「チクンバンのバラの花」


一月、プリアガンの山々は毎日降る雨でしとどに濡れそぼち、植物はたっぷり水を含んで肥え、新鮮だ。いつもはよく澄んでいる川の水は雨が流した泥で濁り、少々のことですぐに氾濫する。気候はいつもより涼しいが、村々の道は泥に覆われて滑りやすく、ひとびとは往来に難渋する。そんな状況にもかかわらず、農夫たちは雨で柔らかくなった土を耕して畑に種をまき、勤勉に働かなければならない。この時期、種の成育は早いのだ。
雨季の山の空気は爽やかだ。もし夕方に雨が降らなければ、ひとは夕日が黄赤ピンク紫のえも言われぬ美しい色合いを空に描き出してくれる光景を感嘆の心で楽しむことができる。この大自然の美を再現できる画家はまずいないだろう。そして、その光に照らされた山の峰が黄金色に染まるのを見ることができる機会を与えられた者は、たいへんな好運を得たと言えるにちがいない。というのも、そんな光景を見ることができるのは一年中で十二月から一月にかけてだけであり、しかもたまたま夕方に穏やかな天候が到来した場合に限られるのであって、これは実に貴重な機会にほかならず、夢想やおとぎ話の中でのみ出会うであろうその繊細な美の極致を現実に体験できるひとは決して多くないのだから。

サラッ山とグデ山にはさまれたムリア山にあるゴム農園の管理人オー・アイチェンはそんな自然の美を鑑賞できる心を持った青年だった。かれは小じんまりした管理人邸の裏手に出した籐製の寝椅子に座って大自然が演じるページェントを楽しんでいた。農園管理人邸はゴム農園中央部の高台にあり、ちょうど東西にあるグデ山とサラッ山にはさまれた位置になっている。時間はもう夕方5時を回り、工場の終業合図の鐘が鳴らされたばかりだ。工場から出てきた男女の作業員たちが笑いさんざめき、ふざけあいながら、一部は工員寮を目指し、あるいは村の自宅を目指し、中にはマンディのために川を目指す者もいる。工員寮の台所から、そして村の家々から、女たちが飯を炊く煙が立ち上り、煮える飯の匂いに混じって塩魚を揚げたり焼いたりする匂いが高原の爽やかな空気に混じる。一日の労働を終えた作業員たちが家族や仲間たちと疲れを癒し空腹を満たす幸福なひとときがやってくる。

山の稜線にかかりはじめた夕日が投げかける黄金色の光に染め上げられたグデ山が刻一刻と色合いを変化させるのを、アイチェンは寝椅子にもたれてぎ然と眺めていた。寝そべって読むつもりで持ってきた新聞や書物は膝に置かれたままだ。そこに書かれた文章がどんなに素晴らしく美しいものであっても、大自然が示して見せてくれる美には及ぶべくもないことを、かれは十分に知っているからである。読書は夜にだってできるが、この夕日のページェントは短時間のうちに終わってしまう。太陽がもう少しして稜線の下に沈んでしまえば、あらゆるものが眼前から消え去ってしまう。かれがいま夢中になって見つめているその美にいつまた再開できるか、それはだれにもわからないことなのだ。
一秒ごとに光景は変化した。5時15分、グデ山の半分が黄金色に輝いていたが30分後には峰の頂だけが残された。頂の下は黒い影に覆われ、黒雲が厚みを増して時おり雷光が閃いた。黄金色の光は赤みを増し、西の空は黄色から橙色そしてピンクへと移り替わり、太陽がサラッ山とプルバクティ山の下へと潜って行くに連れて燃えるような火の色が強まった。
目はそんな壮大なページェントに釘付けになっている一方、耳には、今夜の寝床を得た鳥が仲間を呼ぶ哀愁の混じった鳴き声や、虫たちが奏でる合唱の声に、ゴム林を吹きぬける夕風に揺れる葉ずれの音が混じりあって柔らかく流れ込んでくる。それらはアイチェンの心に平和で穏やかな感傷を掻きたてた。プリアガンの素晴らしく美しい山地で長い間平穏な暮らしを楽しんだことのある人間が持つことのできる平和の境地がそれだった。


アイチェンはムリア山ゴム農園に奉職してもう5年になる。最初は月給50フローリンの事務職だった。それから監督職を務め、今では月給300フローリンで農園管理人の地位にまで上った。それも、アイチェンが大金持ちである農園オーナーのリョッ・ケンジムに愛され、絶大な信頼を得ているがためだ。アイチェンは今の仕事がたいそう気に入っていた。地位も給料も申し分ないということだけでなく、かれはこの山地での暮らしと自然がもたらす美や快適さが性にあっており、都会暮らしでの賑やかさ・快楽・贅沢といったものなどよりはるかに素敵で意義のあるものであることをかれは信じていたのである。

アイチェンはもう三十歳になり、青年という若さから脱しはじめていたが、いまだに結婚しておらず、妻を得て家庭を作るという意欲も持たなかった。学生時代には美しくて教養のある娘たちと交際し、父親がスカブミで名前の知られた大金持ちだったころはそんな娘たちと映画を見に行ったり、手紙のやりとりをした。ところが一族が困窮と貧困の暮らしに落ち込んでからというもの、かれはそんな交友関係から身を引いてしまい、静かで穏やかな場所を求めて町を去り、寂れた山中で仕事に没頭した。
かれは今のような都会から隔絶された山地で生きていくことを自分の生き方として選択し、そんな暮らしを愛している自分に満足しているため、今はまだ結婚する時期ではないと確信していた。それは、家庭を持つための資金がまだ不十分であることもさりながら、いざ結婚したはいいが妻になった女性が山地の田舎暮らしを嫌い、数年後に喧嘩別れをするようなことになる懸念を強く感じていたからだ。華人上流層の娘たちの中で、こんな田舎暮らしを半永久的に続けることを辞さない者がいるなど、アイチェンにはほとんど信じられないことがらだった。

そしてもうひとつの理由は、かれのこの山の中での暮らしを支えてくれるニャイがいたことだ。アイチェンは三年前にマルシティをニャイにした。その三年間というもの、かれは一度もマルシティに腹を立てたり、不愉快な気持ちにさせられたことがない。その三年間、自分の身の回りの世話をしてくれるマルシティと接する中で、勤勉で倹約を好み、きれい好きで善良な性質を持ち、挙措振舞いも粗野なところがないマルシティの人柄にアイチェンは惚れ込んでしまった。現代的な娘を妻にしてマルシティと入れ替えることはアイチェンの人生にとってとても大きなリスクをはらんでいるのだ。あれこれと山のような希望を持ち、夫にそれを叶えるように求めてくるモダンな妻がどうしてマルシティの代わりを務めることができるだろう?いや、そういう功利的な次元よりもっと奥深いところで、アイチェンはマルシティを愛していたのだ。

マルシティはスンダの山出しの、学のない田舎娘でしかないのだが、その頭脳はたいそう聡明で、アイチェンがムラユ語とスンダ語の言葉をオランダ文字で書き表すことを教えたら、マルシティは短時日の間にその読み書きをマスターしてしまった。さらに、音楽の教育など何ひとつ受けていないというのに、マルシティはさまざまなスンダ民謡を艶やかな声で唄うこともできた。かの女が授けられた天性の声の艶やかさは、歌唱教育を受けた娘たちの歌声よりもはるかに魅力的だった。マルシティはアイチェンが自分に恋していることを知っており、自分の希望をよく聞き届けてくれることを実感してはいても、そういう関係に甘えかかってわがままを押し付けるようなところがなく、アイチェンには常に自分がお仕えするトアンという形で接し、アイチェンを立ててジュラガンと呼び、自分のことはアブディと呼んだ。ジュラガンとは使用人にとっての雇い主を指す言葉で、現代風に言えば『ボス』に当たるのだろうが、ここではジュラガンのまま使うことにする。アブディは僕(しもべ)を意味する言葉だ。
マルシティはアイチェンの言うことに反対も反抗もしたことがなく、アイチェンの言うがままに従い、まるでジュラガンに従うことだけを目的に作られた道具のようにアイチェンに仕え、従い、世話をした。それはまるでマルシティが人生のすべてをアイチェンに捧げたような暮らしであり、つまりはマルシティもアイチェンを心の底から愛していたことを表すものだ。


その夕刻、アイチェンが黄金に染まったグデ山の頂を感嘆の目で呆然と眺めているとき、マルシティはその近くに置かれたテーブルでティーポットとカップそしてビスケットを数個置いた皿を整えていた。それを終えたマルシティが裏の台所へ戻ろうとしたとき、アイチェンが呼んだ。
「ちょっとここへおいで、マルシティ。急いで台所へ行かなくていい。さあ、わたしの隣に座ってあの空を一緒に眺めよう。夕焼けとまるで金箔を貼り付けたようなグデ山の頂、なんて素敵な眺めなんだろう。こんな光景を見ることができるのは、一年のうちで何回もないんだよ。人間には絶対に真似のできない自然の素晴らしい姿を、おまえも一緒に鑑賞してほしいんだ。」
「はい、ジュラガン。」マルシティはアイチェンの足元の地面にひざまずいた。グデ山の頂がこんなにくっきりと明瞭に見えたことはまだ一度もなかった、とアイチェンは語りかける。「東の稜線と真ん中の線はあんなに離れていたんだ。その間には大きなくぼみがある。これまではひとつの平面にしか見えなかったのに。」

南の上り斜面に煙がモクモクと上がり始めたのが見えた。きっとそこの森が切り開かれて、ひとが住み始めたのにちがいない。切り倒した木を焼いて炭を作るのだろう。
「きっと別の農園会社がそこを開いて農園を作るのでしょう、ジュラガン。」
「多分そうだろう。ああ、一度あの山に行ってみたいものだ。シンダンラヤからの道を通って頂上に登り、頂上の火口を覗いてみたいものだなあ。マルシティ、おまえも一緒についてきてくれるかい?」
「ジュラガンがあたしを誘ってくださるなら、どこへでも付いて行きますわ。でもあたしたちがふたり一緒にあそこへ行ける日はずっと先のことでしょうね。そしてジュラガンがあそこへ行ける日がやってきたとき、あたしはもうここにいないかも知れません。そしたら、ジュラガンに付いていくこともできないわ。」
「そんなことはないよ。わたしを置いておまえが去るようなことはないのだろう?」
「ジュラガンがいつまでもあたしを置いてくださるのなら、あたしがここを去ることはありません。墓穴に入るまで。」
「おまえが年を取るまでふたり一緒に暮らせるよう、神様がおまえを守り、おまえを長生きさせてくれる。悲観的な考えは全部おまえの頭から追い出すんだ。ここ数日間、おまえは暗く哀しい表情をしているね。おまえが将来悲しむようなことの種なんか、今何もここにないんだよ。おまえはわたしに何か隠しているのか?言ってごらん、マルシティ。おまえの心をふさいでいるのはいったい何なのか?」
「この世にあたしの心を塞がせるものなんか、何もありません。ジュラガンがあたしのことを愛してくれて、あたしの仕事がジュラガンのお気に召すかぎり。」
「じゃあ、おまえに対するわたしの気持ちが将来変わるかもしれないとおまえが思っているのはどうしてなのか?」
「いいえ、そういうことじゃないの。でも、近い将来ジュラガンとあたしが別れることになる予感がするんです。」
「予感?どういう予感なのか?はっきり言ってごらん。」
「三日前に見た夢で、今でもはっきり覚えています。それを思い出すたびに、肌が粟立つんです。」

マルシティは話し出した。
「その夢の中では、ジュラガンが馬のビマに乗ってチサルア川を渡り、ルウィウンチャルへ向かいました、あたしは後からついていきました。ジュラガンが向こう岸に着いたとき、あたしも川岸に降りて向こう岸に渡ろうとしました。そして大声で呼んだんです。『ジュラガン。ジュラガン。あたしも付いて行きます』って。でもジュラガンは後ろも振り向かずに馬を走らせ続けました。あたしは泣きながら、川に入って向こう岸へ渡ろうとしました。ちょうど川の中ほどまできたとき、鉄砲水が襲ってきてあたしは流されてしまいました。あたしは声を振り絞ってジュラガンに『助けて!』って叫びました。ジュラガンはあたしの方を向き、様子を見定め、そして手を伸ばしました。でもあたしを助けようとはしなかったんです。そのままどんどん走り去りました。一方、あたしは水に流されてどんどん離れて行き、溺れ、沈み、また浮いて・・・・そして目が覚めました。」

アイチェンの額にしわがより、微笑みが青白く凍りついた。かれは迷信家ではないが、夢のお告げが時に未来を予告することがあるのを知っているのだ。しかしかれはマルシティの心を慰めようと努めた。「ああ、そんな馬鹿げた夢なんか信じちゃいけない。多分おまえの眠りが深すぎたんだよ。」
「あたしもそう思いたいわ。でもこの世に起こりえないものなんかないんですもの。ジュラガン、あの山頂の黄金色の輝きをごらんなさいな。さっきはあんなに光り輝いていたというのに、もうその輝きはなくなり、さっきはあるかないかくらいだったもやが今は全部を呑み込もうとしている。」
そう言われてアイチェンはグデ山に目を移した。厚く白い雲の塊が風に吹き上げられてどんどん山頂目指して這い登っている。今では峰を覆うばかりに広がり、さっきまであった黄金の輝きはもう消えてしまった。

「南のほうをごらんなさいな、ジュラガン。大きな黒雲がこちらに向かって進んできているでしょう。まるで虹のような多彩な色の散りばめられた夕日に美しく映えていたあの空も、あっという間に黒づくめの布に覆われていくみたい。南風も強まってきました。もうすぐ大雨になるでしょう。」
そのとき、まだ開かれていた管理人邸の窓が強風に打たれてぶつかり合い、一枚の窓からガラスが粉々に飛び散った。ふたりはすぐに立ち上がると、窓と扉を閉めに走った。大粒の雨が降り始め、ふたりはそのまま邸内に入る。屋根の瓦とトタン板が雨音を鳴らし始めた。

「怖がることはないよ、マルシティ。このくらいの雨風はもう何度も体験しているんだから、ちっとも怖れることはない。どうして泣いているの?」マルシティはテーブルに頭を載せ、ハンカチで顔を覆って泣いていた。しばらくして、マルシティがやっと返事した。
「あたしは雨風と雷や稲妻を怖がっているんじゃないんです。ひとの世のしあわせはすぐにこんなことになるんだなって思っているんです。ついさっきまでは光り輝いていたというのに、もうこんなことになって・・・。ああ、ジュラガン、あたしはあの夢がとても心配なんです。」
「馬鹿げた迷信は捨てなさい。わたしが生きているかぎり、おまえの悦びやしあわせを損なうものなど絶対に近づけない。さあ、早く台所へ行って、今夜の食事に何を料理するのかイヌンに言いつけなさい。もし明日の夕方、天気がよければ、村の歌舞団をここに呼んでパーティを開こう。馬鹿げた夢に押しつぶされているおまえの心が晴れるように。」

そのとき、下男のティルタが電報を持って入ってきた。雨の中を郵便配達夫が届けたものだ。受取証にサインしたアイチェンはすぐにその電報を開いた。スカブミの父親、元華人カピタンのオー・ピンローが発信人だった。電文は「明日、訪問する」という短いものだ。アイチェンは、これはいったいどういうことなのだろうかと考えた。もう何年も父親がこの農園にやってきたことはない。あらゆることがらは電話や手紙あるいはアイチェンがスカブミに呼ばれるというようなやり方で片付いていた。ところが今突然、父親がここへやってくるという連絡が来た。父はいったい何の話をしにくるのだろうか?
アイチェンはマルシティとティルタに、大ジュラガンがやってくるから客室を掃除しておくように言いつけ、御者のムルドに明朝鉄道駅まで迎えに行くよう命じてから床に就いた。心中に一抹の不安を抱えながら。


父と子が管理人邸の表のギャラリーに座って話し合っている。元華人カピタンのオー・ピンローがアイチェンに言った。「おまえがこれほど愚か者だったとは想像もしなかった。おまえはひとが足元に置いてくれた富・尊さ・名誉・快楽のすべてを、ただのニャイひとりのために蹴飛ばそうというんだからな。1リンギットも出せば、ニャイなど村の隅々からいくらでも手に入るんだ。いや、そのことは言うまい。それはおまえ自身の問題であり、わしが干渉することがらじゃない。ただ、これだけはおまえに言っておきたい。もしもおまえがリョッ・ケンジムさんの希望をどうしても拒むのであれば、おまえは単に自分自身の好運を無にしようとしているだけでなく、このわしと母さんと、そしておまえの妹たちを一生涯、恥と苦難の人生に追いやることになるということを。覚えてるだろう、アイチェン。わしら一家はもう長い間、世の辛酸をなめつくしてきた。この十年間わしらは悪運に翻弄しつくされ、持っていた全財産はすべて金に換えて手放してしまった。ミリオネアで華人オフィサーだったこのわしが、家賃ひと月15ルピアの借家住まいだ。そしてファミリーのだれひとりとしてわしらの境遇を気にかけてくれる者はいない。もう娘になったおまえの妹たちも世間から蔑んで見られている。礼儀知らずの成金がマドゥにくれと言ってくる始末だ。一家の希望はたったひとりの男児であるおまえの双肩に乗っている。わしら一家の格を世にふたたび高めることができるのはおまえだけなんだ。その希望が叶えられるよう、わしと母さんは夜昼いつも天に祈っている。
その機会が今やってきたんだ。おまえはいまの仕事で要職にのぼり、ひとから一目置かれるだけの給料を稼いでいるが、それだけじゃなくて雇い主からも大きな信頼を得ている。その信頼がどれほど大きいか、それは宝石のようにして自分の目の中に入れても痛くないほど可愛がっている一人娘をおまえの妻にと申し出てきたことに表れている。それはつまり、何ミリオンもあるかれの全財産をおまえの手に委ねて悔いないことをも意味しているんだぞ。結婚相手のグワッニオ嬢ちゃんは巨額の遺産相続者だというだけでなく、美人で教養があり、善良で挙措振舞いも上品だ。近隣各地の世間に名の知られた金持ちの息子たちがもう何十人も嫁に欲しいと申し込んできているが、父親はそれを全部断っている。婿に欲しいのはおまえなんだ。ケンジムさんには男の子がいないから、かれの全事業をおまえに引き継いでもらいたいんだ。これは素晴らしい話じゃないか。国中の印華人青年ならみんな踊りあがって喜ぶような話だ。ところがおまえはあっさり『いやだ』と言う。その理由にしても、もうニャイがいるからだ、と。頭の中がきちんと整理されているひとたちひとりひとりに尋ねて回ってみろ。おまえの友人や知り合いたちに。おまえみたいな歪んだ奇妙な考えをしている青年がこの世界にふたりといるかどうか。よく考えるんだ、アイチェン!」

