「南の島のUボート」



ナチスドイツは1940年5月10日、オランダに対する戦闘行動を開始し、ドイツとの戦争を避けたい気持ちの強かったオランダ人は5月17日、ドイツに対して降伏を宣言した。ウィルヘルミナ女王とオランダ政府はイギリスに亡命して反ドイツ抗争を指導し、オランダ本国はオーストリアナチス党上層部のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが国家弁務官として率いる文民政府に統治された。

電撃的な本国の対ドイツ降伏と占領に驚いた蘭印政庁は在留ドイツ人とナチスシンパに対する抑留措置を開始し、1941年はじめごろまでかけて2,436人を捕らえ、東ジャワのガウィ(Ngawi)や北スマトラなどに設けられた隔離キャンプに収容した。その中にはバリで活躍していた芸術家ヴァルター・シュピースも含まれている。ドイツ本国のナチズム興隆の賛成派も反対派もいたと思われる蘭印在住のドイツ人は、その政治信条などお構いなしに蘭印政庁に捕らわれる結果となった。あえて南洋に移り住んできたかれらの中には、アンチナチズム派も少なからず存在していたようだ。

それまで潤沢だった日本と蘭印間の貿易は先細りとなり、石油をはじめ諸物資の輸出がこれ見よがしにアメリカとイギリスに振り向けられるようになって、日本は力ずくでの南方進出の意思を固め始める。そして1941年12月8日にハワイ島真珠湾奇襲攻撃で対米戦争が開始されると、イギリスのオランダ亡命政府は日本に宣戦を布告した。蘭印総督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタショウェルは真珠湾空襲から5時間後に、日本軍と戦争状態に入ったことを宣言している。

日本軍の蘭印進攻はそれからあまり間を置かずに開始された。1942年1月11日、カリマンタン島北部のタラカン(Tarakan)島とスラウェシ島北部のマナド(Manado)に上陸を開始し、連合軍が強力な守備隊を置いていたタラカンは13日に陥落、マナドは多少の損害をものともせずその日のうちに制圧が終わった。
続いてカリマンタン島のバリッパパンとスラウェシ島のクンダリ(Kendari)に1月24日上陸して翌日までに占領し、2月9日にはスラウェシ島マカッサルを、2月10日にはカリマンタン島バンジャルマシンを奪取した。
一方、1月24日から艦載機の空襲が開始されたアンボン島は1月31日に陸軍が島の北と東から上陸を敢行し、2月1日に現地守備隊を投降させた。
そして2月14日には空の神兵と歌われた陸軍落下傘部隊による空挺作戦がパレンバンで行われ、翌15日には完全制圧がなされた。パレンバンの空の神兵があまりにも喧伝されたが、日本軍の空挺作戦は1月11日に海軍空挺部隊がマナドに降下したのがその事始である。
2月19日にはバリ島に日本国旗がひるがえり、20日にはティモール島クパン(Kupang)で激戦が始まって、オーストラリア兵を主力にした連合軍は23日に降伏した。同日、ポルトガル領ティモールのディリ(Dili)にも陸軍部隊が上陸し、オーストラリア・蘭印・現地兵連合軍守備隊を追い散らして占領した。ポルトガル現地軍は交戦しようとしなかったという。
こうして周辺地域を陥落させた日本軍はついに最終目標のジャワ島に王手をかけることになる。3月1日、ジャワ島攻略作戦が開始された。ジャワ島西岸のバンテン湾とムラッ(Merak)、西ジャワ州インドラマユ(Indramayu)のカンダンハウル(Kandanghaur)地区にある寒村エレタン(Eretan)、中部ジャワ州レンバン(Rembang)にあるクラガン(Kragan)海岸の三ヶ所を上陸地点に定めた日本軍は犠牲を払いながらも蘭印政庁の牙城とするジャワ島上陸に成功し、それぞれが目標とする制圧地域に向けて進出して行った。
ムラッ/バンテン上陸軍はボイテンゾルフ(Buitenzorg =今のボゴール市)とバタビア(Batavia =今のジャカルタ)に分かれて進撃し、3月5日これといった抵抗を受けることなくマウク(Mauk)方面からバタビアに入城した日本軍は大勢のインドネシア人に歓迎されてバタビアの市政を掌握した。ボイテンゾルフも3月6日に占領された。バタビア制圧軍の最終目標はバンドン要塞であり、続いてバンドンへ向けての進軍が開始される。
一方、エレタンに無血上陸した部隊はその足でバンドンへの道を邁進した。バンドン近郊のカリジャティ(Kalijati)飛行場奪取部隊とバンドン要塞進攻部隊に分かれての進軍だ。クラガン上陸部隊はスラバヤとインド洋側の要港チラチャップ(Cilacap)を最終目標とする二軍に分散し、スラバヤは6日後に陥落、チラチャップも3月7日に攻略された。
エレタン上陸軍はその日のうちにカリジャティ飛行場に突入して蘭印軍守備隊を撤退させる。3日に反撃を受けたカリジャティ飛行場制圧部隊はそれを撃退したものの、飛行場の防御を行うよりはバンドン攻略こそ最良の防御だと考えて、7日レンバン(Lembang)に突入して山岳陣地の一角を占拠した。
バンドンの蘭印軍総司令部はその情報に驚愕し、7日夜には早々とバンドン地区防衛旅団司令官が白旗を掲げた。8日に蘭印総督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタショウェル出席の元にカリジャティ飛行場で行われた降伏交渉で蘭印軍は全面降伏を認め、9日に降伏の事実がラジオ放送された。更に12日に在蘭印の連合軍がすべて降伏したことで、日本軍の蘭印攻略はここに完結した。


