヨーロッパ人男性に雇われることはプリブミ社会を覆っている貧困とかの女たちが直面していた希望の無い未来からの別離を意味していたのだから。


1870年まで、東インドに達する航海は10週間かかるのが普通だった。ところがスエズ運河が開通したおかげで、日数は6週間に短縮された。船がポートサイドに寄港したとき、乗船客は最初の異境の地を強く印象付けられることになった。その後、船は紅海を抜けてスリランカに達し、更に東行してスマトラ島に近付くと、島の西側を南下してパダンに寄港し、スンダ海峡を通ってバタヴィアに入った。
1870年までの東インドに住むヨーロッパ人は、植民地行政府の役人、植民地軍兵士、農園事業主、その他小規模事業主たちがメインを占めた。ところが東インドが民間事業に開放されると、新天地での事業の成功を求めて個人やビジネスグループなど大勢のヨーロッパ人が怒涛のように押寄せてきた。あまたに開発されていく農園は厖大な求人を生み出し、オランダ本国では考えられない相場はずれの高給や年金があたかもゴールドラッシュの様相を呈したのである。東インドのコロニーへ行って一旗あげるという夢がヨーロッパを覆い、多くの若者がその夢に導かれて海を渡った。民間産業の発展と住民の増加はそれに見合う行政管理体制の構築を不可欠にする。行政官吏の増員も負けじと進められ、1895年から1930年までの間に植民地政庁の雇用する役人の数は7倍増になった。植民地政庁の官吏を退職したひとりが故国の若者に書き送った手紙には、東インドに起こったゴールドラッシュの状況が書き記されている。
・・・・新聞を読みなさい。東インドで商工業は大いに発展しており、未来を約束する新天地が生まれつつある。植民地政庁はたいへんな人手難に見舞われており、軍人さえもが文民官僚の仕事に使われている。定年退職した者までが、短期間だけということでまた職場に戻されている。
オランダで言われている「東インドへ行くと、すべてを失ってしまうぞ」などという言葉を信じてはいけない。それは大金持ちの家に生まれた若者にとってのものでしかなく、一般庶民として質実に生きている若者には関係のないものだ。この人生を愉しむ機会に成り代わり得るものなど存在しない。・・・・

鉄道や市街電車が作られ、大都市にはガス燈が点き、ヨーロッパでの暮らしをそのまま移植したようなコミュニティ社会が生まれた。書籍出版も増え、社交場も作られ、音楽コンサートや劇場での演劇など、文化活動も厚みを増す。バタヴィアを中心にした東インドでのヨーロッパ人コロニーの繁栄は1870年から1920年までその栄華の頂点を迎え、豊かで文明的な暮らし、秩序整然として安寧平穏たる社会生活、などという姿を現実のものと化したその時代を、現代インドネシア人ですらtempo doeloe と呼んで懐かしんでいる。
東インドに移り住んでバタヴィアを中心にヨーロッパ文明の栄華を極めたコミュニティを生み出した、オランダ人をはじめとするヨーロッパ人たちの出身階層はさまざまだったが、共通して言えるのはかれらが故国での人生に見切りをつけて将来性の豊かなコロニーに新たな人生を切り拓きに出かけたという一事に尽きる。コロニーで成功者になり、巨大な富を抱えて故郷に錦を飾ることを夢見たひとびとが、バタヴィアに向かう船に乗った。バタヴィア行き客船のデッキにいるひとびとは、アメリカに向かう移民船の乗客よりはエレガントに見えたが、本質的な差異があったとは思えないと1878年から1898年まで東インドで暮らし、1900年に自著「オランダ領東インドの生活」を発表したバス・フェットは書いている。


1870年代はじめごろ、バタヴィアに到着した客船はスンダクラパ港の沖合いに停泊し、小船に乗り移って上陸しなければならなかった。大型貨物船も同じで、沖仲仕の存在が不可欠な時代だったのである。当時のスンダクラパ港はチリウン川河口に海を埋め立てて作られた貧弱な港でしかなく、低湿地のために常にぬかるんでおり、潅木が生え、ワニがいたるところに姿を見せている場所だった。その後起こり始めた怒涛のようなヨーロッパ人の到来をそんな港で処理できるはずもなく、1877年になって植民地政庁はやっとタンジュンプリウッに近代的な港の建設を開始したのである。それが完成したのは1885年。
タンジュンプリウッ港で船が埠頭に接岸すると、乗客たちはこれから自分が住むことになる異国の光景に見とれた。上半身裸で擦り切れた布を身にまとったプリブミの男たちが大勢右往左往し、重い荷物を上げたり下ろしたりしている。その力仕事の行なわれているエリアから離れた場所で上から下まで白一色の衣服を着たヨーロッパ人男性たちが、自分が出迎えるべき人間を待ちながら、たたずみ、あるいは歩き回っている。同行のヨーロッパ人奥方たちは地元のヨーロッパ服ブティックでいい加減に裁縫された服を着てベールの付いた帽子をかぶり、傘を持って控えている。
タンジュンプリウッ港からバタヴィア中心地区へ行くには、現在マルタディナタ通りとなっている運河沿いの道路を馬車で行くしかなく、アンチョル交差点で左折して南行き大通りに入るルートが使われた。港の西側に大きい鉄道駅が設けられたのは1910年ごろであり、そのおかげで1870年に使われはじめたコタ駅までやっと鉄道で行けるようになった。タンジュンプリウッからまっすぐ南下してボゴール街道につながる、ジャカルタバイパスと呼ばれている道路は、スカルノ時代にアメリカの援助で作られた道であり、その当時はまだ存在していない。

繁栄を謳歌するバタヴィアの土を踏んだヨーロッパ人たちは、故郷で体験したことのないバタヴィアの不文律を目の当たりにして驚くことになる。ラズロ・セケリーが1935年に発表した小説「密林から農園へ」では、オランダ人主人公すら驚いたバタヴィアの不文律が示されている。
・・・・船は埠頭に係留され、はしごが下ろされた。わたしは自分の小さいトランクを手にすると、舷側に向かって数歩進んだ。突然ファン・コイル氏がわたしに怒鳴った。「トランクを下に置け。今すぐに!」
わたしは当惑してトランクを手から放し、疑問に満ちた視線をかれに向けた。
「あなたは何を考えているのかね?ヨーロッパ人であるあなたは、ここでは自分で何も運ばないのだ。ここには、そのようなものごとは一切ない。われわれ白人が持っている威厳のことを忘れてはならない。」・・・
オランダ領東インドに住んでいるのは、白と褐色そして支配者とサーバントという二種類の人間だけであり、その特殊な社会を統制しているのが選択の余地の無い不文律なのである。白いヨーロッパ人はご主人様であり、褐色のプリブミはそれにお仕えするサーバントだ。サーバントはご主人様を謹んでお迎えし、その望むものごとを当たり前のように供するのであり、ご主人様の命令を身を低くしてお受けするのだ。南洋のコロニーにやってきたヨーロッパ人は、そのようにしていきなり社会的ステータスの階段を踏み上る。肌の色の違いがすべてを決めるのである。
オーナーが有色人種である店に白人が足を踏み入れる。たとえそのオーナーが百万長者のインド人であったとしても、インド人店主は腰をかがめて白人のご主人様をお迎えする。その白人が一張羅を着たただの船乗りであろうと、犯罪者であろうと、はたまた常識破りの冒険者であろうと、中身が問われることはない。中身がどれほど劣悪であったとしても、かれは白人なのだから。

ヨーロッパ社会で低い階層出身だった者も、東インドへくればたちまち上位者に格上げされる。ラズロ・セケリーの小説の主人公である「わたし」も幸福に酔い痴れた。「いまやわたしは、ひとかどの人物になったのだ。わたしはご主人様なのであり、世界を支配する人種の一部なのである。ただ白人であるということだけでこれほど多くの特別扱いを享受できるなんて、わたしはこれまで夢想だにしなかった。」
東インドへ渡ってきた新参者たちがコミュニティを作って居住した場所は決して多くない。バタヴィア・バンドン・スラバヤ・スマラン・ヨグヤカルタ・スラカルタなどジャワ島の主要都市だけであり、その外側の世界はプリブミや他のアジア人で満ちていた。1880年の蘭領東インドの人口はプリブミ1,950万人、そしてヨーロッパ人は5万人程度しかいなかった。
ほんの一握りの白人が圧倒的多数の褐色のプリブミを支配し、白人は自分たちだけのソサエティを作って故国にあるものと変わらない文明生活を謳歌していた。だがそのソサエティの中では、すべての白人が同等のレベルでご主人様の役割に就いていたわけでは決してない。それは白人とプリブミの接点でのみ起こっていたことであり、白人社会の中では金や権力を持って上位に就く者とかれらに支配される下位の白人という二重構造が存在し、上司と部下あるいは閥や人脈といった社会ヒエラルキーの基盤をなす人間関係の中で大勢の白人たちが右往左往していたのも偽りの無い姿だった。

バタヴィアに設けられた軍人向け社交場コンコルディアと文民向け社交場ハルモニーの存在が、植民地支配者たちの華やかで享楽的な社交生活を示す象徴だったという見方は皮相的でしかない。コロニーの社交生活に加わるためにバーレンたちは社交界を訪れて自己紹介し、知り合った上位者がテニス好きならテニスをし、フォックストロットを踊るのが好きなら一緒にフロアーに降り、ブリッジを遊ぶのが好きなら同じテーブルに座り、社交場で語らうのが好きなら一日も欠かさずそこへ行って上位者が現れるのを待ちながら、談話テーブルに座ってビールを飲む。そのようにして社会的有力者の気に入られるように努め、自分の意見など持たずに上位者の意見を受け売りし、意見がよくわからなければ考えを洩らしてもらうよう会話を誘導し、自分に接近して取巻きにならないような者に対して上位者が向ける敵意や陥れるための策謀に加わり、そのようにして敵を作らずあるいは庇護者を作っておくことがコロニー生活での必須事項だった、というようなことをウィレム・ワルラーフェンは故国へ送った手紙の中に書いている。
そういうソサエティの中で語り伝えられたのが「ジャワ人は怠け者で嘘つきの詐欺師であり、ヨーロッパ人は優秀な人種である」「資本家は人類に偉大なる貢献をしている。資本家がいなければ、人間は食べていけない」といった言葉であり、コロニーの社会的有力者たちと意見を異にする新参者には「病んだ哲学者だ」とか「共産主義信奉者ではないか」という言葉が投げつけられて、ソサエティの中で疎外され排除される運命がかれを待ち受けていた。
ちなみに、バタヴィアのコンコルディアは1830年に作られ、1889年にワーテルロープレーンの新築の建物に入り、1960年代に取り壊されて現在はバンテン広場のインドネシア共和国大蔵省建物群の一部となっている。コンコルディアはバタヴィアのほか、バンドン・スラバヤ・マランにも作られた。ハルモニーはダンデルスが建設を命じ、1815年にラッフルズが建物の完成を祝した。1985年に大統領宮殿に西接する国家官房の駐車場を広げ、同時にその外側のマジャパヒッ通りの路幅を拡張するために、この歴史を誇る豪壮な建物も取り壊された。今ではその北側の大きな交差点に名前を残すのみとなっている。


当時のコロニーを覆っていた社会構造の中でニャイという制度が積極的に受け入れられていたことが、その現象の正当性を高める結果をもたらした。もともと奴隷女との間に発生したニャイ現象は、奴隷制度が廃止されたあとも形態的には似たようなものとして継続した。白人優位社会の中でプリブミが行なう貧困対策という内容の変化を伴って。
コロニー社会は、ニャイ制度が社会秩序を維持するための一対策であるという見解を持っていた。ひとりで生活するのと違い、女性との同棲によって毎日の生活パターンに規則正しさが宿り、飲酒や買春あるいは他の散財なども抑制的になるし、更に若い白人男性の性生活が円滑に行なわれることは、かれの精神の安定とポジティブな思考を生み出し、ヒステリアに陥ることを避け、社会倫理で悪行とされることを極少に抑えこむことができるというロジックがそのベースを支えていたのだ。
この内縁関係にあるプリブミ女性との同棲生活というのは、社会的な義務や責務から免れた自由を持っており、そのことで得られるメリットはたくさんあったし、加えてヨーロッパではほとんど得ることの難しい東インドの文化や言語、社会や地誌などの知識を歩く事典と別称されたニャイから得ることもできた。コロニーで一旗あげるために東インドにやってきた新参者たちにとって、そういった知識を得ることが、かれの経済面での活動にたいへん有意義な助力を与えることになったのは言うまでもあるまい。

ニャイを持つ習慣は、コロニーの中で決してマージナルなものではなかった。19世紀の最後の25年間にコロニーに移住したヨーロッパ人男性の半分以上がニャイとの同棲生活を送っていたと推測されている。その現象に追随しないヨーロッパ人に対してコロニー社会が向けた視線も差別的なものだった。ニャイをひとり養う金もないコロニー生活での失敗者、という色合いがその視線にまとわりついていたようだ。
類似の視線はプリブミ社会にもあり、新参ヨーロッパ人がやってくればニャイという一種の就職口が生まれ、ニャイの親族一同にとって経済生活が楽になるという意味合いがそこに込められていたから、ニャイを持とうとしないヨーロッパ人に対しては必然的に不審と不満の視線が向けられ、その新参者を取巻くプリブミたちはニャイを持つことをかれに積極的に奨めた。そういう観念がいったい何と同じかということは言うまでもないと思われるが、現代インドネシアにもまだ少女という年頃の娘に客を取らせて一家の経済生活を楽にしようとする貧困家庭が依然として存在し、少女は自分の身を投げうって親や家族に孝行を尽くすという信念で健気に自分の運命に立ち向かっているというストーリーが時おり新聞に掲載されている事実は、いったい何を意味しているのだろうか?

白人はご主人様であり、褐色の肌のプリブミはご主人様にお仕えするサーバントであるという図式は、ニャイという現象にも同じ枠組みを与えていた。ヨーロッパから東インドのコロニーにやってきたバーレンは、自分が住む家を整えているサーバントたちの中の気に入った女性をニャイに選ぶのが普通だった。通常は、少女のようなまだ若い娘が選ばれたが、奴隷制度がなくなったこの時代にそれを命令することは常識はずれであり、あくまでも依頼の形が採られた。コロニー社会でと同様にプリブミ社会でもニャイ制度がポジティブに受け入れられている状況下に、自分の目の前にシンデレラの靴が置かれた少女たちが、その依頼を拒む力を持っていただろうか。
もしもトアンの気に入った女サーバントがいなかったらどうするのか?トアンはサーバントたち、特に男性サーバント、に「チャリ プルンプアン!」という命令を発すればそれでよかった。東インドに住むプリブミのすべてが、白人トアンが発するその言葉の意味を十二分に理解していた、と記者で作家のアンリ・ボレルは東インドに関する当時の記事の中に書いている。命令を受けた男性サーバントは、トアンに好かれる要素を持っている自分の身内のこれぞと思う娘を優先的にトアンに紹介した。時にはそれが、自分の実の娘であったり、自分の姉妹であることすら起こった。男性サーバントたちが紹介する娘の中にトアンの気に入る者がなかなか現れないときには、トアンは仕事関係や交友関係にある仲間たちまで、紹介依頼の網を広げることすらあった。
ともあれ、トアンの気に入った娘が見つかれば、ニャイになる娘が一旦は女中奉公する形をとることもあったが、ストレートにニャイの地位を与えられて全サーバントを統率するようになることのほうが多かったようだ。つまり形の上ではサーバント頭なのだが、実体は女主人に近い。なにしろ、トアンが家にいないときには、かの女がトアンの代理を務めるのだから。戸棚や食糧庫の鍵はニャイが握ったし、トアンは家庭生活の費用管理をニャイに委ねることが多かった。自分がニャイであることを示すために、みずからのアピアランスさえ変化させた。それまで着ていた質素で地味な、あるいは派手な色使いの衣服は、刺繍の入った白いクバヤに取って代えられ、装身具も高価なものに変えられた。とは言っても、もちろんトアンの経済力に応じたものになるのが自然の成り行きだったのだが。女中であればはだしが普通でも、ニャイは家の中でもスリッパやサンダルなどの履物をはいた。そして白いハンカチを持ち、鍵束を身に着けてそれをジャラジャラ鳴らしながら行動していたのは、西祥郎ライブラリー内の『ニャイダシマ』に見られる通りだ。


コロニー社会の支配層にご愛顧のニャイ制度は、社会下層クラスのインド(欧亜混血)家庭にも影響を与えた。コロニーへ来た白人がアジア人女性を正式の妻にしたのがインドファミリーであり、そこへプリブミのニャイが関わっていける要素は少ないように思えるのだが、読者ははたして何をご想像になっただろうか?
もちろん、人間を雇うということがらが付随するのだから、それなりの富裕なファミリーが行なったのは明らかだが、雇われたプリブミ女性はだれと性的関係を結んだのだろうか?デュ・ペロン著「ふるさとの地」の一節にこんなシーンが描かれている。
・・・・次の年に、両親の友人のひとりがわたしの遊び友達を真剣に探してくれると言った。母は笑ってその言葉を了承した。ある日の昼に、美しいプリブミ娘が家に来た。その娘を送ってきたジャワの貴族階層の者はそのまま辞去し、使用人たちはその娘について、きっとその貴族の遠縁に連なる、よい家庭の出にちがいないと噂した。娘は家の裏手の建物に入り、「遊び友達を探してあげる」と約束した友人から母に宛てた手紙を差し出した。手紙を読んでから母がわたしに言った。「あのひとが言っていた遊び友達が来たようね。お前も見てみたいでしょう?」・・・・
インドのファミリーに生まれた混血の息子が女性のことをよく知るためにあてがわれた遊び相手がその娘であり、女性のことをよく知るということの中には言うまでもなく肉体関係が含まれていた。この種の男女関係は一時的なものという前提で始められたが、混血の息子とその両親の意向次第でそれが恒久的なものになるケースも稀ではなかった。

小説「ふるさとの地」の主人公のような欧亜混血男性にとって妻に持ちたいと憧れるのは純血西洋人の娘だったが、純血の西洋娘にとって肌の色が自分ほど白くない男性はそれ自体が社会ステータスの差を示すものであり、そういう男を自分の夫にしようと娘が決意するきっかけを世の中にどれだけ見出すことができたかということを考えるなら、男性の側の憧れはしょせん片想いになる傾向を避けるべくも無く、そういう男性がとりあえず人生の形を整えようとする場合は結局ニャイを持つことになった。一方、そのようなダブルスタンダードの中で生きることを嫌った混血青年は、白人コロニーの二級人種というステータスを最初から捨て去ってプリブミ女性を妻にし、プリブミ社会を自分の世界に選択する者も少なからず存在した。
ヨーロッパから移住した新参者たちがプリブミ女性と知り合う機会は、女中や日常生活で接触する周囲の人間からの紹介とは別に、新参者が頻繁に訪れる商店や食堂で働く女性たちもその対象になった。ウィレム・ワルラーフェンとイティの出会いもそのひとつだ。
そういう真剣な愛情に昇華されていくニャイとの交流もあったが、まるで売春婦のように扱われたニャイもある。地位と金を持つ富裕層白人の中に、女っぽくセクシーな若い娘を見つけるとどうしても自分のものにしたくなり、その娘を自分のニャイにしたいと使用人や友人知人を介して娘のファミリーに申し入れ、相応の金を娘のファミリーに渡し、準備万端整ったところで特定の日と時間に娘を自宅に来させるという扱いをした。1892年に出版されたダウム著「東インド人生の浮き沈み」の中でトアン トゥイッセルズがニャイにしたルイーザはその例のひとつだろう。

それどころか、そのプリブミ女性に夫があったとしても、夫の手から妻を買い取ることさえ行なわれた。父親や兄弟の手でニャイにされた娘がトアンから売春婦のように扱われたケースはもっと心痛むものだったにちがいない。村が不作になると、そういうケースが多発した。
ニャイという名前の裏側で、ご主人様である白人がプリブミ女性を売春婦扱いしたり、妻の目を盗んで名前通りの妾にするといったさまざまな逸脱行為が行なわれたのを否定することはできない。それらは明らかにニャイという制度が目指していたものとは異なっており、社会的には容認されないものだった。とはいえ、ニャイという現象が現代世界では容認されないものであるのだから、現代人の倫理観から言えば、それらのすべてが五十歩百歩だということになるかもしれないのだが。

そのようにして親兄弟が白人のトアンに売った少女たちが、トアンが与えてくれる毎月の給金の一部を割いて実家の経済を支えていた事実を、親孝行が依然として高い価値を持っていた当時の社会が率直に認めて賞賛したかどうかという点になると、明らかに異なる様相が表れている。
いきなりポット出の少女がサーバント頭の地位に置かれたとき、それまで実質的なサーバント頭として全体をまとめていたサーバントのひとりがそれをどう受け止めるかという問題は必ず生じるにちがいない。しかし、そういう職場内での問題とは別に、社会一般はニャイになった娘を尊敬できない人間として遇した。男性ムスリムはキリスト教徒とユダヤ教徒の女性を妻にできるが、女性ムスリムはムスリムの妻にしかなれないという宗教上の戒律が、親孝行の事実よりも優先されたのである。貧困に覆われたプリブミ社会の中で、高い経済ポジションを手に入れたニャイに対する妬みがそこに混じっていなかったと言えば嘘になるだろう。さらには、同胞であり仲間であるはずのプリブミのひとりが、自分たちを支配している白人の持ち物になって経済力をふるい、その境遇を謳歌している、という嫉妬と非難に満ちた見解によって裏切り者という烙印がかの女たちに捺されたのも、はなはだ身勝手な行為のように思われる。
自分で何ひとつ決めることができず、周囲の人間の操縦するままに流され、そうして置かれた立場をやりおおしながら家族のために尽くしているニャイたちに、プリブミ社会は蔑みの処遇を投げてよこしたのである。その不条理さは、日本で幕末期に起こったラシャメンと呼ばれる女性たちに日本社会が向けたものと大差ないようにわたしには思える。


< ニャイの人物像 >
では、ニャイになった女性たちとは、どんなひとたちだったのだろうか?かの女たちの具体的な人生履歴はほとんど残されていない。元来が口承文化の民であったがために、一般庶民が書きものをすること自体が稀だったという要因があり、さらに社会的な蔑みの対象だったニャイの経験を積極的に物語ろうとする女性の出現も期待薄であるがために、五里霧中になるのはしごく当然のことだったにちがいない。

当時の社会情勢を見る限り、ニャイになったのはジャワ島の貧困家庭出身の娘たちがマジョリティを占めていたと考えられる。少しでも経済生活を向上させようとして都市周辺部に移り住んだ農民家庭の息子や娘たちが、ヨーロッパ人の家庭プンバントゥになって収入を得ようとした。だから娘がニャイになったり、息子が自分の姉妹や従姉妹をニャイとして勧めるようなことが行なわれたのである。
白人トアンが女中のひとりに「ニャイになってくれ」と誘ったとき、かの女に選択の余地は残されていなかったに違いない。支配者である白人に反抗することのリスク、雇い主であるトアンに反抗することのリスク、そしてそれを受ければ経済面で大きなメリットを享受することができるというシンデレラの靴。女性はあらゆることがらを自分で決めることが許されず、父親や兄弟が決めることに無条件で服従し、結婚相手すら父親の選択に委ねられていた当時の倫理にしたがって、娘はトアンへの返事を父親に委ね、大金がもらえるならそれを拒む父親はまずいないという形で交渉が合意され、こうしてニャイがひとり誕生した。その女性が既に人妻になっていた場合でさえ、結婚するときに父親から娘の身柄の全権を譲られた夫が、妻をトアンに売り渡すこともよく起こった。未婚のときは父親、既婚であれば夫に完全服従するのが女性の正しいあり方だったのだから。

ウイレム・ワルラーフェンはそういう女性のあり方に対して「人生を質に取られた」とか「半分奴隷」といった言葉を使った。家族の中でのイティのポジションやかの女の労働に関して周囲の人間が示している観念に、かれは義憤を覚えたのにちがいない。
娘がニャイになった家族は、往々にして相矛盾する姿勢を示した。トアンの内縁の妻になるのはほぼ百パーセント経済的動機に発しており、女中がニャイに昇格すれば定期収入が確保され、たいていはそれまでの女中の給金から比べ物にならないほど大幅な金額のアップが起こった。その高収入で実家の生計を助け、あるいは生計のすべてを一手に引き受けるケースも稀ではなかった。
一方、プリブミ社会は妾になることを社会的な恥と位置付けてきた。ニャイになることは、セックスを金と引き換える売春婦と変わらない行為だという断罪が世の中に流通し、加えて宗教が禁じている「異教徒の妾になっている」という非難が付け加えられてニャイは社会蔑視の対象となり、かの女たちはプリブミ社会から身を引いた形で日々の暮らしを営まざるをえなかった。


しかし、プリブミの娘たちだけがニャイになったのではない。華人の娘がニャイになったケースもあるし、さらには日本人女性がひかされて白人のニャイになることもあった。東インドの花柳界に流れてきた日本女性が白人トアンを旦那に持ち、ひかれて旦那の妾になるというのは当時の日本にあったパターンそのものであり、日本人富豪と白人が入れ替わっただけのことで、何ら不思議なものではない。
ヨーロッパ社会にはその当時から日本女性の控えめと献身の美徳が喧伝されていたようで、コロニーのヨーロッパ人上流層には日本人のニャイを持つことに大きな憧れを抱く者が多かったらしい。自己の権利を主張し、夫と妻が対等に相手に尽くすよう求めるヨーロッパ女性に対して、アジアの女性は基本的に男に対して控えめと献身をよしとする類似の価値観の中に住み、日本女性もプリブミ女性も華人娘もトアンに対する基本姿勢は似たようなものだったが、どうやらゲイシャの伝統文化を持つ国から来た女性がその中でチャンピオンに選ばれていたようだ。セケリールロフスは小説「ゴム」の中で、登場人物の菊さんを通して彼女たちを絶賛している。
・・・・かの女はまるでガラスの人形のようだ。キモノの中で常に清潔に輝いている。長い髪は三つに結い上げられて、乱れを見せない。・・・・かの女は理想的な女性なのだ。敬意に満ち、従順で、何事もすぐに対応する。かの女が目的にしているのはただひとつ、自分の殿御自身と殿御に関わるあらゆるものごとを愛情をこめて世話すること。西洋人には決して理解できないことがらだ。・・・
日本の水で産湯を使った女性だけでなく、東インドで生まれた娘の中にもニャイになった者がいる。それは華人娘と似たようなケースで、たいていは一世代以上前に東インドに移住し、商店主になってビジネスの繁栄に努めている家庭の現地生まれの娘がヨーロッパ人のニャイになるというものだ。もちろん日系の場合は二世の娘がほとんどで、華人の場合とは歴史の永さが異なっている。
プリブミのニャイとは違って、華人や日人がニャイになるケースは親のビジネス関係の強化が目的だったようだ。19世紀に茶農園事業で盛名をはせたエデュアルド・ケルクホーフェンのニャイになったのはコメ商人華人の娘だった。