アイチェンは苦渋に満ちた顔をうつむけて、ただ黙って父親の言葉を聞いているだけ。父親は続ける。
「わしにも若い時代があった。そして不道徳な生き方をしているいろんな女たちとのアフェアも経験している。最初は女への愛を尊奉するのだが、最終的に失望と痛みを与えられて後悔することになる。そういう女たちの愛だの貞節だのというのは、結局金があってのものだ。その結果、女の望みを満たしてやるための金はすぐに底をつく。あるいはまだ金があったとしても、もっと豪勢に金をばら撒く別の男が現れたら同じことだ。すぐに裏切り、置き去りにして行ってしまう。だからそういう女に引っかかっても、本心からのめりこんじゃ駄目なんだ。ましてやスンダ女なんだから。昔からスンダ女は魔術を使って男を垂らしこみ、金や財産どころか身ぐるみはがしてしまうので有名だ。インドネシア中どこを探してもスンダ女ほど身持ちの悪い女はいないと言われている。」
「父さんがマルシティを娼婦のように言うのは間違ってる。わたしがマルシティをニャイにしたとき、あの娘は処女だった。そしてこれまで、批判されるような振舞いはただの一度もわたしの目の前で見せたことがないし、わたしの負担になるようなものごとを何ひとつ要求したこともない。あの娘の性格は倹約家で従順で、ひとの言うことをよく聴くんです。」
「もし従順でひとの言うことをよく聴くのであれば、おまえはその娘を村に帰るよう言いつけ、そしておまえは結婚すればいいだけの話じゃないか。何もむつかしいことはないだろう。そして毎月生活費を与えてやり、ときどき会いに行ってやればいいんだ。」
「そんなことをすれば、自分の妻を裏切ることになる。」

「ナンセンスなことを!おまえだって知ってるじゃないか。たとえ結婚して妻子があったとしても、オランダ人にしろ華人にしろ、農園で働く職員や代理人のほとんどはカンプンでニャイを持つのが常識になっていることくらい。リョッ・ケンジムさんだってニャイを三四人作っていた。おまえの妻にと言われているグワッニオ嬢ちゃんだって正夫人から生まれたわけじゃない。正夫人との間には子供ができず、子供は家で働いている料理女から生まれたその嬢ちゃんひとりだけだ。子供に乳の世話の必要がなくなったら、正夫人が引き取って家の正式な子供にした。料理女はそのあと、別の男についていった。だから、おまえの気持ちがマルシティから離れられないのなら、黙ってその関係を続けたってかまわない。後日おまえの妻がその事実を知って苦情してきたところで、問題ない。『おまえの父親がニャイを持たなかったら、おまえはこの世に生まれていないんだ。』と言ってやるんだな。それで一件落着だ。」
「でもマルシティを追い出すことなんかわたしにはできない。もしわたしが結婚することをあの娘が知ったら、あの娘は心に深傷を負って悲しむに決まっている。わたしには、自分の愛情をふたつに分割するなんてできません。」
「それは障害にはならない。もしおまえがマルシティをずっと愛するのなら、グワッニオを愛さなくてもいいんだ。自分の妹みたいに思ってやればいい。グワッニオ嬢ちゃんはおまえのニャイより十倍も値打ちのある人間なんだ。もう一度はっきり言っておこう。この結婚は女の側から申し込んできた話だから、おまえがグワッニオを愛さなかったとしても、そのリスクを背負うのはリョッ・ケンジムさんの方なんだ。いちばん重要なのは、わしら一家に大きな好運をもたらすことになるこの申込みをおまえが拒否しないことだ。マルシティのことは、わしにもよくわかる。おまえがあの娘を村に帰して家具調度のととのった家と水田を買ってやり、毎月生活費を与えてやればきっと大喜びだ。」
「でも、ほんとうにわたしにはできない・・・・」
「なんでだ?あの娘が嘘泣きして涙を流すのを見るのが耐えられないのか?よし、わしが話をしてやろう。」
ピンローは立ち上がって邸内に入り、マルシティを探した。半時間ほどしてから、かれはマルシティを連れてアイチェンのところに戻ってきた。

「さあ、マルシティ、この問題についてのおまえの考えはどうなのか、話してごらん。」
大ジュラガンにそう命じられたマルシティは震える声で話し出した。「ジュラガンは親の希望に沿わなければなりません。親の言いつけに従わない子供は、神に対して罪を作ることになります。そして、ジュラガンが大ジュラガンの希望に従うのをあたしが邪魔したなら、あたしも罪を作ることになるのです。あたしは村へ帰ってかまいません。そしてジュラガンが家やなにかを買ってくださり、生活費をくださるというのは、ありがたく頂戴します。でもくださらないなら、それだっていいんです。あたしはクーリー仕事をしてでも生きていけますから。」
「いや、違うよ、マルシティ。おまえのジュラガンはおまえの住む家を家具と一緒に用意し、水田を買い与え、そして必ず毎月おまえに生活費を与える。それはわしが責任を持つ。おまえはそうやって一生愉しく暮らすんだ。わしも、決しておまえが見捨てられたりせず、食べ物も衣服も十分に手に入るよう、気にかけておこう。」

「マルシティ、おまえは正直な心で本心からその依頼に従おうとしているのか?」 「もちろんですわ、ジュラガン。もしジュラガンが大ジュラガンの希望をあくまで拒んだとしても、あたしは暇をいただいて村に帰ります。あたしひとりのためにジュラガンの一家全員が悲しむことになるなんて、とてもあたしには耐えられませんから。」
「おお、マルシティ。おまえの心はなんて清いんだ。試練に会って黄金のようなおまえの高貴な心がますます輝くようだ。」アイチェンは思わず立ち上がってニャイの身体を抱きしめた。父親の目をはばかってマルシティはすぐにアイチェンの抱擁をふりほどき、ドアに向かいながらピンローに尋ねた。「あたしがここを去るのはいつがよろしいのでしょうか?」
「慌てることはない。ひと月か、あるいはもっと先か。まずおまえはここからちょっと離れた村で家を探しなさい。最初は借家でもいい。そして気に入った物件が見つかり、値段も折り合えばそれを買う。」

マルシティはうつむいて台所に向かった。ピンローは息子に言った。
「見たとおりだ。この問題はあっさりと片付いたじゃないか。じゃあ、わしはそろそろ帰るよ。リョッ・ケンジムさんに何も問題がないことを報告しなきゃ。おまえのニャイは去ることになり、障害になるようなことはなにひとつないってな。ひと月以内に指輪のサイズをはかることになるだろう。ケンジムさんはこの結婚をできるだけ早く実施したいそうだ。呆けが激しくなっていて、娘を結婚させる前に世を去るのが心配なんだ。おまえは結婚式に必要なものの用意を始めるように。黒服なんかも作らなきゃ。」
アイチェンは喜ぶ父親とは対照的に、気の抜けた姿でなかば呆然と立っていた。父親がデルマンに乗って鉄道駅に向かうと、かれはすぐ部屋に入って寝台に横たわり、声をしのんで泣いた。マルシティとの幸福な三年間の暮らしが消滅し、先の見えない新しい世界がそれに取って変わろうとしていた。


それからの数日間、マルシティが常になく邸内をすみずみまできれいに磨き上げ、シーツや蚊帳をまた洗濯し、マットレスを干し、アイチェンの衣装タンスの衣服をすべて再点検してほころびやボタンの外れたところを補修し、さらにアイロンをかけ、アイチェンの仕事部屋の机と椅子を磨き、机上のインク壺から煙草入れに至るまで掃除し、外の野菜畑や花壇の草取りや植え替えをし、明らかに自分が去るにあたって後を濁さないように振舞っている姿を目の当たりにして、アイチェンは心を氷の刃で突き刺されたかのように感じ、悲哀の心が盛り上がってくるのだった。
「ジュラガンは同じ華人の奥さんを持つのがいちばんいいのです」と口には出しても、マルシティの心が自分と同じように悲哀と苦痛に満たされていることは見ればわかる。そして一緒に暮らせる日が残り少なくなったいま、自分の務めである家政にますます没頭しているマルシティの健気な姿がアイチェンの心に痛々しさをつのらせるのだった。


ある朝、アイチェンは家の表でマルシティが若木を植えているのを目にした。それはチュンパカの木とクムニンの木で、良い香りの花を咲かせるために人気のある樹木だ。庭係の下男に手伝わせてマルシティは植樹に余念がない。
「マルシティ、何をしてるの?」
「チュンパカとクムニンを植えるんです。」
「どこから持ってきたの?」
「おととい、マサリさんに頼んでおいたのが届いたんです。1ルピアを払いましたけど、払いすぎたかしら?」
「好い木でちゃんと成長してくれれば、決して払いすぎにはならない。」
「この木がしっかり成長して朝夕このあたりを良い香りで満たすよう、わたしは願をかけました。ジュラガンが奥さんとこのあたりを散歩するとき、良い香りで気持ちよくなれるように。そしてチュンパカの花はジュラガンのベッドの上に架けるんです。あたしからの永遠のプレゼントとして。」
「ああ、マルシティ、おまえはまるでわたしから永遠に去って行くような言い方をする。おまえはわたしの考えを知っているじゃないか。わたしはおまえを決して中途で捨てたりはしない。」
「ジュラガンの考えを忘れたわけじゃありません。でもこの世には、ひとの考えや態度を変えさせることがらがいっぱいあるんです。自分の意志とは関係なく、そういうことがらが周囲からやってくるんです。あたしはあの夢がもたらした予感が本当だろうと信じています。だから、だれに恨みや悔やみを向けることもなしに、この運命をあたしは受け入れることにしたんです。あたしの運命が良いものであったなら、きっとこんな形にはならなかってしょう。」
マルシティの顔は涙で濡れていた。
「おまえの悲しみはそこまでだ。もう泣かなくていい。わたしは今すぐにスカブミへ行って、この結婚話を断ってくる。」
マルシティはアイチェンを行かせないように努めたが、気の立っているアイチェンの動きを封じることなどできようもない。部屋に入って着替えすると、アイチェンは馬を出させて鉄道駅に走った。
スカブミの自宅に着いたとき、家にいたのは妹たちだけだった。父も母も、リョッ・ケンジムに会うため自動車でバタヴィアへ出かけているのだ。アイチェンは昼過ぎまで待ったが、両親が戻ってくる気配はない。ちょうどその日は給料日だったため、かれはグヌンムリア農園に早々に戻ってきた。

アイチェンが管理人邸に着いたとき、空は曇り、黒雲が頭上に押し寄せてきていた。冷たい突風が吹きつけ、村の子供たちが木の枝に取り付けた風車がうなり、寂しさがアイチェンにまとわりついた。
かれが邸内に入ったとき、下男のティルタが急ぎ足で近寄ってきた。「ジュラガン、ニャイが出て行きました。」
当惑しきった表情でティルタはそう告げる。このティルタは元々アイチェンの父親が使っていた下男で、善良で忠実な働き者だったから、一家の信頼も厚かった。ティルタ自身もまだ子供の頃にアイチェンの世話をよくしていたから、かれらの間には主従というよりも幼時期から馴れ親しんだ兄弟のような心情が強く漂っている。アイチェンが家を出て山中の農園に暮らすようになったとき、ティルタはアイチェン個人の下男になった。

驚きと不安に襲われたアイチェンは急き込んで尋ねた。「どこへ行ったんだ?」
「行き先を明かそうとしなかったから、わしにはわかりません。ニャイはトランクと包みをアリフとクスニに持たせて、歩いて鉄道駅へ行きました。その子らはひとり四分の一フローリンもらったと言ってました。その子らが言うには、バンドン行きの切符を買ったそうです。それから、ジュラガンに、と言ってこの手紙を預けたそうです。」
アイチェンは急いで手紙の封を破った。マルシティが自分で書いたスンダ語の手紙が入っていた。

ジュラガンがこの手紙を手にするとき、あたしはもう遠いところにいます。あたしがここにいると、ジュラガンの結婚式の障害になるので、もうこれ以上ここにはいられません。ジュラガンの好運を決して妨げないことをあたしは大ジュラガンと誓って約束しましたから、ジュラガンが結婚するまであたしは姿を隠します。自分の衣服以外にはなにひとつ持って行きません。ただひとつだけ、あたしとジュラガンとの思い出として、ふたりで庭に植えたプリンマンコッマスの木を抜いて持って行きます。いつの日か、ジュラガンはあたしからの知らせを受け取ることでしょう。今は、お別れです。
さようなら。マルシティ

苦渋に満ちた心でアイチェンはティルタを叱った。どうしてわたしが帰るまで、マルシティを留めておかなかったのか、と。
翌朝、アイチェンはティルタに、バンドンへ行ってマルシティの居場所をつきとめてくるよう命じ、責任を感じたティルタは急遽バンドンへ発った。一週間がたち、ティルタは何の成果もなしに戻った。アイチェンはマルシティの知り合いがどこにいるのかを調べさせ、近隣一円の町や村に人を送って情報を集めさせたが、マルシティの居場所を示す糸口は何ひとつ得られなかった。父母兄妹のいない天涯孤独なマルシティが頼っていけるのは誰なのか、どこにいるのか、その謎に答えられる者はアイチェンの周りにいなかった。


そうこうしているうちに、アイチェンとグワッニオの婚約が公式に発表され、リョッ・ケンジムの健康がすぐれないために結婚式も早めに行なわれた。華人金持ちの結婚式の常で、壮大で華やかな一大散財が繰り広げられ、華人青年層のアイチェンに対する羨望と嫉妬の入り混じった視線が新郎新婦に注がれた。なにしろ、美しくて教養があり、しかも大金持ちの相続人である娘を妻にしたのだから、二重三重の金的を射止めたようなものだ。ところが、他の者なら飛び跳ねて喜びたいようなその境遇をアイチェンはまるで無関心という冷淡さで迎えたのである。かれの唯一の関心事は、いつマルシティと連絡が付けられるようになるのかという一点にあった。手紙の中で、結婚したら知らせを送るとマルシティは書いていたではないか。
しかし、月日はどんどん過ぎ去っていく。マルシティからの連絡はない。高額の報酬を約束して探させたが、それに応えられる者もいなかった。そして、懊悩するジュラガンの姿を見かねたティルタも責任を感じ、ニャイを見つけ出すまで帰らない、と言ってアイチェンから去って行った。マルシティを失い、ティルタにも去られたアイチェンは、まるで自分の両腕をもぎ取られたかのように感じた。
ところがそんな状況はかえって、かれが正妻のグワッニオと接触する時間を増やす効果をもたらしたようだ。新妻にニャイのことを気付かれて新婚生活が反感と嫌悪に包まれることを懸念したアイチェンは、マルシティのことをおくびにも出さなかった。しかしマルシティに傾いている心を隠しながら新妻に親しんでいくということを不実と思っているアイチェンにとっては、最初からグワッニオに距離を置いて接することで自分の誠実さを確かめるしか道はない。だが、両腕をもがれた人間がだれの世話も受けずにやっていくのは、難しいことだ。


時の流れの中で、自分の目の前にいる人間との接触が想像の世界にだけいる人間との関わりを薄めていくのは、古今東西の真理だろう。グワッニオという人物を知れば知るほど、アイチェンの心の中からマルシティの影がうすらいて行った。グワッニオも善良さや優しさ、上品な振舞い、スマートな家政の整え方などの点で決してマルシティに劣らないし、そして夫に十分な愛情を持っているようにアイチェンには思えた。仕事で遠出し、夜遅く帰宅しても、グワッニオは寝ないで夫の帰宅を待っているのが常だった。
それどころか、グワッニオの身体つき、声、視線、微笑みなど肉体的な特徴がアイチェンにマルシティを思い出させることも頻繁になってきた。グワッニオと話しているとき、その声の調子や微笑から、アイチェンはふっと目の前にいるのがマルシティのような気がして当惑することもあった。


夕方、天気のよい日には庭の草地の上に寝椅子を出して、アイチェンのティータイムが始まる。近くに置かれたテーブルでグワッニオが茶とビスケットを用意する。あるいは早朝、庭の畑や花壇の間をふたりで散歩する。そういうとき、グワッニオが語る話の内容は、かの女の教養の広さ深さをあまねく示すものだった。それはマルシティのまったく持っていなかった部分だ。アイチェンはこの女性に、妻以上の、人生の友人を得たような気持ちを抱くようになっていった。
グワッニオはピアノを巧みに弾いた。どの国のひとであろうと、来客があったときには、グワッニオは夫と一緒に客を迎え、客との会話に加わり、上手に客をもてなした。外国語にも不自由はなかった。山出しで人見知りするマルシティにはまるで期待できないことがらだ。アイチェンに客の来訪があると、マルシティはいつもどこかに隠れてしまう。
こうしてアイチェンの心はすっかりグワッニオのとりこになり、マルシティとの生活を維持するためにこの結婚を破談にしようとした自分の愚かさを今更のように思い出していた。つまりアイチェンにはもはやマルシティを追い求める心は失せ、すべての愛情がグワッニオに降り注がれていたのである。


