インドネシア行楽旅行情報2007〜09年


「国民の国内観光旅行は右肩上がり」(2007年1月5日)
2006年の国内観光客旅行状況を文化観光省が公表した。それによれば1億1,439万人が延べ2億1,650回の旅行を行って78.7兆ルピアを支出したとのこと。これは2005年実績である1億1,270万人が2億1,330万回の旅行をして77.5兆ルピアを支出したという数字を上回っている。一方外国人観光客は1月〜10月間で390万人を数え、今年年末までには470万人に達すると推測されており、こちらも昨年実績の420万人を上回ると文化観光省は見込んでいる。しかしこのセクターの外貨収入は43.7億ドルで2005年の45億ドルを下回りそう。


「ウオーターアドベンチャー」
タングラン(Tangerang)のブミスルポンダマイ(Bumi Serpong Damai)通称BSDシティのセントラルビジネス地区に2006年12月9日にオープンしたオーシャンパーク・ウオーターアドベンチャーは子供たちを水に親しませるのにもってこいの場所。8.5Haの広大な敷地に作られたこのウオーターパークは子供たちのイメージを刺激しながら水に親しませるという個性的な楽しみを提供している。もちろん多くの施設はアンチョルベイシティ(Ancol Bay City)をはじめさまざまなウオーターパークと大同小異と言うこともできるが、インドネシアではじめてという設備も揃えられている。たとえばパシフィックウエーブと命名された大型ブールでは一時間ごとに15分間、高さ30センチから150センチという波にもまれる体験を味あわせてくれる。波発生装置はカナダから輸入されたものだ。
一時に4千人を収容できるこのウオーターパークは2歳から12歳までの小児向けエリアと非小児向けのエリアに大別されており、小児向けエリアには三つのプール、そして非小児向けはアドベンチャープールが用意されている。アドベンチャープールには11メートルの高さかららせん状に滑り降りてくる全長126メートルのスパイラルスライド、長さ56メートルのレーススライドを筆頭に随所に滑り台が備えられているが、大型スライドの利用には年齢12歳以上身長120センチ以上という制限が設けられている。全長1.5キロの水路ではゆったりと水が流れており、レイジーリバーと名付けられた水流に乗って大型浮き輪で川下りとしゃれこむこともできる。波でもみくちゃにされるパシフィックウエーブもアドベンチャープールの一部だ。
6立方メーターの水がたまるとその水を滑り台の上でぶちまける巨大バケツや、沈没した海賊船を模したトンネルの中を通り抜ける探検ルートなど子供のイメージを刺激してお楽しみを倍加させる趣向も取り入れられている。またパーク内の保安と入場客の安全を監視するために40人ほどがライフガードとして要所要所に配備されている。終日水に浸かって入場客を飽きさせないこのウオーターパークは月曜から金曜まで11時から19時までのオープンで入場料は2万5千ルピア、土日と祝日は7時から19時までで入場料は4万ルピア。ロッカー使用料は5千ルピアだがコイン式になっており、一度開くと再びロックするのにまたコインを入れなければならない。大型浮き輪を借りるのはひとつ1万ルピア。入場客は外から飲食物を持ち込むことができず、飲食はパーク内の売店やレストランを利用しなければならない。ただしパーク内で現金を携帯する必要はなく、入場客は必要に応じてペイカードを購入してパーク内での支払に使う。このペイカードは残高の払い戻しが可能だし、また自宅に持ち帰って次回遊びに来たときに使うこともできる。とはいえ有効期限は3ヶ月間なので、焦げ付かせないようにご用心。
巨大タコ愛称グルグル(Gurgur)をシンボルとするこのウオーターパークでは百人を収容できるパーティ会場もウオーターエリアの外に設けられているので、お子様の誕生パーティなどに利用できます、と同パークを運営するシナルマスデベロッパー&リアルエステート側は宣伝している。2007年3月にはみやげ物売店などを備えたオーシャンプラザがオープンする。2006年のクリスマスホリデーには一日で8千人の入場客がパーク内を埋めた。BSDシティへは有料自動車道でジャボデタベッ一円からの連絡が向上しており、BSD住民だけでなく首都圏にお住まいの皆さんはぜひ一度お越しください、と同パーク側は呼びかけている。お問い合わせは電話021−5370009まで。[ 2007年1月 ]


「車椅子乗客の不幸」(2007年1月15日)
2006年12月16日付けコンパス紙への投書"Fasilitas Bandara untuk Pengguna Kursi Roda"から
拝啓、編集部殿。2006年11月15日、わたしと夫と子供は一家でバリに旅行しました。わたしは身体が弱いので車椅子で飛行機に向かわなければなりません。国内民間航空会社のその飛行機は、航空会社の費用が嵩むからという理由でターミナルから離れた場所に止まっており、ボーディングブリッジを通って機内に入るようなわけにはいきません。結局夫はわたしを抱えて階段を昇り、機内に入りました。バリのグラライ空港でも同じことが繰り返されました。わたしの車椅子を押してくれた空港職員が言うには、空港管理会社は車椅子の乗客を機内に入れるための昇降機を持っていないとのことでした。ケータリング会社が使っている、機体の高さまでコンテナを持ち上げることのできるあの車輌のことです。
何年か前に国内航空会社でスマランへ行ったときのことをまだ覚えています。インドネシアでボーディングブリッジを通らないで飛行機に乗った最初の体験がそれでした。空港職員は先に機内に入るわたしに夫が付き添うことを許しません。それでわたしは航空会社の職員ふたりに付き添われて飛行機に向かいました。飛行機の乗降階段の下までくると男性乗務員がふたりそこにいました。わたしを機内に運ぶための器材も存在しないことがわかりました。そこで何が起こったかというと、乗務員のひとりはわたしの左右の足首をつかみ、もうひとりは後ろからわたしの腋の下に手を入れ、そんな態勢で機内への階段を上がっていったのです。
あれ以来、飛行機に乗るときわたしはいつも夫と一緒に先に機内に入るようにしています。外国では必ずボーディングブリッジが装備されているので、そのような体験をしたことは一度もありません。オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカのどの町に行ってもわたしは快適に旅行することができました。どんなに小さな田舎の町へ行っても、飛行場がジョクジャのアディスチプト空港くらい小さくてボーディングブリッジが装備されていなくてもです。どこへ行こうとも、人力で担ぎ上げられるようなことは一度もありませんでした。インドネシア以外の飛行場はどこも、車椅子の乗客を機内に入れるための特別コンテナ昇降機を用意していて乗客が不愉快な目にあうことはまずありません。
みずから国際空港だと名乗る飛行場が持っていなければならない設備に関する国際規定はないのでしょうか?障害を持つ乗客の安全に関する規定はないのでしょうか?わたしは身長155センチ体重45キロの身体ですので、インドネシアの標準的体格の男性ならわたしを容易に抱え上げることができますが、それは偶然だと考えてもらわなければなりません。[ 南ジャカルタ市在住、ニルマ・ユリアンシャ ]


「ガルーダに乗った母が失踪」(2007年1月16日)
2006年12月30日付けコンパス紙への投書"Garuda Membuat Kami Panik"から
拝啓、編集部殿。一週間スラバヤの親族を訪問に行った64歳の母が12月10日ガルーダGA321便でジャカルタへ戻ってくることになりました。母をスラバヤのジュアンダ空港に送っていった親戚からの連絡では、母は14時ごろにチェックインしてひとりで待合室に入って行ったそうです。GA321便のスカルノハッタ空港到着予定は16時15分でした。
母の出迎えにスカルノハッタ空港へ出発する前に、わたしどもはGA321便は遅れていないかどうかを空港に問い合わせてみました。空港もガルーダ航空事務所もフライトは予定通りだと返事しましたので、わたしどもは家を出て16時ごろにスカルノハッタ空港に到着しました。ところがターミナルビルのモニターを見たところ、GA321便は遅れていて17時13分の到着予定となっているではありませんか。わたしどもはしかたなくその時間まで空港で待つことにしました。そしてGA321便が到着しバゲージピックアップの外で母が出てくるのを待ちましたが、GA321便の乗客がみんないなくなったというのに母の姿が見当たりません。ガルーダ職員に、乗客はもうみんな出たのか、あるいはまだバゲージが残っていないか、と尋ねましたが「乗客はひとりも残っていない」という返事です。ひょっとして互いに見逃してすれ違いになったかも、と思ってターミナルビル出口周辺まで探してみましたが、母の姿はどこにもありません。事情を話して夫がターミナルの中まで捜しに行くことを許可してもらいましたが、それも無駄足でした。
二階のガルーダ空港オフィスを訪れて本当にGA321便に乗ったかどうかをチェックしてもらったところ、母の名前が確かに乗客名簿の中にあり、座席は11A番でバゲージは16.2キロ、ジャカルタ到着は17時6分というデータになっています。わたしどもは心配でパニックに陥りスラバヤの親戚に電話を入れましたが、母は確かにGA321便にチェックインしておりまたジュアンダ空港からは何の連絡もないというのがスラバヤでの状況でした。わたしどもはふたたびガルーダオフィスを訪れました。するとガルーダ職員は次のガルーダ便を待ちなさい、と言います。多分それに乗っているんじゃないか、と。
次のガルーダ便、GA323は18時45分に着きましたがそれにも母は乗っていません。わたしどもはガルーダ職員に頼んでジュアンダ空港に問い合わせてもらいました。するとどうでしょう、母はその後のGA325便に乗っておりジャカルタ着は19時5分だというのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?チェックインのときにオンラインで乗客のデータがインプットされており、明らかに母はその便に乗ったことが示されているにもかかわらず、本人はいないのですから。ジャカルタのガルーダ職員はその疑問に答えず、よくわからない理由で乗客を移し替えるのはスラバヤが一番多い、とコメントしました。
19時15分、母の姿がバゲージピックアップ場所からやっと現れました。母に事情を尋ねたところ、こんなことがあったそうです。母はチェックインしたあと14時50分になっても搭乗案内がないのでガルーダのカウンターに尋ねに行くと、GA321便は故障しており、その修理が終われば17時に出発すると言われたそうです。事実はGA321便がジャカルタに17時過ぎに到着しているので、その説明は明らかに嘘です。ガルーダ航空はどうしてそのような嘘をついたのでしょうか。3時間の間ジャカルタとスラバヤで母の親族がパニック状態に陥っていたのに、ガルーダからは明確な説明が何一つありません。インドネシアのトップ航空会社であるガルーダの職業意識はいったいどこに置かれているのですか?[ ジャカルタ在住、ユリアニ ]


「2007年の観光客誘致目標は550万人」(2007年1月17日)
2006年インドネシアへの外国人入国者数はほぼ480万人で2005年実績の5百万人から4.1%減少した。外国人観光客はインドネシアに43.8億ドルを落としたと見込まれ、これは2005年実績の45.2億ドルから3%のダウン。ジェロ・ワチッ文化観光相は2006年のその結果について、国内で起こった爆弾テロ事件、地震災害および鳥フルが影響を与えたと見ている。当初は観光客誘致のメイン市場と考えられていたオーストラリアと中国が目標を下回る結果をもたらしたのに対し、ほかの国からの観光客が目標を上回る実績をあげている。2007年の外国人観光客誘致目標は525万から550万の範囲に置き、主要入国ポイントもバリ、ジャカルタ、バタムというこれまでと同じ位置付けを継続する予定。国別シェアはシンガポール・日本・台湾・マレーシア・ドイツ・オーストラリア・イギリス・オランダ・韓国でマジョリティが占められると見込んでおり、インド・中国・中東に対して誘致を積極的に図ろうと計画している。


「ベルーガがやってきた」(2007年1月18日)
シロクジラあるいはシロイルカと呼ばれているベルーガが12月17日に北ジャカルタのアンチョルベイシティにやってきた。ウクライナから送られてきた二頭のベルーガはどちらもメスでまだ6〜7歳という若さ。体長4メートル体重6百キロという巨体をグランガンサムドラのプールに浮かべている。ベルーガは白を意味するロシア語のビエルーカに由来しているそうだ。若いベルーガは皮膚の色が灰色だが、年を経るにつれて白くなっていく。ベルーガの寿命は30〜40年で、年経た者は全身が真っ白。
生えびや冷凍エビが大好物というベルーガは今後数十年間にわたってグランガンサムドラでいろいろな芸を見せてくれるにちがいない。


「ラグナン動物園のシュマッツァー霊長類センター」(2007年1月22日)
ジャカルタの南部にあるラグナン動物園は広い。総面積140Haのそのラグナン動物園の中にシュマッツァー霊長類センターがある。この霊長類センターはシュマッツァー女史とギボン財団によって2002年に開設され、2006年5月にその運営が首都に移管された。13Haの広さを持つこのセンターには、ゴリラ、オランウタン、ジャワテナガザル、 スマトラ産オナガザル、ルトゥン、クロザル、ワウワウテナガザル、シアマンなど2百種の霊長類が飼育されている。このセンターにいるゴリラはインドネシア生まれで、イギリスで大きくなってからインドネシアに里帰りしたそうだ。
同センターの開場時間は8時から17時までで、そこではさまざまな霊長類を観察することができる。このセンターはラグナン動物園の中にあるとはいえ、そこへ入場するのにまた切符を買わなければならない。ラグナン動物園の入園料はおとな4千ルピア子供3千ルピアプラス保険料3百ルピアとなっているが、センターに入りたい人はさらに5千ルピアを払わなければならないのだ。飲食物は一切持ち込み禁止で、入場するときには入口で持っている飲食品を預けなければならない。途中で喉が渇いたら・・・とご心配の向きには、センター内であちらこちらに飲料水が出る水飲み場が用意されていてその水はそのまま飲んでも問題ないそうだ。またベンチも至るところに置かれており、疲れを癒すのはむつかしくない。途中でおなかがすいたら・・・とご心配の向きには、プアサをしていただくしかなさそうだ。


「プラネタリウム」(2007年1月25日)
中央ジャカルタ市タマンイスマイルマルズキ通称TIM。農夫の像から東に向かって一方通行のチキニラヤ通りをしばらく走ると左側にティムの入場門が姿をあらわす。ここにはインドネシアで数少ないプラネタリウムと天文台がある。インドネシアで一番古いこのプラネタリウムは1964年9月9日にスカルノ大統領の肝いりで建設され、1969年3月1日に都庁に移管されて一般公開がはじまった。ここの天文台には天体望遠鏡が3基あり、プラネタリウムの運営に必要な観測を自ら行っている。二番目に作られたのはスラバヤの海軍アカデミーのプラネタリウムで、ここも一般公開されている。そして一番新しいのが東カリマンタン州クタイクルタヌガラ県テンガロン市に2003年4月にオープンしたプラネタリウム。インドネシアにプラネタリウムはこの三つしかない。
ジャカルタのプラネタリウムでは火曜日から金曜日まで毎日16時半から一日一回ショーが行われ、土日は午前10時半から一時間のショーが5回催される。大人7千ルピア子供3千5百ルピアの入場券は当日その場で購入できるが、350席のシートが満席になれば入場できない。切符の販売は開演の30分前から。ホール内での飲食は一切禁止。ホールに入って明かりが消され、ショーがはじまると興奮もいや増す。西の空に太陽が沈み、ジャカルタの空にあるはずの天体が徐々に直径22メートルのドームに映し出されて行く。日本とは異なる南半球の夜空は見る者を飽きさせない。残念ながらショーのナレーションはインドネシア語だけだが、現実には見えない星空を眺めているだけでも夢見ごこちに陥りそう。


「ジャカルタでアイススケート」(2007年1月29日)
ジャカルタで唯一アイススケートリンクを備えているのが西ジャカルタ市スリピ地区にあるモールタマンアングレッ。Taman Anggrek というのは蘭園を意味しており、昔はそこに文字通り蘭園があった。その蘭園はいまやタマンミニに移され、その跡地にモールとコンドミニアムのセットが建設された。
7階建てのモールタマンアングレッがオープンしたのは1996年で、床は高価な大理石とタイルが使われて豪華な内装を印象付けている。エントランスの回転ドアも当時としては斬新なものだった。このモールは526軒のテナントスペースを用意し、ワンストップショッピングコンセプトを採用して衣料品、書籍、家具、家庭用品、化粧品、ブライダルから自動車に至るまでありとあらゆるものをこのモール内で購入できるようにしている。ゾーニングシステムが使われて類似の品目を売る店ができるだけ近い場所に集められているため、消費者が店を巡って品比べをするのも楽だ。飲食店は3階と4階に集まっており、ブライダルショップはアッパーグランド、電気製品は3階といったかっこう。衣料品はChic Simple, First Stop Boutique, Simplicity, Mango, The B Club, Zara, Giordano, U2, G2000 などの著名ブティックが看板を並べ、アクセサリー宝飾品ではCoco Jewel, Da Vinci, Paris Jewelery, Aily Diamond Boutique、メガネならLily Kasoem Optical, Prooptik, Optik Seis 、また娯楽ならTime Zone や映画館Anggrek 21 が顧客の来店を待ち受けている。そんな中でSky Rink と名付けられたモールタマンアングレッのアイススケート場はアイススケート愛好家たちで賑わっている。ここではアイススケート教室も開催されている。
平日は4万人、休日は6万人の来店客で賑わうモールタマンアングレッは都内環状有料自動車道路沿いにあって西ジャカルタの主要ショッピングセンターのひとつに位置付けられている。


「ジャヴァジャズフェスティバル2007」(2007年1月30日)
2007年3月2,3,4日に開催が予定されているジャカルタインターナショナルジャヴァジャズフェスティバルの、特別ゲストのショーのための前売り券発売が始まっている。
チャカ・カーンは1月16日〜2月10日が15万ルピア、2月11日〜3月3日が25万ルピア
セルジオ・メンデスは1月16日〜2月10日が15万ルピア、2月11日〜3月2日が25万ルピア
ジェイミー・カラムは1月1日〜1月31日が25万ルピア、2月1日〜10日35万ルピア、2月11日〜20日50万ルピア、2月21日〜2月28日65万ルピア、3月1日〜4日80万ルピア
お求めは下の場所、あるいはオンラインwww.javajazzfestival.comで
Simprug Gallery ticket box
Jalan Teuku Nyak Arief 10 Jakarta
Hotline +62 21 68823102-03


「信じられない!!」(2007年1月31日)
2007年1月2日付けコンパス紙への投書"Arogansi Air Asia"から
拝啓、編集部殿。わたしの子供は2006年9月27日にクアラルンプル〜ジャカルタ〜クアラルンプルというエアエイシアの往復航空券を買いました。クアラルンプル〜ジャカルタは2006年10月20日18時40分のAK956便、ジャカルタ〜クアラルンプルは2006年10月29日11時50分のAK953便で、ブッキングステータスはどちらもOKになっていました。10月19日、わたしの子供はエアーエイシアからSMSの連絡を受取りました。それによれば出発は18時40分から21時20分に延期されたということでした。ところが実際の出発は23時になったのです。
マレーシアへ戻る10月29日が来て、バンドンに住んでいるわたしどもは子供を空港に送るため午前5時にジャカルタに向けて出発しました。スカルノハッタ空港に着いたのは午前8時でしたが、エアエイシアのチェックインカウンターは「クローズド」の表示板が置かれたままです。8時半になってもカウンターが開かれる気配がありません。わたしどもはカウンターの中にいるエアエイシア職員に、AK953便のチェックインはいつ始まるのかと尋ねてみました。そしてその職員が「AK953便は午前8時にもう出発した」とあっさりと言ったのを耳にして本当に驚いてしまいました。11時50分発というスケジュールのフライトが8時にもう出発したなんて、こんなことがありうるのでしょうか?だったら子供がマレーシアに戻るのにどうすればいいのか、とのわたしどもの質問にその職員は再びあっさりと「次の便は15時10分発だがもう満席になっている」と言うのです。わたしどもは責任者にかけあおうとしましたが、責任者はただ黙ってわたしどもを無視するだけで、わたしどもはがっかりさせられました。およそ30分後に職員が「15時10分の便に席がひとつ出たが、これを取るか取らないか?」と聞いてきました。わたしどもが、どうしてこんなことになるのか、と詰問しましたが、その職員は顔色も変えず「エアエイシアはこんな会社なのだ」と罪悪感の一片を示そうともしません。「インドネシア線のフライトはヨーロッパのサマーに従わなければならないのだ」とその職員は言うのですが、ヨーロッパのどの国のサマーがインドネシア線のフライトにどう関わっているのか、言っていることがまるで不可解です。
結局15時10分のフライトを使うことにしましたが、バゲージだけでも先にチェックインさせてほしいとわたしどもが希望したのに対して13時までチェックインはできないと拒否されました。そして最終的に15時10分発となっていたAK955便がスカルノハッタ空港を出発したのは17時50分でした。今回の出来事にわたしどもはたいへん大きい不満を感じました。国際航空会社であるエアエイシアはまったくプロフェッショナルではありません。運輸通信省はいったい何を監督しているのでしょうか?[ バンドン在住、ユリア夫人 ]


「ジャジャンジャズ」(2007年2月1日)
タングランのBSDシティにタマンジャジャン(Taman Jajan)というカキリマ(kaki lima)零細商人たちのためのビジネスエリアが設けられている。ジャジャンとは外で買い食いすることを意味する言葉で、その名の通りそこには飲食品を販売するカキリマ屋台が集まっている。そんな場所を利用する低階層庶民にジャズを楽しんでもらおうとジャズ愛好者が生演奏を始めた。BSDに住むユヌス・アリフィンが友人のジャズミュージシャンを誘って2006年3月に立ち上げたのがそのジャジャンジャズ。発起人となったのはドラマーのタウフィッ・シス、ギタリストのモルガン、ベーシストのジェフリー・タハレレ、ドラム制作者のハリ・ムクティら。かれらは毎月最初の木曜日の夜をジャジャンジャズの日と決めた。木曜日の夜というのはジャワでmalam Jumat と呼ばれ、その夜は悪霊が徘徊すると信じられている。
最初のはじまりからハイブラウな音楽というステータスで導入されたインドネシアのジャズは高級ホテルのラウンジや一流レストランでワインやステーキの添え物にされるのが似合うイメージが一般に定着しているが、ジャズというものは本来そんなものではなかったはずと歴史の源にさかのぼり、下層庶民がカキリマで甘いテパナス(teh panas)をすすりこってりしたロティバカル(roti bakar)に食らいつくときのツマにしてもらおうと反逆精神をふりかざした発起人たちが選んだ公演日はやはり反逆精神に満ちたものだったようだ。ジャジャンジャズのステージに上がってもギャラはない。これはビジネスではなく、社会活動なのだ。ジャズアーチストがジャズを社会に植え付けるための、自分の存在をかけた仕事なのである。
ジャジャンジャズの場所と雰囲気がジャズに関心を持つ若い音楽家に気安さを与えた。かれらは物怖じしないで人前でジャズをプレーする機会をそこに見出したのだ。こうして若いジャズミュージシャンの登竜門という位置付けに置かれたジャジャンジャズは、人前で発表する機会の少なかった若者たちにジャズをプレーする自信を与えることになった。シニアミュージシャンたちもこのジャジャンジャズに賛同した。アバディ・ススマンやベニー・ムストファたちがその登竜門としての機能を高く評価した。「若者たちにはポジティブな活動の機会を与えてやらなければならない。そうしなければかれらはネガティブな行動に溺れて行く。ジャズグループのバンド活動はとてもポジティブなものだ。」ベニーはそうコメントする。
ジャズ演奏が終わるとひとりの少女がアバディ・ススマンに近寄って話し掛けた。アバディがうなずき、少女はマイクを握る。一介の素人が自分の才能を示してみたい。シニアジャズミュージシャンがそれをサポートする。そんなシーンはジャジャンジャズでしか起こりえない。一年近く続けられてきたジャジャンジャズから数十人の若いミュージシャンやバンドが世に出た。関係者たちはこの活動が継続し、ジャズ音楽が一般庶民の生活に密着したものとして定着することを期待している。


「セイル・インドネシア」(2007年2月2日)
今年も7月22日から10月22日までセイル・インドネシア(Sail Indonesia)が開催される。2001年に第一回のステップストーンを敷いたヨット愛好者の国際クルージングラリーはオーストラリアのダーウィンを出発地としてインドネシアへはクパンから入国し、アロル、レンバタ、リウン、マカッサル、バリ、カリムンジャワ、クマイなどに泊まりながらバタムに向かい、バタムでインドネシア海域から去っていく。大自然がそのままの形で残された美しい景観の中で参加者たちは心行くまで操艇技術を競いながらクルージングを楽しむことができる。
2006年は22カ国から330人が100隻のヨットで参加し、インドネシアの僻地を訪れて経済振興に貢献した。今年は3月から受付を開始するというのに、早くも150隻が参加の意思表示をしている。主催者によれば、今年の参加者は120隻4百人に絞る予定にしている。


「ムカルサリ果樹パーク」
ジャカルタからボゴール・チアウィ(Bogor-Ciawi)方面にジャゴラウィ(Jagorawi)自動車専用道路を南下するとほどなくチブブル(Cibubur)ゲートに達する。そこを出てからチルンシ(Cileungsi)方面に向かい、チルンシフライオーバーをくぐってジョンゴル(Jonggol)方面に進むとジョンゴル街道KM3エリアに広大なムカルサル果樹パーク(Taman Buah Mekarsari)が出現する。264Haという広大な敷地に全国津々浦々から集められたありとあらゆる果樹がそこに植えられていて、ここにある44科362種の果樹コレクションは変種を合計すれば1,463にのぼる。きっとインドネシアで最大のものであるにちがいない。ドリアン、マンゴ、パイナップル、ランブタン、マンゴスチン、ブリンビン、ナンカなどをはじめ、一般的なスイカやメロン、そしていまや希少果実であるマトア、サウォケチッ、ガヤム、ブアノナ、クスムッ、ナムナム、クプル、クマン、あるいは世にも珍しいナンカとチュンプダッを交配させたナンカダッという新種まであって果物好きにはこらえられない楽しみだ。
1995年にオープンしたこのムカルサル果樹パークは、首都郊外に散らばるさまざまな行楽施設の中で遅れをとってしまった。もっと行楽客に楽しんでもらえる要素を盛り込まなければならなかったのだ。果樹に興味を持ち、果実の知識を、そして味覚を楽しむためにそこまでやってくるひとは少なかったのである。こうして営業方針を修正した同パークの運営者PT Mekar Unggul Sari 社はムカルサル観光パーク(Taman Wisata Mukarsari)コンセプトを打ち出した。ファミリーで楽しめる場所にしなければほかの行楽施設に負けてしまう。いまやさまざまな施設や催しもので盛りたくさんとなったこの果樹パークはかなりの集客レベルに回復している。
入場券はおとなひとり1万ルピア、子供は9千ルピア。広大なパーク内を巡る周遊バスに乗るのはひとり3千ルピアだが、お好みの場所で一度下りても次にやってくる車に乗るときはもう乗車賃を支払わなくて良い。パーク内では種別にわけてあちらこちらに果樹林が設けられており、果実の採り入れどきともなれば来園者が手ずから実をもいで味わうこともできる。ただしそれは有料になっているので、別に料金を支払わなければならない。もし採り入れシーズンを過ぎてしまった場合は樹になっている実をもぐことはできないが、パーク内インフォメーションセンター館周辺の売店でパーク産果実を買うこともできる。
果樹に飽きたらファミリーパーク。ここには小さいお子様向けのミニ動物園や遊び場があり、また馬にも乗せてくれる。子供を遊ばせておいてお母さんは野菜園で採り入れ、お父さんは釣堀で魚釣りという趣向も可能。野菜園は入園料が3千ルピア、釣堀は釣り道具の使用料と餌に6千ルピアを払う。いずれも獲れた獲物は重さに応じての買取となる。
青少年向け教育プログラムも実施されている。子供たちはポリバッグに入った苗を植木鉢に移し替える正しい方法を教えてもらう。その植木鉢は自宅に持ち帰って毎日水をやるように約束させられる。植物の成長を見守りながら毎日世話をする責任感と規律を子供たちに植え付け、同時に自然を愛好する感受性を養ってもらおうというアイデアだ。このキッズファーマーと名付けられたプログラムは火曜日から金曜日まで最小催行人数4人で開かれており、参加料金はひとり3万7千ルピアになっている。更に専門的な植物栽培や植物分類、植物生物学などのセミナーや植物ラボ見学といった教育コースも同パークは行っているが、これは30人以上の参加者を条件にした学校や大学向けのプログラムだ。パーク内にはガーデンセンターもあってお土産に観葉植物・苗・肥料などを買って帰ろうという来園者を待ち受けている。[ 2007年2月 ]


「バタムのナイトスポット業界にかげり」(2007年2月28日)
Maxim Pub, Crown Karaoke & Pub, Dwi Crown Pub, Rio Rita Karaoke & Pub, Apollo Pub, Astronot Pub, Ozon Discothique, Legend Discothique, Sensasi Pub, Indah karaoke, Louis Pub, Coin Center Pub, Crown Discothique, Queen Bees Pub, Bovo Karaoke & Pub, Station Pub, Wisma Bahari III, Hotel Gajah Mada, Hotel Sahid Rashinta, Hotel Bukit Mutiara, Hotel Oasis, Hotel Nan Tongga, Hotel Osaka。
長大なこのリストはかつてバタムの夜を不夜城に変えていたナイトスポットやホテルの名で、ここ数年間に店をたたんでしまったもの。2002年までバタムの夜は明るく華やかに彩られており、週末になればシンガポールやマレーシアからツーリストが、そして地元のエクスパトリエートたちが、島内のナゴヤ、ジョド、バロイ、ウインザー、バタムセンターなどの繁華地区で夜を徹して遊び、翌日は休養を取ってからまた次の週の仕事に備えるというパターンが続けられていた。かれらの多くがパブやディスコに繰り込む前、島内の別の場所でギャンブルに興じるというのが一般的なお遊びコースになっていたのは有名な話だ。清廉なイスラム国を標榜するインドネシアで賭博は禁忌であり、それはバタムでも例外でない。そしてバタム警察が2003年になって賭博の粛清を開始した。それ以来警察の手入れが頻発するようになり、闇賭博は激減してそのあおりがナイトスポットに向かったのである。比較的安い金額で遊べる格好の週末スポットがそれまでのお楽しみを提供できなくなったために、ツーリストが減った。夜の繁華街がさびれ始め、紅灯街の明かりがひとつまたひとつと消えていった。三年ほどの間にナゴヤ地区で10軒、ジョド地区で3軒、バロイ地区5軒、バタムセンターでは1軒。加えてスター級やジャスミン級のホテルも7軒がそれに追随している。
そんな状況に流されないで確固として営業を続けているPacific Discothique, No Name Pub&Cafe, G&G Pub, Tampico Pub といった店もある。その一方で慰安業種の盛衰を示すかのように、繁華地区にスパとマッサージの看板が増えてきた。バロイ地区で2005年に閉店したオゾンディスコティック脇の住民は、盛んなときは夜明けの四時ごろまで賑やかだったが閉店してからこの一帯は寂れてしまった、と語る。「この地区が寂れ始めたら、小屋を建てて不法居住していた連中も賑やかな場所を求めてここから引っ越して行ったよ。」との談。


「ガルーダが国際航路再編を計画」(2007年3月5日)
エミルシャ・サタル、ガルーダインドネシア航空代表取締役は2月22日の国会公聴会で、2007年の会社事業計画の中で損益状況の改善をはかるために大幅な運行計画再編を予定していることを明らかにした。要点は赤字路線の縮小と黒字路線の拡大に尽き、特に国際線運行における赤字線の整理と黒字線の増便が予定されている。従来からのドル箱だった日本とオーストラリアの二航路はバリ第二次爆弾テロ事件の災禍からまだ十分に回復していないものの2007年の乗客輸送目標は253万人と設定されており、これは2006年実績から15%のアップになっている。A330機の使用はリース費とメンテナンス費が高額であるために同社は妥当な経済効果をもっと追求する必要を感じている。2006年にガルーダ航空が運行サービスを行った国際線24ルートのうちで純益黒字は9路線しかなく、他は赤字という結果だった。2005年は29ルートを運行し、黒字は16路線で残りは赤字だった。一方国内線は、2006年の運行ルートは27で21ルートが黒字、2005年は25ルートのうち9路線が黒字という業績だった。
今年の運行計画のポイントはオーストラリア・中国・アセアン域内数都市などの黒字路線で便数を増やすこととインドへの航路を開設することだ、と同代表取締役は説明する。今年ガルーダは新たにボーイング737−800NG型機2機を160万ドルの予算でリースする予定にしており、第三第四四半期にガルーダ航空の編隊が強化されることになる。長期計画の中でガルーダはこのB737−800NGを25機使うことにしている。