東インドの娼館経営者が日本人女性を「輸入」するということも行なわれた。娼婦として、あるいは期間を定めた契約妻として、かの女は貸し出し商品にされ、そして最終的に、ニャイと呼ばれる白人や華人の妾になった。東インド協会の議事録の中に、日本人女性「輸入」に関する記述があり、決議事項として「娼館で働かせるか、あるいは期限付きで貸し出すために日本人女性を輸入する件。ひとりの男性に一年間貸し出す場合の料金は200フルデンで、居住地はどこでも同じ料金」と書かれている。
このように、元々のニャイの意味合いから外れてしまっているような形のものまでがニャイとして東インドコロニーの中で行なわれていたことを見るにつけわれわれは、ニャイという制度がいかにこの地の慣習の中に深く染み込んでいたかということを実感することになるのである。


プリブミのニャイと白人トアンが最初から相思相愛関係で内縁の夫婦関係に入るというのは、ほとんど考えられないことだ。だが、何万件もの内縁関係が生まれたのだから、そんな夢のような話が起こった可能性もなくはない。ワルラーフェンとイティの関係にしても、その関係が続いていく中でワルラーフェンがイティを正式な妻にしたのだが、かれのイティに対する誠実さや責任感とイティの感受性が本当に固く組み合わさったのかどうか?
ほとんどのケースで、ニャイとトアンのふたりの間の文化の違いは大きな壁となって立ちはだかっている。ニャイたちにとって、ニャイとしての暮らしは経済的な実用性をもっぱらにするものであり、女中としての、あるいは無職での暮らしよりはるかに心愉しいものだったにちがいない。もちろんトアンの自分に対する扱いがそれなりに満足のできるものというのが前提になるのは間違いないとしても、そのレベルを超えてトアンの愛情といった精神的な絆をニャイが求めるような関係になることはなかった。そのあり方が、今度は白人トアンにないものねだりを起こさせたケースも現れている。

ニャイが自分の日々の暮らしの世話をし、家庭内を整然と整え、夜はベッドの友となってセックスの欲望を満たしてくれる。ところが心が通わない。何を命じても従順に従ってくれるのだが、まるで人形と暮らしているようだ、という空疎な思いがトアンの内面に広がるのである。あれほど憧れていた日本人芸者のニャイを持つことができたのはよかったが、ニャイとの間に二語以上の会話が成立しないことがトアンをフラストレーションに駆り立てるのだった。元々のニャイという現象の意味合いが当座の実用面でのメリットを享受することに終始しているのだから、人生の究極のベターハーフをそこに求めることは最初から度外視されているのであって、それが無いものねだりになるのは免れない。

もうひとつトアンの側に生じたアンビヴァレンツは、ニャイ制度が公式に認められていて、それを実践するのに何もやましいところはないという面が存在する一方で、自分とニャイがカップルを形成しているということを白人コミュニティの中であけすけに示すのは憚られる気分が存在していたことだ。ニャイの存在は白人女性を正式な妻にするまでの暫定的なものでしかなく、だからこそ、そのときが来ればいつでも縁を切り、自宅から立ち去らせることのできる関係という比類ない便利さと自由さを持つものなのである。それを裏返せば、そんな立場のニャイにとってトアンとの愛情という精神的関係が常に不信で満たされていたのも無理はない。
だからトアンが自分のニャイに対して持つ精神的な紐帯がどうなっていようと、トアンがニャイと一緒に外を出歩くようなことはなく、ニャイは終日家の中にいて、客の訪問があればそこに同席しないで奥に入って女中のように隠れなければならず、客に飲み物を供するときにだけ姿を表すことが許された。つまり、あってかまわないが世間には隠しておくべきものであり、その存在をあからさまに示すべきではない、というのがコロニーの白人社会におけるニャイの位置付けだった。


1848年に、東インドでキリスト教徒と非キリスト教徒の婚姻が許可された。その最初の実践例として、白人キリスト教徒男性とプリブミ非キリスト教徒女性の婚姻が1849年に行なわれたものの、以後その解禁を利用しようとする者はめったに現れなかった。さまざまな力関係の交錯する社会原理の中で、正式で合法的な妻になったとはいえプリブミ女性が文化の壁を乗り越えて白人コミュニティに加わることができたかどうかという疑問にポジティブな答え言える者はいないだろう。それどころか、そのようなことを行なう夫のほうにさえ、強い社会的差別が向けられたのである。
そのような行為は当時のコロニー社会が原理として持っていた白人優位思想をなしくずしにしていくものであり、原理が維持されることを望むひとびとがそのようなことの拡大を喜ぶはずがない。コロニーの倫理構造を破壊するものへの制裁はそのような人間に対する社会的排除であり、こうして夫のコロニーにおける経済活動の機会は閉ざされてしまう。かれは白人コミュニティの中で生きていけなくなり、コミュニティの外側に身を置き、コミュニティのようなものがほとんど存在しない地方部にチャンスを求めるしかできることはなかった。

精神的なつながりのない同棲生活、あるいは文化の差、もっと言えば文明レベルの差を持つ人間との同棲生活、そういったネガティブな側面が白人トアンの花嫁探しを促すことになった。花嫁は言うまでも無く純血白人女性が第一候補であり、その憧れがどうしても満たせない場合にコミュニティに十分受け入れられている欧亜混血家庭の娘が次の候補者になった。こうして、ある期間を経て東インドでのビジネス基盤を構築するのに成功した白人トアンたちが、長期休暇を取って続々とヨーロッパに帰って行ったのである。しかしそんな余裕の無いトアンたちもいた。かれらは故国のファミリーや友人知人たちに頼んで花嫁探しを行い、それを受けてくれる女性が見つかったとき、「手袋結婚」と呼ばれるものが行なわれた。
手袋結婚というのは中世にヨーロッパで行なわれていた代理結婚のことで、本当の花婿が代理を務める男性に手袋を渡して自分の分身扱いにしたということに由来している。というのは、まともな家庭の未婚女性が長い旅に出るのは妥当なものでないという考えがヨーロッパですら一般的であった時代、旅立つときには女性のステータスを変えておくのが当時の常識になっていた。こうして今度は手袋結婚花嫁が続々と東インドにやってくるようになる。付添い人が一緒に船に乗るケースもあれば、花嫁が○○夫人としてひとりで船に乗るケースもある。だが○○夫人がまだ処女の手袋花嫁であることは、見る者が見ればすぐにわかる。こうして、かの女たちをからめ取ろうとする男たちの誘惑のくもの糸が船内にはり巡らされ、航海中に恋のアバンチュールが撒き散らされることになった。東インド関連文学の中に、この種のエピソードは数多く出現している。

ともあれ、手袋花嫁がタンジュンプリウッ港に到着したとき、手袋の主はその家からニャイを立ち去らせていなければならないのである。ニャイが何年間その家で過ごそうとも、ニャイがいた痕跡の一切を含めて、手袋花嫁にその事実を知らせる必要などないのだ。
ニャイが心身のすべてをすり減らして勤めたその家から追われるとき、かの女ははじめてそこへやってきたときと同様、手ぶらで去っていくのが普通の形だった。その別れに際して、何か持たせてやろうというトアンの善意だけが、ニャイの救いになった。ニャイは何ひとつ要求する権利が与えられていないのである。それは1848年編纂の民法典第40条と第354条に規定されている。
かの女が産んだ子供についても、母親としての権利が一切与えられなかった。トアンが死亡したときですら、トアンとの間にできた子供の後見人にさえなれなかった。ニャイにとっては、他人がわが子を養育するために自分の腹を痛めたというだけのことだったのである。
異文化人のトアンにその子供を産んであげただけのこと、と自分の出産を見なすことのできる女性がいないわけでないことは、現代インドネシアでその実例を目にしているわたしには理解できる。自分の文化が持っている価値観をできるかぎりわが子に向けようとしないで接している、外国人と結婚したインドネシア女性にわたしはとても大きな違和感を感じた。それはまるでベビーシッターが幼児に対して採る接し方であり、その母子関係には精神的な一体感が欠如しているように見えた。あたかも自分の分身のように母親がわが子に対して抱くはずの所有感覚が希薄であり、そういうことができるその女性にわたしは驚いてしまった。
見方を変えるなら、その善し悪しは別にして、ほとんどの母親はわが子を自分の所有物として扱っているということが言えると思う。そうせよと教えられたわけでもなく、本能的にわが子に接しているそのあり方とそこにまつわっている感情的なものは、たとえ法律で単に腹を貸しているだけだと定められても、ほとんどのニャイにとっては簡単に処理しきれない精神的なしこりを残したにちがいない。レギー・バアイ氏の父親の回想が余すところなくそれを伝えているとわたしは思う。


個人的なレベルは別にして、ヨーロッパにはありえない東インドのコロニーにおけるニャイという社会現象は、当時のヨーロッパ人にとって報道記事や文学の素材とするのに格好なものだったようだ。現地で言い習わされていた風聞を、われわれはさまざまな東インド関連文学作品の中に見出すことができる。1903年に発表されたアウフスタ・デ・ヴィット著の小説「女神が待っている」の中でファン・ヘームスベルヘン検事補のニャイになったナイラの姿を、かれは次のように描いている。
・・・・ニャイは家の中にいるのかいないのかわからない。どこにいるのか、姿が見えないのだ。石造りの床の上を、はだしで音もなく動く。検事補もかの女の声や息遣いさえ耳にしない。しかしかの女がいるのは、家の中がよく掃除され、整頓されていることからわかる。決まった時間になると、食卓の上においしい料理が用意されており、冷蔵庫から取り出されたばかりのよく冷えた瓶入りジュースが置かれているし、出勤時間になれば着替えの服が並べて広げられている。・・・・しかし検事補はニャイの姿を見なければ、声も聞かない。検事補がかの女を呼んだとき以外は。すると、知らぬ間にかの女は検事補の前までやってきて、うつむいたまま命令を待っている。検事補が何を命じようが、かの女の返事は常にひとつだけ。小さい声で「ヤー トアン」と言うだけだ。・・・・

当時のオランダ人が著作の中で描いたプリブミのニャイの姿は、不道徳さに対する倫理的な嫌悪感と人種差別を根底に据えたエキゾチシズムの混ぜ合わさった、きわめてネガティブなものが大半だった。プリブミ女は愚かであるにもかかわらず狡猾で、しかも計算高い。外見的にはむしろ猿人を思わせるような醜さで、魅力など爪の先ほども感じさせないというのに、男を誘惑することに長じ、しかも危険な関係の中に相手を落としこんで行く。誠実さなどはかけらも持っておらず、悪賢く、怨恨深く、命まで狙う。知性に欠け、文明がもたらす礼節をわきまえず、粗野で洗練されておらず、精神の成長はポジティブさが微少でほとんどがネガティブなもので占められている。妾が欲しいのであれば、ジャワの女を妾にするよりも日本の女のほうがはるかにマシだ。なぜならジャワの女は精神的な成長のレベルがあまりにも低く、ヨーロッパの男がかれらから慰安を得ることなどできないのだ。日本の女なら、まだボードゲームやカードゲームを一緒に遊ぶことができる。
そんな論評とは別に、ジャワの女が美しく魅力的な姿や顔立ちをしているという描写もある。男を誘惑することに長けていると言うのなら、こちらのほうが説得力があるだろう。小説「グヌンジャティ」の中で作者のキャリー・ファン・ブリュッヘンは、ジャワ女の嫉妬深さを強調する。
・・・・しかしジャワ女は嫉妬深く、かの女と関係を結んだヨーロッパの男は、かの女から離れられなくなってしまう。女は美しくてナイーブであり、男はそんな女に恍惚となり、ついには身を滅ぼしてしまう。女はしばしば男に反抗するため、男はついつい暴力をふるう破目になる。ところが、そのいざこざが終わるや、男はそれまでよりもっと深く女にのめりこんでいく。アブノーマルで、しかしエキゾチックな官能の毒が男の自制心を奪い、興奮をあおる。男は不安にさいなまれるようになり、自己を制御できなくなり、ついには倫理の崩壊に進んでいく。・・・・

1900年の作品「オランダ領東インドの生活」の中で、バンドン出身のふたりのニャイの外見的な美しさを記したバス・フェットは当時の作家たちの中で稀有な存在だったにちがいない。
・・・・プリブミ女性がふたり、ベンチに座っている。ふたりのいでたちは周囲のひとびとから浮き上がって見えた。艶のある黒髪は整然とくしけずられ、独特の形に結われている。その大きなまげは濃密な黒髪が形作っているのが明らかで、まげを解けば長い豊かな黒髪が美しく流れ落ちるだろうことを想像させた。きっと今夜マンディするときのように。・・・・まげの左右に花を挿し、その中間にダイヤモンドを散りばめたかんざしが刺されて輝きを放っている。ふたりは紫色の艶のある長い絹の上衣を身に着け、下はバティックのサルン姿。爪のある繊細な手のように見える美しい小さな足は手入れが行き届き、ヒールが金色に塗られているサンダルの脇に置かれて、次に歩き出すまでの間、床面を踏んでいる。褐色の肌を輝かせようとして、かの女たちはひっきりなしに顔に白粉を塗る。赤い唇と歯茎の間にある雪のように白い歯と一緒になって、黒い瞳は光芒を放っている。・・・・・

ニャイをヨーロッパ人正妻を得るまでの暫定的なものと位置づけ、家庭内に限定してその機能を正妻に代替させて取扱ったトアンたちではあるが、プリブミ女性をニャイにしたとたん、かの女たちはヨーロッパ人正妻が身に着ける衣服や履物を同じように着るように努めた。トアンたちはそれを、のぼせあがった振舞いと見た。
・・・・プリブミ女中は白いクバヤを着るのが普通であり、それがかの女たちのステータスをあからさまに示していたが、ニャイになってステータスがアップしたかの女たちは豊かな色のクバヤを身に着け、世間から陰口を叩かれる破目になった。おまけに平べったい足は刺繍の入ったスリッパの中に押し込まれた。屋敷内をスリッパ姿で歩く図はあひるの行進を思い出させた。・・・・

しかし当時の文芸作品の中では、愚かであって且つ狡猾(聡明な頭脳の良さではない)で、しかも損得勘定の激しい女性像がニャイに貼り付けられることの方が多かった。ダウムの作品「第11番」の描写はこうだ。
・・・・裏のテラスの縁台で、トアンはニャイの傍らに座っている。ニャイはトアンの胸に頭をあずけ、トアンはニャイを愛撫しながら女中部屋のひとつを眺めていた。ニャイの母親がそこにいるのだ。母親は外のテーブルに置かれている艶のある白と青の陶器皿を指差し、疑問に満ちたまなざしを娘に投げている。ニャイは即座にうなずいてそれに応じた。とても優しいトアンだから、下げ渡してくれるに決まっている。ニャイの頭は回転していた。もっと他に持ち帰れるものはないだろうか? 「アティのものね!」ニャイの柔らかいささやき声、大きな黒い瞳はトアンを見つめ、メランコリックなムラユの流行歌の一節がその口からもれた。トアンに捨てられて川に身を投げた女のストーリーを歌ったものだ。続いてその目は、美しく編み上げられた鉄製の鳥かごの中にいるカナリアに向けられた。トアンは、それが資産リストに入っていたかどうかの記憶を呼び戻そうとした。あれはリストに書かれていなかったようだ。だからそれも、アティが家に持ち帰ることになるだろう。・・・・・

たとえ女中より待遇が良くとも、トアンが正妻を迎えようと決意すれば、ニャイはいつでもその家から追い出される。プリブミ社会の中でも虐げられてきた女性たちはどんな過酷な待遇を受けようとも従容としてそれを受け入れてきたわけだが、そのような姿勢のゆえに、自己主張を持たず、闘う努力を知らず、敗北主義者で、悲しくないとき以外は感情を示さず、理不尽に追い出されようとも感情的な反応を少しも示さないというニャイのイメージが作り上げられた。セケリールロフスの小説「ゴム」に登場したのは日本女性だったが、ヨーロッパ人の目から見れば似たようなものだったにちがいない。
・・・・「わたしは菊さんを妻にするよ。」
菊さんは目を落としてうつむいたまま、一層身体を縮めた。仮面をかぶったような表情はそのままで、その下にある感情を透視することはできない。ただ、目の中に宿っていた疑問の影はすでに消えた。その両肩は、諦めと期待をにじませている。
「菊さん、わたしはあなたのために2千フルデンを銀行に入れた。」菊さんはお辞儀をして、「ありがとう」とささやいた。
「これが証拠だ。」かれが渡した一枚の紙を受け取ると、菊さんはそれを折畳んだ。まるで特別なことなど何もなかったかのような菊さんの態度に、かれの感情は傷ついた。・・・・

ところが、そのような現実が存在している一方で、まるで異なる人間観を持つ文化の中に育ったひとびとの目には、そんなことはありえるはずがない、というようにその光景が映ったに違いない。目に見えているのは、見せかけのまやかしなのだ。
妻の代理を務めさせられていたのに、ある日突然その地位から追い出される。そんなことをされたら、恨みに思わないわけがない。もともと嫉妬深いかれらは、恨みと憎しみを晴らすために、自分をそんな目にあわせた者の命を狙ってくる。呪いや魔法を使い、もっと確実にするなら毒薬を。
「ピルNo.11」という言葉が何を意味しているか、コロニーに住む者の中にそれを知らない者はいなかった。毒薬のことだ。ダウムはそれを小説のタイトルに使った。小説に書かれたエピソードは、ジョージ・フェルメイのニャイだったイプス・ネスナジがその座を正妻になるレナ・ブルースのために追われ、まるで足拭きのぼろ布のように投げ捨てられた自分への待遇を恨み、その原因となったレナを殺害するというものだ。そしてトアンのフェルメイは、このような事件の真相はビジネスの障害になるだけだとして、その事件をもみ消してしまう。「かの女はピルNo.11を呑んだのだ」ということにして。

他の作家の作品にも、嫉妬深く、執念深い、熱帯の地に住む女たちを描いたものがある。
もし女(ニャイ)が男(トアン)にその独特のスタイルの愛に彩られた関係を結ぼうとしたなら、そのヨーロッパ人の男に忠告してやるほうがよい。別の女を探せ、と。なぜなら、それらの女たちはたいへん嫉妬深く、そして複雑なのである。だから、そんな状況に陥ったとき、かの女たちは困難ばかりか、危険をももたらしてくる。
・・・・もしわたしが男の心を自分のものにできなくなったなら、男の心を得ることのできるヨーロッパの女がいることなど許しておけない。男と一緒に暮らすようになったヨーロッパの女は、(呪いや毒薬で)じっくりと滅ぼしてやるのだ。・・・・

観念論者は、多種多様な人間が繰り広げている世相を単一色で塗りつぶしてしまう。おまけに、かろうじて可能性だけが認められうる観念的な推論を、あたかも真実・事実のように描き出し、それを世間大衆に説いていく。そんな虚偽と欺瞞に呑まれた世間大衆は、それだけを真実として握り締め、当の人間たちが繰り広げている現実には目もくれないで、閉塞的な脳みそが作り上げた虚像をベースに、自分の振舞い方を決めていくのである。


このニャイという制度を男と女の間の関係からのみ見るのでは不十分だ。男と女の性行為は子供を産み出すものなのだから。コロニーでは、ニャイ制度の中で産まれた混血の子供をフォルキンデーレン(voorkinderen)と呼んだ。つまり、ヨーロッパ人正妻を持つ前に生まれた子供という意味だ。コロニーでは1828年以来、ヨーロッパ人男性が内縁の妻に産ませた子供を実子として認知することが認められるようになった。そこまでしなくとも、子供の父親がだれかということを公的に示すために出生届を出すという手段もあった。ただし出生届を出すことは、父親に子供の扶養義務が発生することを意味している。ともあれ、個人の名前を反対に綴っていくというコロニー独特の風習は、どうやらこの出生届が引き起こしたもののようだ。たとえばPieterseはEsreteip、RiemesdijkはKjidsemeir、JansenはNesnajといったもので、届け出られた子供はその逆綴りの姓が自分の姓になった。だから、19世紀後半に奇妙な姓の人物が東インドに輩出したが、その者がだれの血筋だったのかということは調べればすぐにわかった。
他にも、コロニーで地位と権力を持つ者は金持ちと相場が決まっているのだが、そういう権勢を持つ者がニャイに産ませた子供を自分の部下に育てさせるということもあった。産まれた赤児を部下の夫婦に渡して、公的手続き一切をその部下夫婦が産んだ形にしてしまう。これにはもちろん小さくない金額の金がからんだようだが、実の父親がその子に目をかけ、社会的な地位の階段をとんとん拍子に出世していけば、その子の形式上の両親にとっても悪くない話になるに決まっている。
1848年にコロニーで、キリスト教徒と非キリスト教徒の結婚が許可されるようになったとはいえ、フォルキンデーレンにとっての福音にはならなかった。ヨーロッパ人トアンとアジア人のニャイが結婚できる法的な道が開かれはしたが、人種差別がそれを茨の道に変え、ヨーロッパ人トアンが自分の所属するコミュニティから排斥されるだけという結末を生んだことは先に述べた。ウィレム・ワルラーフェンはバニュワギでヨーロッパ人コミュニティから排斥され、自分で事業を始めたがうまく行かず、妻の一族との親交に傾いたものの、かれの抱いていた文明的価値観との齟齬対立を振り払うことができず、わが子たちとの間にさえそんな齟齬対立が生まれた挙句、失意の中で世を去って行ったのは、悲劇以外のなにものでもないだろうとわたしは思う。

1892年にオランダ国籍法が東インドで施行され、オランダ人男性がニャイとの間に作った子供は、父親が認知すればオランダ国籍が与えられることが法的に確定された。
1898年には東インドで混交結婚スキームが施行されるようになり、ヨーロッパ人男性と結婚したプリブミ女性は自動的にヨーロッパ人としてのステータスが与えられることになった。反対に、ヨーロッパ人女性がプリブミ男性と結婚すれば、女性は夫のステータスに従わなければならない。その原理は夫婦が産んだ子供たちにも適用された。
データによれば、東インドでのヨーロッパ人とアジア人の混交結婚は1886年から1897年ごろまで年間87件で、1896年は109件が記録されているそうだ。1900年代前半にはニャイ制度への批判が燃え上がり、ニャイを妻にして関係を継続するか、あるいは関係を絶つかの二者択一に迫られたヨーロッパ人男性たちがそのいずれかを選択した結果、コロニー内の混交結婚夫婦は大幅に増加した。
ヨーロッパ人女性とプリブミ男性の結婚もその後増加するようになり、1900年代に入ると混交結婚数の一割くらいがそのパターンを占め、1925年には三割がそうであったと記録されている。1848年から1940年までの間に行なわれた混交結婚は1万9千件に上っている。更に、ヨーロッパ人トアンがニャイとの間に設けた子供を認知した件数は5万5千件あり、妻にしてもらえず、子供まで奪われたニャイが大勢いたことがそこから推測できる。
一方、妊娠していたニャイをトアンが去らせたケースでは、ニャイがカンプンで産んだ混血児に対するトアンの意識はほとんどないのが普通であり、父親が認知しなかった子供も含めてその数は厖大なものになっていたことが推測される。それが社会秩序を蝕んでいく汚点となることを懸念する声も1900年前後から強まりはじめ、ニャイ制度擁護派でさえ「自分の子供に責任を持て!」と呼びかける論調が新聞などに盛んに掲載されるようになった。
東インド評議会も1901年2月にこの問題を討議した。当然ながらそこでは、倫理問題よりも治安への潜在的脅威というとらえ方が先行したものの、状況の認識という点で間違っていたわけでは決してない。ヨーロッパ人コミュニティから打ち捨てられた子供たちは、母親の一族の保護は得たものの、プリブミ社会からも見下され除け者にされた。かといって、かれらが生きていくための場はジャワのプリブミ社会しかないわけで、父親に認知されて支配層に入った子供たちとの運命的な差別をプリブミ文化とその価値観およびプリブミの生き方を身に着けたかれらが恨み、単なるプリブミ被支配層が抱く憎しみに倍する憎悪をコロニー社会に向けることは十分に想像できるものだ。それを統治者が脅威と感じたのは言うまでもあるまい。
20世紀に入ってから、東インドのコロニーはそれまで持っていた開拓者の気風を急速に失って行った。最大の変化は、男の世界だったコロニーが1900年を過ぎてから、女性の数が増加して男女数が均衡してきたことが挙げられる。ヨーロッパから東インドにやってくる女性の数が増えたこと、そして東インドで生まれた子供たちがコロニーに受け入れられるようになったことがその大きな要因だった。コロニーでの暮らしを快適なものにするために、コロニー内の諸機能は女性が受け入れることのできるものに変化していった。また農園産業や関連産業の発展に伴って、求められる人材のクオリティも高まって行った。教育レベルの高い人材が集まってくるようになれば、おのずと人件費も上昇していく。かれらは生活のめどが立てばすぐにヨーロッパ人女性を妻にした。


20世紀に入ってほどなく、世界の景気はオランダ領東インドに好況の風を送り込んだ。それはヨーロッパ資本を東インドに招きよせただけでなく、アメリカからも巨大な資本が流入してくることになった。1909年には、一年間で175もの新規会社の設立が行なわれ、諸分野の専門家が続々とやってきて、知識層が大きく膨れ上がった。
アジアのコロニーにやってきたかれらは、自分たちの生活の場が欧米と同じような文明に覆われている暮らしを提供するよう望んだ。必然的に、ヨーロッパ人の日常生活の中に混じっているプリブミの存在は、その姿を隠さねばならない方向に傾いて行く。19世紀後半からすでに、ヨーロッパ人上層階級は各都市の特定地域に建てられたヴィラの集まる住宅地区に住んで白人居住区を作っていたが、20世紀に入るとそれらの地区がもっと広い領域に拡大したり、あるいはもっと広範なエリアに新規に白人居住区が作られたりするようになった。バタヴィアのメンテン地区、スマランのチャンディバル地区、スラバヤのダルモ地区などがそれだ。それらの白人居住区では、欧米の文明に従った生活が営まれ、かれらにサービスする必要最小限のプリブミがそこに関わるだけとなった。プリブミと交じり合った生活をしているヨーロッパ人にとって、その変化が何を意味していたかは明らかだろう。