結婚してから一年が過ぎて、グワッニオは珠のような女の子を産んだ。子供はフイエン、愛称リリーと名付けられた。アイチェンにとって、今や自分の人生になくてならないのはグワッニオとリリーであり、その心の中にマルシティの居場所はもうなかったにちがいない。夕方など、時おり、村の子供たちが歌うスンダ民謡が耳に入ると、マルシティがそれを唄っている姿が脳裏によみがえり、当時を懐かしむこともあったが、マルシティを探し出そうという気持ちはもはやかれから失われていた。

ある日、アイチェン夫婦がリリーを草の上で遊ばせていたとき、グワッニオが突然言い出した言葉にアイチェンは愕然とした。
「あなたの前のニャイが流産したのはほんとうに残念ね。もし生きていたら、今ごろその子はもう走り回っているでしょうに・・・」
結婚してからここ一年半の間、グワッニオの口から『アイチェンのニャイ』という言葉が出てきたことは一度もない。だからアイチェンはグワッニオがそのことをまったく知らないのだと確信していた。結婚前でも、グワッニオはいつも町で暮らしており、父親の農園に遊びに来たことすらほとんどなかったのだから。
妻は知っていて知らないふりをしていたのか?しかしそのまま肯定するのも業腹だ。アイチェンもとぼけた。
「ニャイ?・・・・何のこと?・・・・誰、それは?」
「マルシティよ。三年間あなたが一緒に暮らして、結婚式のひと月ほど前に姿を隠したひと。あなた、もう忘れてしまったの?」
「おまえ、いつからそれを知っていたの?わたしがマルシティというニャイを持っていたことをおまえに言ったのはだれだい?」
「結婚式の三日後くらいに、あなたが自分で言ったのよ。」
「わたしが?・・・ありえないよ。」
「本当よ、嘘なんかついてないわ。神に誓ってもいい。わたしはあなたの口からそれを聞いたの。」
「でも、覚えてないよ。だって、この話をおまえにしても、おまえを不愉快にしたり悲しませたりするだけなんだから、何も良いことはない。だからこの話は絶対おまえに明かさないでおこうと決心していたので、おまえにそれを言うわけがないじゃないか。」
「あなたがそれを秘密にしておこうと考えたのはもっともだけど、あなたの魂は嘘がつけないのよ。だから、あなたの魂からあなたとニャイマルシティの一部始終の話を教えてもらったわ。」
「一部始終の話を知ってるのか?」
「ええ、それは本当の悲劇ね。あなたに忠節を尽くして三年間世話した善良なニャイが、あなたが結婚することを聞き、あなたの好運の差しさわりになるからと言って身を引いたのよ。それどころか、あなたにまでお父様の希望に従うように勧めたんだから。あなたがたふたりに、わたしはとても同情するわ。」
「ええー?おまえはそれを全部知っているのか。」
「わたしはもっとたくさん知っています。わたしはマルシティの姿も知ってるのよ。美人で、黄白色の肌、ほっそりして背が高く、首がすんなりと伸び、漆黒の髪が波打って、額の上にあばたがあり、先細った顎に小さい口、鼻は開き気味で上品な目つき、濃い眉毛、広い額で眉の上に傷痕がある。違ってる?」
「マルシティにいつ会ったの?」
「わたし、まだ全部言っていないから、それはあとでね。マルシティは派手に化粧したり身を飾ることを好まない。身に着けているのは銀製品ばかり。一日中身に着けてるのは籐の指輪と金メッキのチェーン型ブレスレット、留めピンは鳥型で髷にさしてるのは大きい角のかんざし、首にはロケットのついたチェーンをかけ、胸にあるロケットの中には片方に『ジュラガンアイチェン』の写真、もう一方には自分の写真。違ってるかしら?」
頭を振りながらアイチェンは呆然としていた。
「おまえにそこまではっきりわかるなんて、不思議だ。」

グワッニオは笑いながら続ける。
「あら、わたしはもっと知ってるわよ。マルシティの態度はとても善良で上品だから、下男下女たちはみんなかの女が大好きだったの。ジュラガンのニャイだというのにちっとも偉ぶらないし、贅沢は性に合わなくて倹約家だし、あなたがひと月の生活費に与えた15フローリンはいつも余るくらい。仕事も勤勉で、家政は常に片付いて整っている。床のタイルは三日おきに自分で拭いているし、あなたの着るものは全部自分で洗ってアイロンかけるし、台所で料理人の手伝いまでして、毎日夕方にはあなたの服のほころびやボタンの補修をするし、あなたのためにカウンタバコを作ってあげて、時間があれば頻繁に庭へ出て野菜や花を摘んだり植えたり。本当にマルシティはあなたにとって価値ある存在だったから、あなたがあれほどまでに愛し、マルシティが去ったためにあなたはあんなに悔やみ、恋焦がれ、わたしたちが結婚した後でも忘れることができずにひとを使ってあちこち探させたのも当然だった思う。わたしにもよくわかるわ。」
「おお、なんと詳しい話をおまえは聞いたんだろう。おまえにその話をした者は実に的確にものごとを把握し、余計な脚色もつけないでおまえに語って聞かせたようだ。それはすべて本当のことだよ。だから、わたしが後になって道化役を演じないように、だれがおまえにその話をしたのか、教えてくれないか。」
「さっきも言ったように、最初この話はあなたの魂が教えてくれたのよ。」
「グワッニオ、おまえはいつ降神術を習ったの?」
「この秘密を知るために降神術を習う必要はないわ。マルシティが去ってからあなたと一緒に夜寝た人なら、ほとんど毎晩あなたの寝言を聞かされたでしょうね。あなたがぐっすり寝入ると、スンダ語で寝言を言い出すの。そしてマルシティって名前を何度も呼ぶの。あるときはわたしの首に腕を巻いて、スンダ語で『マルシティ、腕が疲れたからジュラガンの腕をもんでくれ』って。」
「本当かい。どうしておまえはこれまでわたしに何も言わなかったの?」
「最初はわたし、どういうことなのかわからなくて途方に暮れたの。で、ある日、あなたの前の料理人のマ・イヌンに尋ねたの。『マルシティってだれ?』って。マ・イヌンは『もうここを辞めて、ここからいなくなりました、奥様』って笑いながら言うだけだから、詳しく話すように食い下がったんです。そしたらマ・イヌンはあなたとニャイの話を後から後から聞かせてくれて、あなたが作らせたニャイの写真まで見せてくれたわ。マルシティがクドンドンの木の下に立っている写真。お別れに、と言ってマルシティがマ・イヌンにあげたんだって。」
「おまえがその話の全貌を知ったのはいつなの?」
「結婚してからひと月くらい経ったとき。」
「でも、どうしてわたしには何も尋ねなかったの?」
「あなたがそのニャイを慕って心塞いでいるときに、あなたの心をずたずたにはしたくなかったの。あなたがしょっちゅう愁い顔でぼんやりしているのを見ていたから、あなたの心中に何があるのかはそれで想像がついた。」
「結婚したというのに、いまだにマルシティを慕っているというのがわかったとき、おまえの気持ちはかき乱されなかったの?」
「いいえ。マ・イヌンの話からマルシティがあなたにとってどれほど愛するべき価値を持っている存在だったかということがわかったから。わたしがあなただったら、きっとあなたと同じようにしたでしょうね。」
アイチェンは感動して妻を抱き、口づけした。「おまえはまるで天使のようだ。きっと観音様がわたしを慰めるためにおまえの姿で降臨したにちがいない。」グワッニオは微笑みながら、受け流す。

「わたしは自然に考え、自然に振舞っているだけなのに、あなたはとても高く評価するのね。冷静に考えることのできる妻だったら、夫があなたのような状態にあるときはだれでも同じようにするんじゃないかしら。婚約する前にあなたが三年間ニャイを持っていたからといって、どうしてわたしがあなたに腹を立てなければいけないの?あなたに好運を与えようとして身を引いた善良なニャイを慕ってあなたが心を悼ませているっていうのは、あなたが高貴な心を持っていることの証拠だとわたしは思う。ただの一介のニャイだとしても、あなたはひとの恩というものを理解できるひとなのよ。同じ華人の妻を持った瞬間にあんな善良なニャイのことを忘れ去ってしまうようなひとだったら、わたしはあなたをひとでなしとして接することにしたでしょう。マルシティにそんな冷たい仕打ちができるんだったら、きっとわたしにも同じようにするでしょうから。」
「でも、もしマルシティを探し出すことができたら、わたしはマルシティの方へ行ってしまい、おまえは構ってもらえなくなるかもしれない。そんな心配はしなかったのかい?」
「心配なんかしなかったわ。わたしがあなたへの真実で純粋な愛情をいつまでも示していれば、あなたが他の女に心惹かれることは絶対に起こらないことをわたしは確信しています。あなたは、自分の正妻の愛情を無にすることのできない高貴な心を持っているんです。だからマルシティが千人やってきてわたしからあなたを奪おうとしても、そして一時あなたが他の女に心惹かれたとしても、わたしがあなたに示す愛情の方が、アイチェンがかつてこの世で愛した女たちより大きく真実で純粋であれば、最後には必ずわたしが勝つって信じています。」
グワッニオの心が純金の高貴さと善良さを持っていることを知ったアイチェンは、そのときからマルシティを追い求めることをやめた。


アイチェンの舅、リョッ・ケンジムはバタヴィアに住んでいる。バタヴィアで黄金・宝石・土地などを抵当にする質事業や大規模事業者への融資などを行なう事務所を開き、小型の銀行の態をなしている。物産の仲買や株式の売買も行なっていたが、老人ボケの症状が始まったとき、危険を感じてその商売はやめてしまった。老衰で頭が弱ってきたことを感じたかれは、グヌンムリア農園の管理人として別の人間を雇い、アイチェンをバタヴィアに呼び寄せて自分の後継者にした。結婚後一年半でアイチェンとグワッニオはリリーを連れてグヌンムリア農園を去り、バタヴィアに引越した。舅の多岐にわたる事業を引き継いだアイチェンは、今度はオーナーとしてときどきグヌンムリアを訪れるだけになり、そして結局ケンジムはその農園をオランダの会社に高額で売り渡したため、アイチェンがそこを訪れることはもうなくなった。
ケンジムの身体が弱っていくのに比例して、アイチェンが舅の傍らに付き添う時間も増えて行った。金にあかせてバタヴィア中の名医の診療を受けたが、体調が回復する機会はもうなかった。


ある日、余命いくばくもないと感じたケンジムは、アイチェンとグワッニオだけを部屋に呼び、他の者をすべて室外に下がらせた。部屋の扉が閉まると、まるで他の何者にも聞かせたくない風情で、アイチェンとグワッニオに小声で話し出した。
「わしの命はもう永くない。グワッニオ、泣かないでよく聴くんだ。これからパパが言うのは、とても大事な話なんだから。アイチェン、わしの心は長い間さいなまれ続けてきた。おまえとグワッニオが豊かで幸福な暮らしを営めるようにするために、わしはとてもひどいことをしてしまった。わしがこの世を去る前に、この秘密をおまえたちに明かし、おまえたちにすべての事情を知ってもらい、もしできることならわしの犯したあやまちをおまえたちに償ってほしい。」
ケンジムが息を喘がせながら語る様子を見て、ふたりは不思議の念に包まれた。これからいったい何が始まるんだろう?
「ああ、胸が詰まる。しかし、この話はしなきゃならないんだ。」しばらく休息したケンジムは話を再開した。
「決して大それた悪事を犯したということじゃない。しかしひとりの人間の心を切り刻んだのだ。罪のないひとりの女、おまえのニャイだったマルシティだ。」

苦しんでいる老人の気持ちをやわらげようとして、アイチェンは言った。「それについては、義父さんは何も悪いことはしていませんよ。娘に婿を取るのに、その男にニャイがいたんじゃ世間体もある。だから結婚前にニャイを去らせた。どこの父親もすることです。」
「そうじゃないんだ。わしがそのニャイを早くおまえから去らせて、おまえにわからないよう遠い場所に隠した。そしてまだそのニャイを愛しているおまえに二度と会えないようにしたんだ。そしてそのニャイが、マルシティが死んでしまった・・・・。ああ、胸が締まる。グワッニオ、水を・・・」
グワッニオが茶の入ったカップを父親に渡す。茶を飲んだケンジムは息を鎮めてから、また話し出した。
「アイチェン、おまえの下男のティルタはマルシティに同情し、父親代わりにマルシティを保護するため、一緒に暮らしていた。わしは十分な金を生活費に与え、水田や畑を買わせた。このことはおまえの父親も知っている。わしらはふたりでマルシティをおまえから遠くへ引き離したんだ。おまえのところに戻らないようにするために。わしはマルシティが他の男と所帯を持つように望んだ。しかしマルシティはそれを拒んだ。・・・・・6ヶ月前、マルシティが亡くなったという知らせをもらった。」

「それは決して悪事じゃありません。マルシティが亡くなったことは義父さんの罪じゃない。かの女は十分にお金をもらって生活には困っていなかったんだし、わたし自身ももうマルシティへの愛情は残っていないんです。義父さんがいつまでも慙愧の念を抱く必要はありませんよ。」
「それはそうだ。しかしマルシティが亡くなったら、わしが生涯嘆き悔やんだもうひとつの秘密が闇に埋もれてしまう。マルシティをおまえの傍から遠ざけたのは、娘のグワッニオをしあわせにしたかったからだ。しかしそれが、わしの長女のマルシティを不幸な目に落とすことになった。・・・おお、神よ!・・・おお、ミナ!ミナ!このわしを許してくれ。この過ちを、この悪事を。常にわしの心を切り刻む。わしはもうこの世に生き永らえることができない・・・・。」
アイチェンとグワッニオは老人の話が呑み込めず、ついに頭が混乱してきたかと思って顔を見合わせた。グワッニオが口を開いた。

「パパ、その長女っていったいだれなの?そしてパパがミナって言ったひとはだれ?」
「長女とはマルシティのことだ。アイチェンのニャイの。そしてミナはマルシティの母親だ。ミナはわしのニャイだった。わしの運転手とできていると農園の作業員監督人が密告してきたから、追い出した。そのとき妊娠三ヶ月だったが、その子はわしの種じゃないと思ったんだ。一年後に監督人がゴムを盗んで捕まったので、わしはそいつを警察に引き渡した。そしてそいつが入獄したら、そいつの悪事を洗いざらい報告してきたやつがいた。その中にはミナに手を出そうとした話もあった。ミナがそれをはねつけたため、そいつは仕返しに嘘の密告をしたんだ。わしはすぐにミナを探させた。そしてミナがプリブミの男と結婚していたことを知った。かれらは海を渡って外国へ行ったという。だが、どこへ行ったのかまではわからなかった。」
「じゃあ、マルシティがミナの娘だということが、どうしてパパにわかったの?」
「マルシティが亡くなってから、ティルタが遺品の整理をした。トランクの中に写真が入っている小さい袋があった。わしが見たいと言ったので、ティルタが送ってきた。おまえの写真もあったよ、アイチェン。その中にミナの写真があった。そしてこのわしの写真も。」
「わたしもマルシティの母親の写真を見せてもらいました。机の脇に立って小さいバッグを持ち、もう一方の手は傘を持っていました。服はチタタブロで、首にはスカーフを巻いて。」
「そう。確かにわしのニャイのミナの写真だ。」
「そのほかに、自分は知らないけれど義理の父親だと言って別の写真も見せてくれました。画像が褪せていてはっきりと見えなかったですが、その男性は華人かオランダ系混血のようで、帽子をかぶり、足に脚絆を巻き、カウボーイ風のシャツを着て、白毛の馬に乗って片手に鞭を持ち、片手は手綱を握っていました。」
「それが若いときのわし自身のすがただよ。そのときわしは、叔父の持っていたタシッマラヤのガルドラ農園に住んでいた。」
「マルシティはこんな話もしていました。幼い頃、父と母に連れられてデリーからジャワに海を渡ってきた、と。父はジャワ人でカルトディプロという名前、故郷はプルウォレジョでした。父が亡くなると、母はプリアガンのタシッマラヤに戻ったそうです。マルシティが12歳のときに母が亡くなり、それからは叔父に従ってあちこちの農園を回って仕事を探し、三年後にグヌンムリアにやってきて、わたしがかの女を雇い、自分のニャイにしたんです。わたし自身、グワッニオのしぐさがマルシティとよく似ていることを不思議に思っていました。視線や微笑や歌声や、そして落ち着いている性質や、ふたりにあまりにも似ているところがあるから、ひょっとしたらふたりは血のつながった関係じゃないかなとひそかに考えていたんです。グワッニオは色白だし、マルシティはランサッのような黄白色の肌だし、グワッニオはスマートで勇気があるが、マルシティは教養がなくて恥ずかしがりや、というような違いがあるからほかのひとの目には気付かれないでしょうが、ふたりを身近に知っているわたしには共通点がたくさんあるのがわかるんです。」
「あら、そういうことだったら、マルシティが亡くなったのってほんとうに残念だわ。もし生きていたら、わたしも一緒に探しに行って、家に迎えてあげて一緒に暮らしたでしょうに。わたし、兄弟姉妹がほんとに欲しかったんだから。」
「だから、わしの心が粉々になっているんだ。マルシティを、わが娘を、このわしがアイチェンから引き離してこんな不幸な目に追いやったんだから。この過ちは、この悪事は、もう元に戻せないんだ。神よ、このわしを許したまえ・・・・。」
「いいえ、義父さんが悪いわけじゃない。自分の娘を故意に不幸にしようとしたわけじゃないんだから。このような間違いは普通の人間ならだれにでも起こることです。義父さんの後悔や悲哀は義父さんの心が清いことを示しているのです。だれもそれを非難することはできません。」
「わしの犯した過ちを何らかの形で償えれば、わしの罪も軽くなる。」
「マルシティの喪に服しましょうか?」
「いや、グワッニオ、その必要はない。明日か明後日か、おまえはわしの喪に服すことになるんだから。もうひとつの秘密をおまえたちに明かさなければならない。ああ、グワッニオ、水を、もう駄目だ。マルシティ・・・死ぬ前に・・・。」
それがケンジムの最期の言葉になった。グワッニオは父親に差し出していたカップを投げ捨てて父のからだにしがみついた。涙があふれた。アイチェンはひざまずいて舅の胸に手を置き、完全に心臓が止まっているのを確かめると部屋から走り出て医者に電話し、家にいるみんなに死去を告げた。間もなく、家の中でひとびとの動きが盛んになった。