ドイツの潜水艦はUボートと呼ばれる。文字通りUnterseeboot(海中の艦)だから、潜水艦なのである。ドイツのUボートは第一次大戦以来1千5百隻足らずが建造され、849隻が没し、残った多くは第二次大戦終了時に連合軍に拿捕された。ナチスドイツのUボートは世界の海を股にかけ、主任務である通商破壊作戦に従事して敵国商船およそ3千隻を撃沈した。撃沈した軍艦は空母2隻・戦艦2隻と微々たるものでしかなく、ナチスドイツが持った戦争というものへの見識を象徴的に示しているようだ。
Uボートは世界中の海を巡ったが、太平洋の海に潜ったのはU−862ただ一隻で、この艦はナチスドイツの敗戦時にシンガポール基地にあったため日本軍に接収され、伊号第502潜水艦として第1南遣艦隊に編入された。Uボートが行った作戦行動は北海〜大西洋〜インド洋そしてオーストラリアからニュージーランドの海域が主体で、そのための基地を日本軍が占領したマレー半島、シンガポール、蘭印に置いた。蘭印ではアチェのサバン(Sabang)港を擁するウェー島(Pulau Weh)とバタビア。この南方Uボート艦隊は56隻ほどから成っており、ドイツ側はこのナチスドイツ海軍東洋派遣艦隊を「グルッペモンズン(モンスーン戦隊)」と命名した。
最初、ドイツ海軍がインド洋での戦闘行動を目的にしてマレー半島のペナンに派遣したのは、IXD2型のU−177、U−196、U−198、U−852、U−859、U−860、U861、U−863、U−871、IXC型のU−510、U−537、U−843、VIIF型のU−1059、U−1062で、更にU−862が加わったが、この艦は後にバタビアに移る。U−195やU−219がバタビアを基地にしてからペナンやサバンにいた艦もバタビアへ移動するようになり、バタビアにあった日本海軍潜水艦がスラバヤへ移るというハプニングも起こった。グルッペモンズンの中で一番優れた戦果をあげたのはU−862だったようだ。

グルッペモンズンはヒトラーの肝いりだった。その陰にヴァルター・ヘーヴェルなる人物が登場する。ヘーヴェルは1926年にイギリスのプランテーション企業に就職して蘭印に赴いた。1933年ナチス党員になり、35年にはナチス党バンドン支部長に就任。36年に蘭印を去ってドイツに帰国し、ナチス党外交部極東局のオランダ領東インド課長となる。1938年にはドイツ外務省の総統官邸常駐連絡官になり、ヒトラーの身辺に勤務してその知遇を得た。かれは日記を他人に読まれることを嫌い、インドネシア語で書いていたそうだ。
かれはケルンでカカオ工場を経営する父母の一人息子として生まれたが、この一家はジャワにカカオ農園を持っていたことがあり、ヴァルターは蘭印に深い関心を抱き、蘭印に関する広範な知識と情報をヒトラーにインプットしたようだ。だからヒトラーも蘭印の持つ有益性を十分に理解していたと言えよう。
グルッペモンズン艦隊の任務のひとつに、蘭印で採れるタングステン、ゴム、キニーネなどの物資をドイツに運ぶことも含まれていた。タングステンは軍事用装甲鋼板に使われるもので、ドイツ軍戦車部隊の戦闘能力を支える秘密のひとつでもあった。

