インドネシア教育情報


「インドネシア人の留学先国選択肢に中国が加わる」(2004年5月10日)
国内の教育が役に立たないからか、それともよりベターな教育・生活環境を求めてのことか、インドネシア人海外留学子弟の数は多い。留学ビジネス市場としてのインドネシアの争奪合戦は昔からいくつかの国の間で展開されてきた。屈指はオーストラリアだろうが、アメリカ、イギリスなど欧州諸国、そしてシンガポール、マレーシア。生徒募集エグジビションはほぼ毎年ジャカルタをはじめいくつかの地方都市で開催されている。昨年オーストラリアの36大学が行った統計調査によれば、8,897人のインドネシア人がフルディグリープログラムに在学中だという。
そんな教育市場戦線に中国が参入してきた。オルバ期には個人ベースでしか成り立たなかった中国留学が、いまや公的なビジネス対象として確立されたというところ。中国政府教育部の中国留学センターがそれをバックアップしている。昨年のエグジビションでは3,738人の留学応募を受けたとのこと。当面は受け入れの関係で毎年2千5百人前後を定員としているが、将来的には年間5千人を目指している。現在中国に留学しているインドネシア人は2,563人で、これは韓国3万人、日本1万人、アメリカ4千人、ベトナム3千人に次ぐ第5番目の勢力であるそうだ。


「高校入学、一難去ってまた一難」(2004年7月19日)
首都の国立高校入学選考が終わって7月13日には受け入れ新入生名簿が公表された。それによれば入学希望者43,103人のうちで受け入れられたのは31,676人。つまり国立高校に入学できなかった生徒は11,427人いることになる。都庁中高教育局長は、首都外からの入学希望者が3,760人あったが、1,524人だけが受け入れられた、と述べている。ともあれ合否が明らかになったその結果、14日には入学申し込みをまだ受け付けている私立高校に父兄が殺到するという現象が起こった。私立高校の中には国立の結果発表前に入学申し込みを締め切っているところもあり、国立高校への入学を落とした生徒たちには狭き門となっている。
たとえば入学申し込み受付を7月11日に開始し、締め切りを7月19日に予定しているクマヨラン地区のスコラタマンマドヤでは、それまであまり来訪者がなかったのに,14日には突然大勢が申し込み用紙をもらいにやってきた、とのこと。この学校に入学するためには、入学費50万ルピア、7月分教育開発寄金10万ルピア、申込書代2万5千ルピア、年間生徒会費6万ルピアなど総額およそ75万ルピアを納めなければならない。このスコラタマンマドヤはタマンシスワ学院の高等部にあたり、学院はタマンデワサ、タマンムダ、タマンインドリアなどに分かれている。
一方、東ジャカルタ市ジャランラヤボゴールにあるブディ・ワルマン第二高校では、募集人数が普通科、職業科それぞれ190人しかなく、70人がウエイティングリスト状態とのこと。この学校は、入学時に総額およそ2百万ルピアを納めなければならず、父兄はまだ確定がないことに加えて入れると決まった場合に用意しなければならない金額に頭を痛めている。
ところでブカシでは、国立高校に入学が決まった生徒の父兄が、学校に納めなければならない金額が予想外に高いことに不平を洩らしている。入学が受け入れられた生徒は確定申し込みのために学校によって8万5千から11万2千ルピアという金額を納めたが、その金額は教育開発寄金、生徒会費、実技学習費などであり、学校開発寄金は含まれていない。学校経営側はこの開発寄金をまだ確定していないが、ブカシ市内のある人気高校は昨年3百万ルピアを徴収しており、他の学校でも既に数百万ルピアとの噂が父兄の間で飛び交っている。
そんな状況の中、都内に115ある国立高校のほとんどすべてに欠員が出ている。合算すると総数2,388人分だそうで、これは確定のための金を納めに学校へ来なかった者がそれだけいるということだが、以外に多い人数に驚かされる。いったいどのような事情があるのだろうか?ともあれ入学選考第二ステップの生徒たちに再び開かれたこのチャンスを学校側は、すぐに一杯になるだろうと楽観視している。都内国立高校は,19日から新学期の授業がはじまる。


「北京語教師養成コースがジャカルタではじまる」(2004年8月3日)
ジャカルタにあるBeijing Language & Culture Instituteが中国の長春師範学校(Changchun Teachers College)と提携して、ジャカルタに北京語教師養成講座を開設する。BLCIのサムエル・ウィヨノ理事長は、「アジア地域で北京語を教えるところは激増しているが、教師の質が追いついていない。教育者としての知識技能が磨かれておらず、ただ北京語が話せるというだけの教師があまりにも多い。そのためにBLCIは16週間の教師養成コースを用意した。これを卒業できれば長春師範学校から北京語教師の免状が与えられる。長春師範学校は中国政府教育部が設立した北京語教育者を教える大学で、こことの提携は教育内容に関するものだけでなく、BLCIに対して留学生補助金が出るので、受講費用もお安くなっている。北京語教師というが、教育の情熱さえあれば、これまで中国や北京語と無縁だった人でもBLCIの養成コースで教師になれ、インドネシア国内あるいは国外で北京語教師として活躍できるので、一般の方もぜひどんどんお申し込みを。」と説明と宣伝に努めている。


「社会人向け高卒レベル試験を数千人が受験」(2004年10月8日)
政府は4月と10月の年二回、Cパッケージ追試(ujian Kejar Paket C)と呼ばれる社会人向け試験を行っている。この試験に合格すれば高校卒と同レベルの証書が与えられ、就職の場で高卒として扱われることから、就職活動を行おうとする低学歴の人々に人気が高い。この試験を受ける条件は年齢21歳以上で、上限はない。また受験するためには社会人教育課程を経なければならない。生徒はモジュールを与えられ、自宅学習を行った後、地元にある社会人学習活動センターでグループスクーリングを受けなければならない。
このカリキュラムを運営するのは各州の中東高等教育局で、実施は町役場単位でなされる。今年のCパッケージ追試は10月5日に全国一斉に行われ、3,531人が受験した。4月に行われた試験の合格者は47%だったとのこと。受験者の中には事務所勤めに変わりたいオジェッ引きから地方議会議員までさまざま。


「スリウィジャヤ博物館に学術資料はあまりない」(2004年10月22日)
パレンバンにあるスリウィジャヤ王国古代園博物館に収容されている遺物はほとんどが複製品で、来館者の多くは失望して帰る、と同館のスカンティ課長は語った。西暦紀元7から13世紀にわたってインドと中国を結ぶ交通路の中間点に巨大な海洋文化を築いたスリウィジャヤ王国が残した碑文、像、文書などの考古学上の遺物の多くは外国にある。
同王国の遺物で発見されている碑文や文書は32あるが、インドネシアにあるのはわずか10のみ。ほかはインドと中国をメインに外国に収蔵されている。たとえば9世紀のデワパラデワ王碑文や11世紀のラジャラジャ一世碑文はインドにあり、一方、宋や明王朝の文書は中国が持っている。スリウィジャヤ王国の遺物収集と陳列を目的にしている同博物館にあるのは、遺物のレプリカや写真が8あるだけ。インドネシアにあるオリジナル品の重要なものはジャカルタの国立博物館に収蔵されることになっている。
同博物館はスリウィジャヤ王国の学術資料を完備してその歴史研究のメッカたらんと希望しているものの、現状はそれからほど遠く、スリウィジャヤ研究に訪れる来館者の多くが失望して帰るのが残念だ、と博物館関係者は述べている。


「都内の博物館開館スケジュールはラマダン月でも変更なし」(2004年10月22日)
ジャカルタ歴史博物館が定期的に行っているバタビアの歴史スポットを訪れるオールドビレッジツアー(Wisata Kampung Tua)は、ラマダン期間中は開催されない。このツアーは月次に行われている催しだが、10月はラマダンのためにお休みで、次回は11月28日の実施が予定されている。断食を行っている住民を煩わすべきでない、というのがその理由。博物館自身はラマダン月でも平常月と同じで、毎週火曜日から日曜日まで午前9時開館午後3時閉館という運営スケジュールは変わらない。
ワヤン博物館も平常通りの運営だが、11月16日予定のワヤン上演はイドゥルフィトリ日に近いため、繰り上げて11月7日の実施に変更されている。その日の上演はワヤンゴレッで、ダランはナナ・パルヤナ、だしものはトリウィクラマ。そのほかの上演予定には変更がない、との博物館側の情報。


「卒業試験、悲喜こもごも」(2005年7月2日)
6月30日に発表された全国卒業試験結果は、中学高校最終学年生徒たちに悲喜こもごもの体験を与えた。もちろん追試が用意されており、その一回で落第留年となるわけではないものの、多くの大学が入学予定者の卒業試験結果を斟酌する姿勢を示しており、追試はパスしても大学から入学を拒否される生徒が出る可能性があることも否定できない。
例年この試験結果発表日には、若者たちがこれまでの束縛から脱した歓喜を全身で表現し、制服にペンキスプレーを振り掛けあって喜びを発散する姿が随所で見られたが、合格者ひとりもなしという学校が今年はかなりの数各地方で見られており、そんな学校の生徒たちは果たして持参したペンキスプレー缶のふたを開けたのだろうか?有頂天の若者が無軌道振りを発揮するのはどの国も同じで、都内大通りを二人乗りオートバイの若者が免許証不携帯のうえヘルメットもかぶらずにぶっ飛ばし、警官のお世話になるという事件も起こっている。もっと陰惨なケースでは、タウランやバスの乗っ取り、一般市民に対する強盗行為なども起こしてくれるため、学校側は警察や地元と協力して年一度の厳戒態勢を敷くのが習慣化している。
国民教育省が公表した今年の試験結果を見ると、不合格率の高い州、低い州の内容は下のようになっている。ちなみに各カテゴリーのトップファイブを取り上げると;
普通科高校の部
不合格率高位州
1.東ヌサトゥンガラ 55.9%
2.イリアンジャヤ  55.0%
3.ブンクル     52.5%
4.中部スラウェシ  50.5%
5.アチェ      48.9%
不合格率低位州
1.北スラウェシ    7.4%
2.西ジャワ      7.5%
3.南スラウェシ    9.7%
4.南スマトラ    11.5%
5.バリ       12.8%
職業専門科高校の部
不合格率高位州
1.ブンクル     67.5%
2.中部スラウェシ  58.7%
3.中部カリマンタン 57.1%
4.アチェ      48.5%
5.西カリマンタン  47.0%
不合格率低位州
1.西ジャワ      8.5%
2.バリ       10.3%
3.北マルク     11.6%
4.北スラウェシ   13.9%
5.ゴロンタロ    14.2%
中学校の部(プサントレン・公開中学を含む)
不合格率高位州
1.ブンクル     36.0%
2.アチェ      33.7%
3.南カリマンタン  32.0%
4.東ヌサトゥンガラ 31.1%
5.西カリマンタン  30.5%
不合格率低位州
1.DKIジャカルタ  3.8%
2.北スラウェシ    5.2%
3.西ジャワ      5.9%
4.北スマトラ     7.4%
5.南スラウェシ    7.7%


「インドネシアの学習塾」(2005年9月23日)
バンドンのフィラメラはここ三年間で生徒数が急増した。バンドン工科大学(ITB)芸術デザイン科入学を本領とするフィラメラの生徒数は1千人で、そのうち6百人が芸術と建築コースを選択している。フィラメラの教師はほとんどがITB卒業生で、ITB芸術デザインコース入学生の6〜7割はフィラメラの塾生だ。フィラメラは、大学入試学習塾の草分けのひとつ。
やはりバンドンに本拠を構えるガネシャオペレーションは全国で5万2千人の生徒を擁する巨大学習塾。ここで学ぶ生徒の25%は国立大学入試合格を目標にしている。創設者ボブ・フォスターは、国立大学入試問題は高校で学んだものばかりではない、と語る。「総合自然科学や総合社会科学など、高校の教科になっていないものが問題として出される。大学入試合格を目指す者は、問題の傾向と対策を用意して指導してくれる学習塾で学ぶことで、大きい効果をあげることができる。もうひとつは学生の進路相談で、どの学部がどのような内容であり、自分にどれが向いているのかということがはっきりする。入試合格者の中には、適正な学部を選んだことで成功した生徒も数多いし、そのようなことは高校では得られないものだ。非常に優秀な生徒なら問題ないが、普通の生徒の場合、学部選択を誤れば他の学部なら合格したのに落ちてしまうということも起こる。」
昨年の入試では、ガネシャオペレーション塾生は6千5百人以上が晴れて大学生になった。ガネシャオペレーションでは、入試模擬テストを繰り返し行い、生徒ごとに点数予測が分析される。生徒が希望する学部、その学部の過去数年の点数傾向、そして生徒本人の点数予測とそれらがマッチングされ、学部選択がアドバイスされる。高校でこのようなことは望むべくもなく、学習塾だからこそそれができる、とボブ・フォスターは語る。そんなアドバイスにも確信が持てない生徒には、心理テストを受けることまで塾が面倒を見てくれる。
それらの学習塾では、楽しく学習することにとても配慮している。フィラメラでは対人接触能力の高い教師を意識して採用しており、生徒に解り易く授業することを推進している。「学習と感じない学習」がモットーで、生徒と教師はまるで親友のようだ、とフィラメラの役員は言う。
ガネシャオペレーションでも、教師は大学の成績優秀者ばかりが採用されており、生徒の授業内容に対する不満はオープンな関係の中でいち早く解決のステップが取られる。生徒へのモチベーション対策として、模擬テスト結果から地元県市のナンバーワンはだれで、全国レベルのナンバーワンはだれだったかということが公表される。
ところがそんな学習塾から大学入学を果たしたのに、塾に戻ってくる学生も少なくないという。かれらはもっと良い大学や学部を受け直そうとしているのだ。


「インドネシア大学デポッキャンパス」(2006年5月31日)
もともとは中央ジャカルタ市サレンバ(Salemba)地区に集まっていたインドネシア大学が312ヘクタールというデポッ(Depok)の広大な敷地にキャンパスを移したのは1988年のこと。今デポッには経済学部,工学部,社会学政治学部,心理学部,法学部,数学自然科学部の6学部があり、学生数は4万5千人にのぼる。
大学周辺には学生さんたちを対象にして地元民がさまざまなビジネスを行っている。下宿屋があり、食べ物ワルンがあり、文房具やら古本の商いやら、インターネットワルンや翻訳屋・タイプ屋からフォトコピー屋や製本屋まで、比較的廉価な学生料金でサービスを提供している。下宿屋は3x6メートル程度の部屋がエアコン付きならひと月90万ルピア、エアコンなしならひと月30〜40万ルピアという家賃。キャンパス南西に隣接するデポッ市ベジ郡ククサン(Kukusan)町には1千室を擁する87軒の下宿屋がある。学生たちは朝起きると朝食を求めてワルンにやってくる。ワルンは朝6時半から夕方17時ごろまで営業して一日70万ルピアを売り上げる店もある。しかし土日や休日は売上ががた減りだ。
デポッキャンパスは広い大自然の中に作られた学園施設であり、敷地内には自然のままの池や森林が残されている。昼間でさえ人通りの少ない場所もあれば、夜には明かりの届かない場所も多い。そんな中で過去にも女子学生が襲われたり、男子学生も強盗の被害にあったりしており、最近でも社会学政治学部建物前に駐車した学生の車の窓ガラスが割られてラップトップコンピュータが盗まれるという事件が起こり、学生の親がキャンパス構内の治安体制に関して苦情を申し入れてきた。キャンパスは夜22時から翌朝5時まで閉門される。構内の夜間照明も増やされた。PLNからの請求はひと月12億ルピアにのぼる。警備員もいて構内を巡回警備している。
一方、キャンパスはオープンだ。広大な自然公園は周辺住民に開放されている。いや、誰が入ろうと基本的には自由なのだ。休日になると自然公園の中でジョギングをするためにキャンパスを訪れる人もいる。とある日曜日にスポーツ競技が開催されているキャンパスを訪れたところ、スタジアム近辺の道路がパサルになり、近隣住民でごった返している光景を目の当たりにして驚いたこともある。地元ソサエティに開かれたキャンパスでありたい一方、犯罪者を構内に入れない工夫も必要とされ、大学経営者は今そのジレンマにさらされている。大学側は構内にアクセスできる13ヶ所の入り口のうち四ヶ所を残して他は永久閉鎖したいという意見を表明したが、地元民はそれに強く反対しているのだ。下宿とキャンパスを結ぶ道路が閉鎖されれば、学生たちはもっと便の良い場所に移るだろう。地元民の収入に根ざす問題であるだけに、強い反対を前にして大学側の構内治安向上努力は足踏み状態だ。

「文化観光図書館がジャカルタにオープン」(2006年6月15日)
文化観光省が文化観光図書館を開設した。場所は中央ジャカルタ市ムルデカティムール(Merdeka Timur)通りの国立ギャラリー総合施設内にあり、二つのフロアーで床面積1,025平米を占有している。ここには文化観光関連書籍1万5千冊に加えてビデオカセット、16ミリフィルム、CD,VCDなどのオーディオビジュアルメディアも揃えられて鑑賞できるようになっている。書籍は歴史、考古学、民俗、言語、社会学、伝統儀式、宗教、芸術などをテーマにしたものが集められ、6千タイトルがカタログ化されている。
図書館利用は会員制。会員になるためには入会申込書に2x3センチの顔写真2枚を添え、年会費5万ルピアを納めなければならない。学生に対しては年会費が半額に割引されるとのこと。


「子供の3%が小学校に行かない」(2006年7月7日)
7歳から12歳までの小学校学齢者人口は2,726万人。ところが全国小学校就学児童数は2,638万人で、その差は881,200人に達する。90万人近い子供たちが学校に通っていないのだが、単に学資がないということだけでなく、いくつかの要因が存在していると国家開発企画庁長官デピュティが表明した。88万人のうちで520,508人は一度も学校に入学したことがない。そして360,692人は小学校をドロップアウトした子供たちだ。親の経済状況と住んでいる地理的状況がその結果を生んでいる。非就学児童の家庭がすべて貧困家庭かというとそうでもなく、子供の中には児童労働者となって家計を支えている者もいる。また特に女子については、文化的な事情で親が子供を学校にやらない家庭もある。
貧困家庭の子供のうち、家庭の月収が平均15万ルピアの者は347,482人、平均20万ルピアの家庭の子供は406,862人となっている。さらに他の子供たちは家庭の月収に応じて4区分に分かれる。また経済状況以外に、住んでいる場所によって非就学やドロップアウトの問題も生じている。非就学児童の比率は、同じ月収の家庭では都市部より農村部の方がはるかに大きい。


「外国で得た学位は政府が認定しなければ無効」(2006年8月10日)
国民が外国の高等教育機関から得たアカデミックタイトルやプロフェッショナル称号は国民教育省の認定を得なければ国内で正当なものと認められないことを国民教育省高等教育総局海外証明書評価課長がリマインドした。外国の学位・称号はすべてその国の政府が認めるか、もしくは信頼できる機関が認定した場合にはじめて公式のものとなる、と同課長は語る。国民教育省は、学位やアカデミックな称号を与えた機関がその国で公認されているかどうか、教育システムが同じレベルかどうか、学習負担内容や入学条件ならびにカリキュラムに関する詳細はどうかといったことを検討した上で、国民が得た学位・称号がイ_ア国内で妥当なものと認められるかどうかを判断するとのこと。国民教育省自身も、国内での教育プログラム実施がスタンダードな教育原理を満たしているかどうかを審査した上でその学位・称号を認めるかどうかを判断しており、その意味で国民教育省は今現在オンライン方式通信教育自体をまだ認定していない。
外国で称号や学位を得た者は国民教育省に公認してもらうために、外国で得た証明書のフォトコピーとイ_アでの最終学歴証明書のフォトコピー、ならびに学術論文のフォトコピーをそろえて同課に申請するよう政府は呼びかけている。


「インドネシアのテレビっ子たち」(2006年8月24日)
将来が気にかかるイ_アの子供たちは、決して地震や津波の災害を受けた地区にいるだけではない。貧窮の度を深める国内経済の影響で路上に降りたストリートチルドレンや麻薬に生きるようになった都市圏の子供たちも十二分にその対象者であると言える。被災地では逆に、マスメディアに対して子供を前面に押し出して同情を募ろうとする作戦が取られ、子供に対する搾取が発生している。被災地の子供たちの健気な姿や表情がテレビに登場すれば視聴者のエンパシーを誘うことも難しくはない。
テレビスクリーンに現われるそんなシーンを見ている側の子供たちにも将来への懸念が消えない。テレビを見ている側にいる子供たちは、大半が経済的には決して貧窮していない家庭の子供たちだと言えよう。そんな子供たちのテレビ視聴時間が世界最高クラスだという調査結果をサルリトウィラワンアソシエーツが公表している。世界各国の子供一日当たり平均テレビ視聴時間を見ると、米国は180分、オーストラリア150分、カナダ60分などという中で、インドネシアは300分と群を抜いた数値になっている。テレビ視聴時間が長いことは子供の成育に良い効果を及ぼさないという論評は既に定着しているように見えるが、イ_アのテレビ産業は二律背反の原理を抱えている。テレビの公共的社会的使命とビジネス組織としてのサバイバルがそれだ。そしていまテレビ産業は売れるものを作るという商業主義一色に塗りつぶされているようだ。社会一般はテレビチャンネルの増加を、シネトロン(TV映画)、超自然的ストーリー、ポルノグラフィとポルノアクション、セラブリティゴシップ満載のインフォテインメント、暴力とアクションなどの番組の高密度化と見なしている。低クオリティで合理性に欠け、こけおどしで見せかけだけの番組が高視聴率とTV広告獲得のために続々と制作されている。シネトロンやその他の企画が何かヒットすれば、同工異曲のものが自局他局を問わず後から後から作られる。こうして多くのテレビ局が同じクリテリアのターゲットを目指して競争するので、競合の度はいやが上にも増している。
そんな状況下にテレビっ子の道を邁進しているイ_アの子供たちのお気に入り番組の中に、子供たちの精神を歪めていくものが少なくないことをインドネシア子供福祉財団が警告している。仮面ライダーやウルトラマンといった日本のヒーローものTV映画もイ_アの子供たちには人気が高いが、ヒーローものは反社会的要素が63.5%を占めているとのこと。犯罪事件を取り上げた番組や宗教の衣を被った超自然を内容とする番組なども父兄が厳選しまた解説を子供に与えて指導しなければならないというのに、一般家庭では親は仕事に終われて子供をテレビの前に置き去りにしているのが実情なのである。むしろ子供に悪影響を及ぼすと見られる番組が横溢し、子供は大人の監督なしにテレビの前で自由に番組を選択し、しかも一日の長い時間をそれに費やしているという実態に注意を向けて子供の将来を懸念する親が増加することがこの問題に対する解決の鍵を握っているのだが、2億総白痴時代に突入した観のあるこの状況を人生ヘピヘピ主義で乗り切るのは容易なことではないにちがいない。