ほどなくしてリョッ・ケンジム氏逝去のニュースがバタヴィアの華人界に流れると、これまで寄付金をもらったり、かれが役員をしたことのある団体が半旗を掲げた。新聞は有徳の著名人が亡くなったことを報じ、これまでかれが培った功績の詳細を記事にした。
一族の間で葬儀の準備が喧しく行なわれているとき、アイチェンは疲れ果てた様子で座っていた。舅が死の間際に言い残した言葉はいったい何だったのか、ケンジムは自分に何を伝えたかったのか、アイチェンの頭の中はその答えを捜し求めて回転していたが、その謎を解く鍵はどうしても見つからなかった。マルシティが姿を隠した裏に何があったのかはわかった。そしてマルシティが連絡してこないことも理由がわかった。ティルタがマルシティと一緒に暮らしていることも明らかになった。そしてマルシティの死。いや、それらはいったいどこで起こったことなのか?ケンジムはそれを明かす前に世を去った。だが、マルシティにまつわる一切のことは自分の父親が一緒にアレンジしていたとケンジムは言ったのだ。だったら父親に聞けばそれがわかる。アイチェンの表情が明るくなった。父親はケンジムの葬儀に必ずやってくる。それを待っていればいいのだ。ところが思いもかけないことが起こった。

ケンジムが亡くなってから三時間後、母親から電報が届いた。「父危篤 すぐ帰れ」アイチェンがすぐに着替えなどの必要なものをトランクに入れ終えて、スカブミに向かって出発しようとしていた矢先、電報がもうひとつ届いた。それを開いたアイチェンの目は大きく見開かれた。「父死す」電報の文字はそれだけだった。


ケンジムの埋葬とピンローの埋葬が終わり、アイチェンとグワッニオは一段落をつけた。唯一の肉親を失ったグワッニオも、長い間不遇の暮らしを続けていた両親に、やっと運勢が上向き始めたばかりでまだろくに親孝行ができていなかったアイチェンも、悲しみは深いものがあった。しかしふたりはその逆境を乗り切り、アイチェンは舅の事業の切り盛りに精を出した。アイチェンは物産事業に力を入れて、中部ジャワから東部ジャワにまで事業を拡大して行った。
アイチェンの事業が目覚しい発展を示したことで、バタヴィアの華人界が新しい大型青年実業家の登場を認めた。世間に名が知られ、その存在が一目置かれるようになり、かれのバタヴィアでの暮らしに大きな変化が訪れた。華人上流層に交友関係が広がり、たくさんの友人知人を得た。善良で正直なかれの人柄の良さを大勢が愛し、人気も更に高まった。ケンジムが関わっていた団体や協会だけでなく、もっとたくさんの団体がアイチェンに加入を求め、アイチェンは持ち前の律儀さで自分が受けた役員の仕事は誠実に果たしたことから、上流層の間にかれの支持者が大きな勢力を作るようになってきた。ただ名前だけを売って実質は何もしない者たちとの違いが誰の目にもくっきりと映るようになる。
こうなると、次に何がやってくるかは想像に余りある。華人界の世話役の大元締めである華人オフィサーの座、世にカピタンチナと呼ばれているものだ。アイチェンは何度も辞退したが、大勢の支持者がかれを説得し、最終的にかれはその座に就くことを余儀なくされた。ケンジムの逝去から二年後のことである。


かつてグヌンムリア農園で愛するニャイと共に逼塞した静かな生涯を過ごそうとしていたアイチェンが、バタヴィア華人の頂点の座に就いて世間で高い尊敬を与えられる地位を得たのである。バタヴィア華人の頂点ということは、全ヌサンタラ在住華人の頂点でもあるわけだ。人間の一生に起こる転変は本人ですらわからない明日を用意してくれる。好運はその本人を波に乗せ、不運はかれを波からつき落とす。好運も不運も紙一重の差で出現する。その動きのダイナミズムが人生の軌跡を描き出していくものだ。そこに永遠は存在しない。
私事公事を誠実にこなしていくアイチェンが、そのわが世の春を幸福の絶頂と考えたかどうか。バタヴィア華人上流層のきらめくように華やかな日々の暮らしの中で、事業や社会活動の多忙さの中にふっとグヌンムリア農園時代の記憶が懐かしくよみがえってくることがある。あのとき、親の意向に従わなかったならば、かれの今の姿はない。親の意向に従うよう強く勧めたマルシティはその恩人でもあるのだ。アイチェンの心の中でマルシティは、かつて愛した女というよりも、今では親族のひとりという感情に置き換えられていた。自分と別れてからのマルシティの人生を知りたいという願望は、糸口がなにひとつつかめないまま、心の奥底にわだかまっている。それはケンジムのいまわのきわの言葉と相まって、アイチェンの人生にとっての大きな謎を形作っているのだ。
アイチェンがグワッニオに言う。「いつの日か、マルシティがグヌンムリアを去ってからのことをわたしたちはきっと知ることができるだろう。その中に、義父さんが最期に何を頼みたかったのかを解く鍵が見つかると思う。わたしたちはきっとそれを成し遂げて、義父さんの供養をしたいものだ。」
「そうね。でもそれが悲しみをもたらすものでないことを希望するわ。」
「ああ、ティルタがもしまだ生きているのなら、ここへ連絡してきてほしいものだ。そうすればきっとすべての謎が解けるだろうに。」
アイチェンは父親が亡くなってから、老母と妹たちをスカブミからバタヴィアに引っ越させていた。そして妹たちにも貧乏人の娘として蔑まれることなく、正当な結婚ができるように心配りも欠かさなかった。だがティルタからの音信は、かれらにも訪れていなかったのである。


豪奢な邸宅の居間で、ひとりの娘がピアノを弾きながら唄っている。哀愁に満ちた英語の歌詞がバラードの伴奏に載って流れてくる。その悲歌は娘の艶やかな声で一層哀愁を募らせる。
「リリー、もっと愉しい曲に替えたらどうかね。パパはもっと明るい曲を聴きたいよ。」
ソファーに座っている元カピタンチナのオー・アイチェンが娘に語りかける。
「これはぼくのリクエストなんですよ。」ピアノの傍に立っている華人青年がアイチェンに返事した。アイチェンの隣に座ってティーカップを手にしている紳士が言う。
「こういうバラードもいいと思うのだが、あんたがお嫌いとは知らなかった。」
「いや、決して嫌いじゃないんだが、歌詞が悲しすぎるんだよ。」
「わしは英語に弱いもんだから、内容がいまひとつピンとこないんだが・・・」
アイチェンがその客人に歌詞の内容を説明する。客人が言う。
「ああ、そういう内容はドラマにしても世にありふれてるよ。世の中では教養人ほど悲劇を好む。シェークスピアにしてもそうだ。教養が高まれば繊細な感情も研ぎ澄まされる。そんな感情に悲劇が感動を与えてくれる。だからますます悲劇が好まれる。」
「わたしが思うに、悦びや愉しみの気持ちというのはどこでも容易に感じ取ることができるから、そういうものを芸術の世界であらためて深めていく必要はないと教養人は考えるのだろう。しかし悲しいことというのは、誰もが体験することなんだが、人類が誕生して以来、それを避けるようみんなが努めて来たにもかかわらず、結局それを避けることはだれにもできない。だからそれが気にかかるものごとになってしまう。芸術家がそれを採り上げるのは、そういう面が働いているからではないだろうか。だから教養のあるひとびとは悲しみを描く音楽や演劇や小説を好み、それに接しようとする。それが繊細な感情やこの世で体験するものごとにフィットするからだろう。」
「だったら、あんたはどうしてリリーが悲しい歌を歌うのを嫌うのかな?」
「この娘は悲しいものごとがあまりにも好きで、ちょっと常軌を逸している感じがするものだから、そういう悲しいことの世界にどんどん入り込んで行ってそれが現実のものになるのが怖いんだ。映画でも演劇でも、先にまずストーリーを調べて、それが悲しい内容のものであることを確認してからはじめて見に行くくらいだ。
お宅の息子のビアンクンがリリーをとても愛してくれて、あなたが婚約を申し込みたいと言ってくれたことをあの娘に話したら、とても残念そうな顔をしたんだ。それでわたしと妻が、ビアンクンじゃ嫌なのか、と尋ねたら『そんなことじゃない』と返事した。リリーもビアンクンが好きだけど、わたしたちの愛の糸が道半ばにして切れてしまうとかれがかわいそうだ、と言う。ひとの命は一本の糸にぶらさがっているようなもなのだ、と。チョアンフーさん、考えてもみてくれ。ひとり娘だというのにそんな考えを持っているんだ。わたしがどんな気持ちになるか・・・。」
チョアンフーと呼ばれた客人、チクンバン農園のオーナーであるシム・チョアンフーはためらいながら返事した。
「そりゃあ、リリーの考え方は並のものじゃないね。ましてや、あんな若い年齢で・・・。」
「いや、それだけじゃないよ。毎月一日と十五日には庭に香卓を出して天に祈るんだ。パパとママにまた子供が生まれますように、と。リリーが亡くなったら、パパとママを世話したり愉しませたりする者がいなくなるから、というのがその理由だ。わたしには、早く養子を取るか、それともマドゥを持ってこの家の跡取りになる男児を作るように、だと。」
「おお、おお、そりゃほんとうに異常だ。放ってはおけないよ。占い師に運勢を見てもらったかい?」
「もう何人か占い師に見てもらったよ。とても良い運勢で、長生きして大勢の子や孫に囲まれ、夫と末永く幸福に暮らす云々とみんな同じことを言ったよ。ただひとりを除いてね。」
「そのひとりとは・・・・?」
「そう、そのひとり、チキニの占い師だ。この娘は短命で、結婚するまで生きていられない、と言った。家に帰って妻にその話をしたら、妻はとてもそれが気になって、ついにリリーを連れてふたりでその占い師のところへ行ったんだ。そしたら占い師はリリーの前でまた同じことを言った。どうやらリリーはそれをすっかり信じ込んだらしくて、ママにまた子供ができるようにと天に祈ったり、わたしにマドゥを持つように言ったり・・・・。」
「しかし、そのひとりの占い師の言うことは他の占い師たちとまったく違うんだから、それを鵜呑みにしてはいけないよ。」
「妻はリリーを他の占い師のところへも連れて行って見てもらった。他の占い師はわたしが占ってもらったときと同じことを繰り返した。長生きして、幸福な一生を送れるという言葉を。しかしあの娘はチキニの占い師の言葉を信じ込んでしまったようだ。自分の内面に持っていた予感にそれがフィットしたとリリーは言うんだ。」
「結婚したら、そんな考えは変わるんじゃないかな。」
「わたしも、そう期待したい。わたしたちはもう親戚も同然なんだから、リリーのことは全部あなたに打明ける。その上で、あなたも何かよい思案を出して、わたしを助けてほしい。わたしの人生の悦びを損ないかねないこのリスクを追い払うために。」
「マドゥを持てというリリーの頼みを、あんたはもう引き受けたのかね?」チョアンフーは微笑みながら尋ねる。
「わたしが愛することのできるのは妻よりもっと高尚で上品な女性だけだ。ただ、マドゥのことはまだ何とも言えない。最終的に、自分にその意志がなくても、もうひとり別の女を妾に持たざるを得なくなるかもしれない。わたしの運勢を見た占い師の何人かは、わたしが妻をふたり持ち、そのそれぞれから女の子をひとりずつ授かるということを言った。そのひとりはわたしより先に亡くなり、もうひとりはわたしの老後を見てくれるのだそうだ。」
「いま、リリーが結婚前に世を去ると言ったそのチキニの占い師の予言を覆す方法を思いついたぞ。あんたはどう思う?早々にリリーとビアンクンを結婚させれば?」
アイチェンは立ち上がり、手を打って喜んだ。「グッドアイデアだ!二週間の間にリリーとビアンクンを結婚させる準備を整えてしまおう。」
ピアノ椅子に一緒に腰掛けて話をしていたリリーとビアンクンを父親が呼んだ。二週間後に結婚式を挙げるという話に、ビアンクンは喜んで賛同したが、リリーは冷ややかな面持ちで言った。「パパ、できればもう一年待って欲しい。」
「どうして?」アイチェンとチョアンフーが同時に言う。
「それは・・・・・・」リリーの言葉は続かず、目からとめどなく涙があふれてきた。ビアンクンがリリーの手を取って、奥の間に連れ去った。


コロンビア大学を出てMAの称号を持つ息子のビアンクンを連れて、シム・チョアンフーはチクンバン農園に戻った。14日後にバタヴィアのアイチェンの家で結婚式が催されるため、その準備を急がなくてはならない。アイチェンとグワッニオもその突然の結論を実現させるためにてんてこ舞いの忙しさになった。いまや押しも押されもせぬ大富豪で名士になっているアイチェンのひとり娘の結婚式なのだ。バタヴィアの上流層に大勢の知己を持つアイチェンには、そういうネットワークを粗略に扱うことは許されない。それなりの格式を持たせ、手落ちのないようにして晴れの結婚式をつつがなく整えなければならないのである。

アイチェンとチョアンフーが結婚式の日取りを決めた二日後の朝、午前9時になるというのにリリーは部屋から出てこない。母親が心配して娘の部屋を覗いた。リリーはベッドに横たわっている。
「リリー、あなたどうしたの?」
「わたし、具合が悪いの。」
リリーは普段から虚弱な体質であり、特に病気でもないのに、元気がなくて起きられないことがときどきあった。グワッニオはあまり心配せずに部屋を出た。
午後1時になって、寝たままのリリーの部屋に昼食が運ばれたが、リリーはそれに手をつけず、ミルクすら飲もうとしなかった。グワッニオは様子がおかしいのに気付いてすぐにコタの事務所にいるアイチェンに電話した。
アイチェンは驚いて急いで帰宅した。バタヴィアの名高い医師をふたり呼び、娘を診察してもらって容態を尋ねた。医師はふたりとも、何も病気には罹っていないがただ神経が張り詰めている、とリリーの症状を説明した。結婚を間近に控えて興奮しているのでしょう、と言うのだ。医師はリリーをどこか涼しい場所で療養させるのがよい、と勧めた。しかしアイチェンは、近付いている結婚式を終えたなら、リリーは夫と一緒にスカブミ〜バンドン〜ガルッをハネムーンで巡るのだから、そのとき夫のビアンクンに良い場所を選んで長逗留するよう勧めればよいだろうと考えた。

しかし、日をめぐるに従ってリリーの容態は良くなるどころか悪化の一途をたどり、身体は弱っていく一方だった。食べ物にはまったく手をつけず、ミルクすら無理強いされてはじめて口に含むありさまだ。身体から力が抜け、振舞いも物言いも死を直前にした人間のものになっていった。父や母が様子を見に来ると涙を流し、ビアンクンの名前を耳にするともっと悲しんだ。

両親はリリーを元気付けるため、ビアンクンを呼んで泊まってもらうことにした。ビアンクンはリリーの姿を目にして心の底から驚き、すぐにベッドに身を寄せてリリーを抱いた。ビアンクンの頭を撫でながら、リリーは言った。「ああ、ビアンクン、わたしたちもうすぐお別れよ。あなたは他のひとを探して妻にしてね。わたしはあなたと一緒に生きることができない運命なの。」
「そんな狂った考えは捨てなさい。おまえはすぐに元気になるから、そしたらふたりでこの世にある喜びを思う存分愉しむんだ。おまえの父さんも、ぼくの父さんも、お金には困らない。おまえはきっとぼくの妻になって、困っているひとたちを助け、わが民族と祖国の尊厳を高めるために働くというぼくの希望を手伝うんだよ。」
「ビアンクン、わたしも本当にあなたの手伝いをしたいわ。でも、神が定めた運命にさからうことができるの?前にあなたがわたしを愛してるって言ったとき、『冷静になって。ほかのひとを探したほうがいいわよ。』って忠告したでしょう。わたしを愛しても、すべてが無駄になって後悔するだけになることをわたしは心配したの。ごらんなさい、わたしの忠告が間違ってたかどうか。」
「おまえの忠告は間違ってるよ。おまえを愛したことをぼくはちっとも後悔なんかしていないんだから。」
「今わたしが死んでしまったら、どう?それでも・・・?」
ビアンクンの口から言葉は出ず、ただ涙ばかりが流れていた。
「あなたはわたしのことなんか忘れて、ほかのひとを妻にするほうがいいわ。」
「誓って言うよ。ぼくは一生結婚しない。もしその相手が・・・」
リリーの手がビアンクンの口を押さえた。
「ストップ!・・・・あなた、わたしを愛してる?」
「心から愛してるよ、リリー。」
「もしわたしを愛してるんだったら、わたし以外の誰とも結婚しないなんてことを誓わないで。」
「わかった。言い直すよ。ぼくはリリーとすべてがそっくりな女性としか結婚しない。」
「その誓いもだめよ。わたしには姉妹がいないんだから、わたしとそっくりな女性なんか見つかるわけがないじゃない。そうじゃなくて、あなたを幸福にできるほかの女性を自由にさがしてもらいたいの。あなたの思い出からわたしを消して。わたしはもうすぐ墓に入るんだから。」
「どうしておまえはいつもそんなことばかり考えてるんだ?ぼくたちのしあわせを奪い去ってしまう邪悪で狂った考えこそ、おまえの頭から消し去らなければならないんだ。心を強くして、身体に力を満たして、この病を追い出してしまうんだよ。」