コロニー暮らしをひしひしと感じされるさまざまな生活習慣は、白人居住区から姿を消した。ヨーロッパ人ニョニャがサロンとクバヤを着ることもなくなり、ヨーロッパ人男性が身体を包み込むジャケットを着ることもなくなり、その居住区はヨーロッパ最新流行の色とりどりのファッションであふれ、夕方になると夜を迎える気分を煽るために苦味を利かせたパイチェと呼ばれる飲み物をベランダで飲む習慣も消え失せた。社交場に一晩中詰めることもしなくなり、代わって映画館・劇場・レストラン・水泳プール・テニスコートなどに白人が集まるようになった。
1915年ごろから、ヨーロッパ人がプリブミと接触するのは家で雇っている使用人だけになり、男性はそれ以外に職場で最下級レベルの職員と接触することがあるかないかといった形が社会生活のスタンダードとされるようになった。
第一次大戦後、その気風はプリブミの生活領域をほとんど隔離してしまうアパルトヘイトの方向に向かって強まった。南アフリカのように法律を作ったり顕示的姿勢で行なわれたわけでないとはいえ、その気風は着実に東インドを覆って行った。映画館・劇場・テニスコート・水泳プールなどはヨーロッパ人専用となり、プリブミの入場は、そこで働いている者以外、シャットアウトされた。ヨーロッパ人専用とされなかった施設であっても、ヨーロッパ人用のエリアとプリブミ用のエリアは分離されるのが普通だった。「Verboden voor honden en inlander」という貼紙が掲げられたのもその時代だ。
この人種差別は、雇用にも持ち込まれた。上級職種や職位は純血ヨーロッパ人に与えられるのが常で、20世紀に入ってからはそれまで欧亜混血児に与えられていた下級職位に学校教育を受けたプリブミが使われるように変わった。その変化は、欧亜混血児を疎外した。


差別が激しさを増すコロニーでニャイ制度は、倫理に外れた、放置できないものという見方が強さを増した。もともと倫理的な見地からニャイ制度を批判する声は一部勢力が出していたが、20世紀に入ってからその声が激しくなったということになる。第一次大戦が終わったころには、ニャイとそのトアンのヨーロッパ人男性は、ヨーロッパ人コミュニティに望ましくない人間という烙印が捺されるようになった。「若いヨーロッパ人やコロニー新参者はニャイを持て」というこの制度の支持者はますます口をつむぐようになっていき、植民地政庁も政庁職員がニャイを持つことを禁止しようとしたし、かつては下級職員の結婚を禁止していた企業も、その禁令を取消すところが増加した。
そういう世間の声を的確に捉えてニャイの風習を政庁職員からなくさせようとしたのが、改革派の第65代総督イデンブルクだった。かれはついにその倫理に外れた行為を強く非難し、そのようなことをしている職員はもはや捨て置くことができない、と公式表明を出した。コロニーのトップが宣戦布告した以上、内縁の妻をいつまでも抱えて置くことはできない。粛清の矢が直接向けられたのは政庁職員だったとはいえ、コロニー全体がそういう雰囲気に呑まれてしまった以上、民間人であってもそれに配慮しないわけにはいかない。こうして1925年には、ヨーロッパ人の夫とプリブミもしくは欧亜混血の妻という夫婦が、コロニーの中で27.5%にまで増加した。
コロニーの中でニャイ制度への批判が沸騰している一方、コロニーに職場を得て新たにやってくる知識層の多くが、妻を伴って赴任してきた。手袋結婚のケースも中にはあったようだが。
新しいニャイの需要は影をひそめ、おまけに既存のニャイまでが消滅を迫られたことから、東インドのコロニーに長い歴史を培ってきたニャイ制度はついに末路をたどることになった。人種差別が強まる中でのニャイ制度の絶滅というのは、実に皮肉な歴史の展開であるように思える。

さて、一般にニャイ制度というものをコロニーの市民社会の中で起こったことがらとわれわれはつい見なしてしまうのだが、レギー・バアイ氏は見逃されがちなもうひとつの面を提示してくれた。軍隊の中にも、ニャイの風習が存在したのである。兵舎の中にニャイが兵隊たちと一緒に住んでいた事実は、われわれを更に驚きの世界に導いてくれるものだ。当時書かれた文章がその実態をあからさまに示してくれるだろう。


< 兵舎のニャイ >
・・・兵舎内のひとつの房には、時に百人もの兵士がそれぞれのベッドで仕切りもカーテンもなしに眠る。ところがそのベッドで、妻あるいは女中と一緒に寝る者がいる。その男女は大勢の他の男たちの目の前で、睦み合い、性交するのだ。・・・・・まるで牛か馬か犬か猫か、そんな獣の一種でなければ大自然の野生に棲むコンゴのネグロか、奥地のホッテントットか、そういう人間であるかのように。・・・・
ロールダ・ファン・エイジンガが怒りをこめて書き残した、かれが実際に目にした東インド植民地正規軍のありさまがそれだった。

VOC時代から明らかだったように、東インドを支配して豊かな物産と資源をわがものにするために軍事力が不可欠だったことは世界中が知っていた。VOCの解散、ナポレオンによる激動の時代を経て、蘭領東インドがイギリスからオランダに返還されたとき、オランダ植民地政庁は新たな東インド植民地軍の育成を開始した。1825年から1830年まで続いたディポヌゴロ戦争は、軍事力の強化をいやが上にも政庁に痛感させることになった。1830年に出された一般指令で、8兵団から成る植民地軍の編成が定められ、各兵団は歩兵1個大隊、騎兵1個中隊、山砲兵4個中隊で構成された。兵員数は下士官兵が1万3千人で、士官が640人いた。19世紀末に近付くと、植民地政庁のジャワ島外への進出方針が活発化し、兵員増強が急速に進展した。1840年の戦闘員2万人は1882年に3万人となり、1898年には4万2千人に膨れ上がった。
発足当初はただの植民地軍でしかなかったが、1836年になってやっとオランダ王国の名称を冠することが認められた。しかし普段は東インド軍あるいは植民地軍としか呼ばれず、1933年になって植民地軍の将官を務めた経歴を持つオランダ王国首相がオランダ王国東インド軍という名称を定着させた。インドネシアの独立抗争期に頻繁に登場したKNILがそれだ。
東インド植民地軍は植民地省が統括した。オランダ本国の規定では、兵役義務下の国民を植民地に派兵することが禁じられていたために、東インド植民地軍は独自の軍隊にならざるを得なかった。東インド植民地軍は本国政府がヨーロッパや他の植民地で徴募した兵員を受入れ、また東インドにおいては自ら兵員徴募を行なった。つまり、この軍隊はヨーロッパ人兵士とプリブミ兵士の混成軍だったということだ。ヨーロッパでの兵員徴募は、オランダのハルデルウェイクに活動センターが置かれた。

1840年代に東インドで植民地体制の維持に不安を感じさせる諸事件が発生したことが、ハルデルウェイクの活動を活発化させることになった。たとえば、1848年にはバタヴィアでリベラル派が大規模なデモを行って植民地政庁に政策のリベラル化を要求し、その動きはスラバヤにも飛び火した。またカリマンタン北部オランダ領の眼前にあるラブアン島でイギリスが石炭輸送ステーションを建設し、オランダ領にある石炭採掘現場をいつでも取り込もうとする構えを見せた。やはりこの年、バリ島征服を目指して1846年から開始されたバリ島進攻作戦で東インド軍は何度か苦い目に遭わされており、1848年も植民地政庁側の軍事作戦が失敗して撤退するということが起こっている。
バリの諸王国が順次戦争に敗れ、オランダ植民地政庁がバリ島全域を支配下に置いたのが1908年、1873年に開始されて1912年に植民地軍がやっと戦勝したアチェ戦争など、オランダ植民地政庁がジャワ島外のプリブミ諸王国を併合していった時代がそこに重なっており、東インド植民地軍の規模拡大はその拡張政策の基盤をなす重要事項になっていた。

オランダ植民地軍に身を投じたヨーロッパ人は、オランダ人ばかりではなかった。ドイツ・スイス・フランス・ベルギー・オーストリア・ポーランド・デンマークなど、実に多様な国々からひとが集まってきた。かれらの第一の目当ては、契約書にサインしたあと支給される支度金だ。1873年に開始されたアチェ戦争のために兵員増強は急務となり、2年間の軍役契約で支度金100フルデンが支給された。その金はもともと軍役勤務2百日経過後に支給されていたものだが、前渡しに替えてまで人集めに奔走していたハルデルウェイクのありさまが目に見えるようだ。その波が一段落して応募者が減ると、支度金は更に300フルデンに引き上げられた。それは兵士が一年間に受け取る給与とあまり差のない金額だ。
このような人集めには、例外なく口入屋がからんでくる。必要とされる人間を集めてきて手数料をもらうというブローカー仕事だ。ブローカーは頭数を増やせば手数料が増えるため、集めて何をさせるかという人集めの目的などそっちのけになり勝ちで、必然的に人間のクオリティは低劣化して行った。ひとり頭10〜30フルデンさえもらえれば、後のことなど知ったことじゃない。自分のことしか省みない冒険者、まともな暮らしをしたことのない極貧者、アルコール中毒者や犯罪者、その他集団行動に落ちこぼれるような人間が東インド植民地軍の中に目立つようになるのは時間の問題だったし、東インドにやってくる前ですら、そんな人間が大金を突然手にすると何をするようになるかは想像の枠内であったと言えよう。ハルデルウェイクの町が人間の掃き溜めとヨーロッパ中から呼ばれるようになるのに、それほど時間はかからなかった。おまけに、そのような連中ほど、金をもらったあとで軍隊からの脱走を企てるのが普通だ。ヨーロッパにいる間に脱走できれば一番楽だが、船がヨーロッパを出てから後も、さらには東インドに到着してさえも、かれらの脱走の試みは絶えなかった。脱走兵の処分は軍刑務所入りだが、脱走未遂で捕まることさえなければ、あとはオランダ国内にいないかぎり何とでもなったようだ。

しかし、掃き溜めの単線ルートしか設けないことなどありえない。1890年にネイメーヘンに置かれた植民地予備軍では、もっとまともな兵員の選抜が行なわれていた。植民地軍兵員徴募は機能がハルデルウェイクからネイメーヘンに段階的に移されていき、1909年最終的にハルデルウェイクは閉鎖された。ネイメーヘンにせよハルデルウェイクにせよ、オランダ国内で兵員徴募の実務は国防省が行なった。植民地軍兵士として採用された者が東インドに到着してから、かれらの管理は植民地省に移された。かれらが東インドに到着すると、ジャワ島内の各地にある要塞に配属されて東インド軍兵士としての教育訓練を受けた。とは言っても、兵士としての規律訓練、兵器を取扱うための基礎知識、そして性病に関する知識が与えられただけだったようだが。


そんなハルデルウェイクを通ってジャワに渡った契約兵士らの中に、フランスの誇る大詩人、アルチュール・ランボーの若き姿があった。当時まだ22歳のランボーは、マルセイユやアントワープで港湾肉体労働者の仕事をしていたときにオランダ領東インドの話をいろいろと耳にし、放浪衝動に火がついたようだ。300フルデンの金をもらった上に、無料でオランダ領東インドまで行ける機会を座視することはない。1876年5月18日、かれはハルデルウェイクを訪れて採用され、6月10日の船でバタヴィアに出発することになった。

1855年から1893年までの間に東インドに送り込まれたヨーロッパ人兵士7万2千人の中でオランダ人は44,860人しかおらず、フランス人兵士は累計で3,488人だった。ランボーが東インドに渡った1876年の東インド向け兵員派遣では、オランダ人は992人で、フランス人の1,093人より少なかった。他にもスイス人72人、ドイツ人224人、ベルギー人1,316人、その他のヨーロッパ諸国人が150人いて、オランダ人はわずか四分の一に過ぎなかったから、自国の植民地を維持するための軍隊がいかに外国人兵士で満ち満ちていたかということが想像できる。ランボーが外人部隊に入ったという表現が目に付くのだが、ランボーが入ったのは東インド植民地の正規軍であり、その正規軍自体が多民族混成の一見外人部隊にしか見えないようなものだったというのがその本質なのだろう。
ハルデルウェイクから新入兵は汽車に乗せられ、ユトレヒト経由デンヘルデル港に送られた。一行を警護するオランダ軍部隊は銃剣付きの実装銃でかれらの動きを看視した。兵士としてアジアに赴けば、生命を落とすリスクは文民の数倍にのぼることを知らない者たちではない。3百フローリンをもらって逃げることがかれらの夢なのだ。船に乗せる前に逃げられたとあっては、オランダ王国軍の沽券に関わるのである。

1876年6月10日、ランボーたち新入兵一行はバタヴィアに向かうオランダ船籍蒸気船プリンスファンオラニエ号でデンヘルデル港を後にした。かれらを見送ったのは二発の礼砲だ。サザンプトンまでの一週間用の間食として、兵士はひとりひとりがコーヒー・茶・砂糖・バター・ビスケットの支給を受け、デッキに吊られたハンモックで眠った。
サザンプトンで船はその先の航海のために大量の肉を積み込んだ。その間、接岸した埠頭は厳重な警戒下に置かれ、兵士たちは船内に閉じ込められたが、隙を見つけたフランス人のひとりが船から海中に身を躍らせた。その男は二度と浮かび上がってこなかった。
船がサザンプトンを出ると、兵士たちは少量の煙草と木製パイプ、無聊を慰めるためのゲームなどをもらった。食事のメニューは変更され、フレッシュなパンは乾燥ビスケットに変わり、午前8時にはコーヒーが用意され、一時間後に小麦のスープが供された。正午にはコップ一杯のワインが与えられ、土曜日の夜はハードドリンクが追加された。午後4時には茶とビスケットが分配された。日曜日には新鮮な肉料理とケーキ類が供された。
デッキの間には何頭か牛の姿が見られ、航海中のミルクの需要を満たした。その時代には、長期間の航海のために牛や船医が一緒に航海するということが船会社間での乗客獲得競争の武器になっていたのだ。ジブラルタル海峡を越えて地中海に入った船は、一路ナポリへと向かう。しかしナポリで上陸許可を与えられたのは士官だけだった。

ナポリの次はポートサイドで、そこからスエズ運河に入る。船がスエズ運河を通っているとき、イタリア人がひとり姿を消した。更に二日後、兵員の呼集に6人が出て来なかったが、そのうちのひとりが数日後にイスマイリアで逮捕され、次の兵員輸送船に乗せられてジャワに到着した。その男はジャワで再度脱走に成功し、完全に消息を絶った。プリンスファンオラニエ号では、紅海を走っているときにまたひとりが海中に身を投じ、浮かび上がって来なかった。
1876年7月19日に船はパダン港に到着し、バタヴィアに向けての最終航海に入った。この時期、バタヴィア港はまだスンダクラパが使われていた。タンジュンプリウッ港の建設工事が始まるのは1877年5月のことだ。バタヴィアの土を踏んだ兵士たちは、歓迎の意を込めた焼きたての白パンとワインを供され、その足で乗合い馬車トラムウエーの乗り場まで歩いた。バタヴィア市内中心部に近いメステルコルネリスの兵舎に入ったのは午後2時。もともと茶葉の乾燥工場だったその兵舎のありさまを目にした新入兵士たちの気分は、嫌が上にも落ち込んだにちがいない。
翌日、東インド植民地軍バタヴィア地区司令官が新入兵を閲兵し、航海中の苦情などを聞いたあと、工兵部隊と輜重兵部隊への希望者を募り、また音楽ができる者は申し出るよう求めた。植民地軍の中に技能を持つ優れた人材がいかに払底していたかということをそれが示している。

プリンスファンオラニエ号に次いで次の兵員輸送船が242人の新入兵を運んでくるため、ランボーらの組はバタヴィアから早々に配属先の土地に送り出された。ランボーは歩兵大隊に配属され、新入歩兵兵士たちは中部ジャワのサラティガとスラカルタのふたつの要塞に分けられて目的地への移動を開始した。ランボー自身がバタヴィアに居たのは一週間程度と見られており、東インド植民地最大の都会に親しむことなくかれはサラティガの田舎町に移されたことになる。
歩兵大隊に配属されることになった兵士たちは7月30日、ふたたびスンダクラパ港から船に乗り、スマラン港に向かった。スマランからは鉄道でクダウンジャティへ行き、一部はサラティガ駐屯部隊としてアンバラワのウィレム一世要塞、残りはスラカルタ駐屯部隊としてソロのファステンブルフ要塞に入った。
1876年8月30日、兵員呼集の際にランボーがいなくなっていることが報告された。サラティガの兵舎に入ってから、わずか半月後のできごとだった。というのは、ウィレム一世要塞に入るまで、かれはサラティガの副レシデン官邸に住んでいたのだ。ランボーは1876年8月2日から15日までサラティガ市内にある副レシデン官邸に滞在したとされており、現在サラティガ市長公邸となっているその邸宅にはフランス大使館が建てた「フランスの大詩人アルチュール・ランボーが1876年8月2〜15日にサラティガに滞在した」と記された記念碑がある。

脱走兵が捕まれば2ヶ月から12ヶ月の軍刑務所入りだが、かれは捜索の手を免れたようだ。かれの名前は1876年9月12日に軍籍簿から抹消された。脱走してから後のランボーの足跡は闇の中だ。それからまる四ヶ月後の1876年12月31日、かれは出生地シャルレヴィーレにある一族の家に姿を現した。かれの脱走行は多分、スマラン港まで48キロの道のりを、人目を避けながら踏破したのではないかと推測される。というのは、5百キロも離れたバタヴィアまでそのようなことをするのは考えにくいからだ。かれはスマラン港からスンダクラパ港まで密航し、スンダクラパ港からヨーロッパに向かうオランダ以外の船に乗った可能性が高い。8月24日から9月21日までの間にスンダクラパ港からヨーロッパに向けて、イギリス船4隻、スエーデン船1隻、フランス船1隻が出港しており、そのいずれかにかれが乗った可能性は十分にある。


ランボーの話はここまでにして、東インド植民地軍の話に戻ろう。オランダ領東インド植民地軍発足から1909年までの間に17万7千人のヨーロッパ人兵士が軍隊を構成したきたが、そんな人数で広大な地域に対応できるものではない。それを補うためにオランダ王国国防省が行なったのは、アフリカの植民地から兵員を募って東インドに送り込むことだった。1836年から始められたその方針でバタヴィア港に上陸した黒人兵士の数は決して少ないものでなく、アフリカのオランダ植民地からオランダの軍服を着てジャワ島に送り出される兵士をアフリカ地元の黒人社会はZwarte Hollanders (黒いオランダ人)と呼んだ。その呼び名はそのままかれらのアイデンティティとして貼り付けられ、ジャワにやってきたかれらを地元プリブミたちはBelanda hitam と直訳して呼んだ。
アフリカの植民地で兵士を徴募したという言葉のイメージとは裏腹に、そこでも実態として行なわれていたのはハルデルウェイクと大差ないことがらだった。その大半をなしていたのは、兵員徴募に手を挙げて応じた人間でなく、ブローカーが奴隷市場でひとり頭黄金2オンスでかき集めてきた者たちだったのである。当時の黄金2オンスは今の35ユーロ程度の金額だ。
黒いオランダ人は軍役契約を終えると、そのままジャワに住み着いて現地化していく者が多かった。プリブミ女性と結婚して家庭を持ち、現地社会の中に溶け込んでいく、という通例のスタイルだ。いかに蘭領東インドという現在のインドネシアが諸民族にとって住みやすい風土を持っていたかということの例証をわれわれはその事実からも得ることができる。

そういった政策ですら、オランダ領東インド植民地軍の兵員需要を満たすには焼け石に水だった。現地徴募するプリブミ兵士の存在なしには、植民地軍は最初から成り立たなかったのである。とは言っても、プリブミ兵士だらけになれば植民地支配体制にたいへんなリスクを抱え込むことになるのは明らかだ。植民地政庁と軍上層部はできるだけヨーロッパ人兵士とプリブミ兵士の数を五分五分にするよう努めたものの、それを実現させるのは不可能だった。そんな内憂よりも外患に備えることのほうが先決問題であり、結局のところは実需要を満たすことが優先され、そのため人数の上でヨーロッパ人兵士が過半数を占めたことは一度も起こらなかったどころか、ほとんど常にプリブミ兵士が四分の三を占めていた。1898年に総兵力4万2千人という軍事力に到達したとき、ヨーロッパ人兵士は1万8千人しかいなかったのである。

プリブミ兵士の出身種族はジャワ・マドゥラ・北スラウェシ・マルク・西ティモールなどで、かれらにとって兵士になることは自分の一家を極貧生活から脱け出させるための手段に他ならなかった。生命の危険だけにとどまらず、苦難に満ちた日常が兵士になったかれらを取巻いていたし、そしてそれが豊かな生活をもたらすことすら保証しなかったとはいえ、毎月定額の金が手に入ることは極貧生活者にとってどれほど魅力的だったことだろうか。
かれら貧困村落住民が兵士になろうと決意した場合、村長がその身元保証を行なった。地域行政府内に設けられた徴兵審査チームの審査を受けるために志願者は村長に伴われてそこを訪れ、村長は役職の権威を踏まえてその者の素行や植民地体制への服従などに関することがらを保証したのである。しかしその実態も世の常で、村内の秩序を破壊し、村民仲間に迷惑をかけて嫌われ、憎まれている悪ガキを軍隊の中に放り込んで、村内をきれいにしたいと思う村長がいなかったと言えば嘘になる。
つまりこの部分でも、崇高な目的に奉仕するという精神を抱いて不退転の戦闘活動に従事する戦争マシーンの存在を確保するのは、植民地軍にとって難しいものだったと言えるだろう。徴兵審査チームが行っていたのも、建前は東インド植民地軍兵士としての戦意と能力を厳しくチェックすることになっていたわけだが、本気でその任務を遂行し、単なる悪ガキでしかない者をハネていけば、軍中枢が出している要請人数を確保することはできず、チームの職務遂行に赤点がつけられかねないという二律背反状況の中で、実際に何が起こっていたかということも想像にあまりある。こうして審査を通った新入兵士はジャワ島内の兵営に入れられ、植民地軍兵士としての履歴を開始するのだった。

兵舎では、ヨーロッパ人兵士とプリブミ兵士が雑居した。そこに集まってきたさまざまな文化背景を持つ人間たちの全員が男であると思ったら大間違いだ。プリブミ兵士が自分たちの文化を投げ捨ててヨーロッパ文化に合わせることが、はたしてそう簡単にできただろうか。
プリブミ文化では、アジアの農村社会がたいていそうであったように、早婚社会であり、更に幼い時期に子供を婚約させて相手を決めておく習慣があるため、兵士になったまだ年若いプリブミは既に結婚して家庭生活を営んでいたり、許婚の相手を既に持っているのが普通であり、加えて妻や許婚から離れて暮らす男のセックス処理は出先で手に入る別の女と行なうのが当たり前の社会であるがゆえに、女の側からすると離れて暮らすこと自体が夫婦関係や許婚関係の崩壊という意味を持っている。
こうしてヨーロッパ型兵営の維持は、プリブミ文化の前に変容を強いられることになった。兵員増強が必達事項であり、それはプリブミ兵士によって満たす以外に方法がなく、そしてプリブミ兵士は妻と同居することを兵士になるための交換条件としたがために、政庁と軍上層部が折れて出たというのが常軌を逸した東インド植民地軍の兵営運営だったのである。


妻を帯同するプリブミ兵士の兵舎生活を認める方針が定められたのは1836年。植民地軍編成に関する一般指令が出され、その実施が着手されてからほんの数年後のできごとだった。1887年に植民地軍司令官ハガ将軍が本国の植民地大臣宛に送った手紙の中にこういう一節がある。
・・・・兵士が兵舎内で女を持つことを禁止するのは、プリブミやアンボン人の徴兵に必ず悪影響をもたらします。かれらが出動任務を終えたあとに兵営に戻って行く姿を見るなら、その意見が間違っていないことが確信されるでしょう。女たちは自分のトアンの衣服や武器のケアをし、食べ物を用意し、いろいろと世話を焼きます。兵士たちは、そのような自分の身の回りを世話する女がいなくなることを、たいへん大きな喪失と感じるのは疑いありません。・・・・
プリブミ兵士のそのようなありさまを同じ兵舎内であけすけに見せ付けられるヨーロッパ人兵士の心に、差別待遇意識が浮かび上がるのは間違いがない。その結果、ヨーロッパ人兵士がプリブミのニャイを持つことの禁止すら、政庁と軍上層部にはできなくなってしまった。ただし、プリブミ兵士の場合は相手の女が妻や許婚であるという前提になっているが、ヨーロッパ人兵士にとってその相手は妾にならざるを得ない。そういう法的資格はさておいて、兵舎の中に起居させるプリブミ女に政治社会的な見地から条件をはめるのは不可欠であり、結局軍部は兵士の妾になるプリブミ女性の社会的条件に関するチェックを行うことまでするようになる。

兵舎の中に住んでいる人間を大別する呼称として、ヤン(Jan)、クロモ(Kromo)、サリナ(Sarina)という言葉が、誰言うともなく使われるようになった。ヤンはヨーロッパ人兵士、クロモはプリブミ兵士、サリナはそれら兵士をトアンに持つプリブミ女性だ。もちろんすべての兵士が兵舎の中で女を持ったわけではない。ヤンにとってサリナを持つのは、文民社会の中でヨーロッパ人がニャイを持つのと類似の、それなりに十分な経済力が必要とされるわけだが、クロモはそこのポイントが異なっている。経済力のないヤンはサリナを養うことができないため、兵舎内で女を持つのは不可能であり、結局はときおり売春婦を相手に性欲を発散させる暮らしに甘んじることになる。
19世紀終わりごろの植民地軍二等兵の給与は5日間で85セン前後であり、一等兵はもう20センほど多かった。特別手当などが付くと、1.65フルデンくらいまでアップすることはあったが、毎回というわけでもない。そのころ、ハードドリンクが一杯6セン、売春婦を買うのは25センというのが兵士たちを取巻く環境での物価だったようだ。ともかく、そんな程度の収入では家庭を持つことは不可能で、ニャイを養うことはできない。必然的に、それなりの収入を得るのは階級の高い者や軍歴の長い者に限られていたから、ニャイを持つヨーロッパ人兵士は概して年齢が高く、若い者にはまったく無理な話だったようだ。
そういう経済力がついて、家庭を持ちたいと希望するようになった兵士は、まずその許可を申請しなければならない。その決まりは1872年の一般指令第62号で定められた。兵舎の中に家庭を持つのであれば、許可を下ろすのにさしたる困難はない。それで話がとんとん拍子に進めば、その兵士の妻になる女性にはベッドと下敷きマットおよび枕、そして時には毛布が官費で支給された。しかし現実には、相手の女性を法的に妻にするよりも、ニャイの形で内縁の妻にすることのほうがはるかに多数を占めたのである。1888年のヨーロッパ人兵士13,062人中で法的に正妻を持っているのは147人、ニャイを持つ者2,930人、残りは独身者というのが全国の兵営内で見られた姿だ。1900年代に入っても、兵舎の中に暮らしている女性の大半はニャイであるという状況に変化は起こらなかった。東インド植民地軍兵舎内での奇妙な風紀のありさまに対する批判と非難が激化してはじめて、妻の数がぐんぐん増加していったのである。兵士たちがニャイのほうを好んだのは、文民社会での理由と何ら変わるところがない。