「四大学が世界的になった」(2006年11月16日)
タイムズ誌が毎年発表しているThe Times Higher Education Supplementの中にインドネシアの大学がいくつか登場した。世界の520の大学をランク付けした中では、インドネシア大学が250位、バンドン工科大学258位、ガジャマダ大学270位、ディポヌゴロ大学が495位に位置付けられている。ちなみに上位はアメリカのハーバード、MIT、イエールあるいはイギリスのケンブリッジ、オックスフォード、ロンドンインペリアルカレッジなどが占めているが、アジアからは北京大学が15位に入った。東京大学は19位、シンガポール国立大学は20位といったところ。イ_アにある82国立大学、2千6百私立大学を代表して四つもの大学がTHESに登場したことに文部省関係者は顔をほころばせている。


「返金はたったの30万ルピア!?」(2007年4月2日)
2007年1月11日付けコンパス紙への投書"Layanan Buruk British Counsil"から
拝啓、編集部殿。外国で修士課程に入る条件のひとつは英語のコミュニケーション能力を測定するためのTOEFLあるいはIELTSのテストを受けることです。わたしはブリティッシュカウンシルが2006年12月9日に都内タムリン通りのウィスマチャクラワラで開催したIELTSテストに申し込みました。そのときの受験者は百人ほどで、テストはリスニング、リーディング、ライティング、スピーキングの四段階に別れていました。リスニングテストのとき、オーディオの調子がおかしかったために受験者の耳にテスト問題がよく聞こえませんでした。テスト結果はわたしの住所宛てに送られてきましたが、IELTSテスト結果に添えられた「リスニングテストのオーディオ機器に問題がありました」というブリティッシュカウンシルの手紙にわたしは驚いてしまいました。リスニングテストに不満のある受験者は全額(150米ドル)を支払って四段階のテストをもう一度受けることができ、その際のリスニングテストの結果が今回のものより良ければ30万ルピアを返金する、という内容がそこに書かれているのです。わたしはこの問題についてブリティッシュカウンシルのUK教育サービスチームリーダー宛てに苦情のEメールを送りました。そのメールの中でわたしは、どうしてまた150ドルを全額支払わなければならないのか、受験者が二回目のテストを受けてその結果が最初のものより良ければどうして30万ルピアだけしか返金されないのかという不満について書きました。ブリティッシュカウンシル側に起因するミスに対して受験者がお金をまた払わなければならないということはまったく納得がいきません。本来ならブリティッシュカウンシルが、2006年12月9日に参加した受験者たちのために無料でリスニングテストのやり直しを実施するのが筋ではありませんか?[ ブカシ在住、リアナ ]
2007年1月18日付けコンパス紙に掲載されたブリティッシュカウンシルからの回答
1月11日付けコンパス紙に掲載されたブリティッシュカウンシルのサービスに関するリナさんの投書に関して、わたしどもは関係諸方面と連絡を取り、この問題をクリヤーにしました。今回の件については、ブリティッシュカウンシルの基準にもとづいて顧客の本当の必要性を満たし得る対応が取られました。
わたしどもは関係諸方面から良好でポジティブな反応を得ています。わたしどもは社会で必要とされているクオリティの高い英語テストを実施する中で持続的にサービス向上を実現しようとしており、そのための参考としていただいた批判をありがたく受け取っています。[ ブリティッシュカウンシルインドネシア公共問題担当副理事、アルディ・プラストウォ ]


「思考下手イ_ア人の元凶はUN」(2007年4月19日)
中学高校の全課程修了をテストする全国一斉国家試験(インドネシア語でUjian Nasional 略称UN)が行われている。高校レベルは4月17日から19日までの三日間、毎日全国で一斉に同じ試験が行われる。17日はインドネシア語、18日は理科系が数学で文科系は経済、そして19日は英語。テストがなされるのはそれら限られた教科だけであるため、それ以外の教科を生徒たちは一生懸命勉強しないという批判が有識者たちから投げかけられている。インドネシア人の歴史や地理の知識はとてもお寒いかぎりであり、それがインドネシア人の知的傾向を形作るひとつの要素になっている、と中華思想と歴史的な遺産を軽視するインドネシア人の性向を分析する知識層もある。
例年問題となる試験問題漏洩やカンニングといったことがらも、試験実施者は毎年万全の準備を整えたと物語るが事後にどこかでその玉に瑕をつける報道がなされている。教育国家規格庁は警察の厳重な警戒を伴った完璧な守秘と警備のもとに、試験問題用紙は全国に配布されたと語っている。それは全国各州の教育局から順繰りに下におろされていき、各学校には17日の早朝に届けられることになっている。そのプロセス遂行に当たっているのは各州警察だ。
試験は設問とともにいくつかの解答があげられており、受験者はその選択肢の中から正しいと思うものを選ぶ方式になっている。教育専門家はそのようなテストメソードがインドネシア国民の教育に大きな欠陥をもたらしている、と指摘する。物事を覚え込む能力ばかりが涵養され、学生生徒に学術的な思考能力を与えない教育がそれだ、と。パラマディナ大学教育専門家のウトモ・ダナンジャヤ教授は、その全国一斉国家試験は国民の教育レベル向上という目的で設けられたものではない、と語る。それとは異なる政治意図が最初から働いている、というのだ。UNは全国の教育関係者にとって魑魅魍魎に近いものだ。毎年一度、このUN現象が少なからぬ国民階層に大旋風をもたらし、大勢がそれに巻き込まれてパニックになる。生徒自身、生徒の父兄、教師、校長。そればかりか、UNの成果が地方自治体の業績にまで関わってきている。不合格者をたくさん出した地域、平均点数の低い地域は行政首長の評価に関係してくる。だから地方行政府もUN対策に着手し、サクセスチームが編成され、教育機関と協働して生徒に傾向と対策の特訓を与える。すべてが生徒たちの記憶能力拡大を指向しており、自分の頭で主体的に物事を考えるという芽はよってたかって踏みにじられる。
ことしの合格ラインは評点5.0と定められた。三科目の合計点平均が5.0を超えていなければ落第となる。このUNに合格しなければ高校レベル教育終了資格がもらえないため、その上級教育機関に入ることができない。だから本試験で落第した者には追試のチャンスが与えられる。追試は4月24〜26日に実施される予定で、本試験で病欠した者も追試の機会が利用できる。
子供の将来の命運を左右するこのUNをクリヤーせんものと父兄の中に、いや生徒自身の中にも、金で未来を買おうとする者が出現するのは世の東西を問わない。インドネシア人のプロフィールを分析したモフタル・ルビスも、「インドネシア経済を支配する財閥オーナーたちの言うイ_ア人の本質はこれ!」と言いながら親指・人差指・中指をこすりあわせるしぐさをして見せているではないか。闇マーケットでとはいえ大きい商品価値を湛えた紙っきれが自分の目の前を通るのを平常心で無視できる人間がどれだけいるだろう。そしてあるいはまた、できの悪い生徒を多数抱えた高校の経営者や教員たちの中にも、あるがままの教育成果をさらけ出せば自分のキャリヤーが閉ざされるという不安を抱える者が少なくないのではあるまいか。特に、本質軽視外観重視のインドネシア文化であれば、本質や実態への改善努力よりも先に見てくれをよくしようと実態を覆い隠す努力に走るのが社会の中に築き上げられた文化なのだ。しかもインドネシア文化の中で高い価値が置かれている近道思想にもぴったりと合致する。
東ジャワ州ガウィでも試験問題の受け渡しがなされたが、受渡し証をチェックした警官が奇妙な現象を発見した。受渡し証にはインドネシア語試験問題が25部と記されているが、枚数を調べたところ24部しかないことが明らかになった。警察は即座に捜査を開始し、試験問題用紙を1部くすねた私立高校の校長が検挙され、紛失した問題用紙1部も戻された。その動機はまだ明らかにされていないが、その校長に向けて教育国家規格庁長官から国民教育大臣までもが、極刑に処すようにと舌鋒を向けている。


「UN一過」(2007年4月23日)
東ジャワ州ガウィで中学高校全課程修了全国一斉国家試験(インドネシア語でUjian Nasional 略称UN)の問題用紙をくすねた私立高校の校長はいま停職処分にふされており、県庁から県警察にこの事件が移されて警察の取調べから送検そして裁判という法手続きが執行される予定になっている。有罪が立証されれば解雇処分が待ち受けている。この校長はできるだけ多数の生徒が試験をパスするようにして、学校の、ひいては校長の芳名を高めるためにそれを行ったと自供しているが、この校長の行為は明らかに法律に抵触するものだ。しかしその校長のような国家試験問題の漏洩事件は氷山の一角にすぎず、全国各地から試験問題漏洩を示唆する話題が集まって来ている。
バンテン州では試験開始前から試験問題が漏洩しているという噂が学校や教育行政界で飛び交っていた。試験監督者は他地域の教員や学校教育に利害のない民間組織の者が委託されることになっているが、ボジョヌガラ国立第一高校の試験監督を務めたアニエルの高校教員は、インドネシア語テスト受験生徒の中に解答が記されたカンニングペーパーを持っている者が見つかり、その内容を調べたところほとんどが正解だったと語っている。さらに13Aあるいは46Bなどといった問題パッケージのコードが記された解答用紙が試験場内で発見され、まったく同じものが異なる教室で見つかっていることから、試験問題の事前漏洩があったことを強く臭わせている。それらの解答用紙はパッケージ13Aが50問中正答28、パッケージ46Bは13問中正答12という優秀さで、合格ラインは十分クリヤーできる。
バンドンではカンニング用解答がSMSで流された。受験生たちによれば、そのSMSは午前8時〜10時に実施されるインドネシア語テストの数時間前であるスブ礼拝時間にバンドン一円を飛び交ったとのこと。生徒たちは学校に来てからそのSMS内容をクラスメートの間で情報交換していたそうだ。ある生徒はインドネシア語と数学の解答をSMSで受け取っており、テストに臨んでは易しい問題を先に片付けてから他の問題は何も考えないでSMSの内容にそのまま従ったと語っている。SMSで入手した解答は正しいものが多かった、と別の生徒も語っている。
中部ジャワ州プルウォクルトの国立第一高校でもSMSでカンニング用の解答が流された。これが明らかになったのは、禁止されている試験場内への携帯電話の持込を隠れて行った生徒が見つかったためで、ふたりの生徒から没収した携帯電話の中を調べたところ、数学の解答が記されたSMSが発見された。プルウォクルト国立第一高校ではそれ以外にも構内で数学の解答が記されたカンニングペーパーが何枚か見つかっている。
ところで、SMSで流された解答が正しいものであればまだマシで、反対に誤答だらけのものを天の佑けと思って丸写しした生徒は天罰を浴びることになる。バンドンで流れた英語の解答では50問中正答は10問しかなく、神に成り代わって道を踏み外した怠け者高校生に天誅をくだそうとした人間がいたのかもしれない。スカブミで受験場内で携帯電話を握っている生徒が見つかり、試験監督者に補導された。スカブミのある高校の試験監督者の話によれば、上のほうから受験生の携帯電話の持込をあまり厳しく制限しないようにとの指導が与えられていたとのこと。ガルッのある高校では教師と試験監督者と生徒の間でUN対策ネットワークが事前に組まれており、落第者を出さないようにするための協力が推進されたそうだ。言うまでもなく試験問題の漏洩がそのクライマックスになる。
試験主催者側の関係者は、試験問題漏洩のチャンスはふたつあり、ひとつは問題用紙の入った封筒に封印がされていないこと、もうひとつは試験前に問題用紙をコピーすることだと述べている。


「8人にひとり〜落第する小学一年生」(2007年12月24日)
小学生の落第は小学一年生が12.5%でもっとも高率であり、8人にひとりの子供が小学一年生の課程を修了できていないという事実が報告された。この報告は世銀・オランダ大使館・オースエイドの支援を得て国民教育省が行なったもの。その原因について報告では、子供たちは地方語を日常生活原語として育っている一方で学校での教育言語はインドネシア語であることから授業についていけない子供がかなりいるのではないかということ、また一週間で半日という授業時間は少なすぎること、などが考えられるとしている。その対策としてまず学校は生徒の学習達成レベルを見直すこと、低学年生徒に学習への興味をかきたてることのできる適切な教員を配置すること、一年生と二年生の授業時間をもっと長くすること、幼児教育実施者との連携を強めること、などが提言されている。
小学校教育への準備として未就学児童への教育機会が年を追って拡大しているとはいえ、実際には2,760万人という0〜6歳児の25%しかその機会を享受できていない。
教育が高価なものとなっているために、クオリティのある教育は中下層レベルのひとびとにとって大きな問題となっている。遠隔地や農村部の教育はとても貧弱なレベルにあり、国内の教育格差はきわめて大きい。9年間の義務教育すら全国民が享受できていない現実では、クオリティを持つ国民の養成がなしおおせられるものではない。
小学生の落第問題と共に注意しなければならないのは小学生のドロップアウト問題で、2005/2006教育年度では824,684人の小学校ドロップアウトが発生した。これは全国小学生徒の3.17%にあたり、前年度から0.18%の増加となっている。ちなみに中学校ドロップアウトは148,890人で総生徒数の1.97%、高校は171,485人で3.08%となっている。


「高校進学はジャカルタへ」(2008年7月11日)
2008年6月30日から都内国立高校の予備登録が始まった。国立高校一斉入試を受験するためには希望する高校でこの予備登録を行っておかなければならない。2008/2009年度首都国立高校新入学生定員は2,308人で、その狭き門をめぐって熾烈な受験戦争が展開される。都民だけにとっても狭き門だというのに、ジャカルタの外からも首都の国立高校に入学しようとして大勢が押し寄せてくるから、狭き門はついには針の穴と化す。首都の国立高校がその先の大学そして就職という華やかなる道に至る有利な出発点であるために、地方在住の優等生たちがジャカルタを目指すのは当然の現象だ。それは「ジャカルタは金稼ぎの場」(2008年7月X日)で報道されている通りである。予備登録にやってきた生徒や保護者に聞くと、ジャカルタの国立高校は地元よりはるかにハイクオリティであり、そしてさまざまな名目で徴収される費用も安くあがるとのこと。
南ジャカルタ市プサングラハンにあるジャカルタ国立第90高校には6月30日、非ジャカルタ在住の中学卒業生およそ7百人が予備登録に殺到した。タングランから来た生徒のひとりは、兄が通った学校だから、とその理由を語る。タングランの高校はちょっとするとあれやこれやと費用の徴収が激しいそうだ。


「幼児教育・早期教育に走る親たち」(2008年11月7日)
インドネシアでも6歳までの幼児に公式非公式の教育を受けさせようとして幼稚園やプレイグループなどの教育機関にまだ小さい子供を通わせている親が増加している。国民教育省幼稚園小学校育成局長は11月4日ジャカルタで、国内の6歳未満の子供2,824万人のうちの42%に当たる1,100万人が何らかの教育を受けていることを明らかにした。2004年にはその比率が39%だったので、顕著な増加が観測されている。
1,100万人のうちで公式教育機関である幼稚園に通っている子供は420万人、非公式なものは680万人に上る。局長は国民のこの傾向に応えて、政府は小学校の建物に幼稚園を併設していくこと、また非公式な幼児教育機関を隣組(RT)や字(RW)のレベルで拡大させていく方針であることを明らかにしている。
しかし一部の幼児教育・早期教育学者は、6歳未満の子供に読み書き計算を教え込むのがこの分野の教育目的でなく、将来のマルチプルインテリジェンス涵養のための初期的刺激を与えるのがこの年代の幼児にとって重要であり、ドリルを行なわせて訓練させるような方向性は避けるように、と国民に警告している。しかし現実に小学校入学時の審査で読み書き能力が問われている状況が一方にあり、人間の精神的成長の基礎作りという幼児期の教育方針はわかってもハウツーがまだ確立されていない現場に親の競争意識がからまればなかなか理想的な方向へと向かわない恐れも感じられる。


「都内の学校始業時間繰上げは2009年1月から」(2008年12月30日)
都内交通渋滞緩和策として都庁が提案した時差通学時差出勤のうち、都庁が命ずることの出来る時差通学を定める都知事規則を2009年1月5日までに制定する、と副都知事が表明した。都庁の提案に従えば、すべての学校・教育機関は午前6時半始業としなければならない。
先に都庁が時差通学を提案したとき、諸方面から反対の声が起こった。現状維持に快適さを見出す先例主義者たちは、これまで培ってきた習慣に変化がもたらされることによって強いられる適応に煩わしさを覚えたのかもしれないし、何よりも役人が頭ごなしに習慣を変えよと迫ってくるのに個人の自由が侵されている思いを感じたのかもしれない。特に強い声は「通学時間を変えたところで都内の交通渋滞解消はもたらされない」というせりふだが、分かりきったことを言って社会効率より個人の自由を上位に置きたがる人間がこれほど多いのだということをその事実はあからさまに示してくれたようだ。
副都知事はその都知事規則制定について、そのような論争を決着させて通学時間変更に法的根拠を与えるために早急に行なわれる必要のあるものであり、遅くとも来年1月5日までに制定を実現させる、と語っている。またこの都庁方針を例外なく実現させるために都庁教育局が都内の全学校および教育機関に対して町役場単位で広報告知活動を続けており、教育次局と教育課が動員されている。
副都知事はこの方針の効果について、都庁運通局の調査によればこの始業開始時間変更で交通渋滞は14%減少することが見込まれている、と述べている。今年のジャボデタベッ地域における市民の移動は2,070万トリップで、通勤が32%を占める660万トリップ、通学が30%の620万トリップ、買物は12%の230万トリップ、私用18%の360万トリップ、ビジネスは8%の160万トリップという明細になっている。


「大学学歴も金次第か?」(2009年2月4日)
2008年6月3日付けコンパス紙への投書"Beramai-ramai PTN Akali Masyarakat"から
拝啓、編集部殿。2008年5月に入ってから2週間ほど、多くのメディアが大学に関するニュースを取り上げています。政府の教育補助予算が足りないことを理由に、あらゆる大学は新入生受け入れルートをあれこれ開いているというのです。それらのルートで入学すると、国立大学入学全国試験を通って入学する者よりはるかに高額の費用がかかります。ところがそれらのコースを通って入学合格となる生徒の学力下限が公開されていないために内容がよくわかりません。普通どこでも特別ルートというのは一般のものに比べてほんの少数を定員とするのが当たり前のように思うのですが、われらの大学が行なっているものはそうなっていません。一般ルートのほうが合格定員は少ないのです。
たとえばパジャジャラン大学は55%、11月10日工科大学50%、アイルランガ大学40%、ボゴール農大20%、インドネシア大学10%、なんとガジャマダ大学はわずか5%というのが総募集数に対する国立大学入学全国試験での定員比率なのですから。いくらなんでもこれではあんまりです。大学が行なっているのは智謀の限りをつくして一見公正なことをしているふりをしているだけではないでしょうか。ズバリ申し上げてよければ、国立大学入学全国試験を通って入ってくる新入生からの収入が小さすぎるので、大学はもはやそのルートを使いたくなくなっているにちがいありません。
権限と関係と関心を持つ諸方面に対してそのような大学の行為をやめさせるようわたしは希望します。さもなければ、あのように汚いプロセスを通って育ってくるわが国の知識層がどんな種類の人間になるか、容易に想像できるではありませんか。[ タングラン在住、ジョコ・マルタント ]
2008年6月12日付けコンパス紙に掲載されたインドネシア大学からの回答 拝啓、編集部殿。ジョコ・マルタントさんからの6月3日付けコンパス紙に掲載された投書にインドネシア大学についても触れられていたので、次の通りお伝えします。今年の通常学士プログラムインドネシア大学新入生選抜システムは学習機会均等業績プログラムルートを用いて行なわれたこと、また国立大学入学国家試験という名称の全国テストルートでは20%、そして共通入学試験と通称されている全国新入生選抜委員会が共同で行なったテストで80%という配分であったことをまずお知らせしておきます。それら別々のルートを通って入学した生徒の学費は同じであり、教育費用負担者の能力に応じて公正なシステムで定められたものです。
インドネシア大学の半期ごとの教育オペレーション費用は人文・社会系で10万から500万ルピア、保健・技術・科学系で10万から750万ルピアです。そのほか、インドネシア大学は年間200億ルピアの奨学金を学生に与えております。インドネシア大学はインドネシア民族のための大きな責任を持つ大学であり、グローバル時代に世界の諸民族に負けないクオリティを持つ人材を育成することに関して深くコミットしています。そのためにインドネシア大学は全国津々浦々から学業優秀なインドネシアの子弟を受け入れているのです。[ インドネシア大学広報室長、ウィディヤニンシ ]


「インドネシアのトップ大学は世界623位」(2009年2月11日)
ウエボメトリクスで公表された世界の大学が作っているウエッブサイト評価で、世界上位100ランキングの中にインドネシアの大学はひとつも入らなかった。およそ2千8百あるインドネシアの大学の中でもっとも高い評価を得たのはガジャマダ大学、続いてバンドン工科大学、さらにインドネシア大学がかろうじて世界トップ1,000の中にノミネートされた。世界トップ5,000まで広げて見ると、インドネシアの大学の名前が33見出される。インドネシアのトップ10大学とその世界ランキングは次の通り。
623 Universitas Gadjah Mada
676 Institut Teknologi Bandung
906 Universitas Indonesia
1604 Universitas Gunadarma
1762 Institut Teknologi Sepuluh Nopember
1960 Sekolah Tinggi Teknologi Telkom
2013 Universitas Kristen Petra
2063 Institut Pertanian Bogor
2152 Universitas Brawijaya
2159 Universitas Sebelas Maret
トップ5,000に入った33大学はほとんどがジャワ島にあるもので、ジャワ島外ではマカッサルのハサヌディン大学、メダンの北スマトラ大学、リアウ大学、バリのウダヤナ大学、ランプン大学のわずか5大学しか入っておらず、世界におけるインドネシアの情報技術レベル格差は言うまでもないのに加えて、国内ですらジャワ島内とジャワ島外の間に顕著な格差が存在している事実が再確認された。
世界ランキングからアジアの大学だけを拾い出したアジアランキングでは、トップ5は東京大学、国立台湾大学、京都大学、北京大学、香港大学と連なっており、インドネシアのガジャマダ大は64位、バンドン工大は71位となっている。