Uボートはまた、インド独立運動の志士、スバス・チャンドラ・ボースをドイツから日本に密かに運ぶためにも使われた。チャンドラ・ボースは第二次世界大戦が勃発すると1941年にインドを脱出してアフガニスタン経由ソ連に向かい、スターリンにインド独立への支援を要請したが断られた。かれは仕方なくナチス政権下のドイツへ亡命する。ヒトラーやムッソリーニにもインドの独立は時期尚早だとして支援を拒否されたが、日本の対英開戦のニュースを聞き、日本に支援を求めようと考えた。ドイツから日本へのかれの身柄を運ぶためにU−180がフランス大西洋岸のブレストを出航し、喜望峰の南を回って蘭印に達し、かれを上陸させた。蘭印で日本からの迎えを待つ間、かれはインドネシアの民族主義者たちと親交を結んでいる。伊号第二九潜水艦が蘭印からかれを東京に運んだ。

ドイツと日本を結んで両国の潜水艦が相互に相手国を訪問することも行われたが、資料や物品の交換を行う中で、ナチスドイツからは日本にメッサーシュミットMe262の資料とエンジン実物が寄贈された。しかしサンプルのエンジン実物を運ぶ潜水艦は撃沈されたり、終戦になったりして結局日本には届かないまま終わってしまった。それでも日本海軍は届いた資料と情報をもとに、日本初の純国産ジェット戦闘機「橘花(きっか)」を作り上げ、橘花は終戦間近い日本の空を駆けた。またUボートそのものも二隻日本に寄贈されている。
ナチスドイツと大日本帝国が同盟関係に入ったとき、ドイツ側は日本との海軍共同作戦を強く希望した。日本占領下の東南アジア各地にグルッペモンズンが基地を設けたのはその一環だ。隊員は軍務がオフになると、基地周辺に用意された優雅な施設で余暇を愉しんだらしい。グルッペモンズンの基地になったのは日本軍が占領した地域にイギリスとオランダが作っていた軍港で、それらの国の海軍軍人が植民地で軍務に就く際に使われていた贅沢な施設を伴っていた。しかしナチスドイツ海軍軍人であるグルッペモンズン隊員は戦争というものが繰り広げた災禍の嵐に翻弄されて、悲惨な運命をたどることになる。南の島の楽園にUボート艦隊乗組員たちが見たものは何だったのだろうか?
ナチスドイツが本国を占領したことで蘭印政庁が隔離キャンプに収容したドイツ人たちを、日本軍の侵攻を前にして危機感の盛り上がってきた蘭印からより安全な国に移すための動きが進められたものの、電撃的な日本軍の蘭印攻略のためにその動きは半ばにして幕引きとなり、キャンプに残されたドイツ人は日本軍によって解放され、日本軍に捕らえられたオランダ人や連合国人がドイツ人と交代し入れ代わった。同盟国ドイツ人は日本軍政の敷かれた蘭印の地で復権し、軍事体制の中で枢軸国の戦争に協力していくことになる。