「チアルトンの碑」(2007年3月21日)
横幅1.6メートル高さ1.5メートルほどの大きな石には人間の足形が彫られ、パラワ文字で刻まれたサンスクリット語の文章がその脇に添えられている。「ウィスヌ神の足形のようなこのふたつの足形は勇敢にして高名な世界の王者のもの、プルナワルマン、タルマヌガラの支配者」という四行詩がそれ。プルナワルマンは先王ダルヤワルマンの王子で、紀元395年から434年まで在位したタルマヌガラ第3代の王だ。プルナワルマンは王位に就くと、すぐに王都をそれまでのジャヤシガプラ(Jayasingapura)からもっと北の場所に移し、そこをスンダプラ(Sundapura)と名付けた。ジャヤシガプラは今のボゴール県ジャシガ(Jasinga)郡にあたる。
プルナワルマン王の足形が彫られた石はそれが発見された場所の名を冠してチアルトン(Ciaruteun)の碑と呼ばれている。この石は18世紀にチサダネ川の支流チアルトン川の流れの中で見つかった。チタルム川の合流地点から百メートルほど下ったチアルトン川南岸に近い場所だ。この石は1981年までその場所に置かれたままだったが、その年の6月に地上に引き上げられた。8トンもあるその大石はチアルトン川北岸に上がり、今では屋根がかぶせられて雨ざらしは免れている。更に文化遺産であるために番人が置かれて心無いいたずらから守られる態勢がやっと作られたが、時既に遅しというものかもしれない。この貴重な文化遺産は1千数百年の間に愚かな者どもの手でさまざまないたずら書きが彫り込まれており、無残な姿に成り果てている。
チアルトンの碑の番人はバンテン州セランの古代遺跡保存院職員アッマ氏53歳で、公的報酬は月20万ルピアしかなく、見学客からもらうチップがかれの生活を成り立たせているようだ。このチアルトンの碑が置かれている住所はボゴール(Bogor)県チブンブラン(Cibungbulang)郡チアルトンイリル(Ciaruteun Ilir)村ムアラジャヤ(Muara Jaya)部落で、その場所はボゴール市からおよそ20キロほど離れており、ルウィリアン(Leuwiliang)に向かう街道を通れば車でおよそ1時間の距離。ダルマガ(Darmaga)のボゴール農大キャンパスを超えるとチアルトンへの行き先表示がある。右折してチアンペア(Ciampea)市場を超えたあと今度は左折しシンコン畑と果樹園にはさまれた狭い道をひたすら走ると果樹園の合間にこの大石を置いた小屋がある。ちょっとした郊外ドライブの目的地のひとつに選んでも悪くないかもしれない。


「首都圏のトレッカーに朗報」(2007年3月23日)
首都ジャカルタの南部を取り巻くグデ〜パンラゴ山系(Pegunungan Gede-Pangrango)。標高2千数百メートルから3千メートルに達するこの山に分け入って山歩きするひとの数も増えている。そんなトレッキングファンのためのガイドブックが世に出た。インドネシア科学院が3月10日に出版したこのガイドブックは四種類に分かれており、ポケットサイズで地元に関する数多くの情報が盛り込まれ、おまけに約7キロ四方を描いた縮尺1:16,667の付属地図は耐水紙が使われていてトレッカーにとって使いやすいものになっている。Puncak Trek Guidebook と題するこのガイドブックはCiawi, Cisarua, Cipanas, Cugenang の四エリアに分けられたシリーズもので内容は120ページあり、、それぞれ2千2百部が印刷され、4冊セットの価格は50万ルピアだが分冊購入も可能で、分冊の場合は一部13万ルピアとなる。
このトレッキングマップの出版は山歩きを趣味とするアメリカ人アレックス・コーンズのアイデアから始まった。1991年以来グデ山周辺を歩き回っていたかれは、山稜から出て谷を渡るさいに一度通ったことがあるものの見つけにくいポイントがいくつかあることに悩まされ、トレッキング用地図の必要性を痛感していた。このアイデアがインドネシア人トレッカーにも伝わり、インドネシア大学数学自然科学部地理学科の学生やOBたちが加わってトレッキング地図の作成に乗り出した。かれらはグデ山とパンラゴ山をそれぞれ4回も巡って推奨コースを選び出し、8年がかりでガイドブックの出版にこぎつけた。USAIDやフォード財団からの援助もその企画の実現に大きく貢献している。2007年3月10日に出版された4種のトレックガイドを見てアレックスは、「インドネシアでトレッキングマップを見たのは今日がはじめてだ。」とジョークを飛ばした。この制作チームは2003年からボゴールのパクアン大学やデポッのグナダルマ大学の学生たちとともにWahana Informasi Pariwisata Alam (自然観光情報フォーラム)を結成して現場の情報収集に努め、滝、歴史的文化財、学校、ワルン(売店)、景勝地点、野生動物遭遇場所などの細かい情報をガイドブックに盛り込むことに成功している。ガイドブックは英語とインドネシア語の二国語表記。
シリーズはそれぞれ四つの推奨コースを記載している。たとえばチサルアの巻を見ると、8.9キロのCiteko ルート、6.9キロのSampai ルート、11.1キロのMandalawangi ルート、9.3キロのGedogan ルートがあがっており、半日から一日がかりのトレッキングコースとして奨められている。これまでは山に入る多くのひとが山頂を目指していたが、今回のトレッキングガイド出版でホリゾンタルな山歩きの楽しみもインドネシアに広がるのではないかと有識者たちは期待している。


「ボロブドゥル博物館で結婚パーティ」(2007年3月29日)
2007年2月12日付けコンパス紙への投書"Museum untuk Resepsi Pernikahan"から
拝啓、編集部殿。わたしは教師を職業とする仏教僧です。2007年2月4日にボロブドゥル遺跡壁面の彫刻画に関するセミナーと建造物の見学を開催しました。チャンディの一部に関する説明をしなければならなくなったので、わたしはカルマウィバンガ博物館を訪れることにしました。博物館の入口に立ったとき、館内で結婚式披露宴が行われていることにわたしはたいへん驚きました。受付にいる係員に尋ねたところ、披露宴に関する指示はよくわからない、との返事です。その係員によれば、その披露宴はPT Taman Wisata Candi Borobudur の役職者からの指示で行われているとのことでした。歴史と考古学の研究者としてわたしは各地の博物館をよく訪れますが、今回のようなことはいまだかつて見たことも聞いたこともありません。たいへん貴重なボロブドゥルの遺物を保存している博物館が結婚披露宴会場になっているのですから。
宴客の中にチャトラや未完成仏像に腰掛けているひとがおり、ケータリング業者は精出して料理を並べ、サテを焼く準備をしていました。チャンディの石が並べられた中庭は破損と言えなくとも汚されたのは確実です。博物館という雰囲気は消え失せて招待客であふれたパーティ会場に変わっていました。博物館の訪問客も中に入るのを躊躇していました。カルマウィバンガ博物館は世界文化遺産第592番として保護されなければならないボロブドゥル遺跡の一部ではないのですか?それとも、そうでないから外部者がだれでも自由に使ってよいものとPT Taman Wisata Candi Borobudur は認識しているのですか?ところが博物館の入口にも、入場券にも、次のような警告が明記されているのです。
「政府の許可なく文化遺跡の遺物を持ち去り、置き換え、取り去り、形や色を変え、修理しあるいは分離させ、また遺物や遺跡とその環境を故意に破壊した者はだれでも最長10年の入獄と最大1億ルピアの罰金が科される。(文化遺産遺物に関する1992年第5号法令第26条)」
PT Taman Wisata Candi Borobudur は運営予算が不足しているので博物館を結婚パーティに貸し出しているのでしょうか?[ バンドン在住、僧バドラ・ルチ ]


「国内の植物園が12ヶ所に増える」(2007年4月6日)
インドネシアで世界的に著名なボゴール植物園はインドネシア語でKebun Raya Bogor と呼ばれている。Kebun Raya というのは植物の生きた標本を学術目的に集めたもので、コレクションに関して原産地や植樹して以来の移植、開花、結実、枯死などといった履歴の詳細な記録が作られている。Kebun Raya というのはそのような学術活動を行う場所であり、単なる自然公園であるTaman とはそこが異なっている。ところで政府はいま国内四ヶ所にある植物園をさらに増やすプログラムを募集し、それに応じて全国から8ヶ所が手を上げた。まずジャンビ州ブキッサリ(Bukit Sari)、中部ジャワ州バトゥラデン(Baturraden)、東カリマンタン州バリッパパン(Balikpapan)、南スラウェシ州エンレカン(Enrekang)、西ジャワ州クニガン(Kuningan)、ランプン州リワ(Liwa)、中部カリマンタン州カティガン(Katingan)、南スラウェシ州プチャ(Puca)がそれ。それらがクブンラヤとしてひとり立ちすればインドネシアにやっと12ヶ所の植物園ができることになるが、アメリカは3百ヶ所、イギリスや中国、オーストラリアなどは1百ヶ所を超えており、インドネシアはまだまだその足元にも及ばない。
中でもカリマンタンに設けられる予定の植物園には地元原産の樹種を完備させて後世に残すことができるよう期待がかけられている。森林破壊の進行でメランティ、クルイン、ウリンなどの木はもともとのハビタットで姿を見ることが稀になっており、またカリマンタン固有のランや果樹などもその数が減っている。この新たな植物園設立はボゴール県チビノンのエコロジーパーク内を本拠とするインドネシア科学院ボゴール植物園植物保存センターの指導のもとに進められることになる。同センター関係者は、地方の植物園設立に携わるひとの中に植物園とドゥニアファンタシを混同しているひとがいる、と語る。ドゥニアファンタシ(Dunia Fantasi)は北ジャカルタ市アンチョルにあるドリームランドの施設のひとつ。すでに創設以来190年を経過したボゴール植物園には年間で140万人の来園者があるが、関係者の中にはそんな経済面の思惑を優先的に見ているひとがいるようだ。ともあれ、植物園設立準備から開園までに要する経費は一千億ルピアが見積もられており、豊かなフローラをいつまでも野放しにしないで管理保護していこうとする政府の方針はいまやっとその端緒についたと言える。


「ガルーダ航空日本線の乗客数は安定」(2007年4月10日)
今年3月はじめにジョクジャカルタ空港で人命事故を起こしたガルーダ航空は事故の影響が国際線に出るのではないかと懸念していたが、日本〜インドネシア航路ではそれほどの影響が見られていないとガルーダインドネシア航空日本韓国担当ファイナンシャルマネージャーが語った。事故以降3月26日までのロードファクターは高いレベルが維持されており、1月90%、2月が85%、といったレベルがキープされているとのこと。日本からの乗客の大半は旅行会社やエージェントが組んだ団体ツアーで占められており、個人客は少ししかいない由。
ところで過去10年間でガルーダ航空が起こした空の事故の記録を見ると、事故件数はむしろ少ないことがわかる。
1997年9月26日に北スマトラ州メダンのポロニア空港に着陸しようとしてデリスルダン県で墜落したA300−B4型機の事故がもっともひどいものだった。その事故では234人の人命が失われている。
2002年1月16日、悪天候をついてソロのアディスマルモ空港に着陸しようとしていたB737−300型機はエンジンが2基とも停止してしまったが、機長はソロ川(Bengawan Solo)に機体を不時着させて被害を最小限に食い止めた。この事故ではスチュワーデスひとりが唯一の死者となった。
2003年10月3日、アフマディヤニ空港で滑走路をオーバーラン
2005年9月6日、メダン発ジャカルタ行きB737−400型機のエンジンが一基停止したため、プカンバル空港に緊急着陸。
2006年7月27日、帰国するメッカ巡礼者を運んできたB747−400型機がスカルノハッタ空港着陸時に車輪が出ないまま強行着陸。
2007年3月7日、ジャカルタ発ジョクジャカルタ行きB737−400型機が着陸に失敗して滑走路をオーバーランし、炎上して21人が死亡。


「ボロブドゥル見学のあとはゴルフ」(2007年4月13日)
中部ジャワ州マグランのブキッティダル(Bukit Tidar)に国際級ゴルフ場がオープンする。ボロブドゥル国際ゴルフカントリークラブ(Borobudur International Golf & Country Club)は広さ40Haに18ホールを持つパー72の国際級ゴルフ場で、2007年4月14日にグランドオープニングが行われる予定。このゴルフ場の誕生でマグランにはボロブドゥル見学とゴルフプレイというふたつの国際級観光活動が用意されることになる。周囲が山に囲まれた高原にあって涼風の中で気持ちよくゴルフをエンジョイすることのできるこのゴルフ場はもともとマグラン陸軍アカデミーが持っていたゴルフ場であり、今般2百億ルピアをかけて国際レベルのものに改装された。14日のオープニングはジョコ・サントソ陸軍参謀総長が出席して行われることになっている。


「プランバナン訪問観光客が回復傾向」(2007年4月16日)
2006年5月のジョクジャ中部ジャワ大震災でチャンディプランバナンを訪問する観光客が大きく減った。地震後の数ヶ月は国内外観光客の姿を目にすることがほとんどなくなった。プランバナンばかりでなく、ボロブドゥルへの訪問客も減少した。それら観光施設の管理運営に携わっているPT Taman Wisata Candi Borobudur Prambanan Ratu Boko 社のデータによると、2004年2005年の観光客数は年間280万人だったが2006年は180万人に減少している。しかし今年に入ってからそれら観光施設を訪れる国内外観光客は増加傾向にあり、今年第一四半期では45万人を記録している。中でもプランバナンを訪れた外国人観光客はひと月3千人程度に回復しており、ボロブドゥルへの外国人観光客数も4〜5千人で、ことしは年間で15万人の訪問客が期待されている。一方国内観光の方は石油燃料大幅値上げ後むしろ後退気味であるとのこと。


「一日2千万ルピアで豪邸を」(2007年4月17日)
都内メンテン地区やポンドッキンダ地区などの高級住宅地区へ行くと、豪壮な大邸宅をたくさん目にすることができる。インドネシアで富を誇示するのは自分のステータスを主張することであり、そんな邸宅に住んでいればどのような人間であろうとトアンブサール・ニョニャブサールとしての待遇を得ることができる。だから金さえあれば邸宅を建てることに躊躇するひとは少なく、金をそのように使うから「金はイージーゴー」という原理が生まれる。それにバランスさせるには金がイージーカムでなければならず、そんな原理にもとづいて社会における金銭感覚が構築されていく。ともあれ、たとえ借家であってもそんな大邸宅に自分の身を置くのは気持ちの良いものであることも否定できない。そんな人間の夢と希望をかなえてくれるかのごとく、豪壮な大邸宅の中にレンタル商品になっているものがある。結婚パーティ、アリサンの集い、新製品発表会、ファッションショー、要人接待からテレビ映画シューティングまでありとあらゆる活動の場として使うことができる。そんな邸宅をひとびとはファンクションハウスと呼んでいる。
1970年代にバンドン出身の美少女歌手として一世を風靡したアンナ・マトヴァニという女性がいる。かの女はバンバン氏と結婚していまはアンナ・バンバンと名乗っており、歌手は廃業してファンクションハウスビジネスの女王になっている。かの女が南ジャカルタ市カルタヌガラ通り4番地Aに建てた邸宅のレンタルを始めたのは1998年のこと。そして2004年には中央ジャカルタ市メンテン地区のイマムボンジョル通り66番地にある邸宅をファンクションハウスの戦列に加えた。かの女はジョクジャのスレマンにもファンクションハウスを持っている。2006年9月中旬に映画スターのルル・トビンがスハルト元大統領の孫ダニー・ルッマナとの結婚パーティを三日三晩催したのはイマムボンジョルのファンクションハウスだった。
広さ6百平米というカルタヌガラの家は100人から150人が収容でき、一日借りる場合の料金は2千万ルピア。邸内のファシリティはすべて使って良いことになっている。また食事も注文することができる。メニューはお好みだがひとりあたり13万から40万ルピアまで幅がある。もちろんこれらのファンクションハウスは空家でなく、管理者がおり従業員がいる。
アンナの同業者もいる。1980年代にファッションモデルとして名前を売ったラティ・ソエとご主人のアレックス・コサシは南ジャカルタ市クマン地区でアールデコ様式の邸宅をレンタルしている。3千平米の土地に1千平米の建物というこのファンクションハウスは4〜5時間のプログラムに1千7百万ルピアの料金がつけられている。料理もひとり5万から7万5千ルピアでオーダーできる。アレクサンドラの家と名付けられたこの邸宅には3百人が収容できる。このファンクションハウスはひと月に2〜4回レンタルされている。クマンには他にもモルポサの家があり、デポッにも陶芸家S.ウィダヤントが家のレンタルをオファーしている。
豪壮な大邸宅で優雅なひとときを過ごしてみたい方は下にお問い合わせを。
Rumah Kartanegara : Jl Kartanegara 4A, Kebayoran Baru, Jakarta Selatan, Tel 7251358
Rumah Imam Bonjol : Jl Imam Bonjol No.66, Menteng, Jakarta Pusat, Tel 3154532
Rumah Alexandra's : Jl Kemang Selatan V No.3, Jakarta Selatan, Tel 71792629
Rumah Sleman : Jl Purboyo No.111 Desa Warakkidul, Sumberadi, Kec. Melati Sleman, Yogyakarta, Tel (0274)866611, 866622


「デンパサル〜マラン間空運サービス認可を申請」(2007年4月18日)
マランのアブドゥ・ラフマン・サレ(Abdul Rachman Saleh)空軍基地とデンパサルを結んで旅客輸送サービスを行う認可を求めるPT International Air Transportation からの申請状が東ジャワ州知事に提出された。その書状は2007年2月中旬に受け取ったものでさまざまな要因について検討を加えたあと4月9日に州知事に提出したとマラン県運輸観光局長は述べている。州知事はその申請を運輸通信省本庁に提出して裁可を仰ぐことになるが、既にジャカルタ〜マラン線も運行されている状況から、認可が下りるのはまちがいないものと運輸観光局長は見ている。
IATの計画では、その運行サービスには座席数25〜30のカーサ機が使われ、デンパサル発がバリ時間15時、マラン発は現地時間午前6時半というスケジュールが提案されている。


「予約したのに便が変えられている」(2007年4月25日)
2007年1月31日付けコンパス紙への投書"Adam Air dan Panorama"から
拝啓、編集部殿。2007年1月11日に、わたしは翌日のジョクジャ行きアダムエアーKI0108便の切符を予約しました。そしてアダムエアーから、チェックインは2時間前に行い1時間前にならないように、と言われました。切符の発行はアダムエアーの切符を販売している旅行代理店で行える、とも。
都内スディルマン通りのソナトパスビルにパノラマトラベルがあるので、わたしはそこで切符を買うことにしました。すると、アダムエアーからわたしが得たブッキングコードは使えないとパノラマ側は言い、新しいブッキングコードが使われて切符が発行されました。翌日わたしは朝9時45分に空港第1Cターミナルに着きました。ところがジョクジャ行きチェックインカウンターがありません。10時まで待ちましたが何も変化がないのでわたしはアダムエアー職員に尋ねました。するとその職員はわたしを切符販売窓口に連れて行くのです。
わたしの予約したフライトは15時30分発のKI0128便に変えられており、それは旅行代理店が行ったと言われて驚きました。どうしてその確認をわたしにしないのかと抗議すると、旅行代理店が行ったのだという返事です。わたしはすぐにパノラマに電話しました。するとその変更と確認はアダムエアーが行なうものだ、とパノラマ側は返事します。みんなが責任を他人に放り投げてミスを認めようとしません。わたしはアダムエアー職員に、もっと早い時間の便はないのかと尋ねると、9時50分に出発したばかりのアダムエアー便があったと言うのです。そして15時30分の便に乗るかそれともほかの航空会社を使うかはご自由に、と言いました。
わたしが買った切符代が無駄になるし、ほかの航空会社でそれと同じ料金で乗れる保証もありませんので、ほかの会社の空席を探す面倒をするよりは、とわたしは6時間待つことにしました。ところがそのフライトは更に遅れて16時にやっと出発したのです。これもアダムエアーとパノラマがたがいに責任をなすりあい、職業人としての姿勢に欠ける仕事を行なったせいです。[ ジャカルタ在住、ロイ・ヤンセン ]


「首都の高級ホテルで大幅値引き」(2007年4月27日)
ジャカルタのホテル業界はルームチャージの値引き合戦が激しくなりつつある。今年最初の4ヶ月間を見ると、4〜5星クラスホテルの一泊料金は公表価格が100〜140米ドルであるのに対して実質料金は70米ドル程度に落ちており、その料金レベルは3星クラスホテルのものであるためにより低いクラスのホテルもそれに押されて値下げを余儀なくされている。それでも客室稼働率は60%前後で、従来からのレベルが維持されていると言える。
ホテルパークレーンの販売担当重役は、都内20の4〜5星クラスホテルは外国系企業のコーポレートゲストがメインの顧客となっており、外国系企業がそのバーゲニングパワーを使って激しい値引き圧力をかけてくるために公表価格を維持できないのがその原因だ、と語った。おまけに外国系企業が使う対米ドル交換レートはホテル側に不利なものであるため、実質受取りルピア金額は十分な利益をもたらしてくれない。都内に数ある4〜5星クラスホテルもたいていは需給のアンバランスをかこっていることから買い手優位の市場状況が続いており、ホテル側は仕方なく値引き料金に応じているとのこと。業界者は現状がホテルの健全経営に大きいリスクをもたらしていると警告している。


「リッポチカランで水遊び」
緊張、興奮そして快感。アドレナリンが全身に漲って、普段眠っている神経が爪先まで張りつめる。17メートルの高さから流れ落ちる水といっしょになって滑り降りるチャレンジは、よそでは味わえない体験だ。リッポチカラン(Lippo Cikarang)にあるWater Boomをはじめて訪れたひとは、そんなセンセーションとは不似合いな緑したたる穏やかなウオーターパークの雰囲気に心奪われる。バリ風の石造構造物や像があちこちに点在しカンボジャの白い花が咲き乱れる落ち着いた空間に身をひたせば、「自分はバリにいる」という思いがふと意識の上に伸び上がってくる。
ワーテルボム・リッポチカランはジャカルタからおよそ35キロ。チカンペッ有料自動車道路を東進してチカラン料金所で降り、右折してしばらく走りつづけると大きな十字路に至る。そこを左に曲がれがリッポチカランコンプレックスだ。首都圏にウオーターパークは少なくない。BSDシティにあるオーシャンパーク・ウオーターアドベンチャーはすでに紹介済みだが、ほかにもチブブルのLaguna Wisata 住宅地区にあるEldorado や老舗アンチョルドリームランドのAtlantis Water Adventure などが首都圏の行楽客争奪にしのぎをけずっている。7年前リッポチカランにオープンした3.4Haのこのウオーターパークの売り物は高さ17メートルの滑り台と園内を埋める豊かな緑。
ここを訪れる行楽客は若いカップルから子供連れまでさまざま。大人は緑滴る庭園内のガゼボでリラックスしたり、ホワールプールの水流で全身マッサージを愉しみながら水上バレーボールを見物し、フローティングカフェでリフレッシュメントを取ることも可能。あるいは浮き輪に乗って深さ1.2メートル全長280メートルの水路を川くだりとしゃれこむのも一興。Buai Apung-apung という名のこの水路くだりでは、木々の緑がトンネルを作り、滝の水が水路を叩いて来園者を飽きさせない。浮き輪のレンタルは2時間で1万ルピア。そして保証金としてさらに1万ルピアを預託する。お子様向けにもJeram Berang-berang と名付けられた川くだり水路が用意されており、こちらは深さ60センチ全長160メートルでクジラやイルカあるいはカメの像やうすぐらい20メートルのトンネルをくぐるといった楽しい趣向がめぐらされている。
しかしなんといってもこのウオーターパークの大看板は高さ17メートルでぐるっと360度を全周する特大ウオータースライド。ここでは安全のためにゴム浮き輪の使用が義務付けられている。もうひとつ高さ14メートルのジュニア滑り台も設置されていて、こちらはゴム浮き輪が義務付けられていない。それらのウオータースライドはいずれもがBuai Apung-apung に着水する。滑り台はどちらも歩いて階段を登らなければならないので、センセーション体験を味わおうとするひとは前もって足腰を鍛えておいたほうがよいかもしれない。来園者の中には、「上まであがったら足が疲れてしまってせっかくの醍醐味が半減してしまった。リフトを設置しなけりゃダメだ。」と不満を語るひともあるそうだ。
首都圏に数ある行楽施設に対抗して、このウオーターパークにも水遊びだけでなく野外運動設備が取り入れられた。インドネシアでoutbond と呼ばれるアスレチック活動に関してワーテルボム・リッポチカランがお勧めするのは綱渡り。地上6メートルの上空に張られた綱の上を9メートル歩き、そのあと綱を伝って地上に降りる。こうして一日のお遊びが終わると、パーク内にあるアクアスパ(Aqua Spa)で身体のお手入れ。リッポチカランのワーテルボムは一日たっぷりとあそばせてくれる。[ 2007年5月 ]


「チボダスで桜の花見」(2007年05月23日)
西ジャワ州チアンジュル県にあるチボダス植物園に桜の林が作られる。2.5Haのこの桜林は2007年5月いっぱいかけて造園工事が完成する予定で、そこには245本の桜の木が植えられることになっている。熱帯のこの植物園では桜が4月と9月の2回開花するので、一年に二回お花見ができるようになるにちがいない。
チボダス植物園では、オランダ植民地時代の1936年に桜の原産地と言われているネパールのヒマラヤ山系から桜の木が移植された。その後、日本との交換研究が進められてチボダスの桜コレクションは増加した。2003年にはジャカルタと東京が姉妹都市の縁を結んだことから、日本政府が桜の木を寄贈している。この植物園では桜の木が数十本になったというのに、別々の時期に別々の場所に植えられていたため開花しても一面がピンクに染まるというようなインパクトを来園客に与えることができなかった。一方同植物園の研究者たちは桜の苗木を数百本に増やすことに成功しており、今回広大な桜林を造成して花見の楽しみを国民に味わってもらおうとの企画が実現した。桜林に植えられる若木は0.5メートルから1.5メートルとまだ丈の低いものだが、中には先月すでに花をつけたものもある。
数年前からチボダス植物園では桜の開花時に「日本へ行かなくてもここで花見ができます」と国民に来園をPRしていたが、いよいよ名実ともに花見の趣を楽しめる段階に入ってきたようだ。


「インドネシア人がグレートシンガポールセールの上得意」(2007年6月12日)
2007年5月25日からシンガポールでThe Great Singapore Sale 2007 が始まった。ショッピングを目玉にして観光客を誘致しようというこの催しは7月22日まで続けられるが、毎年その上得意であるインドネシアからの観光客が財布のひもを緩めて惜し気もなく札びらを切るのをシンガポール側は大いに期待している。
とはいえインドネシア人がシンガポールを訪れて買物をするのはこのシーズンに限ったことではなく、シンガポール観光局のデータによれば2006年に同国を訪れたインドネシア人は192万人で、5月から7月というセールのシーズンにやってきたのはそのうちの20%。インドネシア人観光客の入国は年々増加しており、今年は前年から3〜4%増加するだろうとの見込み数値が出されている。また同じく観光局データによれば、インドネシア人観光客はひとり平均800シンガポールドルを訪問期間中に使っており、ルピア換算すれば年間で9兆ルピアを超える金が国外流出していることになる。
2006年のシンガポール入国外国人観光客は970万人観光収入は124億シンガポールドル、そして6〜7月の観光収入は49億シンガポールドルと報告されており、セールのきわめて大きい効果をそこから実感することができる。世界の多くの都市でもショッピング観光の催しが盛んだが、2005年にユーロモニターリサーチが行ったシンガポール・香港・バンコック・ドバイ・シドニー・クアラルンプル・上海など8都市を対象にした調査はシンガポールの商品価格がもっとも安いと報告している。シンガポールの小売業者にそれほどお買い得な値付けができるのは、ほとんどすべての輸入品が免税で市場に出せるというシンガポールならではのメリットを活かしているからで、インドネシアにも数多くのモダンショッピングセンターが作られて世界のトップブランドが最新鋭商品を潤沢に販売しているものの、シンガポールが持つ強みは必ずやインドネシアのショッパーたちを呼び寄せるのに成功するにちがいない、とシンガポール側は自信をほのめかしている。シンガポール政府も『シンガポールでお買物を』という外国人観光客誘致政策をさらに強化する意向であり、そのためにショッピングのメッカであるオーチャードロードのプロフィールを徐々に再整備していく方針を立てている。


「ガルーダ航空日本航路は好成績」(2007年6月22日)
ガルーダ航空はインドネシア〜日本航路の売上が2006年から8.3%アップして1億3千万ドルになるのを今年の目標にしている。2年前、バリ第二次爆弾テロ事件の影響によって日本航路の営業成績は大幅に落込み、2006年いっぱいかかってもまだその後遺症から脱し切れないでいるものの、今年第一四半期の状況は順調な回復を示しているとガルーダ航空日本・韓国・中国・アメリカ担当リージョナルマネージャーが語った。東京線に週8便、大阪線は週7便をB747−400型もしくはA330−300型機で運行させているガルーダは、2007年第一四半期の売上が目標の3千万ドルを大幅に上回る4千万ドルに達し、またロードファクターも目標の70%より高い75%となった。最も怖れているのは、爆弾テロがインドネシアで発生することだ、と同マネージャーは語る。今年3月7日にジョクジャで発生したGA200便の事故や米連邦航空局が4月16日にインドネシアの航空安全カテゴリーを1から2に落としたことなどの影響は営業活動の中でひとつの障害になっているとのこと。ガルーダ航空は今年のプロモーションターゲットを企業セグメントとエコツーリズムに置いている。バリでのウエディングとハネムーンパッケージを今年7月末からプロモートする計画はエコツーリズムプロモと相まって良い成績を出せそうだという見込みが出されているものの、上であげたようなネガティブな出来事のために企業セグメントへの売り込みは難しい面を抱えており、ある大手自動車メーカーとの交渉ではまだ合意が得られないでいる。
ところで米連邦航空局の審査に基づいてアメリカ政府が出したインドネシアの航空会社の安全性に関する自国民向け声明のために、ノースウエスト航空はガルーダとの運行提携を破棄した。ガルーダ航空本社はその提携再開を強く望んでおり、その実現のために関係諸方面に働きかける意志を明らかにしている。


「プラウスリブで潜水中に死亡」(2007年6月28日)
6月24日午前9時半ごろ、プラウスリブ海域のプラムカ島東側の海でスキューバダイビングを行っていた26歳の女性が死亡した。この女性は国会事務局に勤務するベアトリクス・グルトムで、ベアトリクスの遺体は海面下35メートルの海中でマスクがはずされた状態で発見された。かの女が使っていたボンベの中の酸素はまだ3分の2くらい残っており、全国潜水連盟(POSSI)会長を勤めているスリブ諸島海中国立公園管理事務所長はこの事故について、窒素酔いか何かで意識を失ったのが死亡の原因ではないか、と述べている。そのような現象は30メートル以上の深さまでもぐると往々にして発生するものであり、潜水経歴10回でPOSSIのA1ライセンスを最近取得したベアトリクスがその深さまで潜水するのはたいへん危険な行為だった、とのこと。A1ライセンス保有者は海面下18メートルまでの潜水が限度であり、またダイブマスターの付添いがなければならない。
ベアトリクスはマリーナアンチョルとムアラアンケからニグループに分かれてやってきた13人の友人たちのトリップコーディネータを務め、23日はプラウスリブのスマッダウン島の海でダイビングを楽しんだ。そして翌24日午前9時ごろからプラムカ島の海でダイビングを楽しんでいた矢先の事故だった。