「独立闘争と暴力」(2009年7月8日)
2008年12月18日付けコンパス紙への投書"Perkelahian Mahasiswa Menyedihkan dan Mamalukan"から
拝啓、編集部殿。最近、大学生間のタウラン(集団喧嘩)が盛んになってきているのは哀しくも恥ずかしい現象です。大学生というのは思想家の卵であり、将来世の中のお手本となるべきリーダーの卵ではありませんか。1980年代から2000年代にかけて中学生間あるいは高校生間タウランはとても盛んでした。それが昨今の大学生タウランに連なってきているのは、いま大学生のかれらが中学・高校時代からタウランを日々の糧として狭い視野のまま成長してきているからではないでしょうか。そんなタウラン暴力学生が卒業証書を手にして学士を名乗り、世間の有力者としての道を歩むようになったらどうなるのですか?ましてやかれらが政界に乗り出したりしたら。
インドネシア独立史は政治的反抗の歴史であり、それは今日までも続いています。政治家以外の社会的有力者にとっては、民族統一精神や民族主義に心を通わせて同じ国民子弟の間で喧嘩が行なわれるのを防ぐ義務があると思うのです。反対に学生たち自身は国家と民族のために闘争の場に身を捧げた独立期の学生生徒たちの歴史を見直さなければなりません。[ ジャカルタ在住、ブディアルト ]


「国家試験の不正行為は止まない」(2010年1月4日)
2009年4月27日付けコンパス紙への投書"Mencari Bocoran UN untuk Mencapai Target Lulus"から
拝啓、編集部殿。高校生の子供から、友人たちは学業修了国家試験の問題を手に入れた、という話を聞いてやるせない気持ちになっていたわたしは、2009年4月23日付けコンパス紙の「ごまかしは依然として多発」という記事を読んでますます残念な気持ちが募りました。
国家試験全員合格という目標達成に失敗した国立高校校長は審査して配置転換するとブカシ市長が表明したそうです。市教育局の上級管理者にも同じ言葉が与えられたということで、そんな事実を知ってわたしは、「合格者ターゲットの設定は不正行為を助長するだけだし、ましてや配置転換で威嚇されたらみんなが不正行為に向かうだろう」と語ったインドネシア独立教員連盟会長の言葉はほんとうだと思いました。
わたしはこれまで、試験問題漏洩は自信のない受験生がそれを求めているのだとばかり思っていました。でもいまは、合格目標達成のために生徒・教師・校長から教育局高官までが一団となって試験問題漏洩を求めているのだということがわかったのです。三年間の教育成果がわずか5日間の試験の結果で云々されるなんて、それってフェアなことなのでしょうか?わが国の将来を担う次世代への教育はいったいどこへ向かおうとしているのでしょうか?
今のような状況は正される必要があります。それとも公的プログラムの中でごまかし行為を指導された子供たちを不道徳で愚かなまま放っておこうとでも言うのでしょうか?モラルのしっかりした頭の良い子供たちがシンガポールなど外国へ流出していくのを、手をこまねいて見ていればよいのでしょうか?
悪化していく現状に想いをはせ、みんなで子供たちと教育者たちのモラルを正しい方向に向けさせるための行動を起こすときが来ているのです。国政高官たちは、学業終了国家試験が抱える問題を早急に改善し、いつまでもだらだらと放置して悪化させることのないようにしてほしいと希望します。[ タングラン在住、クリスティアナ・ベニー ]


「大学が卒論をキロ売り?!」(2010年2月23・24日)
マカッサルのハサヌディン大学で大量の卒論や蔵書がゴミのようにキロ売りされたという事件が起こった。文学部図書室から姿を消した論文は地元文化やローカル伝承知識など民俗学的な内容のものが多く、国内にふたつとないユニークな資料としての価値を持っており、文学部教官たちは著作権侵害の形で悪用される可能性を強く懸念している。
その学術的に重要な資料が売り払われたという風評が大学の中で高まったことから、一部教官たちはその事件に関する状況を調べるために自主的に調査チームを結成して情報収集を行なった。チームが集めた情報の中には、2009年11月21日に文学部マットゥダラ講堂前に停まっていたピックアップトラックの荷台に袋詰めされた大量の論文や蔵書が積まれているのを目撃した大学生のひとりがそれを怪しんで50冊ほどを取り戻したが、運び去られたものがどのくらいの量だったかは想像もつかないという内容のその大学生本人からの証言も含まれている。その学生は、クリーニングサービス係員は購入者から40万ルピア以上の金をもらっている、とも述べているとのこと。調査チームは調査に加わらない他の教官からも事情を聴取しているが、チームに参加していない教官たちの態度は冷ややかで、学外で売られていた10冊以上の論文を直接あるいは学生を通して入手したと語る教官のひとりはその証拠品をチームに委ねることを拒否している。
調査チームは途中経過報告をまとめたところで内容を公表し、以後の取調べと不当売却責任者の処分を行なうよう大学教授会に求めた。
ところが文学部長が調査チームの報告に異論を唱えた。文学部図書室に保管されていた論文や蔵書がキロ売りされたことはない、と学部長は言う。「教官や学生が学外から入手した論文は2008年に図書室の屋根が改築されたときに盗まれたものだ。そのとき論文や蔵書が盗まれたことは判明しているが、何があるいは何冊が盗まれたのかという詳細をわたしは知らない。わたしが学部長に就任したのは2009年5月なのだから。文学部図書室の論文や蔵書が廃物として売却されることはありえない。2009年11月21日の事件にしてもそうだ。あの日行なわれたのは古くなった紙の廃棄処分で、それもクリーニングサービス係りのイニシアティブでなされている。」
文学部長は調査チームと他の教官たちとの間に十分な協力関係が取られていないことを指摘した。論文や蔵書を外部者から買い取ったと言っている教官たちの中に、その証拠品を調査チームに渡そうとしない者がいる。更に、論文や学部蔵書をキロ売りしたという咎に陥れるためにそれらを図書室から持ち去った者がいると学部長の耳にささやいた教官さえいる、と学部長は言うのである。
しかし調査チームへの引渡しを拒んで十数冊の論文を持っている教官は、それが盗品であるとは思えない、と言う。「その論文は学生たちから入手したものであり、図書室から盗まれたものでないことを確信している。また11月21日の事件についても、クリーニングサービス係員がキロ売りした袋詰めの中から学生が取り戻したという話をわたしは信じている。わたしはクリーニングサービス係員とも直接それに関する話をしている。」その教官はそう語っている。真実はいまのところ、まだ闇の中。


「ガジャマダ大学に高い国際的評価」(2010年3月3日)
毎年1月と7月にスペインの国立リサーチ評議会下部機関であるウエボメトリクスが公表している大学ランキングの最新版にガジャマダ大学がインドネシアのトップ大学として登場した。東南アジアのトップ100大学番付に登場したインドネシアの大学は17校で、次のような顔ぶれになっている。
8位 ガジャマダ大学
10位 バンドン工科大学
17位 インドネシア大学
19位 スラバヤぺトラキリスト教大学
24位 グナダルマ大学
31位 スラバヤ11月10日工科大学
74位 ジョクジャインドネシアイスラム大学
100位 ジョクジャ国立大学
ジョクジャ国立大学学長はこの評価に関して、優れた評価が得られて国際的に認められるのはよろこばしいこともさりながら、外国諸機関との交流が容易になるのは大きなメリットだと語っている。
東南アジアの部ナンバーワンはシンガポール国立大学、2位タイのカセトサート大学、3位もタイのプリンスオブソンクラ大学となっている。


「金さえあれば、努力などいらない」(2010年3月3日)
2009年5月15日付けコンパス紙への投書"Siswa Jujur dan Bocoran Ujian Nasional"から
拝啓、編集部殿。南ジャカルタ市クバヨランバルにある優秀な国立高校の11年生であるわたしの娘が、三日目の数学のテストを受けたあと電話してきて、試験問題があまりにも難しすぎるとさめざめと泣いて訴えました。生徒の親であるわたしも、悲しくなりました。しかし娘が一番ショックを受けたのは、その優秀校の生徒の大半が全国学業修了試験問題の解答を前もって手に入れていたことなのです。成績トップレベルのクラスメートたちまでもが落第をおそれてその不正行為に加わっていました。教員たちは試験場での不正行為をとがめるどころか、見て見ぬふりをしていました。
わたしの娘は正直さをたいへん尊重しています。幼いころからわたしは子供たちに正直さという価値を植え付けてきました。学校でカンニングをしないのは言うまでもありません。カンニングをして良い点数をとることよりも、自分の努力の成果が悪い点数であるなら、そのありのままを認めるほうがまだマシだとわたしは思います。わたしの子供たちは小学校の最初から現在までアンチカンニング派です。
善良で正しい人格を子供に持たせる教育をわたしは家庭の中で行なってきましたが、それを学校の中で得ることができません。教育者の中に試験や追試で困っている生徒を追加収入の源泉に利用している者があるのは公然の秘密です。大勢の生徒が特定教科をよく理解できないのは教師のクオリティがお粗末であるのが原因であり、それは娘が通っている優秀校でも変わりありません。そうであるなら、「『全国試験の問題や解答を洩らして欲しいか?』とか『こんなふうにインチキを行なえば必ず試験にパスする』とか言って売り込んでくる連中を生徒は決して信用してはならない。そのような行為は罪悪なのだから。」とバンバン・スディビオ国民教育相が諭した言葉はまるで無意味なことではありませんか。[ ジャカルタ在住、モハンマッ・イクバル ]


「幼稚園でも詰め込み教育」(2010年3月29日)
幼稚園での園児に対する「読み書き算数」教育が広がっている。一部の有名小学校では新入生が入学時に読み書き算数能力を持っていることを条件にしており、入学試験を行なって入学を認めるかどうかを決めている小学校の姿勢がその原因のひとつをなしている。子供をそんな小学校に入れたい親は幼稚園に対して読み書き算数の教育を施すよう求め、増加した幼稚園間の生徒集め競争の中で幼稚園側には経営安定のために親の求めを受け入れる傾向が生じている。
「幼稚園で読み書き算数を教育の中に取り上げるのがいけないというわけではない。幼稚園での教育はその年代に応じた総合的な可能性を開拓し発展させるのが第一の目的であり、知的な側面に焦点を当てて訓練に没頭するようなことはあるべき姿ではない。歌やゲームを通して読み書き算数に触れ、ストレスを与えることなく自然な形で興味を持たせていくのが幼稚園教育の本質だ。」インドネシア共和国教員ユニオンインドネシア幼稚園教員同盟役員はそう発言している。
幼稚園は既に全国津々浦々にまで浸透しており、遠隔地の村にさえ幼稚園が作られて地元の子供たちが通っている。しかし幼稚園の基本コンセプトや活動内容の理解が十分なレベルに達していないところも少なくない。中には子供の遊戯設備をほとんど持っていないところもあり、そのような幼稚園は子供に読み書き算数を教育することに重点が置かれやすく、あるいは親の希望する知育偏重を先取りして最初から生徒集めの謳い文句にするところもある。
幼稚園教員同盟は幼稚園教育の本質が「学びながら遊び、遊ぶように学ぶ」ことであるという教育コンセプトを園経営者や教員に普及させる諸活動に努めており、各幼稚園の園児教育に関する理解も深まりつつある。問題は各地の有名小学校が読み書き算数能力を新入生に求めていることにあり、それが親から幼稚園に向けての知的教育要求を誘っていることから、幼稚園教員同盟は国民教育省に対して問題解決を図るよう求めていた。それに応じて国民教育省初等中等教育管理総局長は全国の州知事・県令・市長に回状を送り、幼稚園教育における行き過ぎの是正と小学校入学児童に対する条件付けの改善を求めている。「幼稚園は小学校教育を受けるための準備を子供に与えるところだ。遊びのニュアンスが学習よりも小さいものになってはならない。ましてや子供ひとりひとりに読み書き算数の教材を与えて学習させるようなことは許されていない。小学校は7〜12歳の周辺地区に居住する子供たちを優先的に入学させなければならず、教育受容能力の優劣で入学が差別されるようなことがあってはならない。」総局長はそう表明している。


「退官教授の年金は3百万ルピアに満たない」(2010年4月9日)
2009年6月4日付けコンパス紙への投書"Menyedihkan, Pensiunan Profesor Tidak Dihargai"から
拝啓、編集部殿。インドネシア大学のわたしの学科で最初の教授となった人の老齢年金は3百万ルピアに満たない金額です。教育というもの、そして教授というポジションへの評価が実に低いものでしかないのは、本当に嘆かわしいことだと思います。そのステータスを得るためにどれほどの時間を費やし、どれほどたくさんのリサーチを行なったのか、その苦労ははかりしれません。
教育者に対する評価はどうなっているでしょうか?われわれ自身が教育も教育者も尊重していないから、進歩というものが見当たらないのです。教員の多くが時間外のアルバイトに精を出すのはそれが原因であり、むしろその副業のほうに専念している教員も少なくありませんが、かれらを責めることはできないのです。なにしろ生活するための費用が給料より大きいのですから。マレーシアは全然違います。マレーシアでは教員どころか、清掃員ですら自動車を持っているのです。
教員・教官のための福祉向上努力がないわけではありませんが、しかしそれを手に入れるためには虐待を乗り越えなければなりません。教員・教官の能力認定をどうして虐待などと表現したのか?国会議員諸先生方、昇給要請のさいに皆さんはあれやこれやといろいろな要求を受けていますか?いいえ、そんなものはないでしょう。しかし国会議員諸先生方を教育した教育者たちは昔から半月分の生活にさえ不足する給料で暮らしてきたのです。長い間延び延びにされた権利である昇給を手に入れるために、能力向上とかあれこれさまざまな理由をつけて、いろいろなことがらが要求されます。おまけにすべての教員教官がすぐ認定試験を受けることも許されません。何番目の受験者グループに入るのかという割当が行なわれます。国会議員諸先生方の昇給も5人ずつのグループに分けられて順番に行なわれるのでしょうか?教育界が進歩するよう、教育者をもっと尊重してください。[ ボゴール在住、アブドゥル・ワヒッ ]


「外国人留学生の滞在許可は6ヶ月しかない」(2010年5月10日)
外国人留学生に対する移民局のKITAS(限定滞在許可証)発行の手続が複雑で時間がかかるため、留学生誘致に困難が生じている、とバンドン観光高等学院学生管理部長が表明している。「外国人留学生は観光客あるいは文化社会訪問という資格で滞在許可を与えられ、6ヶ月間まで延長が認められている。その結果留学生は、新しいKITASを得るために6ヶ月ごとに一度帰国して、またインドネシアに入国する。数日前に韓国とオランダからの留学生の滞在許可手続を行なったが、プロセスに長い時間がかかった。このようなありかたはインドネシアの大学で学びたい外国人留学生の誘致に障害をもたらすものだ。今もオランダとタイからそれぞれひとり、バングラデシュから数人のグループが学院への留学を希望しており、オランダとタイの学生は2010/2011年度の入学申込みを既に行ったが、バングラデシュからのグループはKITASのことについて詳しい説明を求めており、かれらは考えを変える可能性がある。当学院は2011年1月から国際クラスを開設する予定にしているが、KITAS問題でそれがつまずくことが懸念される。国から補助金が出ているインドネシア人学生よりも外国人留学生が払う学費は高いのだから。」学生管理部長はそう語っている。


「中国留学熱が盛り上がりそう」(2010年5月10日)
アセアン=中国自由貿易協定施行に関連して中国への留学生増加は活発化するだろうと教育ビジネス界が予測している。中国政府は今年外国人留学生に対しておよそ7千億ルピアにのぼる奨学金を用意しており、現在中国に7千人いる外国人留学生は今後顕著な増加を見せるだろうとジャカルタの北京言語文化学院理事長が語った。
北京言語文化学院は中国の20都市にある100の大学と公式な提携関係を結んでおり、インドネシアからの留学生送り出し活動を積極的に行ってきた。中国の諸大学はインドネシアからの留学生に寮費・学費・ポケットマネーなどを奨学金でまかなう特別サービスプログラムを用意しており、インドネシアで盛んになっている中国の言語文化修得熱でただでさえ留学意欲が高まっている状況をさらに押し上げる要素が付け加わっている、と理事長は述べている。それに追い討ちをかけるかのようにアセアン=中国自由貿易協定が動き出したことでインドネシアと中国の橋渡しを務める人材の将来性は大きく開かれており、その未来に向かって進む第一歩が中国への留学だという理解も広く行き渡っている。
しかしもちろん、イギリス・オーストラリア・アメリカ・カナダの有名大学修了証書は特別の価値を持っており、中国の大学ではなかなかその価値に太刀打ちできるものではない。だからと言ってそれら先進国に留学すれば費用的な負担はあまりにも大きく、学業を続けることへの不確定性が生じる学生も出てくる。そこに中国留学を巧みに利用するメリットが生じる。それら先進国の有名大学は中国に分校を持っており、全課程をその分校で修了することもできるが、最終の1〜2年だけを先進国の本校で学ぶということも可能で、このような方法をうまく使えば比較的小さい総費用で欧米の有名大学修了証書を入手することもできる、と理事長は秘策をもらしている。中国のそのような国際クラスで学べば学習は英語ででき、また中国で暮らすことで中国語もペラペラになって帰ってくる、とも理事長は述べている。


「受験生を持つ親の対応」(2010年5月26日)
高校修業国家試験は生徒とその親にとって大きな精神的負担を強いるものだ。もし落第したなら、恥・悲しみ・悔しさなどさまざまに入り乱れたネガティブ感情に襲われて絶望や自己蔑視のとりこになる。そのために試験の時期が近付いてくると受験生を持つ家庭はふだんと異なる重苦しい空気が立ち込めるようになって、生徒も親も、そして生徒の試験結果が業績評価の一角を占める教員たちも、国家試験という巨大な黒雲に立ち向かう準備に忙殺される。
コンパス紙R&Dが全国の705人に対して2010年5月11〜12日に行ったサーベイで、試験不合格になった場合追試に備えて子供を塾にやったり家庭教師をつけたりする家庭が二軒に一軒あることがわかった。また不合格になった子供に対する親の姿勢は親の学歴によって若干の差が見られる。
質問1)子供の追試準備のため、あなたは子供に何を与えますか?
回答1)
塾にやる 男生徒38.2% 女生徒36.5%
一緒に勉強を見てやる 男生徒23.6% 女生徒31.9%
家庭教師をつける 男生徒13.1% 女生徒12.4%
何もしない 男生徒7.5% 女生徒7.6%
勉強に集中できるよう環境に気を配る 男生徒7.2% 女生徒4.9%
やる気を起こさせる・祈る 男生徒0.0% 女生徒0.6%
不明・無回答 男生徒10.4% 女生徒6.1%
質問2)子供が追試に失敗したらあなたの反応は?
回答2)
親が初等教育卒: 慰め力付ける54.2% 原因を探る16.9% 学習スケジュールを作る9.3% 叱る・罰を与える7.6% 悔やみ悲しむ0.8% 不明・無回答11.2%
親が中等教育卒: 慰め力付ける47.6% 原因を探る29.9% 学習スケジュールを作る6.0% 叱る・罰を与える7.7% 悔やみ悲しむ0.5% 不明・無回答8.3%
親が高等教育卒: 慰め力付ける45.7% 原因を探る33.8% 学習スケジュールを作る7.5% 叱る・罰を与える7.0% 悔やみ悲しむ0.5% 不明・無回答5.5%


「国立大学入試が終わる」(2010年6月21・22日)
全国54国立大学の入学試験が2010年6月16〜17日一斉に実施された。受験申込者は447,610人に達し、募集総数8万の椅子を奪い合った。コース別申込み者数は自然科学コースが142,710人、社会科学コース169,499人、混合科学コース134,898人。
大学の多くは入学生募集にさまざまなコースを用意しており、この国立大学全国入試も数あるコースの一つだが募集総数の10〜20%程度しかこのコースに割り当てられていない。たとえばジョクジャのガジャマダ大学は募集総数7,145人中の1,345人しか枠を用意していない。スマランのディポヌゴロ大学も総数8,305人中1,619人という割当て。
ジョクジャでは今年の国立大学全国入試受験申込者が20,849人にのぼり、2009年の1万4千人から5割近いアップになった。合格発表は2010年7月17日0時を期して2010年国立大学全国入試のインターネットサイトで公表される予定。
全国試験につきものの替え玉受験を防ぐため、試験当日は午前7時半から8時まで本人のアイデンティティ確認が行なわれ、遅刻者には受験を許さないことが実施要綱に定められている。アイデンティティチェックは、本人が当日持参しなければならない受験申込み時に提示したKTP(住民証明書)もしくは身分を証明する書類、認証済み卒業証書・受験票を検証する形をとる。
またカンニング防止対策として試験当日に携帯電話器を試験場に持ち込むことが禁止されているが、厳重な監視の目をかいくぐって携帯電話器を使うカンニングを行なった女生徒が現行犯で捕まった。
受験参加のサインを取っているときにスマラン国立大学を受験したひとりの女生徒が声を出したのに不審を抱いた試験監視員がその女生徒を調べたところ、着衣の下に携帯電話を自分の胸にテープで止め、ヘッドセットを被って耳を隠した中にやはりテープで止めたイヤフォーンが見つかった。カンニング行為は明白だったが、試験監視員はその女生徒を最後まで受験させ、入試実行委員会本部にカンニングの事実を報告した。不合格は間違いないだろう、と監視員はコメントしている。
ソロでは同じ受験番号を持った受験生ふたりが鉢合わせした。調べたところひとりは試験場所を間違えてそこへ来たことがわかり、その日の試験はそこで受けさせ、翌日の試験は正しい場所で受けるよう指導がなされた。また受験申込みが17,722人あったが試験場に来なかったのは初日が808人で二日目は823人。大量の欠席者が出たことについてソロ市入試実行委員会は、別コースで希望する国立大学に入学できたかもしくは私立大学に受かったために棄権した者が多数いるのではないか、とコメントした。他には日程を勘違いした者や受験科目に迷って結局受験を取り止めた者たちもいるだろうとのこと。特に受験生の中に試験はその日一科目だけと思い込んで朝一番のテストを受けたあと帰宅した受験生がかなりいたそうだが、中には最初のテストのできが悪すぎて、悲観して帰宅した者がいるかもしれない。プルウォクルトではふたりの遅刻者があったので、その時間のテストを受けるのは禁止され、次の時間のテストを受けることだけ許された。またアイデンティティ確認のための書類を持参しなかった受験者が百人を超えた。
ジョクジャでは携帯電話器を隠し持ってカンニングをしていた受験生が捕まり、またバンドンでも禁止されている携帯電話器を試験場に持ち込んだ受験生12人が警告処分を受けている。しかし各地の国立大学全国入試実行委員会は、今年の試験で重大な違反行為は見られなかった、とコメントしている。