ジャカルタ〜ボゴールとチアンジュル〜バンドンの間に高い山が立ちはだかっている。海抜3,019メートルのパンラゴ山(Gunung Pangrango)、海抜2,958メートルのグデ山(Gunung Gede)を主峰とするグデ・パンラゴ山系がそれであり、パンラゴ山のボゴール側山麓は1900年代に入ってから茶農園が盛んに作られるようになった。1905年に蘭印政庁が非オランダ系ヨーロッパ人に蘭印への資本投資を開放したことがその背景にある。その投資の波に乗って、ドイツ人兄弟がチコポ(Cikopo)村に9百ヘクタールの土地を入手し、1912年から茶農園事業を開始した。農園には茶葉加工工場が備えられ、製品がどんどん輸出されてこの投資は大いに当たったようだ。その証拠に茶畑から工場に摘葉を送るロープウエーが敷設され、また海抜9百メートルの敷地内に豪華な別荘が建てられている。
投資し自ら経営を行ったのはエミールとテオドルのヘルフェリッヒ兄弟で、かれらはドイツ帝国最後の副首相カルル・ヘルフェリッヒの実の息子たちだった。かれらは在蘭印の愛国的ドイツ人の間で著名人となり、1926年にはドイツ巡洋艦ハンブルグがタンジュンプリウッ港を訪れた際にドイツ海軍を賞賛する高さ4メートルもの記念碑をチコポのアルチャドマス部落エリアに建立した。その記念碑の左右には仏像とガネシャ像が置かれて、地元民の抱くであろう違和感を和らげようとする配慮が感じられる。兄弟は1928年にドイツに帰国し、農園経営はかれらの信頼するアルベルト・ヴェーリングに委ねられた。ヴェーリングはニューギニアで茶農園経営の経験を豊富に持つドイツ人で、チコポの茶農園経営はこうして二代目を迎えたあとも順調に維持された。
ところがそれから十数年経過した5月のある日から、ドイツ人は蘭印政庁の敵国人となって続々と収容所に送り込まれる運命を迎える。その動きから逃れるすべもなく、ヴェーリングも捕らえられてニアスの収容所に送られ、ドイツ資本の茶農園は蘭印政庁に接収された。

ところが日本軍がドイツ人たちの解放者として蘭印にやってきたのである。1943年には日本軍政部とナチスドイツ蘭印駐在司令官ヘルマン・カンデラー少佐の間でドイツ人の身分保証が合意された。ヴェーリングはチコポの茶農園に帰って以前の暮らしに戻ったが、グルッペモンズンとの深い関係がそれから開始されることになる。
チコポ農園はUボート艦隊乗組員たちにとっての避暑行楽地となるとともに、潜水艦の作戦行動中の糧食となる牛肉・豚肉・鶏肉・ジャガイモ・野菜などの豊富な供給源となったのである。こうしてチコポ農園はかれらの間でUボート牧場という愛称で呼ばれることになった。
しかし1945年5月8日、事態は急転する。ドイツの敗戦によって、ドイツ海軍Uボート艦隊を指揮するUボート艦隊司令長官カール・デーニッツ提督は世界の海で転戦中のすべてのUボートに対し、戦闘をやめて艦を連合軍に引き渡すよう命じる指令を発した。それに驚いたのは日本海軍も同じで、東南アジア諸港で停泊中のUボートがみすみす連合軍の兵力を増強するのに使われるのを放置できるはずもない。その混乱の中で伊号第502潜水艦が誕生したわけだが、蘭印駐留日本海軍もこの問題の対応に心を砕いた。前田少将はヘルマン・カンデラー少佐にグルッペモンズンを日本海軍に転入させようと働きかけるが、祖国の敗戦の報にかれらは戦意を喪失していたため、日本軍人となって戦争を続けることをかれらは拒否した。かといってかれらは自分の身の振り方に関して惑乱してもおり、U−129艦長ビュルグハーゲン少佐を担いだかれらは武器や車両を持ってUボート牧場へと逃れたのである。かれらは軍服を脱ぎ、牧場にこもった。U−ボートはすべて係留されたまま放棄された。


1945年8月15日、日本が降伏した。蘭印の移譲を受けるために上陸してきたイギリス軍は、それから約一ヵ月後にチコポ農園のドイツ人が軍人である可能性に関する情報をつかんでいた。9月にグルカ兵部隊がチコポ農園を急襲してドイツ人をボゴールに移送した。武器を隠していたとはいえ、元ドイツ兵たちは取り立てて抵抗を示さなかったらしい。イギリス軍はドイツ兵に対して軍服の着用と武装を命じ、かれらを日本軍が抑留キャンプに入れていたオランダ人の解放に協力させた。独立闘争に入ったインドネシア人ゲリラからオランダ人を保護するためにドイツ人が協力させられた形になったわけだ。