その日から、ビアンクンはその家に寝泊りしてリリーの介護につとめた。しかしリリーの容態は少しも回復しない。バタヴィアのありとあらゆる医師がリリーの診察に招かれたが、リリーをどうやって治療すればよいのか、だれにもわからない。リリーが罹った病気はいったい何なのか、それが言える医師さえいないのだ。医師たちは異口同音に似たようなことを勧めるばかりだった。リリーの体力はたいへん低下しており、神経が障害を受けているので、体力をつけるための食事と薬を摂り、過ごしやすい場所でたくさん休養すること。この病気は回復に時間がかかるだろうが、決して危険なものではない。
医者たちがそう言ったところで、アイチェンの心配が軽減されるわけでもない。なぜなら、リリーの振舞いや言葉が、すぐ近くで死神が命を狙っていることをうかがわせるようなものだったのだから。医師がどんな薬を与えようが、リリー自身が自分の健康の回復を望んでいないのだから、効果があらわれるわけがない。
既に十日が経過し、まったく好転する兆しが見えないため、アイチェンもビアンクンも途方に暮れた。医師たちも困惑した。どうしてよいのかわからない。そんなとき、かかりつけの医師のひとりがアイチェンに提案した。精神神経科の専門医に診てもらってはどうか、と。

リリーの容態を調べた精神神経科専門医は、アイチェン夫妻とビアンクンを奥の間に集めて話し合いを始めた。「トアンとニョニャは、あのお嬢さんが生まれてから今までどんな生活をしてきたのかを詳しく話してください。赤ちゃんのとき、少女時代、学校時代、そして婚約するまで、どんな性格でどんな振舞いをしていたか。」
三人はそれぞれがリリーについての物語をした。アイチェンは、チキニの占い師のことがあってからリリーの精神が崩壊を早めたように思われることを忘れずに話した。専門医は言う。
「わたしはもう手遅れではないかと心配しています。お嬢さんはそのチキニの占い師の呪縛で殺されたように思われます。わたしが警察に届け出て、その詐欺師を裁判にかけさせましょう。」
アイチェンは反論した。「わたしが思うに、その占い師は故意にわたしの娘を災いに陥れようとしたのではないのではないでしょうか。その占い師のところにやってくる客のみんなが、言われた悪い運勢を信じるわけでもないでしょうし、たとえ信じたとしてもみんながうちの娘のような病気に罹るわけでもない。」
「わかります。すべてのひとがまったく同じ状態であるわけがない。トアンとニョニャのお話から、お嬢さんは大きくなってきたころからメランコリー型鬱病と呼ばれる性向を持ち始めています。だからいつも憂愁な気分で気持ちがふさぎ、悲しみを感じさせるものごとを崇拝するのです。これは性癖なのでなく、精神障害のひとつであって病気の一種なのです。医学上、この種の病気は双極性障害と呼ばれており、お嬢さんはこの病気に罹っていたため、ニョニャがチキニのよく当たると言われている占い師のところへ連れて行ってひどい運勢を言われたとき、そのナンセンスな言葉がお嬢さんの思考の中に暗示として組み込まれ、地面に落ちた種が育っていくようにお嬢さんの頭の中を強力に支配してしまったのです。大勢の病人がただのおまじないやろくでもない薬で回復する話をトアンもお聞きになっているでしょう。それが効くと信じればこそです。反対に頑健で健康な人でも、他人からだれかれなしに『あんたは病気だ』と言われると、本当に病気になってしまうのです。チキニの占い師の根拠のない言葉が毒になってお嬢さんの意識の中に入り込み、信念になってしまった『自分は結婚前に死ぬのだ』という思い込みに向かって自分を駆っているのです。そしてトアンが二週間後の結婚を決めた瞬間、お嬢さんの具合がいきなり悪化したということです。」
この専門医の診断からリリーの病が精神的なものであることを知ったみんなは、かれに治療を依頼した。専門医は「ベストを尽くす」と約束したものの、手遅れに近い、とも言い添えた。専門医の言い出した治療法は、病の根源が肉体にあるわけではないのだから医師たちからの薬は適当にしておき、精神的な雰囲気を改めることが肝要なので、暗い悲しい雰囲気を家の中から追い出してもっと明るく愉しげに振舞うように、という協力の要請だった。特にリリーの部屋には明るく愉しい笑い声がいつも聞こえるようにし、リリーに生きていることの愉しさを感じさせるように努めなければならない、と言う。さっそく全員がその方針で団結したが、死を直前にした愛娘の姿がもたらす懊悩と不安を隠して朗らかな姿を演じなければならないグワッニオの心中はいかばかりだっただろうか。

それから二週間が経ち、リリーはますます青白くやせ細り、ときどき意識がなくなり、うわごとを言い、身体から力が消え失せたように見えた。
そして今度はグワッニオが病に倒れたのである。ひと月も寝食を軽んじてリリーを見守ってきたことが、グワッニオからも生きていく力を奪い始めた。そんな状態であるにも関わらず、そして医師たちにも夫からも禁止されたにも関わらず、グワッニオはリリーの部屋へ見舞いを続けた。自分の疲労困憊した心身を押し隠して、朗らかに笑い、快活な姿をリリーの部屋で演じ続けた。あたかも、それだけがリリーを治癒させる薬であるかのように。何も愉しいことなどなく何も愉快でないというのにそのように振舞うことは、相応する感情の欠如した、精神を蝕む振舞いだ。
グワッニオが狂気に冒されはじめていることは、間もなく全員の知るところとなった。自分の部屋にいるときですら、独り言を言って笑い、快活そうに動き回るのだ。静かで穏やかな土地で静養するよう勧める言葉をグワッニオは冷たく拒否した。もしリリーが亡くなることになれば、わたしも同じ墓の中に入れて欲しい、と言って泣きながら。


ある日曜日の朝、それはリリーの誕生日だったが、専門医がいつものように朝リリーの診察をした。愁い顔で居間にやってきた専門医はアイチェンとビアンクンに言った。「トアントアン、われわれの闘いは今日で終わりそうです。ついにわれわれはこの闘いに敗れました。お嬢さんの命はもう永くありません。おそらく、この午後か夕方には天国に召されるでしょう。」
「おお、ドクター。なんとか助けてやってください。お願いします。」
「わたしは、わたしの力の及ぶ限りのことをしました。しかし、お嬢さんの回復はもはや人間業でできることではありません。わたしはむしろトアンに対し、ニョニャを守ってあげることでできるだけ犠牲を小さく留めるように努めることを勧めます。ニョニャも意識を失うことが多く、とても危険な状態に陥っているのです。できるなら、今すぐにでもニョニャをこの家から連れ出すよう、わたしはお勧めしたい。」

アイチェンはビアンクンと相談して、グワッニオをボイテンゾルフの郊外に持っている別荘に移すことにした。その理由をアイチェンは「ボイテンゾルフにいる優れたドゥクンにリリーの回復を頼みたいため、グワッニオにも一緒にきてほしい」ということにした。看護人をひとり付き添わせて、自動車は一路ボイテンゾルフを目指す。みんなが車から降りて別荘に入ったとき、下男のひとりが電報をアイチェンに差し出した。発信者はビアンクンで、リリーの死去を告げていた。

アイチェンはすぐに精神病院に勤めている医者をその別荘に招き、医者が到着したのを確かめた上でビアンクンからの知らせをグワッニオに告げた。グワッニオは意識を失った。医者の助けで意識を回復すると、グワッニオは笑い声と快活そうな足取りで隣の部屋へ、リリーの名を呼びながら入っていった。
グワッニオを別荘に残してバタヴィアに戻れないアイチェンは、事業の番頭格の社員にビアンクンの手伝いを命じ、リリーの葬儀の一切をビアンクンに依頼して執り行ってもらった。

ここにきて、アイチェンもついに熱を出して倒れた。頭痛とめまいがし、世界が自分を中心にしてぐるぐる回転しているように感じた。ベッドに横たわっているとき、自分の周囲をおどろおどろしい奇妙な影がうごめいているように感じた。その中に、黄金色に輝くグデ山の頂がくっきりと見えた。そして自分の傍らにマルシティが悲しそうな姿で立っていた。アイチェンはマルシティの名を呼び、その身体を抱きしめようと身を乗り出した。そして、だれかが自分を抱きかかえたように感じて目が覚めた。下男が自分の身体を支えていたのだ。ベッドから落ちかかっていたアイチェンの身体を。
アイチェンはまた深い眠りに落ちる。リリーの歌声が聞こえてきて、目の前にその笑顔が浮かんできた。リリーはひとりの少女の手を引いてきた。その少女の顔はリリーとうりふたつだ。その後ろにはグワッニオとマルシティが並んで微笑みながら立っている。四人は手をつないで花園に向かって歩き出した。歩きながら、ときどきかがんで地面に落ちたチュンパカの花を拾っている。
翌朝、アイチェンのファミリーや友人たちが見舞いに訪れた。シム・チョアンフーも顔を見せたので、アイチェンはかれと相談し、グワッニオの具合がよくなったら半年くらいどこか遠くへ行ってゆっくり療養することを決めた。子供たちが結婚できなかったこととは関係なく、かれらは既に親戚付き合いの間柄に入っていたのだ。アイチェンは妹たちの娘、つまり自分の姪たちをボイテンゾルフの別荘に遊びに来させ、グワッニオの介護をさせるとともに家の中に賑やかな雰囲気を作り出して妻の心をやわらげさせるように努めた。その甲斐あって、グワッニオの精神はすこしずつ落ち着きを取り戻していった。


リリーの一周忌が来た。グワッニオの病は癒え、アイチェンの心身も健康を取り戻したが、ふたりは一気に十歳も老けたように見えた。チョアンフーと約束したように、アイチェンはグワッニオを連れてブロモ山のトサリ、そしてマランからアンバラワと空気の爽やかな高原の土地に長逗留しながら各地を巡って過ごし、そのあと西ジャワのガルッに別荘を借りて滞在した。
ふたりは遠出して登山や高原を楽しむよりも、読書にふけった。ふたりが傾倒したのは宗教書だ。ふたりは、人の世の喜怒哀楽に幸福を求めようとしていた自分たちを反省し、この世に生きることの意味をあらためて問い直した。もともとふたりとも、生きるということの意味についての直感的な素養があったことから、人の世のはかない喜びと悲しみを体験したいま、ふたりの人生観はこれまでに増して深まったようだ。

一方、最愛のリリーを結婚間際にして失ったビアンクンはいったいどうなっただろうか?リリーの葬儀を手際よく済ませたあと、この青年は両親を前にして自分の意志を告げた。かれにとって、リリーのいない、希望のない人生を生きていく気はもうないのだ、と。そして、これから海を渡って広東を目指すのだと言う。北伐軍に加わり、華人として祖国のために一命を投げ出し、立派な死を遂げてみせる、とかれは言う。
それを耳にしたアイチェンはかれを説得した。「リリーの墳墓を作ってやり、そこで一周忌を迎えてやらなければリリーがかわいそうだ。そのときに、あれほどリリーを愛していると言っていたきみの顔が見えなかったら、リリーはどんなに悲しむことだろう。もしどうしてもそれを待たずに広東へ去るというのなら、愛していると言っていたきみの言葉は嘘になる。」

とりあえず一年間の時間稼ぎにはなったものの、一年経ったいま、ビアンクンの気は変わっていなかった。ビアンクンを説得してその意志を先送りさせ、気持ちが落ち着いたところで姪のひとりをビアンクンに娶わせようと考えていたアイチェン夫婦もチョアンフー夫婦も、考えが甘かったことを思い知らされた。リリーの一周忌が無事に終わると、ビアンクンがまたぞろ広東行きを言い出したのだ。
良い娘を探しておまえと結婚させると両親に言われたビアンクンは、「リリーと約束した通り、リリーとそっくりの娘を探してきてくれたらその希望に従います。リリーとそっくりの娘とだけぼくは結婚すると誓ったんだ。どんなに天使のような娘でも、リリーみたいでなかったら決して妻にはしない。」と言う。
両親もアイチェン夫婦もビアンクンを説得する術を失って、ビアンクンを留めることができない。ビアンクンは自分の決意通り、広東行きの準備を始めた。かれは三日後にタンジュンプリウッ港からシンガポールへ向かう船の切符を買った。そして最期の見納めとばかり、チクンバン農園の一帯を馬に乗って散策に出かけたのである。ビアンクンを見知っている村人が通り過ぎるビアンクンに声をかけた。「若ジュラガン、見回りですかい?ちょっと寄っていきなせえ。」
かれも「マンガ〜」と言葉を返すが、立ち止まろうとはしない。そうやって数時間あちらこちらを駆け巡ったあと、まったく見覚えのない場所に出た。そこは少し開けた平地になっており、竹林がその奥の見通しを塞いでいる。風に葉ずれの音を奏でている竹林の近くにはプリブミの墓がひとつあり、近くに植えられているカンボジャの木は花盛りだった。

その眺めはビアンクンが永い間忘れていた穏やかで平和な気持ちをかれの心の奥底によみがえらせた。「ああ、ここの村人はなんて幸福なんだろう。こんな平和な場所を終の棲家にできるんだから。そして、近くに住んでいる遺族がいつでもここへ墓参りに来てくれる。ぼくが北伐軍の義勇兵として生涯を終えたら、ぼくはどこへ埋められるんだろう。それとも屍骸は野ざらしかもしれない。地主で金持ちの息子だからと言って、ここの村人たちのような幸福を味わうことができるとは限らないんだ。」そんなことを考えながら、ビアンクンはまるで磁石に吸い付けられたピンのように、その場所から立ち去ろうとしなかった。
黄金色の葉をつけた木がその墓の一部を垣根のように守っていることに、かれはふと気付いた。さっきまでそれはまったくかれの目に入っていなかったのだ。そしてその木がプリンマンコッマスであることをかれは見抜いた。チクンバン一円でその木を見るのははじめてだ。こんな貴重種の植物がここに生えてるなんて・・・。かれは馬から降りてプリンマンコッマスに近寄った。そして、この木を自宅に植えて、これから死地に赴く自分の思い出にしようと考えた。

だが、ほどよく手入れされ、下にある墓を垣根のようになって包んでいるその木の状態を見て、ビアンクンの心に不思議の念が湧いた。その木がこの墓にとって意味のあるものだという想像はついたが、その木を自宅に植えたい願望は消えない。その木の一本をだれの許しも得ないで持っていくのは泥棒行為だという自制と願望とがせめぎあい、ビアンクンは墓の前に跪いて、心の中で許しを請うた。
許しを願う言葉を口の中でつぶやき終えたビアンクンは、どれを抜こうかと品定めするために立ち上がった。そして頭をあげたとき、自分の目の前にひとが立っているのに驚き、そしてそのひと、まだ若い娘、の顔を見て愕然とした。それはリリーだった。

ビアンクンはリリーに飛びついて抱きしめた。「おお、マイダーリン。おまえはここにいたんだ。」
ところがリリーは身をふりほどくと、一目散に駆け出した。もう絶対に離さないぞ、と気持ちを固めたビアンクンがリリーを追って数歩駆け出したとき、突然目の前が真っ暗になり、かれは地面に倒れて意識を失った。


村人たちが戸板にビアンクンを載せて地主館に担ぎ込んできたとき、両親は死ぬほど驚いた。息子は気絶しているのだ。父親はすぐに運転手に医者を迎えに行くよう命じ、母親は息子を介抱して目を覚まさせようとした。家の中が騒々しくなったためか、ビアンクンは目を覚ました。
倒れているビアンクンを最初に見つけた村人は、若ジュラガンが墓の近くで気を失って倒れており、馬はちょっと離れた場所で草を食んでいた、と報告した。母親はビアンクンにあれこれ尋ねたが、ビアンクンはじっと考え込んで相手にならない。
医者がやってきてビアンクンを診察し、身体はまったく健全で怪我もなく、神経が少々興奮しているだけだ、と所見を下したので、両親はほっとした。薬を飲んで数日静養していればすぐによくなると言って、医者は薬を置いて帰った。ということは、三日後の船でジャワを去ることはできない。

しかしビアンクンはまだ夢見心地でリリーの名前をつぶやいている。
「いつまでも死んだ人のことを思い続けていても埒は明かないんだよ、ビアンクン。おまえ、母さんたちがかわいそうだとは思わないかい?」
「母さんにはわからないんだ。ぼくはついさっきリリーに会ったんだよ。」
「おまえがあまりにも思いつめるから、夢と現がごちゃまぜになっちゃって。」
「夢なんかじゃないよ。さっき昼にぼくは馬で農園を巡ってたんだ。そのうちに墓のある平地に出た。そこでリリーに出会った。」
「さっきの昼にねえ・・・」
「ぼくがリリーを抱きしめたら、リリーは身をふりほどいて逃げた。追いかけたけど、すぐに転んでぼくは気を失った。」
「おまえはリリーのことばかり思ってるから、ほかのひとを見間違えたんだよ、きっと。」
「うーん、かもしれないな。あのときリリーは村娘の服を着ていたし、ぼくを知らない風だったからなあ。」
「ほら、ごらん。村娘を見間違えたんだよ。」
「でも、ぼくの目に狂いはないよ。あの身体つき、肌の色、優しげな視線、鼻、眉、口・・・、ほんとにリリーに瓜二つなんだ。恥ずかしそうにぼくを見守っていた視線は、バタヴィアではじめてリリーと会ったときの視線と同じだった。」
「ほら、それが思い込みなんだよ。あんまり思いつめるから、すれちがった村娘にリリーの面影を見てしまう。さあ、薬を飲んで休みなさい。早く疲れを癒すように。」
ビアンクンは早めに就寝したが、夜中に熱を出してうなされ、またまたリリーの名前を口走る。