「贅沢はみんなの憧れ」(2010年6月24日)
2010年5月3日付けコンパス紙への投書"Perpisahan Sekolah di Luar Kota"から
拝啓、編集部殿。2010年の学年末が近付いているのに関連して、幼稚園から高校まであちこちの学校ではどこかへ出かけてお別れ会を催す習慣が広がっています。上級学校への進学に加えてそんな催しの費用を捻出することに親がどれほど腐心しているかということを学校側は気にもかけていません。2009年にわたしはそのことを痛感させられました。わたしの子供はジャカルタの私立中学3年生で、学校はジョクジャでお別れ会を開くためにひとり150万ルピアの費用を決めたのです。その金額はホテルの宿泊費プラス食費だけをカバーするものでした。そこまで経済的に余裕のない家庭はどうするのでしょう?
関係当局は経済状態が悪化しているわが民族のことにもっと配慮してください。お別れ会を他の町まで旅行して開催するようなことは禁止されるべきです。自分の学校で行なえば十分ではありませんか。[ ジャカルタ在住、スマルディ ]


「小学生不足のジャカルタ」(2010年6月28日)
都内国立小学校2010年度新入生募集は、127,264人の募集総数に対して第一次応募が95,014人、第二次応募4,325人で、総数を満たすことができなかった。
第二次の応募者も938人が年齢条件不備、318人は申請したものの手続に来校しなかったため辞退したものと判断され、二次応募入学者は3,069人に減ってしまった。都教育局は辞退者について私立小学校に入学したものと見ている。まだ3万近い募集残があることから都庁教育局は第三次応募を受け付ける方向で検討を進めている。募集人数残が大量に出ているのは二部制の午後校がもっぱらであるとのこと。
国立小学校入学条件は新入学児童の出生証書と入学応募用紙への記入だけで、幼稚園や小学校予備教育の終了証書や入学テストのようなものはまったく求められておらず、小学校予備教育で行なわれている読み書き算数のテストは一切行なわれない。新入学児童の学習基礎能力を見るための簡単な面接があるだけだが、国際レベル学校はそれも実施されない。
ジャカルタ都内5市の小学校数は次のようになっている。
市: 国立 / 私立 /合計
中央ジャカルタ: 285 / 114 / 399
北ジャカルタ: 269 / 159 / 428
西ジャカルタ: 469 / 196 / 665
南ジャカルタ: 527 / 127 / 654
東ジャカルタ: 675 / 171 / 864
プラウスリブ(行政区): 14 / − / 14


「西洋人に弱いインドネシア人」(2010年7月2日)
2010年5月7日付けコンパス紙への投書"Kemacetan Berlarut Tanpa Petugas"から
拝啓、編集部殿。わたしは何度も南ジャカルタのRAカルティニ通り/TBシマトゥパン通りを通っています。14時15分から15時までの間、ポンドッキンダ(Pondok Indah)からファッマワティ(Fatmawati)通り方面に交差点を左折すると必ず長い渋滞ができており、ひどいときにはポンドッキンダのロータリーまで渋滞の尻尾がつながります。
わたしは同じ経験を何回もしていますが、交通整理を公務とするひとの姿はまったく見られず、いるとすればその道路状況を軽減させようと努めている私服のひとの姿だけです。同じ事を何度も経験しているのでよくよく観察すると、その渋滞の元凶は道路脇に停まっている四輪車なのです。多くの四輪車が二列に並んでその道路に面した学校のゲートから構内に入るため順番を待っているのです。かれらはその学校の生徒が下校するのを迎えに来たのでしょう。不思議なのは、生徒を迎えに来た自動車が毎日引き起こしている公道上のその混雑に外国系のその学校運営者はまるで目をつぶっているかのような姿勢と取っていることです。もっと不思議なのは、学校側が目をつぶっていることに対して交通秩序をコントロールする政府機関がそれを放置している姿勢です。この問題はいつまで放置されるのでしょうか?行政改革が行なわれているという話の現実はこんなものなのですか?[ ジャカルタ在住、カリム ]


「国立高校入学受付」(2010年7月8日)
ジャカルタの国立普通科高校と職業高校の入学申込み受付が2010年7月1〜3日に行われた。普通科高校は定員29,309人で、都内中学校卒業生枠27,843人、都外中学卒業生枠1,466人が用意されている。職業高校は定員15,417人で都内中学卒業生枠14,647人、都外中学卒業生枠770人という配分。
入学希望者は普通科と職業高校を取り混ぜて5校選択でき、都庁教育局が最終的に入学校を決めることになる。入学申し込みは公平さと透明性を維持するためにオンラインで行なわれる。
都外からの入学希望者受付については、ブカシの中学卒業者はクラパガディンの第72国立高校、ラワブガ(Rawa Bunga)の第54国立高校、ボゴール街道にある第99国立高校、タングランの中学卒業者はチュンカレンの第33国立高校、レンテンアグンの第38国立高校、プサングラハンの第90国立高校、デポッ(Depok)の中学卒業者はレンテンアグンの第38国立高校、ボゴール街道の第99国立高校、ラワブガの第54国立高校で行なわれる。また国外およびジャボタベッ外からの入学申込みは中央ジャカルタの第68国立高校で受け付けられる。


「ジャカルタで閉校がはじまる」(2010年7月8日)
2010年度小学校入学申込者数が大幅に減少したため、都庁は南ジャカルタ市の小学校60校を17に統合することを決めた。60校の大半は大幅な生徒不足だが、中には定員をはるかに超える入学申込みが来て、オーバーする申し込み者には他の小学校へ行くよう言い渡している学校もある。
統合の対象になった学校は38の教育管理地区に散在しており、児童数が少ない地区にたくさんの学校があるといった非効率は都心部に多い。
南ジャカルタ市は10郡の中でマンパンプラパタン(Mampang Prapatan)・スティアブディ(Setiabudi)・トゥブッ(Tebet)の三郡がもっとも生徒不足が激しい。中でもトゥブッ郡マンガライ町には国立第11・13・15・17・19小学校があり、第11小は定員40人に対して5人、第13小は8人といった申し込み者数。それら申込者数が極端に少ないのはほとんどが二部制の午後の学校。
一方ジャガカルサ郡はその反対で、多くの小学校で定員を超える申し込みがあり、学校側は受けきれずにうれしい悲鳴をあげている。小さい子供を持つ家庭は郊外に引越しており、都心ビジネス地区の小学校は生徒が大幅に減っている。


「これも政治の貧困のゆえ?!」(2010年7月8日)
2010年5月18日付けコンパス紙への投書"Biaya Pendidikan Sekolah Negeri Favorit Mahal"から
拝啓、編集部殿。中学修業国家試験にパスしたかどうかまだはっきりしていないにもかかわらず、わたしの息子は国立南タングラン第2普通科高校に入学が決まりました。この学校は国際レベルパイロット校プログラムを実施している人気校です。入学受付が終わった翌日、生徒の父兄は2010年度学習プログラム説明会に招かれました。
その説明会で学校側は父兄に対し、三日以内に入学金を50%以上納めるよう要請したのです。生徒ひとりあたり1,050万ルピアで、これは昨年の850万ルピアから23.5%もアップしています。それに教育指導費ひと月分65万ルピア、教科書代、活動費、制服代などを加えるとひとりあたりの総費用は1,350万ルピアにのぼります。
国立高校の教育クオリティは高いという話ですが、その費用のなんと高いことでしょう。同じ時期に入学する子供を持つ親にとって、それはたいへんな負担です。たとえ成績がよかった子供でも、親に資金の余裕がなければ子供はいったいどうなるのでしょうか?入学金等に関しては校長と学校運営委員会会長が説明をしました。学校が国際レベルパイロット校プログラムを実施しているため、父兄の負担なしには済まないというのがかれらの説明でした。南タングラン市教育局からの資金援助はまったくないからということですが、それは本当でしょうか?南タングラン第2普通科高校は国立であることが学校の表札に明記されており、そこには国民教育省の名前も書かれているのです。[ 南タングラン市在住、クルニア ]


「都内国立高校入学は狭き門」(2010年7月19日)
2010年度ジャカルタの国立高校入学希望者は14万人で昨年の8万人から大幅な増加を示したが、入学定員は44,726人で2009年度と変化しておらず、そのため入学に失敗する中学卒業生が9万5千人という膨大な数にのぼっている。国立の普通科高校や職業高校に入れなかった進学希望者は私立高校に入るかあるいは他州へ行くかの選択に迫られることになる。
都庁教育局長によれば、7月6日の再申請初日だけで66,611人が入学を申込み、既に定員をオーバーしてしまった。今年はオンライン入学申請でサーバートラブルが発生したため7月6〜8日に申請のやり直しが行われ、それ以前の申請はすべて無効とされるという不測の事態が発生した。6日の膨大な申請件数はその影響が小さくないようだ。


「一日に二百人未満しか来ない図書館」(2010年7月24日)
南ジャカルタ市立図書館を訪れる市民は一日100から175人だが、会員数は6,373人が登録されており、学生・生徒・一般社会人が会員のほとんどを占めている。しかし蔵書は158,359冊しかなく、青年おとな向けが74,610冊、子供向け9,139冊、リファレンス書籍2,253冊といったお寒い状況。同図書館の蔵書取得は南ジャカルタ市文書図書館事務所が年に一回行う入札を経ることに決められており、蔵書を増やすことも新刊書を入手することも難しい状況になっている。


「金のかかる国立大学」(2010年7月27〜29日)
かつて国立大学は大学進学希望者たちの間で人気のトップにあった。教育のクオリティが信頼できるものであるのに加えて、その教育費はどの経済階層にいようとたいていの国民に手の届くものであったからだ。現在でも大学入学希望者にとって国立大学への人気は依然として高いものがあるにせよ、いまやその教育費はたいへん高額なものに変化している。2008年に施行された教育法人法のために国立大学と私立大学の教育費用はほとんど差のないものになってしまったのだ。国立大学のステータスは国有法人とされ、財務面での自立が基本方針となり、国立大学であっても教育ビジネスにおける財務上の業績が問われるようになった。教育ビジネス経営に必要な原資は国立であろうが私立であろうがそれほど違うものではない。学費面で国立も私立も肩を並べるようになった結果はおのずと明らかで、国民の間に優れた知的リーダーを養成するという大学の使命をあらゆる階層に対して開く姿勢が崩れ、期待する収入の得られない相手には大学の門戸が閉ざされるという現象がそこに生まれることになったのである。国民の教育に配慮して国が私学にまで財政的な支援を与えている国々とまるで正反対のそのあり方は、国民教育の位置付けがどう違っているのかを如実に物語る好例のひとつだと言えるだろう。
ここで言っている学費とは、入学時に一時に納める費用と各スメスターごとに納める費用の両方を指している。結局は最終学年まで全うするために学校に納める資金の総額が学費ということになるのだから。総額があまり違わないのに大学によって入学時の金額に大小があるのは、各スメスターごとの費用でそれが補完されていることを意味している。たとえば入学金が比較的小さい場合、スメスターごとに納める金額が大きいということだ。
入学時の費用についてジャカルタのある私立大学を例にとると、コミュニケーション学科の入学試験合格者は1,050万から1,640万ルピア、ビジュアルコミュニケーションデザイン学科は2,000万から3,060万ルピアという金額をまず納めなければならない。スメスターごとの金額は350万から380万ルピア。国立大学も似たようなもので、入学時の費用は数千万ルピア、スメスターごとに納める金は数百万ルピアというレベルにある。インフレに応じての値上がりも避けがたく、バンドンのある大学は2〜3年前の入学金が3,500万ルピアだったが、今年は4,500万ルピアになっている。一方ジャカルタのある大学のコンピュータ系学科は2007年の入学時費用総額2,500万ルピアが2010年も維持されている。ところが、スメスターごとの学費は2007年の最高170万ルピアが2010年は最高750万ルピアに跳ねあがっているのだ。
さて、大学への進学希望者は高い倍率の入学試験を受けてそれにパスするという関門が待ち構えている。国立大学は個別に、あるいは共同で大学入学全国選抜試験と呼ばれる入試を実施する。しかしその入試に用意される定員枠は決して多くない。インドネシア大学医学部が2009年に用意した定員枠はわずか5人だった。ことしはそれが15人に増やされたが、その15の席を1,417人が奪い合った。ならば大多数の入学生はいったいどのようにして大学に入っているのだろうか?
能力意欲審査という大学入学の入り口がある。この門から大学に入ろうとするなら、数少ない定員枠を何千人ものひとりとなって奪い合う必要はない。高校での成績と面接で合否が決まるこのルートこそ、資金力の裏付けの有無が結果を決めるものなのである。ジャカルタのある国立大学犯罪学科入学生は1,500万ルピアをまず納めなければならない。英文学科はもっと廉くて1,000万ルピア。その金額には第1スメスターのための500万ルピアが含まれている。しかし自然科学系の学科になると金額はもっと大きなものになる。加えて新入学生は事務管理費・制服ブレザー・通学バス代等々などの出費もあり、1,070万ルピアを上乗せしなければならない。
低所得層家庭にとって数千万ルピアの金を一時に用意するのは大きな負担であることから、大学の中には分割払いを認めているところもある。ところがその分割払い期日に一度でも遅延すると、総額の50%という罰金が科されて学生の負担はかえって重いものになる。貧困家庭学生のために学費軽減措置を用意している大学もある。ところがこの制度の適用は学校側がきわめて恣意的に行なっている印象が強い。親が学校教員という家庭の学生がこの軽減措置申請を三回も行った。住んでいる住居の写真や隣人からの貧困家庭であることを表明する添状といった条件をきちんと満たしたにも関わらず、一度も軽減の恩典を受けることができない。一方で授業料の高い高校を卒業した生徒にその恩典が与えられているという事実があり、学生や父兄の間で大学経営者の不公平を非難する声を招いている。
所得格差の激しいインドネシアで大学教育に巨額の資金が必要な事態になれば、これまで改善されることなく続いてきた富の偏在がそのまま知的能力の偏在を生み出すことになる。豊かな家庭に生まれなかった子供も勉学に励むことでより上位の経済階層に入っていける道が開かれていたことは富の偏在を緩和させる社会的効果をもたらしていたが、いまや大学はその道を狭める方向に進んでいると言えるだろう。既存の経済階層はそれによって固定化の度を深めることになる。もしも、自分の子孫にとって有利な社会体制の確立を狙って国家エリートたちが目論んだ政策がそれであるとすれば、その深謀遠慮の凄まじさに打ちのめされない者はいないだろう。


「もっとお金があれば・・・」(2010年8月7日)
もしいま手元にお金が潤沢にあれば、あなたはそれを何に使いますか?2010年7月13〜16日にコンパス紙R&Dが全国1,314人に問いかけたその質問の答えは、半ば予想されたものだったにちがいない。新入学新学年を控えたその時期、学齢の子供を持つ家庭の大半はそのための費用捻出に頭を痛めていたのだから。
集計された回答は、やはりインドネシアの教育は高価なものであることを暗示するものだった。
1.教育費 31.8%
2.家を買う 22.5%
3.衣食生活必需品購入 17.4%
4.自動車・オートバイ・コンピュータ等高額消費財購入 7.9%
5.土地や事業への投資・貯蓄 7.8%
6.その他 6.2%
7.わからない 6.4%


「国民の大卒者を増やすために産業界に寄金を呼びかけ」(2010年8月19日)
奨学金のお迎えを受けなければ貧困層が大学教育を受ける機会は限りなくゼロに近い。大学教育に支出されている国民の金が0.3%しかないのはひとりあたり教育費用が高額であっても、大学に通う人数が少ないためだ。インドネシアでは国民の21%しか大学教育を受けておらず、フィリピンの30%より少ない。
マレーシアは大学生年代層の三人にひとりが大学に通っており、タイではふたりにひとり、そして韓国は10人中9人が大学生だ。それらの国では国立大学偏重でなく私立大学も工科大学も充実し、国民に利用されている。元国民教育省高等教育総局長は民間産業界に奨学基金を呼びかけるためのセミナーでそう語った。
インドネシア国民をよりたくさん大学卒業者にするために弱小経済階層のために奨学金を募るのがその目的であり、その基金で当初は5万人の奨学生枠を設ける計画になっている。現在国立大学は年間25万人の奨学生を擁している。


「教育費の重圧」(2010年8月19日)
2010年6月24日付けコンパス紙への投書"Makan Sekali, yang Penting Anak Sekolah"から
拝啓、編集部殿。子供に教育を与えたいという夢を追ってわたしと妻は、子供たちの学歴が挫折しないよう全霊を打ち込んで働くことを約束しました。わたしはアンコッの運転手であり、妻は洗濯女に過ぎず、収入はぎりぎりのものでしかありません。好運なことに、上の子供ふたりは大学を終えることができましたが、下のふたりはまだ高校と小学校3年に在学中です。
教育はたいへん大事なことなので、食事も一日一回に制限しています。わたしのような貧困者にとって教育費用の負担はたいへん重く心身を消耗させるものであり、忍耐力・理解そして神への信仰なしにやりおおせるものではありません。
二年ほど前にわたしはBLTと呼ばれる現金直接援助を受けることができましたが、今はそのプログラムの恩恵を受けていません。そのプログラムは今も続けられているのでしょうか?それをまた受けるためにはどうすればいいのでしょうか?[ バンドン在住、ヘリー・ルスタマン ]


「国民の義務教育は無料という嘘」(2010年10月29日)
2010年9月6日付けコンパス紙への投書"Wajib Belajar Gratis ala RI"から
拝啓、編集部殿。わたしども一家はわが家がある住宅地周辺でよくベチャを利用するので、ベチャ曳きたちとは顔なじみです。学校の新年度が始まったいま、ベチャ曳きたちの口から出される話は他でもなく、高い教育費用の愚痴ばかり。その問題はもちろんベチャ曳きに限ってのものではありません。わたし自身もそうですし、全国にいる数百万人の学童保護者たちにとっても同様なのです。
インターネットサイトwww.indonesia.go.idを見ると2010年教育予算の54%は義務教育9年間の無料化のために使われているということですが、わたしどもが耳にするベチャ曳きたちが体験している実態は大違いなのです。最寄の国立中学に子供を入れるために220万ルピアを用意しなければなりません。その明細は、登録費用・教科書・制服がそれぞれ30万ルピア、開発費130万ルピア。学校側が父親はベチャ曳きだということを知って出してきたのがその金額で、加えて毎日委員会費用10万ルピアを納めなければなりません。これのどこが無料なのですか?
息を切らせ足を腫らせてベチャを漕いだところで、ベチャ曳きが毎月そんな金をエキストラに用意できるはずがないことをわたしは知っています。子供に将来のよりよい暮らしを与えたいと願うベチャ曳きの夢ははるかかなたに投げ捨てなければならないのです。ニュースによれば教育費が国家予算総額の20%を占めるということだそうですが、それにもかかわらず学童たちの教育費用負担を減少させることがどうしてできないのでしょうか?
そのネットサイトには、国民教育大臣でさえ教育予算の増加と国民の教育費用の上昇との間の不整合がどこから来ているのかわからないと記されていました。大臣でさえ判らないのなら、わたしが考えたってまるっきり無駄なことでしょう。[ タングラン在住、メリナ・プルボ ]


「プリタハラパンのクマンビレッジ校がオープン」(2010年11月8日)
南ジャカルタ市クマンビレッジで2010年10月13日にスコラプリタハラパン(Sekolah Pelita Harapan)が公式開校式を行なった。プリタハラパン教育財団が設立運営しているスコラプリタハラパンのクマンビレッジ校は1年生から9年生(小1から中3)までを収容し、学費は年間5千5百ドルから1万4千ドルとのこと。現在既に105人の生徒が通学しており、そのうちの60%は在留外国人の子弟。
この学校は最大1千人の生徒を受け入れることができる、とジェームズ・リアディ、プリタハラパン教育財団理事長は語っている。


「1月15日から国際教育エキスポ」(2011年1月13日)
5万人のインドネシア人が毎年小学校からS3(博士号)までの諸コースの学習のために国外に出ている。ところが、海外教育を希望する生徒と父兄に留学先国や学業コースを適切にアドバイスするというビジネスを正しく営んでいるコンサルタントは50%しかいない、とインドネシア国際教育コンサルタント同盟が明らかにした。「海外教育コンサルタント、つまりエージェントは数百人いるが、職務と機能を正しく果たしているのは50社しかない。エージェントの大半は個人が自宅ビジネスで行なっており、事業ライセンスを得ているかどうかすらあやしい。インドネシア国際教育コンサルタント同盟会員は15社しかないが、それは厳しい条件を付けているためだ。事業許認可を取得していること、3年以上操業しており、スタッフは二人以上いてトレーニングを与えられていること、外国の教育機関からエージェント指名を得ておりその文書があること、そして広いネットワーキングを持っていること、というのがその条件だ。」
2011年1月15〜16の両日、インドネシア国際教育コンサルタント同盟はジャカルタコンベンションセンターで国際教育エキスポを開催する。12ヶ国から70教育機関がこのエキスポに参加する予定。