1946年1月半ば、蘭印での終戦処理を行っていたイギリス軍はふたたび蘭印の支配を継続しようとして戻ってきたNICA(蘭印文民政府)にドイツ兵を引き渡した。記録によれば、引き渡されたドイツ兵は260人にのぼる。NICAはジャカルタ湾に浮かぶプラウスリブ諸島のひとつ、オンルスト(Onrust)島にドイツ兵を抑留した。
きわめて劣悪なオンルスト島の生活環境のため、デング熱・マラリア・飢餓などで抑留兵はばたばたと死亡していった。かれらは生を求めてオンルスト島からの逃亡を企て、大勢が警備兵の銃弾で生を奪われた。しかしそれに成功した者がふたりあったことが知られている。U−219乗組員だったヴェルナーとロシェだ。かれらはNICAに対する独立闘争を戦っているインドネシア人ゲリラに加わって銃を取った。ロシェは兵器を組み立てているときに爆発事故で死亡した。
オンルスト島のドイツ兵抑留所の実態が1946年7月、スイス赤十字の知るところとなり、NICAに対する非難が燃え上がった。ドイツ兵たちは1946年10月28日に抑留所から解放されてバタビアに移され、その年12月にボンベイ〜ロッテルダムを経由してハンブルグに送り届けられた。軍人でなかったアルベルト・ヴェーリングはそのまま釈放されたが、軍人たちはふたたび戦争捕虜としての取扱いを受けることになった。

Uボート牧場と呼ばれたチコポ農園は1949年オランダに接収された。しかしその農園会社がオランダ資本に変わったあとの1957年にインドネシア政府のオランダ企業接収方針が開始される。チコポからもっと上のプンチャッに近いあたりにあったグヌンマス農園と南チコポの茶農園は1958年に西ジャワ統一新国有農園会社がその経営を掌握し、その後の変転を経たあと国有会社第8ヌサンタラ農園会社(PT Perkebunan Nusantara VIII)として今日に至っている。


元チコポ農園地所内のアルチャドマス(Arca Domas)部落にはエミールとテオドルのヘルフェリッヒ兄弟が建てたドイツ海軍を賞賛する高さ4メートルの記念碑が今も残されている。そしてその記念碑が見下ろす地上に10の墓碑が並んでいる。フォーメイと呼ばれる、ナチスドイツが鉄十字として使った先広がりの十字をかたどった純白の墓碑には、その下に眠るナチスドイツ海軍軍人たちの生涯が刻み込まれている。
フリードリッヒ・スタインフェルド大尉、U−195司令官。1945年9月30日スラバヤで死去。享年31歳。連合軍の捕囚下に下痢と栄養不良でかれは生命を落としたと元部下が物語っている。
エデュアルド・オーネン、木工技師。1945年4月15日に39歳で死去。
ヴィリー・シュリュンマー中尉とヴィルヘルム・イェンス技術大尉。両名は1945年10月12日にボゴールでインドネシア人ゲリラの襲撃を受けて死亡。オランダ人を襲撃していたインドネシア人たちはどうやらふたりをオランダ人と誤認したにちがいない。
W.マルテンス大尉。1945年9月10日、バタビアからボゴールへ列車で移動中に生命を失う。
ヴィリー・ペツホウ伍長。1945年9月29日、チコポ農園で病気のため死去。享年33歳。
ヘルマン・タンゲルマン大尉。1945年8月23日、事故のために死亡。享年35歳。
H.ハアケ医師。1944年11月30日、U−196乗船中に西ジャワ州スカブミ沿岸で乗艦が機雷に触れて爆発。享年30歳。
もうふたつの墓は情報が何もない。元の木の墓標から鉄十字墓標に作り変えたとき、木の墓標に記された記載がまったく判読不能だったからだ。

およそ250平米のこのこじんまりした墓地は、ボゴール県メガムンドゥン(Megamendung)郡スカレスミ(Sukaresmi)村アルチャドマス(Arca Domas)部落にある。アルチャドマスとはサンスクリット語で8百の彫像を意味している。古代パクアン(Pakuan)王国の遺物である彫像がたくさんこのあたりで見つかっていることに由来しているようだ。
地元に住む70歳の老婆「エマ婆さん」がこの墓守を委託されており、ドイツ大使館から半年ごとに4百万ルピアが報酬として支給されている。ドイツ大使館がその墓地の管理を行うようになったのは1980年代で、それ以前はチコポ農園を吸収したグヌンマス農園の管理下に置かれており、当時墓守をしていたのはエマ婆さんの父親だった、とかの女は述べている。
この墓地に眠っているほとんどの者が戦争が終わったあとに命を落としている事実は、われわれにいったい何を教えているのだろうか?