母親は医者の薬だけでは物足りないと思ったようだ。まじない師を使って厄除けをはかろうと考え、村のドゥクンにお払いをしてもらうことにした。チクンバンで名前の知られたバパ アスガリだ。
翌朝やってきたアスガリ老人は、ビアンクンのこれまでの経緯を尋ね、墓の近くで気を失っていたこととあわせて、これは異界のいたずら者のしわざだと断定した。「昨日は金曜日でしたからなあ、ジュラガン奥様。いや、心配はいりません。このわしが若ジュラガンに取り付いた異界の魔物たちを追い払って進ぜましょう。スドゥカの儀式をやるから、それに必要なものを用意してくだせえ。それからあの墓の周りに置くお供え物も。今夜七時にわしはスドゥカの儀式をやるために戻ってきます。そのときに若ジュラガンへの祝福を祈りましょう。」
「あと、もうひとつお願いが、バパ。亡くなったその婚約者のことをビアンクンが思いつめないように、まじないをかけてやってくださいな。」
「その婚約者の霊が若ジュラガンにまとわりついているかも知れませんなあ。だったら、その婚約者の墓でスドゥカの儀式をやるのがいいが・・・」
「お墓はバタヴィアだから、ちょっと遠いでしょう。」
「そのひとの名前は?」
「オー・フイエン、愛称リリー」
「まじないをかけるために、そのひとの写真はありますかな?」
「ええ、ありますよ。」
「じゃあ、それもあわせて夕方までに用意してくだせえ。」


ニョニャ チョアンフーはナシトゥンプン、ルジャッ、もろもろの料理、七種類の花びら、鶏卵やその他あれこれの品物を下男下女に用意させるのに大わらわの態。スドゥカの儀式は地主館裏手のテラスで行なうことになったが、このようなまじないをまったく信じていないトアン チョアンフーとビアンクンは遠くから眺めているだけ。
夜七時になって、アスガリ老人が数人の手伝い人を連れてやってきた。儀式が始まり、まず墓にいる異界の者を追い払い、今後は若ジュラガンに悪さをしないように、とまじないをかける。それが終わり、今度はリリーの霊に向かって、もう住む世界が違ってしまったのだから、若ジュラガンにつきまとうのはやめるように、と諭す業がはじまる。老人はリリーの写真を求めた。ニョニャが白布に包まれたキャビネットサイズの写真を渡す。リリーがクバヤを着た胸から上のポートレートだ。
老ドゥクンはそれをおしいただき、「ビスミラヒ ラフマニ ラヒム!アルハンドゥリラヒ ラッビララミン!アッラフマニ ラヒム!マリキ ヤウミッディン!イヤカ ナウドゥ ワイヤカ ナスタイン!イフディナッシラッ アルムスタキム!シラッ アラジナ アンハムタ アライヒム! ハイリル マフズビ アライヒム ワラズ ・・・・」とつぶやきながらかれは包みから写真を抜き出した。ところが、突然かれの口から祈りの文句が途絶えた。老人は全神経を集中させてその写真に見入っている。そして不満げに言った。
「こりゃ違う。ジュラガン奥様、こりゃ間違ってる。」
「間違ってませんよ。その写真は本物です。」
「わしの知っているかぎりでは、こりゃバパ ウスマンの孫のロスミナじゃよ。ちょっとおまえら、これを見ろや。ロスミナじゃないかい?」
手伝い人たちが覗き込み、「おお、こりゃ村いちばんの器量よしのロスミナじゃ。」と口々に言う。
むっとしたニュニャ チョアンフーが声を強めて言った。「わたしが何のために皆さんを騙す必要がありましょうや?これは間違いなく、うちの嫁になるはずだったリリー、バタヴィアの元カピタン、オー・アイチェンの娘さんですよ。」
アスガリ老人が言う。「なんでこんなにそっくりなんじゃろう?」
ニョニャが言う。「ロスミナって、いったいだれ?はじめて聞く名前だわ。どこに住んでいるの?」
「家はあの墓から近いところです。ロスミナはこの村いちばんの美人で、気立てのよい娘なんで、村中がチクンバンのバラの花と呼んでおりますよ。」


ニョニャ チョアンフーは雷に打たれたように感じた。息子の話が本当だったことが今わかった。その村にはリリーと瓜二つの娘がいたのだ。かの女は書斎で本を読んでいる夫のもとに駆け込み、その奇跡のような話を告げた。半信半疑のチョアンフーはすぐにアスガリ老人とその仲間のところへ行って、あれこれと尋ねた。そして明朝、夫婦でその事実を確かめるため、その家を訪問することをかれらに話し、スドゥカの儀式はお開きになった。ビアンクンには、それを内緒にした。まず確認したうえで物事を進めるのが筋だ。
夫妻はほとんど眠らずに夜明けを待った。そして、朝の光が差し始めたとたん、夫は馬に乗り、妻は担がせた蓮台に乗って、家を出た。朝の空気は冷たく、もやがかかっていて視界は50メートルほどしかないが、賑やかな小鳥の声と農園の仕事場に向かう村人たちの声が朝の活気を盛り上げている。目的地は地主館から東に向かうため、夫妻は進みながら上ってくる太陽と対面することになった。暖かい朝の光を投げかけてくる太陽の出現は、この日起こるできごとが明るい未来をもたらすものになるだろうことをふたりに予感させた。


およそ二時間後、ふたりはバパ ウスマンという人物の家の前にいた。広い庭にはさまざまな木や花が植えられ、掃除が行き届いて整然と整えられている。その向こうに高床式の家があり、造作はしっかりしていて質素だが貧しい印象はない。こういうプリアガンの村にある民家にしては、むしろ大きな家だ。家の裏手には水田が広がり、そしてヤギとロバの小屋がある。外から見える家の中の家具調度は贅沢なものではないが、よく手入れされているのが明らかだ。ふたりが家の表に着くと、家から白髪の老人が降りてきて出迎え、階段を上がってふたりを家の表テラスの椅子に案内した。
「こんな朝早くから、ジュラガンとジュラガン奥様のご来訪をたまわり、こんなに光栄なことはございません。」とウスマンがあいさつをする。
「わしはまだあまりこの辺りに来たことがないのだが、あんたはここに住んでもう永いのかね?」
「二十年くらいになります。」
「わしはこの農園を二年前に買ったばかりで、一円の村々の皆さんとまだお近づきになる機会がない。あんたはここでひとりでお暮らしかな?」
「いえ、孫娘がひとり、一緒に暮らしております。」
「お孫さんの名前は?」
「ロスミナと申します。普段はただロースとだけ呼んでおります。」
「わしがここへ来たのは、そのお孫さんに会いたかったからだ。」
「お赦しください、ジュラガン。あのことはロースが悪いのではありません。」
「あのこととは何のことだ?」
「墓の傍で若ジュラガンが倒れたことです。若ジュラガンが先にロースを捕まえようとしたので、娘が暴れて逃げたのです。それからどうなったのかは知りません。」
「そんなつまらないことをとやかく言う気はない。わしはあんたの孫娘を責めるために来たんじゃないんだ。心配しなくて良い。呼んでくれないかね。わしが会いたいんだ。」

ウスマンは家の中に入り、しばらく出てこなかった。およそ十分が経過して扉が開き、ウスマンが出てきた。その後ろについてきた娘は、もうひとりのリリーだった。
その娘を目にしたチョアンフー夫妻は、驚きの声をあげた。ビアンクンの言葉、アスガリ老人の話、予備知識としては持っていても、これほどそっくりだったとは、ふたりは思っていなかったのである。


畏怖と恥じらいをこらえてロースは地主様の前にひざまずいて挨拶し、それから奥様の前で同じようにしようとしたところ、奥様は感極まって立ち上がり、「リリー、リリー」と言いながらロースを抱きしめた。ロースは困惑して下がろうとしたが、ニョニャはロースの手を引いて自分の膝の上に座らせ、抱いて頬にキスした。「お話があるから、ここにいなさい。」
ロースはうなずいた。
「素敵な娘さんだ。何歳になる?」
「19歳です、ジュラガン。」
「結婚とか婚約はもうしたかね?」
「まだです。この娘を望むひとはたくさんいます。この前は郡長様が欲しいと言ってひとを送ってきましたが、断りました。」
「どうしてかね?もう結婚するのに十分な年齢ではないか?娘がこんな年齢になるまで深窓に囲うのは、村の慣習に反するのではないか?」
「わし自身、ここの村人たちの慣習が好きではありません。」
「気に入った婿がいないということか?」
「違います。」
「じゃあ、何かね?」
「ありきたりの者にこの娘をやるな、という母親の希望です。」
「母親はどこにいる?」
「この娘が生後40日のときに亡くなりました。」
「父親はだれかね?」
「ここにはおりません。」
「どこにいるのか?」
「多分バタヴィアに。」
「どこの村のだれなのか?」
「お赦しください。それを明かすことができません。」
「じゃあ、母親の名前を教えてくれないか。」
「マルシティ。」
「マルシティ?」
「そうです、ジュラガン。」
チョアンフーは立ち上がって、その場を行ったり来たりした。マルシティという名前はどこかで聞いたことがある。いつ、どこで、だれの口から?そして、突然かれの脳裏にアイチェンの顔が浮かんできた。かれが結婚する前に持っていたニャイの名前がそれだ。チョアンフーは手を叩いて笑い出した。実にほがらかな笑い声だった。チョアンフーには、どうしてこの村にリリーと瓜二つの娘がいるのか、その奇跡の謎がすっかりと解けたのである。さっき見た日の出が脳裏によみがえった。

「バパ ウスマン、もうわしに隠し事をする必要はないよ。わしにはすべてが見えてきた。ロースの父親は昔グヌンムリア農園で管理人だったオー・アイチェンだ。」
ウスマンは驚いた。ニョニャ チョアンフーも一緒におどろき、のけぞった。危うく椅子がひっくり返りそうになったが、ロースがそれを支えた。
「この世で、そのことを知っているのは三人だけ。このわしと、ジュラガンアイチェンの父親のジュラガンピンロー、そして舅のジュラガンケンジム。このわしのほかは皆さん、世を去りました。だから、それを知っているのはこのわしだけだと思っておりました。実は、わしの名前はウスマンでなく、ジュラガンアイチェンの下男だったティルタと申します。」
「実は、わしも詳しい話は知らない。ただ、アイチェンから昔のニャイの話を聞いたことがあるだけだ。マルシティというニャイが結婚式のひと月前に姿を消したということだった。しかし、ニャイが身ごもったまま去ったという話はしなかったぞ。」
「マルシティ自身も気付いていなかったのです。マルシティが去ったとき、やっと妊娠一ヶ月でしたから。」
「アイチェンと奥さんにはリリーという名前の娘さんがひとりできた。その娘さんがわしの息子と婚約したんだが、一年前にリリーは亡くなってしまった。その悲しみで、アイチェンと奥さん、そしてわしの息子までが精神を病んでしまった。ここにリリーの写真がある。ロースと同い年だ。」
「おお、これは瓜二つだ。ロース、これを見てごらん。ブタウィのお前の姉妹だよ。」
ロスミナはその写真を見つめ、そして驚いたようにティルタにささやいた。「ありえないわ。でも、そうよ、そう、こんな風。今でも思い出すわ。」
ニョニャ チョアンフーが、ロースが何を言っているのかを尋ねた。ロスミナがここ数ヶ月、頻繁に同じような夢を見ていたことをティルタが説明した。その夢の中では、母親がひとりの華人娘の手を引いてロースのところへやってくる。ロースは母親の顔を写真で見知っているが、美しい華人娘はだれだかわからない。その華人娘が自分を抱いて口付けする。その瞬間に目覚めることがよくある。そして、今リリーの写真を見たロースは夢の中で自分を訪れていたのがリリーであることをはっきりと悟った、というのである。チョアンフー夫妻は、ふたたびこの奇跡のような話に驚いた。もっと不思議な話がある、とティルタが話し出した。

「若ジュラガンが事故に遭ったときのことです。ロースは息をはずませながら家に駆け込んできました。男の人に捕まえられそうになった、と言って。わしは悔やんで言いました。何も用がないのに、どうしてひとりだけで母親の墓へ行ったのか、と。すると、自分でもどうしてそんなことをしたのかわからない、とロースが言うのです。そのとき、頭の中がもやもやしていて、まるで何かに導かれるようにあそこへ行き、そして、若ジュラガンに捕まえられそうになって、ふと我に返ったそうでした。」
「それも不思議な話だなあ。これはきっとリリーの魂がビアンクンに伴侶を与えようとしてめぐり合わせたのにちがいない。こうやって両親にしあわせを取り戻させようとしているんだ。このようなできごとが起こっていなければ、このような人生の謎は謎のまま埋もれていったにちがいない。」

チョアンフーは、どうしてマルシティがロースを産んだことをアイチェンに知らせなかったのか、とティルタに尋ねた。ティルタはマルシティが姿を隠した経緯を余さずチョアンフーに物語った。マルシティをアイチェンから引き離すことでグワッニオに幸福な結婚生活を与えることができると考えたケンジムとピンローがひそかにマルシティを圧迫するようになり、その手先にクセンというやくざ者を使った。去らなければおまえの命はない。しかし去ったら地主様から大金をもらえるから、おまえの生涯は保証してやる、とクセンはマルシティに言う。やくざ者の妾になる気はないマルシティは考えあぐねて父親のように思っているティルタに相談した。ティルタはクセンの手からマルシティを守ってやるため、アイチェンの前から姿を消した。やくざ者に代ってティルタがマルシティの身柄を保護する役目を買って出たのは、ケンジムとピンローにとって好都合だったようだ。こうして、アイチェンをグワッニオとの幸福な人生に向けさせようとする三人の男が、アイチェンをつんぼ桟敷に置いたのだ。だから、ティルタはマルシティの死やロスミナの誕生をケンジムとピンローには報告しても、アイチェンに知らせることはできなかったのである。


マルシティは生まれた女児にロスミナという名前をつけた。ロスミナが生まれた日、庭のバラの花が満開だったためだ。そしてバラを意味するロースだけでなく、自分の母親の名前も添えた。ケンジムのニャイだったミナという名前を。
ケンジムとピンローは、マルシティという名前がアイチェンの結婚生活をかき乱すことを怖れて、ティルタにアイチェンとの接触を禁じた。ティルタとマルシティがチクンバンで暮らすための金はすべてケンジムから出ており、ケンジムとピンローはティルタにその禁令を守るためにアルクルアンにかけて誓うことを命じ、ティルタはそれに従った。ロスミナの行く末をアイチェンに委ねなければならないティルタは、ケンジムとピンローが死去したあとでもなかなかアイチェンとの連絡をつけることができず、結局ロスミナに優れた華人青年を娶わせ、その華人青年がアイチェンに連絡をつけるようにしようとの腹積もりで時期が来るのを待っていたのだ。
マルシティはロスミナをイスラムに入れず、それどころかチクンバンを巡っている華人商人に頼んで「メイクエイ」という中国名まで用意した。そしてティルタはマルシティの遺志を継いでロスミナを学校に入れ、図書館で本を借り、できるかぎりの教育と教養を与えるように努めた。おかげでロースの教養は普通の田舎娘の域を超えている。
チョアンフーは、もうそのときにロスミナを連れ帰ろうと決心していた。ロスミナが華人界の指導者であるオー・アイチェンの娘であることがはっきりした以上、その格にふさわしい人間に育てなければならないし、そのためにはもっとよい環境を用意してやらなければならない。そして将来はアイチェンの娘としてビアンクンに嫁ぐことになる。だからまずは地主館に迎え入れて、その地固めをしていこう。ましてや、傷心のビアンクンにとってロスミナは息子がこれからの人生を続けていくための希望の星になるのだから。

思いがけない形でロスミナをアイチェンの手に返す運びになったことを、ティルタも喜んだ。ティルタはロスミナに、地主様について行き、これからは地主館で暮らすよう命じ、持って行くものを用意させた。
チョアンフーはティルタに、いつでも地主館に遊びに来てかまわないと告げ、これから一人暮らしに入るであろうティルタの様子を見に、ときどきひとを送ることを約束した。

チョアンフー夫妻がロスミナ、いや既にメイクエイと中国名で呼ばれるようになったが、を連れて地主館に戻ったとき、時間は正午をまわっていた。
ビアンクンは熱が下がってぐっすり寝込んでいる。ニョニャ チョアンフーはメイクエイにビアンクンを看護するよう言いつけ、ビアンクンが目を覚ましたらどうすればいいのかを教えた。
それからおよそ半時間後にビアンクンが目を覚ました。ベッドの傍らの椅子に腰掛けて本を読んでいる女性がいるのに気付き、「おや?」と思ったビアンクンは声をかけた。女性の姿勢が脇を向いているので、顔がよく見えないのだ。「あれ?だあれ?」 女性はからだの向きを変えてビアンクンに向かい、言った。「どう、ビアンクン、もうよくなった?」
そこにいるのはリリーだ。しかしビアンクンは少しも取り乱さなかった。こんなシーンを夢の中でもう何十回も見てきたのだから。だから、これもきっと夢に違いない。自分の目が覚めたら、愛するリリーはまた姿を消してしまうだろう。ビアンクンは言われた言葉に反応せず、「ああ、リリー」と口の中でつぶやいた。そのとき、ドアの外で母親の声が聞こえたのだ。ビアンクンは母親に向かって叫んだ。「母さん、母さん、ちょっと来てよ。」
入ってきたニョニャ チョアンフーにかれは言った。
「ここにリリーがいるの、母さんに見える?」
ニョニャ チョアンフーは微笑みながら言った。「ええ、見えますよ。」
「捕まえて!リリーがぼくのそばから二度と去らないように。母さんもそう頼んでくれないかなあ。」
「リリーはこれからずっとおまえの傍にいるよ。もうどこへも行ったりしない。」