「BETT賞最終選考にインドネシア製品が勝ち残る」(2011年1月31日)
2011年1月12日にロンドンで開かれたBETT(British Education and Training Technology)賞の最優秀賞発表大会でインドネシアのIT製品が最終審査に残り、そのレベルの高さが世界的に認められたことで祖国の関係者の間に喜びと自信が広がっている。
PTプソナエデュカシがAmazingEdu Softwareのブランド名で制作したAmazing Physicsというタイトルのソフトはセカンダリー・FE・スキルデジタルコンテンツ部門の最終選考にほかの6作品と共に登場した。残念ながら受賞は逸したものの、インドネシアからこのように優れた作品が世界に向けて発信されていることは未知のひとびとにとって大きな驚きであり、同時にインドネシアのIT関係者に大きな希望を与えるものとして受け留められている。
BETT賞はイギリスで企画され、既に27回目の開催を迎えた。ITと教育通信分野関係者にとって世界的な規模のこのエキスポと優秀作品表彰の場は、ひとつの高い権威を示すものであり、そこで最優秀賞を競った作品は名実ともに国際水準に達していると評価されうるものとされている。


「アメリカへの留学生が激減」(2011年4月19日)
アメリカ政府がインドネシア人留学生勧誘に熱心になっている。外国の学生生徒をアメリカ国内の教育機関で教育し、アメリカを理解する知識層を諸外国に作りたいという希望がその方針のベースになっているようだが、確かにアメリカに学びに来るインドネシア人学生生徒は過去20年近くの間に下降トレンドをたどっており、それに対する危機感が突然湧き起こったかのようだ。次の大学留学生に関する統計がその背景を十二分に説明している。
年度: 外国人留学生比率(%)  インドネシア人留学生(人)
1994: 2.6             11,872
1995: 2.8             12,820
1996: 2.7             12,461
1997: 2.8             13,282
1998: 2.5             12,142
1999: 2.2             11,300
2000: 2.0             11,625
2001: 2.0             11,614
2002: 1.8             10,432
2003: 1.6              8,880
2004: 1.4              7,760
2005: 1.3              7,575
2006: 1.3              7,338
2007; 1.2              7,692
2008: 1.1              7,509
インドネシアの普通科高校卒業生170万人と大学生7万人が海外留学を行っている現状を見るなら、アメリカへの留学生は7千人程度でなく1万5千人いたとしてもおかしくない。なにしろアメリカの外国人留学生の中でインドネシア人は出身国別では常にトップ20に入っているのだから。2008年度の7,509人ですら、香港の8,329人に次いで17位にいる。
スコット・マーシール駐インドネシア米国大使は、アメリカのインドネシア人留学生が過去10年間に大幅な減少を見せ、同じようにインドネシアに留学するアメリカ人学生も10年前の200人前後から2008学年度は74人に激減していることを認める。「そのいずれの現象もきわめて残念で恥ずかしい話だ。インドネシア人の留学生低下はアメリカの学生ビザが取りにくいという誤った情報によって出足を挫かれていることがわかっている。学生ビザ取得ということについて言えば、決してそんなことはなく、それが誤った情報であることを確信を持って断言できる。大使館も学生ビザ取得に関してインドネシア人留学希望者に困難を与えるようなことは決してしない。反対にインドネシアへ留学するアメリカ人学生が減っているのは、インドネシアに関する情報がアメリカであまりにも少ないためインドネシアに興味を抱く若者が漸減していることが理由だろう。そのためにもインドネシア人留学生がアメリカに増えることでアメリカの若い世代がインドネシアに身近に接する機会を増やすことになる。」
米国大使はそう語って、インドネシア人留学生を積極的に勧誘している。


「高学歴無職者の悔恨」(2011年6月12日)
時間と金、そしてたいへんなエネルギーを注いで修士の免状まで取ったけれど、すべてが浪費でしかなかったのではないか?そんな気がする。両親はわたしと弟が高学歴を取ることを切望した。学歴が高ければ高いほど就職が容易になり、一生涯生活苦から免れることができると信じていたからだ。親は子供が将来の生活に困らないよう、何かを与えなければならない。自分が事業を行ってその経営者の席を子供に譲るとか、子供のために家を用意してやるとか、自分のコネで子供を役人や会社員にしてやるとか、財産を蓄えて自分の死後子供に分与相続させるとか、どの親もみんな子供のために何かをしてやっている。わたしの両親にとっては、高学歴がそれだった。わたしと弟は子供のころから、両親の方針に沿って生きていくのが子供の務め、親孝行だと思っていた。でも今になってみれば、両親の考えは間違っていたとしか思えない。このわたしを見てくれ。もう40歳を超えたというのに、勤めたことなど一度もなく、学歴に見合う就職の話もやってこず、いまさらどんな職でもいいからと言っても就職の門戸は狭まる一方だ。ハディ氏はそう語った。
インドネシアには高学歴失業者が100万人以上いる。大学卒業者が希少価値だったころ、大卒者は労働市場で引く手あまただったし、たいていは就職後も幹部候補生の道を歩んで高位高官の地位に着いた。かれらはみんな名刺の肩書きに男性はドクトランドゥス(Drs.)女性はドクトランダ(Dra.)を添えた。駅弁大学と呼ばれる時代になったある国に来たインドネシア人がそんな名刺を出したので、きっと凄い学者にちがいないとみんな噂したが、それが学士にすぎないことを後で知って笑い話になったことがある。ともあれ、学士様の将来が大きく開かれていたことを目にしているハディ氏の親は、そのメカニズムが定着して回転し続けると思ったにちがいない。
だからかれの父親はその目標に向かって一家をあげての総力戦を開始した。日本でもおなじみの教育パパとママの姿がそこに浮かび上がってくる。しかしいかんせん、インドネシアの教育は一般庶民にとってあまりにも高嶺の花だった。国家公務員である父親の所得だけでは足りない。自動車所有者証書や土地権利書が抵当に入れられた。それから数年後、悪夢のような時期が始まった。父親が卒中で倒れたのだ。
収入がなくなり、借金ばかりが膨らんでいく。しかし母親は息子たちへの高学歴取得の夢を捨てなかった。息子たちがめでたく卒業すれば、いまの困窮はおまけ付きで解消されると思っていたようだ。しかし父親の入院費・子供の学費・借金の返済などのために母親はこれまで一家が住んでいた比較的大きい家を売り払い、もっと小さい家を買って移り住んだ。もうひとつ家を買い、コスコサンビジネスを行って生活費を作り出すことを息子は母親に口を酸っぱくして勧めたが、世間でよく言われている素人ビジネスの失敗譚に恐れをなしている母親は決して首をたてにふろうとしなかった。
父親が亡くなったとき、遺産分けが行われ、ハディ氏は2億ルピアの遺産を得たが、母親は学業が終わるまでという条件でその金を手元に置いた。ところが母親の生活の窮乏がはなはだしいことに不審を抱いたかれが自分の遺産のことを問いただすと、母親は1ルピアも残っていないことを明かした。生活費・借金返済・子供の学費などに母親の握っていた金がすべてつぎ込まれていたのだ。2億ルピアを元手にコスコサンビジネスを開始しようと考えていたハディ氏は開いた口がふさがらなかった。
かれは仕方なく、母親がいま住んでいる家の二部屋を女性向けコスコサンにしようと母親を説得した。最初母親は強く反対した。中でも昔の家から持ってきた家具を、二部屋を開けるために売却することに強い拒絶反応を示した。結局ハディ氏の粘り強い説得が成功し、安定収入が入るようになった。さらに修士課程を終えたハディ氏の就職が望み薄であるというかれの説明を最初は信じなかった母親もついに現実を認めるようになり、かれに自力で自営業をはじめることを許したが、かれ自身もこれぞというビジネスにいまだに出会わないまま、不完全燃焼の日々を送っている。
中卒や高卒で警備員や清掃員の仕事をしている者のほうが、あんな高学歴を持ちながら無職の生活を送っているひとよりはるかにいい、という陰口が隣人の間でたたかれていることをかれは知っている。親孝行が善行だと盲目的に信じて親に反論せずその言いなりに生きてきた自分の半生は間違っていたのではないか?いくら親子の序列があっても、分別盛りになれば親の誤った考えに意見する主体性を自分は持つべきではなかったろうか?自分の半生を振り返るたびに、ハディ氏の胸の奥でそんな悔恨がはじけるのだそうだ。


「インドネシア語カリキュラムを見直し」(2011年6月23日)
2010/2011教育年度高校修業国家試験で11,443人の不合格者が出たが、数学の不合格者は2,392人、国語であるインドネシア語の不合格者は1,786人あった。政府国民教育省は生徒のインドネシア語能力低下を重視し、教育カリキュラム改善を目指して検討を進めている。モハンマッ・ヌー国民教育相は、教室で教師から教材を与えられているだけでインドネシア語に熟達することはできない、と語る。「理解するだけでは不十分で、正しく上手にインドネシア語を操ることも必要だ。そのため国語教師に対してアップグレード教育を実施する。テストに高い点数を取るためには、設問の意味を正しく理解することが重要であり、文脈・内容・論理を理解することができなければならない。」
国会は政府に対し、生徒が頻繁に書籍に接することができるよう、全国に図書館を設けることを政府に求めている。たくさんの書物に接すれば接するほど、生徒の国語能力は向上する、と議員のひとりは述べている。


「高校入学にもチャロ」(2011年7月5日)
2011年4月26日付けコンパス紙への投書"Calo di SMA Negeri I Bekasi"から
拝啓、編集部殿。近々中学を卒業するわが子のために、わたしはブカシ市ハジアグッサリム通りの国立第1高校へ入学申請の情報を求めに行きました。わが子はいつもランキング1で、ぜひこの有名高校に入学させたいと考えたのです。
学校の構内に入ったとたん、内部の者と名乗る男性がひとり、わたしに近付いてきました。かれが言うには、新入学願書受付は2011年5月初に開始されるそうで、わが子が入学できるよう骨折ってあげようとのことでした。
わたしは言いました。「わたしの子供は成績がいいのに、なんで贈賄しなきゃいけないのかね。」
するとかれは、ただ成績がよいどころか、高官の子供で成績もよい者ですらストレートに入学はできない、と言います。「済みませんがね、ここに入学する子供たちはみんな金を用意しているのがもう世間周知のことなんですよ。あなたの子供さんがハビビみたいに優秀な成績であっても、国立第1高校に入学できると思っちゃいけません。」
チャロはいたるところにいます。学校教育行政に携わる高官はこの事態をなんとかしてください。[ ブカシ市在住、エスゲ・プラス ]


「高校・大学への進学シーズンはいま」(2011年7月18日)
2011年の国立大学入学希望者540,953人のうち合格したのは118,233人で自然科学系56,856人社会科学系61,377人という内訳になった。2011年の国立大学入学全国試験に用意された定員数は119,041人だったから、808人分が欠員という結果になっている。欠員が出たのはあまり世間に人気のないコースばかりとのこと。高校での成績が優秀で試験の平均点を上回ったにもかかわらず不合格になった受験生は154,954人も出た。かれらはもっと優秀な生徒がひしめきあうコースを受験したために定員の壁に阻まれて不合格になってしまったもので、コースの選択をもっと戦略的に行えば国立大学に入ることができたのに、と国民教育省高等教育総局長はコメントした。「コースによっては90点でも落第し、受験生に人気のないコースは30点で合格している。」
大量の入学希望者が集まったコースは理工・科学・農業で、来年は定員をもっと増やすようにしようと国民教育省は計画している。来年はもっとたくさん国立大学に学生を受け入れたいと国民教育大臣は考えており、その準備を進める意向。
一方、中学から高校への進学は、420万人の中学卒業生に対して高校の新入生定員が310万人しかなく、110万人が進学できない構図になっていた。高校進学のできない中学生はその110万人に加えて中学ドロップアウト39万人が上乗せになる。全国中学生総数910万人の4.3%がドロップアウトしているのだ。
政府は中学卒業生を全員高校に進学させたい意向だが、それを実現させるためには4兆ルピアの資金が必要とされているとのこと。


「経済学が人気ナンバーワン」(2011年7月19日)
インドネシアの大学生に人気のある科目は、ちょっと古いが2009年度の入学願書提出数比較が参照できる。国民教育省大学統計データからコンパス紙R&Dが集めたものだ。
学科: 願書提出数/比率(%)
=国立大学=
経済: 197,097/21.5
工学・技術: 129,364/14.1
水産・農業・牧畜: 123,051/13.4
医学・保健: 78,512/8.6
法学: 66,920/7.3
自然科学: 49,963/5.5
行政: 43,811/4.8
語学・文学と人文・哲学: 40,853/4.5
ビジネス経営・会計・事務管理: 39,114/4.3
数学・コンピュータ: 34,938/3.8
社会政治学: 29,360/3.2
コミュニケーション・ドキュメンテーション: 27,903/3.0
森林: 13,830/1.5
心理: 11,536/1.3
建築・都市計画: 11,317/1.2
運輸・通信: 3,831/0.4
技能・工芸・工業: 1,313/0.1
その他: 12,480/1.4
合計: 915,193/100
=私立大学=
経済: 416,601/38.3
工学・技術: 195,792/18.0
法学: 96,207/8.9
数学・コンピュータ: 84,795/7.8
ビジネス経営・会計・事務管理: 50,624/4.7
語学・文学と人文・哲学: 39,804/3.7
社会政治学: 33,820/3.1
水産・農業・牧畜: 28,154/2.6
心理: 26,830/2.5
自然科学: 25,083/2.3
医学・保健: 21,762/2.0
建築・都市計画: 9,516/0.9
運輸・通信: 5,444/0.5
技能・工芸・工業: 5,075/0.5
行政: 4,076/0.4
森林: 2,019/0.2
コミュニケーション・ドキュメンテーション: 401/0.0
その他: 40,607/3.7
合計: 1,086,610/100


「通信講座修業証書は有料」(2011年7月19日)
2011年4月20日付けコンパス紙への投書"Ambil Ijazah di UT Bayar Rp 500.000"から
拝啓、編集部殿。2011年3月14日、わたしはバンドンの公開大学通信教育プログラムユニットへS−1(学士)の修業証書をもらいに行き、50万ルピアを払うように言われました。そのお金を払わないと、修業証書はわたしの手に入らないのだそうです。涙を呑んで、わたしは現金を渡しました。ところがその職員は領収書をくれません。ふつう公開大学への支払いはBRI銀行で行われ、支払い証憑がもらえます。修業証書をもらうのにお金がかかるという情報はどこにもありませんでした。わたしが知っているのは卒業式に62万5千ルピアかかるということだけです。卒業式に出席するつもりがなかったので、わたしは支出がないものと思っていました。卒業式は2010年11月23日にポンドッチャベの公開大学本部で開かれました。公開大学の年次カタログに卒業式と修業証書ピックアップの費用が記載されたことはありません。[ 西ジャワ州チアミス在住、アセップ・ロスタマン ]


「進学には金がかかる」(2011年7月21日)
中学・高校に進学する子供たちを抱える親に頭の痛いシーズンがここ数ヶ月続いた。教育内容の優れた学校を探すのがますます困難になり、そして進学のために費やされる金額もうなぎのぼりのありさまだ。政府は国民教育のために予算を取っているものの、学校が生徒から徴収する金は増えこそすれ、減る気配はさらさらない。生徒と父兄に困難を与えている要素のひとつは、政府が提唱し政策として進めている国立中学校の国際標準パイオニア(RSBI)校化だ。
RSBI校は3〜5月の間に早々と入学テストを終えてしまう。そして費用徴収も学校に任されているため、チレボン・バンドン・ジャカルタの諸都市における入学金は中学校が6百万ルピア以上、高校は1千5百万ルピア以上になっている。
ブカシ県中央チカラン郡にある国立高校のバイリンガルクラスに入学した生徒は、新入生登録費用380万ルピア、その他費用210万ルピアの合計590万ルピアを徴収された。毎月の授業料30万ルピアはそれらとはまったく別だ。南ジャカルタ市のRSBIでないバイリンガル中学の場合は入学寄付金を600万ルピアにしている。「貧困家庭の成績のよい生徒たちがRSBIに入るチャンスはないに等しい。新入生の2割を貧困層生徒に割り当てるというクオータ制度はほら話だ。」教育に関心を持つ親同盟メンバーはそう語る。
通常の中学は一クラス40人だが、RSBIは30人と決められており、新入生の定員が目減りする。学校に入学したい生徒の数と学校の定員数が、上級に進むに従って差が開いていく。小学校は全国に14万4千校あり、その学齢の国民の91%が収容される。中学校は2万6千校しかなく、その学齢国民の57%しか収容されない。高等学校は1万6千校で、わずか37%の学齢国民しか受け入れられない。学校数はそれほど不足しているというのに、レギュラー校(最低基準校)・全国標準校(SSN)・RSBI校・国際レベル校(SBI)などと細かな区分が行われている。政府はSSN校を標準クオリティとしているが、小中学校の中のSSN校は10.2%しかない。RSBIは全国で595校だ。
RSBI校で生徒はインドネシア語と英語でのバイリンガル授業を受ける。教室はエアコン完備で、生徒はひとりひとりが机と椅子を与えられ、インドネシアでよく言われるbangku sekolah(ベンチ)に座ることはない。LLと科学実験室が用意され、校内の環境は緑陰が豊かだ。
インドネシアコラプションウオッチは学校入学金・書籍費から制服代にいたるさまざまな新入生からの徴収金が国民に対して大きい負担を強いていると主張している。2010年データによれば、小学生は35〜50万ルピア、中学生は75万〜100万ルピア、そして高校生になると250〜500万ルピアというのが新入生を持つ親の負担になっているとのこと。


「中学校入学はバクチ・・・!」(2011年7月22日)
中部ジャワ州サラティガ(Salatiga)。ソロに近いこの高原の町にも進学に頭を悩ませる生徒父兄は大勢いる。ホイルル13歳の母シティ・ザキア38歳は息子をどの中学校に入れたらいいのかに頭を悩ませている今日この頃。費用の心配だけはしていない。息子が小学校に入って以来、中学に入れるためにこつこつと資金を蓄えてきた。毎月10万ルピアを目標にして貯蓄に励んだ結果、4百万ルピアの現金がいま手元にある。入学金その他の費用はこれでなんとかなる。
サラティガ国立第9中学校に入学を申し込んだが、全国試験の成績が24.2ポイントだったホイルルは入学希望者の141番目にランクされた。第9中学の2011年度新入生定員は173人で、そのうち43人は越境入学生に割り当てられている。ホイルルがはねられるのは明らかだ。
「うちの子は無理みたいね。子供を中学に上げるだけでもおおごとだわ。夜も眠れないくらいだもの。金稼ぎのほうが簡単よ。洗濯女やってりゃあ金が入ってくるんだから。夫は建築クーリーだから、私立にやるのは荷が重いのよね。」
今は入学申し込みがオンラインでできるようになっている。コンピュータで申し込むと、生徒の名前とランクが一覧で表示される。情報公開が進んできたと言えるのだが、コンピュータがシティの家で使われているわけではない。自宅にコンピュータを持って日常生活の中で使っている家庭はサラティガにどのくらいあるだろうか?シティも隣人も、そして息子の友人関係の中にも、コンピュータのある家庭は数えるほどしかない。だから入学の申し込みですら、だれかに頼み、その好意にすがるしかないのだ。
ルシト35歳も息子のアジ13歳の中学進学に頭を痛めている。アジは別の中学校に入学申請をしているが、全国試験の成績が23.35ポイントで、申込者ランキングの158番目に置かれている。もしもアジより成績のよい子供があと16人申し込んだら、アジはその中学校からはねられてしまう。「そしたら息子をどこへやりゃいいんだ?」ルシトは悪い結果への不安に頭を悩ましている。
ディアン42歳は娘のランキングが定員外に置かれているのにゾッとした。市の入学受付委員会に他の国立中学に入れてくれるよう依頼したが、申し込んだ中学のリストに名前がまだ残っているからそれはできないと言われて頭を抱えている。「これはまるでバクチだわ。入れりゃいいけど、どこにも入れなかったらわたしがたいへんなことになってしまう。」
入学受付委員会は越境入学生の枠を普通5%としている。バンテン州タングラン市と南タングラン市の小学生がジャカルタの国立中学校に子供を入れようとする場合、全国試験の成績はその中学校に申し込んでいる地元生徒たちより成績がよくなければ確実に入れる保証はない。高等学校のケースも同じだ。
バンドンのエリナワティ夫人は、チラチャップの甥をバンドン国立第1高校に入れようとしている。それは甥の全国試験の成績がとても良かったからだ。平均9.17ポイントというのは地元中学生の間でも上位のポイントになる。
サラティガに隣接しているスマラン県のイスナワティ夫人41歳は息子をサラティガ国立第4中学校に入れたいと考えていた。それは自宅からアンコッに一度乗るだけで中学校前まで行けるという通学の便を考えての結果だった。そしてその中学校は良い学校で、費用も高くない。息子のインドラは全国試験の成績が24.75ポイント、そして入学申込者の最低ラインが20ポイントだったから、インドラが入れるのは間違いないと夫人は安心していた。ところがインドラははねられたのだ。夫人は越境入学者が別枠になっていることをよく知らなかった。定員の二割がその別枠で、別枠でのインドラのランキングは定員より下だったのである。