ところで、これまでヨーロッパ人兵士たちが兵舎の中に持った内縁の妻をニャイと呼んできたが、実は兵舎内ではムンチ(moentji)という別の名称が用いられていた。ムンチとは現代インドネシア語でmunciと綴られ、妾を意味する単語だ。それをオランダ語表記すれば上のようになる。ニャイよりもはるかに粗野でストレートな表現になるが、兵舎内にいるヨーロッパ人にとって、同じ兵舎内のプリブミ男女が使うその名称にどのような感情がこめられていたかを知る由はなかったにちがいない。
兵士がニャイを持つとき、その申請には相手女性の素行証明を添付しなければならない。素行証明書は女性の居住地を管轄する行政オーソリティが軍司令官宛に発行したものでなければならなかった。その許可が下りれば、女性の名前、出生地、トアンになる兵士の名前、入営日が特別の名簿に記録され、その女性には兵営内に入るための通行許可証が交付された。
オランダ領東インド植民地軍のジャワ島内の兵営はたいてい満員の状況だった。一方外島地域にあったのは、はるかに小規模な兵営や守備隊駐屯地あるいは兵員キャンプなどが普通で、一ヶ所に20人前後しかいない拠点のほうが多かった。
兵舎内であっても、男女が一緒に暮らせば子供ができる。できた子供たちも当然ながら兵舎内で両親と一緒に住んだ。ジャワのような戦闘状態にない地域では、ヨーロッパ人将校は兵営の外の家に家庭を築いた。すこし遅れたタイミングで、結婚した下士官にも同じ待遇が与えられるようになった。


兵営の構造はいずれも似たり寄ったりだった。表門の衛兵詰所と前面にある兵団建物、厨房、食堂、脇に設けられた女性営舎。中央には兵員呼集のための広場があり、そして各中隊建物と倉庫が近接して置かれ、保健室、厩舎、そして兵舎がいくつかあった。
兵営内の活動は午前5時の起床ラッパで始まる。兵舎内では全員が起き出して水浴し、着替えて朝食を摂る。午前6時の呼集が終わると、外回りと呼ばれる任務に就く。3〜4時間の外回りを終えると、30分の休憩をはさんで、体操・戦闘訓練・兵科学習などの活動が行なわれる。女子供であっても、兵営の中で一緒に暮らしている以上、軍の規律に従わなければならない。男たちが日中兵舎内にいることが許されないのと同様、兵舎内の寝所の掃除片付けを終えた女と子供は、女性営舎に移って家庭を維持するための洗濯・アイロンがけ・料理などの仕事をした。女性営舎から兵営の外に出る扉があり、女たちはパサルへ買物に出たり、子供を学校に送っていくことをした。そして作った料理を持って、11時から12時までの間に兵舎に戻る。
女たちは昼食のために戻ってきたトアンと一緒に子供を交えて昼食を摂り、それから16時までの自由時間を好きなように過ごした。男たちは16時に再び呼集のために広場に集まって整列し、女たちも再び女性営舎に向かう。男たちが解散すると、女たちもまた兵舎に戻り、一家が集まって翌朝まで一緒に過ごすのである。
兵員は昼食を食堂で摂ることになっているのだが、兵舎の中で女と家庭を持っている者はその義務が免除され、兵舎で食事することが許されていた。女たちは時に、トアンの給与の一部を厨房から米や塩でもらうことがあった。兵営の周辺に住むプリブミたちは、兵舎の女たちを商売のネタにしようと努めた。女たちはたいてい、買物をパサルでした。品物がバリエーションに富み、価格も廉いのだから、そうするのが当然だと言えるが、遠くのパサルまで歩くよりも、わずかな買物であれば兵営の周りのワルンで済まそうとする者もあった。あるいは、支給された米や塩の余ったものを女たちから廉く買い取ろうとするワルンもあった。兵営周辺住民にとって、兵舎の女たちはプリブミ社会よりも高い購買力を持つ消費者だったということにちがいない。なぜなら、兵舎の女たちには、自分のトアンでない兵士のために食べ物を作ったり、洗濯したり、あるいは衣服の修繕といった賃仕事の機会もあったのだから。
兵舎で暮らす女たちが、単に自分のトアンの世話だけしていたかと言うと、実はそうではなかった。女性営舎に集まった女たちも、兵隊組織を作ったのだ。特に、男たちが戦場に出征したときは、かの女たちが兵営守備隊を補強したのである。かの女たちの間で、自分が仕えているトアンの階級が一番高い者(たいていは曹長だった)がマヨールムンチと呼ばれる指揮官となり、その下に幹部としてセルサン(軍曹)ムンチ、コプラル(伍長)ムンチを従え、最下層のムンチ兵士たちを指揮した。
オランダ要塞がほとんど空き家になった隙を衝いてプリブミの軍勢が襲撃してきたとき、ムンチ部隊は自分が仕えるトアンの側に立ち、要塞守備隊と一緒になって敵の襲撃部隊と交戦したのである。


さて、兵舎の中にいて自分のトアンと一緒に暮らしていた女たちは、トアンがプリブミであればその妻というかれらの社会で正式に認知された男女関係にあるのが普通だったが、ヨーロッパ人の場合は様相が違っていた。ヨーロッパ人兵士がプリブミを見習って女と一緒に兵舎内で暮らすことを求めたとき、軍上層部は女のステータスもプリブミに見習うよう望んだ。つまり正式に結婚して妻にせよ、ということだったのだが、実際には兵舎の外の文民社会で繰り広げられているのと同じことが兵舎内でも起こったということだ。
文民社会であれば、ヨーロッパ人男性の周囲にはプリブミ女性がたくさん存在しているために、自分の気に入った女性を選択する機会はそれなりにあったのだが、軍隊の中に同じような機会があるわけがない。生活を共にしようとする女性を妻にするかそれともニャイにするかという問題はさておいて、ヨーロッパ人兵士たちはいったいどのようにして「自分の女」を手に入れたのだろうか?

まず身近なところでは、同じ兵舎で起居する同僚プリブミ兵士が不帰の人になったとき、かれの妻の身柄を申し受けるということが行なわれることもあった。さらには、プリブミ社会によくある家庭内暴力のゆえにヨーロッパ人兵士がプリブミ妻の救世主になるようなことも起こったし、ありとあらゆる理由で兵舎内の女のベッドが位置を変えることがなかったとは言えない。あるいは、プリブミ兵士が同僚ヨーロッパ人兵士に自分の家族親族の娘を取り持つこともあった。文民社会の家庭内で男性使用人がトアンにニャイを取り持ったのと、それは何の違いもないことがらだ。
また、未亡人になったプリブミ妻たちで兵営の外に戻って行ける場所を持たない者たちは兵営内に住み着かざるを得ず、そんな女性たちも自分をニャイにしてくれとヨーロッパ人兵士に売り込んだ。新たに配属されてきたヨーロッパ人新兵が軍キャンプにやってきたとき、そんな女性たちがキャンプ正門の脇で「わたしをニャイにどうですか?」と売り込む光景は頻繁に見られたそうだ。実際にかの女たちはその兵営で何年も暮らしていたため、そこでの暮らしぶりを隅々まで知っており、また兵営内で顔がきくということもあって、そのような経歴を持つプリブミ女性をニャイに持つことはヨーロッパ人兵士にきわめて高い実用性をもたらすものであり、概してかの女たちの需要は高かった。文民社会のニャイがトアンの東インド文化に関する生き字引になったように、兵舎のプロフェッショナルなニャイも兵士の兵営生活における生き字引の役割を果たしたようだ。

もちろん、兵営の外にあるプリブミ社会で自分の女を手に入れる兵士がなかったわけでもない。その実例は既に紹介してある。
文民社会にせよ、軍隊の中でにせよ、プリブミ女性たちがヨーロッパ人のニャイになるのは、自分が置かれている境遇から離脱できる蜘蛛の糸のようなものであり、自分がこれからも生きていくということに関わる希望の光をそこに見出した者は数多いにちがいない。
社会の一般常識として、婚姻というプロセスを経て社会的に公正なものと認知される妻という資格のもとに、男女が性的関係を結び、家庭を築く、というあり方を正当なものとし、婚姻プロセスを経ない妾という男女関係を不当で淫らでよこしまなものと見なす視点はキリスト教社会にもイスラム教社会にも同じように存在しており、社会倫理という観点から妾をまともでない存在と見下す傾向は、ヨーロッパ人にもプリブミにも同じようにあった。兵舎のニャイがプリブミ兵士とその妻たちからムンチと呼ばれていたことが、それを明示しているようにわたしには思える。
たとえそうであれ、極貧の家庭環境に生まれ、性差別の中で奴隷のような生き方を一生送ることを運命付けられていたかの女たちにとっては、法的資格のある妻であろうが、そうでなかろうが、それが経済問題に優先することはありえなかったにちがいない。ニャイになった本人たちだけがそうだったのでなく、かの女を取巻く家族親族そして同じ貧困という境遇をシェアする隣人たちにとって、かの女がニャイになったということは経済発展であり、サクセスの香りを嗅ぐことのできる大きな出来事だったのは疑いないと思われる。お屋敷の男性使用人や兵舎内の同僚プリブミ兵士が自分の一族の娘をヨーロッパ人のニャイにと売り込む姿は、それを如実に物語っている。
しかし、当事者でない世間がそれをどう見たかは想像に余りあるだろう。特にプリブミ社会では、自分たちの共同体の中で社会的な倫理規範がないがしろにされているのである。ムスリム男性はキリスト教徒・ユダヤ教徒の女性を妻にすることが許されているが、ムスリム女性はムスリム男性以外の妻になることが厳しく禁じられている。異教徒に身を委ねる女には死の制裁が加えられるのがイスラムの掟になっているのであり、イスラムの誇りを足蹴にし、イスラムの名誉を傷つける者を捨てておくわけにはいかない、という見解がプリブミ社会に生じるのは避けがたいことだ。必然的にプリブミ社会はニャイを村八分にする方向に動いた。世間はニャイに「娼婦にも劣る人非人」というレッテルを貼った。この辺りのことがらは、単に性倫理や法的資格といった要素に加えて、イスラムに関する理解も必要になるので、そういう観点からのアプローチも忘れてならないものだとわたしは思う。
1911年に東インド議会で議員のひとりは次のように発言した。「ジャワ人一般は兵舎にいるジャワ人女性たちを娼婦以下の人間と見なしていますが、そういうことではありません。かの女たちは、普通の女性と娼婦の中間に位置しているのです。」


兵舎の中にも、欧亜混血のニャイがいた。兵舎の女が100パーセントジャワ人だったわけでは決してない。ジャワ人ムンチとヨーロッパ人兵士の間に産まれた娘も、兵舎の中で成人する。その娘を自分のニャイにほしい、という同僚兵士が出ないわけがない。それとは別に、文民社会で父親からの認知をもらえずにプリブミ社会の辺縁部で貧困の内に成人した欧亜混血娘も、本人が、あるいはその周囲の人間が、兵舎のニャイになることで経済的なサクセスを得ようと望んだ結果マッチングが成立するということも起こった。普通の貧困環境にあったプリブミ娘に比べて、貧困下の欧亜混血娘はプリブミ社会からの疎外も受けたというもっと厳しい環境にいたわけだから、そこから脱出できる蜘蛛の糸をつかもうとする意欲ははるかに強かったかもしれない。
傾向としては、軍隊の中で下級将校がそういう欧亜混血娘を自分のニャイにすることが多かったため、かの女たちはそうなることでやっと下士官兵をトアンに持つプリブミのニャイを見返すことができたようだ。将校が持っている女性なのだから、一介の兵卒の持っている女性より待遇が上であることは言うまでもあるまい。 トアンを持つ兵舎の女たちの年齢は12歳から35歳くらいまでだった。当時のプリブミ社会では女性の結婚年齢が13歳前後だったから、12歳の少女が男の妾になることは決して異常なことではなかった。10歳や11歳でニャイになったという娘の記録も残っている。当時のプリブミ社会は早婚であり、同時にまだ幼い子供を許婚にする風習が強かったため、10歳を過ぎた少女たちは、いつでも夫を持てるという態勢に入っていたということのようだ。ここで許婚と言っているのは、娶わせる約束を双方の親がしているということであり、夫を持つというのは婚姻の儀式をして娘がどの男に所属しているのかをコミュニティ内で明確にしておくだけであって、夫婦間のセックスが行なわれるかどうかはまた別のことがらになる。欧亜混血娘がニャイになるのは年齢がもっと上のケースが大半で、この場合はニャイになることが性的関係を結ぶことと一体化していたためだろうと思われる。

一方、女性がニャイとして自分のトアンを持てる上限年齢は三十代だったようだ。当時、三十歳を超えた女性は年寄りと見られており、三十代に達した女性たちは自分の現在のポジションやこれまで築き上げてきた地位を躍起になって維持しなければならなかったが、それもせいぜい35歳程度までしか効果はなかったようだ。
三十代に達した兵舎のニャイたちは、自分がいつ無用の者として縁を切られ、それまで自分が住んでいた唯一の世界から立ち去らなければならないか、という不安にさいなまれた。それは文民のニャイと似たような境遇だったにちがいない。いざその日がやってくると、かの女はトアンから離縁状をもらい、何の財産も持たずに兵営を立ち去らなければならなかった。この離縁状というのは、これまで自分のものだった女の身柄を解放し、自分はもうこの女に対して何の権利も持たないということを表明する主旨のものだったようだ。もちろん、女が年寄りになるのを待ってくれるトアンばかりでないのは明らかで、まだ十代の女が手に入るのに、いつまでも二十代の女を抱えていなければならないわけがない、と考える男はいて当然なのである。
もちろん、そういう男ばかりでなく、もっと血も涙もある男もいた。しかし、自分のヨーロッパ人トアンが永久に兵営にいるわけでないことを兵舎のニャイたちは自覚していた。文民のトアンがニャイを去らせるのはヨーロッパ人正妻にその場を明け渡させるのが主な理由であり、ニャイが年寄りになるまでそういう状態が続くことはあまりなかったように思われるが、兵士たちの境遇はまた異なるものだった。兵士たちは軍務契約満了やその他の理由で兵営を去って帰国していくのが通例であり、そういう別れが訪れたとき、ニャイのたどる道は次のようなものがメインを占めた。
1)トアンがヨーロッパへ戻るにせよ、あるいは東インド植民地のどこかに新天地を求めるにせよ、トアンがニャイと子供たちにこれまでのような暮らしを続けさせるケース。
2)トアンが誰も連れないで兵営を去り、ニャイと子供たちを待ち構えている運命の前に投げ出すケース。
3)ニャイと子供たちを引き継ぎたいという者に委ねて、トアンだけが去っていくケース。
4)トアンが一旦東インド植民地のどこかにニャイと子供たちを連れて行き、そこからニャイだけを去らせるケース。
ニャイにとっては、たとえトアンが入れ替わろうとも、依然としてヨーロッパ人男性のニャイであり続けることが唯一の救いであり、明らかに欧亜混血の姿をしている子供たちを連れて故郷に帰るのが最悪のシナリオだったのは言うまでもあるまい。
イスラムの戒律に背いた女を自分の妻にしようとするプリブミ男性はきわめて稀であり、ニャイと子供たちの生計はニャイの手に委ねられ、おまけに社会からも疎外されたニャイに収入の道は閉ざされているのも同然であれば、そこにつれてこられた欧亜混血の子供たちがどれほど悲惨な極貧生活の中で育ったかということは想像に余りある。かれらが東インドのヨーロッパ人社会を、さらには植民地体制を憎悪するようになるのは、水が低きに流れるようなものだったにちがいない。そんな子供を抱えたニャイたちの多くは、娼婦になった。


東インド植民地軍の兵舎にヤンとクロモとサリナが雑居していることは世間周知の事実だった。しかし、そうせざるを得ないということを前提にするなら、そこで行なわれていた制度は十分に秩序だったものになっていたと言えるだろう。ただ、世の中の常識からかけ離れたその姿と、おまけにセックスという風紀上倫理上の問題がからんでいたため、オランダ本国のみならずコロニーの中でも、大勢のひとびとの目には許されざる暴挙と映ったにちがいない。
セックス行為がプライバシーの帳をおろした完璧な闇の中で行なわれることを常識とする西洋文明の立場からすれば、それは絶対的に野蛮な行為なのである。蛮族であるプリブミがそうしているならまだしも、同じ文明人たるヨーロッパ人までもが蛮族の風習に倣うとはなにごとか、というのがその基本観念だったようだ。文民社会でニャイの風習が喧々囂々の非難を浴びるようになっていったとき、兵舎のニャイがその非難から免れていられる術はなかった。

軍隊というのは普通、国家と国民を護るために徴用された同胞たちという意味での尊敬を国民から受けるのだが、東インド植民地軍というのは人種のるつぼになっており、おまけにその一部であるヨーロッパ人でさえ、文民社会が抱く文明人というイメージに反して金のために集まってきた優良人種の落ちこぼれ的イメージに彩られており、兵舎のニャイの制度に対しては特に風当たりがきつかったかもしれない。
加えて、兵士と性病はどこの国でも、切っても切れない関係にあるらしく、どこの国でも兵隊には性病に関する知識が必須として与えられていたようだし、兵営での医療問題の大きい部分は性病との闘いになっていたようだ。ところが東インドのコロニーでは、ニャイは娼婦だという先入観のなせるわざだったのだろう、その性病蔓延の原因がニャイの制度にあるという話がまことしやかに世間に流布した。真因は、兵営の周辺で営業している売春ビジネスを理想倫理主義者が粛清したことにある。売春は社会の病弊であり、健康で明るい社会に売春の存在する余地はない、という理想倫理主義者の粛清行動によって売春ビジネスは兵営から離れたプリブミ社会の中に埋没し、売春宿が兵営の周囲にあることによって行なえていた性病の伝染経路と罹患した娼婦への対応が不可能になり、あたら兵士の間に性病が蔓延する結果を招いたわけだが、いつの世にも人間というものは小悪を活かして巨悪を滅ぼすという清濁併せ呑むスマートな社会操作ができず、小悪を一生懸命つぶしてまわっている間に巨悪がどんどん膨れ上がってしまうという愚行を繰り返しているようだ。実際に、性病の罹患者はヨーロッパ人独身兵士が圧倒的に多く、それに比べればプリブミ兵士や女を兵舎に持つヨーロッパ人兵士には、はるかに少なかった。

そういったデータを元にして、世間で取り沙汰されている兵舎のニャイ撲滅論議に軍上層部が反論したことがある。東インド植民地軍兵営内における最大の問題は、実はニャイ問題でなくて酔っ払い問題なのであり、酔っ払って正気を失った者たちが行なう喧嘩暴力沙汰から物盗りなどの反社会的行為が軍隊内での秩序維持に大きな問題を投げかけていた。ヨーロッパでアル中になっていた人間が金のために徴兵に応募し、東インドに送られてきて兵営に入る。かれらは朝目覚めるとまず一杯引っ掛け、休憩時間のラッパが鳴るとキャンティンに駆け込んでまた一杯引っ掛けるという毎日を送った。そういう人間たちがそうでない人間を仲間に誘いこむのは、何ら珍しいものではない。アル中問題は軍内部で頭の痛い問題になっていたと言える。1891年には、午前9時半までキャンティンでアルコール飲料販売を禁止する軍司令官命令が出されている。
それに反してニャイ問題は、軍上層部にとってはむしろ経済的社会的にメリットのあることがらと受け止められていたようだ。既に述べた性病の問題から始まって、兵舎内に女を持っている兵士は、アルコールにのめりこむことも少なく、周囲の人間との不調和を起こすこともあまりなく、かれらは毎日の暮らしに規則性と堅実さを実現させ、自分の女と子供たちの間で明るい有意義な生活を営むことを志向する高い傾向を示した。
異教徒異文化人でコミュニケーションすら隔靴掻痒の思いを抱く人間関係であったとはいえ、ニャイたちは自分の男によく仕え、暖かいムードで男を包み、男に責任感を感じさせるような接触のしかたをも十分にわきまえていた。愛だ恋だといった情緒的な精神作用が存在しなくとも、一対の男女が謙虚に誠実に自分の役割を果たそうとするとき、そこに生まれる日々の生活に対する協調性や責任感は優れた家庭を形成するための基盤をもたらし、その基盤がその男女の間に深みの異なる愛を積上げていくという作用が実際に起こっていたことをそれは示しているように、わたしには思える。愛や恋に支えられた性行為しか認めなくなっている現代人が忘れがちな、人間が持っている別の面をそこに見るのは、わたしだけではあるまい。
そんな場に育まれた愛を物語るエピソードも少なくない。文民社会とは異なるそのような環境の中で、女たちは自分の男への忠誠を想像もつかない形で示して見せた。それは、上で述べたような、自分の男に奉仕し、男を優しく包み込む女性的母性的なニャイの姿からは想像もつかないものだったのである。


そもそも軍隊というのは男の世界であり、兵員ひとりひとりに物理的な闘争の力を最後の一滴まで振り絞らせることを目的にしている集団であることが、軍隊内での日常生活を粗野で殺伐たるものにしていた。その世界に混じりこんだ少数の女たちが、そういった環境を中和させることなどできるはずがなく、むしろ生き残るためにそこに適応していくことが女たちの必須条件となったのも当然だ。つまり、兵舎の女たちの日常生活が女の優しさだけで営まれたのでは決してなかったのである。
兵舎の中で、似たような境遇にある別の女との間で諍いが起こるとき、その決着は物理的な力を使って行なわれるのが常識になっていた。たいていの場合、諍いは競争や嫉妬に由来した。金もスペースも所有物も、あらゆるものが十分に、また平等に行き渡ることなど決してない兵舎の中で、女たちは自分の存在の場を確保しなければならない。そこに競争が生まれるのは当然の帰結であり、競争の勝ち負けはたいてい力関係で決まったから、女たちはそういう環境の中で雄々しさをたたき上げられていった。
文民のニャイは他の使用人を統率する女主人の役割を担ったが、兵舎のニャイには使用人などいなかった。男を世話し、自分の身の回りをも自分が世話しなければならないのだ。軍隊は時間が区切られている世界だ。そんな時間に追われる世界の中で、女たちはてきぱきと仕事をこなさなければならなかい。自分の身を美しく装う余裕などありはしない。だから兵舎のニャイは文民のニャイと同様に白いクバヤを着たが、文民のニャイのような長袖のクバヤを着ることができず、短袖を着るのが普通だった。また長い髪を結い上げて髷を作るのも、かっこうをあまり気にすることなく手早く行なったから、女の魅力を発散させるような滑らかで整ったものにならなかった。兵舎の男たちは女たちのそんな髷をコンデ・ペルドーム(konde perdom)と呼んだ。ペルドームはオランダ語のverdoemdに由来している。そんな姿で兵営の雑事を主体的にこなしていく雄々しい兵舎の女たちを、軍上層部は得がたい好運だと見ていたふしがある。

兵営から男たちが遠征に出るとき、女たちは残って兵営守備隊を補強した話は先にしたが、場合によっては女たちが軍の出征に従うこともあった。長期の遠征になれば、兵士たちは戦地でのキャンプ生活に不便をきたすことになる。その無償の戦力増強を規律という名目の犠牲にするほど、軍上層部は形式主義でなかったということかもしれない。セケリールロフスの小説「飢餓行軍」の一節はこのような文章だ。
・・・・サディナは兵舎の女であり、軍キャンプの女だ。かの女はもう年をとりすぎており、兵舎の中でも人気は低い。しかし、ここ、軍キャンプの中では、高い価値を持っている。かの女は十年という歳月を鉄条網に囲まれて兵隊たちと過ごしてきた。時にはここ、時にはあそこ。どこであろうと大差ない。どこも方形で鉄条網に囲まれ、兵舎があり、墓がある。食事を用意し、男が戻ってくるのを待っていると、帰ってきたのは死体だったり、瀕死の重傷であったり、また消息を絶ったという知らせでしかなかった。サディナはもう6回もそんな体験をしている。・・・・男の分隊がパトロールに出て、ジャングルに呑み込まれてしまう。戦闘の中で、蛮刀が男の身体を裂き、生命を奪う。男が敵の要塞に突入し、銃弾を胸に受け、腕を斬りおとされ、担架で運ばれてきたとき、出血多量のために目の前で息を引き取った。・・・・翌日には、サディナの傍らに別の男がいた。いや、その日のうちにそうなったことすらある。寝所が24時間以上空いていたためしはない。なぜなら、このような軍キャンプにいる女は数がきわめて少ないからだ。・・・・
サディナのような女たちが、セックスを含めた男の世話をするためだけに軍キャンプにいたわけでは決してない。かの女たちは戦闘要員でもあったのだ。リン・スホルトは次のように書いている。
・・・かの女たちは、戦闘が行なわれている最中でさえ、自分の男に付き添っていた。行軍の中でも、自分の男たちと一緒に欠乏状態の悲惨さを身をもって体験していた。・・・・かの女たちは、戦没した自分の男やその戦友のものだった銃や刀剣を手にして戦闘に参加した。それはかの女たちのまったく自発的な行為であり、自分の男を殺した者たちに向けられた怒りと憎しみに突き動かされてのものだった。かの女たちの勇気・戦功・忠誠への褒章はない。自分もそこにいたのだということを示すものとして、男たちと一緒に暮らすハードな生活習慣をかの女たちは維持した。頭のコンデペルドームにタバコを一本挿し、口には火のついたタバコを一本くわえ、クバヤの腕をまくり、サロンの裾をたくしあげ、粗野な言葉を恥ずかしげもなく相手に直接投げつける。かの女たちの姿はそんなものなのだ。かの女たちは度胸があり、人間の死を身近に見てきているために、何も、また誰に対しても怖れることがなかった。かの女たちは前世紀の兵舎の女の特徴的なサンプルであり、次世代の者たちへのお手本だった。息子は軍に入隊させ、娘は兵士と結婚させて兵舎の中で一緒に暮らした。・・・・

兵舎の女たちが東インド植民地軍に果たした貢献は公式記録に一切載らなかったが、事実にまつわる話は必ず世に現れるもののようだ。1855年3月31日付け新聞ヤファボドに掲載された婚姻告知広告には戦場の女が兵士を敵中から救出したありさまが物語られている。

退役大佐(退役特進)テオドルス・ポランド は
子供たちの母であるジャワ人女性 フィーン と
婚姻しました
この婚姻は、1833年にわが身を救出してくれたフィーンの勇敢さへの謝意と褒章として行なわれたものです。・・・アムロゲン要塞からの帰還に際して・・・重傷を負ったわたしを死から救い出すことでフィーンはその勇敢さを実証しました。助手のひとりに手伝われたフィーンは、わたしを毛布に包んで担架に載せ、追撃してくる敵を振り払いながら4.5キロの道のりを進み、敵の最前線を突破して安全圏までわたしを運んだのです。そのとき、フィーンは妊娠後期の身重な体だったというのに。
1855年3月21日、プルウォレジョにて