ビアンクンは安心したのか、急に空腹を感じたので、三人は食堂に向かう。食事を終えたばかりのチョアンフーが食堂にいた。ビアンクンが寝込んでいる間に何が起こっていたかを父親から詳らかに聞いたビアンクンは、この奇跡のような話をやっと理解した。
ビアンクンがロースに英語で話しかけてみたが、ロースにはまったく通じない。「こりゃリリーとだいぶ違う。」とビアンクンが言うと、父親が言った。「ロースは英語がまだできないが、スンダ語は満点だ。」するとビアンクンがスンダ語で語りかける。即座にスンダ語で可愛らしく返事してきたから、ビアンクンは腹の底から笑い声を出した。「リリーは英語が満点だったけど、スンダ語はからっきしだったよ。ロースはその正反対だね。」
この一年少々の間、息子のそんなほがらかな笑い声を聞いていなかったチョアンフー夫妻はこれでやっと安心した。平和な一家の暮らしがまた戻ってくるのだ。嫁まで得ることができて。


わが兄弟、アイチェン、
今月15日付けの貴信に返事を差し上げます。ご心配いただいたビアンクンの病気はもうすっかり回復し、以前はあんなに強く言い張っていた中国に死地を求めるという計画も跡形なく消滅しました。われわれがあれほど口を酸っぱくして思い止まらせようとしたのに効果がなかったあの一念があっさりと溶け去ってしまったことを、きっと貴兄は不思議に思うでしょう。ビアンクンが船に乗って出港する三日前に起こったできごとが、かれの一念をときほぐしてしまったのです。この話はきっと貴兄ご夫妻をわたしども夫婦と同じように大喜びさせることでしょう。
ついこの前の日曜日、ビアンクンが船に乗る三日前でした、病の癒えたビアンクンが出会った娘がビアンクンの心を奪ったのです。その娘はビアンクンの妻にふさわしい女性であり、わたしも妻もかれらが将来を誓い合うことに大賛成しました。ところがその娘の両親は別のところにいて、ひとり娘であるその女性とビアンクンの結婚を許すかどうか、まだわかりません。それがために、ぜひ貴兄ご夫妻のお力添えをお願いいたしたく、早急にチクンバンの地主館までお越しくださるよう希望しております。もし貴兄ご夫妻がこの結婚に賛成くださるなら、若いふたりの結婚に対する障害はすべて姿を消すにちがいありません。すべては貴兄次第なのです。
いまはまだ、その娘の身元も、その両親の名前も、明かすことができないことを諒承ください。貴兄ご夫妻がここを訪れたとき、その一切が明らかになります。できるだけ早く、こちらに向けて出発なさるよう、切に望んでおります。 署名 〜 シム・チョアンフー

アイチェンとグワッニオはビアンクンがわが娘リリーの幸福な将来を託せるに足る青年だと見込んで婚約を許したのであり、あの不幸なできごとがなければ今ごろは家族の一員となっていたはずで、それだけにふたりはビアンクンを親族のひとりのように思っていた。そのビアンクンがリリーと結婚できなかったがために不幸な人生を歩むことになれば、アイチェンもグワッニオもつらい。だからこそ、ビアンクンの状況が気にかかっていた。ビアンクンの父親からの手紙は、ビアンクンの運勢が変わり始めたことを知らせているが、その中にはあまりにも謎がたくさん書かれている。
ともあれ、リリーをあれほどまでに愛したビアンクンが、もはや生きることの意味を見失い、義勇兵となって北伐軍に加わり、中国大陸で屍となることを一途に思い込んでいたというのに、突然鄙びた山の中で出会った娘に自分の人生を呼び戻されたというその話は、不思議さと喜びのふたつの感情をアイチェンとグワッニオにもたらした。ふたりはチョアンフーの手紙にあった謎を解いてみようとあれこれ考えたものの、あの内容にフィットするような家庭はふたりの知り合いの中に見当たらない。アイチェンの妹たちの娘に関係しているかもしれないと推測して見たものの、そこにも答えはなかった。
チクンバンへ行くほうが早いと考えたアイチェンはチョアンフーに電報を送った。「明朝、訪問する」


自動車でアイチェン夫婦がガルッからチクンバンに到着したのは、翌朝午前10時。地主館の表に自動車が止まると、チョアンフー夫妻が出迎えた。互いに挨拶を交わすと、アイチェンがチョアンフーの肩を抱いて言う。「あなたはひとの気持ちをそそるのが実に上手だ。あの謎めいた手紙は実に面白い。さあ、その娘さんの名前と両親の名前を教えてくれないかね。」
チョアンフーは深刻な顔で答える。
「あんたがこの話の実相を知ったら、わしがあんな手紙を書いたこともきっと承知してもらえるだろう。もう半時間ほど時間をもらえないかね。そうすれば、すべてがはっきりする。」
「ビアンクンはどこにいる?」
「離れにいる。今とりこんでいて手が放せないので、あんたがたご夫婦は部屋に入って半時間ほど休んでいてくれないかな。」
ニョニャ チョアンフーもグワッニオに同じような話をした。夫婦の雰囲気が真剣なものだから、アイチェンもグワッニオもその勧めに従って部屋に入り、楽な服装に着替えて休憩した。


四人が居間に集まってコーヒーやレモネードを飲みながら世間話しているところにビアンクンがやってきてアイチェンとグワッニオに挨拶し、離れで用意が整ったことを父親に告げた。
「じゃあ、みんなで見に行きましょう。」
チョアンフーがそう言って立ち上がる。アイチェンが怪訝な顔で尋ねた。
「何を見に?」
「ああ、まだ言っていなかったなあ。リリーの像です。バンドンのとても上手な彫刻師に頼んでリリーの等身大のろう人形を作ってもらったのです。美しいリリーに本当にそっくりで、それを離れに置いたから、みんなで除幕式をやりましょう。」
「わたしは見たくないわ。リリーを思い出して、また悲しくなってしまうから。」
「わたしも同じだよ。早く来てくれと言うから急いでここに来たんだが、それはリリーの像の除幕式のためじゃないよ。あの手紙に書かれてあったことの詳細を知りたいためだ。」
「これからあんたがたご夫妻が見る像が、その答えの鍵を握っているんだ。」チョアンフーの感極まった声に、アイチェンもグワッニオも立ち上がった。チョアンフー夫妻とビアンクンが、何も言わずに足早に離れに向かって進んだ。アイチェンとグワッニオは後を従わざるを得ない。

離れの広間に入ると、中は映画館のように真っ暗だ。扉から差し込んだ光が奥に置かれているものを教えてくれた。ビロードのカーテンの衝立が立てられており、その後ろにリリーの像が置かれているようだ。そこから七メートルほど離れた場所が観客席なのだろう。椅子が四脚並べられており、像はきっとそっちに向けられているのだ。広間の中に中年のオランダ人男性がひとりいて、チョアンフーはアイチェンとグワッニオに紹介した。「リリーの像を制作したバンドンの優れた彫刻家です。」
四人は着席する。アイチェンとグワッニオを中にして、チョアンフー夫妻が両端に座り、オランダ人彫刻家はグワッニオの後ろに立った。ビロードのカーテンの近くには、色とりどりの花を合わせて作られた大型の花環も立てられている。ビアンクンがビロードのカーテンを下ろすために近くへ寄った。
「こう暗くては、何もはっきり見えないよ。」
アイチェンがビアンクンにそう言ったとき、床に置かれた電灯がカーテンに向かって光を投げかけた。ビロードのカーテンが引き降ろされた瞬間、アイチェンとグワッニオは叫び声をあげて椅子から立ち上がった。

ふたりはリリーがよみがえったと思った。白絹の上海ドレスを着た、まるで生きているようなリリーがそこにいる。ふたりはその像に近寄って、すぐそばからもっとよく見たいと思ったが、チョアンフーとビアンクンに留められた。「どうか椅子に座ったままでご覧ください。」
「なんてそっくりなんだろう・・・・」
「このトアンはなんて上手な彫刻師なんでしょう。生きていないのだけが残念で・・・・」
アイチェンとグワッニオは口々につぶやく。するとビアンクンがまたビロードのカーテンを引き上げて像を隠した。「もうちょっと見せてくれないか。もっとよく見たいんだ。」アイチェンの言葉にグワッニオもうなずく。しかしビアンクンはそのままそこを離れて観客席に近付いてきた。そしてアイチェンとグワッニオの前でひざまずくと、ふたりに言った。
「もっと見ていただく前に、ぼくたちの結婚を許していただきたいのです。」
「結婚?だれと?」
「ついさっき、お目にかけたものです。」
「あの像と?」
「そうです。リリーと・・・」
アイチェンとグワッニオは悲しげに顔を見合わせた。ビアンクンの頭がついにおかしくなったと思ったのだ。アイチェンはチョアンフーに言った。
「ビアンクンがこんな風になるまであなたがた夫婦が放っておくなんて、わたしには理解できない。こんなにリリーにそっくりな像を作ったところで、結局ビアンクンの精神を崩壊に向かわせるのであれば、何の意味もないどころか、かえって災いを招くことになる。」
チョアンフーがアイチェンに言った。
「兄弟、あんたのお叱りを受ける前に、ひとつ質問をさせていただきたい。昔あんたがマルシティという名前のニャイを持ったことは覚えているか?」
何を言い出したかと思って、アイチェンは不思議そうな顔をしながら答えた。「ああ、覚えている。」
「そのニャイがあんたの家を去るとき、何を持って行ったのか?」
「自分の衣服以外には何も持って行かなかった。ああ、そうだ。庭に植えてあったプリンマンコッマスを持って行くと手紙に書いてあった。」
「そのプリンの木はいまどこにある?」
「マルシティが去ったあと、どこに住んだのかがいまだにわからないので、プリンの木がどこに植え替えられたのかはわからない。」
「マルシティは今わの際に、その木を自分の墓に植えるように頼んだ。今、その木は大きく豊かに育って、マルシティの墓の周囲を垣根のように包んでいる。」
「なんであなたがそれを知っている?」
「マルシティの墓はここから近い場所にある。」
「その墓が二十年も昔に亡くなったマルシティのものだとどうして判るのだろう?」
「ティルタという名の老人がマルシティの保護者になっていた。ティルタが教えてくれたのだ。かれはあなたの下男だったね?」
「ティルタはまだ生きていたのか・・・」
「まだかくしゃくとしている。もうすぐ、ここへ来るでしょう。」
「おお、永い間、かれに会いたいと思っていた。いろいろ尋ねたいことがある。」
「それはもうすぐ実現するでしょう。わしがもうひとつ尋ねたいのは、そのプリンの木のほかに、マルシティがあんたのものを持って去って行ったのをあんたが知っているかどうかだ。」
「いや、他には何もない。家から無くなったものは何もなかったから。」
「実は、そうじゃないんだ。マルシティがあんたの家を去るとき、あんたの子を腹に宿していた。まだひと月目だったから、マルシティ自身も気が付いていなかったんだが。」
「マルシティが妊娠していた?」
「そう、そしてひとりの女の子を産んだ。その子はいま、適齢期の娘になっている。その娘の姿かたちはリリーに生き写しなんだ。さっきご覧になった通り。」
驚愕がアイチェンとグワッニオを襲った。ふたりの身体は震えていた。

「さっきのはろう人形じゃなかったのか?・・・わたしの娘だったのか?・・・マルシティが産んだ・・・?ここへ連れてきてくれ。自分の目で確かめたい。まるで信じられないような話だから。」
チョアンフーとアイチェンが話しているとき、ビアンクンはそっとその場を離れてリリーのろう人形の傍に戻っていた。そしてアイチェンが連れて来いと言ったとき、リリーのろう人形の役を演じていたロースの手を引いてやってきたのだ。ロースが口を開いた。「パパ!ママ!」
アイチェンも口を半開きにしたまま、呆然とロースを見つめた。グワッニオはロースを抱いて口付けしようとしたが、足を一歩踏み出したまま気を失った。グワッニオの後ろに立っていた彫刻家がその身体を抱きとめた。チョアンフーが言う。「ドクター、支えてあげて!」
「心配いらない。」ドクターと呼ばれた彫刻家が答える。実は、このオランダ人はこんな事態をおもんばかってチョアンフーが招いた医師だったのだ。
医師はグワッニオをベッドに運び、介抱した。ほどなく意識を取り戻したグワッニオは、傍らに夫がいるのに気付き、そしてその隣に目を移してロースを見つけ、両腕を伸ばした。ふたりはいま、涙を流しながらしっかりと抱き合ったのだ。アイチェンは眼前に展開されたこのできごとがまるで夢のように思われ、夢が覚めればロースが霧消してしまうのではないかという不安で、かの女の腕をじっとつかんでいた。アイチェンの目も涙に潤んでいる。そのとき、耳元で男の声がした。「ジュラガン!」
白髪のプリブミ老人が脇に立っていた。
「誰かね?」
「わしです。ティルタです。」
ふたりはひしと抱き合った。ティルタが話す物語を聞いて、リョッ・ケンジムが今わの際に話そうとしていたことがやっと明らかになった。
『マルシティが死ぬ前に子供を産んだ。その子を認知し、おまえたちの子供として育ててやって欲しい。』ケンジムが言おうとしたのはそんな言葉だったにちがいない。一切の謎が解け、そしていま、ケンジムの希望が実現しようとしている。


それから数日間、アイチェン夫妻はチクンバン農園の地主館に、メイクエイの両親として一緒に逗留した。グワッニオはその間ひとときもメイクエイを自分の傍らから離そうとしなかった。マンディさえ一緒にした。母親の愛情を体験しなかったロスミナにとって、この新たな体験は心温まるものだったにちがいない。ロスミナもグワッニオを「ママ、ママ」と呼んで甘えた。
そして三日間が矢のように過ぎ、いよいよビアンクンとメイクエイの結婚式の準備を開始するため、アイチェン夫妻は新たに得た娘を連れてチクンバンを去ることにした。だが、去る前にマルシティとの再会が残されている。その日、朝からアイチェン夫妻とロスミナ、チョアンフー夫妻とビアンクンは、農園の下働きの者たちを伴ってマルシティの墓に徒歩で向かった。ティルタが呼ばれて道案内を務める。道路など通じておらず、せいぜい踏み分け道が途切れ途切れにあるくらいで、藪に覆われて容易に踏み込めない場所も多い。だが遠回りすれば、慣れない夫人たちの脚ではなかなか目的地に到達できず、かえって途中で疲れ果ててしまうかもしれない。だから下働きの男たちに藪をナタで切り拓いてもらう必要がある。

チェンテやハレンドンなどの雑草が丈高く覆っている藪に出た。藪はそれらの雑草の花でびっしりと飾られている。男たちがナタを鞘から抜いて藪を切り払おうとした。そのとき、ロースが言った。「可哀想だから、切らないで。」
「ええっ?こんな雑草を可哀想なんて。田畑でもどこでも、こんな雑草は邪魔になるだけで、何の役にもたたねえですよ、お嬢さん。」下男頭が不審な面持ちを向けた。
「そうね。きれいな花で一面が飾られてるから、ちょっともったいないわね。」グワッニオが助け舟を出す。
それらの雑草が庭師や農夫から嫌われていることを知っているアイチェンがロースに尋ねた。「どうして雑草を可哀想なんて言うの?」
「わたし、子供の頃からチェンテの花でよく遊んだし、髪に飾ったりしたの。そして遊び終わったら、その花をまた集めて母さんの墓に撒いていました。お爺さんの話だと、母さんが亡くなるとき、自分の墓に撒く花はチェンテとハレンドンだけにして欲しいって頼んだんですって。」
マルシティの墓に撒くために高価な花をたくさん持ってきたアイチェンの心をロースの言葉が突き刺した。アイチェンはティルタに尋ねた。この娘の話は本当なのか、と。
「マルシティはチェンテやハレンドンのような、だれも見向きもせず、それを摘んで飾ろうともしない花を愛していました。だれもそれを植えて世話しようとせず、反対に憎まれ嫌われている雑草がつける花ですが、その花は何も悪くないし、むしろ美しい花だと言って。だから、自分の墓にチェンテとハレンドン以外の花を撒いてもらってもうれしくないのだ、と。」
自分の境遇をそんな雑草の花に重ね合わせたマルシティの心を知ったアイチェンは、すぐにその藪に近寄ってチェンテとハレンドンの花を黙々と摘み始めた。続いてグワッニオが、ロースがチョアンフー夫妻とビアンクンもアイチェンに倣って花を摘み始める。ハンカチや帽子が花びらで一杯になると、一行はまた歩き出した。

やっとティルタの家に着いた一行はしばらく休息し、そしてまた出発した。今度はマルシティの墓を目指して。十分ほど歩いたあと、アイチェンの目にプリンマンコッマスの木が見えた。アイチェンの歩くピッチが速まる。その木に囲まれて、プリブミの墓がひとつあった。頭の位置に墓標がひとつ立っている。アイチェンはしゃがむと、それに取りすがって泣いた。口からつぶやきが洩れる。「マルシティ!二十年も経って、やっと会えたんだ。ああ・・・・」そのあとはもう言葉にならなかった。
グワッニオも涙ながらに語りかける。「ああ、お姉さん。生きているときに会いたかった・・・・」
チョアンフー夫妻もビアンクンも目を潤ませていた。そのときみんなの心の中にあったのは、亡き人を悼む悲しみよりも、これまで欠けていた何かがやっと取り戻されて、自分たちが住んでいる宇宙が安定感を取り戻したという、どこか幸福めいた感覚だった。