「学問知識は金持ちのもの」(2011年8月12・13日)
国民生活に賢さをもたらすための政府の役割は、昨今の大学教育費用の値上がりの中で疑問視されている。大学教育に向けて政府が交付する補助金が微々たるものでしかないため、大学はサバイバルと自己開発のために市場メカニズムを実践せざるをえない状態に陥っている。この市場メカニズムというのは資金力を持つ者がより価値の高い製品の恩恵を享受できる原理であるがゆえに、学問知識が富裕階層に偏在するという矛盾を世の中に生む傾向を持っている。
しかしジョクジャカルタ国立大学学長は、大学が高い学費を徴収しているという意見に反論する。「社会学系学生の年間ユニットコストはひとり2千2百万ルピアで、理学だと2千6百〜2千8百万ルピア。学生から徴収している金額はそれよりずっと低い。それ以外にも教室の改装や増築、実験室・図書館の資材や書籍購入、研究実施などのための費用を大学は必要としている。」
ガジャマダ大学教育研究社会奉仕担当学長補佐は、特定学部の入学金はたしかに高いと認める。「医学部が高いのは病院での研修や実習が高いからで、それを大学が負担するのは不可能だ。だからこの学部を選んだ学生に負担してもらうことになる。」
しかしガジャマダ大学は貧困家庭の学生に配慮を与えている。20%の入学枠、入学金の四回分納などだ。マカッサルのハサヌディン大学学長は、大学の年間最低支出は1千5百億から2千億ルピアだと語る。「それには大学の品質改善のための費用は含まれていない。だから政府が大学に交付するべき補助金はもっと巨額になる。政府は実際にはその程度の補助金支出能力を持っている。政府から補助金が出るなら、収入を得るための活動に大学が煩わされることはない。」
憲法は国家予算の20%を教育に割り当てるよう命じている。ところが現実にその教育という言葉が拡大解釈され、政府は公務員の教育訓練を行う機関をもその中に含め、おまけにそんな教育訓練機関の人件費まで国家予算でまかなっている。政府は補助金抑制のために随所で大ナタをふるい、大学に自活の道を歩ませるようにしたため、大学が市場メカニズムに身を投じるのは不可避であり、したがって大学の学費が国民購買力を置き去りにして今後も上昇していくのは間違いがない。「大学は生き残らなければならない。大学経営者は一般の企業経営者とは履歴がちがい、また教育ビジネス家とも毛色が異なる。かれらにとって一番やりやすい対応は、大学に来る国民から徴収する教育費用を引き上げることだ。」教育学士連盟会長はそう語る。
公正のための全国教育ネットワークコーディネータは、インドネシアの教育民営化方針が国民に過剰な負担を与えている、とコメントする。「奇妙なのは、国民教育システム法がその方針を是認していることだ。その結果国民の教育費用負担は重くなる一方で、低所得層の教育アクセスは狭められ、教育クオリティも功利的傾向を強めることになる。」
公教育が自由市場に投げ出されて教育ビジネスを強いられるようになれば、学校運営者は教育ビジネス家にならざるを得ない。行き着くところ、貧乏人は麦を食って満足しなければならない社会になる可能性は小さくない。富と学識が連れ添って動く社会が目前に来ているようだ。
大学が自立コースという名称で寄付金の額を目処に入学を許可するコースを設けるようになって以来、キャンパス内で社会階層の新たな分裂と卒業生のクオリティ低下が目立つようになってきている、と国会第10委員会議員のひとりは議会の場でそう発言した。


「教職は聖職?」(2011年9月24日)
2011年6月9日付けコンパス紙への投書"Murid Membiayai Guru Rekreasi ke Luar Negeri"から
拝啓、編集部殿。いつまでたっても生徒は搾乳牛にされています。学年度末のレクレーション旅行のたびに、教師の費用を負担するのは生徒たちです。昔は日帰りの旅行が一般的で、距離も近場が多かったから、それほど不自然ではありませんでした。
ところがいまや、学校のレクレーション旅行はジャワ島外か、でなければ海外です。隣国へ出かけるのが当たり前。もう統御できない競争のようなありさまで、南ジャカルタ市クバヨランバルの中央アルアズハルイスラム中学三年生140人は2011年5月にウムラの旅に出発しました。とんでもない話です。中学校教員は全員が生徒の費用負担で参加しました。全校生は一年生も二年生も例外なく一週間休業です。国民教育省は学校に対し、レクレーション旅行先を海外にしないよう禁止規定を設けてください。同時に教師の参加費用を生徒から徴収することも制限してください。[ 中央ジャカルタ市在住、ディアナ ]


「今年のダルマシスワ留学生は750人」(2011年10月8日)
今年、インドネシアで伝統舞踊・伝統音楽・手工芸・インドネシア語・インドネシアの地方語を49の大学で学ぶために73ヶ国から来た750人の留学生は1974年以来政府が実施しているダルマシスワ制度に則して政府から一年間奨学金を与えられる。これはインドネシア政府が行っているソフト外交のひとつで、世界の若いひとたちにインドネシアについての正しい理解を身に着けてもらうことが主目的になっている。2010年は65ヶ国から623人を受け入れたが、今年は更に増加した。2012年には1千人を目標にする、と国民教育省海外協力企画局長は述べている。
1974年以来、インドネシア政府が奨学金を与えた留学生は3千8百人を数える。このダルマシスワ留学制度の対象者になると、毎月250万ルピアの奨学金が支給され、また所属大学の学費に補助金がつけられる。更に今年からは、学業を終えた学生に修業証書が与えられ、世界中の国で認められるアカデミッククレジットが入手できるシステムが開始されることになっている。一年間の学業終了に際して留学生は、インドネシアをテーマにした論文を発表しなければならない。


「四芸術院が八芸術文化院に」(2012年3月13日)
政府は国内で行われている芸術教育の質的向上と量的充実をはかるための新方針を打ち出した。いま国内にある高等芸術教育機関はインドネシア芸術院(ISI)で、ジョクジャ・スラカルタ・バリ・パダンパンジャンの四ヶ所に置かれ、またバンドンにはインドネシア芸術高等学校(STSI)、そしてジャカルタにはジャカルタ芸術院(IKJ)が設けられている。教育文化省はそれらの芸術教育機関における教育内容の幅を広げるために芸術に関連する文化をもカリキュラムに含めることを決定した。必然的に芸術学院という名称も芸術文化学院(ISBI)に変更されることになる。それに加えて、アチェ・カリマンタン・スラウェシ・パプアに新たにISBIを設立することにし、既存の四ISBIが新規に設立される四校の支援を行うように命じられた。
ISBIとバンドンのSTSIはすべて国立の教育機関だが、ジャカルタのIKJは都立になっていてオーナーシップが異なり、講師陣も国立教育機関ほど厳密に資格を問われることがない。教育文化省はIKJも政府の新方針に従ってISBIになるよう希望しているが、都庁がオーナーシップを中央政府に移すことを受け入れるかどうかの問題がからんでおり、IKJ側は難しいとコメントしている。もちろんオーナーである都庁がどういう姿勢を取るのかによってその成否が決まるわけだが都庁はまだ態度を明らかにしていない。


「就職に役立つ習いごと」(2012年3月22日)
インドネシアでも塾や習い事は盛んだ。インドネシアも学歴社会であり、よりよい未来を子供に与えようとして学習塾に通わせる親は少なくない。加えてさまざまなお稽古ごとに通わせ、あるいは青年や大人が自分の意思で習い事をはじめるというケースも数多い。
中でも、特定分野の技能を見につけて有利な就職を実現させたいという動機はきわめて強く、それは明らかに公教育がカバーしきれていない面がたっぷりと存在していることの証明であるという印象を与えている。
コンパス紙R&Dが2012年3月7〜9日に全国の都市部居住者662人を対象に行った調査によれば、就職に役立つ能力を涵養するためのものは大きな需要をもっているようだ。
質問1.あなたの家の近くに習い事の教室があることを知っていますか?
回答1.はい65.9%、いいえ32.0%、不明・無回答2.2%
質問2.就職に役立つ習い事は何だと思いますか?
回答2.
コンピュータ27.0%
諸技能24.0%
英語23.7%
自動車6.9%
その他3.1%
不明15.3%


「狡猾な教育ビジネス」(2012年4月10日)
2012年1月10日付けコンパス紙への投書"Ihwal Seleksi Perguruan Tnggi Swasta yang Prematur"から
拝啓、編集部殿。高校生の子供を持つ親であるわたしは困惑しており、教育文化省に尋ねたいと希望しています。高校最終学年の修了試験は2012年4月ごろに実施されますが、私立大学は入学選抜試験を今ごろからもう開始しています。
試験に合格すれば入学金を納めるよう求められ、期限までに納めないと入学資格を失います。国立大学は高校修了試験が終わってから入学選抜試験を行います。国立大学の試験に合格して、国立大学への入学を選んだら、納めた入学金は焦げ付きます。
子供が大学へ行けないことを恐れる親の心理を利用して、そんな方法で金稼ぎを行うことを政府は許すのですか?国立大学への入学は競争率がとても高いのでたいへん難しいというのは公然の秘密です。もう何年にもわたって続けられているその行為に政府はもっと関心を持ってください。[ タングラン在住、アダム ]


「不合格生は全国でおよそ1万人」(2012年6月8・9日)
2011年度高校修業国家試験での不合格者の多くは国語(インドネシア語)と数学の成績が悪かったことが原因であると教育文化省が明らかにした。不合格者の多くは州都や県・市庁所在地など都市部の生徒たちだ。
普通科高校・特殊高校・マドラサアリヤの生徒で国家試験を受けた者の総数は1,524.704人で、不合格者数は7,579人だった。一方、専門高校生徒の受験者は1,039,403人で不合格者は2,925人だった。非専門高校区分の合格者は1,517,125人で合格率は99.5%、平均点の最高は9.33ポイント。前年度の合格率は99.2%だったから、今年は成果が向上したと言える。国家試験の合否決定は、全試験科目がすべて4.0を超えており、さらに総合平均が5.5以上かどうかによる。
これらの統計は国家試験に関するものであり、生徒の学校卒業は学校が決めることであるため、卒業者数はまた別のものになる可能性がある。国家試験の成績は修業評価の6割、学校での学業評価は4割という比率で高校生徒ひとりひとりの卒業可不可が決められる。
州別の成績は、東ヌサトゥンガラ州が1,994人という最大の不合格者数を出した。合格率は94.5%。次いでゴロンタロ、パプア、西パプア、中部カリマンタンという順位。全校生徒が落第した学校は今年4校あった。北スマトラ州メダン市に1校、ランカッ県に1校、北マルク州東ハルマヘラ県に1校、東南スラウェシ州コナウェ県に1校だ。昨年は5校あったから、今年は向上したと言える。
中部ジャワ州は99.9%の合格率で、専門高校の部では上位三人の生徒が全国トップ10に入っている。全国ナンバーワン生徒はスマラン第2国立専門高校から出た。
高校の学業が終わり、国家試験にも合格した生徒たちは、往々にして羽目を外す。大勢がオートバイに乗って徒党を組み、一大暴走族集団が生まれる。あるいは手当たりしだいに身近な施設に落書きをする。ひどいのはタウラン(集団喧嘩)のやり納めとして白昼大通りが野戦の戦場と化す。教育監督者たちの忙しくなる季節の幕開けだ。


「小学生にゃ童話でも読ませとけ?(その1)」(2012年6月8日)
地元文化への知識と理解を児童生徒に深めさせることを目的に義務教育カリキュラムには地元文化環境教育の時間が設けられており、各学校では独自に教科書を選定して教室での学習に使っている。その教科の趣旨は周知徹底されているのだが、学校が独自に教科書を選定していることによって、認識の差異が出現することは避けられない。学校に独自に選ばせるのは良くないという意見を招くような事件が都内の一部小学校で発生した。
東ジャカルタ市ハリムプルダナクスマ地区にある私立小学校アンカサ第1から第9までの小学校のうちで8校がその教科のために使っている「ジャカルタ文化環境教育・明るく簡潔で活発な生徒」と題する読本の中の物語のひとつに、「カリパシルのバン・ママン」というジャカルタの民話が含まれており、ストーリーの中にバン・ママンが妾を作るとか離婚するといった文章が出てくる。
小学2年生の娘を持つ母親がそのような教材が使われることを問題にし、都庁教育局へ訴えた。その母親の意見によれば、そのストーリーは家庭内の不和に満ちた内容であるため小さい子供にふさわしいものでなく、またそんな内容が地元文化の教育に使われていることは、妾を囲う行為がジャカルタの文化のひとつであるような印象を与えているというもので、ブタウィ(ジャカルタの地元呼称)文化専門家も、正しいブタウィの人間にとって結婚は一生に一度のものであり、伴侶と死別しないかぎり別の伴侶を持つことはありえない、とその母親の意見をバックアップする説明をした。
「妾どころか、ムスリムに許されている第二妻を持つことさえ、真のブタウィ人を自称する男には許されないことだ。ブタウィの婚姻の祝いにはロティ・ブアヤ(ワニをかたどったパン)がつき物だが、ワニは伴侶と死別しない限り別の相手を作らず、そして自分の子供たちを保護することに努める。」
その教材を選定した学校側は、バン・ママンのストーリーは郷土民話であり、また学ぶべき内容もたくさん含まれていると反論しているが、都庁教育局長は生徒父兄に対して監督不行届きであったことを謝罪し、その読本を学校に使わせないよう処置したことを明らかにした。問題は妾とか離婚といった言葉が出てくることよりも、大人向けの物語を小学生に学習させている点にある、と教育局長は学校側の反論に応じている。


「小学生にゃ童話でも読ませとけ?(その2)」(2012年6月9日)
バン・ママンの物語事件は2012年4月のものだが、2012年6月には小学校図書室蔵書にポルノグラフィが混じっているという騒動が発生した。
中部ジャワ州クブメン県で騒ぎになった書籍は三冊で、そのひとつには妊娠や性病を避けてセックスを行う方法に関する会話を登場人物たちが行っている描写があり、避妊カレンダーを使うんだ、という表現が盛り込まれている。
それらの書籍はクブメン県教育スポーツ局基礎教育施設設備課が2010年に県下の小学校に分配した4,292冊の図書室用書籍の中に含まれていたもので、既に136の小学校がそれらの書籍を返却した。県側はそれらの書籍の内容がポルノグラフィの傾向を帯びているため小学生にはふさわしくないものとして生徒の学習環境から追放することを決めたが、それら三冊のひとつを出版した出版社取締役は、内容全体を読むことでそれらの表現がポルノグラフィでないことが明らかになる、として教育行政側の措置に不満をもらしている。


「学業優秀なジャワの高校女子生徒」(2012年6月11〜13日)
2011年度高校修業国家試験のランキングは圧倒的に女子生徒の活躍が目立った。普通科高校と専門高校で試験の内容が異なっているためそれらを同列に論じるのは無理があるが、普通科高校・特殊高校・マドラサアリヤの非専門高校の部で全国ナンバー1の成績を収めたのは西ジャワ州クニガン県ダルマ郡ジャガラ村に住むトリアワティ・オクタヴィア18歳で、総合点は58.60に達した。
母親のウインタワティ52歳は村の助産婦で、トリアワティは母親にならって医療の世界に自分の人生を捧げたいと小さい頃から夢見ていた。その夢は自分が医者になることに向かって膨らんでいったものの、一介の郡役所公務員でしかない父親のシャフルル・アリフィン54歳の給与で費用のかかる医学部への進学がまかなえるはずがないという冷たい現実を悟るにつれて、それは夢として諦めようという気持ちがトリアワティの心の中に強まっていった。
ところが今回の修業国家試験で全国一になったこと、さらに追いかけるようにして教育文化大臣から、国家試験全国ランキングの上位20人に政府が奨学金を供与するとの通知が届いたことから、トリアワティの目が輝いた。かの女はいま、念願のインドネシア大学医学部入学を目指して、その入学試験の関門を突破するべく準備を開始している。
東ジャワ州ラモガン第2国立高校9年生のノフィ・ウランダリ18歳は総合点58.50を獲得して全国第2位という成績を得た。「わたし、全国で一番になって大学へ行けるようになり、両親に自慢させてあげたかったんです。」と感激に潤んだ瞳でノフィは言う。母親のスピ・スティヤワティ42歳は女中をして月収50万ルピアを得ており、父親のモハンマッ・ムスタキム45歳はラモガンのパサルで履物店の店員をしていて、両親の月収を合わせても125万ルピアにしかならない。成績が優秀であれば、大学奨学金を受けられる可能性は高い。そして教育文化大臣の通知がそれを現実のものにした。今かの女はスラバヤのアイルランガ大学医学部か、あるいはスラバヤ11月10日工科大学統計学部への入学目指して準備に取り掛かっている。
ノフィと同点二位になったのはデンパサル第4国立高校のカデッ・デフィ・アリ・フラシスカ。次いで58.45を獲得したのが、ジャカルタの私立学校サンタウルスラ9年生フロレンシア・イレナ、ラモガン第2国立高校のアンギ・アルサンディ・アプリリヤント、東ジャワ州ポノロゴ第1国立高校のバガス・ウィディヤッマカ、東ジャワ州シドアルジョ第1国立高校のファジュリン・プラディタ・ウィナ、西ジャワ州パスンダン第1国立高校のドニ・アリフ・グナワンの5人。
その下の総合点58.30はバリ州デンパサル第1国立高校のプトゥ・アユ・ウタミ・プラジャワティとバリ州デンパサル第4国立高校のビラワ・プラディティヤ・バガスカラで、以上が非専門高校の部の全国トップ10。それを見ても、トップ4人は女子生徒であり、またトップ10のうち7人が女子生徒であるということがわかる。
一方の専門高校の部は、最高位が29.6点を獲得したスマラン第2国立専門高校のムティアラニと西ジャワ州タシッマラヤのミタルバティック専門高校のミフタ・ヌルジャナおよび西ジャワ州カタパン第1国立専門高校のロニ・ハディアン・アクバル。次いで29.4点を得たのが、西ジャワ州バンドン第7国立専門高校のネニ・ユリアンティカ、西ジャワ州スカブミ第1国立専門高校のエルリン・ヘルリナ・フェブリアンティ、西ジャワ州タシッマラヤ第2国立専門高校のインタン・プルマタサリ、中部ジャワ州プルウォダディ第1国立専門高校のデウィ・アストゥティ、中部ジャワ州プルウォダディ第1国立専門高校のエルリタ・ディヤ・ウタミ、東ジャワ州スラバヤ第1国立専門高校のハニンディア・ハジャル・ダマヤンティ、東ジャワ州マランカルティカ?−1専門高校のアニサ・アユニンティアスとなっている。以上が専門高校の部のトップ10であり、こちらもトップのふたりは女子生徒であり、10人中9人が女子生徒で占められている。
もうひとつ上のデータからわかるのは、各トップ10の全員がジャワ〜バリの学校に通っている生徒たちであるということで、ここにも歴然たるジャワ高外低というインドネシアの特徴を目にすることができる。


「中学修業試験不合格生はもっと多い」(2012年6月14日)
2011年度高校修業国家試験での落第者は全国でおよそ1万人だったが、中学修業国家試験のほうは1万6千人に上った。全国受験者総数3,697,865人中で不合格になったのは15,945人おり、中部ジャワ州が最大で総受験者506,643人中4,287人が不合格だった。
教育文化大臣が2012年6月1日に行った試験結果講評によれば、2012年の平均点は7.47で2011年の7.88から低下したが、合格率は99.45から99.57に上昇しており、全国生徒の学力が一層均一化してきていることがわかる、とのこと。昨年は全員不合格校が12校あったが今年はそれが解消されており、大臣の言う均一化の証明と見ることもできる。しかし合格生徒が25%未満の学校は全国で25校あった。
特に不合格生徒の平均点は3.77だったが学校での学業成績評価の平均は7.33になっており、学校が自分の生徒に与えている評点の妥当性を見直す機会を修業国家試験が提供している例のひとつだ、と大臣はコメントしている。
全員合格校は全国で42,146校あって全体の89%を占めた。生徒数でも86%を占めている。
不合格者のつまずいた教科は数学がナンバーワンで、次いで英語・自然科学・インドネシア語。東ジャワ州教育局長は中学修業国家試験の結果について、総受験生は534,020人で不合格者は886人だった、と述べている。不合格になったのは試験日にテストを受けに来なかった者がメインを占め、病気・受験放棄・転校・結婚などがその理由だ、と説明している。


「学校教育の充実を目指す」(2012年12月10日)
政府教育文化省は2013教育年度のカリキュラムに大きい変更を加えることにした。小学校の学習科目は10教科から6教科に減るが、授業時間は週26時間から30時間に増加する。中学校も12教科から10教科に減り、授業時間は週32時間から38時間に増える。教育文化省はこの方針の公開審査を2012年11月29日から12月23日までの間、いくつかの地方で実施している。
教育文化大臣はこの方針に対する公開審査開始のスピーチで、先進国の小学校はたいてい週30〜36時間の授業が行われており、インドネシアは不足気味であるため増やすことは意義がある、と強調した。しかし大学関係者からの意見の中に、ひとつの校舎を朝学校と夕学校というシフトシステムで使っているところがまだ多数あるためその調整をどうするのかということと、また授業時間が長くなることで生徒の昼食問題が起こるため、その対応をどうするのかを決める必要があるとの問題指摘がなされている。昼食に関しては、学校が昼食を用意できるのかという表現で問いかけられていることから、生徒の親に昼食を用意させることが現実性を持っていないと見られているニュアンスが感じられる。
ある教師・校長・教育監視官グループのリーダーは、一日の授業時間が長くなることによって生徒が学習活動に飽きてくることに留意しなければならない、との意見を述べている。これまで生徒が放課後に行っていた諸活動に与える影響も考えなければならないとのこと。「生徒の中にはマドラサ学校での午後授業を受けたり、学校では得られない能力を伸ばし興味を深めるための塾や諸教室に通っている者があり、授業時間を増やすことがそれらの活動と衝突しないようにする必要がある。」
それ以前に、教員が楽しく創造的な授業を行う用意が整っているのかどうかが重要なポイントではないか、との指摘は鋭い点を突いているようだ。また自然科学と社会科学についても統合した形での教科が必要ではないかとの意見も出されている。
大臣は、政府が決めるカリキュラムはミニマムのものであり、各学校が自己の裁量で独自のカリキュラムを発展させることが大いに推奨されている、とコメントした。そこでは、教員の創造性が求められており、生徒に観察・質問・感性・実験を誘う内容の授業が行われることが期待されている、との大臣の弁。