「さあ学年休み、行楽地は人の海」(2007年7月4日)
2007年7月1日のアンチョルは10万人の人出となった。そのメインは言うまでもなくアンチョルベイシティにあるドゥニアファンタシがお目当て。トルナドやハリリンタルなどの人気設備をはじめとしてほとんどすべての乗物類には長蛇の列ができ、また園内の空間はひとで埋め尽くされた。2006年学年末休暇の人出は一日の最高が7万5千人だっただけに、今年の人出は30万人という大晦日の状況に迫るものだったと言える。家族連れ以外にも、会社が従業員とその家族のために慰安催事を企画して観光バスを連ねてやってきたケースも少なくなく、一社で2千人を送り込んできたというところもある。
アンチョルの対抗馬はタマンミニ。普段の休日は2万人の人出というタマンミニも7月1日には4万人の入場者があり、園内はたいへんな混雑をきたした。タマンミニでもさまざまな娯楽設備で長蛇の列が作られた。人気の高いのはロープウエーやタマンアクアそしてケオンマスシアター。また新しいものではショットガンなどが入場客の興味を引いていた。学年末休暇期間中の土曜日と日曜日の夜にタマンミニ側は花火大会で雰囲気を盛り上げることにしている。
しばらく前BSDシティにオープンしたオーシャンパーク「ウオーターアドベンチャー」にもおよそ1万人の行楽客が殺到した。6月30日の入場客数は7千人で、7月1日にはジャワ島の地方部やスマトラなどの遠隔地からも行楽客がバスを連ねて押し寄せてきた。
バンテン州ルバッ県チベベル郡チスンサン村チカランギラン部落で7月1日に開催されたセレンタウン(seren taun)の伝統儀式にも首都圏やバンテン州西ジャワ州から数千人の行楽客が見物に訪れた。セレンタウンは年に一度大収穫を祝って催される伝統儀式であり、儀式が滞りなく催されたあとは現代風な演芸や音楽のさまざまなプログラムが演じられ、また夜には夜市が開かれて行楽客は手ごろなみやげ物を買い集めていた。
バンドンでも学年休み期間中のホテル予約状況は大入りの状態で、7月1日は市内にある270ホテルの客室総数9千5百がほとんど埋まるという最近では稀な状況が出現した。由緒あるホテル・サボイホマンでは145の客室がすべて埋められた。その大半は家族連れで、このホテルではお休み期間中に子供たちを対象にした「シェフと一緒にお料理教室」という特別プログラムを実施している。バンドン市観光局長によれば、7月1日にバンドン市内に入った自動車は17万台に達し、ホテルもほとんど満室状態で、中には一部屋に生徒が6人宿泊するというケースも出ているとのこと。宿泊客の多くはジャカルタ・スマトラ・中部東部ジャワなどから来ており、市内の行き先はチアンプラスのジーンズ衣料品センター、チバドゥユッの革靴製造販売店、ダゴやリアウ通りのファクトリーアウトレットなどがお気に入りのコースになっている。パサルバルのショッピングセンターはマレーシアやシンガポールからの買い物客の姿も目立った。


「海岸でテント泊ツアー」
ジャカルタ湾に浮かぶ1千の島々、プラウスリブ。とは言うものの、島の数は実は110程度しかなく、おまけに海食作用と海面上昇で沈没が進んでいるのが実情だ。そうは言っても、プラウスリブは依然として首都ジャカルタの重要な観光資源であることは言うまでもない。プラウスリブ観光でここ数年間ネックになっているのは、人数が集まらないと船を出さず、必然的に島の宿泊施設も船が来ないからオープンしないというドミノ論理の支配下に陥っていること。おかげでプラウスリブリゾートへの旅行はグループツアーの様相を呈するようになっているから、気楽に遊びにも行けない。
経済性を無視すれば、アンチョルのマリーナ海岸(Pantai Marina)から45人乗りスピードボートをチャーターすることは可能。距離によるが、往復で8百〜1千万ルピアで行きたい島に行くことができる。もしその船の運航に合わせるなら、一回の乗船賃はひとり10万ルピア。ムアラアンケ(Muara Angke)の埠頭からもプラウスリブへ行く船がある。kapal ojek kayuと呼ばれる小型木造船をチャーターすれば350〜400万ルピア。島々の住民は船の航路に合わせて乗っている。ひとりなんと2万5千ルピアで。
旅行社スターフィッシュアドベンチャーが企画したビラブサール(Birah Besar)島一泊ツアーには多くの申込みがあった。海岸にテントを張って星明りの下でごろ寝しようという野趣満点の企画だから、外国人の希望者も少なくなかったらしい。20名が定員で大勢が無念の涙をのんだそうだ。御一行は2時間半かけてプラウスリブ県庁のあるプラムカ(Pramuka)島へ行き、そこから15人乗り小型木造船をチャーターしてビラブサール島へ。
ビラブサール島は面積20Haの比較的大きい島で、リゾート施設が建てられてかなりの観光客が訪れていたが2005年に倒産したそうだ。その後この島は放置されたままになっている。上陸して一休みしてから参加者は早速シュノーケリングツアーに出発。行く先はビラブサール島周辺の小島、マタハリ(Matahari)・マチャン(Macan)・マチャントゥトゥル(Macan Tutul)の島々。それらの島々の中ではマチャントゥトゥル島のエコシステムがもっとも感銘を与えたようだ。そうしている間に太陽は西に傾き、みんなは島に戻る。21時ごろ花火で遊び、あとは海岸に張ったテントに入りあるいは持参した寝袋にもぐりこむ。ほんの数メートル先を波が洗い、リズミカルな潮騒と降るような星に包まれてテントの中で眠りに落ちる。一方の寝袋組みは木造の桟橋で。
翌朝は帰り支度を整えてから、ふたたびシュノーケリングを満喫しにスマッダウン(Semak Daun)とバリッラヤル(Balik Layar)の島々に向かう。前日の感銘よりもっと大きな感銘を味わって参加者はご満悦。こうして御一行はプラムカ島に戻り、本土に向かう船へと乗り換えた。[ 2007年7月 ]


「スラバヤのホテル客室稼動は低調」(2007年7月12日)
スラバヤの今年上半期ホテル客室稼動状況は前年同期に比べて悪化している。東ジャワ州の3〜5スター級ホテルとゴルフクラブの業界団体であるカサグランデのユサッ・アンソリ会長は2007年上半期の客室稼動率が各クラスで前年同期実績からダウンしたことを明らかにした。同会長によれば各クラスの状況は下の通り。
スター級 / 2006年上半期 / 2007年上半期
3スター / 70.7% / 65.5%
4スター / 72.6% / 70.4%
5スター / 58.6% / 53.5%
スラバヤツーリズムプロモーションボードの専務理事でもある同会長はその原因について、今年1月から3月ごろまで相次いで発生した航空機事故の影響、新しいホテルのオープン、アパートが一泊契約方式で客を取っていることなどをあげている。
今年6月にスラバヤでは学年末休みにあわせてスラバヤビッグセールを開催したことでスター級ホテルの客室稼働率は5月の64.4%から6月は69.5%へと上昇したものの、今年1〜4月の低調さをカバーすることは困難だったと同会長はコメントしている。


「エアーエイシアが廉価ホテルを設立」(2007年7月19日)
廉価航空会社エアーエイシアがその廉価方針を空運旅客分野からホテル業分野に拡大しており、既にマレーシアで行っているような廉価ホテルをインドネシアにも設ける計画であることを公表した。このホテルは2〜3スター級の設備を持つが宿泊料金は一泊7万5千から10万ルピア程度が予定されている。マレーシアのエアーエイシアがインドネシア側に求めているのはジャカルタをはじめいくつかの都市に廉価ホテルを運営することで、マレーシア側は宿泊料金を一泊5万〜7万5千ルピアと希望しているがインドネシア側は、その料金レベルでは無理だ、としている。
マレーシアで今年はじめにオープンしたこのコンセプトによる廉価ホテルは市場からたいへんポジティブな反応を得ており、営業状況も好調に推移している。インドネシアエアーエイシアもそのコンセプトは国内市場に適したものととらえ、まずジャカルタに第一号ホテルをオープンする予定。このホテルはスター級ホテルのファシリティを備えるが、顧客がそれを利用すれば料金がチャージされるという方式であるため何も使わなければ宿泊料金がどんどん小さくなっていくという合理性を顧客に与えるもの。このホテル網を利用してインドネシアエアーエイシアは宿泊込みパッケージツアー販売に乗り出す計画を組んでいる。


「新しいコンドテルがスラバヤに」(2007年8月9日)
東ジャワ州スラバヤ市内でもコンドテルの建設が進められている。コンドテルというのはコンドミニアムホテルの略称で、コンドミニアムのユニットを所有するオーナーがコンドテル運営会社に委託してホテルとしてそのユニットを稼動させ、オーナーが使用しない時はホテルとしての家賃収入が手に入るというもの。コンドテル購入者の大半はそのような家賃収入と再販時のキャピタルゲインを狙った資産投資を目的にしている。
スラバヤでいま建設中のコンドテルはふたつあり、ひとつはアストン・インターナショナルがPT Adco Graha Sejahteraと組んで建設中のAston Place Twin Tower、もうひとつはPT Lippo Karawaciが建設しているThe Regency Kondominium。アストンプレースツインタワーはスタジオタイプのユニットが基本デザインになっているとのこと。一方、City of Tomorrow (CiTo)スーパーブロックエリアに建設されるリージェンシーコンドミニアムはプリセールも順調に進展しており、2007年7月末時点で82%が売却済みであるとのこと。


「コモド国立公園の海を漂う怨念」(2007年8月29日)
東ヌサトゥンガラ州コモド島のロウエンチ岬でコモド国立公園管理館所属のパトロール艇「トラニ号」を銃撃した一味を州警察は追っている。東ヌサトゥンガラ州警察は西ヌサトゥンガラ州警察と共同して捜査を続けているが、まだ成果はあがっていない。コモド島は東ヌサトゥンガラ州の西端にあって西ヌサトゥンガラ州と境を接しているため、この共同捜査は犯人を追い詰めるのにきわめて効果的と見られている。パトロール艇が銃撃された事件では人的被害は出ていない。警察は銃撃犯をコモド島一帯で鹿の密猟や海で爆弾漁を行っている住民の仕業ではないかと見ている。銃撃事件はこれがはじめてでなく、犯人には徹底的に対抗していかなければかれらが降服することはありえない、と警察側は厳しい対決姿勢で臨むことを明らかにしている。しかしインドネシア環境フォーラムはコモド島でのパトロール艇銃撃事件について、その根底には人権侵害問題が横たわっていると解説する。
1980年に設立されたコモド島国立公園は最初コモド島とリンチャ島だけから成っていた。これはその二島がコモドドラゴンの主なる生息地だったからだ。つまりこの国立公園はコモドドラゴンだけをフィーチャーして作られたものだったと言える。ところが地域漁民による爆弾漁やシアン化合物を使う毒物漁あるいは過剰捕獲などが盛んになってきたことから1995年以来エコシステム維持と保護に政府は力を入れるようになり、こうして国立公園管理館の中にThe Nature Conservancy(TNC)の協力で高速パトロール艇を擁する海上パトロールユニットが設置された。そしてさらに、森林農園大臣が国立公園拡張提案を受け入れて2000年大臣令第172/Kpts-II/2000号で海域13万2千Ha陸地4万Haの広大な地域を国立公園としての規制区域に指定したのである。その理由のひとつにされたのが同海域の豊かな海中生物相であり、その詳細をコモド国立公園管理館はフローラ102種ファウナ185種と報告している。これまで自由にその海域で漁労を行ってきた地元漁民は突然広大な海域が規制対象となったために従来の活動が困難になり、国立公園域内で無許可操業すればパトロールユニット隊員である国軍兵士や航空水上警察隊員と対面しなければならない状況になってしまった。その海域で官憲の銃火に命を落とした地元漁民は少なくない。漁民が国立公園域内で活動したい場合はコモド島のロリアン国立公園管理館ポストに届け出て許可を得なければならず、また漁労に使用してよいものは釣竿のみとされ、その他の漁獲器材は使用が一切禁止された。
海上パトロールユニットは地元漁民に対して抑圧的な姿勢で臨んだ。オルバ期に取られた住民統制方式がこの地域ではレフォルマシ時代になっても相変わらず続けられたのだ。2002年11月10日23時ごろビマ県サペ村所属の機船に乗っていた25歳と35歳の漁民ふたりがパトロールユニット隊員に銃撃されて死亡し、ほかの乗組員14人は捕らえられてパトロール艇の上で暴行され虐待を受けた。このような事件はそれがはじめてのものでなく1980年代以来何度も繰り返されたことがらであり、これまでにパトロールユニット隊員の銃撃によって死亡した者は13人、捕らえられて裁判もなく虐待されあるいは脅迫された者は数十人にのぼる。
2002年11月の事件でビマ県サペ村住民がコモド国立公園管理館パトロールユニットの不当行為を告発した。村民たちは銃撃実行者とその命令者を法廷で裁くよう要求し、ビマ県庁もその後押しをするために事件調査チームを結成した。しかし調査チームは事件の立証段階で足踏みをしており、事件内容の公表や当局側への起訴など次のステップに進むことがまだできないでいる。国立公園管理館はその事件に関して、パトロールユニットの活動は合法的なオペレーション規準に合致したものであの夜の事件はその規準の不幸な帰結にすぎず、当事者にその行為の責を帰せることはできないしまた公園管理館にも責任はないとの声明を出している。それに対して、海上パトロールユニットは国立公園管理館の責任下に行動しておりまたTNCがその資金協力を行っていることから、公園管理館とTNCが責任を取らなければならないという見方が社会的に強まりを見せている。2002年11月の銃撃事件に関する取調べはまったく進展しておらず、州政府も州警察もこの事件を取り扱うことを避けている印象が強い。人権国家コミッションさえその使命をおざなりにしている感があり、そのためにサペ村民はサペにある国立公園ポストを襲って焼き払うという行動に出たこともある。明るい陽光と澄んだ海の上を漂っている怨念はパトロールユニットに対する復讐の引き金を折にふれて引かせようと待ち構えているようだ。


「成田行きガルーダ機でハイジャック」(2007年9月11日)
2007年9月4日、スカルノハッタ空港で搭乗中のジャカルタ発成田行きガルーダ航空GA479便に4人のテロリストが闖入した。機内はその四人に制圧され、既に搭乗していた乗客37人と乗務員7人が人質にされた。コックピットに入った賊のひとりが管制塔に呼びかける。「われわれは機内を制圧し、乗客と乗務員を虜にした。首都警察に捕らえられているわれわれの仲間をすぐに釈放し、また現金1百万ドルをここへ持って来い。われわれは第2ターミナルに爆弾を仕掛けており、1時間後に爆発するようセットしてある。」
この情報が報告されるや空港保安委員会はただちに緊急態勢に入り、現場を遮断すると同時に空港警察に連絡を取った。連絡を受けた空港警察は即座に警察爆弾処理部隊グガナユニットと反テロ実戦部隊である反テロ88特殊別働隊やK−9などに出動を求め、爆弾と航空機乗っ取りへの対応を進めた。空港保安委員会は救急車と消防車に現場へ急行するよう命じる。空港警察はまた飛行機を乗っ取ったテロリストグループとの交渉役に適切な人材を探して交渉に当たるよう命じる。第2ターミナルの爆弾に対する処理を終えたグガナユニットと88特殊別働隊は乗っ取られた航空機に全力を集中し、事態の回復に努める態勢に入った。テロリストグループとの交渉は難航したが、粘り強い努力で人質の女性三人を解放させることに成功した。だがテロリストは乗客のひとりを撃った。
空港警察署長は最終的に反テロ88特殊別働隊に対して機内への侵攻を命じた。テロリストの隙をうかがって機内に突入した特殊別働隊は15分間にわたる激しい銃撃戦の末に賊ふたりを射殺し、残るふたりにも傷を負わせて戦闘力を失わせた。乗客13人と特殊別働隊員2人も銃弾で怪我をした。そのようなシナリオでこの日の反テロ対策シミュレーションは幕を閉じた。JICAの支援を得て行われたこの日の演習はインドネシアのいくつかの空港で行われることになっている空港緊急対策プログラムの一部を成しており、JICAはインドネシアの空港緊急対策プログラムをサポートするために2006年12月以来7人の要員をこのプログラムに投入して計画の推進に当たらせている。今回行われたような演習は2007年2月にスラバヤのジュアンダ空港とバリのグラライ空港で既に実施されている。


「ダンデルスの道をクラシックカーがパレード」(2007年9月13日)
1811年にダンデルス総督が建設させたジャワ島横断道路を75台のクラシックカーがパレードする。アニエルからパナルカンまでの2千5百キロを2007年9月1日から8日までの間に踏破するこの企画はインドネシアクラシックカー愛好会が立てたもので、クラシックカーをガレージに寝かせてばかり置かずに実際に道路を走らせてその健在な姿を社会に示そうというのが趣旨であり、これは同時にインドネシア独立記念を祝う催しも兼ねている。75台のクラシックカーは1930年から1960年までの間に作られたもの。このパレードはアニエルロールからバンドン、そしてチャダスパゲランスメダンを抜けてジャワ島北岸街道を通り、最後はシトゥボンドのパナルカンを終点とするもの。


「機内で出発を待っていたら無理やり下ろされた」(2007年9月19日)
2007年9月3日付けコンパス紙への投書"Dipermalukan Sriwijaya Air"から
拝啓、編集部殿。わたしは2007年8月9日16時20分タンジュンカラン発ジャカルタ行きスリウィジャヤエアーを利用するつもりでした。すべての乗客が搭乗を終えてシートに座ったというのに飛行機は発進しようとせず、乗務員が乗客の人数を数え始めました。そして突然機内アナウンスでわたしの名前が呼ばれ、乗務員はわたしに機内から出るよう命じたのです。わたしはちゃんと切符を購入し、チェックインを済ませて座席番号5Cのボーディングパスをもらっているのだと説明しましたが、乗務員たちはわたしの説明を受け入れようともせず倣岸な態度で今すぐ機内から出るよう命じるのです。この出来事にわたしは自問しました。わたしはボーディングパスを持っている正当な乗客です。乗客数などはチャックインのときにわかっているはずではありませんか。だったらわたしがどんな誤りと犯したというのでしょうか。大勢の乗客が見ている前で機内から出されたわたしはたいへん恥ずかしい思いをし、また粗野な扱いにとても不愉快になりました。
飛行機から降りたわたしはすぐにカウンターに行って苦情しました。そしてわたしの蒙ったできごとはプロフェッショナリズムに欠けるスリウィジャヤエアー乗務員のミスだったことが明らかになりました。スリウィジャヤエアーは乗客をこんなふうに扱うのですか?わたしはスリウィジャヤエアーのフリクエントフライヤーメンバーだというのに、こんなに不愉快で恥ずかしい扱いを蒙ったのです。わたしが蒙った恥ずかしさはとても大きく、そして低劣なスリウィジャヤエアーのサービスにはとても落胆しました。[ ボゴール在住、アンディ・ルッマン ]


「乗客名簿に名前がないひとは運べない」(2007年9月20日)
「機内で出発を待っていたら無理やり下ろされた」(2007年9月19日)の投書に対する2007年9月18日付けコンパス紙に掲載されたスリウィジャヤエアーからの回答
拝啓、編集部殿。2007年9月3日付けコンパス紙に掲載されたアンディ・ルッマンさんの投書について、同氏が購入された航空券は16時20分タンジュンカラン発ジャカルタ行きフライトナンバーSJ−099だったことをお伝えしたいと存じます。アンディさんが出発ロビーのスリウィジャヤエアーカウンターでチェックイン手続きをされたとき、SJ−099便のチェックインは既に締め切られており、そのあとのSJ−087便(タンジュンカラン17時30分発ジャカルタ行き)のチェックインが行われていました。カウンター職員の不注意のためにアンディさんはSJ−087便のチェックインを通りましたが、カウンター職員はアンディさんにSJ−099便の搭乗券を渡したのです。この出来事について当方はアンディさんにお詫びいたします。当方はそのときのアンディさんの状況を理解しますし、またフリクエントフライヤー顧客への尊重も人語に落ちることはございません。航空保安と安全に配慮して当方はアンディさんに下りていただくという決定を下さざるを得ませんでした。アンディさんのお名前はSJ−099便乗客マニフェストに名前が記されていないためです。


「シドアルジョの熱泥は新観光資源」
東ジャワ州シドアルジョ県ポロン郡にあるラピンドブランタス社採掘現場から噴出した熱泥は住民居住地・工場・事務所・店舗そして水田など575Haを広範に埋め尽くしてたくさんの難民を出現させる大型災害となっているが、どうやら人間はだれしも災いを福となす能力を持っているらしく、最近増加しはじめた熱泥見物にやってくる観光客に対する被害住民たちの零細観光事業も上り調子のようす。これまでも、せっかく通りかかったのだから、とルートをそれて熱泥現場を見に来る通過オートバイや乗用車があったが、最近ではその見物を観光コースに含めてやってくるひとびとが増加しており、土日には観光バスさえもが近くの路肩に停車している。
熱泥噴出現場を見るには、スラバヤ方面から自動車専用道路を南下してポロン料金所で一般道に下り、そして道路破損の激しいポロン街道を南下する。ポロン市場の手前で路肩に自動車を停めれば熱泥観光のはじまりだ。もちろんいまだに熱泥災害を受けたあるがままの状態だから観光整備が行われたわけでもない。だから多少の危険を冒すことは覚悟の上。
車から降りた観光客はまず徒歩で鉄道線路を乗り越えたあと、熱泥の氾濫を阻むために造成された堤防に登っていく。この堤防は高さが6メートルあり、その頂上からは熱泥の溜池が一望のもと。1.5キロほどかなたにある熱泥噴出口からはいまだに熱いどろどろした熱泥が噴出しており、水蒸気がたなびいている。ただし噴出は水面下なのでドラマチックなパノラマを期待すると失望することになる。もっとそばまで近寄りたいひとは堤防の上で普段30台ほど待機しているオートバイオジェッに乗って噴出口にもっとも近い堤防に連れて行ってもらうことができるが、それでも噴出口は1キロほど離れている。オジェッ料金はひとり一回3千ルピア。日曜日になるとオジェッは百台くらいに増加する。
観光客が増えたので、周辺住民はいつの間にか観光産業化に取り掛かり始めた。自動車の駐車は有料になり、それを世話する駐車番が車を誘導する。ここの駐車料金は一台なんと5千ルピア。堤防の上まで上がるのに入場料が徴収される。ひとりなんと2千ルピア。飲食品を販売するワルンが並び、中にはご当地土産の熱泥記録VCDまで制作されて売られている。VCDはふたつのバージョンがあり、一枚ものは1万ルピアで2枚ものは2万ルピアとのこと。この民衆による観光産業収益はこの先どれくらい伸びていくだろうか?[ 2007年10月 ]


「ルバラン期はホテルも閑散」(2007年10月11日)
大勢のひとびとが都会から田舎へ帰省するルバラン期には都会のホテルも閑散となる。今年のルバランを前にして都内のホテルは客室稼動ががた減り。中央ジャカルタ市にある4星級のHotel Santika Jakartaは平常期80%の客室稼働率を維持しているが、ラマダン月に入って以来稼働率は低下し、ルバランまであと一週間という昨今は30%を割り込んでしまった。8月から9月中旬ごろまでは客室稼動率が99%まで達した日があるだけにこの転変の激しさには戸惑わされる。南ジャカルタ市のスマンギ立体交差に接するスナヤン角地のHotel Sultanでは、ルバラン休暇が始まると客室稼動が少しアップするだろうとホテル側は見込んでいる。電話による宿泊料金等々に関する問い合わせがここ数日増えており、それがすぐに予約に結びついているわけではないものの、ルバラン休みに家を閉めてホテルでのんびりしたい客層がホテル探しをはじめていて、かれらはあちこち問い合わせして条件を比較検討しているところではないか、と同ホテルのマネージャーは語っている。昔のHotel Hiltonだった5星級のホテルスルタンもラマダン月前の客室稼働率40%はラマダンに入ってから30%に落ちている。
タムリン通りのHIロータリーに近いHotel Nikkoは平常月に380室の90%が稼動しているのが普通だが、ラマダン月が進むに連れてそれが70%まで低下した。ラマダン月に入って低調になった都内ホテルの客室稼動はルバラン日に多少の回復が期待され、それを過ぎたあとはルバラン後の一週間雌伏の時を送ってから状況が復旧するのを待つことになる。


「ホテル新設計画」(2007年10月12日)
国際ホテルチェーンふたつがインドネシアに進出してくる。そのひとつはStarwood Hotels and Resort Worldwideの子会社St. Regis。同社はバリ州ヌサドゥアに8.8Haの地所を確保して81ホテルスイート・41リゾートビラ・14豪華邸宅を擁するSt. Regis Resort and Residencesを建設する計画。さらに次のステップは都内スティアブディ地区にSt. Regis Hotel and Residencesを設ける計画にしており、170客室と284豪壮アパートメントは2011年の開業予定。
もうひとつはアメリカのフェニックスを本拠とするBest Western International Inc.で、インドネシア全国20ヶ所にホテルを開業する計画を立てており、この先2年間で4ヶ所をスタートさせる予定。
都内での新規ホテル建設はふたたびブームが始まっており、2009年までに下のように9軒のホテル建設計画が公にされている。
2007年 : Orchardz 3星級 グヌンサハリ地区
2008年 : Patria Park-Ibis Hotel 3星級 DIパンジャイタン地区、 Hotel at mall of Indonesia 3星級 クラパガディン地区、 Aston Grand SOHO Slipi 4星級 スリピ地区、 Aston Mangga Dua 4星級 マンガドゥア地区、 Aston Marina Ancol 4星級 アンチョル地区
2009年 : Equator Hotel 4星級 ラスナサイッ地区、 Hotel Menteng Group 4星級 ラスナサイッ地区、 Novotel Sophie Martin 4星級 TBシマトゥパン地区


「ジャカルタの深夜族はどこへ行く?」(2007年10月18日)
ジャカルタは巨大なカンプン(kampung)と呼ばれて農村型ライフスタイルに特徴的な早寝早起きが一般的だったが、インドネシア最大の都市であるジャカルタにはやはり大都市の名に恥じず深夜族が徘徊するスポットも誕生している。昔から特定のロケーションには青灯紅灯の巷があって一部特定消費者を誘蛾灯のように誘っていたが、深夜族の集まる場所とは多少色合いが異なっていた。
いま都内にはヤング深夜族が集まる場所が生まれている。タムリン通りに面したプラザサリナ(Plaza Sarinah)は安全性とアクセスの便から筆頭に位置付けることができる。サリナビルには24時間営業のレストやカフェが入っており、深夜族に人気の高いスポットのひとつだ。そこから北東に向かうとサバン通り(Jalan Sabang)そしてもう少し先にジャクサ通り(Jalan Jaksa)があり、庶民的でローカル色の濃いナイトスポットを楽しむこともできる。ただしこのエリアはカキリマ屋台やプガメンがあまり秩序なく個々に商売を営んでいる場所であるため、高い期待を抱くのは禁物だろう。
同じ中央ジャカルタ市だがもっと東のメンテン地区にも深夜族の集まる場所がある。チディティロフードパーク(Cik Dik Tiro Food Park)がそれだ。ここにはde Kampoengs, WB Sop Iga Bakar, Wr Bulik, Yogurt Cisangkuy, dim sum, nachosなどバリエーションに富んだ食の楽しみに加えてライブ音楽やワイドスクリーンのサッカー中継を見物する愉しみもある。チディティロフードパークはシンプルなスンダ様式の邸宅の庭が使われていて気取らない快適さが受けている。椰子の繊維イジュッを屋根に使った素朴な家屋のたたずまいは饗される料理が家庭料理の趣を漂わせている点に相通じている。フードパーク運営者は、仲間たちやカップルでやってきたヤング層がおしゃべりしながら飲食する姿が朝まで絶えない、と語っている。
南ジャカルタ市に下ると今売り出し中のクマンフードフェスト(Kemang Food Fest)がある。4千5百平米のオープンスペースにMangkok Putih, Sushi Misei, Raja Bubur, Olalaなど15軒のキオスクが並び、中には朝まで営業する店もある。オープンエアーのアウトドアフードコートというコンセプトで設けられたのがこのクマンフードフェストで、都下で最高のエクスクルーシブナイトスポットだと運営者は自賛している。ユニークなのはここにJingga Boutiqueという若者向けファッションブティックが営業していることで、多くの客がふらりと立ち寄って品定めに余念がない。ここはアルコールオフリミットなので、ここに来る深夜族は朝までしらふで楽しんでもらうことになる。週末にはライブ音楽も演じられている。


「ゴミに埋もれたボロブドゥル」(2007年10月24日)
ユスフ・カラ副大統領が示唆したように、2007年ルバラン後の長期休暇は地方部の観光地における大量の行楽客動員を成功させたようだ。中部ジャワ州マグランにあるボロブドゥル遺跡を10月13日から21日午前までに訪れた行楽客は201,330人に上り、2006年ルバラン明け休暇時から65%もアップした。中部ジャワ州バニュマス県にあるバトゥラデン(Baturraden)観光地でも、ルバラン休暇中の来訪者は8万5千人に達して目標の6万人を大幅に超え、運営管理者を喜ばせた。
一方、チャンディボロブドゥル(Candi Borobudur)観光管理者は遺跡の随所にゴミが散乱している有様を嘆いている。ゴミは飲食物の容器やタバコの吸殻がメイン。『飲食物持ち込み禁止』の表示がなされ入り口でも係員が注意するものの飲食物を手に提げてそこを押し通っていく入場者も少なくない。おまけに遺跡内の各所に置かれた65のゴミ箱はあまり使われず、行楽客たちは普段の習慣通りその辺りにゴミを投げ散らかして移動する。ゴミは石を敷き詰めた床の上にだけ散乱しているのでなく、積み上げられた石の隙間にまで押し込まれている。
管理者側は、このような現象は国内行楽客の来訪が増えるルバラン休暇や学年末休みの時期になると繰り返されることで、今回に限ったことではないとコメントしている。ゴミ箱は普段の40個から65個に増やし清掃員も増員してゴミの対応に備えたが、結果は毎回似たようなものであるらしい。


「ルバラン休暇中のホテル客室稼動は好調」(2007年10月25日)
都内タムリン通りに面したホテルニッコーでは、380の客室と11スイートの今年の稼働状況が昨年のルバラン休暇時に比べて65%もアップしたとのこと。同ホテルは今年のルバラン休暇パッケージ料金を、スペリアールームは平常の一泊80万ルピアから55万ルピアに、デラックスルームは通常一泊料金120万ルピアを85万ルピアに下げて宿泊客の誘致をはかった。平常時の宿泊客は9割方が企業関係だという同ホテルはこの期間に限ってビジネス客の姿があまり見られず、家族客が大半という珍しい情景が見られた。
国内あちこちの観光地に散らばっているアコーホテルズ傘下の諸ホテルはルバラン休暇中客室稼動100%を記録したところが多かった。ジョクジャ・バリ・ロンボッ(Lombok)は満員御礼となったがバリッパパン(Balikpapan)は80%の稼働率で終わったとのこと。
西ジャワ州チアテル(Ciater)のSari Ater Hot Spring Resortも10月21日のルバラン休暇最終日まで客室稼働率は100%だったそうだ。温泉と高原の自然を売り物にしたこのリゾートには日帰り客も訪れる。今年の来訪者は昨年から2割増で、ルバラン明けの5日間で13万8千人が訪れた由。それほどの規模の集客は普段から想定されておらず、駐車場スペースが不十分であったことから自動車が長蛇の列を作った。
都内スディルマン通りのホテルサヒッジャヤ(Sahid Jaya)はルバラン期間中の客室稼働率が50%だった。ジャカルタの高星級ホテルはたいていが企業関係者をメインの顧客にしており、サヒッジャヤもその例にもれない。こちらもホテルニッコーと同様に特別パッケージ料金をオファーして家族客の誘致を図った。デラックスルームは平常時の一泊70万ルピアから大きく下がった48万ルピア、そしてスペリアールームはもっと安い44万5千ルピア。その結果今年は昨年のルバランより客室稼働率が向上したとのこと。