その時代、軍内部のヨーロッパ人にとって、プリブミであるニャイを正式な妻にするということはむしろネガティブな見方になっていた。ヨーロッパ人の法的に正式な妻になったからといってプリブミ女がそのままヨーロッパ人社会に入っていけるわけでもなく、かえってヨーロッパ人の夫の側にコミュニティから疎外されるというリスクが待ち構えていたのだ。下士官ならまだしも、それをあえて犯す将校に対するコミュニティの風当たりは凄まじいものだったにちがいない。だからテオドルス・ポランドは退役するのを待って、命の恩人を正式な妻にしたのだ。退役してから、自分のニャイを正式な妻にした高級軍人は少なくない。ポランドは退役してから程なく婚姻し、1857年に世を去った。
文民社会でも、ニャイの制度を社会から駆逐するための強い駆動力となったのが子供の問題だった。トアンとニャイの間に生まれた子供たちの運命を社会的な見地から批判する声が、妾という風習を閉ざされた世界に封じ込める結果を最終的にもたらした。軍隊の中のニャイも、その廃絶を志向するひとびとは類似の論法で内縁関係という仕組みを追い込んで行ったが、こちらの方は男たちの性行為に関する歪んだ異常な行動というイメージ的な武器が加わり、反対論者たちの倫理的な怒りは文民社会の比ではなかったようだ。
面白いことに、文民社会でのニャイ制度を擁護する論調は批判の声が強さを増すとともに瞬く間に世間から姿を消したが、軍隊のニャイ制度に関しては東インド植民地軍が最後までその存続を擁護する姿勢を維持した。兵舎の女たちはそれだけ大きい実用上のメリットを軍隊運営に与えており、文明社会の倫理面における当不当とは異なる見地から軍上層部もそのメリットが得がたいものであるのを認めていたため、そのような軍の姿勢が生じたにちがいない。

兵舎の子供たちは、anak tangsiあるいはanak kolongと呼ばれた。anak tangsiは文字通り兵舎の子供であり、anak kolongは兵舎の中の父母のベッドの下で寝起きする子供を意味している。プリブミ社会でも、それらの名称は母親の放縦なセックス行動から産まれた私生児という意味を持たされた蔑称として使われ、兵舎の子供たちは同年代のプリブミ社会の子供たちから、まともでない家庭の子供という見方で蔑まれた。
兵舎の子供たちがすべて兵舎の中で産まれたわけではない。プリブミ社会の中で子供をなしていた女性がなにかの縁で兵舎内に入るようになったときに連れてきた子供も混じっている。中国人の姿をしている子供を東インド植民地軍の兵舎の中で身ごもることなどありえないのだから。褐色の肌の純血ジャワ人、切れ長の目をした子、アフリカ人、そして欧亜混血という、現代国際社会を地で行くような社会がそこにあった。
兵舎の中でも避妊は女の責任という考えが根付いていたから、基本的に子供ができるのを望んでいない男たちだったとはいえ、性行為の中で男の側に妊娠を避けようとする姿勢はあまり見られず、その結果妊娠したニャイがトアンに離縁される結末を迎えることも稀でなかった。子連れになった女が別のトアンを得る機会は大きく低下する。兵舎の中に身の置き所を得られなくなったら、自分と子供が疎外と侮蔑の暮らしを余儀なくされるプリブミ社会に戻る以外に方法はないのだ。そういう立場から抜け出そうとして、子供を売る母親も現れた。もちろん、その時代、激しい貧困のために食えなくなったジャワの農村社会では、子供を売ることは一般家庭でも行なわれており、妾だから、私生児だから、ということだけがその原因になっていたわけでは決してない。
1890年の報告によれば、兵舎に暮らす子供は2千5百人いたとされている。1900年、その数は7千人に増加した。そのうち1,746人は父親がヨーロッパ人兵士であるとされているが、子供を産ませたヨーロッパ人兵士の全員が自分の子供について正直に届け出たかどうかは疑問だ。
兵舎の子供たちは12歳がほぼ上限であり、12歳を過ぎると兵舎を出て行くのがかれらのたどる道だった。特に欧亜混血児の場合、父親が子供をヨーロッパの親族のもとに送ることもあったし、あるいは母親と一緒にコロニーの文民社会の中に送り出すこともあった。そうして父親が軍を引退してから父親と母親が結婚して一家で暮らしはじめるというケースが多かったが、そうならないまま父親が姿を消したり、母親が子供と一緒にその家を去るようなケースも起こった。
たとえしっかりした家庭生活を築くことに成功したとしても、コロニーの文民社会で欧亜混交家庭が経済的な成功を博すことは稀であり、大勢がマージナルな社会生活を余儀なくされたのである。20世紀はじめのコロニー社会でヨーロッパ人貧困家庭の中の三分の一は主人が軍人あがりだった。コロニー社会は東インド植民地軍への尊敬の念を抱いておらず、そのため軍人あがりの人間に与えられる就職口はあまりなかったし、コロニー社会に溶け込むことすらハードルが高く、疎外を感じることのほうが多かった。しかしかれらは生きて行かなければならない。そうなると、反社会的な隙間に入り込んで行くしか道はなくなる。かれらの多くが密造酒の販売や非合法賭博場あるいは売春宿の事業を運営するようになっていくのも、自然の流れだったにちがいない。

兵舎の子供たちの行き着く先は、たいていその親と同じものになった。息子は兵士になり、娘は兵士の妻になって、みんなが同じ兵舎の中で暮らした。教育を受ける機会や個性と能力を高める機会などほとんどないままに成長した兵舎の子供が文民社会に受け入れられる余地はほとんどなかった。そもそも軍隊から出てきた人間を劣等視するのが文民社会の習慣としてコロニーに定着していたのだから、子供がそういう扱いをされるのも当然だったと言えよう。東インド植民地軍の中で生活してきた者は、知能が低く、野蛮で、信用のおけない、倫理の崩壊した人間であるというのが、軍隊の外でかれらに与えられた評価だった。そして、そういう評価の根底に置かれていたのが、兵舎の中で行なわれているニャイ制度のイメージだったのである。
兵舎の中はまるで売春宿そのままであり、男と女が酔っ払ってだれとでも性交する。性病が蔓延し、ヨーロッパ人兵士とプリブミ女たちが交わすフリーセックスで褐色の肌をした混血児が生まれてくる。淫らな乱交が繰り広げられ、その結果娼婦たちが産んだ混血の憐れな子供たちは明るい未来を持たないまま、運命の流れにまかせて愚かな一生を送っている。そんな軍隊生活のありさまは東インドの恥部であり、兵舎のニャイという風習を即座に廃絶しなければならない。そんな論調がコロニーでも本国でも強さを増した。


1890年ごろから、オランダ議会でこの問題に焦点が当たりはじめる。植民地大臣は、徐々に廃止させる方向にもっていく所存である、と答弁したが、実際には何もしなかった。過熱する反対論者の熱さましを試みただけだったということだ。その後も、交代した植民地大臣たちは口をそろえて、キリスト教の原理に反し倫理に背く兵舎のニャイ制度はあってならないものである、と威勢よく答弁したものの、実際には同じ姿勢が維持された。
議会での論議は続けられ、現地視察をしてきたという議員が議会報告を行なったが、兵営における性生活を極度に誇張した内容が更に反対論者の舌鋒を激化させていった。兵舎では12〜16歳の子供たちが女たちと定期的にセックスしているといった淫乱な話を聞かされたオランダの民衆が東インド植民地軍にどのようなイメージを抱くかは明らかであり、そういった効果を狙って事実でなく根拠も薄弱なさまざまな話が人口に膾炙した。
1911年を過ぎるあたりから、廃絶論者が分厚い層をなすようになり、当事者である植民地軍当局の反論も強さを増す。キリスト教モラルに関して反論の余地はないが、かといってきわめて大きいメリットをもたらしている兵舎のニャイをむざむざと捨て去るのは現実的でない、という主旨がその反論になった。ニャイを持っているヨーロッパ人兵士たちの実態について、性病罹患ははるかに少なく、兵営の外に出歩いておかしな行為を働く者もおらず、男だけの世界で起こりがちな男色さえかれらには無縁であり、そのようなメリットを簡単に放擲するのは過誤のもとになる、と軍当局は言うのである。植民地軍当局が強い姿勢で反論を加えたのは、軍司令官自身が兵舎のニャイ制度を擁護していたからだ。
「ニャイがいるおかげで兵士たちの戦闘意欲が高く維持されている。ニャイの世話を受けている兵士は、ニャイのいない兵士に比べて肉体的精神的にはるかに充実している。故郷から遠く離れ、愛する家族と別れて寂しい思いをしている兵士にとって、かの女たちはしばしば大いなる解決を与えることができる。それがゆえに、この憐れな者たちが置かれている境遇に変化がもたらされることはよい結果をもたらさない。」
司令官はニャイのいなくなった兵舎で何が起こったかの実例を開陳した。西ジャワ州ガンバンの兵営でニャイを持つことが禁止された際、兵舎内の兵員の半数を超える者が男色を行なったことが判明した。またある守備隊で一定期間買春を禁止したところ、独身兵士たちの中に近隣住民の女性や子供をレイプする者が出た。

もうひとつのポイントとして重要なことは、ニャイを廃絶して正妻のみに変更した場合、既婚者それぞれに住居を与えなければならなくなることだ。その経済負担は生やさしいものでない。ニャイはプリブミ女性、正妻は純血ヨーロッパ女性と考えているヨーロッパ人は、相手がニャイであるから兵舎内の雑居を厭わないのであり、ヨーロッパ女性がそういう暮らしを受け入れるわけがないから、プライバシーのある住居を求めるに決まっている。そしてヨーロッパ女性を呼び寄せるための航海費用、さらにはヨーロッパ人家庭にふさわしい生活レベルを与えるための昇給といったことが続けば、軍隊運営は費用面で破綻してしまう。たとえモラル的に劣っていることであっても、そのような大きいメリットがあることを忘れてはならない。東インド植民地政府はモラル上の障害を蒙りながら、経済的な利益を確保しているのである。
1889年、コロニー内で廃絶議論が盛り上がってきた兵舎のニャイ制度に関する擁護表明を東インド評議会が発表した。1903年、東インド評議会は再度擁護表明を出し、軍司令部が採っている兵舎のニャイ制度に関する姿勢を全面的に支持し、兵舎内のモラル向上のための新たな法規を定める必要性は見られない、とこれまでの態度を再確認した。歴代の東インド総督も軍司令部の方針を支持した。
オランダ本国でも、植民地大臣は議会の反対派が動きを起こすつど、植民地政府と植民地軍司令部に対応を相談したし、また反対派に対抗するために議会でロビー活動を行なった。現職議員の中にも東インド植民地軍の軍歴を持つ者が多数いて、かれらは兵舎のニャイの風習を肌身に感じる体験を持っている上、植民地軍や植民地政府上層部との関係や愛着を維持していたことから、議会内で反対派が一方的に旗色を強めたということでも決してない。

しかし、1912年ごろまで続いた拮抗状態もついに終焉を迎えるときが来た。植民地軍出身で1904年から1909年まで第64代総督を務めたファン・ヒューツに代って第65代総督の座に就いたイデンブルクは、コロニー社会でますます強さを増す反対の声をこれ以上抑えることはできないと考えたにちがいない。それまで、この問題に関するかぎり一枚岩だった軍と政庁の間についにひび割れが生じたのである。イデンブルクは、子供のまだいないトアンとニャイが婚姻するのを禁止し、兵舎のニャイ制度は徐々に廃止していくことを表明した。制度の継続を支持していたひとびとは一斉にイデンブルクを大衆に媚びる人気取り政策者だと非難したが、世の中はイデンブルクが登場するもっと以前から、倫理的な見地のみに立脚して廃止させることを決めていたのである。
1913年になると、兵舎のニャイは激減した。政庁のバックアップを得た反対派の声が兵舎内を震撼させたのだ。部下兵卒のモラル生活を、部隊の内外を問わず指導するよう士官・下士官に命令が出され、また兵士への慰安娯楽の機会も増やされた。
1918年、コロニー在住のヨーロッパ人に対して兵役が義務付けられ、かれら文民が一定期間兵舎内に入って過ごすことによって、これまで培われてきた軍の閉鎖性が粉砕された。それが、兵舎内で女が暮らす風習に最期のとどめを刺したにちがいない。最終的に、1919年、第66代のファン・リンブルフ・スティルム総督が兵舎のニャイ制度に引導を渡した。


< 農園のニャイ >
ニャイには、もうひとつ異なるカテゴリーがあることをレギー・バアイ氏は主張する。それは、農園のニャイだ。人跡未踏のジャングルを開墾して作られた農園を経営する者は最初、たとえ妻帯していても妻をそんな場所へ伴うことをしなかった。妻をそういう土地に連れていくようになるのは、ずっと時代が下って、その周辺が人口稠密になり、文明的な町が作られるようになってからのことである。必然的にトアンの身の回りを世話する現地の女性が必要となり、ニャイが生まれるという筋書きがそこに出現する。しかし、その種のニャイは既に文民社会の中で見てきたではないか、と読書はきっとお考えになるにちがいない。レギー・バアイ氏が取り上げているもうひとつのカテゴリーというのは、北スマトラ地方東海岸部に作られたジャワとはかなり性格の異なる農園を指している。かれの言う「デリー農園のニャイ」がその第三のカテゴリーなのだ。

農園を経営するヨーロッパ人トアンがニャイを持つことはジャワやマルクではるか以前から行なわれてきたことであるから、スマトラのデリー農園がその伝統に倣うことは何らおかしなものではない。西ジャワのプリアガン地方に多いコーヒーや茶の農園、中部ジャワや東ジャワに多いサトウキビ農園、マルクのさまざまな香料植物農園など、民間が開発して家族ぐるみで代々経営されていた農園はたいていその家系図のどこかにニャイの姿が見え隠れしている。ジャワやマルクで先祖代々農園経営者だった一族は依然としてヨーロッパ系のファミリーネームを用いているところが多く、そしてその一族の構成員はたいてい褐色の肌をしていることがそれを証明している。
それら農園用地は政庁が領有した土地を民間に売却した私有地であり、土地所有者は地主としてあたかも封建領主のような立場に自らを置いた。村長を頭とするプリブミ社会は地主の領民とされ、地主は単に土地のオーナーであるというだけでなく、プリブミ社会の統治を行い、領民の収穫の一部を取り上げ、領民に賦役をすら課した。そういう仕組みの中で、ヨーロッパからやってきた男たちが自分の身の回りの世話をさせるために領民の娘をニャイにしたのは、きわめて自然の成り行きだったにちがいない。

文明社会から遠く離れ、ジャングルに取り囲まれた農園での日々の暮らしは、ヨーロッパ人トアンに寂寥と孤独をもたらすものだ。ニャイの存在はそんなトアンへの慰藉と身の回りの世話、そして性的欲求の充足という効用に加えて、農園に関わっているプリブミ社会と地元の知識に欠けるヨーロッパ人トアンの仲介者として架け橋を設けるという、経営上の大きい効用をももたらすものになった。
農園で産する収穫物を商う華人商人の娘をニャイにすれば、上のメリットにもうひとつ効用が付加される。ニャイが農園と物産流通を結びつけてくれるのだ。ニャイの父親を通してその農園の産物が流通ネットワークに載せられていく。そのビジネス上の効用は多くの農園経営者にとって魅力的だったようだ。ジャワの農園のニャイの多くは、華人商人の娘か、そうでなければ領地のプリブミ社会の長の娘であったと記録されている。


19世紀後半は、政府が経済活動を民間に委ねるようになった時期だ。それはアジアに設けられた各国の植民地で同じように進行した。国際市場で物産の流通量が顕著に増加し、生産を強化するためにヨーロッパの事業家がこぞってコロニーでの農園開発に乗り出した。それまで手付かずだった北スマトラの東海岸部に焦点が当たるようになるのも当然の勢いだった。北スマトラとは言っても、スマトラ島北端のアチェは依然として独立王国であり、オランダ植民地政庁の支配に屈していないためにその領土に入るのは無理であり、アチェの南側にある現在の北スマトラ州がその対象になった。
その地域は内陸部がバタッ人のエリア、海岸部はムラユ人のエリアで、1632年以来スルタンを国首とするデリー王国が存在していた。デリー王国はアチェ王国とシアッ王国に服属していたが、シアッ王国が1858年にオランダ政庁に屈服したとき、デリー王国の宗主権をオランダに差し出したため、デリー王国はオランダ政庁の支配を受けるようになる。
オランダ政庁は1861年にデリーのスルタンを独立王国の主として承認した。つまり、デリー王国の土地利用権をスルタンが自分の一存で与えることのできる環境が作られたということになる。東インドにタバコ農園を持とうとしていたJFファン・ルーウェン社が調査を開始し、派遣されたヤコブス・ニンホイスが1862年にデリーにのり込んだ。原生林に覆われた湿地帯を貸すことにデリーのスルタンは何の異存もなかったようだ。このデリーのスルタン王家は今も存続している。

問題は、タバコ農園で働きたいデリー王国の民衆がいなかったことだ。十分に食えていればあとは遊ぶだけというのが当時の民衆の常識だったにちがいない。仕方なくニンホイスはマレー半島に渡ってペナンから中国人労働者を120人連れ帰った。連れてきた労働者は最初住居がなかったので、ニンホイスは自分の邸宅に住まわせたそうだ。農園経営者がどれほど豪壮な暮らしをしていたかを髣髴とさせるような話だ。ムラユ人はそのとき23人しか集まらなかった。
農園事業が軌道に乗ると、1869年にニンホイスはピーテル・ウィルヘルム・ヤンセンと組んでNVデリーマスハペイ(デリー会社)を興した。それからというもの、続々とヨーロッパ資本がデリーの農園産業に参入し、カールスルーエ、サンシアル、フランクフルト、ペルセヴェロンス、ヘルヴェティア、ガリア、ポロニアなどといった名称の会社が続出した。どの国の資本が入ってきたのかは、それらの名称から想像がつくに違いない。デリーの農園会社は普通、取締役が最高経営責任者となり、農園現場は管理長とそれを補佐する管理助手が統率した。それらの職は必ずヨーロッパ人が就き、プリブミにせよ他のアジア人にせよ、その職に就くことはありえなかった。その下に肉体労働者であるクーリーを監督する役目のマンドールやタンディールがいた。マンドールやタンディールは反対に、ヨーロッパ人は決してその職に就かなかった。
組織内でのヒエラルキーはたいへんシンプルで明快なもので、上から下への罰や制裁は頻繁に行なわれ、しかもたいへん厳しい形で行なわれた。管理長から管理助手、管理助手からマンドールやタンディール、マンドールやタンディールからクーリーというヒエラルキーの階段を毎日厳格な罰と制裁が転がり落ちて行った。


デリー王国は内陸部に住むバタッ人人口が2万人、沿岸部に住むムラユ人が1万2千人という領民構成になっていたが、農園会社で働こうとする者はめったにいなかったので、進出してきた農園会社のクーリー調達はマラッカや中国さらにはジャワで行なわれた。
スマトラの農園で肉体労働者として働くための契約にサインするのは、今現在の境遇が極貧で、そこから脱け出せる希望がないからだったが、いざデリーへ来て仕事を始めたとき、そこにもかけらほどの希望がないことを発見して、かれらの大半は愕然とし、絶望した。
最初はマレー半島から中国沿岸部にまで手を広げていたクーリーのリクルートは、ジャワの貧困化が進んで出稼ぎ者を調達するのが容易になると、ジャワ島にシフトした。金のない貧困者を縛る縄は金だ。金を貸し、デリー農園で働けば高額の報酬が得られて借金はすぐに返済でき、あとは金を貯えて故郷に錦を飾るだけだという口説き文句にそっくりのセリフは、貧困農村の若い娘を売春ビジネスに釣り出す手管としていまだに使われている。

働く意思を示した農民に契約書を示してそこにサインさせるのだが、ほとんどが文盲のジャワ農民が自分で契約書を読めるわけがなく、雇い主であるデリー農園の意を汲んだリクルート役のジャワ人ブローカーが読み上げる契約書の条文が本当に言文一致であったかどうか、その保証はどこにもない。集めた人数でひとり頭いくらという金をもらえるブローカーが何を考えてどのようなことをしたか、東インド植民地軍兵員徴募のブローカーの例は先に見てきた通りだ。そしてジャワ島でのこのケースでは、それに輪をかけて詐欺と欺瞞に満ちあふれていた。
契約書には報酬がひと月5リンギットと記されている。いくら文盲でも、数字は読める。文盲とは言っても文字を知らないわけではなく、文字で書かれた文章を読んで、その意味が理解できないというのが実態だったようだ。数字や金種あるいは桁表示などの表記が理解できなければ経済活動に携わることができず、生きていけなくなる。だから、農民たちもその部分は自ら契約書を見て確かめている。ところがそこに落とし穴があった。
ジャワで1リンギットはオランダ通貨の1レイクスダアルデルと同額になっている。つまり2.5フルデンだから、5リンギットは12.5フルデンになると農民たちは考えた。それはたいそうな金額なのである。ところがいざデリーで労働報酬をもらったとき、かられの手に渡されたのはメキシコドル5枚だった。メキシコドルの価値は1.15フルデンしかない。12.5フルデンもらえると思ってやってきたデリーで実際にもらったのは5.75フルデンでしかなかったのだ。苦情を言うクーリーたちに管理助手の怒声が轟き落ちた。「デリーで1リンギットというのはメキシコドルのことなんだぞ!」
クーリーたちがメキシコ銀貨をもらえるときはまだ良かった。雇い主はときに、何の前触れもなく現金でないものを代りに支給したのだから。スタートボンと呼ばれるクーポンがそれだ。このスタートボンは農園内にある売店でのみ通用した。

雇用契約関係にあるのだから、雇用主はクーリーの生活を支える義務を負っているはずなのだが、現実にそのような理想論は雲の上の話に祭り上げられ、白人優位の人種差別思想がからまってクーリーは悲惨な暮らしを余儀なくされた。クーリーの農園内の暮らしにはさまざまな規制が適用され、一方ヒエラルキー上位者はそのようなものに拘束されず、クーリーが規制に違反すれば処罰が与えられたが、そのようなことがらを明文化したものなど何ひとつなかった。
農園運営上で何らかのミスが発見された場合、ミスの責任はヒエラルキーの階段を下って降りてきて、最下層にいるクーリーが人身御供にされるのが当たり前のことになっていた。その処罰も上位者による恣意的な運用が普通で、明文化されているものなどなかったのだ。
クーリーたちの契約期限が来ると、農園管理者は突然、農園内でさまざまな慰安娯楽行事を行なった。ワヤンが上演され、賭場が開かれ、酒を飲み、夜っぴてお祭り騒ぎが繰り広げられ、普段中に入ることが厳禁されている娼婦たちも大っぴらに農園内で商売が許された。クーリー監督者は大量の現金を懐にし、クーリーの借金申込みを恵比須顔で受け入れた。賭場で勝ち続け、高額の現金を手にして農園を去るクーリーが出るような愚かなまねを農園側がするはずもない。もしもそんなクーリーが出現したら、かれは町へ向かうジャングルの中の一本道で姿を消したにちがいない。
しかしほとんどのクーリーはその策略に乗ってまた借金を作り、次の契約書にサインすることになった。故郷に錦を飾ることなど、かれらはもう諦めていたにちがいない。

遠いスマトラの果てのデリーの地に出稼ぎに行った身内を持つジャワ農村の一族は、風の噂に恐るべきデリー農園の実態を知ることになる。その話がジャワのプリブミ社会に広まると、新規のリクルートに応じる者が激減した。そうなると困るのはリクルートブローカーたちだ。かれらは実力行使を行い、働けそうな少年から壮年までの人間をかどわかすようになった。自動車などめったに通らない田舎の村に自動車がやってくると、村人たちは先を争って家の奥深く隠れたと言われている。

ジャワの農園に対する強い姿勢とはうってかわって、植民地政庁のデリー農園に対する姿勢は低いものだった。デリーの農園主およそ70社が1879年にデリー農園会社ユニオンを結成し、利益団体としてロビー活動を開始したことがそこに反映されているようだ。政庁はデリー農園の自治を尊重して実態調査もあまり行なわず、あげくのはてにクーリー法が出されるに至ったのも、そんなロビー活動の成果だったにちがいない。
クーリー法では、クーリーの逃亡、就業拒否、怠惰その他さまざまな行為を刑罰の対象にしており、おまけにヨーロッパ人経営者や管理者に対する名誉毀損、きわめて広範な解釈が可能な反抗姿勢、煽動、あるいは泥酔など、雇用契約から大きく逸脱した人間の行為や姿勢を取締る内容が盛り込まれた。このように統治支配者からの抑圧を一身に浴びることになったクーリーたちに対して、威嚇や恐喝あるいは残忍な制裁や虐待が加えられる傾向がクーリーを使う者の側に強まっていくのは自然の摂理だろう。一部特定の人間に政治差別が与えられるとき、被差別民に暴力を加える者たちはたいてい法の裁きから免れているのが普通であり、デリーの農園会社にもそのままの縮図が投影されていた。


1870年以後、デリーにやってくるヨーロッパ人は急増した。オランダ・ドイツ・ベルギー・フランス・スイス・オーストリア・ポーランド・ハンガリーなどからやって来たまだ若い男たちは、農園事業を始めるため、あるいは農園に雇われて働くための者がほとんどだった。農園内のヨーロッパ人ヒエラルキーでは最下層である管理助手の人数が最大であり、最初の十年間、そこは男ばかりの世界だった。会社が職員に、雇用後最初の6年間結婚を禁止したことも影響している。6年経過すれば結婚が許された。会社がそのような方針を採ったのは、まだ若い管理助手がヨーロッパ人女性を呼び寄せ、結婚式を行い、家庭を築いて維持するだけの経済的能力を持っていないと判断したためだ。抗議を受けながらもその方針は維持され、1919年になってやっと結婚禁止令を解除する会社が出現した。

ところで、農園が最初は男だけの世界で始められたのだが、そんな状況が長続きするはずもなかった。ほどなく女クーリーがたくさん集められるようになる。労働力需要が増加し、男クーリーが増加すると、性欲処理が大きな問題としてクローズアップされた。兵営でもそうだったように、娯楽のほとんどない大きな兵舎に大勢の男が寝泊りすれば、必ず男色が発生する。兵舎を移し換えたようなクーリー宿舎でも少年たちが自分のベッドを飾ってサービスをオファーし、男娼になったかれらにアナッジャウィあるいはアナッサピという呼び名が与えられた。男色は当時のキリスト教倫理におけるセックス面での大罪だったため、それを放置することがヨーロッパ人経営者や管理者に心理的な負担をもたらしたにちがいない。
女クーリーはジャワでリクルートされた極貧層だ。かの女たちは故郷で一条の希望の光も見えない暮らしを捨てて、スマトラの果てまで希望を求めてやってきたのだ。農園での暮らしは女たちにとって過酷なものだった。ヒエラルキーの最下層にいた男クーリーたちは、やっと自分の下に新たな階層を見出すことができたのである。女はどこへ行こうが、男性優位女性劣位の原則から脱け出すことができない。