「数学科学に弱いインドネシア人」(2012年12月25日)
国際数学・理科教育調査2011年版によれば、数学・理科分野におけるインドネシアの8年生生徒の能力は低い。平均点は386で、2007年版の平均点から11ポイント低下した。理科についても平均点は406で、こちらは2007年から21ポイントダウンしている。この調査が行なわれた世界63カ国と14地域の中でインドネシアは38位にあり、数学はモロッコ・オマーン・ガーナの上、理科は40位でモロッコとガーナの上だが、タイ・マレーシア・パレスチナなどからは引き離されている。生徒たちの思考能力レベルの判定では、低レベル54%、中レベル19%、高レベル3%、アドバンスレベルはひとりもいなかった。
オランダに本部を置く国際教育到達度評価学会が4年ごとに行なっているこの調査にインドネシアは1999年から参加した。この調査で最低基準を超えたインドネシアの生徒は数学が43%、理科は54%であり、インドネシア人生徒の半分が国際的な学力基準に到達していない現状は実に嘆かわしいことだ、とITB教官は述べている。かれによれば、複雑化した現代世界に直面するためには最低基準ラインにいてはだめなのだそうだ。
別のITB教官は試験問題と生徒の回答を仔細に検討し、インドネシアの生徒が持っている弱点を指摘した。「数学問題については設問を読んで尋ねられている内容を正しく把握し、その上で数学の解を示すためのテクニカルな技法が用いられるというプロセスをたどるのだが、そのテクニカルな部分に難しいものはひとつも見当たらず、インドネシアの生徒たちが陥った失敗は求められている高さの論理思考能力に追いつくことができなかったためだ。このことだけからも、インドネシアの数学教育は定理や公式を覚えこむというテクニカルなことがらにばかり焦点が当てられていて、生徒の論理思考能力を高めることがなおざりにされている事実がわかる。」と教育のあり方に批判を向けている。


「学校関係者層が性教育を拒否」(2013年4月2日)
青少年男女の放縦な性交渉で予想外のデモグラフィ変化に直面しているインドネシアでは、若年層に対する避妊をまじえた性教育の重要性に政策決定者は今更ながら決意をあらたにしている。ところが現実には、国民教育の柱である義務教育の中に性教育を持ち込むことがもっとも効果的なのはわかりきっているのだが、学校を取り巻く諸勢力の無理解から来る拒否姿勢のために若年国民層への正しい性教育普及が大きな障害に直面している。
この政策実施の先鋒に立っているのは住民家族計画庁だ。公的な学校教育に関わっている諸方面は一様に、まだ幼い子供たちにセックスのことを教えるのは反生産的であり、子供たちをポルノへのめりこませるだけでしかない、という理由で学校での性教育実施を拒否している。その現実に対して住民家族計画庁の家族計画と生殖保健分野担当デピュティは、「子供たちは性教育によって正しい生殖保健や性行為に関する知識と理解を得ることができ、その結果若年者のセックス行為は減少する。インドネシアでは、性教育へのアクセス門戸はきわめて狭く、若者たちは知識を得ようとして手当たり次第に模索するものの本当に正しい知識をかれらが得ているかどうかについては大いに疑問がある。この状況を正しい方向に誘導してやらなければ、状況はもっと危険なものになるだろう。学校での性教育実施をわれわれはあくまでも追求して行く所存だが、多分もっと別の名称に変える必要があるにちがいない。」とその決意を語っている。
住民家族計画庁は高校・大学の優等生を集めてチャンピオンチームを編成した。かれらの役割は周囲にいる同年代の若者たちの性的なことがらに関する愚痴や悩みやさまざまな話を聞き役になって収集すること。若者たちは同年代の仲間に対してホンネを吐く傾向が高いという実態に目を向けて考え出されたのがこの方式であり、この若者カウンセリングシステムには既に全国で1万6千人の若者カウンセラーが参加して大きな広がりを見せるに至っている。住民家族計画庁はこのシステムをさらに中学校とプサントレンまで下ろしていく計画を立てている。


「インドネシアも進学塾に大人気」(2013年4月4日)
2012年12月23日付けコンパス紙への投書"Bimbingan Belajar Lebih Kredibel"から
拝啓、編集部殿。学年末試験を前にして、普通科高校男女生徒が塾をにぎわしています。中でも大都市の人気高い塾では生徒たちがぎゅうぎゅう詰めのありさま。国立大学入学全国選抜テスト直前の数週間は、忙しさがピークに達します。
南ジャカルタ市で人気のある国立普通科高校では、国立大学入学全国選抜テスト前の1〜2ヶ月は教室が空っぽになる、と生徒のひとりが話していました。生徒たちは学校の教室内で授業を受けるよりも、学校の外にある塾へ行くのを選ぶのです。学校で授業を受けるより塾へ行くほうが自信がつくという生徒たちの態度を教師たちはもう諦めていて、何の措置も採りません。
多分世間の関心があまり注がれていないこの現象は実に興味深いものです。高校や中学の生徒たちにとって、塾の存在はもはやそれなしで済まないものになっているように見えます。国立大学入学全国選抜テストの日が近付くほど、学校でだらだらしているよりも塾へ行くのがはるかに有益だという気持ちが高まっていくのです。
学年末試験と大学入試の準備をするに当たって、塾は公的学校教育よりもはるかに信頼と信用を生徒から得ているという結論を世人はこの興味深い現象から引きだすことでしょう。これはインドネシアの中等教育に誤りがあることを意味しているのでしょうか?政府は、そして高校中学という公的教育機関の姿勢はどうなっているのでしょう?[ 南ジャカルタ市在住、ジョニー・スハルト ]


「デンパサルの女子高校生が全国トップ」(2013年6月6日)
2013年高校レベル学業修了国家試験の成績は合格率が99.48%にのぼり、よい結果が出たことを教育文化省は喜んでいる。受験生徒総数は1,581,286人、合格生徒数1,573,036人、不合格生徒数8,250人というのが実数だ。
この試験で全国の最高点を取った生徒はデンパサル国立第4高校のカデッ・ファニ・アプリヤンティで平均点は9.87だった。ファニは数学・物理学・生物学・化学・英語で10点満点を取り、インドネシア語が9.2点だった。次いでスラカルタ国立第1高校のアディティヤ・アガム・ヌグラハは平均点9.78で第二位を獲得。かれは数学と物理学が満点、英語9.8、生物学と化学が9.75、インドネシア語は9.4だった。そしてメダン私立メソジスト高校ヘレナ・マルタフリスカ・サラガ・ナピトゥが全国第三位。ところが驚いたことに、デンパサル国立第4高校からマデ・ヒヤン・ウィカナンダとルー・プトゥ・リンダヤニそしてプトゥ・シスカ・アプリリヤニの三人も全国トップ10に入ってきたのだ。
教育文化省が発表した学校別の番付でデンパサル国立第4高校が全国一の座に就いたのは、かれらが学友たちの試験勉強をリードしたことのおかげだろう。番付トップ10は次のようになっている。( )内は平均点。
1. SMA Negeri 4 Denpasar (9,17)
2. SMA Negeri Insan Cendekia Banten (8,93)
3. SMA Kristen 1 BPK Penabur Jakarta (8,88)
4. SMA Santa Ursula Jakarta (8,87)
5. SMA Negeri 1 Denpasar (8,81)
6. SMA Negeri 3 Lamongan (8,81)
7. SMA Negeri 1 Babat Lamongan (8,81)
8. SMA Negeri 10 Fajar Harapan Banda Aceh (8,79)
9. SMA Negeri 1 Kembangbahu Lamongan (8,78)
10. SMA Negeri 8 Jakarta (8,74)
全校生徒が合格した学校は1万5千校、反対に全校生徒が落第した学校は24校あった。


「堕落した若者の文学センス」(2013年10月02日)
若い世代の文学センスはまったく嘆かわしいレベルにあると文学界が慨嘆している。特に、映像にしろ文章にしろ、生活面の諸価値に迫ることよりもセンセーションをかきたてようとする傾向が著しく、精神的な深みが軽視されていることを文学界の重鎮たちは指摘する。
「安直なストーリーの映画が多すぎる。主人公の成功譚がドゥクンに手伝ってもらったものだなんて、若者の文学センスをぶち壊すものだ。一方、文章作品にもセンセーションばかりを押し出しているものが数多い。そのようなものは単なる娯楽用のものでしかなく、人生の諸価値を考えさせる面が不足している。」短編小説コンテスト『オボルアワード2013』を主催した実行委員長はそうコメントする。
そのコンテストに応募した作品のほとんどがそのような傾向を反映していた、と委員長は続ける。「若い人たちの作品は語彙が貧弱だ。それは、かれらが文学作品を読むことを面倒くさがっていることから来ている。必読の文学作品は決して膨大な数ではないというのに。文学センスを磨くことは、学校のインドネシア語の授業から始まる。ところが、学校で行なわれているのはカリキュラムをこなすことと国家試験への対応技術がほとんどを占めており、生徒たちが文学センスを高めたいと思っても適切なチャンスが得られない。」
『オボルアワード2013』で優勝したプラタマ・ステイアナンタも、昨今の若者たちは本を読もうとせず、テレビばかり見ており、ましてや文学作品を読む若者は滅多にいない、とその見解を裏付けている。


「JIS事件のとばっちり」(2014年4月24・25日)
5歳の息子を南ジャカルタ市チランダッにあるジャカルタインターナショナルスクール(JIS)の幼稚園に通わせているオランダ人とインドネシア人のご夫婦が、2014年3月半ばごろから息子の挙動が異常になっているのをいぶかしみ、母親が子供から事情を聞き出し、驚いた両親は医師の診断書等を用意した上で警察に届け出た。息子の話しによると、幼稚園のトイレで清掃員ふたりに輪姦されたという。
警察はただちに捜査を開始し、JISから校内清掃の委託を受けているクリーニングサービス会社の派遣員を連行して取調べ、被害者の少年に間接的に面通しさせたところ、被害者は男二人と女ひとりを指差した。結局その二人の男(それぞれ24歳)は犯行を自供したため犯人が確定したのだが、ひとりは独身でもうひとりは妻子がおり、警察が余罪を追及していたところ、やはりJIS幼稚園に子供を通わせている数軒の家庭から、被害の届出が出されたため、犯人はかなり以前からペドフィリア暴行を繰り返していたのではないかと推測されている。
JISは他のエンバシースクールと同じように、かつて欧米系ということだけで外部者からテロ襲撃を受けたことがあり、外部に対してきわめて厳重な警戒態勢を敷いてきたものの、外部との境界線にかける警戒のウエートを重くすればするほど境界線内部の警戒意識は弱くなるという鉄則どおりのことが今回起こったように見える。
今回の事件は犯罪傾向の高い社会であるがゆえに、いつどこで起こってもおかしくないものだという気がするのだが、ユニバーサルな観点から見るなら、JIS側に従業員管理と地所内の治安防犯の責任がないということは決して言えない。ただこの国でそれを完璧に実現させることの困難さは論ずるまでもないだろうし、JISでなくプリブミ所有運営機関で起こった場合にそのポイントはあまり執拗に追及されないのが普通であるようにわたしは印象付けられているのだが、やはりJISであったが故のことが展開されたようだ。
JISはインターナショナルスクールとして小中高校レベルの教育を実施することの認可を1977年に教育文化大臣から大臣決定書第0348/0/1977号で得ている。ところが、今回問題が起こった幼稚園部門は1992年に設立されたにもかかわらず監督省からの認可取得手続きを行なっていなかったことが判明した。この教育セクターを監督している教育文化省ノンフォーマル・インフォーマル・早期児童教育総局長は、1992年から運営を開始したJIS幼稚園は無許可であったことが総局内のデータから明らかだ、と表明しているのだが、無許可を放置していざ何かが起こったときに犯罪者にしようとする国民総犯罪者化という精神傾向をそこに見出すのはわたしばかりではあるまい。
無許可活動を行なっていたのであるから、処分を受けるのは必然の結果であり、同総局はJIS幼稚園の閉鎖を決定した。JIS幼稚園は現在14クラスあって、各クラスが15〜20人の生徒を擁している。既に教育年度の終わりに近付いているためそれまでの猶予を与え、年度が終了したら閉鎖されることになっている。
外国人が関わっている組織でこのような行政管理上の事件が起こると、その組織に許認可を与えている役所は、起こった事件とはまったく関係ない分野であろうと手続き漏れがないかどうかを再確認するのが通例だ。その場合、組織に関わる面だけでなく、そこに雇用されている外国人の身上に関する許認可もチェックの対象になる。JISで働いている外国人教職員はイミグレーションをはじめ諸監督官庁が細かいところまで根堀葉堀探りを入れることになるにちがいない。
教育文化省のデータによれば、全国にインターナショナルスクールという名称で運営されている学校は111ある。そして認可期限が来たためにその更新を申請している諸校のうちで、条件審査をパスした学校は25しかなく、他の学校は厳密に言うなら有効な認可を持たないまま運営されているため、無許可であるということになる。国民総犯罪者化社会というものが示す特徴がそれだ。
「すべての外国系学校に対して当方は、8つの教育規準を満たしているかどうかを早急に監査する所存だ。教育内容・教室での教育プロセス・修業レベルなどから経営に至る諸要素だ。ほとんどの外国系学校は1975年に定められた教育文化大臣・外務大臣・大蔵大臣の三大臣共同決定書にもとづいて設立運営されており、政府教育文化省が2010年政令第17号で新たに与えた条件を満たせば認可の更新が認められる。
政府の外国系学校あるいはインターナショナルスクールに対する方針は、国内優良校になるか、それともインドネシアと外国教育ユニットの間の共同運営校になるかのいずれかしか選択の余地がなく、三年間の猶予期間を過ぎれば、そのいずれかになっていなければならない。」と教育文化省ノンフォーマル・インフォーマル・早期児童教育総局長は語る。
憲法裁判所は、インドネシア国内にあるすべての学校に対してインターナショナルスクールという言葉の使用を禁止した。ところが外国系学校の多くは、期限がつけられていない1975年三大臣共同決定書を踏まえて依然としてインターナショナルスクールという名称を使っており、違反が行なわれている。無許可の学校はイリーガルなのであり、閉鎖されなければならない。ただし、今現在共同運営校に関する実施細則がまだ定められていないため、2010年政令第17号の施行ができない。現在あるインターナショナルスクールは、その実施細則が出されるまで猶予が与えられている。
しかし法的な態勢が整ってしまえば、すべてのインターナショナルスクールはインドネシア国籍の生徒を20%以上迎え入れなければならず、また教員も51%以上がインドネシア国籍者で占められなければならない。加えて、カリキュラムにも義務付けがあり、インドネシア語・宗教・国民制度・インドネシア史の四科目が必修となる。


「論文を書かない教員が80万人」(2014年5月2日)
国家公務員である教員は機能職に区分され、定められたグレードを上っていくことで役職に就くことができるが、そのグレードを昇っていく際の条件として論文の作成がある。教員機能職とクレジット単位に関する2009年官僚効用改善行政改革大臣規則第16号によれば、論文作成義務はグレード?Bと?、?Cと?D、?Aと?B、?Cと?Dに対して与えられており、この条件を満たさない教員が全国で80万人にのぼっていることが最近の報道で明らかにされている。
しかし、そこまでの話しだけでインドネシア人教員の能力や意欲を云々するのはいささか早計だろう。真面目な教員の多くは、その論文作成義務の実施プロセスに疑念を向けている。時間と費用がかかりすぎるというのがかれらの意見だ。論文テーマの提案を出して承認され、調査研究を経て書き上げられてから公表されるというプロセスに一年半ほどの期間をかけなければならない。テーマを学校に出しても、もっと新しいテーマにせよと言われて差し戻されることが何度も起こる。テーマが決まると調査研究の開始だが、生徒への教育や指導、そして教員としての諸活動を通常通り行なった上での調査研究であるため、時間とエネルギーの配分に無理はできない。公表という最終段階で、論文を書き上げて教員フォーラムで発表することにも困難がつきまとう。
そこまでプロセスを乗り切ったとして、公表は次の報告段階に至る。グレード?Bから?C・?Dへの昇格時の地元教育局への報告と、グレード?A〜?Dの本省への報告で、ビューロクラシーがプロセスを蝸牛の歩みにする。論文が及第か落第かがはっきりするまでに何ヶ月もの期間がかかるのだ。一年半を超える期間を経てやっと及第し、グレードがアップしても、それで得られる月給の増加はわずか3万ルピアでしかない。このような仕組みを合理的だと思う人間はまずいないから、そういう馬鹿げたことに時間とエネルギーを割くのを厭う教員が出現するのを避けることはできない。しかし、それを厭えばグレードがあがらないため、校長のような役職に就くことは不可能になる。
そういうシチュエーションに登場するのが代筆屋だ。大学の卒論や、大学講師の学術論文に至るまで、代筆屋はインドネシアの学術界に顕著な特徴をもたらしている。全課程修業の日が近付いてくると、どこの大学へ行こうが、学生に対する代筆屋の売り込みのないところはないと言って過言ではあるまい。教員の中にも、グレードアップのために代筆屋のサービスを買う者が出現する。ひとつのテーマに支払われる料金は5百万から1千万ルピア。わずか昇給3万ルピアのためにそんな出費をする者はいない。学校管理者の頂点に上りつめてからかれらがそんな出費の回収をどんな形ではかるのか、学校で行なわれているさまざまな不当行為がその答えを示しているのは疑いもあるまい。


「高校卒業失敗生は0.3%」(2014年5月26日)
2014年の全国高校修業国家試験を受験した2,804,659人の高校最終学年生の中で8,970人が不合格の判定を受けた。つまり、高校が卒業できなかったので卒業証書がもらえず、このままでは高校中退者と同じということになる。この高校レベルというのは、国立私立の普通科高校と職業高校そしてイスラム教学校で宗教面を主体にしながら高校のカリキュラムも教育しているマドラサアリヤの三つが含まれている。
もちろん高校の卒業判定は国家試験だけでなく学校での学習評価も加えられており、国家試験の成績が6、学校の評価が4というウエイト配分になっている。普通科とマドラサアリヤの卒業率は99.5%、職業高校の卒業率は99.9%だった。2014年の卒業率は2013年からほんのわずか低下している。今回の試験での平均点は6.12で前年の6.35から下がっており、教育文化省はその原因について難問率を10%から20%に増やしたためだと分析している。
今回の国家試験での最高点は、自然科学系がジャカルタの私立カニシウス高校男子生徒リヤン・アディティア・モニアガ君の58.05ポイント、社会科学系はヨグヤカルタ第1国立高校女子生徒ヌル・アフィファ・ウィディヤニンルムさんの55.85ポイントだった。
卒業に失敗した8,970人の州別分布は、普通科とマドラサアリヤの7,811人がアチェ785人、北スマトラ514人、東南スラウェシ490人、西ヌサトゥンガラ460人、東ヌサトゥンガラ448人、中部スラウェシ433人、職業高校は1,159人で東ヌサトゥンガラ133人、西カリマンタン117人、アチェ62人、東ジャワ61人、中部ジャワ58人、西スマトラ54人といった内容だった。


「インドネシアの大学は低評価」(2014年6月2日)
クアクアレリ・シモンズ社(Quacquarelli Symonds :QS)の世界大学ランキング2014年アジア編で、インドネシアの大学は評価が低かったことが明らかにされた。上位50大学の中にインドネシアの大学はひとつも見当たらす、上位100までレンジを広げて、やっと71位にインドネシア大学がひとつだけ登場する。100位を超えてどんどんインドネシアの大学を探していくと、バンドン工科大学が125位、アイルランガ大学127位、ガジャマダ大学145位といった名前をちらほらと見出すことになる。200位を超えたあたりに、ボゴール農大、ディポヌゴロ大学、パジャジャラン大学、250位を超えるとウダヤナ大学、ブラウィジャヤ大学などが登場している。
QS世界大学ランキングアジア編は2009年から開始され、その評価には、実業界から学術面での評価、学生教官比率、学術論文や研究成果、外国人教官や外国人学生の比率、外国との交換留学生の比率など9つのファクターが使われている。QSによれば、大学の優秀さというのは政府がリサーチと国際化プログラムにどれだけ注力しているかということのインジケータになっている由。
インドネシア大学は2009年から2011年までアジアのトップ50の中に毎年食い込んでいたが、それ以後トップ50に入ったことがない。インドネシア大学学長代行は、その種の国際評価は単なるインジケータでしかなく、そのランキングで何位になることを目標にするようなものではないと前置きしながら、インドネシアの大学界が抱えている問題点を表明した。
まずインドネシアの国立大学に政府が与えている資金が小さすぎることが挙げられ、大学活動を支える必要資金は大学が自ら手に入れることが求められているのだ。おまけに学生の納める学費は政府の監督下にあるため、不足資金集めは学生の側に負担させることができない。他の国ではたいてい大学の活動資金を政府が潤沢に用意しているため、大学は大学本来の責務に専念することができる。インドネシア大学の総活動資金のうちで、政府からの支給によってまかなわれているのは40%しかなく、不足分を補うために大学はリサーチ活動などを含むさまざまなビジネスを事業として行なわなければならない。マレーシアの大学は政府が総資金の8割を支えており、大違いであるとのこと。


「大学進学生の学科選びは時代遅れ」(2014年6月12日)
2014年の国立大学入学全国試験受験者は618,670人だった。その中で進学生たちが従来からあまり変わりばえのしない学部学科を選択していることが、教育界上層部に失望をもたらしている。この時代にこれから国家を発展させていく柱となる人材がどのような分野の専門家になってほしいのかということは、政財界から教育界に渡ってすでにコンセンサスが出来上がっているというのに、現実に生徒たちはいまだに過去から言われ続けてきたことを頑なに守っているように見える。国が必要としている人材は科学と技術そして農業分野の専門家なのであり、それが厚い層をなすことによって卓抜して優れた人材が輩出するようになる。いかに天才であろうと人材の層が薄ければ、たとえ高レベルに一度達したとしてもそのレベルを維持するのは不可能だ。
今年の進学生たちが選択した人気の高い学科は次のようなものだった。上から順に見ると、経営学・会計学・情報技術/コンピュータ/情報システム/情報工学・初等教育学・法律/法学・医学教育・心理学・通信科学・薬学・社会保健学となっている。
学生の多くは自分を取巻く環境で耳にする、将来にとって有利と言われている学科をただ盲従して選択する者が多数を占めており、大学は進学する生徒たちに、どの学科がどういう産業に関わっていて求人がどうなっているのか、またその学科を修了したらどのような職歴が扉を開いているのかということをもっと広範囲に告知しなければならない、と教育界関係者は語っている。
教育文化省高等教育総局長は、国が求めているのは科学・技術・農業分野専門家だが、国民はそれらの分野が難しいものであると思い込んでおり、そのような学科を目指すよりも名前の通った大学に入ることのほうを優先している、と述べている。その結果、技術工学専門家は人口1百万人あたり164人しか生み出されず、マレーシアの3百人に比べて半分程度しかない。韓国ではそれが8百人もいて、人材に関する国力差は隠しようも無いありさまだ。