「ムラピ山溶岩ツアーはアブナイ」(2007年11月13日)
ジョクジャ特別区北端で中部ジャワ州と境を接するムラピ山は2006年6月に大噴火を起こし、その後も小康状態ではあるものの火山活動は継続しておりいつまた災害を引き起こすかしれないという状態。一方そんな危険な状態であればこそ、普段めったに見ることのできないものを近くで見学したいという望みを人間であればだれしも抱くもの。ムラピ火山の勇壮な姿を眺めるための展望台は数ヶ所用意されているが、噴火したあとの火山の生々しい姿をすぐ近くから見ようというツアーはセンセーションを求めるひとびとに絶好の売り物で、溶岩ツアー(Lava Tour)と銘打った観光ツアーが噴火後一般観光客向けに売り出された。このツアーはムラピ火山南側中腹のチャンクリガン郡クプハルジョのカリアドゥム(Kaliadem)村まで登って火口に近い場所からムラピ山を見学しようというものであり、昨年の噴火時に地元民の避難を応援するためにカリアダムまで登った男性ボランティアふたりが逃げ遅れて避難所バンカーの中で死体で発見されたニュースが全国報道されて話題を集めたが、そのバンカーも観光コースの重要なポイントに組み込まれている。しかしこの溶岩ツアーも今年のルバランシーズンには6,866人が訪れただけで、2006年ルバランシーズンの14,105人という賑わいから大きく後退してしまった。
溶岩ツアーは確かに山麓の寒村に金を落としてくれるありがたい産業であるものの、ムラピ火山がいつどう動くか予想が難しく、特に大勢の観光客が山に入っているときに火山泥流や熱雲放出が起これば統制が取れずに大災害となるおそれが高いため、ジョクジャ火山学自然災害軽減センター火山技術R&D館が地元観光業界に対して溶岩ツアーは大々的にプロモーションしないようにし、教育や調査といった学術的なものだけに限定して実施するように勧告を出した。スレマン県観光文化局観光課長はそれに応じて、40ミリを超える雨が2時間連続して降れば火山泥流が発生する可能性はきわめて高く、一般者の観光は常時最大の警戒態勢を取らなければならないと業界者に警告し、カリアダム地区への観光を禁止はしないがより安全な地区に観光先を移すよう要請してムラピ山北西のムルディコレジョ村のトゥルンポン(Trumpon)地区を推薦した。カリアドゥム地区のキャンプ場は既にグラガレジョ(Glagahrejo)に移されている。


「溶岩こぼれるアナクラカタウの麓で夜営するフランス人」(2007年11月15日)
火山活動が活発化しているスンダ海峡のアナクラカタウ(Anak Krakatau)火山は2007年11月10日、山頂からの小規模な噴火が数分ごとに起こるという断続的な活動になり、爆発音が轟くたびに南側に広がった新しい火口から焼けた火山弾が山の周囲に撒き散らされ、その後は細かい火山灰粒子から成る黒煙が山頂から数百メートルの高さまで立ち昇った。そのような状況は翌11日一杯まで継続しており、山頂の噴火口も従来の直径70メートルから今では150メートルまで広がっている。火山の爆発震動が起こす地震は11月7日に471回、8日411回、9日390回、10日399回と推移している。
ところで火山警戒警報で最高レベルが発令されて一般人の接近が禁止されているというのに、フランスからやってきた12人のグループ観光客は11月9日にアナクラカタウ島に上陸してその夜現地で一泊した。その夜テントを張って野営したこのグループはかれらの寝所のすぐ近く、およそ3百メートル上で溶岩がこぼれ落ちているというスリルとセンセーションに満ちた夜を満喫したにちがいない。このツアーを企画したフランスの旅行代理店Aventure et Volcansの経営者はガイドとしてこのグループに同行しており、噴火している火山に登った経験は豊富で何も心配いらない、と語っている。
一方ジャワ島西岸のセラン(Serang)県アニエル(Anyer)〜チナンカ(Cinangka)からパンデグラン(Pandeglang)県チャリタ(Carita)地区にかけての海岸は大勢の観光客がバスを連ねて訪れており、アナクラカタウ噴火以前の週末と変わらない賑わいを呈している。観光客の大半はセラン・チレゴン・パンデグラン・タングラン・ジャカルタからやってきたひとびとで、火山の噴火におびえる気配はさらさらなく、むしろ噴火を遠望する楽しみが増えたことを喜んでいる。


「首都圏の第3四半期ホテル業界は低調」(2007年11月30日)
インドネシア銀行が報告した2007年第3四半期のジャボデタベッ地区ホテルセクターの状況は3・4・5星級ホテルの部屋数が第2四半期から755増加して23,603室となった。この部屋数の増加の詳細について報告の中では明らかにされていないが、第3四半期に建設が終わって開業した新しいホテルがあることは疑いない。
第3四半期首都圏のホテルは客室稼働が前四半期から悪化しており、それにつれて宿泊料金も低下している。全体で見ると3・4・5星級ホテルの客室稼動率は前四半期から8.5%ダウンして65.7%となった。宿泊料金も全体では4.1%下がっている。もっとも下がり幅の大きいのは5星級ホテルで、前四半期の一泊106万ルピアから98万ルピアへと7.5%ダウンした。


「子供の座席を狙う航空会社職員」(2007年12月5日)
2007年10月9日付けコンパス紙への投書"Lion Air Minta Anak Dipangku Saja"から
拝啓、編集部殿。2007年9月8日、わたしは母と5歳の子供と三人でライオンエアーPT8772便でジャカルタからパレンバンに飛びました。出発予定時間は16時50分でしたが2時間以上遅延しました。わたしたちは三人ともひとつの座席を予約していたのです。
A2番待合室で搭乗アナウンスを待っていると、ライオンエアー男性職員が「搭乗券を持っているか?」とわたしに尋ねてきました。わたしが搭乗券を三枚示すとその職員は、わたしの子供をインファント扱いにしてもらえないだろうか、と言うのです。それはつまり子供を膝に抱いてひとつの座席にすわることを意味しています。その職員は「家族が亡くなったのでどうしても故郷に帰らなければならないのだが切符が手に入らないひとがいるんです。」とその理由を言い、もし協力してもらえたらライオンエアーは切符代として7万ルピアを返却するとも言いました。しかしわたしは子供の切符を25万5千ルピアで購入し、そして3万ルピアのエアポートタックス(空港施設使用料)も払っているのです。わたしは一瞬それに同意しようかと思いましたが、踏みとどまりました。そのときスカルノハッタ空港出発ターミナルはたいへん混雑していました。その男性職員はわたしに同意を促してしつこく迫りましたが、わたしは子供のためにその座席を手放しませんでした。
それから45分ほどたって、こんどはライオンエアーの制服を着た女性職員に尋ねられました。わたしの子供は搭乗券をもっているのか、そしてインファント扱いにできないか、と。つまりこの女性職員もわたしの子供の座席を7万ルピアで手に入れ、わたしに子供を膝に乗せてパレンバンまで行かせようとしているのです。この職員はその理由を、バゲージが多すぎるので機体が別のものに変更されるのだ、と言いました。
不愉快はピークに達しました。この航空会社職員はどうしていろいろな理由をつけてしつこく子供の座席を狙い続けるのでしょうか?ライオンエアー職員のしつこいプッシュにさらされてわたしのストレスは破裂しそうになりました。好運にも他の乗客がわたしの味方をしてくれ、ライオンエアー職員の求めに応じることはない、と言ってくれました。もしわたしが応じたら、飛行機は乗客過剰になって負荷が増えるのだ、とも。
ライオンエアー職員はエキストラ収入を求めるのにこんな方法を取るのですか?体重25キロの5歳の子供を膝に抱いて飛行機に乗るのはまともなことなのでしょうか?[ 南ジャカルタ市在住、イドゥル・フィトリ・ジュハナ ]


「ある乗客のライオンエアー体験記」(2007年12月11日)
2007年11月2日付けコンパス紙への投書"Pengalaman Buruk dengan Lion Air"から
拝啓、編集部殿。ジャカルタでルバランを過ごしてからわたしは故郷のパダンに戻ろうとして、2007年10月15日12時20分スカルノハッタ空港発ライオンエアー1JT3548便の航空券を買いました。その日待合室でしばらく待たされてからその便の乗客は全員バスに乗って飛行機に向かうよう案内されました。ところが乗客がみんなバスに乗ったというのにバスはいつまでたっても発車しません。わたしたちは全員およそ40分間、バスの中で待たされました。
やっとタラップを上がって機内に乗り込んだものの、中はエアコンの効いた涼しい客室と思いきやエアコンは止まっていてまるでオーブンの中にいるような暑さです。機体に異状があるのではないかとわたしはそのとき疑念を抱きました。そのうだる暑さの中で乗客はさらに腹の底を火照らせようとしているとしか思えないパイロットの言動を眼のあたりにしたのです。「乗客のみなさん、今のこの状態がお気に召さない方はどうぞわたしに申し出て、そのあとこの飛行機から降りてください。」スッゲェ〜〜!!
その挑発に応じて、乗客の何人かは搭乗をキャンセルして飛行機から降りて行きました。わたしは他の乗客たちといっしょに、ただひたすらこの飛行機が間もなくテイクオフすることを念じながら、機内に座っていました。そのような状態で1時間半が過ぎ、そしてとうとうやってきたのは朗報などではありませんでした。乗客は全員降りて待合室に戻るように、という案内です。搭乗をキャンセルした乗客のバゲージを下ろさなければならないので、その作業にかなり時間がかかるから、というのがその理由でした。スチュワーデスが「ほんとはこの飛行機の出発準備は完了しているのですが、乗客の荷物を下ろさなければならなくなったので・・・」と言う言葉に慰められて、わたしたちはムカつく感情を抑えながら待合室に戻りました。ところが、キャンセル客のバゲージを下ろせばテイクオフだ、という甘い期待は粉みじんに打ち砕かれたのです。
待合室でただただ待っているわたしたちの頭上を2時間という時が流れ去って行きました。ライオンエアー職員が繰り出してくるあれやこれやの口約束にわたしの堪忍袋の緒はもうプッツン。乗客のひとりがライオンエアー職員から聞いた話が伝わると、もうみんなゲンナリです。「飛行機の準備は終わっているんだけど、クルーがいないんですよ。」
16時半になってやっと搭乗案内が出されました。これでやっと故郷に帰れるのだと思ってわたしの気持ちは晴れました。ところが機内に座って出発を待っているとスチュワーデスがやってきてわたしに降りるように言うのです。わたしは疱瘡にかかっていて他の乗客に移ることが懸念されるからだというのが理由でした。もしそんな理由で搭乗が拒まれるのなら、チェックインのときにも、一度この機内に入ったときにも、どうしてだれも一言もそれを言わなかったのでしょうか?最後の最後になってこんなことになるなんて、わたしは失望と屈辱でガックリです。航空券の払い戻しの世話をしてくれるというライオンエアー職員ひとりに付き添われてわたしはターミナルビルに戻りました。チェックインカウンターの職員のところまでわたしを案内するとその職員はすぐに行ってしまいましたが。カウンターにいたD〜という女性職員は一言の謝罪を言うでもなく倣岸な口調で、「リファンドはその航空券を買った代理店に行って下さい。」とだけ言うのです。「搭乗が拒まれたのだから、ここで払い戻しを受けるのが筋じゃないか」とわたしが言っても取り合おうとしません。もしその代理店が素直にリファンドしようとしなかったらどうすればいいのかと尋ねるたところ、ひとを見下す高慢な口ぶりで「ライオンエアー本社に言ってください。」です。愛想も何もあったものではありません。
航空券を買ったV〜ツアー&トラベルへ行くと、思った通りリファンドはすぐできるわけでなく、二週間かかると言われました。結局わたしは癒せない気持ちを押し殺して、帰心矢のごとき故郷への帰途に立ちました。二度とライオンエアーとは関係を持つまい、と心に誓って。[ パダン在住、ヘルミ・アルディアル ]


「ライオンエアーだけじゃないよ」(2007年12月11日)
2007年11月21日付けコンパス紙への投書"Dua Kali Jadi Korban AdamAir"から
拝啓、編集部殿。2007年10月28日、わたしはファミリーの集いがあるため姉とふたりでジョクジャへ向かいました。このファミリーの催しは午前10時に始まるので、わたしは7時50分スカルノハッタ空港発ジョクジャ行きアダムエアーの切符を買いました。そしてその日のうちにジャカルタへ戻ってくるつもりで、17時25分ジョクジャ発アダムエアーの切符も同時にジャカルタで買いました。28日は午前6時にスカルノハッタ空港に着き、すぐその足でチェックインカウンターに行きました。ところが悔しいことに、チェックインカウンターのアダムエアー職員は出発時間が午前10に延期されていると言うのです。パレンバンから飛んでくるジョクジャ行きの飛行機がまだ到着していないので出発時間が遅れるのだそうです。出発時刻が10時なら、10時に始まるファミリーの催しに間に合うはずがありません。結局わたしたちは別の航空会社を使うことにしてアダムエアー職員にフライトを探してもらい、午前9時発のマンダラ航空に乗ることになりました。ところがそこに問題が持ち上がったのです。
アダムエアーはマンダラ航空との運賃の差額をわたしが全額負担するよう求めました。わたしはとても不愉快になって腹を立てました。だってこれはアダムエアーが責任を負うのが筋ではありませんか。そこで押し問答となり、結局マンダラ航空の出発時間が迫ってきたのでわたしのほうが譲歩せざるを得なくなり、最終的にアダムエアーが差額の三分の一を負担しわたしが三分の二を支払うということで合意したのです。
ジョクジャのアディスチプト空港に降りてから、わたしはすぐに帰りのフライトのコンファームをアダムエアー職員に求めました。職員はステータスOKだと確認し、わたしの携帯電話番号を書きとめました。それらの手続きを済ませてからわたしと姉はジョクジャでファミリーの催しが行われている場所を目指したのです。
そしてまだ名残惜しい中、ジャカルタへ戻るためのフライト時間が近付いてきたのでわたしと姉は16時にアディスチプト空港に戻ってチェックインしようとしました。するとどうでしょう、またまた腹立たしい思いを味わわせられることになったのです。ジャカルタ行き17時25分という出発予定は19時10分に延期されているではありませんか。どうしてわたしの携帯電話にこの情報を流してくれなかったのでしょうか?そのようなサービスをするためにわたしの電話番号を控えたわけではないということなのでしょう。結局わたしたちも他の乗客もジョクジャ空港で3時間もの時間の浪費を強いられてしまいました。わずか12時間の間にわたしはアダムエアーの支離滅裂な業務パフォーマンスの被害を2度も蒙ることになってしまったのです。[ ジャカルタ在住、アディエリ・フル ]


「大晦日ショーの都知事規則がやっと出る」(2007年12月21日)
料金に関する都知事規則が出ないために予約販売ができないと苦情が出されていた大晦日のショーの入場券販売がやっとできるようになった。ニューイヤーイブの催し物に関する2007年都知事規則第166号では、催し物実施者によって徴収してよい最高金額が規定されている。4星・5星級ホテルの新年前夜祭催し物はトップ歌手やスターが登場するディナーショーが話題をにぎわすのが常で、今年のその種の催し物入場料はひとり1千5百万ルピアを超えてはならない。これはもちろん食事等を含んだもの。2星・3星級ホテルはそれがひとり6百万ルピアとなる。更にジャスミン級ホテルでは4百万ルピア。ナイトクラブとディスコはひとり5百万ルピア、映画館の新年ミッドナイトショーはひとり60万ルピア、レストラン・食堂・カフェ・バー・パブ・貸パーティ場などはひとり2百万ルピアが上限とされた。それらの催事場所別上限料金は食事・飲み物・税・サービス料などを含むもので、要するに客からそれ以上の金額を徴収してはならないということ。
首都のナイトスポットの60%が集まっている西ジャカルタ市では、12月17日現在催し物許可申請は10件届いているだけだ、と市庁観光局長は言う。その10件は高級ホテルばかりだそうで、昨年は20件の許可を出したから今年はまだ申請が来るのではないか、とのこと。西ジャカルタ市にはバー76店、マッサージパーラー65店、ディスコ51店、スチームバス9店、スピードボール等8店、ナイトクラブが6店登録されている。もしニューイヤーイブの催しに外国人アーティストを出演させる場合は、国家諜報庁から集会許可を得なければならない。許可を得ないで催し物を開催した場合、最高30日間のショー実施禁止措置が与えられることになる。


「ジャカルタでボーリング」(2007年12月28日)
ボーリングはインドネシア語でboling。発音はボーがあまり長くならずわれわれの耳には「ボリン」と聞こえるから、はじめて耳にしたひとはbowlingと咄嗟に結びつけるのが困難で阿呆ヅラをさらすことになりかねない。いや、それはわたしだけかも知れないが・・・・。
bowlingからbolingへのインドネシア語化がなされたのは1983年のことであり、当時のアフマッ・タヒル観光逓信大臣が全国ボーリングクラブ選手権大会会長を務めたときにそれを定めた。モノノホンによればボールを転がしてピンを倒すゲームはエジプト文明の中に出現していたそうで、紀元前5千2百年ごろの子供の墓から現代のボーリング用ボールと類似の玉が発見されているという話だ。古代ポリネシアでも石のボールとピンを使うボーリングが行なわれていたらしく、そのときのリリースラインとピンの距離18メートルは現代の10ピンボーリングによみがえっているとのこと。現代の10ピンボーリングはオーストラリアのビクトリア州バララットで1885年に始まったらしい。10ピンになる前は9本だったのだろうか、アメリカでオランダ人が入植した地方ではカーツキル山脈のかなたから響いてくる遠雷を九柱戯の音にたとえる言い習わしがあるようで、ワシントン・アービングの名作リップ・ヴァン・ウインクルの中の話しは興味深いものがある。
インドネシアにはじめてオープンしたボーリング場はジャカルタのホテルカルティカプラザ内ボーリング場で、16レーンのボーリング場が1970年に幕開けしたあと、ホテルカルティカチャンドラに隣接するボーリング場やブロッケム、アンチョルなどにもボーリング場が続々とオープンした。しかしホテルカルティカプラザはジャカルタでの営業をやめて取り壊され、ホテルカルティカチャンドラ隣接ボーリング場はその後プラネットハリウッドに姿を変えてしまい、ブロッケムのボーリング場もアルディロンプラザの建て替えで姿を消した。1971年に北ジャカルタ市アンチョルにオープンした60レーンの巨大ボーリング場がジャカルタでは、そしてインドネシアでの、現存最古のボーリング場で、今ジャカルタにはボーリング場が8ヶ所あり、最新のものは2005年に4レーンで開業したPit Stop Kartingであるとのこと。
北ジャカルタ市モールアルタガディン(Mal Artha Gading)の最上階で21映画館チェーンと同居しているアルタガディンボーリングセンターはアンチョルのJaya Ancol Bowlingとオーナーが同じ。このモールは巨大な規模であるにもかかわらず南ジャカルタのモールほど客が集まっていないから、人間の海に生理的嫌悪感を抱く人にとってはゆったり過ごせるジャカルタの数少ない場所かもしれない。ともあれ、ジャカルタでボーリングもたまには良いものだ。


「2007年大晦日の夜、ジャカルタは」(2007年12月31日)
都内で例年「ハッピーニューイヤー!」「スラマッタフンバル!」の掛け声とともにドンドンと花火が打ち上げられる三大会場はアンチョル・モナス・タマンミニ。
今年アンチョルでは中国とオーストラリアから取り寄せられた花火3千8百発程度がパンタイカルナヴァル・旧ドライブインシアター・プトリドゥユンコテージ・パンタイリアの4ヶ所で打ち上げられる。しかしメインはパンタイカルナヴァルが予定されており、他の三ヶ所は入場客を散らすためのもの。一ヶ所だけで過密状態にしてしまうと視野が狭まって満足感が減少する。極力観客を散らばせてアンチョルの夜空を彩る花火をあらゆる場所から余裕をもって見えるようにしたい、という主催者側の配慮がそれ。中でも「請うご期待」の声がかかっているのは2008という数字を夜空に描き出す花火。およそ15分間の夜の大ページェントを今年は何万人が潮風の中で楽しむことだろう。アンチョルドリームランド運営者はこの催しに2億ルピアの予算を組んでいる。
モナスではスペイン・オーストラリア・中国・日本から取り寄せられた花火1万発が打ち上げられる。打上は2008年1月1日0時0分を期して開始され、30分間フルに夜空が彩られる。もちろんその前にも景気付けに花火が上がるが、22時と23時の打上は3分間のみ。これはインドネシア東部地方の年替わり、インドネシア中部地方の年替わりに向けられたお相伴。都庁の花火打上予算はゼロで、すべて某民間テレビ局と某タバコ会社によってまかなわれる。都庁はモナス一帯の警備に2千人を動員し、ムルデカ広場周辺道路は17時から自動車乗り入れ禁止とし、その外側にあるビル管理者に対して駐車場を開放するよう求めている。
タマンミニではおよそ15分間、プラザアルシプル(Plaza Arsipel)から花火が打ち上げられる。そこで打ち上げる花火がヌサンタラ諸島の浮かぶ池に反映して頭上と足元にえもいわれぬセンセーションを与えてくれるのだと主催者は言う。主催者はこの花火打上に1億ルピアほどの予算を計上している。
ノンマイカー族にとってそんな大晦日の夜の足確保に首都バスウエイは絶好の交通機関だというのに、その夜の運行は20時で打ち切ることをバスウエイオペレータが計画している。大晦日夜は元日0時に向けて都内要所で人出が活発になること、またそれにあわせて自家用車の交通が激しくなることを考慮してのものだとオペレータは説明しているが、都議会はバスウエイの夜間運行を望んでいることから、バスウエイオペレータとしては都庁運通局とトランスジャカルタ公共サービス機関に下駄を預けて最終決定を待っているところ。ともあれ花火観覧から初日の出までノンマイカー族の多くは出先で時を過ごす人も多く、翌朝になれば再びバスウエイの運行が始まるから心配は無用。「1月からバスウエーは運行停止?!」(2007年12月27日)の報道は、BLUTからオペレータへの満額支払が既になされたようなので、単なる人騒がせ情報で終わった。ただしPPN問題がどうなったのかはよくわからない。
ところで都庁観光局は首都警察の協力を得て、都内ナイトスポットの営業状況を巡回視察する。そのために観光局職員・首都警察要員・都庁行政警察職員150名に加えて都下5市庁からそれぞれ30名がこの検問に動員される予定。検査ポイントは2008年新年催し物プログラム実施に関する2007年都知事規則第166号に対する違反とのこと。
爆竹が禁止されて首都圏では官憲による抑え込みがかなり強力に進められたため、あのうるさい爆竹の連射音もいまではかなり鳴りを潜めるようになった。ところが今度は爆竹に代わって花火がいたるところで販売されており、ひとびとは爆竹代わりにそれを鳴らして遊んでいるから騒音嫌いにとっては何も変わらない。この年替わりの夜はロケット花火のバンバンと、いまだに禁止令を破って鳴り響く単発爆竹音と厚紙ラッパのブーブーを聞かされながら浅い眠りに就くことになりそうだ。読者の皆様、よいお年をお迎えください。


「妊娠2ヶ月でも医師の搭乗許可がいる?!」(2008年1月22日)
2007年11月13日付けコンパス紙への投書"Wanita Hamil Dipersulit Naik Pesawat Terbang"から
拝啓、編集部殿。ライオンエアー/ウイングスエアーは妊娠中の乗客に困難を与えているように感じます。わたしがスラバヤからマカッサルに出発するさいには何の問題もなかったというのに、マカッサルからスラバヤに戻るために2007年10月28日19時15分発WI8555便に乗ろうとしたさい、わたしはすんなりと飛行機に乗ることができず、ライオンエアー側が指定したクリニックで搭乗しても問題ないという診断書を出してもらうために5万ルピアの出費を余儀なくされたのです。
搭乗チェックインのさい、係員がわたしに妊娠何ヶ月かと質問し、医師の診断書を持っているかと尋ねました。わたしは正直に、妊娠2ヶ月で医師の診断書は持っていない、と答えました。わたしの知っているかぎりでは、医師の診断書が必要とされるのは妊娠6ヶ月以上の場合です。しかし係員はわたしのチェックイン手続きをとりやめ、先に医師の診断書を持ってきてください、と言いました。
「そのような規則がどこに書かれているのか?それが書かれているものを見せてほしい。」とわたしは係員に求めましたが、係員はまじめにそれに対応しようとはしません。自分で一切の責任を持つという保証書を書きましょうか、それともスラバヤにいるわたしのかかりつけの産科医に電話しましょうか、とわたしは代案を提示しましたが、その係員はまったく聞く耳を持たず診断書を持って来いの一点張りです。思い余ってわたしは空港のデューティマネージャーにコンタクトしてみましたが、何の解決も得られませんでした。
わたしは仕方なくその係員の指示に従うことにしました。空港の到着ターミナルにあるクリニックへ診断書をもらいに行くのです。たいへん距離の離れている到着ターミナルまで歩いたところ、クリニックは16時に閉まったことがわかりました。ふたたびわたしはチェックインカウンターに戻りました。
するとわたしは空港敷地内にある空軍のクリニックに連れて行かれたのです。そこへ運んでくれる車が来るまで30分も待たされました。クリニックに着くと、医師は検査など何もせずに「搭乗して良い」という診断書をすぐに作り、わたしに5万ルピア払うよう命じました。そこにはわたし以外にも妊娠初期の女性が3人、診断書をもらいに来ていました。そしてわたしは結局、一切の責任は自分が負うという保証書にもサインさせられたのです。
もし本当にそんな規則があるのなら、どうして航空券を販売する時点でその啓蒙告知が行なわれないのでしょうか?[ スラバヤ在住、デウィ・ヤナニンディヤ ]


「首都で続々とホテルがオープン」(2008年2月27日)
ジャカルタでは今年、Meeting, Incentive, Convention, Exhibition (MICE)活動促進に合わせてホテルの客室稼動と宿泊料金が並行して上昇するだろうと言われている。首都のホテル業界を訪れるにちがいない活況の一翼にあずかろうとして新規ホテルオープン計画も賑わいを増しているありさまだ。中でもアストンとノボテルの両国際ホテルチェーンがこの先二年間に計画している新規オープンは目覚しい勢い。
コリエールズインターナショナルの調査によればジャカルタを訪問する外国人の70%は会議やビジネス訪問あるいはビジネス活動支援を目的にしており、都庁が首都でのMICE活動促進方針を打ち出しているのは時宜にかなったものだ、とのコメントが出されている。新規オープンの予定が立てられているホテルは3・4・5星級にまたがって分布し、また都内5市のすべてに散在している。コリエールズデータによればその内訳は下の通り。
5星級 (ホテル名 オープン予定 地区)
The Grand Aston Ambergo 2008年 南ジャカルタ市
Kempinski Grand Indonesia 2008年 中央ジャカルタ市
Sofitel Senayan City 2008年 中央ジャカルタ市
Westin 2009年 中央ジャカルタ市
Sol Elite Marbella 2009年 北ジャカルタ市
The St. Regis Hotel & Residence 2011年 南ジャカルタ市
The Regatta 不明 北ジャカルタ市
4星級
Aston di Grand Soho Slipi 2008年 西ジャカルタ市
Aston Mangga Dua 2008年 中央ジャカルタ市
Aston Marina Ancol 2008年 北ジャカルタ市
Pluit Emporium 2009年 北ジャカルタ市
Four Points 2009年 南ジャカルタ市
Swiss-Bell (Grand Kartini) 不明 中央ジャカルタ市
3星級
Patria Park-Ibis Hotel 2008年 東ジャカルタ市
Formule 1 Cikini Raya 2008年 中央ジャカルタ市
Formule 1 Meruya 不明 西ジャカルタ市
Harco Hotel 不明 中央ジャカルタ市
Rawa Bening 不明 東ジャカルタ市
Treva 不明 中央ジャカルタ市
都内の繁華街近辺で小型ビジネスホテル事業を進めているFormule 1チェーンはチキニとムルヤで、またアイビスもパトリアパークを年内の近いうちに開店させるとのこと。アストンは年内に三ヶ所でホテルをオープンする予定で、マリーナアンチョルはMediterania Marina ResidenceのタワーAに入る。ノボテルは南ジャカルタでSophie Martin Novotelをオープンし、マンガドゥアのノボテルは拡張が行なわれる。アストンはGrand Aston Ambergoが南ジャカルタのアパルトメンベレッザに入ることになっている。


「オーバーブックをしたのに機内であなたは次の便に・・・!」(2008年3月5日)
2007年11月28日付けコンパス紙への投書"Penumpang Lebih di Garuda"から
拝啓、編集部殿。2007年11月7日、わたしは午前6時5分ジャカルタ発ジョクジャ行きGA202便に乗りました。ところが搭乗券をもらい、機内に入った後、地上職員のまったくいい加減な業務態度のためにわたしはたいへん不快な体験をすることになったのです。わたしは5回も座席を移動させられました。コンピュータがダウンしたので搭乗券発行がマニュアルになり、乗客の座席割当が混乱したというのがその理由です。そして乗客数が座席数より4人も多いことが明らかになったとき、事態は一層紛糾しました。挙句の果てに職員はわたしに次のフライトにチェンジしてほしいと言うのです。わたしは航空券の予約ステータスもOKになっていたし、搭乗券はコンピュータで打ち出されたものであり、そして乗客名簿にもわたしの名前が載っているのだと主張しました。飛行機事故で乗客名簿にあったひとが死亡したと報道されたのにそのひとは実際には生きていたという事件があったのを、まさかガルーダ航空は忘れたわけではないでしょうに。フライトを変えるのはわたしにとってたいした問題ではありませんが、だからと言ってガルーダ側のいい加減な扱いに従うべきか、それとももっと職業精神をつけてもらうために突っぱねるかでわたしの心はアンビバレンツに陥りました。機内後部に医師に付き添われて座席に横になっている病人がいるのが見えました。そのひとは午前4時半から飛行機を待っていたとガルーダ職員は言いますが、その病人のご家族には気の毒ですけれど、乗客名簿に名前のあるわたしにはこのフライトで飛ぶ権利があるのです。もし何かあった場合、わたしがこのフライトに乗らない一方で、誰かがわたしの名前を使って乗ったということになったらいったい何が起こるのでしょうか?座席の確保の問題でこのフライトは90分も出発が遅れてしまいましたが、その結果を招いたのは地上職員の仕事振りがきちんとしていないからではありませんか。これでは乗客名簿に載っていない不法乗客を4人も乗せてこのフライトは飛ばざるをえないでしょう。乗客名簿に名前が載らないのに搭乗券をもらったひとが4人もおり、そして全員が機内に入ってきたのです。これは旅客航空規則違反ではないのでしょうか?[ ジャカルタ在住、ヨハネス・ウィラッノ ]