女クーリーの増加によって、男女のクーリー間で期限を定めた契約結婚が行なわれるようになる。これは契約期間だけ仮の夫婦になるというもので、法的な夫婦よりも拘束力は弱い。しかし、農園内のクーリー宿舎でノーマルな社会生活や家庭生活が営めるはずがなかったため、だれかの妻になった女クーリーも結局はもっと多くの男たちのセックス相手になっていった。経済的な問題がそこにからんでいたのは言うまでもない。だれかの妻ということになっていても、もっと経済力のある別の男の相手をもするようになったり、あるいは自分の身を売って金を得ようとすればセックス相手はひとりでは終わらないわけで、かの女はもはやだれかひとりの女という立場ではなくなってしまう。
女たちがそうなっていく原因のひとつは、賃金の性差にあった。ほとんどのデリー農園で女クーリーの賃金相場は月額2.5フルデンであり、それは男クーリーの半分に満たない金額だ。ファン・デン・ブランドの考察によれば、ジャワの女はデリーで一日の食費に15センを必要としており、それは純粋に食事だけの費用として消えるからおやつやシリを買うことすらできない。ところが月額2.5フルデンという賃金は一日8センでしかないのだ。つまり、食事すら満足に摂れないことをそれは意味している。おまけに、農園内にある売店の商品価格は外の世界の相場よりも高いのが当たり前だから、状況はたいへん過酷になる。食事のためだけにでさえ17センは必要だ、とファン・デン・ブランドは記している。
更に、女クーリーとの契約書にはたいてい「働かない日は賃金が与えられない」という一項が記されていたため、毎月の手取り収入はさらに目減りし、働かない日に他の農園に出かけて日当仕事をするのも禁じられていたから、女クーリーになるだけではまともに食っていけない状況が農園に作り上げられていたということになる。つまり、娼婦の道に女を導く状況が故意に作られていたという見方ができないこともないのである。期待にたがわず、女クーリーたちはわが身を売って食を得る境遇に落ち込んでいった。料金は一回6セン程度だったらしく、一日に客をひとり取ればその日の食費がかなりまかなえるという経済状況だったようだ。

そのような低賃金で女クーリーが農園内でどうやって生き延びているのかという質問に対してある農園主は、「それはかれらのやり方にまかせていればよい。農園内には中国人もたくさんいるのだ。」と答えている。
農園主の中には、新規雇用されてやってきた女クーリーに宿舎さえ与えない者があった。やってきた初日から、女たちは寝る場所を得るために男クーリーへの接近を強いられることになった。「かれらは本質的に娼婦なのだから・・・」農園主の口からそんな言葉が放たれたそうだ。
そんな境遇に陥れられたジャワの女性が何人いたのかについての確かな統計は一切ない。1903年にデリーにある145の農園をしらみつぶしに当たり、自らクーリーの頭数をかぞえたレムレフの報告によれば、クーリー総数は91,928人だった。一農園あたりの平均は633人と出てくるのだが、残念ながらかれは男女を別々に数えなかったから、男女比はまったくわからない。確実に言えるのは、男がマジョリティだったということだけだ。
同じころにデリーマスハペイがいくつかの農園を合算して記録したクーリー数は6万2千人で、女クーリーは5千人おり、すべてがジャワ人だった。

男たちみんなのものである女クーリーを性欲処理に使ったのは男クーリーだけではない。たとえば、1911年にデリークルトゥールマスハペイに雇用されていた管理助手は18人で、妻帯者はひとりだけだった。一方、最大規模のデリーマスハペイには管理助手が110人おり、妻帯者は12人だけ。統計によれば、デリー農園で勤務している管理助手の中で妻帯者は6人にひとりだった。
農園の事務所にはたいてい特別の小部屋があり、その中には仮眠できるベンチと机、そして鏡と洗面のためのものが置かれていた。そこで新参の女クーリーたちの検査が行なわれ、魅力的な女が選び出された。
女クーリーたちの中には、労働作業中に突然ヨーロッパ人に呼びつけられる者がいた。かの女を何が待ち受けていたかは言うまでもあるまい。たとえ、かの女がプリブミの夫を持っていたとしても、それを問題にするヨーロッパ人はひとりもいなかった。農園に暮らしているクーリー男女の間の夫と妻という関係を、ヨーロッパ人はまともな結婚と見なしていなかったからだ。事実、それは上で述べた通りのことがらだったわけだが、それはかの女たちの自由意志による選択の結果ではないのである。
しかしひとりの女を自分のものにしていた男クーリーがヨーロッパ人の行為に黙って引き下がっていたかというと、そうでないケースがいくつもあった。ましてや、ゴネれば金が転がり出てくる結末もありうるのだから、男クーリーも対応に頭を使うことになる。運が悪ければ痛めつけられてジャングルに放り出されることも、もちろんありうる。少なくとも、そういう被害を蒙った男たちの心中に怨恨が巣くったことだけは確かだったろう。
それが原因で被害者が他のクーリーを煽動し、農園内で暴動の嵐が荒れ狂うことも起こった。それはクーリーたちにもっと悲惨な結末をもたらすことになったわけだが、失うものを何ひとつ持たないかれらが破滅志向に駆られて荒れ狂うとき、農園にいるヨーロッパ人で恐怖に震え上がらない者はいなかったそうだ。


そういった事実を踏まえて、ヨーロッパ人独身者が女クーリーをニャイにして囲うほうが優れたやり方だという考えが強まった。ニャイの風習がデリー農園に広まっていくと、それは既成事実とされ、新たにデリーの農園管理助手に雇われて東インドに旅立つ青年たちにとっての基礎知識のひとつになっていった。
農園で働くなら、毎日の過酷な勤務のあと、自分の個人生活のための家事雑用などはやっていられない。だから、家の中を整える仕事をさせる女中を持たなければならない。おまけに熱帯の暑い気候と香料をたっぷり使っている食事は、男の性欲を増進させる。だから、決まった女を夜のベッドの友にしなければならない。ニャイを持つというのは、そういうことなのだ・・・・
雇用した管理助手と農園会社が雇用契約書を交わすとき、現地でかれに与えられるファシリティの内容が契約書に記載されていた。蚊帳のある寝室のついた住居の無償提供から始まり、会社資産である木製家具の借用も無料で行われた。木製家具の中には必ず風呂おけが含まれていた。そして、会社が雇用しているクーリーがひとり無償で付けられる。もしも農園の外から住居の世話をする人間を雇う場合には、毎月10フルデンがその代償として支給される。
ニャイを自分の家にひとり持ったなら、言葉から始まって東インドに関するありとあらゆる知識をヨーロッパ人はそのニャイから得ることができる。会社にとっては、雇用したヨーロッパ人がそれらの知識を求めることに応じる必要性がまったくなくなり、ヨーロッパ人は短期間のうちに現場に適応して、ばりばりと仕事ができるようになる。ニャイに関わる農園経営上のメリットを会社側はそう説明するが、ヨーロッパ人独身男性の性生活を安定させて周辺環境に波風を立たせないことが本音だったのは言うまでもあるまい。

かれが結婚するまでの期間、女をひとりあてがっておくことのメリットが実に大きなものであることを、会社は熟知していたのである。
デリーにヨーロッパ人女性がひとりもいなかったわけでは決してない。しかし、バタヴィアでさえ希少な女性がデリーでたくさん見つかるはずもない。1900年ごろまでは男性4人に女性ひとりの比率だったが、1900年を過ぎると男性3人に女性ひとりという比率にアップした。しかし、農園管理助手がその女性たちを妻にすることは不可能だった。なぜなら、デリーにいる女性は政府機関や軍隊あるいは農園管理上層部で働くヨーロッパ人の妻だったのだから。
経済的な条件以前に同胞女性と家庭を持つことが困難なのだから、家庭を築くという意識よりも性欲処理が若いヨーロッパ人男性たちを駆り立てたにちがいない。かれらの性欲を刺激する女クーリーに選択の余地は与えられていなかった。都市部の文民社会ではまだロマンチックな感情をくすぐる余裕が残されていたが、文明から隔絶された粗野で荒っぽい農園にあったのは、はるかに強く支配と強制に彩られた男女関係だったようだ。汗を流して働いている女クーリーが見回りにやってきた農園管理助手に「おまえは今からわしの家の世話をしろ」と言われたなら、その女クーリーがだれか男クーリーの所有になっていたとしても、その関係はその場で幕を閉じる。そうやってニャイになったかの女が、トアンである管理助手の帰国に際してトアンの後輩に譲られるということも起こった。一方、女を奪われた男クーリーにも、それなりの金が支払われた。そういうことがらを調整するマンドールやタンディールもいるのだ。女クーリーをいきなり自宅に連れ帰った管理助手が、後でマンドールに言われて出した金がその全額かどうかわからないにせよ、マンドールは男クーリーに金を渡して慰めるのが常だった。「悲しむには及ばんよ。次にまた若い女たちがやってきたら、おまえはその中から次の女を選べばいい。さあ、トアンからのこの金を持って、今日はひとりで寝るんだな。」


デリーの農園は完璧な男の世界だった。オスの論理はジャングルの掟だ。支配民族という権威だけで被支配者を思いのまま動かすことはできない。そこに必要なのは相手を叩きのめす力と生命を含めて相手を滅ぼすことに臆さない意志であり、それらが一体となって支配者という地位の維持を可能にするのである。そんな粗野で荒くれたオスの世界に文明世界からやってきた人間は、そのロジックに同化し、環境に適応しなければならない。大勢の若い管理助手たちの中には、そんな環境にアンビバレンツを起こしながらも空威張りの演技を身に着け、自嘲しながら契約期間を過ごした者もいた。かれらが自分のニャイに対して本音の姿をさらせるわけがない。必然的に、ニャイに対する過酷で暴力的な取扱が頻発したのも当然の帰結だろう。かれらには、自分が強いオスであることをニャイを通して農園内に誇示する必要性があったのである。
ヨーロッパ人農園管理者たちが男らしさと支配の権威を示すために弱い女をその道具に使った。逃亡した女クーリーへの仕置き、言いつけた作業の成果が見劣りしたことへの仕置き、ありとあらゆることが女に対する虐待行為として発現した。女が身ごもっていようが、病気であろうが、そんなことを意にも介さずに女を籐棒で鞭打ち、高圧電流をかけ、性器に練りとうがらしを塗りこむ支配者たちがいた。程度の差こそあれ、デリーの農園に住むヨーロッパ人の日常はそういう嗜虐的な粗暴さに彩られていたと言えよう。
性器に練りとうがらしを塗り込められ、全裸にされて農園管理者の邸宅の表に縛り付けられた女クーリー、やはり全裸にされ、高圧電流をかけられて大小の排泄物を垂れ流しさせられた女クーリー、他にも人知の及ぶ限りの仕置きを与えられたかの女たちの恥辱の大きさは支配者たちに窺い知ることのできないものだったにちがいない。それがかの女たちの多くを自殺に導いた。

女クーリーがニャイになったとき、都市部の文民社会で起こったようなヒエラルキーの上昇はデリーの農園であまり見られなかった。まるで奴隷のような身分である女クーリー、ヨーロッパ人男性の身近でその家の家政をつかさどる立場、そして支配者であるヨーロッパ人男性の妾、男性優位女性劣位という社会常識、そういった複数の要素が渾然一体となり、かの女のヒエラルキーがいったいどれなのかは時と場合で転変した。
自分の男になったヨーロッパ人男性が農園のトップの地位にあれば、農園内の環境でかの女はまるでトップレディのような扱いをされたが、かの女の持ち主であるトアンの目からは、劣位にあるあらゆる要素のかたまりとしか見られなかった。だから、デリーの農園ではニャイに対する虐待行為が外の文民社会よりはるかに多く発生した。しかしかの女たちにとっては、東インドのすべてのニャイと同様に、ニャイになったことで個人生活の経済的安定さがもたらされたのである。身を粉にして働き、ろくに食べ物も得られず、自分の体調など省みずに男の性欲を受入れ、厳しいどん底の暮らしをしていた女クーリーの時代に比べれば、生きることの困難さは大幅に軽減されたと言えるにちがいない。
1911年になって、ヨーロッパ人男性の自宅の家政を世話する女中はクーリーのカテゴリーに入らないことを定める法規が出された。クーリーたちから人間としての自由を奪っていたクーリー法がニャイたちに適用されなくなったのである。前歴がクーリーであったとしても、かの女たちはニャイになることで奴隷的な身分から解放されたと言うことができる。


農園でニャイを持ったヨーロッパ人男性たちにとっても、ニャイという存在は自分が正式に純血ヨーロッパ人女性と結婚するまでの仮初めのものでしかなかった。だからかれらは子供ができることを極度に嫌ったが、避妊は女の義務というのが依然として常識になっていた。そんな姿勢で十分な結果を得ようというのは虫がよすぎるだろう。ニャイが妊娠したとき、即座にニャイに暇を出したトアンもいれば、ニャイの出産まで面倒を見、それから赤児と共に暇を出すトアンもいた。暇を出されたニャイはたいてい、同じ農園内のクーリー宿舎に戻って赤児を育てた。 あるいは少ないケースだが、暇を出さないトアンもおり、認知した赤児が数年して大きくなったとき子供だけをヨーロッパの親族のもとに送り、そのときにニャイに暇を出すという形を取る者もいた。そうなればニャイはまたクーリーに戻らなければならないが、このような対応を採るトアンの多くはニャイにジャワへ戻らせるよう援助を与えたので、この種の好運なニャイはたいていジャワに戻っている。
スマトラ島北部でも、父親に認知されない欧亜混血児童がたくさん誕生した。20世紀初頭にメダンに旅したヨーロッパ人はその旅行記に次のようなことを書き残している。
・・・・ニャイの習慣がもたらした結果は、メダンの市内で顕著に見ることができる。市内はどこへ行っても欧亜混血児で満ちており、成人した者たちはたいていオフィスで働いている。わたしの泊まったホテルのオーナーはたいそう美しい4歳のお嬢さんをお持ちで、何年も前に母親には暇を出したが、お嬢さんはずっと自分の身近に置き、自分の子供として認知し、洗礼も受けさせたそうだ。今このお嬢さんは新しい家政婦をママと呼んでいる。・・・・
父親に認知されなかった混血児たちを受け入れたのは、母親とそして血族関係を重んじる母親のファミリーだけであったものの、そのファミリーですら血族関係と周辺社会からの反感という価値観の対立に揺さぶられたら、母親と混血児を見捨てることも十分に起こりうる。そうやって八方ふさがりになった母親と混血児はどん底の生活に落ち込んで行った。本来、自分たちの文化の中にいるべきプリブミ娘を妾にし、子供まで産ませてほうり出した支配者たるヨーロッパ人の血を受け継いでいる混血児をプリブミ社会が保護するいわれはない。加えて、異教徒との性的関係が固く戒められているイスラム社会の禁を犯したプリブミ娘に与えられた社会からの疎外という制裁によって、プリブミ社会はその母子に情け容赦ない排斥を行った。ジャワでもスマトラでも、その点に関する違いは何も無い。そしてデリーの農園には、他の場所よりももっと先鋭化された特徴があった。そこはレーシズムが強く根を張っている場所だったということだ。


支配する白人と支配される褐色や黄色の者。優れた人種であるヨーロッパ人と劣った人種であるアジア人。個人の能力でなく持って産まれた特性によって人間が差別されている社会で、その双方の特徴をまじえた人間はどの集団に入ることもできない。
そんな社会で支配層がニャイを持つのは支配者としての権力行使なのであり、愛情や憐憫で被支配層の女と家庭を築くようなことはまともな男のする行為ではないと見なされる。ジャワの都市部でもそういう傾向は強かったが、デリーの農園はそれに輪がかけられたような場所であり、ニャイを法的に自分の妻にした男はもはや農園の中に自分の居場所を見出すことができなかった。
しかし、そんな状況もジャワ島での事態の軟化に従って、デリーに新たな風が吹き込んでくるようになる。農園会社はたいてい、ニャイの風習を強く支持していた。ところがクーリーに対する残酷な扱いへの批判がニャイの風習をも巻き込んでデリーに吹き荒れるようになる。畢竟、それらのすべてが支配層の被支配層に対する圧制という特徴を持っていたのだから、ニャイの風習だけが温存されるいわれはない。その批判の根底にあったのは、世界の文明を主導するヨーロッパ人が野蛮な世界の価値観と拮抗対立するために自らを野蛮さの中に落としこむようなことをしてはならないという観念だったにちがいない。オランダ本国に渦巻いた倫理政策がそこに根ざしていたのだろう。人道的であることを求める呼び声に、デリーの農園経営者たちも徐々に軟化していった。

デリーでも、性病の蔓延がニャイの風習に対する批判の根拠に使われた。20世紀に入るとデリー地方も荒くれた環境が文明化され、女性の住みやすい環境への進展に伴って、ヨーロッパ人独身女性の数も増加し始めた。1880年代にはヨーロッパ人男性100人に対してヨーロッパ人女性は15人だったものが、1900年には30人に増え、1930年には76人にまで増加した。
女性たちはレーシズムに裏打ちされたニャイの風習に強い反感を抱き、その廃絶を訴えると同時にヨーロッパ人男性の伴侶探しを容易にしていったため、ニャイがデリーの農園から姿を消す運命がますます顕著になっていった。
1919年にデリーマスハペイが職員の結婚規制規則を廃止し、他の農園も次々とそれに倣った。デリー一円の社会がますます文明化の度合いを強めるにつれて、独身の男だけが集まっていた社会が女性化の勢いを強めるようになった。畢竟、文明化とは女性化の代名詞でもある。農園会社も既婚者を職員に雇用する傾向を強め、夫婦や家族で東インドに赴任させるための経済的援助を増やすように変化していった。

そうではあっても、デリーの農園における白人優位という人種差別に基本的な変化は訪れなかった。クーリーたちが自分らを虐げている人種差別主義者に暴力をふるって襲撃する事件はあちこちで起こっており、ヨーロッパ人管理人が生命を落とすこともあった。ただし襲撃への動因はまったく個人的なものであり、プリブミクーリーを見下すヨーロッパ人たちの姿勢が出現させた攻撃的な言動にクーリーたちが反応を返した形になっている。
1923年には農園内でヨーロッパ人への襲撃が31回発生し、その大部分は管理助手が被害者で、死者がふたり出た。1924年の襲撃事件は18回で、死者はひとり。1925年は28回の襲撃事件があって、ヨーロッパ人が三人落命している。襲撃事件はたいていひとりのヨーロッパ人に対してクーリーひとりもしくは複数名が襲いかかるパターンだ。
襲撃者の意識の中に白人支配が与えている屈辱への報復といったような社会的なものはほとんどなく、ヨーロッパ人が自分を叱り付け、激しい口調で悪口雑言を浴びせかけたことにカッとして襲い掛かったものが大部分だった。中には管理助手が酔っ払ったクーリーを叱り付けたうえにビンタを張ったため、酒ビンが吹っ飛んだという状況もあったようだ。クーリーが管理助手に殴りかかる状況が揃っていたためだと言うこともできるだろう。1929年にはある農園の管理助手が男クーリーに生産作業に関することで叱り付けたところ、その男とカップルになっている女クーリーが一緒になって管理助手に襲い掛かる事件があった。

デリーの農園主たちは、そのような事件で落命したヨーロッパ人をしのんで1925年に石碑を建てる計画を組んだ。支配者たるヨーロッパ人にプリブミが暴力をふるってくる現象は白人支配への危機であるという意識に駆られてのものだったが、その計画は実現しなかった。ともあれ、プリブミ女をニャイにすることが白人支配の権力行使という見方を伴っていたことは先に述べたが、その結果として出現した多数の欧亜混血児、父親に認知されなかったためにヨーロッパ人社会の中に受け入れられないまま成長した褐色の肌をしながらヨーロッパ人の名前を持つかれらの存在が、プリブミに対する白人優位とその支配を蝕むものになるという声が20世紀に入ってから強さを増し、ヨーロッパ人とプリブミとの混交結婚やニャイの風習、そして欧亜混血児に対する嫌悪感を世の中に醸成して行った。
そんな気分の高まりが文民社会、兵舎、そして農園におけるニャイの減少を導いたものの、それで東インドからニャイが完璧に姿を消したかと言えば、そうでもない。経済的なメリット、責任の放棄に対する社会制裁の希薄さ、そういった利点を持つものがそう簡単に消えてなくなるはずがない。反対の声が高まれば高まるほど、それが社会の水面上から姿を隠すことは世の常であり、水面上に見えないから存在しないということには決してならないのを忘れてはなるまい。


< 混血の子供たち >
東インドにおける欧亜混血児の数は17〜18世紀のVOC時代と19世紀後半から20世紀という時代で大幅に異なっている。そのほとんどがヨーロッパ人男性とアジア人女性の間に生まれた子供であり、女性のステータスは法的な妻よりもむしろ内縁関係であるニャイのほうがいずれの時代も多かった。
VOC時代に生まれた混血児の中には、その父親がコロニー支配層に属す者であるケースが見られ、父親は混血のわが子を大切に扱い、名前を与え、認知し、4〜5歳になったらオランダ本国に送って教育を受けさせた。本国で、自分の親族に預けたケースもあれば、金を払って子供の養育を引き受けてくれる一家に預けるようなことも起こった。その習慣は20世紀に入っても継続され、東インドで発行されている新聞の広告欄に、オランダ諸都市に住む家庭からの「子供の養育を引き受けます」という広告が頻繁に登場している。VOC時代のそんなゴールデンボーイたちは成長すると東インドに戻り、父親の築いたVOC内の勢力を維持するためにキャリアの階段を上っていった。しかし、オランダで伴侶を得たり、父親が帰国するといったことで、東インドに戻る機会を失した者も少なくない。もちろん父親は子供の産みの母を連れずに帰国するケースがはるかに多かったから、子供が実の母親に会う機会は永遠に失われることになった。かといって、東インドに戻った子供たち、いや青年と言ったほうがよいだろう、にしても同じだが、かれらがその人生の中でプリブミの母親を必要としたかどうかはわからない。

そんな階層より低いレベルでは、子供を手元に置いて養育する家庭の方が多かったようだ。子供が将来コロニーの要職に就き、あるいはキャリアの階段を上っていくように希望する父親は、子供に家庭教師をつけた。特に地方部の豪邸に住まう一家は、オランダ語やフランス語の能力およびヨーロッパの教育を子供に完璧に身に着けさせるため、住み込みの家庭教師を雇うことが多く、デリーの農園でもそれは同じように行われていた。ヨーロッパ人家庭教師がメダンとバタヴィアを往復する場合の交通費は雇い主が負担したようだ。中には、子供の家庭教師とともにその家の家政を取り仕切る仕事を依頼する者もあった。ニャイがその家から既に追われていたことは明らかだ。
家庭教師はヨーロッパから東インドにやってきた、ヨーロッパの最新教育状況を熟知している人間で、教員免状などの資格を持ち、オランダ語が完璧に話せて且つ語学教育もできる人間が求められた。東インドのコロニー社会で高いポジションに上りつめるためには、オランダ語が中途半端では望み薄になる。たとえ混血であれオランダ人の子供なのだから自然にオランダ語を身につけるのではないか、と考えるのは早合点だ。オランダ人の父親の多くは、自分が子供を教育しようという意欲をあまり示さなかった。オランダ語すら子供に教えようとしないのだから、子供は母親べったりになる。プリブミの母親が子供に与える教育はプリブミ社会でしか通用しないものだ。その結果、名前も姿かたちもオランダ人なのに、オランダ語はできず、常識や精神傾向はプリブミ社会のものをたっぷりもった人間が出来上がる。コロニーのヨーロッパ人社会がそのような人間を仲間として容易に受け入れただろうか?だから、わが子が学齢に達したとき、父親はその現実を前にして愕然とすることになった。そしてかれはいそいそと、住み込みの家庭教師を求める広告を新聞に載せるのである。


東インドの欧亜混血児の大半は、最初から最後まで中流社会階層に属す父親の子供だった。父親が純血ヨーロッパ人だったケースもあれば、父親自身が欧亜混血者だったケースもある。そしてアジア人もしくは欧亜混血の女性をニャイもしくは妻にした。職業は下級役人、農園職員、小規模事業主などだ。かれらは定期的な収入を得ていたが、決して余裕のある暮らしができていたわけではない。
そういう家庭に生まれた子供たちは、あまりよい教育の機会に恵まれず、おまけに純血白人に支配されているコロニーの中では、職業や社会的地位に対する差別がかれらの人生に障害をもたらした。だから多くの場合、かれらは父親の事業を手伝い、その事業を一家の資産として代々引き継いでゆくというファミリービジネスへの傾倒が強まったのは言うまでもない。

しかし、そんな家庭はコロニー内の成功者と言えるだろうが、圧倒的多数の欧亜混血児にとってそんな成功ストーリーは夢物語でしかなかった。なんとか毎日の生計を立てている父親は子供に関心がなく、母親に教育され、母方の縁者たちに可愛がられ、そしてそういうプリブミ社会での常識が骨の髄まで染みこんだ子供たちが父親の歩んだような人生に追随するようになるのは一種の必然だったと言えるにちがいない。
劣悪な教育あるいは教育機会の喪失、家族の無関心、貧困、社会から受ける構造的な差別。そんな欧亜混血者集団の中にフラストレーションと恨みや憎しみが沈殿して行った。かれらはコロニー支配者であるヨーロッパ人コミュニティからも、そして被支配者であるプリブミ社会からも疎外され、あらゆる社会的なものごとから外れた辺縁部がかれらの生活範囲として限定されていったから、生計を得る仕事はまともなものにならないのが当然の成り行きだったのである。アヘンの密輸、盗み、賭博、売春・・・・。多くの娘や少女、そして少年たちが売春の世界に落ち込んで行った。見た目が西洋人そのものの美しい少女が、金持ち華人に売られるということも起こった。合法で正当な仕事をして生計を立てている者はほんのひとにぎりのひとびとでしかなかったのだ。
この集団がコロニーの社会秩序と治安を揺さぶる要因になりそうだという不安が行政官たちの目の上のたんこぶになっていったのも無理はあるまい。そうして、ひとつの解決策が提案された。それは、スペインが世界の植民地で19世紀後半に実施し、成功を収めていると見られていた混血孤児対策である。