アイチェンは、ビアンクンとメイクエイの結婚を、バタヴィアの華人界の語り草になるものにしようというアイデアを抱いた。そのための準備には十分な期間を用意し、その間に田舎娘のロスミナを華人上流層の格式にふさわしい中華娘メイクエイに変身させなければならない。アイチェンとグワッニオはメイクエイをローズリリーという愛称で呼ぶようになった。リリーの分まで併せて幸福になるようにという親心だ。こうすれば、かの女をリリーと呼んでもおかしくはない。
アイチェンはバンドンのダゴに別荘を借り、グワッニオとローズリリーをそこに住まわせた。毎朝その別荘にオランダ人の婦人がひとりやってきて、ローズリリーにオランダ語とオランダ人の生活習慣を教えた。夕方は北京語と華人の礼儀作法を学習する。そして一週間に一度、音楽のレッスンを受けた。ヨーロッパの礼儀作法、華人の礼儀作法の両方を身に着けなければ、大都会のバタヴィアで時代の先端を行く上流層の婦人とは言いがたいのである。
ローズリリーがバンドンで特訓を受けている間、かの女の存在は極秘にされた。というのも、結婚式を世間が仰天するくらいのサプライズにするというアイチェンのアイデアは、それが絶対条件だったのだから。
ローズリリーが外出する際には、つば広の婦人帽をかぶって顔があまり見えないようにし、おまけに栗色のかつらをつけてヨーロッパ系混血娘のように偽装した。だからバンドン広しといえども、ローズリリーの素顔を知っている者はオランダ語と北京語の家庭教師および別荘の下男下女しかおらず、そしてかれらには別荘の住人が元華人カピタンのオー・アイチェンの縁者だなどということはすべて隠したので、この一家と一年以上前に亡くなったリリーとを結びつけることができる者などひとりもいなかった。

そうこうしているうちに、バタヴィアのウエルトフレーデンにあるアイチェンの邸宅で、改装工事が始まった。ビアンクンとローズリリーの結婚式披露宴を行なうための施設を整えるための工事であり、楽団が入るステージやらあずまやなどを庭園に用意し、母屋は大パーティが可能な大広間が設けられた。バタヴィア華人界の元指導者の娘の結婚式である以上、数百カップルの紳士淑女が招かれるのは当然であり、それを余裕を持って受け入れることのできる施設にしなければならないのである。
その邸宅の主、アイチェンとグワッニオはもう二年近くその家を留守にしてガルッに暮らしている。主人のいないその家で改装工事が始まった。隣近所のひとびとは、そろそろふたりが戻ってきて再会の挨拶をするためにパーティを開くのだろうと噂しあった。ところがある日、その家で開かれるのはビアンクンとリリーの結婚式だという噂が近隣を飛び交い、ひとびとは仰天して顔を見合わせた。
時を同じくして、華人界上流層のひとびとに招待状が届いた。アイチェン夫妻とチョアンフー夫妻が連名で出した招待状には、娘リリーと息子ビアンクンの結婚式と書かれている。
招待状を受け取ったひとびとはまず驚き、続いて悲しげに首を横に振った。ひとり娘のリリーが結婚式直前に亡くなり、その悲しみのためにグワッニオとアイチェンが精神に異常をきたしてバタヴィアを去り、高原の地で療養を続けているということをひとびとはみんな知っている。『長期にわたる療養も、かれらの精神を元に戻すことはできなかったようだ。ふたりの精神はますます崩壊しているのではないか?きっと、リリーの死を事実として認識できなくなってしまったにちがいない。』
ところが、新聞にまで結婚披露宴の告知広告が出たから、たまらない。ひとびとはアイチェンの親族に、いったい何が起こっているのかを尋ねまわった。アイチェンの親族はガルッを訪れて事情を尋ねるが、アイチェンは気がふれた様子もなく、結婚は本当だ、としか返事しない。ローズリリーの存在は徹頭徹尾隠し通した。納得できない親族は、亡くなったリリーがどうして結婚できるのかと問い詰める。すると、「結婚するリリーは養女であり、結婚式当日にバタヴィアへ行く。今はグワッニオと一緒にある場所にいて花嫁修業をしている」という返事。「もらった養女をどうして親族一同に紹介しないのか」不満そうに尋ねられても、それは結婚式の当日に・・・と言って突っぱねるばかり。

チョアンフー夫妻とビアンクンにも質問の矢が降り注いだが、三人ともまったく詳細を語らず、「是非、結婚式に来てください」と繰り返すばかり。
この話は噂となってバタヴィア中を飛び交い、さらに尾ひれがついて諸説紛々、大きな話題に膨れ上がった。その催事は、精神に異常をきたした元華人指導者の中身のないざれ事なのか、それとも何かひとを「あっ!」と言わせる面白い趣向が隠されているのか?バタヴィア中が大いなる期待を込めて、結婚式の当日を待ち望んだのである。


披露宴の前日、アイチェン夫妻とチョアンフー夫妻が会場の下見をしにやってきて、いくつか手直しをするように指示した。アイチェンがバタヴィアに来ていることを知った友人たちが、大勢そこへ駆けつけてきて、今やバタヴィア中の話題を集めているこの催しについて隠されている情報を得ようと努めたが、「明日10時をお楽しみに・・・」とかわされて一層好奇心を煽られるしまつ。夕方、四人は自動車でバタヴィアを後にし、ボイテンゾルフに向けて去った。
そしてついに、バタヴィア中の注目を集めている、元華人カピタンの娘の結婚という謎のベールが開かれる日がやってきた。結婚式の開始は午前10時となっているのに、午前8時にはもう会場に大勢の招待客が詰めかけて大賑わい。華人の結婚式の常で、マージャンやカードで賭け事をする場所も用意されているのだが、客たちの関心はまったく別のところにあり、賭け事用テーブルが並んでいる部屋はがらんどう。来客たちは自分の知っている知識を披露し、また知らない情報を吸収しようとして、アイチェン一家の話に余念がない。

開始の時間が刻一刻と近付き、ガムラン楽団とオーケストラが別々の場所で演奏を始めると、邸内の喧騒は頂点に達した。そのとき、自動車が一台、邸内に入ってきた。広間にいたひとびとが花嫁を見ようとして一斉に表に出てくる。しかし、自動車から降りたのはアイチェン夫妻とチョアンフー夫妻だけ。「花嫁はどこ?」とひとびとが口々に尋ねると、「もう三十分後に。」との返事。みんなはがっかりした面持ちで元の場所へ戻る。しかし、その間に離れの脇扉からオランダ人混血娘がひとり、まだ子供の下女を従えてそって家の中に入ってきたのに気付いたひとはいなかった。オランダの婦人がよくかぶっている幅広の帽子から栗色の髪がのぞいており、サングラスをかけている。帽子が邪魔になって、顔はよく見えない。グワッニオがその娘を迎えて花嫁の支度室に案内した。「だれ、そのひと?」親族の女性たちが尋ねる。「美容師さんよ。」グワッニオが短く答えた。三人は部屋に入ると、中から鍵をかけた。
しばらくして、また自動車が一台、邸内に入ってきた。すわ、これぞ花嫁、とひとびとが期待して庭に飛び出してきたが、自動車から降りたのは新郎のビアンクンとその友人男性ひとり。かれらふたりは黒いスーツに身を固め、ヨーロッパ式のいでたちで広間に入って行き、チョアンフー夫妻の隣に腰をおろした。もう5分でいよいよ10時、すべてが明らかになる時がやってくる。

花嫁支度室のドアの前には、親族の少女たちが二列に並んで待っている。新婦が婚姻の儀式を行なう場所まで、その少女たちが行列を作って送っていくのである。一方、新郎は自分の親友ひとりに介添えされてその場所に赴く。
アイチェンが「いよいよ挙式を行ないますので、広間にお集まりください」と招待客にふれて回る。そして10時きっかりに、オーケストラに合図を出した。結婚行進曲が奏でられる。アイチェンが花嫁支度室のドアをノックした。中から鍵が外される音がして、扉が開かれた。グワッニオに手を引かれて出てきたのは、ウエディングドレスに身を包んだローズリリーだ。ところが、親族の少女たちは一瞬唖然としたあと、興奮して騒ぎ出した。「リリーねえさん!リリーねえさんよ。生き返ったんだ!」
アイチェンの親族たちが、そしてアイチェンと家族付き合いをしていた友人たちが、あるいはリリーの学友たちが、一斉にローズリリー目がけて殺到した。椅子はひっくり返るし、みんなが前へ出ようとして押し合いへしあい。会場は大騒ぎだ。大勢の女性に抱きつかれて、花嫁衣裳は台無し。

その場に集まった大勢の人々の疑問に満ちた視線を浴びて、アイチェンは片手をあげた。「ご参会のみなさん、今から事情を説明しますので、どうぞ席にお戻りください。」 説明の言葉を一言も聞き漏らすまいとして、広間は水を打ったように静まる。アイチェンは話し始めた。「この娘はわたしとわたしのニャイだった、今は亡きマルシティの間にできた子供です。マルシティも娘の花嫁姿をあそこから見ています。」
アイチェンが指差した壁には、等身大のマルシティの写真が着色されて架けられていた。それは前日からそこに架けられていたのだが、そのときまでその写真の人物がだれであるのかを気にしたひとはいなかった。いま、アイチェンがはじめてマルシティの存在を世間に告知したのである。アイチェンは、マルシティがグワッニオの異母姉にあたることから始めて、ビアンクンがどのようにしてローズリリーに出会ったのかということまで、あらゆる事情を物語った。さらに、アイチェンとグワッニオが築いた家庭はマルシティの自己犠牲の上に作られたものであるということまでも。「皆さん、ふたり目のリリーであるローズリリーとビアンクンの結婚を今こうやって一緒に祝福できるのは実に喜ばしい限りであります。それができるのも、マルシティが一生をなげうってくれたことのたまものでありましょう。グワッニオの姉であり、わたしのニャイであり、そしてリョッ・ケンジム家の数少ない親族のひとりであるこの薄幸の女性に黙祷を捧げたいと思います。ご賛同いただける方はどうぞ、ご一緒に。」
広間を、賑やかに賛同の声が埋めた。全員がうつむいて黙祷を捧げているとき、心なしか、写真の中のマルシティが微笑んだ。


バタヴィアを大いに湧かせたローズリリーとビアンクンの結婚式から5年が過ぎた。ふたりには、四歳の女児と二歳の男児というふたりの子供ができた。
リョッ・ケンジムがグヌンムリア農園を売り渡したオランダの会社は倒産してその農園を売りに出し、アイチェンがそれを買った。ビアンクンは今、オーナー代理人としてその農園の管理人になっている。アイチェンがマルシティと暮らしていたころの管理人邸はすっかり建替えられ、まったく違う新しい建物になっているが、建物の周りの様子はほとんど昔のままだ。

十二月のある日、アイチェンとグワッニオは娘と婿、そして孫たちに会うため、ふたりが新婚時代を送ったグヌンムリア農園にやってきた。
その日の夕方、たまたま雨雲は姿を見せず、よく晴れて空気は澄み、微風がそよぐだけの穏やかな天気になった。グデ山の頂が黄金色に染まる。
アイチェンは昔そこで行なっていた習慣のまま、寝椅子を外に出し、新聞を脇に置いてそこに座り、新聞を開こうとせずに美しい大自然のページェントに見入っていた。傍らのテーブルでグワッニオがビスケットを皿に置き、ティーをポットに用意する。
「実に永い間、この場所から離れてしまい、大自然の美を鑑賞することも稀になっていた。やはり、大自然は良いものだ。」
「いま、こうやっていると、わたしたちがここで過ごした新婚時代を思い出すわね。」
「わたしはそのもっと先まで、マルシティと一緒だったころのことまで思い出してしまう。こうやって、どんどん年老いているというのに、古いことのほうがはっきりと思い出されるというのも不思議なことだ。さっき、おまえがビスケットやティーポットを持って家の中から出てきたとき、わたしの記憶は結婚前のころを映し出していた。夕方のこんな風景に触発されて思い出す記憶が、もっと古いころのものだなんて、奇妙だね。あやうく、おまえにスンダ語で話しかけるところだったよ。」
「あなたが今後わたしをマルシティと呼んでも、ちっともかまわないわよ。マルシティがしていたように、あなたをジュラガンと呼び、自分をアブディと呼びましょうか?どんなクバヤとサルンを着て、まげはどんな風にしたらマルシティみたいに見えるかしら。わたし、自分の魂を脇にどけて、マルシティの魂がこの身体の中に入ってくるようにできればいいのにって考えているの。姉さんがつらく短い一生を終え、わたしが幸福に年老いていくのなんて、不公平じゃない?」
アイチェンは妻の腰に腕をまわして引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。ふたりは新婚時代に戻ったような気がした。

「いいや、マルシティがそれを望んだんだ。だからおまえはおまえの健やかな人生を生きて、マルシティの希望にこたえなければいけない。おまえがマルシティの身代わりをするなんて、もちろんできることではないけれど、グワッニオという正妻がわたしにとってどれほど価値ある存在だったか、それをマルシティと入れ替えることなどできるわけがない。新婚時代におまえがわたしにニャイがいたことを知り、しかもわたしがいつまでもおまえに心を閉ざしているとき、もしおまえがわたしを嫌い、憎み、嫉妬し、家庭を棘に満ちた場所にしていたら、それがマルシティかどうかは別にして、わたしは別の女のところに走っただろう。わたしたちが今日あるのは、おまえがそれを支えることのできる存在だったからだ。」
寝椅子に座って語り合いながら、アイチェンは背もたれに身体をもたらせ、グワッニオは夫の胸に頭をあずけてグデ山の輝きと大空の色彩の変化に見入っている。
光の色が徐々に褪せ、太陽がサラッ山の稜線の後ろに沈み始めたころ、たそがれの中でグデ山の後ろから弱い光がさし始めた。今日は満月なのだ。グデ山の頂はもうほとんど影の中にあり、その向こうに銀色の円弧が顔を出した。ふたりがほとんど同時に口を開いた。「月が出た。」

ふたりが身を起こしたとき、グワッニオの頭をかすめてアイチェンの胸に何かが落ちてきた。まるで、だれかが狙ってそれを投げてきたかのように。グワッニオがそれを手にしてから言った。
「あら、チュンパカの花よ。」
チュンパカの花が数個、いっしょになって落ちてきたようだ。アイチェンは胸の上に残っている花を手にして匂いを嗅いだ。
「ああ、いい匂いだ。」
ふたりは夕闇が包み始めた周囲を見回した。穏やかな山風に乗って、近くにあるチュンパカとクムニンの木が花の香りをふたりに送ってくる。
「わたしたちのあとに入ったオランダ人が植えてくれたのね。おかげで良い香りを楽しめるわ。感謝しなきゃ。」
「ちょっと待てよ。」アイチェンは寝椅子から立ち上がると、その周辺を行ったりきたりした。一生懸命何かを思い出そうとしていたアイチェンの表情が晴れた。

「いや、オランダ人じゃない。マルシティだよ、それを植えたのは。マルシティがここを去る二日前に、苗木を買って植えたんだ。そのときにマルシティが言った言葉も思い出した。『この木がしっかり成長して朝夕このあたりを良い香りで満たすよう、わたしは願をかけました。ジュラガンが奥さんとこのあたりを散歩するとき、良い香りで気持ちよくなれるように。そしてチュンパカの花はジュラガンのベッドの上に架けるんです。あたしからの永遠のプレゼントとして。』そうなんだ。落ちてきた花は、マルシティが投げてくれたんだ。ベッドの上に架けるように、って。」
「でも、わたしたちがここに住んでいたころ、そんな木はなかったわ。」
「それはまだ大きくなっていなかったからだ。ましてや、ニャイのことを秘密にしていたわたしが、その話をおまえにするはずがない。」

アイチェンは周囲の地面に散らばっているチュンパカの花を集め始めた。花畑へ一家で散歩に行っていたビアンクンたちが戻ってきた。「パパ、何を拾っているの?」
「チュンパカの花だ。その木はローズリリーの母親が植えたものだよ。」
すると四歳の孫娘エルシーが言った。「エルシーはクムニンとチュンパカの花をいっぱい集めて、お爺ちゃんお婆ちゃんの部屋の枕と毛布の下に置いたよ。」
「ほんとに?それは偉いわね。でも、だれに言われてそんなことをしたの?」ローズリリーが娘に尋ねる。
「今朝まだ暗いうちにママがエルシーを起こして庭に誘ったじゃない。それからママが木に登って花をいっぱい下に落としたから、エルシーがそれを全部拾ったのよ。それからママはお爺ちゃんお婆ちゃんが泊まる部屋にエルシーを連れて行って、『ここに置きなさい』って枕と毛布を持ち上げたから、エルシーはそこにきれいに並べたの。ママは覚えてないの?」エルシーが口をとがらせる。
エルシーがこれまで嘘をついたことがないのを、母親のローズリリーはよく知っている。しかし子供は空想と現実をごちゃまぜにすることがある。「そう。じゃあどんな風に並べたのか、見に行きましょう。」

エルシーが邸内に駆け込む。そのあとを追って、全員が屋内に入り、もう開かれてある客室の扉の中に入った。
エルシーが枕と毛布の端をつかんで持ち上げている。その下に、クムニンとチュンパカの花が確かに敷き詰められていた。
「本当にママとそれをしたの?」
「うん。エルシーはまだ眠かったのに、ママに起こされて、外に出て、ママが木の上から花をいっぱい落としてきたからエルシーが拾ったの。」
三人の不審な視線にさらされたローズリリーが言った。「わたし、今朝部屋から出たのは午前8時でした。それから、あんな高い木にわたしが登れるわけがないわ。」
アイチェンが孫娘に尋ねた。「エルシーが花をベッドに並べたあと、ママはどこへ行ったの?」
「わからない。また寝たんじゃないかしら。エルシーもすごく眠かったし、寒かったから、またすぐにベッドに入っちゃった。」
「エルシーは外に出るとき、サンダルかスリッパを履いた?」
「いいえ、ママが急いでたから、はだしで出ちゃった。泥で汚れたから、マットで泥を拭いてからベッドに上がったよ。」
みんながエルシーの部屋を覗くと、扉の後ろに置かれている足拭きマットには、確かに泥がついている。
「わたしたちのために、マルシティがエルシーにそれをさせたんだわ。」
「わたしもそう思うよ、グワッニオ。」
「マルシティはわたしたちを幸福にするために、ずっと見守ってくれているんだわ。」
みんなはその足でマルシティの写真が飾られている香卓に向かい、ひざまづいて線香を焚いた。

その夜、満月の下で、一家六人は庭に出て音楽を奏で、歌を歌って楽しんだ。冴えた光と澄んだ空気の中を、チュンパカとクムニンの香りが途切れることなく漂っていた。