「ヨーヨーチャンピオンがジャカルタで受難」(2008年3月6日)
インドネシアではチェスがスポーツの一種目という位置付けになっていると言えばあなたは驚くだろうか?いや、それどころか、カードゲームであるブリッジさえもがスポーツの一種目であると言えば、きっと目を丸くするひとが増えるにちがいない。「だったら、マージャンもスポーツの一種目に置かれていいんじゃないか?」とあなたは考えるかもしれないが、残念ながらマージャンは賭博という見解が染み付いているために、賭博はご法度とされているムスリム文化の中でそれがスポーツと見なされることは期待しようもない。30〜40年くらい昔のジャカルタでは、日本人が日本人宅に集まってジャン卓を囲んでいると、よく警官に踏み込まれたものだ。
さて、もっと驚きを満喫してもらうために付け加えると、ヨーヨーもスポーツの一種目となっているのである。日本でもヨーヨーのチャンピオン大会があったし、剣玉の選手権大会もあったようだが、はたしてそれらはスポーツ大会だったのだろうか?
インドネシアの行政機構の中でスポーツ振興を管掌しているのは青年スポーツ担当国務省で、その下部組織としてKONIと称されるインドネシア体育国家委員会が各種目ごとの協会を統率している。さて、青年スポーツ国務相杯インドネシアヨーヨー選手権大会という催しが企画され、選手権大会決勝戦は2007年12月末が予定された。選手権大会の企画と運営を引受けたのはシンガポール人とインドネシア人が一緒に発足させた民間企画会社PT PEIで、その会社はこの催しに国際色を添えて賑わいを高めようという意図で南米のアルゼンチンとコロンビアからヨーヨーチャンピオン3人をジャカルタに招いた。契約ではかれらに対するギャラがひとり月額2千6百から2千8百米ドルとされ、それ以外にもこのヨーヨー選手権の催しの中で売れたヨーヨーの個数に応じてかれらにコミッションが支払われることになっていた。
かれらは2007年8月にジャカルタにやってきて、それ以後PT PEIが行うインドネシア選手権大会の進行を手伝っていたが、12月が過ぎても選手権大会は実施されず、そのうちPT PEIの人間は姿を見せなくなり、選手権大会が終わればギャラを全額受け取って故国へ帰ることになっていたヨーヨーチャンピオンたちも、収入のないままずるずるとジャカルタ滞在を延ばしてしまい、気が付いたら故国へ帰るための航空券は有効期限が過ぎて焦げ付いてしまっていた。そうして北ジャカルタ市グヌンサハリ通りの店舗住宅に事務所を構えていたPT PEIでは、シンガポール人パートナーはもう長い間姿を見せなくなっており、インドネシア人ボスもほとんど事務所に顔を出さなくなり、事務所の管理担当者も1月終わりごろには姿を消してしまった。PT PEIの元事務所はいま花屋さんに代わっており、ヨーヨーチャンピオンたちは一銭のギャラも与えられないまま異国に放り出されたことになる。かれらの話では、2008年2月まででPT PEIのその三人に対する未支給金額は1万9千ドルにのぼるとのこと。
三人は全国選手権大会の前哨戦が開かれたジャカルタ・バンドン・メダン・ジャンビ・パレンバン・スラバヤで参加者にヨーヨーのトレーニングやクリニックを施している。それらの諸都市から選抜された60人ほどの最終大会参加者も三人と同じように催されるあてのない全国選手権大会の実施を待ちわびている。
南米から来てジャカルタで途方に暮れているヨーヨーチャンピオンのニュースについて青年スポーツ担当国務相スポーツ産業検討先駆担当副デピュティに問い合わせたところ、ヨーヨー全国選手権の催しは最終大会参加者が10人程度しか集まらなかったので実施は取り止めになった、と副デピュティはその経緯を語り、更にジャカルタに放り出された三人の南米チャンピオンたちについては、かれらと主催者の間の問題であるためその両者の間で解決してもらわなければならない、と述べているとのこと。


「インドネシアのツーリズムに惨憺たる評価」(2008年3月20日)
ワールドエコノミックフォーラムが行ったツーリズム競争力国際番付でインドネシアは130カ国中80位に置かれた。2008年ツーリズム競争力インデックスランキングを見ると、トップはスイスで二位オーストリア、そしてドイツ、オーストラリア、スペイン、イギリス、アメリカ、スエーデン、カナダ、フランスとトップ10は欧米豪が勢ぞろいしている。アジアのトップは香港で14位。次いでシンガポール16位、日本23位、マレーシア24位、韓国31位といったところがアジア勢の占めている位置。インドネシアは80位でフィリピンの81位、ベトナムの96位より上といったところ。
このインデックスは14カテゴリーの評価からまとめられたもので、法規・ビジネス環境・既存インフラ・住民のポジション・文化や天然資源などが個別に評価されている。日本は交通インフラ・住民クオリティ・文化のカテゴリーで高得点を得ているのに反して価格競争力や政府のツーリズム政策に対する評価は低い。インドネシアの評価を見ると、観光を優先政策に位置付けるツーリズム振興の意欲は高いのだが政策実施はたいへん弱く、保健衛生の評点は130ヵ国中111位、環境の評点は126位、治安も108位とお粗末な結果になっている。


「ホテル料金も値上がり」(2008年3月21日)
客室稼動がハイレベルとは言いがたいジャカルタのホテル業界に今年も大型ホテルが参入してくる。2008年に完成オープンが予定されているのは次のようなホテル。
Ibis Patria Park  160室
Aston Mangga Dua  142室
Kempinski at Grand Indonesia  270室
Grand Aston Albergo  200室
Akmani Hotel  118室
Harris Kelapa Gading  310室
2008年から2010年までに客室供給は2,518増加して昨年末の20,560室から2万3千室に達するものと見込まれている。このような激しい競争状況にも関わらず、今年ジャカルタのホテル料金は5〜10%上昇するだろうと業界筋は見ている。ちなみに2007年第2四半期のホテル料金平均実績は次のようになっている。
三星級ホテル  352,903ルピア  37.47米ドル
四星級ホテル  513,387ルピア  54.51米ドル
五星級ホテル  810,062ルピア  86.00米ドル
インドネシアレストランホテル会専務理事はホテル界の状況について、石油燃料値上がりとそれに触発されて起こっているエネルギーコストの上昇ならびに労賃やその他の上昇でホテルの事業コストは大きくアップしている、と言う。「食材の値上がりは飲食品の品質を維持しつつボリュームを調整するような対応を取ってはいるものの、宿泊料金の調整なしには済まない状況に差し掛かっている。しかし大幅な宿泊料金値上げは、ホテル業界が国内観光客の宿泊に依存していることから、客室稼動に悪影響をもたらす恐れが高い。スラバヤやジョクジャのホテルは無料空港送迎サービスを追加するようになっており、5%ほどの値上がりは消費者が問題なく受け入れるレベルだと思われる。料金値上げは5〜10%程度で行われるだろう。」専務理事は業界の値上げ状況に関してそう説明している。


「われは汝に苦難を与える」(2008年4月10日)
2007年12月6日付けコンパス紙への投書"Garuda Mempersulit Keberangkatan Wanita Hamil"から
拝啓、編集部殿。2007年10月8日、わたしと母、そしてわたしの娘はバンジャルマシンからジャカルタへ午前10時45分発のガルーダ航空GA521便で出発しようとしていました。そのときはわたしの母がチェックインを行ったので、わたしは妊娠20週を超えている自分の状態について届け出るのをうっかり忘れていました。
搭乗案内があってゲートを通ろうとしていたとき、搭乗手続きを行っているやはりお腹の大きい女性がわたしに妊娠中かと尋ねました。わたしが肯定するとその女性はわたしにチェックインカウンターへ行くよう命じ、チェックインカウンターでわたしは三枚の書類にサインさせられました。そのうちの一枚は印紙付きでした。チェックインカウンター担当者は更にわたしに対し、医師の診断書を提出するよう求めるのです。わたしは自分が医者であることをインドネシア医師同盟会員証を示して説明し、住民証明書やガルーダフリクエントフライヤーのカードまで提示しましたが、かれらはあくまでも診断書を出せと言い張ります。わたしは診断書を用意してこなかったので結局搭乗を拒否され、既に機内に運び込まれていたわたしのトランクまでもが降ろされてしまいました。その作業のためにおよそ20分間が費やされたのです。
わたしのトランクをわたしに戻す手続きを行ってくれたカウンター内の中年男性がわたしに、「空港ドクターの診断書をもらえばよかったのに。」と教えてくれました。それでわたしは空港診療所に行ってみましたが、それはチェックインカウンターからほんの2〜3分歩いただけのところにあったのです。バンジャルマシンのシャムスディン・ノール空港はスカルノハッタ空港よりはるかに小さい空港なのですから。
わたしにそのことを教えてわたしが飛行機に乗れるよう手助けすることをチェックインカウンターのひとたちはどうしてしようとしなかったのでしょう。わたしの搭乗を拒否し、ほかの空港職員にわたしのトランクを機内から探して降ろさせ、おまけにそのためにかなりの時間を費やすことまでしたこととの吊り合いをどう考えているのでしょうか?
ガルーダ航空は妊婦の搭乗に関して、その妊婦が医師である場合の配慮は何もしないのですか?ましてやわたしは2001年からガルーダ航空フリクエントフライヤー会員になっており、飛行機はいつもガルーダを利用しているのです。付け加えるなら、世の中から支援の手を差し伸べられて当たり前の妊婦に対して今回のようにわざと困難を与えようとするのはどういう精神構造をしているのでしょう。わたしは夕方のフライトで、6時間も遅れてやっとバンジャルマシンを出発することになりました。その日のわたしのスケジュールが滅茶苦茶になったのは言うまでもありません。[ バンジャルマシン在住、スシ・ムリヤ ]


「外国人観光客は行楽地に来ない」(2008年4月16日)
首都圏の行楽地に外国人観光客がほとんど来ないのは観光行政の怠慢だ、と業界者が批判している。ボゴール県チサルアのタマンサファリインドネシアは年間150万人の入場客中96%がインドネシア人で、しかもその大半がジャカルタなど近郊地区住民であるとのこと。このサファリパークは飼料・従業員給与・施設メンテナンスなどのコストが高額であるために大々的なプロモーションが困難で、外国人が宿泊するホテルに置くようパンフレットを作って持ち込んだことがあるがホテル側に拒否された、とタマンサファリインドネシア代表取締役は語っている。
北ジャカルタ市アンチョルのアンチョルジャカルタベイシティも類似の状況であり、年間1千3百万人の入場客のうちで外国人観光客は5%程度しかいない。アンチョルを訪問する外国人は中東系観光客が大部分であり、欧米人はきわめて数少ないそうだ。アンチョルジャカルタベイシティのオーナーであるPTプンバグナンジャヤアンチョルの代表取締役は、プロモーションが不十分なこともあるが政府の外国人観光客誘致プログラムの中で首都圏の行楽先が適正に位置付けられておらず、観光先紹介の焦点がはっきりしていないことが原因ではないか、と語る。「レクレーションパークビジネスは今後もまだまだ展望が見込まれるが既存の施設で十分な量があり、政府はそれら施設をもっと活用することに注力するべきだ。加えて政府にはシンガポールやマレーシアなど隣国の観光事業をインドネシアに敵対するものと見なす傾向がある。そうではなくて、かれらの観光パッケージの中に一日でもいいからインドネシアに足を向けさせるプログラムを入れてもらうような協力姿勢をもっと強め、隣国との共同観光事業に向かうようなことも考えるべきではないか?」同代表取締役はそう提言している。


「ホテルの客室を売ります」(2008年4月18日)
PT Metropolitan Landがこの年央に客室売却を目的にした16階建て2百室のホテルをジャカルタに建設する。客室がストラタタイトル方式で販売され、ホテル運営会社がその客室を稼動させてオーナーに利益の一部を分配するという形態を取る。一部屋5億ルピアで運用利回りは年率10%の予定。コンドテルとの違いについてPTメトロポリタンランド代表取締役は、コンドテルはオーナーが自分の買ったユニットに拘束されるがこのホテルの場合はオーナーが買った部屋に客が入っていればオーナーは別の部屋を使うことができるという高い自由度を持っていることだ、と説明する。
販売ターゲットはまず、ジャカルタの企業で地方にたくさんの支店を持ち、頻繁に支店から出張者が来るというところ。あるいは地方の事業者で頻繁にジャカルタを訪問するようなひと。オーナーは年間24日の無料宿泊が保証される。ジャカルタのストラタタイトルホテルはまだ例がなく、他のデベロッパーがこの分野に着手する前にPTメトロポリタンランドが先陣を切ったことについて同社代表取締役は、「この方式はまだあまり知られておらず結果的に市場も育っていないことから、このマーケットに手を染めるデベロッパーはまだ出現していない。このビジネスはホテルオペレータをつかんでおかなければならずアパートメントビジネスよりも厄介だ。ましてや名前の通っていないホテルオペレータだと客が来ないことを心配して投資家が客室を買わないおそれもある。その点、当方が起用するホテルオペレータはHorisonだから問題ない。」と自信のほどをのぞかせている。このホテルは工期が1年半で、稼動開始は2009年末が予定されている。


「ガルーダの予約データをだれかがこっそりいじくった」(2008年5月5日)
2008年1月3日付けコンパス紙への投書"Status Tiket Garuda Bermasalah"から
拝啓、編集部殿。2007年10月31日、わたしはガルーダ航空のジョクジャ〜ジャカルタトランジット〜パランカラヤ往復航空券を購入しました。出発は2007年11月7日で戻りは11月10日です。予約コードはRalasy/GA I で航空券番号は126 5677312810と126 5677312812でした。ジョクジャから出発する際には特に問題がありませんでした。強いて言うなら出発時間が7時40分から9時に遅延になったくらいですが、ジャカルタからの出発時間が12時30分なのでまったく心配ありませんでした。
問題が起こったのはパランカラヤからジョクジャに戻るときです。チェックインの際に、わたしの名前がまったく理解を絶する理由で受け付けてもらえなくなったのです。チェックイン受付係もガルーダ航空マネージャーもわけがわからずに途方に暮れてしまいました。ジャカルタからのフライトが満席状態になっていて乗り継ぎができないため、わたしの名前がコンピュータに入らないと言うのです。しかしわたしの航空券はOKのステータスになっており、チケット上ではわたしの搭乗は問題なくできるはずだとかれらは言いました。わたしの後ろに並んでいたひとたちのチェックインはまったく問題ありませんでした。だれかをジャカルタからのフライトに乗せるために、わたしの名前がガルーダの予約システムから外されたんだと言ったひとがいました。
全員が搭乗し終わりテークオフが10分も遅らされましたが、依然としてチェックインができません。ジャカルタからのフライトをゴーショーにしてともかくジャカルタまで行き、ジャカルタ〜ジョクジャ間の航空券をジャカルタでアレンジしてはどうかとカウンター職員はわたしに提案しましたが、10日も前にパランカラヤ〜ジャカルタ〜ジョクジャの航空券をOKステータスで買っているわたしにその提案は承服できるものではありません。ジャカルタまでしか乗せないとはいったいどういうことですか?
わたしのためにそのフライトの出発時間が延ばされているのに配慮して、わたしは翌日出発することに同意しました。ただし条件はジョクジャまでの乗り継ぎを確保することです。わたしの航空券は2007年11月11日のパランカラヤ〜ジャカルタ〜ジョクジャ、フライト予約OKという航空券に取り替えられました。出発を24時間遅らせたというのに、わたしが他の航空会社で経験したような宿泊の世話も宿泊費の負担も一切ありませんでした。[ ジョクジャ在住、パルモナガン・マヌルン ]


「ガルーダの搭乗予定者リストに名前がない」(2008年5月22日)
2008年1月16日付けコンパス紙への投書"Tiket Garuda Lewat KIA"から
拝啓、編集部殿。2007年12月22日にガルーダのGA868便でシンガポールへ行くため、わたしは南ジャカルタ市パンリマポリム(Panglima Polim)通りの旅行代理店KIAにエグゼキュテイブクラスの航空券を注文しました。支払いはひと月近く前の2007年11月28日に行い、KIA担当者のキャロルさんはその航空券がフィックスされまたコンファームされている、と言いました。ところが出発当日に空港でチェックインしようとしたところ、わたしは予想だにしなかったショックに直面することになったのです。
搭乗予定者の中にわたしの名前は入っておらず、わたしの予約はタイムリミットのためにガルーダ側がキャンセルしたことになっていました。わたしはKIAからもらった支払領収書を示して見せましたが、そのフライトは満席だということでチェックインを受け付けてもらえません。ガルーダの地上担当者が言うには、KIAがリブッキングを行わなかったのでわたしの予約がキャンセルされたのだろうとのことでした。ガルーダヘルプデスクがわたしのトラブルを手伝ってくれて、もしキャンセルが出れば乗れるからチェックインが閉まる時間まで待つようにアドバイスしてくれました。そしてわたしに、リブッキングをしておくように、とも。
旅行代理店の助けもなしにそれらのことをわたしは独力で行ったのです。KIAの事務所に何十回も電話やSMSを入れましたが、反応は何もありません。まるで責任を放棄したかのようです。KIAは会員カードまで発行しているというのに、会員になったところでこんなものなのです。たまたま搭乗予定者の中にキャンセルが出たので、わたしはシンガポールへ行くことができました。でもKIAの無責任な行為の結果、わたしはエグゼキュティブクラス乗客としてガルーダラウンジに入る機会を逸し、チェックインカウンターの前で何時間も時間を浪費してしまいました。本当に大損と恥をかかされました。[ 南ジャカルタ市チランダッ在住、イルマ・シュワルゼ ]
2008年2月2日付けコンパス紙に掲載されたKIAからの回答
拝啓、編集部殿。イルマ・シュワルゼさんからの2008年1月16日付けコンパス紙に掲載された投書に関して、イルマさんの不快な経験に対し謝罪を申し上げます。当方はイルマさんの予約がキャンセルされた原因に関して関係各方面に調査を入れた結果、KIAツアーズのCRS(Computer Reservation System)でシステムエラーが起こったことを発見しました。当方のCRSとガルーダのCRSとの間でデータの同期が行われず、イルマさんの予約データはチケットイシューがなされたというのにガルーダ側は予約ステータスのままで、ガルーダのシステムにあるオートタイムリミットの処理にかかって予約がキャンセルされたのです。このようなことは世界中の旅行代理店業界で起こっていることなのです。
当方は顧客、中でも会員に対するケアを怠っていません。残念なことにイルマさんの出発時間は当方事務所がオープンする午前8時より前でした。またそのとき、当方スタッフのキャロルさんはグループツアーを率いてバンコックに行っていました。当方はイルマさんを招いて実際の状況について説明申し上げました。[ KIAツアーズアンドトラベル販売課長、ヘンドラ・ウィリヤン ]


「エグゼキュティブジェットで贅沢三昧の旅に」(2008年5月23日)
ブラジルの航空機メーカーであるエンブラエルが開発した双発のビジネスジェット機レガシー600 (Embraer Legacy 600)。この機種が開発されたのは2000年で、2006年時点で17カ国に71機が販売されている。
販売価格一機2,300万米ドルというそのレガシー600をインドネシアのチャーター航空会社プレミエアー(Premiair)が運航させている。1989年創業のプレミエアーはレガシー600のほかにセスナC208B、エンブラエル120、フォッカー100を保有しており、エンブラエル120はVIPチャーターや急病人移送に使われることが多い。一回の飛行に1万ドル以上は確実というプライベートチャーター機の需要はインドネシアにどれほどあるのだろうか?プレミエアーのアカウントエグゼキュティブは、同社の主要顧客は企業がほとんどだ、と言う。パラグループ、アストラインターナショナル、ブミリソーシズ、バクリキャピタル、シナルマス、ハリバートンなど有力企業が目白押しだが、政界リーダーやセラブリティたちもその中に混じる。今週はフルブッキングになっている、とかれは言う。
さて、そのレガシー600に乗ってバリへ行こうという企画をマスターカードが組んだ。同社のプレミアムカードオーナー向けのこの企画はショッピングプログラム参加者から抽選で選ばれた好運なひとをバリに招待するという内容で、7人の友人を誘って一泊3千5百ドルというウブッのコモシャンバラエステートに三泊できるという夢のようなオファー。贅沢を極めつくすというこの企画の栄光の星はいったいだれの頭上に・・・?


「サイバーデラックスバスは人気上々」(2008年5月30日)
2008年2月にバス会社「ヌサンタラ」がVVIP用として世に送り出したインドネシア最初のサイバーバスは、会社やファミリー層から大好評で迎えられている。B12M型ボルボバスをベースにしたこの超豪華版大型バスは乗客10〜11人用で、車内には大型ソファに寝台がふたつ、キッチンとダイニングテーブル、マッサージ機にホームシアター、カラオケ、ミニバーなどが装備され、加えてインドサットのホットスポットサービスを利用したインターネットサービスまで楽しむことができる。3.5Gブロードバンド、電話、ファックスなどインドサットが提供するサービスによってこのバスは動くオフィスとして使うことさえ可能。1万2千ccという大容量エンジンは車体の中ほどに置かれてキャビンの振動を軽減するよう工夫されている。会社やファミリー層からの貸切注文は予想外の多さで、一ヶ月先まで予約が一杯になっているありさまだ。運行先はジャワ島内の観光地がもっぱら。
ヌサンタラはOmah Mlakuと名付けたこのサイバーバスが引く手あまたの評判を呼んでいることから、同社は1台20万ドルを超えるこのバスを追加することにした。車体製造会社に新規に発注されたこの特注バスは2台で、それらが戦列に勢ぞろいすれば3台の超モダンサイバーバスが各地を周遊することになるだろう。因みにOmah Mlakuというジャワ語はインドネシア語に直せばrumah berjalan、つまり「動く家」となる。


「プラウスリブ観光業界が死滅の淵に」(2008年6月2・3日)
2008年3月になってプラウスリブのリゾート業界は、ジャカルタと島々を結ぶ海上運送料金が石油燃料値上がりを理由に値上げされた結果来訪客が半減している、と苦情を訴えた。プラウスリブのいくつかの島は海洋観光やリゾート地として従来から都民の行楽先となっているものの、石油燃料高騰のために船の運航コストがアップしており採算点に達するだけの乗客が集まらなければ船は出航しない状況になっている。おかげで週末だけがそれらリゾート地の営業日となり、週日は乗客数不足から船が出ないためにリゾートは閉店というドミノ現象がこの多島海を覆ってしまった。国内の他の観光地では週日の営業も問題なく行われているが、プラウスリブはいまや一週間を二日で過ごさなければならない状況だ。ここ数年そんな状況が続く中で、今年3月にはプラウスリブにおける観光ビジネスの逼迫に追い打ちをかけるような事態が起こったのである。
ジャカルタから54海里離れたセパ(Sepa)島でシュノーケリングを目玉にしたコテージやリゾートを経営しているPT Pulau Sepa Permaiの代表取締役は、「これまでひとり10万ルピアでジャカルタからセパ島まであるいはセパ島から他の島へ乗客を運んでいた船賃を突然18万ルピアに引き上げなければならなくなったために、セパ島には従来から毎月平均4百人の来訪客があったものの今月はそれが半減してしまった。今後もこの状況が継続するようなら、プラウスリブの観光産業は死滅するだろう。」と語っている。
プラウスリブには次のような島々に観光施設がある。
コトッ(Kotok)島  ダイビングとシュノーケリング  Alam Kotok Resortが経営
セパ(Sepa)島  シュノーケリングとリゾートおよびコテージ  PT Pulau Sepa Permai経営
アイェル(Ayer)島  リゾートとコテージ  PT Sarotama Prima Perkasa経営
ビダダリ(Bidadari)島  リゾートとコテージ・歴史観光  Marina Ancol経営
マタハリ(Matahari)島  リゾート  PT Jakarta International Hotel経営
プトゥリ(Putri)島  ダイビング・シュノーケリングとコテージ  PT Buana Bintang Samudra経営
プラギ(Pelangi)島  リゾート  PT Pulau Seribu Paradise経営
ビンタン(Bintang)島  ダイビング・シュノーケリングとリゾート  PT Bintang Samudra経営
ラキ(Laki)島  リゾート  PT Fadent Gema Scorpio経営
プルタミナは今年3月になってからプラウスリブで海上運送業を営んでいる業者に対し、運送船舶が使う石油燃料は今後補助金付きガソリンや軽油を使ってはならず、ハイオクタンガソリンのプルタマックスやプルタマックスプラスあるいは補助金のつかない産業向け石油燃料を使うように命じた。この指令は同時に、アンチョルマリーナにあるガソリンスタンドに対して、プラウスリブの船舶に補助金付き燃料を売ることを厳禁するという形で徹底が図られた。
プルタミナが3月に取ったこの措置は、実は5年前から大統領決定で定められている政府方針を徹底させるためのものであり、特にあらたな政府方針が出されたというものではない。5年前に政府は、補助金の付かない経済性価格と呼ばれる産業向け石油燃料価格を新設した。石油国際相場をベースにしたこの産業向け価格は国際価格の高騰に連れてうなぎのぼりのありさまで、安価安定の補助金付き価格と大きな差が開いている。産業向けという名前が付けられているように、会社工場はその価格で石油燃料を購入しなければならず、それに違反すれば犯罪行為として警察のからむ法的措置の対象となる。補助金付き価格は一般のガソリンスタンドで販売されているもので、これは個人消費者だけが購入してよいものと定義付けられている。ところが、中小規模事業者や零細漁民だけは例外措置として補助金付き石油燃料を購入してよいことになっており、このようにいくつかの定義を設けて例外措置を数多く作るために原則が単純明確にならず、それが嵩じて原則の遂行をみずから難しくしているというのがインドネシアの特徴だ。そのため、プラウスリブの海上運送業界は産業向け石油燃料を購入しなければならないという原則を何年にもわたってなおざりにしてきた。そんな状況にメリハリをつけようとしてこの3月にプルタミナが取った徹底案がプラウスリブ観光業界の悲鳴を引き出す結果になってしまったのである。


「生まれ変わるホテルインドネシア」(2008年6月5日)
首都の歴史遺産であるホテルインドネシアの再開が間近い。1962年に建設されたホテルインドネシアは当初インドネシア最大のモダンホテルとして外国ゲスト用宿泊施設のトップの座を占めていた。ホテルインドネシアはインドネシア語で略称ハーイー(HI)と呼ばれ、このホテルの前にあるロータリーには歓迎の像が建てられてHI前ロータリーという名で人口に膾炙し、首都ジャカルタの交通の中心という位置付けを与えられていた。1970年代初期にはこのホテルの南側にホテルカルティカプラザ、北側(現在のハイヤットホテル)にはアソカホテルが並び、首都中心部の高級ホテル街を形成していた。
そんな時代、日系企業の運転手が下手な駄洒落を飛ばした。HI前ロータリーを通りながら運転手が言う。
「トアン、この辺りは日本人が大好きな場所だよ。」ジャカルタのトップエリート地区だから、嫌いな人は少ないだろうと思いながらわたしは相づちを打つ。
「日本人はいつもこの辺りのホテルの名前を言ってるんだよ。」「いや日本人の中には、ブロッケム(Blok M)のホテルに泊まる者も少なくないと思うんだが・・・」
「ハイ。アッソーカ。なんてね。」「・・・・・・」
ホテルインドネシアとその裏のホテルウィサタをまとめての再開発プロジェクトが組まれ、開発事業をタバコ会社PT Djarumの子会社PT Cipta Karya Bumi Indahが落札した。グランドインドネシアと命名されたこのエリアにはホテル・モール・アパートメント・オフィスビルが建てられ、民間資本は30年間のBOT契約でそれらの事業運営を行う。モールグランドインドネシアは最初に完成して稼動を開始した。続いて文化財として外装維持が義務付けられたホテルインドネシアの再建工事が既にかなり完成に近付いており、2008年8月までに一部開業が予定されている。ホテルインドネシアの運営には1897年にドイツで設立されたケンピンスキーホテルグループが起用され、ホテルインドネシアケンピンスキーという名で営業が再開される。
ホテルマネージメントによれば、最初の一部開業で稼動が予定されているのは50室のみで、全289室が勢ぞろいするのは2008年末になるとのこと。ホテル側は既に多数の企業と利用契約を結んでおり、総室数の30%はそれら契約企業が利用することになりそう。ホテルインドネシアケンピンスキーは床面積3千平米のボールルームを持つが、HIの歴史とともに歩んできた床面積1千平米のバリルームも再び世の中にお目見えする。


「老母を泣かせたシンガポール航空」(2008年7月8日)
2008年2月22日付けコンパス紙への投書"Trauma Terbang dengan SQ"から
拝啓、編集部殿。2008年1月18日にわたしの母(ユハティ・ヒディル)がシンガポール航空SQ959便のチェックインをスカルノハッタ空港で行ったときが悪夢のような一連のできごとのはじまりでした。60歳のわたしの母のトランク2個のうちの1個は、チェックインのときその重さが1.5キロオーバーしているという理由で受け付けてもらえませんでした。もうひとつのトランクは27キロしかないので、トランク1個32キロという条件は全体で満たしているではありませんか。運良くわたしはチェックインロビーに入ることができたので、チェックインカウンターの担当者と交渉することができました。しかしその担当者はあくまでもそのトランクを受け付けてくれず、オーバーしている重さを減らしてもうひとつのトランクに移すよう命じるばかりです。しかしそのトランクはもうストラップがかけられているし、わたしの後ろには長い行列ができているのです。だれかがトランクの中身を移し替えるのを手伝わなければ、老齢の母ひとりではどれほどたいへんだったか想像に余りあると思います。再び列に並んでチェックインを行ったとき、わたしは母が翌朝のシンガポール発ノースウエスト航空で成田〜ミネアポリス〜ヒューストンと移動するので最終目的地までスルーチェックインにしてほしいと頼みました。それらの手続きが終わって母が出発ロビーに向かい、わたしはその日の出来事が不愉快ではありましたが、すべて無事に終わって一件落着したものと思っていたのです。
ところがわたしはシンガポールから泣きながら電話してきた母の声に驚かされてしまいました。スカルノハッタ空港チェックイン担当者から渡されてあるべきそのホテルのバウチャーを母が持っていないということでシンガポールのホテルが母の宿泊を拒否したのです。幸運にもわたしはシンガポールに友人がいたので、母はその友人宅で泊まることができました。友人は母のためにそのホテルと交渉してくれましたが、ホテル側はどうしても母を受け入れてくれません。老齢の乗客に対する人道的な側面を忘れた実に硬直的な対応であり、SQ側の怠慢は本当に難渋を与えてくれました。母にとってベスト航空会社と言われているシンガポール航空を使ったことがとんでもない悪夢と化したのです。シンガポール航空に乗ることは絶望とトラウマを母に感じさせるものとなりました。そんなことになったにもかかわらず、母はジャカルタに戻る際にシンガポールからまたシンガポール航空に乗らなければならないのです。[ ボゴール在住、ユディ ]
2008年3月1日付けコンパス紙に掲載されたシンガポール航空からの回答
拝啓、編集部殿。ユディさんの2月22日付けコンパス紙に掲載された投書についてお伝えします。当方担当者がノースウエスト航空から得た情報では、ノースウエスト航空はユハティさん(ユディさんの母)にジャカルタの代理店までホテルバウチャーを取りに来るよう連絡してあったそうです。しかし出発日が来てもユハティさんからの確認はありませんでした。他の航空会社がアレンジしたホテル予約はシンガポール航空の予約システムに入りません。それでチェックインカウンター担当者はユハティさんのホテル予約に関することがなにもわからなかったのです。
また国際航空業界の規定によって、アメリカへ入国する搭乗客はバゲージが2個に制限されており、そしてそれぞれのバゲージは32キログラムを超えてはならないことをお知らせしたいと思います。ユハティさんのトランクのひとつがその条件に合っていないことをチェックイン担当者が知ったとき超過重量分をもうひとつのトランクに移すよう要請したのは、そのトランクが次のフライトに移し変えられるときに発生するトラブルを未然に防ぐためのものでした。その規定は国際的に定められているものなので、ジャカルタで解決しておかなければ次の空港でトラブルを起こすことになるのです。
ユハティさんのジャカルタに戻る際のフライトについては、ノースウエスト航空に連絡を取ってみてください。そうすることでジャカルタへのフライトに乗り継ぐことがスムースにできると思います。[ 在ジャカルタシンガポール航空PR課長、グローリー・ヘンリエット ]