スペインの海外植民地で生まれた欧亜混血児で親の庇護が得られなくなった子供たちがコロニー支配者であるヨーロッパ人社会から疎外されることでコロニー社会への敵対者が生まれるのを防止するために、子供たちをスペイン本国に送って職人としての技能を身に着けさせ、かれらが植民地のヨーロッパ人社会の中で生きていける準備が整ったらコロニーに戻すことが、コロニーをポジティブな方向に向けて発展させる要となる、というのがその考え方だ。
スペイン植民地で生まれた欧亜混血の孤児は男女ともスペインに送られ、手に職をつけるために職業教育を与えられる。女子は修道院に収容され、技能を身に着ける。男子は一般社会の中で暮らし、技能を身に着ける。そしてスペイン人の伴侶を得て故郷に戻ってくる。特に男子がスペイン女性を伴って戻ってくることがこの企画の重要な柱であり、その家庭に産まれる子供は最初から母親がスペイン文化に即した教育を与えるので、次世代も最初からヨーロッパ人コミュニティの構成員となることができる、というのがこのアイデアの要点だった。コロニーの構造を支えている諸価値に沿った人間が作り出されてくるために、コミュニティの社会効率や倫理などの規範がプリブミ文化によって犯されることがない、というポイントがそこでの最大の効用とされている。

しかし、蘭領東インド植民地政庁はその案を却下した。当時の第51代総督ドイマール・ファン・トゥイストは、オランダに送られた欧亜混血児はオランダでの差別といじめに会うだけでなく、かれら自身もオランダ社会に溶け込むことができないので、かれらは東インドで今のまま暮らすほうがよい、との理由をあげた。さらに、かれらの生活向上のために職人や農夫としての教育を与えることはヨーロッパの環境の中でしかできないのだろうか、と反問している。
その意見に関連してスマランのキリスト教聖職者が行ったスピーチは、植民地政庁上層部の考えを代弁したものだったにちがいない。「かれら欧亜混血児をいったい何のために職人に教育してやらなければならないのか?この東インドには既にプリブミや中国人の職人が掃いて捨てるほどいるというのに。職人や農夫が増えれば、ひとりが得る収入は少なくなっていく。増加する労働力に対して与えるべき仕事の確保はできるのだろうか?」

東インドにしろ、オランダ本国にしろ、自分たちの生活環境の中に欧亜混血者を受け入れようとする社会的姿勢はあまり見られなかった。結局のところ、欧亜混血者の中身がプリブミに近いということが疎外の基盤に置かれていたのである。姿かたちがどうあれ、身に染み付いた文化がヨーロッパよりもプリブミのものなのだから、かれらはプリブミ文化の中で生きるほうが順当なのではないのだろうか。

スマランの新聞記者ピーテル・ブロースホフトは、社会問題の種になっている貧困欧亜混血者を五つのパターンに区分した。
1 ニャイが妊娠したためにトアンがそのまま暇を出したケースで、父親は子供がいつどこで産まれたのかに関心がなく、父親にまったく関知されなかった者
2 ニャイあるいは正妻が産み、父親に認知されたが、その後父親が貧困化、妻子を置き去り、あるいは死亡した者
3 父親が子供をヨーロッパ国籍にしたが、父と子の間に親子関係を法的に証明するものがないケース
4 父親が兵士だったケース
5 保護施設・教育施設・仕事場から、素行不良という理由で追い出された者

19世紀が押し詰まって20世紀に入るころ、かれら貧困欧亜混血者が東インドの秩序を揺るがす火種になることへの懸念が植民地政庁上層部に深まっていった。東インド評議会議員のひとりが植民地政庁に対し、強い危機感を開陳して早急に対応策を講じるよう求めた。議会でかれはこうスピーチした。「それは国家の義務であると同時にわれわれ自身の利益のためでもあるのだ。貧困欧亜混血層は日ごとに厚みを増しており、かれらの心中には決して消すことのできない憎しみの火が渦巻いている。その憎しみはわれわれに向けられたものだ。その憎しみをわれわれは引き受けて当然なのである。」
1902年になって、内務省が主体になって編成された委員会が東インドに住むヨーロッパ人の貧困調査を行った。バタヴィアと周辺衛星都市に住むヨーロッパ人は53,584人おり、貧困者は9,381人で大人が5,933人、子供が3,234人と報告された。バタヴィアのヨーロッパ人貧困者比率は17.5%だ。他の都市については、スマラン13.3%、バニュマス12.6%、パスルアン14%、スラカルタ15.4%、マディウン16.7%、クドゥス18.8%、マドゥラ17.3%という結果だった。貧困欧亜混血者の実態を知るためだったその調査は目標から大きく外れたものになり、おまけに貧困者として数えられたヨーロッパ人の多くは、元兵士で退役後貧困生活に陥った非混血者たちだったから、貧困欧亜混血者のプロフィールをそこから知るすべはない。
委員会とは別に、ファン・コールも1902年に調査を行った。かれがジャワ島とマドゥラ島で数えたヨーロッパ人は75,833人おり、そのうちの51,379人が欧亜混血者だった。貧困欧亜混血者は1万7千人で、総数の22%を占めた。欧亜混血者のほぼ三人にひとりが貧困だったことがわかる。

委員会の分析報告には、欧亜混血者が貧困に陥り勝ちなのは、かれら自身に問題があるためだという意見が述べられている。世間の常識になっている欧亜混血者の特徴のひとつに、「意志が弱く、意欲が不足している」という精神傾向があり、その結果、かれらはコロニー社会の辺縁部を自分の世界に定めてしまい、経済活動もマージナルなものにならざるを得ず、経済的繁栄から遠くはずれた生活を営むことになる。だからその原因はかれら自身が自分の内部に抱えているものなのだと言うのである。
もちろん委員会は、他の要因を指摘することも忘れてはいない。1870年にコロニー開放が行われたためにヨーロッパから大勢の移民がやってきて、欧亜混血者がそれまで得ていたパンの争奪が始まったためにかれらの貧困化が促がされたこと。また、職人セクターに関して言うなら、その分野に参入したヨーロッパ人移住者はプリブミと華人の職人たちに太刀打ちができず、コロニーに勢力を築くには至らなかったことも指摘している。
委員会が強く主張したのは、かれら欧亜混血児に対する教育の問題だ。ヨーロッパ人としての精神性をかれらに持たせることが現在問題にされている諸事象への抜本的解決策なのであり、それ以外のかれらに対する特別な雇用対策は表面的なものにしかならず、問題を根本的に解決する力はないと言うのである。

しかしそのような抜本解決は社会一般に委ねられざるを得ない。父と母が協力協働して子供の精神面から始まる教育を家庭内でスタートさせるのが世界中で一般的な姿になっているのであれば、それは政治や行政がつかさどることがらでなくコミュニティ社会が掌握する問題となる。トアンとニャイの間には、両親が異文化であるということをはるかに超えた支配者と被支配者という要素が強く漂っており、子供が対等関係にある両親からしつけや薫陶を受けるという構図が完全に欠落していた。その要因が往々にして、支配者たる父親の子供に対する意識や関心を弱いものにしていた可能性がある。
被支配者の血が濃く混じっている者たちには、被支配者が持っている人格上の汚点がたっぷりと溶け込んでいるに決まっている。怠惰で信用が置けず、愚かで無神経、そして努力を避け、運命論的傾向を強く持っているのがプリブミの特徴なのだから。男は安易に嘘偽りを並べていつ裏切るかわからず、科学的教育で植えつけられる常識を持っておらず、頭が悪いにも関わらず自分の利益には聡く、他人に容赦なく狡猾なふるまいをして餌食にしようとするといった汚点を持ち、女は外見が美しくて性的魅力も豊かだが、ふるまいに粗野で下卑た感触がつきまとい、セックス好きで男を有頂天にさせるが、欺瞞や狡猾さで男を食い物にし、男と遊ぶのが大好きで次々と相手を替える、といったステレオタイプの観念によってヨーロッパ人は欧亜混血者をそのコミュニティに受け入れようとしなかった。

そういった社会疎外や社会差別は職業をはじめ社会経済活動の機会均等を失わせてしまう。父親によってヨーロッパ人のステータスを与えられた者とそうでない者の人生は完全に逆の方向に向かって歩みをはじめる。その負の方向に置かれた者たちが、宿命的な貧困生活に陥り、自分の父親を含めてヨーロッパ人コミュニティに憎しみを抱くようになるのは当然の帰結だったにちがいない。
似通った境遇にある者たちが相互扶助を試みるのは、人間に共通の特性だ。1880年代にスマランに発足したスリアスミラッ(Soeria Soemirat)、1898年にはもっと広範な地域をカバーするインディッシュボンド(Indische Bond)が誕生し、1907年にはインスリンデ(Insulinde)が設立されて政治的な運動へと向かう。そして欧亜混血者のための東インドという過激な政治運動を目指すインディッシュパルタイ(Indische Partij)を『マックス・ハフェラアル』の著者ムルタトゥリの甥であるエルネスト・ドゥエス・デッケルが1912年に結成した。エルネスト自身もドイツ人とジャワ人を両親にする欧亜混血者だった。東インド植民地政庁は1913年にその過激政党を非合法化する。
言うまでもなく、欧亜混血者の周辺にはプリブミや華人がいる。それらの欧亜混血者の運動に、ヨーロッパ人コミュニティの人間が関わることもあれば、プリブミや華人をより強く引きつけたものもある。そのような組織というものはさまざまな思想にとっての容器であり、また思想を乗せて駆るべき馬である。欧亜混血者もひとそれぞれに趣の異なる思想を育てていた。ヨーロッパ人コミュニティの側に近付こうとするもの、あるいは敵対するもの、欧亜混血者だけの未来を描くもの、プリブミや華人と提携する未来の姿を描くもの。そういう渾然一体とした組織活動から、サレカットイスラムやインドネシア共産党の芽が育っていった。
1919年には、インドユーロペーシュフェルボンド(Indo-Europeesch Verbond)がインディッシュパルタイより穏やかな政治運動組織として発足し、三年間で会員は1万人に達した。だが、ニャイの風習とそれによって生まれた欧亜混血者層が東インドにもたらしていたあらゆる問題は、1942年にすべて姿を消すことになった。オランダ領東インドが地球上から消滅したのである。


インドネシアの占領行政を開始した日本軍の軍人軍属の中にインドネシアの女性を妾にした話はインドネシアの小説の中に頻繁に登場する。舞台はたいていがジャワ島であり、従って日本人の中にニャイの風習に倣った者がいた可能性は高い。正妻にしたかどうかという点になると、はっきりしない。婚姻というのは生活コミュニティの中で定められている条件をクリヤーし、コミュニティ内でお披露目の儀式を挙げ、コミュニティに認められることでふたりは正当な夫婦となる。それと役所に届け出ることはまったく別のことがらだ。インドネシアではそういう形で現地女性を妻にしても、日本にある自分の戸籍にその妻を記載したかどうかとなると、種々の困難があったことは十二分に想像できる。だからポイントは、その軍人軍属が現地女性をコミュニティが承認する形で自分の女としたのか、それともコミュニティを無視して女性の家族だけを交渉相手にしたのかというところにあるように思えるのである。コミュニティというものは論ずるまでもなく、かれが自分の生活基盤と認識する場になるのが普通だ。つまり、女性が所属する現地人コミュニティである可能性もあれば、自分が所属する日本人コミュニティの可能性も生じる。だが、日本人もオランダ人と似たような社会的立場に就いた。つまり原住民に君臨する統治者だ。それがアジアの現地人を低く見る意識をもたらしたのは言うまでもあるまい。そこでも、妾にされたアジア人女性たちは被支配者としての位置に身を置かざるをえなかった。言うまでもなくこの時代は、過去から連綿と伝えられてきた男性優位女性劣位の男女関係が世界中でスタンダードになっていたわけで、妾という現象がその結果なのであり、そこに人種差別がもうひとつからみついていたという点でオランダ時代とあまり違わないものだったと言うこともできそうだ。日本で語られている話の中に、軍属が持った現地人女性の妾を他のみんなが共用するために供出させたというものがあり、何が本当で何が捏造なのかわからなくなってしまうので、これ以上は触れないでおく。

さて、正妻にせよニャイにせよ、ヨーロッパ人と家庭を築いたアジア人女性とその欧亜混血児たちは、日本の軍政が開始されたとき東インドにたくさんいた。かれら家族を置いてオーストラリアやセイロンに逃げたヨーロッパ人のトアンもいたし、戦争の中で落命し、あるいは逃亡する船が日本軍に撃沈されて不帰の客になる者もいた。だが、家族と共に東インドに残ったトアンも大勢いたのである。日本軍は、その一家を引き裂いた。
アジアから植民地支配者を追い払い、アジア人のためのアジアにするという謳い文句に従うなら、純血ヨーロッパ人をすべて抑留所に入れても、そのアジア人の伴侶を同じように扱うことはできないし、さらに、アジア人の血が混じっている欧亜混血者もアジア人のひとりとして扱うほうが筋が通っている。こうして、日本軍政は欧亜混血者が通常の民生を送ることを許した。もちろんそこには、欧亜混血者にアジア人としての意識を持たせるための計算があったことは疑いあるまい。

見るからにヨーロッパ人の姿かたちをしている欧亜混血者が大勢町中を徘徊している場合、そこに純血ヨーロッパ人が混じりこんでもよくわからない状況が想定される。だから欧亜混血者には証明書を与えなければならない。そのために用意されたのがその者の素性を証明するアサルウスル証明書(Surat asal-usul)だ。自分の血統をさかのぼってどこかにアジア人が混じっていればよいという原則だったために、居住地を管轄する役所にそれを届け出れば、アサルウスル証明書が発行されたようだ。その届出内容が真実だったのか虚偽だったのかは、役所側に調べようの無いケースがきっと多かったにちがいない。

そのようにして欧亜混血者は市民権を得たものの、日本軍の徴発で社会生活全般が苦しくなっていった時代に、かれらが経済的な繁栄を得るのは不可能だったどころか、プリブミを下回る貧困に陥った者たちもいた。ヨーロッパ人コミュニティとプリブミコミュニティの両方からマージナルなエリアに定住していた欧亜混血者が、日本軍政下に存在感の持てるチャンスを得ることなど不可能だった。結局かれらはひっそりとプリブミ社会の合間に埋もれて目立たない生活を送るしかなかった。妾を求める日本人の目がそのように貧困化した欧亜混血娘に向けられなかったはずもない。
ところが、日本の敗戦に伴って、欧亜混血者とそのアジア人の母親たちは、また異なる波にもてあそばれることになる。オランダ東インド植民地政府の復帰で一家が再び寄り集まることができたのも束の間、インドネシア独立闘争は妻であり母親であるかの女たちに二者択一を迫った。インドネシア人として独立闘争に加わるか、それとも敵側につくか、という二者択一だ。日本軍政時代には父親対母親&子供という構図だったものが、今度は母親対父親&子供という構図に変化したのである。そして1949年のインドネシア共和国主権承認が、最後の決定打を欧亜混血一家にもたらした。故郷を捨てて見も知らぬ異郷での暮らしを一家でおくるために母親がオランダに去ったケースもあれば、自分だけが故郷にとどまり、夫と子供たちがオランダに去ったケースもある。そのいずれもが、何かが欠けた選択になったのは言うまでもあるまい。

ニャイの風習の中で忘れてならないのは、壮年期になったトアンがまだ少女のようなニャイを持つのが一般的だったということだ。20年もの年齢差があるのはざらなのである。激動の時代の中で、父親が老齢で、あるいは戦争や事故のために亡くなった一家は、オランダに移るモメンタムが消滅してしまい、新生インドネシア共和国の国民になるほかなかった。しかしヨーロッパ国籍者になっていた子供たちはかれらだけで、あるいは親類縁者や父親と一緒にヨーロッパに去って行ったし、それでもインドネシアにとどまったニャイたちは、プリブミ社会で新たな生活を始める以外になすすべを持たなかったが、その暮らしはきっと過酷なものだったにちがいない。前歴を知る者たちからの差別や侮蔑は避けようもなかっただろうし、そもそもそこにあったのは女ひとりがそれなりに生きていけるという文化ではなかったのだから。かの女たちがヨーロッパ人社会と完全に縁を断ってから、その足跡はプリブミ社会の中に埋もれてしまい、その人生の軌跡の後をたどることはほぼ不可能になった。

一方、オランダに渡ったかの女たちの残り半生は幸福だったのだろうか?オランダに戻ったその一家の父親が世を去る日は、数年後にやってきた。オランダでの生活に必要な言語や日常習慣あるいは社会システムといったことに母親がなじめないまま、子供たちは日々の暮らしの中でオランダ人化していく。子供たちが伴侶を持ち、孫ができ、そしてプリブミ社会の慣例である大家族が作られていっても、かの女が感情のこもった言葉で安心して会話できるのはわが子しかおらず、その伴侶も孫も言葉が通じず、心が通い合わない。であるなら、かの女がその大家族の中に抱く寂寥感は何倍もの密度で膨れ上がったにちがいない。こうしてかの女たちの多くは、寒い異郷の地でひっそりと老後を過ごし、寂しく世を去って行った。ニャイの制度が迎えた終焉は、あまりにも悲劇的なものだったと言えるにちがいない。


< ニャイとは・・・ >
ニャイの制度は、現在インドネシアと呼ばれているこの地域を往来した商人たちが風待ちの季節に暫定的に滞在した際の現地妻の風習を遠い先祖にしており、西洋人がやってきてから始まったものでは決してない。西洋人が来てから始まったのはニャイという名称であり、蓄妾の実体はもっと以前から存在していた。帆船の時代に風待ち滞留した異民族商人たちは、インドネシアに限らず各国の港で現地女性と同棲した。それを正しくないことと見なすのはキリスト教倫理の規範を非キリスト教世界に当てはめている文化的偏見であって、異文化尊重という視点から見れば現代文明では決して推奨されていない姿勢だと言うことができるにちがいない。

風待ち滞留だけでなく、その土地で物産を買い集め、自国の商船がやってきたときに積み出すことを手配するために何人かが半定住するような形がそれに続いた。風の季節と物産の収穫期がずれているなら、経済合理性から見てそれは当たり前の行為である。そのようにして東からは華人が中国の諸地方から、西はアラブ人やペルシャ人そしてインド人が太平洋とインド洋を分かつこの多島海にやってきて住みついた。当然ながら、各民族は寄り集まって住み、それぞれの居留区を作った。御朱印船の時代に東南アジア各地に日本人町ができたように、華人町もアラブ人町やインド人町も作られていたのである。
そこまで発展すれば、各民族町での性生活は自転するようになる。しかしそうなる前の時代に、異民族が少ない人数である港に何ヶ月も滞留したとき、かれらの性生活がどんなことになっていたのかは想像に余りあるだろう。その時代は世界のどこを見渡しても、女性は男性のツールとして存在するのが普通のあり方だった。男性が家庭を設け、それを基盤にして社会生活を営むときに、男性の生活全般に奉仕するツール、あるいは男性の性欲に奉仕するツール。そういう基本観念、言い換えれば常識、のために、かれらが異郷の港に住んでも、目にする女性はツールとしてしか認識されなかったにちがいない。そういう社会にはレイプが多発する。今現在でさえインド洋をめぐる各国の中にそういう社会が存在している事実が、頭の中に浮かんでこないだろうか?


当時の航海は常に死と背中合わせになっており、船乗りたちは大自然と人間がもたらす脅威に相対した。大自然に殺され、あるいは他人に生命を奪われるのは日常茶飯事だったのだ。そこは荒くれた世界であるがために、その世界で生命のやりとりを行なえる人間だけが船に乗るというのが当然視されていたということだ。男性が保護しなければならない人間(いわゆる女子供)が混じるのは足手まといにほかならず、その者たちを守るために自分たちの戦闘力を割かなければならなくなるのだから、足手まといを同じ船に乗せたがらないのは言わずもがななのである。女が乗った実例がないとは言わないが、その時代に海洋を往来する帆船に乗っていた人間の男女比は、統計はまったく存在しないものの、誰もが容易に推測できる内容だったはずだ。
だから異郷の港に滞留したのはもっぱら男たちであり、売春の仕組みが社会システムの中に設けられているところは大きい問題が起こらなかったかもしれないが、社会生活の中で男女の性的交際が自由な社会には売春という仕組みが必要ないため、その制度が設けられていない土地もあった。買春が行えないなら、異人の男たちは地元の風習にしたがって夜這いや野合をするしかないが、異民族への嫌悪感あるいは恐怖心がつきまとっている社会がなかったはずがない。かれらの相手を務める地元娘がいなければ、あとはレイプしかない。そういう社会秩序を傷つける行為を滞留する異民族にさせないようにするために地元社会の運営者たちが考え出したのが、現地妻の仕組みだったのではないだろうかとわたしは考える。

ところで、現代人はその売春という仕組みを嫌悪するように仕向けられてきたのだが、売春を否定する硬直的な視点をあまりにも安易に鵜呑みにしてはいないだろうか?定期的にメスの体を必要とするオスに対し、その需要のあるメスの体をレンタルするというビジネスがどうして否定されなければならないのだろうか?人間の性行為に目的を与え、子孫を設けるためという一点にその目的を凝集させ、且つまた、セックス面における社会秩序を婚姻と家庭というフォーマットで固定化した宗教にとって、売春も婚外セックスも同性愛もその構想を破壊する危険な因子であると認識されたのは当然過ぎるほどの論理的帰結だ。
ところが、社会がそのような宗教によって形成されておらず、ましてや性行為の目的をそのような宗教が打ち立てた体系とはまるで無関係なものと認識し、おまけにその体系を破壊する因子を野放図にはびこらせているというのに、売春だけが感情的な嫌悪感を伴って多くのひとびとに否定されている国があるという事実は実に不可解なもののようにわたしには思えるのである。

ラズロ・セケリーは売春という行為が持つ生産性を世間の常識から逆転させて見せた。愛という精神的紐帯が結び合わせるものであるがゆえに性行為は神聖なのであって、金でセックスを売ることは不純きわまりない悪徳だというのが現代文明における価値観とされている。しかし、性行為はもともと子孫を残すことを目的にしていたからこそ神聖なるものとされてきたのであって、ほんの百年ほどさかのぼれば男女が性行為をする理由のメインは夫婦であるからというのが第一であり、愛し合っているからという理由は夫婦関係にないカップルにとってのみ妥当なものになったはずだ。もちろん、それが反社会的行為であるという前提の下に。
ましてや性行為がもたらす快楽は付随的なものという枠を超えてはならず、女が男から子供を授かるという主目的を忘れて快楽を追求する姿勢は宗教界から強く批判され、それは世間一般に浸透して世の中から批判される対象となっていた。
それらの諸要素を横並べにし、どこの文化においても善とされている生産という要素をその間に放り込んでみたとき、性的快楽追求のための行為は生産性がゼロであることがわかる。子供を授かり子孫を産むための性行為はもちろん生産的だ。そしてまた、自分の身体を使って男の性欲を発散させてやり、その代償として金を得るという行為もそれに劣らず生産的なのだ、という盲点に気付いた人間はあまりいない。東インドにそのような観点が存在していたことをラズロ・セケリーは自著の中で白日の下に曝したのである。

小説「ジャングル」の主人公「わたし」に雇い主はニャイのルキナを性欲処理のために貸してくれた。わたしは7回ルキナとセックスしたあと、自分の感謝の気持ちをルキナに伝えようとして、林の中できれいな花を集めて束にし、それをルキナに捧げた。ところがルキナは怒り出したのだ。「なぜわたしにそんなものをくれるのか。どうしてもっと価値のあるお金をわたしにくれないのか」と。
・・・・ルキナの言葉に「わたし」はムッとした。「それじゃあ娼婦と同じじゃないか。あなたがそんなに賎しい劣悪な女だとは思ってもいなかった。」するとルキナはわたしに言葉を返した。
「わたしが金銭のためにあれをしたのなら、わたしは劣悪な女なの?トアンはなんでそんなことが言えるの?どんな男に対しても自分の身体を自由にさせる女は劣悪な女だわ。でも礼節をわきまえている女は金のためにだけそれを男にさせる。金でなくて自分のためにそれをする女が娼婦なのよ。」
金のためにそれをする女が娼婦なのだ、と「わたし」が言うと、ルキナが反論を続けた。
「そんな話は聞いたことがないわ。わたしの世界ではね、トアン、自分の性欲のために男たちとセックスする女は、みんながつばを吐きかけるのよ。でも、自分の身体を使って金を稼ぐ者はだれであれ、みんなが敬意を払う。セックスした後で男が女に金を渡すのは、そういうやり方で男が女に愛情を示しているの。男にとって女の価値が大きければ大きいほど、それだけ大きい金を渡してそれを証明するんです。わたしの世界では、男はみんな金を払わなきゃいけないの。自分の妻に対しても。地べたに生えてる草や花で女の価値を証明することなんか、できやしないのよ。」・・・・


話を戻そう。
帆船航海時代に港港に置かれた現地妻というのは、一般に想像されているよりもはるかに社会的な存在だったとわたしは考えている。つまりそれは、ある土地にやってきたひとりの流れ者が自分でひとりの女性をその土地で選び出し、その女性と正式婚姻はしないまま自分の性生活の相手にする、というようなパターンが一般に想像されているもののようだが、その時代に行われていた現地妻にそのようなパターンが当てはまる実例はむしろ稀であり、地元社会の有力者が仲介してその男女を結び合わせ、ふたりの関係に社会的な公認と祝福が与えられていたと見るほうが自然なのではないだろうか。だからニャイ以前の時代に行われていた現地妻の風習にはそういう社会的な背景が存在しており、ニャイの風習との根本的差異がそこにあるのではないかというようにわたしには思えるのである。

イスラム商人がメインを占めたアラブ・ペルシャ・インドなどの諸民族は、そのような現地妻を供されたときに相手の女性をイスラム化した。それはかれらの生活原理に置かれている宗教戒律に背かないためであると同時に、イスラム教の宣布と宗教拡張という善行をかれらに積ませることになったからだ。イスラム化した現地女性が自分の子供をムスリムに育てるのはもちろんのこと、かの女は自分の親族や友人知人にイスラムの布教を行った。
ヨーロッパ人が行ったニャイ制度には、そういうプリブミ社会の関与がない。プリブミ社会がその主権においてニャイの風習を行ったのでなく、それはヨーロッパ人コロニーの主権の中で行われたものだったのである。
ヨーロッパ人コロニーによる政治支配の下で、それに屈服したプリブミ社会が女性をトアンの性的ツールに差し出した。そして植民地支配者の経済搾取が引き起こしたプリブミ社会の貧困化がその風習の運営を一層スムースなものにしていった、というのがニャイ制度の本質部分ではあるまいか。そういう構図の上に出現したさまざまな男女の人間関係というのは、決して特定パターンに一般化され得ないものであり、十人十色が濃く反映されるものだったことは言うに及ばないにせよ、その間にどれほど深い愛情が発生しようとも、その男女の間には容易に乗り越えることのできない溝が横たわっていたにちがいない。