「逆境に喘ぐ首都のナイトスポット」(2008年7月25日)
都内4百のエリアで営業している1,370店のさまざまなナイトスポットが、2008年5月24日の石油燃料値上げや7月1日からのプロパンガス12キロ入りボンベの値上げに影響されて事業に困難さを増しており、廃業する店も出始めている。西ジャカルタ市のディスコ「バタビア」「1001」「ラジャマス」あるいは北ジャカルタ市のディスコ「ハイライ」「サンド」などはもう店の扉が開かれなくなっている。ジャカルタ一般娯楽レクレーション事業者会会長によれば、上流クラスの店で30%、中流以下の店だと40〜50%も来店客が減少しているそうだ。石油燃料値上げの結果あらゆる生活必需品に値上がりが起こり、庶民の購買力は低下した。そのため非優先支出が削減されることになり、ナイトスポットはもろにその影響を被っている。店の経費も同じように上昇しているのに加えてナイトスポットの90%は客に食事を供しており、その調理には23.5%も値上がりした12キロLPGを使うために大きい経費の膨張を抱えることになった。その一方で客足が遠のいているため、事業の継続がむつかしくなった店も少なからず出ている。
もうひとつ夜の娯楽を求める階層の出足を挫いていることがらとして会長はナイトスポットをターゲットにした官憲および市民組織による麻薬覚せい剤手入れの実施を指摘する。あたかもナイトスポットが麻薬覚せい剤の巣窟であるかのような印象を与える手入れ実施の方法が一般市民に嫌悪感や恐怖感を起こさせており、市民組織は言うまでもなく官憲担当官も正当な態度と手順による手入れを励行するようにと会長は求めている。
ナイトスポット業界の事業環境がこのまま悪化して行けば首都のディスコ・カラオケ・ナイトクラブ・ライブ演奏・バーなどで働く30万人勤労者の失業問題も発生し、また都庁が今年の娯楽遊興税徴収目標として掲げている2,190億ルピアの実現も難しくなる。都庁観光局長はそれについて、ナイトスポット業界のビジネスには平穏な環境が与えられなければならず、麻薬覚せい剤手入れはその原則を踏まえた上で行われなければならないことを関係機関に主張していく、と語っている。


「コモドの木彫りのコモド」(2008年8月1日)
コモド国立公園は40,728Haの陸地と132,572Haの海洋から成っている。大きい島は三つあってコモド島・リンチャ島・パダル島には合計で2千3百頭のコモドドラゴンが棲息しており、小島もいくつかあって、ギリモタン島にもコモドドラゴンが1百頭ほど棲んでいる。
コモド島にはユニークな木彫りの土産物がある。オオハマボウ(大浜朴、学名:Hibiscus tiliaceus)を削って作ったコモドドラゴンの像だ。コモド島でこの木彫を始めたのはハジ・ヌンで、今ではコモド島の船着場であるローリアンに近いコモド村住民たちの多くがこの木彫り制作で収入を得ている。一年のうちで海の穏やかな漁労シーズンは12月から3月までの4ヶ月しかなく、残る8ヶ月は海が荒れるために漁に出られない月日をかれらの多くは木彫制作で過ごしている。
西ヌサトゥンガラ州ビマ出身のハジ・ヌンがコモド島に住み着いたのは1973年のこと。1976年にアメリカのフロリダから研究者夫婦がやってきて1年半の間調査研究を行ない、帰国に際してハジ・ヌンにオオハマボウでコモドドラゴンの像を彫ることを教えた。そして器用なハジ・ヌンが作ったオオトカゲの木彫りをその夫婦は買い上げて持ち帰った。ハジ・ヌンは漁師だったが漁に出られない間は木彫りを作り、かれの木彫りがコモド島にやってきた外国人研究者や観光客に売れたことから木彫りを始める村人が増加した。ハジ・ヌンのような外来者がコモド島に住み着く前からこの島にはコモドドラゴンを先祖と見なす先住民たちがおり、かれらが昔から続けてきたコモドドラゴンを殺してはならないという掟は政府が希少動物保護として引き継いだことから、この恐竜時代からタイムスリップしてきたような動物は幸いにして絶滅の危機から免れている。
ところでコモド島は草地と潅木ばかりの荒涼として乾燥した土地であり、村人たちがオオハマボウを乱伐すれば島の植物相はますますやせ衰える。政府が国立公園内のフローラとファウナの維持を住民に指導しているためかれらは島に生えているオオハマボウを取るのをやめ、今ではフローレス島から取り寄せている。2007年12月時点でコモド島住民の作る木彫りのコモドドラゴンの像は20センチほどのサイズのもので1個10万ルピア、1メートルを超えるサイズになると1個200万ルピアにもなる。


「弱者に厳しく当たるインドネシアスタンダード」(2008年8月14日)
2008年4月9日付けコンパス紙への投書"Penerbangan dan Bandara Tanpa Standar Internasional"から
拝啓、編集部殿。2008年3月19日わたしと夫は3歳半の子供を連れてスカルノハッタ空港からデンパサル行きガルーダ航空GA414便に乗りました。搭乗が開始されたとき、いまや国際スタンダードになっている幼児を連れた乗客や老齢の乗客を機内に先に入れるという手順がまったくおろそかにされていました。すべての乗客を一斉に中に入れさせたので、搭乗口はまるで座席が確保できなくなるのを心配してわれがちに押し合いへしあいする都バスのようなありさまになったのです。ボーディングブリッジの中で混雑に巻き込まれるのを避けるため、幼児をベビーカーに乗せていた親御さんたちはその雑踏が過ぎ去るのを最後まで待っていました。わたしの一家も同じです。わたしが地上係員に苦情すると、係員は聞かなかった振りをしたりただ沈黙して無視するだけでした。そして機内に入るところで子供はベビーカーから降ろされ、ベビーカーは折りたたまれて貨物室に置かれました。
グラライ空港に着いたとき、国際スタンダードだと幼児を連れた乗客の便宜をはかって機体のドアのところでベビーカーを返してくれるというのにインドネシアではそんな配慮もなされません。それでバゲージコンベヤーで一番最初に出してほしいと頼んだにもかかわらずそれも対応してくれませんでした。結局わたしのベビーカーはほかのトランクに混じってコンベヤーに乗せられてきたのです。幼児を連れた乗客を優先するという国際スタンダードが守られていないのはスカルノハッタ空港だけでなくバリのグラライ空港も同じでした。ジャカルタへの帰途に使うガルーダ航空GA4192便の搭乗に際しても、搭乗口の混雑が過ぎ去るまで幼児を連れたわたしども一家は機内に入ることができませんでした。グラライ空港では、ベビーカーを貨物室に入れるよう地上係員に渡そうとすると係員は反対に抗議してきたではありませんか。どうしてチェックインのときに預けなかったのか、と。
ガルーダ航空が十分なレベルの乗客サービスを行っていないと国際社会から見られているのも当たり前のことでしょう。そしてまた国際空港の看板を掲げているインドネシアの空港も同じです。乗客を快適に過ごさせるためになされなければならない国際スタンダードが行われていないのですから。[ ジャカルタ在住、ディアン・ラムラン ]


「ロッサがKDをしのぐ」(2008年8月22日)
2008年6月にコンパス紙R&Dが全国33州からランダム抽出した17歳以上の1,442人に対して行った電話インタビュー調査の結果が発表された。この『あなたの好きなインドネシア人歌手』番付の女性歌手カテゴリーでは、2007年12月に行われた類似の調査から一転して、
インドネシアを代表するトップ歌手クリスダヤンティ通称KDをロッサが上回った。そのランキングは下の通り。
歌手名 / 2008年6月 / 2007年12月
Rossa / 21.7% / 4.8%
Krisdayanti / 16.8% / 17.2%
Agnes Monica / 10.7% / 10.9%
Melly Goeslaw / 6.3% / 5.6%
Ruth Sahanaya / 5.5% / 8.0%
一方男性歌手カテゴリーでは、前回影も見せなかった19歳のアフガン・シャーレザが彗星のごとくナンバーワンの地位に躍り出たことは注目に値する。かれのデビューアルバムConfession No.1に納められたTerima Kasih Cintaはいまだに人気が衰えないようだ。
歌手名 / 2008年6月 / 2007年12月
Afgan / 15.2% / 0.0%
Ari Lasso / 14.9% / 6.8%
Glenn Fredly / 11.1% / 12.1%
Tompi / 6.5% / 1.7%
Iwan Fals / 6.1% / 5.2%
最後にボーカルグループのランキングと行こう。
バンド名 / 2008年6月 / 2007年12月
Ungu / 29.4% / 27.6%
Peter Pan / 9.2% / 15.0%
Letto / 8.2% / 6.6%
Dewa / 6.3% / 7.4%
Nidji / 5.3% / 2.5%


「ガルーダ航空が搭乗を拒否」(2008年8月28日)
2008年4月4日付けコンパス紙への投書"Penumpang Indonesia Telantar di Bandara Singapura"から
拝啓、編集部殿。2008年1月9日、わたしと母はシンガポール発プカンバル行きガルーダ航空GA825便の搭乗をチャンギ空港で職員に拒否されました。それも、もう乾いている疱瘡のあとがわたしにあったからです。それでわたしたちはこの事態の責任をはっきりさせるためにガルーダ航空カスタマーサービスマネージャーを呼んでくれと空港職員に頼みました。ところがそのあと4時間も空港で待ちましたが、この事態の責任をはっきりさせようとする職員はひとりも現れませんでした。わたしどもは自分で遺失物係を訪れて、チェックインの際に預けたバゲージの処理を行い、とてもがっかりしてホテルに戻ったのです。シンガポールイミグレーション職員もわたしどもに、自分でガルーダ航空職員にコンタクトするように、と言いました。
わたしどもが一番残念に思ったのは、チャンギ空港のガルーダチケットカウンターで航空券を買ったときも、チェックインカウンターでバゲージを預けた際にも、わたしに疱瘡のあとがあるのをみんな見ているのにわたしに対してだれひとり搭乗を拒否されると言ってくれなかったことです。
結局わたしどもはシンガポールにもう一泊するのを余儀なくされ、翌日バタム経由でプカンバルまでガルーダでない航空会社で飛びましたが、その行程で何の問題も発生しませんでした。ガルーダ航空のミスでわたしは大変な損失を蒙ったのです。もう一泊したホテル代、空港往復タクシー代、フェリー代金、バタム〜プカンバル航空料金がその内訳です。ジャカルタに戻ってからわたしはガルーダ航空に使わなかった航空券のリファンドを要求しました。ところがまたまたわたしはがっかりさせられる破目に陥ったのです。ガルーダのミスで使われなかった航空券2枚のためにわたしは更にもう120万ルピアの損失を追加しなければならなくなりました。わたしはただ、その使われなかった航空券を買うために支払った金額を返してくれと言っているだけなのに。リファンドでさえわたしは長い間待たされ、そしてあちこちにピンポンされるありさまです。[ ジャカルタ在住、ヘンドラワン ]
2008年4月17日付けコンパス紙に掲載されたガルーダ航空からの回答
拝啓、編集部殿。ヘンドラワンさんからの4月4日付けコンパス紙への投書に関して、まずご不快を与えたことにお詫びいたします。2008年1月9日、ヘンドラワンさんはシンガポールからプカンバルにGA845便で移動されようとしていました。そのときヘンドラワンさんの状態はご本人の投書にもあるように、疱瘡のあとがあったのです。
その病気が治ったことを表明する医師の診断書をヘンドラワンさんが示せなかったので、そのときガルーダ航空職員はGA845便が出発する前にチャンギ空港内クリニックへ行って検査するよう当人に奨めました。国際航空規定とガルーダ航空ステーションマニュアルに記載されている通り、伝染病にかかっている徴候が見られる乗客がいた場合ガルーダ航空職員は他の乗客の差し障りにならないようその乗客の搭乗を拒否(あるいは取消し)できるのです。この規定は他の乗客を伝染病から保護すると同時に乗客全体の快適さを確保するためのものなのです。ヘンドラワンさんが使用しなかった航空券2枚のリファンドは、現行規定に従って処理されます。[ PTガルーダインドネシア企業秘書、プジョブロト ]


「トラワガンがトップ人気」
ロンボッ(Lombok)島の北西海岸沖に浮かぶ三つの小島がロンボッでトップの海洋観光地区になっている。小島を意味する地元の言葉ギリ(gili)を冠したその三島は、一番沖合いにあるのがギリトラワガン(Gili Terawangan)、そして本島に向かってギリメノ(Gili Meno)ギリアイル(Gili Air)と並ぶ。その中で一番人気の高いのはギリトラワガンで、この島へは年間4万人の観光客が上陸する。残る二島は年間で2万人。面積338Haのギリトラワガンで観光開発が始まったのは1980年代で、今では島を一周する海岸沿いにたくさんの宿泊施設が並んでいる。特にギリトラワガンから本島に向かっての一帯は波が穏やかで海遊びにはもってこいだ。トラワガンとメノの間の水道はシュノーケル初心者でも多いに楽しめる場所で、広範囲に広がっているサンゴの園と色とりどりの熱帯魚や大きいウミガメの姿が観察できる。メノ側でも同じように愉しく遊べる場所には事欠かない。トラワガンはカリブ海と並んで世界に稀なブルーコラルが見られる場所であることも話題のひとつだろう。[ 2008年9月 ]


「Eチケットは航空券じゃないよとガルーダ職員」(2008年9月12日)
2008年4月22日付けコンパス紙への投書"Kursi Pesawat Garuda Bermasalah"から
拝啓、編集部殿。わたしども一家5人は2008年3月23日、ガルーダ航空でシンガポールからスラバヤに戻ろうとしていました。シンガポールのチャンギ空港でチェックインしたとき、職員は「もう満席です。」と言いました。しかしわたしどもは決して時間に遅れたわけでなく、航空料金の支払いも済ませてあり、そしてリコンファームまでしてあったのです。おまけにEチケットもまだ手元にあるのですから。わたしどものための座席がいったいどうしてなくなってしまったのでしょうか?
ガルーダ職員はわたしどもが提示したEチケットについていともあっさりと、それは航空券じゃない、と言いました。でもわたしどもはそれをスラバヤの有名な旅行代理店で購入しています。ガルーダ職員はわたしどもに待つよう求め、翌日のフライトを確保するのでホテルをアレンジするから一日延期するようにと申し出たのです。しかしわたしどもはその申し出を拒否し、どうしてもその日のフライトに乗せてくれと主張しました。するとわたしと子供のひとりはその日のスラバヤ行き直行便GA843に乗ることが認められました。ほかの3人もGA8292便でジャカルタ経由になりましたが、その日のフライトで帰ることができました。わたしどもはガルーダの対応にたいへん失望しました。お互いに責任のなすりあいをし、なんでこうなったのか自分にはわからないと言い、その原因はシステムにあるのだとスケープゴートを作ります。しかし本当は、すべてのシステムは人間が動かしているものであり、それは人間のビヘイビヤ次第なのです。こんなことでガルーダ航空は2008年ビジットインドネシアイヤーの一端を担うことができるのですか?[ スラバヤ在住、ジャンヌ・アステリア ]


「カリムンジャワでリゾート開発ラッシュ」
中部ジャワ州最北端の県ジュパラ(Jepara)。その県庁所在地でカルティニの名と木工の長い歴史を誇るジュパラ市の北西83キロ沖合いに浮かぶ群島がカリムンジャワ(Karimunjawa)だ。27の島々から成るカリムンジャワはジュパラ県の一郡となっている。カリムンジャワ群島は人の住んでいる島が6つある。一番大きい4,302Haのカリムンジャワ島、その北東に連なる1,501.5Haのクムジャン(Kemujan)島、群島西側690Haのパラン(Paran)島、東端にある135Haのグンテン(Genteng)島、本土から近い125Haのニャムッ(Nyamuk)島などにしかひとは住んでおらず、無人島がはるかに多い。無人島の中には県外住民が所有者になっているものもいくつかある。カリムンジャワ群島は1997年に政府が海洋国立公園に指定したことから明らかなように、風光明媚で穏やかなジャワ海の観光資源として諸方面に認知されている。
1999年ムニャワカン(Menyawakan)島にオープンしたスエーデン資本のクラクラリゾート(Kura-kura Resor)は5星級の設備を持ち、澄んだ海中に広がる美しいサンゴ礁に恵まれた海洋スポーツの根拠地としての機能をオファーしている。しかしそれ以外には小さいホテルや民宿があるばかりで本格的リゾートはほかになく、この総面積11万1千Haを占める海洋公園の処女地開発がいつ始まるかと宣伝と投資誘致に努めていた県観光局はその日が来るのを待ち受けていたのである。いま、中国・オーストラリア・日本・フランス・台湾・イギリス・スエーデン・イタリアの観光資本がこの群島に狙いを定め、開発の地所を求めてジュパラ県庁に足しげく通っている。事業目的はホテル・リゾート・レストランなどだ。外資ばかりか内資も遅れをとってはならじと、バクリグループやサリムグループがこの開発ラッシュに参加している。パラン村の行政管区に入るクンバル(Kembar)島とカタン(Katang)島にリゾートを設けようとイタリア資本が手続きを進めており、州国土庁との間で用地収用許可プロセス段階に入っている。このリゾートができれば群島の最北西端が活気を帯びることになる。一番本土寄りのマンジャガン(Manjangan)島はバクリグループによるゴルフ場建設を主体として開発計画が組まれ、バクリはまたクムジャン島のデワダル(Dewadaru)飛行場地域開発も計画している。ムニャワカン島は2007年にスエーデン資本がクラクラリゾート拡張投資を行い、イギリス資本もベンコアン(Benkoang)島での建設を進めている。
デワダル飛行場へはスマラン(Semarang)から便が出ている。デワダルというのは地元原産の聖木で、この木を島外に持ち出そうとするとその者を災厄が襲うと島民は信じており、そのためデワダル飛行場ではこの木の枝にせよ何にせよ、それを持って飛行機に乗ることを厳禁しており、乗客の荷物検査は厳しく行われている。船の便も公共向け定期航路がスマランとジュパラからカリムンジャワ島に向けて出ているが、毎日ではないので注意を要する。カリムンジャワという名称は、ジャワ語のkremun-kremunが語源だという説があり、その言葉は「うっすら、ぼんやりと見える」という意味を表している。ジャワ島の海岸から群島を望見すると、大きいカリムンジャワ島が沖合いにぼんやりと見えることに加えて、そこもジャワの一部であるという意識をもってそう名付けられたということなのかも知れない。[ 2008年9月 ]


「違反ナイトスポットに厳罰」(2008年9月22日)
ラマダン月のナイトスポット営業規制に違反した都内7ヶ所の遊興施設を都庁観光局が摘発した。摘発された7ヶ所はすべて立入り禁止措置が取られ、ラマダン月が終わるまで強制的に営業不可状態に置かれる。そのうちのひとつ「カラオケ・ゼン」はホテル内でなく独立した建物であり、ラマダン月期間中営業不可と定められているにもかかわらず営業を行い、それどころか神聖なるラマダン月を汚す卑猥なストリップショーを開催したために営業許可取消し措置が取られる、と都庁観光局長が語っている。規制違反に対するもっとも重い罰則がそれで、この手続きは一週間かかるとのこと。摘発されたそれら7ヶ所の違反施設は次の通り。
Karaoke Zen タムリン通り
Moon Light Bar マスマンシュル通り
Club 36 Bar ハヤムルッ通り
Puri Spa Griya Pijat プリクンチャナ通り
Karaoke Tematik ジュンバタンティガ通り
Griya Pijat Bamboo Palace マンガドゥア
Resto & Bar Red Square プラザスナヤン
それ以外にも次の三ヶ所が警告処分を受けている。
Karaoke Milenium ガジャマダ通り
Malio Bar ガジャマダ通り
Cafe Bengkel SCBDスディルマン
警告処分を受けた3店は営業時間や営業日に関わる違反だったことから軽度の罰が与えられている。
カラオケ・ゼンは単に営業許可取消し措置ばかりでなく、刑法典第281条の公衆に対する倫理破壊罪でも告発される予定になっており、店のマネージャー、来店客、ストリッパー6人が当局の取調べを受けた。この罪に対する刑罰は2年8ヶ月以下の禁固となっているが、店側の説明によるとそのストリップショーというのは店側が知らないうちに来店客が勝手に始めたものであるとのこと。しかし観光局長の厳罰姿勢は都知事も支持しており、「それは正しい処理だ。重い罰則を与えなければならない。ムスリム大衆が自己を清浄化しようと努めているこの時期にストリップショーなどを供してそれを汚そうとするとは言語道断である。」と都知事は述べている。
2004年都条例第10号と2004年都知事規則第24号で定められた首都ジャカルタのラマダン月ナイトスポット営業規制に対する取締りは2008年9月1日から開始されており、上の10店はそのパトロールの成果とされている。都庁観光局はラマダン月が終わるまでこの取締りの手を緩めない、と言明している。


「見知らぬ他人の生命など、どうなろうと・・・・」(2008年9月26日)
スカルノハッタ空港からバタムとメダンに空輸されようとしていた花火と爆竹総量1.5トンを空港運営会社アンカサプラ?保安職員が発見して差し押さえた。インドネシアの国内定期航路はすべて旅客機が飛行しており、もし災厄が起これば大惨事が待ち構えているのは疑いもない。37個口の梱包に納められたこの大量の爆発物は2008年9月8日と9月10日に航空貨物として空港倉庫に搬入されたもので、書類には『部品』『干しナツメヤシ』と記されており、梱包外装に『干しナツメヤシ』と大書されているものもあった。
すべての航空貨物は機内に積みつけられる前にアンカサプラ?保安職員がX線検査を行うことになっており、保安職員が異状を発見して報告したため梱包の中味があらためられ、機内に納められる直前のあわやという場面で事件が発覚した。スカルノハッタ空港警察はこれを犯罪事件として捜査し、危険物を虚偽申告して飛行機に載せようとした容疑者ひとりを逮捕して取り調べている。他の関係者にも捜査の手は伸びていることを空港警察署長は明らかにしている。「これらの危険物を機内に入れるのはきわめて危険であり、飛行中の振動などのために擦れて発火すれば凄惨な事態を招き、ひいては国際社会の目にインドネシアの国威をおとしめるものとなる。空港内の全関係者は飛行に危険をもたらすものごとを一切排除するよう警戒を強めてほしい。」
スカルノハッタ空港管理局長はこの事件について、「爆発物を機内に入れることは禁止されている。この貨物を機内に積込もうとした航空会社には厳重な警告を与えた。またこの事件を発見し報告したアンカサプラ?職員には褒章を与えた。空港保安担当職員には今後も訓練を強化して危険な物品の早期発見に努める所存である。」と語っている。
この事件の犯人のような「自分の用が満たされるなら、見知らぬ他人の生命がどうなろうと・・・・」という感覚は飲食品にフォルマリンなどの防腐剤を使う事例に通じるものであるような気がわたしにはする。だれを自分と同類の人間と見なすのかという人間観において、異様に狭く病んだアンチヒューマニズムを抱く者が少なからず存在している社会はわれわれを慄然とさせるにあまりあるだろう。アンカサプラ?は差し押さえた大量の花火爆竹の保管に適切な場所がないために保管には危険があるとの理由から9月17日に廃棄処分を行った。土中に穴を掘って爆発物を中に入れ、そこに水を満たしてからその穴に土をかけて埋めるという廃棄方法が取られている。


「ルバラン休暇はアンチョルで」(2008年9月27日)
断食月最終日のブカプアサは試練を乗り越えたムスリムたちの笑顔で埋まる。30日間の苦しい克己を経てひとびとは誘惑に打ち勝った勝利をひとしきり味わうのだ。イドゥルフィトリは勝利の日だとかれらは言う。
最後のブカプアサはイドゥルフィトリの始まりであり、その夜ひとびとはモスクで礼拝を捧げてから通りへ繰り出し、通りを練り歩いて「アッラーフアクバル」を合唱する。これがタクビラン(takbiran)の夜だ。数年前から首都警察は都内街中でのタクビランは事故の危険が高いとして大勢で練り歩くパレードを禁止し、ホテルや集会所など一定の場所でタクビランを祝うよう都民を指導している。
北ジャカルタ市アンチョルドリームランドではタクビラン祝賀に花火大会を計画しており、2008年9月30日が10月1日に変わる午前零時を期してアンチョル湖で打ち上げ花火の一大供宴が催される。他にもイルカ園(Taman Lumba-lumba)で19時半から24時まで、モスクに必ず置かれているブドゥッ(beduk)と呼ばれる太鼓をグループで打ち鳴らすコンテストが行なわれる。
2008年10月1日から12日までのルバラン休暇期間にはドリームランド内各施設で特別プログラムが用意されている。ドゥニアファンタシ(Dunia Fantasi)通称ドゥファン(Dufan)では期間中毎日音楽にあわせた花火Musical Fireworksを19時半から入場客に供する予定であり、また13時から19時15分まではヨーロッパのマジックショーCrazy Bubble Magicがラマシンタホールで行なわれ、このショーは場内各所にも出没することになっている。Atlantis Water Adventure会場では入場客が書き込んだアンケートフォームを抽選して大量の景品が当たるお楽しみ抽選会や、競技プールで10月2・5・8・11・12日16時から魚獲り競争、1・3・4・6・7・9・10日はウオーターゲームが行われる。
ひとが集まる場所で音楽生演奏はインドネシアの常識であり、パンタイインダ(Pantai Indah)ではダンドゥッ、パンタイティムル(Pantai Timur)は未来のスターを目指す若いプガメンたちの腕比べ、イルカ園ではアラブ音楽などに興じることができる。


「ホテル業界は明暗くっきり」(2008年9月30日)
ルバラン休暇シーズンはバンドンやジョクジャあるいはバリのホテル業界にとってかきいれ時になっている。しかし首都ジャカルタや東都スラバヤはむしろビジネスダウンのシーズンとなるようで、ルバラン帰省のひとの流れに沿って明暗ふたつの色合いがくっきりと表れてくる。バンドンやジョクジャのホテル業界は2008年9月30日から10月5日までの週の予約状況が軒並み満室になっていることを9月第4週の末に公表した。
バンドンのホテルパパンダヤン(Hotel Papandayan)は188室がすでに満室状態。このホテルはこの時期二泊パッケージをオファーしており、デラックス室170万ルピア、エグゼキュティブ室190万ルピア。ホテルグランドプレアンゲル(Hotel Grand Preanger)の187室も予約で一杯。宿泊料金は普段と変わらず、スペリアー室一泊937,750ルピア、エグゼキュティブ室一泊108万ルピアだが、こちらも二泊パッケージを用意しており、ビジネスデラックス室で222万ルピア、エグゼキュティブ室は275万ルピア。予約客の7割がジャカルタ住民で、残りはスラバヤ、ジョクジャ、スマランなどの住民。
ジョクジャのホテル業界も9月28日から10月5日までの週はフルブック状態。ホテルメリアプロサニ(Hotel Melia Purosani)はジャカルタやスラバヤからのムディッ客が大半だが、中にはソロやマグラン住民で女中が帰省したためホテル暮らしにしたと言う客もちらほら。
ルバラン休暇シーズンには全国の観光地がかきいれどきに入る。中部ジャワ州マグラン(Magelang)のケテッパス(Ketep Pass)は通常の8時〜17時というオープン時間を7時〜18時に延長する。ボロブドゥル遺跡も近隣のプランバナン(Prambanan)やラトゥボコ(Ratu Boko)と共に集客を狙って伝統芸能が上演されることになっている。
首都圏の行楽地もてぐすね引いて期間中の入場客を待ち構えており、ムカルサリ(Mekarsari)観光園は入場料ひとり1万2千ルピア、園内ではさまざまな音楽ショーが予定されている。かつてはムカルサリ果樹パークという名称だったこの公園は観光産業に力を注ぐことにあわせて名前を変えてしまった。いつもの8時半開園17時閉園というスケジュールは10月1日だけ開園が朝11時に下げられる。サファリパークは大人5万ルピア幼児4万ルピア、自動車1万5千ルピア、オートバイ5千ルピアの入場料で昨今の売り物はフンボルトペンギンの愛らしい姿。アンチョルドリームランドは既にご紹介した通り。園内への入場料はひとり1万2千ルピアだが、ドゥファン入場は10万ルピア、サムドラセンター(Gelanggang Samudera)はひとり7万5千ルピアの料金が別途かかる。


「儲かってます!映画産業」(2008年10月15・16日)
1970〜80年代の国内映画産業黄金時代にボックスオフィスという言葉はなじみが薄かったようだ。20世紀末の1990年代に映画は斜陽産業となり、一時全国に3,048軒まで増えた映画館は世紀末に至ってかろうじて1千軒を維持するというレベルにまで低下した。しかし、オルバ期に全国規模での洋画配給をほとんど独占してしまったStudio21がそこまで見越して命名したわけでもないだろうが、21世紀に突入してからインドネシアの国内映画産業は往時に匹敵する輝きを取り戻した。
70〜80年代のインドネシアを知っているひとは、国民の娯楽のトップが映画鑑賞だったことを熟知している。休日に若い恋人たちが出かける先はたいていが映画館か行楽地で、土曜日の深夜上映が常にひとでごったがえしたのは健全な深夜デートの行き先がほかになかったからだ。その時代、年間に制作された映画2百タイトルの50〜70%は全国で膨大な観客を動員し、毎月延べ3千万人が映画館に通っていた。昨今の映画ブームはそれにはるかに及ばず、月間で1千数百万人ほどでしかない。しかしボックスオフィス作品と呼ばれないものでも50万から80万の観客動員能力を持っている。
2000年代以降の国産映画で最高の観客動員を行なったのは何だったのだろうか。サンディ・アウリアをトップ女優の座に就かせた2003年の作品Eiffel I!m in loveが400万人、そしてAyat Ayat CintaとAda Apa Dengan Cintaが同数の350万人という超ヒット作品となった。それに続くヒットはNaga Bonar Jadi 2が250万人、Get Marriedが200万人、Kuntilanak140万人、Tusuk Jelangkung120万人、Jelangkung110万人といったところで、このデータはCineplex21と映画制作会社などから集めたデータにもとづいている。
ところがプロデューサーたちの言う数字はまた違っている。売れっ子プロデューサーのチャン・パルウェス・セルビアはGet Marriedが140万、Virgin120万、Heart140万の観客動員だったと言い、別のプロデューサー、シャンカルR.S.はTerowongan Casablanca140万、Hantu Jeruk PurutやAborsiは100万人が見にきた、と述べている。
昔のシネマ黄金期はコメディが流行ればプロデューサーたちはこぞってコメディを作り、ドラマがヒットすれば争ってドラマを制作するという、インドネシア語でlatahと呼ばれる現象を呈するのが特徴だった。ところが昨今の状況は、いっときホラーばやりという現象が表れたものの最近はそれを乗り越えてあらゆるジャンルの作品が続々と銀幕に登場し、映画ファンを飽きさせないレベルに成長している。子供向け映画も作られるようになって、Petualangan Sherinaは予想外のヒットとなり、Denias、Senandung Di Atas Awan、Li buran Seruなどがそれに続き、ミラ・レスマナがプロデュースした最新話題作Laskar Pelangiは上映1週間で110万人を動員している。
インドネシアの映画興行は、プロデューサーと映画館が税金を引いた後の売上を折半している。計算式としては、たとえばCineplex21の入場料がひとり1万から5万ルピアでそれに入場者数を掛け、そこから興行税の5〜25%を引いた残りを折半するというもので、百万人が見た映画からプロデューサーと映画館はそれぞれ135億ルピアの収入を得ることができる。プロデューサー側の映画制作費用は一本30〜50億ルピアだから、映画制作は十分に儲かるビジネスだ。


「ルバラン行楽先11傑」(2008年10月16日)
一週間も続くルバラン休暇は全国民にとって行楽のシーズンだ。その行楽需要を刈り取ろうと全国各地の行楽スポットはさまざまな催しを用意して訪問客を誘った。ルバラン休暇は全国一斉に経済活動がお休みになるというものでは決してなく、たくさんのショッピングセンターも店開きをして2割も増加した流通現金を迎えようとしのぎを削る。イドゥルフィトリの初日午前中だけが宗教行事で占められるものの、それ以降は心躍る家族お楽しみの一刻一刻が一週間も続くのだ。
さて今年のルバラン期に全国で大勢の訪問客をひきつけた行楽スポットはどこだったのだろうか?観光文化省が2008年ルバランシーズンの人気行楽スポット11傑を公表した。それによれば、中部ジャワ州ではチャンディ・ボロブドゥル(Borobudur)とプランバナン(Prambanan)そしてバトゥラデン(Baturraden)、ジョクジャはパラントリティス(Parangtritis)海岸、ジャカルタはアンチョル(Ancol)ドリームランドとラグナン(Ragunan)動物園およびタマンミニ(Taman Mini)の三傑、西ジャワ州はパガンダラン(Pangandaran)海岸とサファリパーク(Taman Safari)ならびにチアテル(Ciater)、そして北スマトラ州のトバ(Toba)湖だった。
しかしそれら11ヶ所の人気行楽スポットは10月2日〜4日が人出のピークだったものの、5日からは下降傾向に入ってしまった。首都ジャカルタのラグナン動物園の人出は今年10月2〜3日の入園者数が478,162人で、これは2007年の791,295人から大幅な減少だったと言える。ともあれ、今年のルバラン行楽はアンチョル海岸で沖まで出た入園客のひとりが水死したほかは全国で特に事故もなく、平穏な一週間だったようだ。


「チャリタ・アニエル海岸で生命がけの海遊び」(2008年11月12日)
2008年5月17日付けコンパス紙への投書"Wisata Laut Carita Anyer Mengerikan"から
拝啓、編集部殿。2008年5月1日、わたしの一家はバンテン州のチャリタ・アニエル海岸へ遊びに行き、デシアナコテージに宿泊しました。ところが物売りやごろつきじみた貸し船の客引きが引きも切らず、わずらわしい限りです。コテージのドアを開けて海辺のそよ風を胸いっぱいに、なんてどころではありません。ドアが開けば5分もしないうちに物売りや客引きが集まってきます。コテージに入って長距離ドライブの疲れもまだ癒えないうちに、コテージの周りにはもう物売りが15人ほど集まって来て、泣きを入れたり強要したりして、あれを買え、これを買え。貸し船の客引きがわたしの小さい子供に「チンタ島(客引きの命名でしょうが・・)へ行ったらイルカが見えるよ」と言葉巧みにその気にさせたので、全員で行ってみることにしました。時間は午前9時過ぎです。大人3人と9歳未満の子供4人が海岸へ出て船に乗ると、救命胴衣がひとつ足りません。船頭と客引きは、海は穏やかだし自分たちは経験豊富だから絶対大丈夫などと言い張ります。受け取った救命胴衣もボタンがほとんど取れており、用をなしません。そうしてたいへんなことが起こったのです。
海岸から離れた沖合いでボートがひっくり返ったのです。船頭は波を避けて安全航行をしようとせず、燃料節約をしたかったのでしょう、波を突っ切ろうとしたおかげで乗客は生命をかけることになりました。子供たち4人とベビーシッターはひっくり返った船の下に閉じ込められて外へ出られません。幸運にも漁師の人たちがすぐに助けにきてくれたのでわたしの一家は全員無事に陸地に戻ることができました。もし運が悪ければ、わたしはまだ幼い子供たちを一度に失ってしまったにちがいありません。
バンテン州チャリタ・アニエルに行楽に出かけるひとは、コテージ経営者が世話してくれる船のほかは決して乗ってはいけません。無くなった品物を弁償してくれるどころか、生命まで失っても何の補償もないのですから。救命胴衣もちゃんとしていなければ海へ出てはいけません。条件がそろわないなら、海遊びはあきらめるべきです。そしてせっかくの休日を快適に楽しむため、物売りや客引きのいない宿泊場所を選びましょう。[ デポッ市在住、ナディラ ]


「2011年までに11ホテルがジャカルタにオープン」(2008年11月14日)
この先3年のうちに国際ホテルチェーン8社がジャカルタに進出する計画を立てており、ジャカルタでは年平均5%弱の客室増加が見込まれている、とコリエールズインターナショナルインドネシアが報告した。その8社とは別に、2008年中にはハリスホテル、アストンマリーナアンチョル、ホテルインドネシアケンピンスキーの3ホテルが稼動を開始する予定。2008年の第2第3四半期は首都のホテル客室新規稼動がゼロを続けており、ジャカルタのホテル業界にとって今年は比較的物静かな状況のようだ。現在の客室数は3星級が5,001室、4星級が8,213室、5星級8,301室あるというデータをコリエールズは示している。
ジャカルタを含めたインドネシア市場はMICEマーケットとしての発展の余地を十分に残している国のひとつであると国際ホテル業界は見ており、この業界の中にはインドネシアの将来性を高く買っているところも少なくない。アストンインターナショナルもそのひとつで、同ホテルチェーンは既に国内で15ヶ所のホテルを擁しているが、2010年までにホテル総数を40まで拡大する計画を進めているとのこと。
コリエールズが報告した8ホテルおよび今年オープンする3ホテルの明細は次の通り。
ホテル名 / 運営者 / 星級 / ロケーション
Harris / Tauzia Management / 3 /Kelapa Gading
Aston Marina Ancol Tower A / Aston Int'l / 4 / Ancol
Hotel Indonesia Kempinski / Kempinski / 5 / Thamrin
Aston Verandah / Aston Int'l / 4 / Slipi
Aston Mangga Dua / Aston Int'l /4 / Mangga Dua
The Grand Aston Albergo / Aston Int'l / 5 / Permata Hijau
Permata Gunung Sahari / Best Western / 3 / Gunung Sahari
Ibis Simatupang / Accor / 3 / TB Simatupang
Swiss BelHotel @ Grand Kartini / Swiss BelHotel / 4 / Gunung Sahari
Raffles Hotel @ Ciputra World / Raffles Hotels & Resorts / 5 / Satrio
St Regis Hotel & Residence / Starwood / 5 / Sudirman


「インドネシア人は海外旅行が好きっ!」(2008年12月5日)
2009年は世界的に不況の谷底に突き落とされるだろうとの予測が語られている中で旅行代理店業界は、2009年もビジネスの柱は海外旅行だ、と気勢をあげている。ただし消費者の購買力低下は疑う余地のないところであるため、「お求め安い海外ツアー」の開発に力が注がれるのは間違いなく、特にローコストキャリヤーの利用を組み込んだツアーが増加するものと見られている。購買力低下で海外旅行が減少し国内観光旅行にスイッチするのではないか、との見方を業界関係者は否定する。
パノラマツアーズの看板を掲げているPT Tirta Putra Wisata社もそのひとつで、お求め安い海外ツアーのバリエーションを増やすためにエアエイシア、香港エクスプレス、ビバマカオなどローコストキャリヤーとの提携を進めるのに余念がない。「旅行代理店は海外旅行販売に重点を置いています。なにしろインドネシア人自身が国内観光地よりも海外旅行の方を好むんですから。」女性ビジネス開発部長はそう語る。パノラマツアーズは今年の売上目標1兆ルピアを来年は4割増にする計画だ。
PT Anta Expres Tour & Travel Serviceも、海外旅行の人気は来年も衰えないだろうと見ている。「海外旅行については楽観視してます。多分調整する必要があるのは商品内容で、市場の状況に沿ったものに手直しする必要があるでしょう。これまでは豪華なプレミアム旅行が受けていましたが、来年はもっとアフォーダブルなものを増やすことになるでしょう。」こちらも女性コーポレートセクレタリーがそう述べている。
Asita(インドネシア観光旅行会社協会)首都支部副支部長はインドネシア人観光客が国内観光地よりも外国を選択する傾向について、国内観光地開発は停滞しているため観光客を惹きつける魅力が海外よりも劣っていることを理由に挙げている。結果的にビジネスアップを図る旅行代理店業界が海外旅行開発を進めるのは当然の成り行きであり、おまけに時と場合によっては国内旅行よりも安い料金が提供できることさえある。それがインドネシア人観光客を海外に連れ出す流れになっているということのようだ。



「バトゥラデン植物園」
中部ジャワ州にも植物園がある。2004年バニュマス県(Kabupaten Banyumas)に公式オープンしたバトゥラデン植物園(Kebun Ray Baturraden)がそれで、143.5Haという広大な植物園に集められた多数にわたるジャワ島原生種の植物相はボゴールやチボダスの植物園とはまた異なる魅力を秘めている。薬用植物147種、シダ143種、蘭23種その他果樹やイモ類などジャワ島であまり目にすることのできなくなった希少種が数多くここに集められており、flora van Javaを謳い文句にしている。この植物園はバトゥラデン観光園(Wanawisata Baturraden)の一部をなしている。
海抜8百メートルの高地に設けられたバトゥラデン観光園はCurug TeluやCurug PituあるいはTelaga Sunyiなどの行楽地を擁するオランダ時代以来の伝統的保養地だ。Curug TeluやCurug Pituにはルルールやマッサージを施してくれるスパがあり、特に硫黄ルルールは有名で昔を懐かしむオランダ人観光客が多数ここを訪れている。しかしバトゥラデン植物園のほうはまだ園内の散策道が十分に整備されておらず、そのためボゴールやチボダスに比べて行楽客が奥まで入りづらいのが難点で、管理者である中部ジャワ州森林局大森林公園運営植物調査院によればその散策路建設は490億ルピアの予算が必要だが州にはそれだけの資金力がないため、公共事業省に予算を取って欲しいと要請しているとのこと。[2008年12月]


「不況に沈みはじめた首都のナイトスポット業界」(2008年12月10日)
政府が現在承認している唯一のアルコール飲料輸入者PT Sarinahはアルコール飲料A種13万カートン、B種8万カートン、C種3万カートンの合計24万カートンのみが年間輸入割当量とされている。A種とはアルコール濃度が1〜5%までのもの、B種はアルコール濃度が5%超から20%までのもの、C種はアルコール濃度が20%超から55%までのものという定義になっており、A種の流通販売は商業事業許可さえ取れば行なえるが、B種C種はそれに加えてアルコール飲料商業事業許可も取得しなければならない。ビールはかなりふんだんに出回っているが、ワイン・ウイスキー・ブランディその他の酒類にお目にかかりにくい環境になっているのはそのためだろう。ちなみに外国からの国内持ち込みは個人消費用途に限って認められ、ひとり1千mlまでで容器も180mlより大きいものでなければならない。小売販売にも180mlより大きい容器という条件が付けられている。容器のサイズにこだわっているのは、あまりにも小さい容器で持ち運ばれると社会監視の目が行き届かないということではないかと思われる。われわれは酒類をハラムとするイスラム社会の中にいることを意識する必要があるだろう。
政府がアルコール飲料課税を3百パーセントに引き上げたことから公に市場で販売されているアルコール飲料に値上がりが起こっており、合法商品の消費が下降する一方で不法輸入されたアルコール飲料がブラックマーケットで売上を伸ばしている。国内最大のアルコール飲料消費地のひとつである首都ジャカルタは年間消費量が80万本であるが、ブラックマーケットには不法輸入品160万本が流通していると都庁商工局副局長が語っている。
首都のパブ・ディスコ・バーなどのナイトスポット業界は、グローバル不況で外国人観光客が減少し、インドネシア人顧客は購買力低下で足が遠のいているという苦境にあって、おまけにアルコール飲料値上がりというパンチを浴びている上に廉価商品を闇マーケットから調達すると官憲の取締りにあって大損を蒙るという四苦八苦の状態に落ち込んでおり、2008年11月の売上は15〜20%減少したところがほとんどだ。昨今、店を訪れる数少ない来店客も往時の半分程度しか金を使わなくなっており、店側はかつての売上を維持するのが不可能な状況にある。加えて不法輸入品がはびこっているため官憲はこれまでにも増して取締りを盛んに行っており、営業中の店に取締り班がやってくると客はそそくさと帰ってしまうということが頻発するため、店にとっては踏んだり蹴ったりの環境が作られつつある。2009年にはこの状況が一層悪化するだろうと見られており、この業界でも人員整理の動きがはじまりつつある。


「都内のナイトスポットに受難の季節」(2008年12月18日)
都庁は恒例の大晦日催事に関する規則を制定した。都知事規則第94/2008号では催事閉演時間や料金上限などが定められている。大晦日催事はディナーショーやパーティがメインを占めるため、料金は飲物・食事・税金・サービス料を含んだものとなっている。
2008年大晦日の催事料金上限は次の通り。
深夜映画(上演一回のみ): 60万ルピア
レストラン・バー・パブ・カフェ: 200万ルピア
ジャスミン級ホテル: 400万ルピア
ナイトクラブ: 500万ルピア
ディスコ: 500万ルピア
1・2・3星級ホテル: 800万ルピア
4・5星級ホテル、コンベンションセンター: 1,500万ルピア
1・2・3星級ホテルが昨年から200万ルピアアップした以外、すべて2007年のものから変化していない。昨年は催事申請が大晦日前の一週間に続々と都庁に出されて合計144件に達した。今年はまだ20件ほどの申請しか出ていないが、当日が近付けば昨年のように続々と集まってくるにちがいない、と都庁観光局長は語っている。
ところで都庁はナイトスポットの多くが闇売春のマーケットに化している実態を重く見て、業界の監督と事業許可交付の厳格化を進める方針であることを表明した。これまで許可交付と事業監督を観光局が一手に担ってきたが、今後は観光局が許可交付だけを行い、業界の監督は別の部門が行なうという機能分離が実施される。業界の事業内容チェックは観光局が社会保護秩序安寧局と警察の協力を得て行なっていたが、将来的に観光局は現場に出ない形になる見込み。ファウジ・ボウォ都知事はこの方針について、事業許可業務に問題はないが現場で業者が許可に即さないことを行なうケースが見られることから、許可されたとおりの事業を行っているかどうかの監視を現場で励行する、と説明している。この結果新規事業許可は下りにくくなり、毎年の許可更新もむつかしくなりそうだ。加えて当局の見回りが盛んに行なわれることになるようで、ナイトスポット業界にとっては不況にも増して困難な時代になりそうな雲行きだと言えよう。


「拡張するサンティカホテルチェーン」(2008年12月23日)
2008年優良インドネシア国産品アワードを宿泊施設のカテゴリーで受賞したサンティカ(Santika)ホテルは立地条件と顧客内容に合わせたいくつかのホテルバリエーションを持っている。4星級はSantika Premiere、3星級はHotel Santika、スマートホテルとしてHotel Amaris、そして高級リゾートビラとしてThe Kayana と The Samaraがあり、現在サンティカプレミエールは6ヶ所、ホテルサンティカも6ヶ所、アマリスは1ヶ所、そして高級ビラも各1ヶ所の合計15ホテルをサンティカホテルチェーンとしてPT Grahawita Santikaが経営している。
同社はいま意欲的な拡張計画を進めており、ホテルサンティカをボゴール・バリッパパン・タングランのBSDシティの3ヶ所、ホテルアマリスをデンパサル・アンボン・パランカラヤ・バンジャルマシン・バンドンなど6ヶ所、さらにThe Samayaビラをバリのウブッ(Ubud)に設けることにしており、今年から来年にかけてホテル網は着々と拡大される予定。その先頭を切って2008年12月19日にボゴールでホテルサンティカがソフトオープンを果たしている。国内ばかりか海外進出の夢も同社は掲げており、2012年にはベトナム・マレーシア・シンガポールを候補地として海外進出を実現させようと同社はその準備に余念がない。
グローバル不況の影響は外国人観光客をターゲットとするバリの高級ビラを除いてまだそれほど深刻な影響はもたらされておらず、客室稼動の低下はあるものの減少は20%未満におさまっているとのこと。2008年1〜10月の同社全体での客室稼働率は76%で前年同期実績の70%からは向上している。宿泊客の連泊数は都市部で1〜2日、北スラウェシやバリのような観光地は5日前後となっている。国内宿泊客が8割を占めるサンティカホテルチェーンはどうやらグローバル不況を巧みに切り抜けているようだ。


「しつこいボロブドゥルの物売り」(2008年12月24日)
中部ジャワ州マグラン県にある世界文化遺産ボロブドゥル寺院の評判が悪化している。執拗につきまとう物売りに辟易した国内外観光客がボロブドゥル管理者に対して苦情しているのだ。
ボロブドゥル寺院外側の第2ゾーンにいる物売りたちの多くは観光客を見つけると砂糖にたかるアリのように集まってきて観光客を取り囲み、自分が売っている商品を買え買えとしつこく迫る。きわめてアグレッシブなかれらの振舞いに大半の観光客は辟易してそこから逃げ出そうと足を速めるが、物売りたちも簡単に諦めずに数十メートルも観光客を追いかけていくという光景が頻繁に展開されている。乗り物から降りたとたんに買え買えと迫る物売りの襲来を受けて何とか第1ゾーンまで逃げ込み、チャンディに登ってその威容に触れ周囲の美しい風景と貴重な浮き彫りを楽しんだあと、ふたたび下界に降りてくるとしつこい物売りにつきまとわれてせっかくの文化体験が悪印象に取って替わられるという現象が観光客を襲ったのでは観光振興もだいなしだ。
「買わないと言われたら、物売りは余所へ行くべきだ。ところが売り込みながらずっとついてくる。煩わしいったらないよ。」はじめてボロブドゥルを訪れたイギリス人はそう語る。バンテン州タングランから観光に来た男性も、物売りの異常な押し付けがましさに不快感を抱いた。ボロブドゥル管理者はかれらを一ヶ所に集めて商売させるべきだ、とかれはコメントしている。しかし物売りのひとりは、観光客にうるさがられているのは知っている、と語る。「積極的に売り込まないと売上があがらない。家族を養うためにそうせざるを得ないことを分かって欲しい。」
ボロブドゥル寺院を管理しているチャンディボロブドゥル観光園社のデータによれば、ボロブドゥル寺院地区で商売を営んでいる者は3千5百人おり、そのうち1千2百人は売場を持たない路上物売りだ。同社は物売りたちに対して観光客の迷惑にならないよう説得を続けており、物売りのしつこさは低下している、と報告している。またチャンディから降りて出口に向かうくねった長い道を関係者は蛇通路と呼んでいるが、これまで物売りで満ちていた蛇通路も整備したので、観光客の快適さは多少回復しているはずだ、とも同社業務ユニット長代理は述べている。


「クリスマス〜新年のホテル予約は盛況」(2008年12月26日)
クリスマスから新年と続く長いホリデーシーズンに入ったジョクジャ・バンドン・バリなど国内観光地のホテル業界は多数の宿泊予約を受けてグローバル不況どこ吹く風という雰囲気に浸っている。既に予約状況は概略85%前後というありさまで、2008年12月27日から2009年1月1日まではそれがほぼ100%に達している。
「クリスマスから新年という長期休みとそれにあわせて2週間の学校休みになっているので、ホテル客室稼動は好調です。クライシスはホテルビジネスにあまり影響を及ぼさないようですよ。」とホテルヨグヤカルタプラザのPRオフィサーはコメントしている。ジャカルタでもクリスマス〜新年休暇の予約は好調で、クリスマス前の今週初めですら60%の客室稼動状況になっている。バンドンは65〜70%というレベルで、客室は12月26〜28日が毎日100%のフル稼働となりそうだ、とインドネシアホテルレストラン会バンドン支部長が語っている。バンドン県南部で起こっている水害も客足に影響を及ぼしておらず、宿泊客の主な観光先はダゴ(Dago)、レンバン(Lembang)、チサルア(Cisarua)などであるとのこと。
バリ州観光局長によれば、バリ全体でクリスマスから新年にかけての予約状況は65〜75%であるそうだ。しかしこの先、国内観光客がまだまだ増えると考えられることから、新規の予約は著しくタイトになる見込みが高い。2007年の経験にもとづけば、国内観光客は一般に3日前くらいに予約を入れてくるのだそうだ。上であげた各地では12月21日を過ぎてから電話による宿泊予約が急増している。予約客のメインはジャカルタからで、それ以外にはスラバヤやスマランの居住者が多いとのこと。


「クリスマス〜新年の国民トリップは2007年から6%増」(2008年12月26日)
クリスマスから新年と続く長いホリデーシーズンには、つい先だってのルバラン帰省を小型にしたようなひとの移動が国内に発生する。運通省はその期間の国民の移動を579万人で前年実績から5.9%増加するものと予測している。運通省がまとめた2008〜2009年クリスマス新年国民トリップ予測によれば、道路利用者201万人、鉄道利用者173万人、飛行機利用者154万人、海運利用者50万人という内訳になっていて、対前年実績増加率を見るとそれぞれ4%、4%、8%、20%という数値になっており、海運利用者の大幅増はやはり先だってのルバラン帰省時と同じ背景に基づくものであるようだ。しかし飛行機利用者の伸びも大きく、単純に飛行機から船へのシフトということだけでなく、他の要因があるのは疑問の余地がない。特にジャワからバリへの陸路渡航者が増加するものと予測されることから、運通省はクタパン(Ketapang)〜ギリマヌッ(Gilimanuk)渡海航路にRORO船17隻と戦車揚陸艇(LCT)7隻を配して270航海能力を準備させることにしており、乗客89,910人車両9,450台の運搬を可能にしている。
空運業界も、ガルーダ、スリウィジャヤ、ライオン、マンダラ、ウイング、リアウ、ムルパティ、バタビアの8社がホリデー期間の増便申請を運通省に出している。ジャカルタ〜デンパサルが増便数の最大を占め、第二位はジャカルタ〜ジョクジャで、上記8社の増便総数は190フライトに達する。またジャカルタ発の航空券販売は、デンパサル・ジョクジャ・スラバヤ・メダン行きがもはや売切れ状態。
鉄道もこのシーズンには連結車両数を増やし、また増便も行なうことにしているが、切符は概ね売切れ状態。都内ガンビル駅長は、12月17日から乗客数が激増しており、平常期の一日8千人はここのところ1万3千人に増えている、と語る。長距離特急列車では政府高官とその家族のために各車両に5〜6席のリザーブ切符を用意しておくのが通例だが、それらの切符もすべて一般乗客に販売されて各列車は超満員でガンビル駅を出発しているそうだ。車両増結は12月24日から開始された。ソロ行きのアルゴラウ号は7〜8両編成で出発している。
都内パサルスネン駅切符売場職員は、スラバヤ行き普通列車ガヤバルとクルタジャヤは12月20日以降、マラン行きガジャヤナは12月18日以降、2009年1月5日までの出発分がすべて売切れている、と語っている。
ところで例年活況を呈しているこのシーズンの海外旅行が今年は火が消えたような淋しさだ、と旅行代理店職員は言う。「ヨーロッパやアメリカ向けツアーは70%も減少している。国際線航空券の販売はそこまで低下しておらず、まあまあというレベルだ。外国での宿泊や観光は自分で安くアレンジして航空券だけ買うひとが増えたのだろうか?それとも外国をやめてバリに行き先を変えたのだろうか?」西ジャカルタ市にある旅行代理店職員はそうコメントしている。国外へ出ようというひとが減っている状況はパスポート発給状況からもうかがわれ、西ジャカルタ市移民局の11月パスポート発給数は3,306件で前年同月の4,139件から2割減となっている。


「インドネシアでも国際ルートバスが運行」(2009年1月6日)
西カリマンタン州ポンティアナッ(Pontianak)とブルネイダルッサラムを結ぶ国際ルートバスが運行している。BIMP−EAGAと略称されるBrunei-Indonesia-Malaysia-Philippines East Asean Growth Areaと名付けられた四カ国経済協力条約に基づいたこの国際バスはポンティアナッとブルネイ間1千2百キロをダイレクトで結ぶ直行バスで、インドネシアからは国有事業体ダムリ社、ブルネイからはSetia Jiwana Sakti社がそれぞれ10台の乗入れ権を持って乗合いバスを運行させている。ただしインドネシア側はダムリが40人乗りバスを5台だけ投入し、残る5台はポンティアナッのバス会社PT SSDSがその代替として運行することになっている。
もともとこの企画は2008年9月1日に運行開始が計画されていたもので、今年のルバラン帰省者に交通面での選択肢を増やす意図を持っていたが、ブルネイ側との間で料金調整と石油燃料購入の問題に関する合意が遅れたことから今年11月にやっと準備が整った。ブルネイでは石油燃料の購入が規制されている。ポンティアナッから国際ルートバスに乗る場合の料金はひとり55万ルピア。バスは当然マレーシア領内を通るが、マレーシア政府はこのバスに対して通行だけを認め、停車も客の乗降も禁止している。このバスは1千2百キロを28〜30時間かけて走破し、燃料400リッターを消費するとのこと。


「航空券番号がわかれば航空券がなくても良いの?」(2009年1月14日)
2008年6月28日付けコンパス紙への投書"Tiket Lion Air Hilang"から
拝啓、編集部殿。5月22日木曜日、わたしと妻はスカルノハッタ空港から15時発のライオンエアーでポンティアナッへ飛ぶ予定でした。出発ロビーへの入り口でわたしどもは航空券を提示しました。ところがチェックインの際、わたしの航空券と一緒に同じ封筒に入れてあった妻の航空券がなくなっていたのです。ロビー入り口からチェックインカウンターまでわたしどもが通ったルートを逆にたどって航空券が落ちていないか探しましたが、見当たりません。空港警備員も手伝ってくれましたが成果はありませんでした。
それでわたしは事情を話し、妻の名前がモニターで見つかるはずだから探してほしいとチェックイン担当職員に頼んだのですが、職員はそれを拒否しました。その職員は妻の航空券の番号を言うように求めるのです。乗客はみんな自分の航空券番号を記憶しているとでも思っているのでしょうか?これはキチガイ沙汰です。
旅行代理店で買った航空券にはわたしとわたしの妻の名前が書かれた紙が添付されているのです。論理的に、わたしの名前に続いて妻の名前がモニターに出てくるのは真違いないと思います。しかしライオンエアー職員はあっさりと、失くした航空券は代わりになるものがないので焦付きです、と宣告しました。妻はその日、出発できませんでした。ライオンエアーに説明を求めます。[ ポンティアナッ在住、スマジ ]


「足元を見る人間には勝てない」(2009年2月5日)
2008年6月30日付けコンパス紙への投書"Biaya Tambahan Travel 4848"から
拝啓、編集部殿。2008年6月11日、わたしはバンドンからブカシにトラベル4848の車で移動しました。自宅の住所まで送ってくれるので、都合が良いと考えたのです。バンドンのWAAにある4848の事務所から14時に出発したとき、そこの従業員が運転手に電話で確認してくれたのは追加チャージがないということでした。ところがブカシバラッ(Bekasi Barat)の料金所を出たとき運転手は、わたしの家がある住宅地へ行く場合は追加チャージがかかる、と言いました。移動途中のこんな場所で車から降りるわけには行きません。それで2万ルピアでということで交渉し、運転手も承知しましたが、ところがなんと目的地に着いたら運転手は追加チャージとして5万ルピアを要求してきたのです。交渉のあげく、本来だったらふたりで16万ルピアのところ、不承不承20万ルピアをわたしは支払ました。
もしそういうことだったのなら、どうしてバンドンで追加チャージがあると言ってくれなかったのでしょうか?わたしは騙されたのです。[ ブカシ在住、アセップ・スプリアッナ ]


「現場末端の人間も権力を振るいたい」(2009年2月9日)
2008年7月12日付けコンパス紙への投書"Penumpang WNI Tunjukkan Pospor"から
拝啓、編集部殿。わたしども夫婦と14歳の娘の一家三人は2008年6月27日から30日まで3泊4日のマナドツアーを楽しみました。アレンジしたのはウィタツアーで、乗ったのはガルーダ航空です。ジャカルタとマカッサルでの飛行機搭乗はまったく問題ありませんでした。ところがジャカルタへ帰る便で問題が起こったのです。マナド空港チェックインカウンターでは夫がKTP(住民証明書)を提示するだけで三人分の搭乗券を受け取れましたが、搭乗待合室に入るときにひとりひとりのアイデンティティカードがチェックされたのです。子供は生徒証を持ってこなかったのでアイデンティティを証明できるものがありません。空港職員はそれを問題にしました。マカッサルでも同じチェックが行なわれてパスポートを提示しなくてはならなくなるから、印紙を貼った紙に責任免除表明書を作成しなければいけない、とその職員は言います。インドネシア国籍者が国内線の飛行機に乗っているのにパスポートを提示させるという規則はいったい何なのでしょう?その表明書を作るさいに、6千ルピアの印紙に1万ルピアを払わせられました。ここは空港なのだから、と言って。
わたしども三人ははた目から見ても、そして子供の名前についているファミリーネームからも、家族であることが明白にわかるはずです。アイデンティティカードの提示は本当に義務なのですか、それとも空港職員の単なる口実に使われたにすぎないのでしょうか?[ ジャカルタ在住、リンダ・ニーク ]


「買物のインボイスは残しておくと得をする」(2009年2月10日)
2008年7月14日付けコンパス紙への投書"Kehilangan di Hotel Borobudur"から
拝啓、編集部殿。わたしの会社は2008年5月終わりごろ、ジャカルタのホテルボロブドゥルで社内ミーティングを開きました。ミーティング会場に使われたのはホテル内のバンダBルームで、ミーティングは順調に進行して昼食の時間になったため、みんなは会場の外へ食事をしに行きました。会場はホテルセキュリティが警備しておりミーティング参加者も限られたひとたちだったので、わたしたちは私物を会場に置いたままミーティングルームを後にしたのです。
会場に戻ったとき、わたしのカメラケースがわたしのバッグの外に転がっており、そしてカメラがどこにも見当たらないことにたいへんショックを受けました。ホテルセキュリティは昼食を終えて戻ってきたミーティング参加者の個人荷物を調べ始めたので、わたしも仕事仲間たちもとても嫌な気持ちを味わうことになりました。ホテルのセキュリティ責任者はわたしのカメラ紛失に関する警察の証明書を5月28日に作ってくれました。ホテルボロブドゥルのジェネラルマネージャーがわたしにこの事件の顛末書を作るよう求めたので、わたしは6月3日にそれをホテル側に提出しました。そのあと、ホテルのコーポレートセールスエグゼキュティブがわたしに、紛失したカメラのインボイスを用意するよう求めて来ました。紛失したのと同じ型式のカメラを弁償するのにそれが必要だと言って。
わたしがもっとも問題だと感じたのはホテルボロブドゥルのセキュリティ担当者が正しく業務を遂行するのを怠ったことです。そのためにわたしのカメラが紛失したわけですから。また紛失事件に対するプロセスも迅速さを欠き、面倒なことがだらだらと続けられました。ホテルボロブドゥルが紛失したカメラを弁償するに当たっては警察の紛失証明書を求めるべきであってインボイスを求めるべきではないとわたしは思います。わたしの場合は運良くインボイスが残っていましたが、ふつうのひとはたいてい買物をした際についてくるインボイスなど残さないで捨てるほうが多いのではないでしょうか。ましてや、たまたまインドネシアに来ていてそんな被害にあった外国人が品物のインボイスを一緒に持ってきているなんて、旅先でその品物を買った場合でなければまず考えられないと思います。[ ジャカルタ在住、サンドラ・プリマンティ ]


「サービスを知らないサービス就業者たち」(2009年2月11日)
2008年7月20日付けコンパス紙への投書"Bekas Muntah di Pesawat Bermasalah"から
拝啓、編集部殿。2008年7月3日午前6時15分、わたしは三人の小さい子供を連れてジャカルタからスマランにマンダラ航空RI−290便で飛びました。わたしと子供たちは座席番号18A,B,C,Dに座り、わたしは通路脇の18Cに座ったのです。
座席のベルトを締めようとしたとき、ロック金具の上に干からびた嘔吐の滓がついているのに気が付き、金具に触るのも気持ち悪くて、とてもベルトを締める気になりません。
それでスチュワーデスのひとりを呼んでそれをきれいにするように言ったところ、そのスチュワーデスは乗客が全員着席するまで待つようにわたしに求めました。乗客が全員座ると、そのスチュワーデスはティシューを持ってきてわたしに渡したのです。そして、自分でそれをきれいにするのが嫌ならうしろの座席が空いているからそっちに移るように、と奨めました。わたしは、子供たちを置いて自分が別の場所に座るわけにいかないことをスチュワーデスに説明しました。結局そのスチュワーデスは「わたしは今日は業務に就いたばかりだし、これはわたしの仕事じゃないんです。」と言いながら、とても嫌そうにベルトの金具を拭きました。わたしはそのスチュワーデスの態度と言葉にびっくりしました。だったら、テークオフ前の機内で乗客の座席をきれいにするのはいったいだれの仕事だと言うのでしょうか?
滓は金具からわたしの服に落ちました。わたしはスマランに到着するまでの間、不潔感と不快感に耐えなければなりませんでした。やっとスマランに着いて座席から立ち上がったとき、座席にも干からびた嘔吐の滓がこびりついているのに気付きました。わたしは知らないままずっと嘔吐滓の上に座っていたのです。国内で第一級カテゴリーに入るマンダラ航空が礼儀知らずな乗務員を使い、キャビンを不潔なままにしているのは不思議でなりません。[ スマラン在住、トリサリ・インダワティ ]