ヨーロッパ人男性とプリブミ女性の間に長年にわたる共同生活の中でかれらの個性に応じた人間関係が培われた。そこに見られるのは、男性と女性間の性別の優劣だけにとどまらず、ヨーロッパ人の支配者としての人種的優位が上乗せされたものであり、支配被支配と奉仕という人間関係の足元を揺るがすような土台が両者間の溝の上を覆っていた。
そのような場で両者の人間関係が全人格的な接触と結合に至るのは、文化的な諸価値観の差異はもとより、相互がたがいに相手を把握しあう方法の食い違いのために、きわめて稀な現象になる。ニャイがトアンの生活環境内に入ることによって、意識するとしないとに関わらずニャイにヨーロッパ化現象が起こった。しかし、たとえニャイがヨーロッパ文化にある習慣や決まり、立ち居振る舞いなどを一分の隙もなく身に着けたとしても、そのニャイが対等な仲間としてコロニー社会に受け入れられることはなかった。中でもヨーロッパ人トアンがニャイの人格を自分と対等に見なすことなど、ほとんど起こりえなかった。何がどうあれ、ニャイはヨーロッパ人支配者である自分に奉仕するプリブミであるというのが、他に匹敵するもののない大前提だったのだから。

その関係は、トアンがニャイを妻という合法的社会ステータスに変えたあとでも、変化しなかった。その関係は、妻となったかの女たちのビヘイビアからも影響を受けている。かの女たちは、ヨーロッパ人のニャイになろうが妻になろうが、自分の言語や生活習慣を捨てようとは決してしなかった。言語・考え方・価値観・生活習慣など、自分が先に身に着けていたことがらをすべて維持継続し、生まれた子供にもそのままの形で接したから、子供が精神的にプリブミ化するのも当たり前だった。大家族制という生活習慣がもたらした、大勢の人間を自分の周囲にはべらせて互いに依存しあう人間関係を構築していくこと、噛みタバコの習慣、自分の親兄弟姉妹との往き来を欠かさないこと、そのようなビヘイビアはかの女がヨーロッパ人の妻になっても変わることがなかった。
オランダ人トアンがニャイあるいは妻に言語を含むオランダ文化を習得させようと努めることは稀であり、ましてやその間に生まれた自分の子供すらオランダ人にしようと努めなかったのだから、かれの持った女子供がプリブミのあり方から脱け出そうとしなかったのは当然の帰結と言えるだろう。ニャイにせよ妻にせよ、トアンとの会話は女性の母語とトアンの母語が混じりあった言葉でなされるのが普通だった。そのようなレベルの意思疎通で深い全人格的な交わりが起こりうるのだろうか?結局トアンは自分の家で働くサーバントに対するような態度で自分の女性に接するだけであり、女性がトアンに対して示す姿勢もサーバントと同じようなものになってしまう。それがベッドの上でも同じなら、トアンの子供を世話している場でも同じものになる。
トアンは自分の女性が家庭内を満足の行く形で保っていればそれで十分だったのであり、その女性が自分にとってそれ以上の存在になることなど最初から望んでいなかった。だとすれば、その男女の間で必要とされるコミュニケーションは、そういう目的が達成されているかぎり事足れリとなる。女性がオランダ語の能力をもっと高めたとしても、トアンがかの女をそれ以上の存在にしないのだから、結局女性の方はトアンが言うオランダ語の意味を理解して自分の機能を果たせばそれでよいわけで、自分からトアンにオランダ語で何かを語りかける必要性も意図も持たなかったがために、聞くことは理解するが語ることはできないという言語能力にとどまるケースがほとんどだった。
女性の側にも、トアンとの人間関係を屈折した方向に向かわせる精神姿勢が濃く存在していた。幼い頃から意識の奥底に植えつけられた男性観はプリブミ女性をして、男が女に対して持つ誠実さは実体のないものという見解を持たせるのが普通だった。妻を簡単に家から放逐し、あるいは妻の意向などには斟酌なしに第二妻や第三妻を容易に持つことのできる社会の中で育った少女たちがどのような男性観を持つようになるのかはあらためて言うまでもあるまい。妻が幼い子供を抱えて生活苦の克服に努めているのを横目に、夫は家に寄り付かなくなって他所に別の女を持つというストーリーは現代インドネシアにもありふれたものになっている。


インドネシア女性と結婚した外国人男性のほとんどが、夫が浮気や女遊びをすることへの過度の不安や警戒心を妻が抱いている異様な現象に一度は遭遇しているようだ。女きちがい扱いされた外国人男性たちはそのときはじめて、インドネシア女性が持っている男女観の深部に触れて愕然としたのではあるまいか。夫の性的な潔癖さに関するそういった不信感は長い長い歴史の中で培われたものであり、精神的な誠実さで結びつこうとしない夫婦関係あるいは結婚というもののあり方に対して家族主義が更なる保護の手を差し伸べているがために、事態は改善されるどころか、ますます屈折した夫婦間の精神的結びつきをそこに生み出していくことになる。男は女を、夫は妻を、容易に裏切るのが本性なのであり、ひとりの男が何人もの女の間を放縦に生きていくのが男というものの真の姿なのだから、婚姻を通して妻という社会ステータスを得ても、妻という立場への保証などどこにも存在しないという諦念がそれだ。

所詮はそういう実体を持たない男女の関係なのだから、いつか破滅のときが来て当たり前なのであり、そうなれば妻は自分を常に構成員として愛し保護してくれるファミリーの元に戻っていくだけであるという意識がかの女たちの精神を支えている。当然ながら、離婚慰謝料は厖大な金額が請求されることになる。そういう不信に彩られた半身の構えで夫と誠実な精神的結合ができるわけがないと思うのは、わたしだけではあるまい。
ニャイになる以前から持たされていたそういう観念に、ニャイになることで人種と肌の色の違いがもたらす被支配者としての精神が付加される。ヨーロッパ人のトアンは東インドでの任務や契約が終われば故国へ戻っていく。その先までサーバントに過ぎないニャイの面倒を見ることはありえない。あるいはそのもっと以前に、トアンがヨーロッパ人女性を正式な妻としてこの家に迎えるとき、トアンが自分との間にベッドの友という関係を結んでいたことをその妻なる女性にかけらも覚られてはならないから、トアンが自分をこの家から放逐する日は必ずやってくる。
そのような実態は、プリブミ社会の男が行っている行動との類似性をニャイたちに印象付けることになり、従来から抱いていた男性観がトアンたちヨーロッパ人のふるまいによってさらに強化されたことは想像にあまりある。

ところが、ヨーロッパ人トアンがニャイの自分を妻にしたいと言い出したとき、かの女たちはその動機がまったく理解できず、それが自分にどのような利益をもたらすのかということもまったく推測できず、気が変になった男が言い出した戯言と思って拒絶することのほうが多かった。ヨーロッパ人の文化から見れば、それは男性からの素晴らしい申し出であり譲歩であって、ヨーロッパ人女性がニャイの立場に置かれていれば二言もなく了承したに違いないことがらだ。その文化の違いが見えていないひとびとは、ニャイのそういう態度を駆け引きと見なした。コロニアル文学の中に描かれている、妻にしてもらうことを密かに欲しているニャイの心理は、ヨーロッパ人の持っている先入観の投影でしかない。
ヨーロッパ文化では、妻となることでニャイの立場に法的な保証が与えられるようになるという理解が当然なのに、プリブミ文化の中にいるニャイたちは妻にならないことが自分の立場を保証するものだと考えたのだ。ウイレム・ワルラーフェンは故郷に送った手紙の中で、イティに結婚を申し込んだ際のやりとりに触れた。「イティはどうしてわたしがかの女を妻にしたいのかということが理解できなかった。わたしがかの女を要らなくなる日は必ずやってくるだろうし、そうなれば自分がここから去って故郷に戻るだけのことだと考えていた。」
かれはイティが示した反応の奥にある心理について、別の場所でこう書いている。
・・・わたしとの関係について、イティがそれを納得して落ち着いた気持ちを持てるようになるまで、何年もかかった。わたしが誠実さをいつまでもかの女だけに向けると述べても、イティはそれを信用しようとはしなかった。わたしたちの関係がいつか終焉を迎えることは、常にかの女の念頭にあった。ふたりの間に子供が産まれ、またかの女が法的な妻のステータスを得たにもかかわらず、その考えを変えることはできなかった。現実に起こっているすべてが仮初めのものであるという意識はいつまでも残った。今でもそれを信じきってはいない、とわたしは感じている。・・・


元々は外来者であるヨーロッパ人支配者が自分の性生活を満たすために経済的な優遇を条件にしてプリブミ女性をベッドの友にしたニャイという制度は、セックス問題を超えて一部のヨーロッパ人に別の問題を新たにもたらした。性行為を行うふたりの人間が単に排泄と快楽という肉体的な現象のみを求めているとは限らないということだ。性行為をそのレベルでよしとする人間にとっては、ニャイ制度は金だけの問題で済んでいただろうが、性行為の中にもっと精神的な要素を求める人間にとっては、全人格的な結合を希求するがゆえにニャイを自分の特別な人間として遇する姿勢が培われることになる。さらに、意図されたかどうかは別にして、ニャイが妊娠したとき、生まれてくる自分の子供に実の母親は不要なのだろうか、ということを自問したヨーロッパ人男性がいなかったはずはない。そのような要素にからめとられてしまったトアンとニャイは、ニャイ制度が意図していた本来のあり方から逸脱しようとする傾向を抱くようになる。
社会がプリブミを抑圧することに努めていた時代に、そのような逸脱の勇気を持つのは生やさしいことではなかったものの、荒くれていたコロニーが人間に優しい社会に変化していったとき、逸脱して行こうとする意志に対するハードルは徐々に低下し、1900年を過ぎてから、ヨーロッパ人男性とプリブミ女性の結婚は顕著に増加していった。もちろんハードルが下がるのと反比例してニャイの制度に対する批判が声高に叫ばれるようになっていったから、実質的にトアンとニャイの関係を続けたいひとびとの間にも夫婦という衣をかぶるケースが増加したことは言うまでもない。しかし中には、ヨーロッパ人男性とプリブミ女性の間に愛情と尊敬の念を相互に抱き合うカップルが存在したのも疑いのないことだ。

しかしヨーロッパ人男性が自分のプリブミ女性にどれほど深い愛情を抱いたとしても、文化的な隔たりがそれだけで乗り越えられたわけではあるまい。異文化婚というものが持つ断層は、価値観が離れていればいるほど簡単には埋め尽くせないものであり、最終的に到達する場所は諦念に満ちた世界だけということになるのかもしれない。
プリブミ女性を真剣に愛しながら、異文化の断層をどうしても埋めることができなかったヨーロッパ人男性の典型例を、われわれはウィレム・ワルラーフェンに見ることができる。かれはイティとの間に横たわっている溝について、冷徹な目でそれを叙述しながらも、その文章はかれのイティに対する愛情を十二分に感じさせてくれるものだった。残念なことに、イティがその愛情をどのように評価したのかについてわれわれが想像できることは、先にあちこちで触れてある断片に見られるとおりだ。
ワルラーフェンはオランダの親族に宛てて出した手紙の中で、言語の問題に触れている。「おまけにそこには、わたしの使えない言葉(スンダ語)があった。それはわたしの愚かさでもある。そしてかの女も、自分の母語でないムラユ語に置き換えなければならなかったのだ。それがわたしたちのコミュニケーションをたいへん複雑なものにした。」
夫婦が何らかの困難に直面したとき、あるいはイティがワルラーフェンの何かに対して不安を感じたとき、イティは黙りこくって一言も発しないくせがあった。ウィレムはそれを『猫と話すようなものだ』と表現している。かれはそれを言葉の問題に関係しているのではないかと見ていた。少なくとも、プリブミ文化が培ったイティの精神傾向のせいだとは考えず、自己表現能力の問題ではないかと見ていたのである。言葉の問題はイティがオランダ語に始まるさまざまな言語(書き言葉と話し言葉)に上達するに及んで、障害というカテゴリーから姿を消した。

ワルラーフェンがしばしば問題にしたのは、イティの家計運用の拙劣さだった。かの女はたいへん劣悪な空財布言葉をマスターしている、とオランダにいる実弟に書き送っている。だが、家庭生活の問題に立ち至ると、ふたつの異なる文化は激しい衝突を見せた。
・・・もちろん、わたしがイティに教えることのできなかったことがらはいくつもある。衣服の状態を調べて修繕するということは、完璧なゼロだ。シャツを着るとボタンが取れている。急いでいるときにかぎってそうなる。靴下の穴を修繕するのは、頼んだり命じたときだけ。家の中のあちこちに蜘蛛が巣を張っているが、そんなことに注意を向けない。椅子や家具を掃除することもない。そのことについて、わたしはかの女に何度も注意を促した。しかしわたしはその問題に敗れた。そして今ではもう、それを以前のように悪いことだとあまり感じないようになってきている。心臓麻痺に襲われたくないから、腐るのにまかせている。ここのひとびとの身体も衣服もたいへんクリーンだが、かれらの所有する物品ときたら・・・・

台所でも、文化の差異は顕著に現れた。ワルラーフェンは伝統的なオランダ料理なしには生きていけない人間であり、イティの世界の食卓にはまったく食指が動かなかった。その食卓で見つかるのは、飯を水分がなくなるまで炊き、せいぜい野菜の汁をかけて肉あるいは塩魚の一切れを添えるだけのもの。そして、文明から遠く離れてしまったように見える手づかみの食事も、かれの気に入らないものだった。ふたりの間にできた子供たちは、イティの習慣に従った。
・・・かれらはヨーロッパ料理を何か奇妙なものでも見るような目で見た。わたしのためにだけヨーロッパ料理が用意され、わたしの相伴をしてイティもそれを食べたが、食事が終わるとイティは必ず裏で飯を一皿食べた。それがかの女の本当の食事だったのだ。・・・・
そのような差異は別にして、ワルラーフェンとイティの結婚は評価と尊敬の念、愛情と対等さといった要素を強く示していた。それを示すことがらの筆頭は、家庭の外の社会に対しワルラーフェンがイティを常に自分の妻として紹介し、東インドのどこへ旅しようが必ずイティを同伴したことだ。あるいは、故郷のひとびとに送った手紙にも、イティの善良さや優秀さが頻繁に述べられている。弟に宛てた手紙には、「妻はいつも正しく、間違った点を見出すことはなかった。ひとつだけ誤っていたのは、わたしを愛しすぎたということだけだ。」と書き、また別の手紙にも「イティは完璧な人間だ。」、更に「一緒に旅をする相手としてイティほど心楽しませてくれる人間はいない。わたしはかの女といつまでも一緒に暮らしたいと思う。」とも書いている。ワルラーフェン自身が書いた、ふたりの人間が深く愛し合い、何事であろうと相手に空疎さを感じたことがない、という夫婦の関係をかれは甥のフランスにもっと詳細に語っている。ワルラーフェンが自ら選んだ生き方は故郷の親族との関係を疎遠なものにし、かれの一生でオランダから東インドまでかれが築いた家庭を見にやってきたのはただひとり、そのフランスだけだった。
・・・わたしが幸福でないというようには見えないはずだ。わたしの妻はわたしの妻であり、しこうしてわたしの隠し愛人なのでもある。かの女はもっともきちがいじみたことから、もっともロマンチックなことまでやりおおせる。日中あちこちを歩き回って、やっと夜に帰宅したり、ウェンディットや、あるいは同じようなロマンチックな場所へも行く。何度も考えて見たが、わたしはきっとかの女よりはるかに劣っている人間だ。かの女はわたしに首を横に振って見せ、そして冗談交じりに、あるいは半分冗談のようにしてわたしに説明するのだから。
おまえはとても友好的で暖かい歓迎をかの女から受けたと感じたにちがいない。おまえが次にまたここへ来たなら、かの女はおまえに食べさせるためによく肥えた子牛を屠り、そして絶対にそれを言い立てるようなことはしないだろう。おまえがかの女に会って話をしたことを、わたしはとても喜んでいる。オランダにいるひとびとがかの女に関して作ったイメージがみんなの間に流布している。その中に事実でないものが混じっているなら、おまえはそれを正すことができる。そしてわたしは、必ずおまえがそれをしてくれることを確信している。・・・・


東インドコロニアル作家リン・スホルトは異文化の男女が美しく和合している姿を目にしている。父親のピート・スホルトは兵士として東インドにやってきた。母親のジュミニはジャワ人のニャイであり、後にピートがかの女を妻にした。リンの作品には頻繁に両親が登場し、ふたりの間に近接した価値観・相互尊重の念・相愛といったものが流れていることを感じさせてくれる。ふたりが他のヨーロッパ人と違っていたことを、リンは鋭く見通しているのだ。
・・・何年も後になって、かれはかの女をよく知ることになった。かの女がだれか酔っ払い兵士のムンチになることを思うたびに、かれは耐えられい気持ちに襲われた。かれに近い兵士仲間たちが何人も、「あんたがオランダに帰ったらジュミニを譲ってくれ」と頼んでいたことを、何年も後になってはじめて、かれはかの女に話した。・・・・
のっぽ伍長とジュミニが呼んだ東インド植民地軍伍長のかれは、たいていのヨーロッパ人兵士たちとまるで違っていたことがわかってきた。かれは注意深い人間であり、篤信で、最初からジュミニを尊重していたのだ。ふたりが「合意」したあと、ピートが俸給を持ち帰ってきたとき、美しいできごとが起こった。ピートは照れくさそうに、俸給をすばやくジュミニの膝の上に置いたのだ。ジュミニはその俸給をつかむと、不審の目をピートに向けた。「わたしはこれで何をすればいいの?」という言葉がその目に中にあった。ピートは苦笑いしながら言った。「言うまでもないことだよ。全部おまえのものだ。おまえがいろいろ買物するためだ。わしには、タバコ葉と紙を買うために一週間11センあればいい。」
ジュミニの気弱さが高利貸しをしている兵舎の女たちの食い物にされており、そのころ既に1千フルデンもの借金が積み重なっていた。ピートがそれを知ったとき、かれは憤慨した。ジュミニは言う。「もしあんたがあたしに出て行けと言うなら、そうされても仕方ないわね。ほんとにひどすぎるわ。あたしにはもうどうしようもない・・・。」
ピートは声を震わせて怒鳴った。「おまえは気が狂ったのか?おまえはわしの妻なんだぞ。違うか?これはわしらふたりの問題なんだ。ただ、おまえは今ここでわしに約束しなきゃならん。絶対に二度とこんなことをしないということを。」

ウィレム・ワルラーフェンやピート・スホルトだけが特殊な例だったというわけでは決してない。コロニアルの偏見に精神が蝕まれていないヨーロッパ人ははるかにたくさんいた。かれらは自立的且つ自律的に事態に対処した。かれらはコロニアルの偏見に立ち向かい、プリブミ女性と共に人生の軌跡を手を携えて歩んだ。プリブミの文化を容認し、自分の人生の同行者がかの女を縛っていた要素を解き放って自分自身になるための機会を与えた。たとえふたりの関係がトアンとニャイのままであったとしても、そのような外面的な形と本質的な人間同士の関係とが必ずしも直接的関連性を持たないことは明らかだ。そのような男たちは、たいへん大きな心と勇気を持っていた、とレギー・バアイ氏は特筆している。


だがしかし、ヨーロッパ文化における愛の観念とその実現形態、そしてそれとはまるで異なる東インドの文化にあった愛というものが果たして合致できるほど愛というのはユニバーサルなものだったのかどうか、わたしには確信がない。
「カルティニが自分自身そして他のジャワ女性について書き記したように、ヨーロッパ人が呼ぶところの「Love」についてイティはほとんど知らなかった。かの女の知っているLove はプリアガンの村に関わるものであり、苦悩をもたらすものであり、確信をもたらさないものであった。男というものはあらゆる機会に妻を裏切ろうとする存在であることをかの女は素朴に信仰しており、わたしがどれほど頻繁に、わたしの愛情を、特にかの女への尊重を理解させようとしても、またどれほど頻繁に、わたしが妻に不実であれば自分の心の平穏が粉砕されてしまうからもっと緑の色濃いよその庭を求めることには興味がないことを主張しても、かの女がそれを信じた気配は少しもなかった。」というワルラーフェンの著作『クラン(一族)』内の一文にご記憶はないだろうか?
ワルラーフェンはそれについて、「西洋的コンセプトにおけるLove というものをジャワの女は持っていない。それはかの女たちが持っているハーレムメンタリティのせいだ。つまり、呼ばれたときにだけやってきて、そのあとは機械的なプロセスがあるだけ。東洋の女は何百年にも渡って世の中にある多妻的慣習に虐げられてきた。かの女は見捨てられたり、あるいは他の女と夫をシェアしなければならなかった。」という分析を行っている。
ふたりの人間の間で互いに相手のwell-beingを願い、そのために相手に尽くしあうという感情的な人格的接触のあり方が愛と呼ばれるものであるとするなら、ふたりは必ず自分がそうするように相手も自分にしてくれることを期待して当たり前だ。そのとき、ふたりの間に人間の上下関係が混在しているなら、その愛には何かが欠けているという気がして当然だろう。

夫のwell-beingが、決まった時間にご馳走を食べ、社会生活での体面を損なわないような衣と住のレベルを維持できるように家庭生活の世話が行われ、そして子供のしつけと教育も世間から見劣りしないように行われ、夜は自分のわがままを言わない女との間で男の性欲発散を自由に行うことだと定義され、その義務を完璧に遂行することで得られる充足感満足感が妻の精神的なwell-beingであるとされているような社会における愛というものが、どうして同じような発現形態を持ち得るだろうか。妻が十分にその義務を果たせるよう経済的な責任を担うことのみが夫の義務であり、あとはせいぜい、妻が自分の義務を忘れない程度に好き勝手を行えるよう放任してやることくらいであり、反対に妻は夫を常に上位に据えておかなければならず、夫が自分に奉仕するのを妻が求めるのは悪徳であると社会が断罪するような場所で互いに相手に尽くしあうようなことが起こるとすれば、それは社会から完全に隠蔽された家庭の深窓の中にしか求めることができず、人間が持っている社会生活面の希求を押し殺さずには済まないにちがいない。

コロニアル社会の中に築き上げられた偽善的な観念に、ワルラーフェンは敢然と立ち向かった。真実を求める人間が自分に誠実に生きようとするとき、たとえ世界中を敵にまわして玉砕したとしても、かれは決して悔いないにちがいないだろう。そして往々にして、そのような人間を滅ぼそうとかかってくる敵は、世界中のほんの一部でしかないということも起こるのである。
・・・わたしとイティは時々一緒に出かけた。劇場やカフェあるいはふたりだけでレストランで食事するために。そんなとき、いつもマニアックな市民に出会った。さまざまな場面で東インド女性をもてあそんでおきながら最終的にヨーロッパの純血女性と結婚した者たちだ。かれらは労働組合と呼ばれる団体の指導層で、プリブミとの関係においては純然たる奴隷理論を信奉している。忘れる前に書いておこう。東インドでもっとも善良なるひとびとはプリブミなのだということを。かれらは地球上で一番優しい民族だ。そして残念なことに、ヨーロッパ人・中国人・アラブ人はもっとも汚いならず者なのである。・・・


ニャイとなった女性たちが決して単一次元単一パターンの人間でなかったことは、これまで見てきたことがらからわかるにちがいない。
ものごとの一般化は論理を進めていく上で免れることのできないことではあるものの、観念的になりすぎると事実や実態は雲のかなたに置き去りにされてしまい、論証は具体性を欠く肉付けのないものになってしまう。具体性を持っているものごとを観念的抽象論で論じられたら、われわれは視野の狭い人間になりさがってしまうだろう。論者だけが優越感を感じるようなものを読者が得々として受け入れているような社会の良識には、われわれは疑念を持たないで済ますことができないにちがいない。
ニャイという言葉を、婚姻制度を経ないでヨーロッパ人のベッドの友となったプリブミ女性という意味に限定しても、その人数は10万人を超えている。女性には学問知識や思考能力は不要であり、男性をはじめとする上位者が命じることをただ行っていればよいのだという社会観念の中で育ったかの女たちの中に、磨けば光る宝石は少なからず転がっていたにちがいない。ワルラーフェンのイティのような女性が、あるいはプラムの創作したオントソロのような女性がもっとたくさんいたであろうことは容易に想像できる。
ただ、われわれが誤解してならないのは、インドネシアの民族運動の中でかの女たちが反植民地思想をわがものとして運動に加わったのではないということだ。それとは反対の、民族運動家たちによって反植民地思想を高揚するための材料に使われるということが起こったのである。植民地支配者であるオランダ人を含むヨーロッパ人のほぼふたりにひとりが同胞女性を妾にして性的搾取をほしいままにしているありさまが被支配層の怒りを煽るツールに使われたのだ。

現実に、その時代にインドネシアにあった女性観はヨーロッパ人支配者たちが現地人同胞女性に行っている性的搾取とそれほど隔たりがあったわけでなく、反植民地思想が打ち出す抗議の眼目はそれを異民族の白人が行っているという点に向けられていた。
ニャイは植民地支配者がかれらに与える苦痛と屈辱のシンボルとなり、貞操を打ち捨てて異人の男に身を任し、貧困にあえぐ同胞を低く見て豊かな暮らしと享楽に現を抜かす裏切り女というステレオタイプの女性像が世間一般に流布し、自分より好運な人間に対するお定まりの嫉妬と憎しみがそこにからんでニャイたちの人生にアンビヴァレンツな要素をもたらすことになった。そのあたりの社会的メンタリティは、日本の幕末時代にお鶴やお吉を、あるいは異人の客をとった娼婦をラシャメンと呼んで蔑んだ社会メンタリティと相通じているようにわたしには思える。
自分たちのものであるべき女たちが別世界から来た自分たちの敵である異人に夜な夜な抱かれている夢想がもたらす嫉妬と、自分たちの世界から逃げ出して豪勢な暮らしに入った裏切り者への憎しみの感情は、そうしなかった女たちにかれらが与えていたものが何だったかということに思いをいたすなら、道理に外れたきわめてエゴセントリックなものとしかわたしには見えない。粗雑なたとえではあるが、自分たちのおもちゃを自分たちが勝てない相手に取り上げられた男たちの憤懣が芬々と臭ってくるように感じるのは、わたしだけではあるまい。そういう暑苦しい感情に煽り立てられたとはいえ、そこに生じたのは確かに植民地支配に衝突するための民族主義であったことは否めない。幕末の日本でも、類似のメンタリティは民族の思考を攘夷という方向に向けさせることに成功している。
ただし、そこに見られる本質は単なるクセノフォビアでしかなく、ムラビトがヨソモノを嫌悪し排斥する心理からそれほど隔たったものでなかったことは、白人からの性的搾取の被害者となった女性たちが同胞の男たちからも別の形の搾取を蒙る二重の被害者になった事実が十二分に物語っている。
サミウンがニャイダシマを殺すために雇った殺し屋のポアサが後の時代に民族主義運動の先駆者としてもてはやされたのはそういう要素に立脚していたからであり、プラムディアが描いたニャイ・オントソロにしても、かの女を取巻いているプリブミ社会からの冷たい侮蔑の視線は通奏低音としてストーリーの中を一貫して流れている。
ニャイというのは、植民地支配が生み出したセックス搾取の歴史なのであり、女性受難史の一幕を堂々と飾って見せてくれるものであることを疑う余地はないとわたしは思う。