「インドネシア人の人気観光先がシンガポールからシフト?!」(2009年2月12日)
シンガポールを訪れる外国人観光客のトップであるインドネシア人の間でシンガポール離れが起こりつつあるようだ。シンガポール政府観光局の報告によれば、2008年の全外国人入国者数は1,010万人で2007年の1,030万人から低下し、それと軌を一にして国別でもインドネシア人は177万人で2007年の196万人から10%減少したし、やはり入国観光客の第二位を占める中国人も111万人から108万人に減少しており、従来のお得意さんに異変が起こっている模様。しかし第三位のオーストラリア人は77万人から83万人に、第四位のインド人も75万人から78万人に増加し、第5位のマレーシア人も65万人で横ばいを維持している。
ところが人数は減少したのに観光客が使ってくれるお金は増加しており、2008年シンガポール観光業界の収入は148億Sドルで2007年から4.7%上昇した。インドネシア観光代理店協会会長はその現象について、シンガポールは宿泊費用・交通費・物価その他諸ファシリティ費用が高くなりすぎているように思われる、と語った。「インドネシアだけでなく他の諸国のツーリストも今はクアラルンプルを買物や観光先に選ぶ傾向が強まっている。ファシリティも環境もあまり違わなくなってきているのに、KLの物価や諸経費はシンガポールほど高くない。観光客の中には、シンガポールは高いと苦情を言うひともいる。どうやらインドネシアだけでなく他の国もシンガポールからクアラルンプルに観光先をシフトしはじめているようだ。」ベン・スクマAsita会長はそうコメントしている。


「5時間の遅延で何ももらえなかった」(2009年3月2日)
2008年7月17日付けコンパス紙への投書"AirAsia Ingkar Janji"から
拝啓、編集部殿。2008年6月30日、わたしの妹はエアエイシアQZ7503便でメダンからジャカルタへ飛ぶ予定でしたが、とても深い失望を味わうことになりました。13時30分発の予定が二回延期されて18時30分にやっと出発したのです。アジアのベストローコストキャリヤーという評判も、エアエイシアのネットサイトにある世界で革新の最先端を行く企業の一つという謳い文句も、素人としか思えない振る舞いで消費者は失望に打ちのめされなければならないとは・・・。
妹は事前の通知をなにひとつ与えられないままメダンのポロニア空港で5時間も時間をつぶし、じっと待っていた間に飲み物も食べ物も与えてもらえませんでした。妹は、エアエイシアのネットサイトに書かれている同社CEOが公約した「3時間超の遅延には代償として50万ルピアのバウチャーを差し上げます」という約束が果たされるよう要求しています。妹はもう三回もontimeguarantee@airasia.comにこの件に関するEメールを送っていますが、エアエイシア側からはなしのつぶてです。
あの宣伝は言葉どおりの意図などさらさらなく、その裏に隠された革新の最先端を行く企業としての体裁を整えてセールスにインパクトを与えることが目的だったのではありませんか?運通省はこれまでエアエイシアに与えていた評価を見直す時期が来ているのではないでしょうか?[ ジャカルタ在住、サハラ・マルリ ]


「行楽の目的地はモール」(2009年3月25日)
全国の大都市には続々とモールがオープンしており、インドネシアはモール熱にうかされている観がある。この不況下でも過去一ヶ月間にモールに行かなかったというひとは18%しかおらず、82%は月1回以上モールに足を運んでいる。ところが小売業界の売上は下降の一途をたどっており、おまけに高級ブティックをはじめとする高額商品の売行きがぱったり止まっている。この現象が意味しているところは何なのだろうか?
昔からモールは消費者が買物に行く場所である前に遊びに行く場所だった。インドネシアでは大昔からパサールマラム(夜市)の慣習があり、ひとびとは夜市に集まってきて人ごみの賑わいを楽しみ、見目麗しいひとを眺めたりあるいは自分の見映えの良い姿を見せて楽しみ、飲み食いしたり四方山話をして楽しみ、そして珍しい手ごろなものがあればはじめて買物する、というライフスタイルが確立されていた。モールにひとびとが集まるのはその慣習の延長ではないかとわたしは推測している。特にジャカルタでは家の外で安全に遊べる場所がきわめて少なく、小さい子供から青少年そして年寄りまで弱者の部類に入るひとたちが安心して楽しめる場所が大勢の警備員に警護されているモールという場所に限定されてしまったという要因もあるにはあるのだろうが・・・・
つまりモールにひとが集まるのはそこが一年中パサールマラム機能を提供しているからであり、モールにやってきても財布の口をまったく開かないひとは少なくない。モダンリテール分析の中でかれらはウインドウショッパーと呼ばれる。首都ジャカルタのスマンギ立体交差に位置するプラザスマンギ(Plaza Semanggi)は平日集客数6万5千人、週末は更に1万人が追加されるという繁華なモールの一つだが、来店客の一割はウインドウショッパーだそうだ。グローバル経済危機の影響は2008年11月ごろから肌で感じられるようになってきた、とプラザスマンギ運営会社広報担当は語る。そのころから自家用車で来店する客の数が減少し始め、またウインドウショッパーも15%ほどに増えているらしい。しかし10年前のクライシス時には来店客の30〜40%がウインドウショッパーだったそうだから、今回の15%程度ではそれほど大きいインパクトを業界者は感じていないようだ。
ブロッケムプラザ(Blok M Plaza)は若者層が来店客の主流を占めるモールで、ここでは飲食し、映画を見、ファッション商品を買う若者たちの行動が少しも変化しておらず、クライシスどこ吹く風という表情らしい。ニールセンインドネシアの報告によれば、インドネシアは香港に次いでモールにたくさんひとが集まる国とされている。エアコンがきいていて過ごしやすく、治安もよく、そして催し物を無料で楽しめるモールは一部のひとにとって申し分のない行楽目的地になっているようだ。ウインドウショッパー比率は月〜金曜日が63%に達するが土日は59%に低下する。衣料品を見ると、月〜金曜日に買物する客は32%だが土日は43%にアップしている。土日の来店客は万の単位で人数が増え、そしてみんなせっせと財布の口を開いてくれる。一週間を二日で暮らすモールの姿がそこにある。


「シンガポール向け格安ツアー」(2009年3月27日)
シンガポールに入国する外国人観光客数のトップを占めているインドネシア人もこのグローバル経済不況下に数が減っている。2009年1月の入国者数は11万8千人で前年同月から13%も低下したものの、国別入国者数では依然としてナンバーワンの地位にある。シンガポール政府観光局は2009年外国人観光入国者数を2008年実績の1,010万人から950万人に低下すると見込んでいるが、2008年のインドネシア人入国者数は2007年から12%も減少しているため、インドネシア人観光客のシンガポール離れを食い止めようと秘策を練っているところだ。
これまで黄金時代を謳歌していたシンガポール観光業界もこの不況を乗り切るために料金や価格が高くなりすぎているとの批判に応えようとしており、ホテル・トラベルエージェント業界は廉価メニューへの配慮を強めている。5星級のさる著名ホテルは一泊450米ドルという料金を250米ドルに引き下げたとのこと。航空料金込み一泊二日パッケージツアーも以前は300米ドルが標準だったものが、いまでは115米ドルという格安ものがメニューに加わってきた。シンガポール観光局はインドネシアのマンダラ航空およびバタムのバタムファーストフェリーを誘ってシンガポールへの格安パッケージツアーをインドネシア人観光客向けに用意した。マンダラ航空はジャカルタ・メダン・パダン・スラバヤ・プカンバルなど国内諸都市からバタムにこのツアー客を運び、客はバタムからフェリーでシンガポールに入国するという旅程で、購買力の低下したインドネシアの中流層に往時のようなシンガポールへの観光訪問を復活させるのがその狙い。観光局データでは、インドネシア人観光客はシンガポールに平均3.5日滞在し、一日当たり1千4百Sドルを支出するそうだ。


「ビーチがインドネシア観光の目玉」(2009年4月10日)
インドネシアを訪れる年間640万人の外国人観光客の60%は単なる物見遊山でなく特別の活動を目的にしてやってきており、その中で最大ポーションを占めているのはビーチ観光である、とインドネシア旅行代理店協会会長が公表した。「ビーチ観光とは水泳やサーフィンあるいは潜水などの活動を主目的にするものであり、ビーチ活動を目的にやってくる外国人観光客はうなぎのぼりだ。名所旧跡を見物にやってくるひとびとは減っており、自分で何らかの活動を楽しもうとするひとが増加している。トレンドの顕著な変化が起こっている。」
2008年に行なわれたパッセンジャーエクジットサーベイの結果を見ると、ビーチ観光は25.3%、アドベンチャー観光21.4%、エコロジー観光4.7%、アグロ観光3.6%、その他特別な活動を目的にした観光5.1%で合計60%がその種の観光客で占められている。政府観光文化省は国内にある90ヶ所の海洋観光目的地のプロモーションに注力してマリーンツーリズムを2009年ビジットインドネシアイヤーの目玉のひとつにしようと計画している。


「インドネシアの旅行ハイシーズンは今」(2009年7月3日)
全国的に学年末休みに入ったいま、国民の国内外旅行熱は例年のように盛り上がっている。既にスマトラ〜ジャワ間フェリーのジャワ側の港であるムラッ(Merak)では乗船する車が平常期から三割増になっているし、週末のプンチャッ(Puncak)も従来にも増して激しい交通渋滞に陥っている。東ジャワではブロモ(Bromo)山観光がブームになっているらしく、地元ホテル業界は予約の大幅増に笑顔を隠さない。全国的にメインの街道は交通量の増大する可能性が高い。
国内を自動車で移動する旅行者にはあまり関係ないが、飛行機を使う人たちは旅先への移動と宿泊をたいてい旅行代理店にオーダーする。「航空券やホテルの予約といった休暇旅行のアレンジをインドネシア人の7割は旅行代理店に依頼してきます。海外だけでなく国内旅行だってそうですよ。代理店を使うと自分でプロセスするより簡単で楽だし、失敗することが少ないですから。」インドネシア観光旅行会社協会(Asita)副会長はそう語る。
旅行代理店経営者のひとりは、海外旅行をしたいひとの大半は旅行代理店に頼っている、と物語る。「特に日本や香港は言葉が違うので、自分で予約を入れたりするのはなかなか難しい面があります。それに自分でアレンジするよりは旅行代理店が主催するツアーに参加するほうが安上がりです。グループツアーだと大勢が一緒になりますから、ひとり当たりのコストは安くなります。今年の学年休みシーズンの販売状況は2008年より少し上を行っており、海外旅行のほうが高い比率になっています。感触としては、昨年より良好なようですよ。」
アストングループの話では、ホテル宿泊予約の60%は旅行代理店からのもので占められているとのこと。これは消費者に対してホテル料金をきわめて廉価に小売しているホテル予約業者の存在という要素もあるとはいえ、消費者が直接予約すると高い料金が適用されるというシステムもその傾向を煽っているようだ。
経済危機下の昨今でも一般消費者の旅行熱はさめておらず、影響が出ているのは出張を減らして緊縮方針を取っている企業マーケットだけであるように見える。旅行代理店業界の販売状況は決して悪くない。むしろ航空会社が乗客減少対策として低料金をオファーしているため旅行に出たい一般消費者にとってツアー料金は求めやすいものになっており、売行きが落ちていない現象となって表れているようだ。
しかしAsita副会長は今年の学年休みシーズンの販売を悲観的に見ている。国内線航空券やホテルの予約が取りにくくなっているのは海外旅行希望者が国内に行き先を切り替えたためであり、海外旅行者は前年に比べて15〜20%減少するのではないか、と副会長は予測している。


「グヌンパンチャル温泉はもう懲り懲り」(2009年7月14日)
2008年12月7日付けコンパス紙への投書"Berbagai Pungutan ke Wisata Air Panas"から
拝啓、編集部殿。わたしども一家5人は、ボゴール県ババカンマダン村(Desa Babakan Madang)にあるグヌンパンチャル(Gunung Pancar)温泉での行楽に向かいました。別の用事もあったので、わたしどもはジャゴラウィ自動車道チトゥルッ(Citeurep)料金所から出て一般道をババカンマダン方面に進みました。カラントゥガ村(Desa Karang Tengah)で車1台の通行料2千ルピアを徴収されました。さらにババカンマダン村に入ると、やはり車1台2千ルピアの通行料を取られたのです。目的地まではまだ遠く、道路は悪路で狭く、おまけにスピードトラップがいくつも設けられていて、ほんとうにうんざりです。
やっとグヌンパンチャル観光園に到着しましたが、温泉へ行くのにそこを通らなければならず、そこではひとり2千ルピア車1台2千ルピアが徴収されました。切符も何もくれないので要求すると、切符を1枚だけくれました。そこから温泉まで車で進みましたが、温泉エリアに入るのにひとり1万ルピアプラス車1台4千ルピアがまた徴収されます。それだけの費用が徴収されているというのに、温泉は古ぼけたはしごを上り下りする、まったく期待はずれの状況でした。温泉といっても差し渡し2メートルほどのちっぽけな池につかるだけで、上の駐車場エリアに専用室があるというので行って見ましたが施設の貧弱さと料金の目茶高いのに驚かされてしまいました。シャワーは5万ルピアで小屋だと10万ルピアだと言うのです。
この事実を前にしてわたしはボゴール県の観光方針を問いただしたいと思います。あれこれ理由をつけて金を徴収する一方、道路状況は最悪のまま放置されているではありませんか。観光地は観光地で施設はほんの形ばかり、料金は運営者がほしいままにしています。硫黄分などないただのお湯につかるだけでそんな状況です。わたしどもはもう本当に懲り懲りしており、二度と行きたいと思いません。[ ジャカルタ在住、ブディ・サントソ ]


「ビザ交付は出発予定日から一週間後」(2009年8月29日)
2009年1月19日付けコンパス紙への投書"Visa Australia dan Biaya Tur"から
拝啓、編集部殿。2008年6月の学年末休みを楽しむために、わたしは三人の子供を誘って友人たちとオーストラリア旅行を計画しました。旅行会社はチトラガーデンにあるエリザツアー&サービシズを選び、そこの経営者であるアストリッドさんとコンタクトしました。書類も費用もすべての必要条件は満たしました。費用はオーストラリアツアー4人で10,400米ドル、ビザ費用340万ルピア、出国フィスカルとエアポートタックス440万ルピアです。ところが出発日になってもオーストラリア大使館はわたしと三人の子供の入国ビザを交付してくれません。結局ビザは出るには出たのですが出発日の一週間もあとだったので、子供の学校休みは終わってしまい、今更友人たちを追いかけて出発するわけにいきません。
キャンセルのリファンドプロセスで問題が起こりました。アストリッドさんの話によると、オーストラリアへの往復航空券はシラツアーを通してシンガポール航空の切符を買い、ホテルは2008年6月11日から17日までをオーダーしたそうですが、その期間はビザがおりていないのです。
シンガポール航空の5ヶ月というかなり長い航空券リファンドプロセスのあと、2008年11月12日にわたしが受取ったのは、30,485,000ルピアと2,960米ドルだけでした。そして顧客が強いられた費用負担は実に驚くべきものだったのです。ホテル代三泊分、ランチ、ディナー、シティツアー、ハードロックカフェでの食事。それらの何ひとつ、わたしたちは享受していません。わたしがエリザツアーに支払った金額の合計は1億ルピアほどでしたが戻ってきたのは6千万ルピア程度で、4千ルピアも損をしてしまったのです。[ ジョクジャ在住、エンダン・T・スリヤニ ]
2009年2月12日付けコンパス紙に掲載されたエリザツアーからの回答
拝啓、編集部殿。エンダン・トゥティ・スリヤニさんからの1月19日付けコンパス紙に掲載された投書について、次の通りお知らせします。ツアー開始前に当方はエンダンさんを含めたツアー参加者全員に対するプレゼンテーションと説明を行なっています。オーストラリアへの入国ビザがおりるかおりないかは、百パーセントオーストラリア大使館の権限になっています。
シンガポール航空の航空券リファンドはシラツアーからの金額通りであり、そのオリジナルインボイス複写コピーは2008年11月にエンダンさんに提出しています。エンダンさんのご一家がまったく享受していないにもかかわらず負担を強いられた取消費用はオーストラリアにあるエリザツアーとシラツアーの相手方旅行代理店が決めていることでなく、航空会社・ホテル等々が条件として決めているものなのです。当方が行なったことはすべて現行プロセスの中で決まっている通りのことです。[ エリザツアー専務取締役、アストリッド ]
2009年2月28日付けコンパス紙に掲載されたシラツアーからの回答
拝啓、編集部殿。エリザツアーを介してご家族でオーストラリアへの訪問を計画されたエンダン・スリヤニさんからの2009年1月の投書について、当方は次のことをクリヤーにしたいと存じます。シラツアーはエリザツアーからのシンガポール航空航空券購入とオーストラリア入国ビザ手続だけを受注しました。当方は2008年10月21日に航空券代金の払い戻しをエリザツアーに対して行いました。
ホテル、ハードロックカフェでのディナー、シティツアー等々はシラツアーの関知しないところです。[ シラツアー販売広報担当、アンディ ]


「学校の休みはどう過ごす?」(2009年10月7日)
インドネシアの新学期は7月で、学年末休みは6月から7月にかけてのほぼ一ヶ月。学年が終わったのだから宿題もなく、子供たちはひたすら羽を伸ばしてこの長期休暇を楽しもうとする。雰囲気としては日本の夏休みに似ており、長い休みなればこそ普段互いに忙しい親子の触れあいを高めたり、子供にとって教育的で有意義なプログラムを子供に与えようと親たちも頭と財布をしぼる。
話がすこしさかのぼるが、2009年の学年末休みはグローバル不況のさ中にあった。だから一家で旅行に、あるいは子供を田舎のおじいちゃんおばあちゃんの家に長期滞在させる、といったプログラムもどうやら不況の影響を受けたようだ。
コンパス紙R&Dが2009年6月3日4日に全国主要都市の電話帳からランダム抽出して電話インタビューした881家庭の『今年の学年末休みの計画は?』という質問に返された回答は、子供たちをいささか灰色の日々に投げ込むような内容だった。回答は次の通り。
1.どこへも行かない 32.3%
2.自然に触れるツアー 24.1%
3.モールや娯楽センター 8.3%
4.教育的内容のツアー 3.7%
5.その他 13.7%
6.まだわからない 17.9%


「マラン〜デンパサル航路はオープンしない」(2009年10月9日)
地元行政のフルアテンションもあって、一時東ジャワ州マラン空港へ乗り入れを計画する航空会社が多数にのぼった。ジャカルタ〜マラン航路を就航しているスリウィジャヤ航空もマラン〜バリッパパン往復やマラン〜デンパサル往復航路の拡張を計画した。それらの動きはマラン市庁の熱意に押されてという要素が皆無だったとは言えない。
スリウィジャヤ航空はマランを中心とするそれらの航路拡張計画を先送りする、との意向を表明した。どうやら観光客誘致に熱心なマラン市行政の熱意とは裏腹に、現実はそれほど好都合なものでなかったということをスリウィジャヤ航空が確認したためのようだ。
「インドネシアエアートランスポート(IAT)がその航路を飛んでいたが、小型機を使っていたとはいえ週末しか乗客が集まらなかったようで、平日はフライトがなかった。結局マラン〜デンパサル航路はストップしてしまった。マラン市はその後釜を当方に求めてきているが、採算性は大いに疑問だ。当面航路拡張は見合わせたい。マラン市が補助金を付けてくれるなら話はまた違ってくる。そうなれば多くの航空会社が乗り入れを検討するだろう。アブドゥラフマン・サレ空港のもうひとつの問題はILS設備が調えられていないことで、その結果17時以降の離着陸が困難なのも弱点になっている。」スリウィジャヤ航空マラン地区マネージャーはそう表明している。


「今年第2四半期のホテル業界は好調」(2009年10月26日)
2009年第1四半期の不況は第2四半期に上昇に転じ、それ以降上向き状況が持続している、と国内ホテル業界の状況をコリエールズインターナショナルインドネシアが報告した。客室稼動状況の好転によって宿泊料金も上昇している。特に7月初旬の学校休みで家族連れの旅行がバリを筆頭に全国の観光地をにぎわしたことでホテル業界は大きい収益をあげ、マリオット+リッツカールトン爆弾テロもたいした悪影響をもたらすことはなかったとのこと。
ジャカルタの3〜5星級ホテル客室稼動状況は3星級ホテルが第1四半期の70.5%から76.6%に上昇し、4星級は71.8%から80.1%に、5星級は65.8%から73.1%にそれぞれアップした。それに連れて3星級ホテル宿泊料金も伸びを見せたが、4星級ホテルの一室一泊料金は第1四半期の平均460,639ルピアから453,686ルピアに、5星級の877,837ルピアは838,902ルピアに低下している。
一方バリのヌサドゥアでは、3星級ホテル客室稼動は第1四半期の74%から80%に、4星級ホテルは70.7%から73.8%に、5星級は71.1%が73.5%にそれぞれアップし、宿泊料金も3星級では61.09米ドルから65.27米ドルに、4星級は111.16米ドルから116.72米ドルに、5星級は114.60米ドルから117.80米ドルに平均値がそれぞれ上昇した。クタやウブッでも同じように上昇傾向が観測されている。
スラバヤはどうかと言えば、客室稼動状況は全般にわたって向上しており、宿泊料金も3星級ホテルで一室一泊303,270ルピアは305,248ルピアに、4星級でも357,951ルピアから365,590ルピアに上がったものの、5星級ホテルは716,067ルピアから690,845ルピアにダウンしている。


「モールは遊びに行くところ」(2009年11月5日)
モールを訪れる消費者の9割はモールを行楽先として利用している、とインドネシアショッピングセンター運営者協会役員が述べている。「食事ができ、また娯楽施設を備えているモールにやってくる来店客の9割はウインドウショッピングをしているだけであり、あとは食事をし、ホビーやゲームを楽しんで時間を送っている。このご時世では、モールに買物をしにやってくる消費者は割引販売がお目当てで、定価販売商品にはあまり手を出さない。」
オフィス勤め消費者の多くはたいていウイークデーに買物をする傾向が強いと同役員は語っているが、それは家族持ちの場合週末に家族連れでモールを訪れる際の行動が食事と娯楽をメインにしていることの裏返しになっているためのようでもある。
ショッピングセンター運営者協会は消費者のモールを訪れる目的に関する調査結果を次のように報告している。
1)見て歩く 81.6%
2)スーパーマーケットで買物 57.9%
3)衣料品売場で買物 51.5%
4)レストランで食事 48.8%
5)ゲーム施設で遊ぶ 18.5%
6)映画を見る 15.3%
7)カフェで飲食 10.7%
8)書店で買物 10.6%
9)その他 19%


「ボゴール植物園内自転車使用禁止」(2009年11月6日)
2009年3月28日付けコンパス紙への投書"Kebijakan Kebun Raya Bogor yang Diskriminatif"から
拝啓、編集部殿。わたしは最近ウイークデーにボゴール植物園を訪れました。休日はきっとひとでいっぱいであり、ウイークデーならバイクで涼しいボゴール植物園内を思う存分周遊できるにちがいない、と思ったのです。ところが周遊をはじめる間もあらばこそ、植物園に入ったとたん、警備員の制止が待ち受けていました。植物園内で自転車に乗るのは禁止されている、と言うのです。わたしはその制止に少々ムッとしたので、すこしきつい口調でその理由を尋ねました。そこで明らかになったのは、ボゴール植物園管理者が植物園内自転車禁止という規則を定めていたことです。 警備員の考えによる禁止でないことがわかったので、わたしはそれに従うことにしましたが、園内で目の前を四輪や二輪の自動車が走り回っているので納得感の持てない憤りは腹の中でくすぶっています。警備員が言うには、園内を走り回っている四輪二輪の自動車は植物園管理機関従業員のものであるため、園内で自由に使われるのは当然とのことでした。
ボゴール植物園内で自転車使用禁止という決まりがあることがわたしにはとても残念です。わたしたちサイクリングスポーツ愛好者が植物園に汚染を持ち込むことは絶対にありえません。むしろ植物園管理者は園内を大気汚染から保護するために園内での四輪・二輪自動車使用の禁止にコミットし、いささかの例外も認めないようにするべきではありませんか?園内の大気汚染を積極的に予防し、排気ガスのない環境を維持するように努めてください。[ 西ジャカルタ市在住、ブロト・スティヤワン ]


「東ジャワのトップ観光先はブロモ山」(2009年11月10日)
2009年7月に東ジャワ州を訪れた外国人観光客は自然を求めての観光をメインにしている、と中央統計庁データが物語っている。それによれば、人気観光先のトップはパスルアン(Pasuruan)のブロモ山(Gunung Bromo)で、次いでマグタン(Magetan)のサラガン池(Telaga Sarangan)、ポノロゴ(Ponorogo)のグベル池(Telaga Ngebel)、バトゥ(Batu)のセレクタ温泉(Pemandian Selekta)、ラモガン(Lamongan)の海洋観光などと続いている。一方、まだあまり外国人観光客に知られていないが将来有望なスポットとして、ラモガンのマハラニ洞(Gua Maharani)、ガンジュッ(Nganjuk)のスドゥド滝(Air Terjun Sedudo)やロロクニン滝(Air terjun Roro Kuning)、トレンガレッ(Trenggalek)のプリギ海岸(Pantai Perigi)、パチタン(Pacitan)のゴン洞(Gua Gong)、クディリ(Kediri)のクルッ山(Gunung Kelud)、トゥルンガグン(Tulungagung)のポポ海岸(Pantai Popoh)、スラバヤ動物園(Kebun Binatang Surabaya)、ジュンブル(Jember)のワトゥウロ海岸(Pantai Watu Ulo)、パスルアンのサファリパーク(Taman Safari)などが目白押しだ。
2009年7月にスラバヤのジュアンダ空港に入国した外国人観光客は14,810人で前月から0.5%減少した。


「映画館へ行かない映画ファン」(2009年11月24日)
映画鑑賞はかつて大衆娯楽のナンバーワンであり、若い男女のデートコースは映画館と相場が決まっていたものだ。その状況は映画館草分けの時代からはじまり、1970年代でもインドネシアではさしたる変化が起こっていなかった。ところが映画が大衆娯楽を独占していた時代が去ると映画は斜陽産業となり、巷の映画館は続々と閉業していった。数年前からインドネシアでも国産映画の復興期に入っており、いま都市部には4百軒ほどの映画館が営業している。
コンパス紙R&Dが2009年10月21〜23日に国内主要都市の850人を対象に集めた統計によれば、映画好きはまだまだ多いが映画館に足を運ぶ映画ファンはマイノリティになりつつあるようだ。合法非合法の映画ソフトが巷にあふれ、海賊版は一枚数千ルピアという廉い金額で手に入る。DVD/VCD再生用プレーヤーはこれも数十万ルピアで手に入るから、自宅で寝っ転がって映画を見るのを好むひとにとっては素晴らしい時代が訪れているわけだ。あなたは最新映画をどこで見ますか、という質問に「自宅で」と答えたひとがトップを占めた。調査結果は次の通り。
1)自宅でプレーヤーを使って見る 38.2%
2)映画館で 32.9%
3)映画なんて見たことない 28.2%
4)無回答 0.7%


「国外に出るインドネシア人はみんなリッチマン」(2009年11月27日)
インドネシア人は国外に出るとみんな大金を振り回すので有名。パリのデパートではインドネシア人イコール金を湯水のごとく使って買物をするリッチマン・リッチウーマンというイメージが常識になっている。極貧者でいっぱいのインドネシアというイメージはインドネシアにやってこなければわからない。シンガポールでの不動産購入外国人ナンバーワンもインドネシア人で、しかも豪華で贅沢、高額な物件を好んで購入しているという調査結果が報告された。
インドネシア人のシンガポール不動産購入は150万〜500万Sドルレンジの物件がお好みで、マレーシア人中国人の50万〜100万Sドル価格帯の上を行っており、ノヴィナ、リバーバリー、シンガポール川一帯を購入先に選んでいると最新のシンガポール不動産サーベイが報告している。
シンガポールの景気が急速に回復しているのは次の2009年の500万ドル超不動産物件販売実績からうかがわれる。
2009年第1四半期 6件
2009年第2四半期 27件
2009年第3四半期 86件


「予約客の搭乗を取り消した航空会社の義務」(2009年12月26日)
2009年3月12日付けコンパス紙への投書"Rombongan Pemda di Sriwijaya Air"から
拝啓、編集部殿。スリウィジャヤ航空の常連客であるわたしは、2月15日のサービスにたいへん不満を感じています。そのとき母と叔母は赤児を連れて午前7時15分タンジュンパンダン発ジャカルタ行きのフライトに乗ろうとしていました。わたしはふたりを空港に送っていき、チェックインの世話をしようとしましたがスリウィジャヤ航空カウンターは空っぽです。しばらく待っているとスリウィジャヤ航空スタッフがやってきて、州庁から緊急依頼で12席の要請があったので座席はもう一杯になったと説明しました。わたしは3ヶ月の赤児がいるのでなんとかしてほしいと頼み、そのスタッフは次の14時発のフライトの席を確保しようと言ってくれましたが、わたしはその申し出を拒みました。結局赤児を連れた母と叔母が午前11時発のバタビア航空に乗れるよう世話してくれることになりました。そのスタッフは航空券を取りに行くので10時に再会することを約束しました。
約束の10時になったのでわたしがそのスリウィジャヤ航空のスタッフに電話したところ、なんとバタビア航空も満席だと言うのです。それからわたしたちは何の情報も結論ももらえないままつんぼ桟敷に置かれ、ねぎらいの飲食品を何ひとつ供されることもなく、長時間そこに放って置かれたのです。
スリウィジャヤ航空というのはスリウィジャヤ王国の栄光とはまるっきし無関係なのですね。[ ブリトゥン在住、エリサ・ルシアナ ]
2009年4月8日付けコンパス紙に掲載されたスリウィジャヤ航空からの回答
拝啓、編集部殿。2009年3月12日付けコンパス紙に掲載されたエリサ・ルシアナさんからの投書に関して次の通りお知らせします。当方はエリサさんにお会いして事情を説明し、スリウィジャヤ航空は定められた手続に沿った措置を正しく行なったのでそれ以上問題にしない、との了解を得ることができました。
2009年2月15日、当方は担架で運ばれる病人を早急に輸送しなければならないとの知らせを受けました。つまり複数の座席が使われることになったのです。エリサさんのおっしゃるような、州庁のグループが座席を押さえたということではありません。その状況に対処するため、当方は最後にやってきたおとなふたりと4ヶ月の赤児の搭乗を取り消すことを余儀なくされました。
当方はスリウィジャヤ航空の出発時間に近い午前8時半発のリヌス航空にその三人を移すことにしましたが、午前8時になってそのフライトが取り消されたとの知らせを受けました。それでその乗客を午前11時発のバタビア航空に移したのです。この措置を取るに当たって当方はおとなひとり71万7千ルピアと幼児料金4万7千ルピアの合計148万1千ルピアを負担しています。当方はこうしてこの乗客に対する責任をまっとうしたのです。[ スリウィジャヤ航空サービス支援統御マネージャー、アリ・メルシヤント ]


「人気ファミリーカラオケ店はここ!」(2009年12月31日)
カラオケ店の悪イメージを払拭しようとしてファミリーカラオケの看板を出す店が都内の随所に出現しているが、都民が家族そろって出かけている店は限られている。外は明るく健康的な雰囲気に満ち溢れているにもかかわらず、中に入ったとたんビールとタバコの臭いが薄暗い店内で鼻をついたという消費者の訴えもあるそうで、親は子供を連れて行く店を厳選する傾向が強まっている。
フロンティアコンサルティンググループが調査したファミリーカラオケ店の人気番付は次の通り。
1)Nav Nav 42.3%
2)Inul Vista 28.6%
3)Happy Puppy 21.8%
4)D'light Family Karaoke 2.0%
5)その他 6.3%