「学校で宗教シンボル衣装を着けるのは自由」(2014年6月26日)
初等中等教育における生徒の制服について、宗教や信仰の関連で生徒が身に着けるものを学校側が強制したり、あるいは禁止したりしてはいけない、という国民教育相規則が出された。
初等中等教育段階の学校生徒にとっての学校制服に関する2014年教育文化大臣規則第45号によれば、ジルバブなどのような宗教上のアイデンティティを示す衣装は生徒の権利であり選択の結果であるため、それは保護されなければならないものであり、学校はそのようなものを生徒に強制してはならないし、また生徒が着用するのを禁止してはならない、とされている。モハンマッ・ヌー教育文化大臣はその規則について、「宗教や信仰を行なう者をわれわれは保護しなければならない。そのため、国立学校で頻?に起こるその種の論争に解決を与えるためにこの規則が制定されたのであって、この規定を順守しない学校は処罰される。」と言明した。
その規則の中では学校が生徒の制服を定める際のガイドラインも決められており、全国一律の規定として小学校は白と赤、中学校は白と青、高校は白と灰色の上下服を基本にし、毎週月曜と火曜および何らかの式典が行なわれる日はその全国制服を着用しなければならないと記されている。その制服の左胸には赤白の国旗をかたどったエンブレムが着けられ、国家を愛する精神を高めるための配慮もなされている。また学校の特徴を示す固有の制服を特定曜日に着用することも定められ、学校が地域的に独自の制服を決める自由も残されている。ムスリマ女子生徒のための制服もこの規則の中でガイドラインが設けられている。
この規則が出されたのは、国内の一部地域で依然として宗教差別につながる生徒の制服に関する論争が行なわれているためで、教育文化省は教育の場にそのような論争が持ち込まれることをこの規則でシャットアウトしようと考えているようだ。
「国民の間に団結を促し、社会疎外や抗争を抑制する意図でこの規則が出された。教育を受けるために学校内にいるすべての生徒には、自分の宗教や信仰に関して十分に保護され、争いや差別から免れている状態を用意してやらなければならない。」と大臣はコメントしている。


「口承文化と読書」(2014年7月2日)
2014年の中学レベル修業国家試験のインドネシア語の成績が芳しくないため、教育文化省は教育内容の見直しを行なう意向。生徒の日常生活におけるインドネシア語使用のコンセプトとコンテキストのクオリティ引上げがその内容。
成績が芳しくないとは言っても、全国総合での点数はアップしている。ところが州別に見ると、首都ジャカルタ・西ジャワ・中部ジャワ・ヨグヤカルタ・東ジャワ・ブンクルなど主要な地方での低下が目立っている。採点結果からは、非文学文章に対する添削問題の点数が最悪だったと報告されている。
国民問題オブザーバーのユディ・ラティフ氏は、教育プロセスというのは生徒に読み書きの習慣をつけさせることだ、と語る。「そのふたつの能力は研究を行なう際の基礎となるものだから、たいへん重要だ。読み書き能力の育成、中でもロジックの組み立て方や連続的な思考の流れの作り方を教えることが重要であり、重要であるがゆえに小さいころからそれを教えなければならない。読書をしない習慣は日本軍政時代に植えつけられ、それ以来インドネシアの伝統となってしまった。当時、日本軍は図書館をすべて閉鎖し、日本語以外の言語の書物を流通禁止にした。授業に使えるテキストがなくなったため、創造的な教師たちは生徒に作文を作らせた。そこから作文の伝統が生まれたが、読書はなくなった。その結果、学習評価やテストにダブルチョイスが生まれ、それが現在まで続いている。」
図書館、中でも学校図書室のあり方にもっと関心を払わなければ、生徒の読書習慣は育たない、とジャカルタ国立大学教育学部教授は語る。そこに置かれている本は教科書や副読本ばかりであり、生徒の読書意欲をそそる書物を置かなければ、読書好きは生まれない、と現在のあり方を批判している。


「インドネシアの教育トラップ」(2014年10月1日)
インドネシアの義務教育を現在の9年から12年にせよとの声が出されているのと裏腹に、実態は9年すら満たせていないというパラドックスを学術者が報告した。北スラウェシ州マナドのサム・ラトゥラギ大学に所属する研究者ふたりが全国8,801家庭に対して行った調査で集計されたデータによれば、一人当たりの平均就学年数は7.25年しかなかった。調査の対象にされた家庭は構成員が15歳以上のものをピックアップしてあり、現在義務教育就学中の子供がいる家庭は含まれていない。このインドネシアファミリーライフサーベイと名付けられた調査は第一回が2000年、第二回が2007年で、ことし2014年は第三回に当たり、7年おきに実施されている。
この調査を指揮したふたりのうちのひとりは、インドネシアの実態を見た場合、2000年と2007年の調査で得られた数値にもとづく指標としての最低就学年数平均は12.57年と想定されるにも関わらず、調査対象家庭数の93.6%にあたる8,238家庭の実態は7.25年であり、教育トラップの穴に落ち込んでいる事実が浮き彫りにされている、と述べている。都市部と地方部という居住地区別のデータでは、都市部は8.72年になっているが、地方部は6.03年でかろうじて小学校を出ているにすぎない状況になっている。指標と実態の差が大きければ大きいほど人材クオリティは劣悪だと判断され、インドネシアの人材クオリティ改善のために政府はもっとその点を努力しなければならない、とふたりは政府に要請した。
ふたりはその調査結果の原因分析について、各家庭の戸主の学歴が家族構成員の就学年数に大きい影響を与えていることを指摘している。もうひとつ異なる要因として、学校にある実験室・コンピュータ・図書室などの補助施設の充実度が生徒たちの就学意欲に影響を持っているとも語っている。それはつまり、学校数を増やすことよりも補助施設や設備を充実させることのほうが、国民の就学年数を高めることに役立つという意味である由。


「数学の話題が社会を沸かす」(2014年10月6〜8日)
ライター: バンドン工科大学数学自然科学学部教授、ヘンドラ・グナワン
ソース: 2014年9月30日付けコンパス紙 "Setelah Heboh 4 x 6 Vs 6 x 4"
この2014年9月に、わが国で稀有のことが起こった。インドネシア人が突然数学に関する論争を闘わせるようになったのである。単に、4x6なのか6x4なのかというのがそのトピックであるのだが・・・
ことの始まりは、小学校二年生の生徒に先生が与えた繰り返しの足算問題である。答えはまずその計算を掛け算の形に直し、そして解を出すように、というのが先生の指示だった。ある生徒はこう答えを書いた。
4+4+4+4+4+4=4x6=24
先生はその答えを間違いとした。正しくは6x4なのであり、4x6は間違いだというのである。その生徒の兄が抗議した。かれは先生が赤字添削した弟の答案用紙をソーシャルメディアにアップロードしたのだ。国中が沸き立った。地方自治体首長の任命を住民投票から議会での選挙に変更するという国家的な大議論が沸騰しているさなかであるというのに、国会議員までがその論争に加わった。実に劇的だ!
< いくつかのポイント >
上の問題に関するポイントはいくつかある。まず、このコンテキストにおける等号「=」の意味合いは何かということ。先生がその生徒の解を間違いとしたとき、先生は「=」を数学上で固有の意味である「〜とする」「〜と定義付ける」という概念を当てはめたのだ。「=」に含まれている「事実」あるいは「前提条件の帰結」というもうひとつの概念ではない。
たとえば、「n=1とするなら、n二乗=1である」という文章における最初の「=」と二番目の「=」は概念が異なっている。基数計算における4+4=8=10−2での「=」は定義付けでなく、同様に、4+4+4+4+4+4=4x6=24もそうだ。上のできごとで先生は生徒に4+4+4+4+4+4=6x4=24という解を要求したのだ。そこでの一番目の「=」が定義付けの意味になっていることにお気付きいただきたい。先生はこの出来事の前に、ふたつの正の自然数の掛け算を繰り返しの足算である(あるいは反対に繰り返しの足算が掛け算である)と定義付けたであろうことが推察される。
小学校二年生の生徒にとって、このことがらは手に負えない問題だ。「定義」という概念を用いることができるほど小学校二年生の生徒は成熟しているのだろうかという疑問がわたしにも湧く。「定義」という概念を、しかも限定的な用法で、生徒に使わせるのは、もっと上の学年になってからではあるまいか。ましてや、「=」のふたつの異なる意味をひとつの式の中で生徒に使わせようというアイデアにおいておやである。
定義というのは、合意なのだ。既に抽象思考を身に着けた大人である先生が、いまだに具象思考段階の真っ只中にある小学校二年生の生徒に、これからかれらの新しい知識になるものごとに関して合意するよう求める姿勢は賢明なものなのだろうか?わたしはちがうと思う。
おまけに、数学における定義というものはユニークである必要がない。同一のことがらに対して同等の定義がいくつも作られ得る。どうして、その中のひとつだけを強制するのだろうか?
次のポイントは、問題の提示のしかたに関するものだ。繰り返しの足算はもちろん掛け算の学習より前に行なわれる。しかし、先生が出したその問題を見るなら、掛け算が繰り返しの足算にとってのショートカットであるということだけがそこに示されている。更に、もし生徒がその解を4+4+4+4+4+4=6x4=24と書いたとき、定義である4+4+4+4+4+4=6x4からどうやって事実である6x4=24の解に到達できたのだろうか?
ここで示されるべき式は6x4=4+4+4+4+4+4=24が妥当なものなのではないかというのがわたしの考えだ。もちろん、そこに登場するふたつの「=」は異なる概念だという前提の上で。
< どのようにするべきか? >
では、どうするのが正しいのか、あるいはどうするのがベストなのだろうか?繰り返しの足算というのは、本当は掛け算の内容を明らかにするメソッドであると見るべきだろう。だからこそ、生徒が掛け算の学習に入る前に、繰り返しの足算が教えられているのだ。生徒が掛け算の学習に入ったとき、その内容を理解するための武器を前もってかれらに与えるのがその目的なのである。小学校一年生が足算をどのように学習したかを思い出していただきたい。生徒はまず、数の増加について教えられる。ブディはビー玉を5個持っている。お父さんがブディの誕生日にビー玉を10個くれた。ブディのビー玉は何個になったか?答えはもちろん15個だ。
生徒はその解をどのようにして得ただろうか?生徒は増加数列を使う。頭の中で5を記憶し、10は両手を使ったことをお忘れではあるまい。その次に、もっと効率的な方法を学ぶ。10を頭の中に置き、手で5を数える。それを計算式に書けば、最初は5+10=15となり、二番目の式は10+5=15となる。
さて、掛け算の学習に際しては、先生は繰り返しの足算を使ってそれを解くことを生徒に教えるべきだろう。掛け算の問題とはどのようなものなのだろうか?四辺形の土地の面積を求める問題が想像しやすいのだろうが、先生は小学校二年生の子供にとって十分に具体性を持つことがらを選択しなければならない。たとえば、床に貼られているタイルの数を数えるというようなことだ。一方向に6枚のタイルが貼られており、それが4列ある。生徒はそれをどう数えるか?
生徒はすでに繰り返しの足算を教わっているから、各列ごとのタイル枚数を数える方法が可能であり、6+6+6+6=24という計算がなされる。しかし、方法はそれだけではない。各列を横断して切り取れば4+4+4+4+4+4=24という方法も得られる。しかし頭がそこまで働かない生徒はタイルを一枚ずつ数えるだろう。1+1+1+1・・・・・=24。そのいずれもが正解なのである。
先生はさらに類似の問題を生徒に与えることができる。タイルを3列に貼ってみよう。一列には9枚のタイルを使う。タイルは何枚必要だろうか?そうやってタイルの数を数える遊びを行ってから、先生は黒板に4x6と書いて、その結論を教える。4x6の解はどのように求めるのか?さっきみんなで遊んだように、一列ごとに数えたなら6+6+6+6となるし、各列を横断的に切り取れば4+4+4+4+4+4ともなる。
生徒は、第一の計算式を4x6=6+6+6+6=24と書き、二番目の計算式は4x6=4+4+4+4+4+4=24と書く。そこで用いられている「=」は事実あるいは数え方に沿った帰結なのである。生徒の中には、6x4と書いたらいけないのかと質問する子もあるだろう。優しい先生はその生徒に、「縦横のどちらを先に書いても、その結果は同じなんだよ。だって、さっきしたこととまったく同じことをするのだから。さあ、ためしてごらん。」と教えるのである。
掛け算の問題として、別の問題を生徒に与えることもできる。たとえば10個の袋にビー玉を2個ずつ入れたら、全部で何個になるだろうか、という問題。そう、これはヨハネス・スルヤ教授が言う10x2の掛け算問題だ。
生徒の一部はその問題を2+2+・・・・・+2=20と答えるだろう。その生徒たちは、各袋の中身をひとつずつ数えている自分を想像しているのだ。別の生徒の中には、各袋から中身を全部取り出して次のように並べる自分を想像した。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
1 * * * * * * * * *
2 * * * * * * * * *
そして、各列ごとに数えるほうが簡単じゃないか、と考えた。最初の列は10個だ。次の列も10個だ。だから10+10=20になる。
< 理解を持たせる >
この一文でわたしが伝えたいのは、定義なるものをせっかちに弄ばないように、ということなのである。ましてや、相手が小学校低学年生なのだから。掛け算では、「定義」でなく繰り返しの足算をメソッドに使うようにしてほしい。そしてそのメソッドを原則に置いたなら、同じ結果に至る方法が必ずしもひとつでないことを忘れないで教えてほしい。そのアプローチに即して、4x6=6x4だという理解を生徒に持たせることを先生が行うよう、わたしは期待している。同じことは5+7=7+5という足算の例にも当てはまる。ただし4−2≠2−4というように、あらゆる計算式を同じようにひっくり返すのには無理があることも教えなければならないのだが。


「インドネシア文化に最適な読書園」(2014年10月15日)
市民の読書意欲を高めるためには図書館を、という発想はインドネシアの現状にまだふさわしいものでないのかもしれない。なぜなら、世界標準になっている図書館というものが持つ雰囲気とインドネシアの国民性がフィットしていないように思われるフシが多々あるためだ。少なくとも、世界のほとんどの国で標準にされているあの深閑として冷たい雰囲気の中で長時間居続けることのできるインドネシア人は少数派であるにちがいない。そしてその想像を裏書するかのように、インドネシアで公立図書館を利用する一般市民は数少ない。
ならば一般市民は読書嫌いなのかというと、そうとも言い切れない。市井の貸本屋は巷にいっぱいあるし、自治体が運営している移動図書館にも子供たちが大勢集まってくる。そして最近顕著に発展しているのが読書園だ。少なくとも、インドネシア人が書物を求めて集まってくる場所に、あの図書館が持っている「冷たく、深閑とした雰囲気」がないことだけは明白であるように思える。インドネシア人にもっと図書館を利用させようとするなら、図書館にパサルの雰囲気を持ち込まなければならないのではあるまいか?
最近、とみに活動が活発化している読書園(Taman Bacaan)は民間が運営しているもので、国民を書物好きに仕向けるために大きな役割を担っている。元来が口承文化の子であるインドネシア人にとって最初に接触する書物は教科書というのが国民の一般傾向だ。教科書は学校で行われる勉学のためのものなので、勉学が苦痛の子供たちにとっては教科書が楽しいものであるはずがない。つまり、生まれてはじめて接触する書物が苦痛をもたらすものとなるなら、そのトラウマは生涯かれらを書物から遠ざける働きをするにちがいないのである。それが基本線になっているインドネシアの読書文化を、他の国と同列に論じることはできないにちがいない。
そのようなひとびとに読書の楽しさを教えるのが読書園だ。運営者はたいていが読書好きで知識豊富な大人や青年であり、やってくるひとびとに読書の楽しみ方の手ほどきをしてくれる。そういう暖かい対人接触に満ちているため、読書園利用者は各地でうなぎのぼりになっている。
インドネシアの読書文化にある顕著な特徴のひとつは、書物から実用的な知識を得ようとする姿勢だ。たとえば、家庭ゴミで肥料を作ったり、ゴミや家畜の排泄物から調理用のガスを取り出すというような技術的で実用的なことがらへの興味が強い。そういう実生活に役立つ知識を得るための読書であるなら、その実用書をテキストにして実践してみるということが行われるのは自然の勢いだろう。今や読書園はそういう新知識実習の場が併設されるようになり、ヨグヤカルタのある読書園ではオーガニック肥料の作り方を農民たちが実習し、サラッ(salak)生産農家の多くは実栽培にそれを使うようになっている。
バリのギアニャル県にある読書園は、地元の小中学校生徒への支援を行っている。英語や絵画あるいは学校の勉強の補習などのために、青年や大人たちが書物から得た知識を応用して生徒たちを教えている。読書園は、知識を得るという方向性をベースに置いて人間同士の接触の場を用意し、書物がふんだんに利用できる環境の中で一般市民が書物に触れ読書に親しむ機会を作り出している。きわめてインドネシア的なこの読書園の機能を図書館に代替させるのは困難であるにちがいあるまい。


「大学生のアルバイト」(2014年11月7日)
インドネシアの大学生もアルバイトする者が多い。家庭教師・パートタイマー・記事や写真を紙誌に送って採用謝礼をもらうといったものから、習い事をマスターして舞踊や歌唱のステージに立ったり、あるいは催しものの司会をするなど、実に多岐にわたっている。得た金は学費に使ったり、中には将来のために貯金する者もいる。
ラフマさんはジャカルタのプルサダ大学心理学部の学生だ。小さいころから舞踊を習い、小学生時代に既にそれで報酬を得ていたという。小学生のときは母親が報酬をすべて握った。中学から高校時代にかけては、母親が報酬の半分をかの女に渡して、自分で稼いだ金の管理を行なわせた。大学生になったいま、かの女は自分が得た報酬のすべてを自分で管理している。かの女は現在、とあるプロダクションに所属していて、仕事は頻繁にやってくる。新製品発表会、地方都市での公演、そして外国での出演の仕事ももらったことがある。マレーシアで踊ったこともあるし、今年韓国の仁川で行なわれたアジア大会閉会式でも、かの女は踊った。報酬はたいてい学費と文房具や書籍の購入、そして舞踊のためのメーキャップに必要な化粧品に使われている。自分で得た金だという意識が、お金の使い方を合理的にしている、とかの女は自分を振り返って語る。
バクリ大学第5スメスターのアングンさんはヤングオントップというコミュニティに所属し、さまざまなイベントで仕事するようになった。ジャヴァジャズで場内ガイドをしたり、あるいは別の機会に司会者になったこともある。得た報酬は衣服や靴など、欲しいものを買うのに使っているそうだ。普段から化粧っ気のないかの女は、化粧品にあまりお金を使わない。インドネシア大学社会政治学部に在学中のアメリアさんは、サーベイ調査員の仕事を一回だけした、と語る。その報酬はジョグジャ旅行に使ったそうだ。それ以外にはあまりアルバイトに精を出すことはないらしい。しかし、そんな体験だけでも、かの女は自分の世界が広がったように感じたと述べている。
コンパス紙R&Dは2014年8月に、同紙のサーベイ活動に現場で回答集めを行なっているアルバイト学生からアンケートを取った。質問と回答は次の通り。
1)このアルバイトは学業に支障をもたらすか?
はい 2.6%、いいえ 97.4%
2)サーベイ活動のアルバイトをする目的は?
経験を増やすため 59.2%、報酬(小遣い)を得るため 40.8%
3)得た金の使途は何か?
貯金 53.9%
衣服や靴の購入 10.5%
キャンパスへの交通費 10.5%
書籍購入 7.9%
飲食 6.6%
大学教育拠金支払い 3.9% 
親孝行 2.6%
毎月の生活費の足し 1.3%
不明・無回答 2.8%


「教育学と経済学が国民のトップ人気」(2015年2月19日)
インドネシアには4,247の高等教育機関がある。国立と民間がユニバーシティ・インスティチュート・スコラティンギ・ポリテクニック・アカデミーなどの形態を設けて妍を競っている。それらの高等教育機関が設けている教育プログラムは総数で2万を超える。どの分野の教育プログラムが国民の人気を集めているのかについて、各プログラムごとの収容学生数は次のようになっている。
学術分野 : 全国プログラム数 / 学生数
教育学 : 4,202 / 1,322,048
経済学 : 2,845 / 955,446
工学  : 4,053 / 935,199
社会学 : 3,263 / 730,118
保健学 : 2.942 / 641,579
農学  : 1,477 / 230,365
数学自然科学: 751 / 137,652
人文学 :   618 / 119,668
芸術  :   299 /  42,048
宗教学 :   677 /  12,687
2015年1月21〜23日にコンパス紙R&Dが調査を行なった。例によって、ジャカルタ・バンドン・スマラン・ヨグヤカルタ・スラバヤ・メダン・パレンバン・デンパサル・バンジャルマシン・ポンティアナッ・マカッサル・マナドの住民457人に対して行なった電話インタビューで得られた統計が次のものだ。
質問1)お気に入りの教育プログラムは何か?
経済・経営 31.2%、医学・看護・保健 12.3%、工学(コンピュータ・建築・鉱業採掘等)9.6%、社会 8.2、法学 4.7%、教育教員養成 4.3%、数学・自然科学 3.9%、コンピュータ 3.5%、人文芸術 2.4%、ホスピタリティ(ホテル・観光) 2.3%、農業 1.8%、心理学 1%
質問2)お気に入りの国立高等教育機関は?
ジャワ島内 79.3%、ジャワ島外 6.7%


「ガジャマダ大がインドネシアの第一位」(2015年2月24日)
ウエボメトリクス2015年1月世界大学ランキングによれば、インドネシアにある401大学中でのナンバーワンはガジャマダ大学だった。世界のトップ1千大学に入ったのはガジャマダ大学が518位、インドネシア大学660位、バンドン工科大学704位、ブラウィジャヤ大学738位の四つのみ。前回のランキングでガジャマダ大学は世界の第414位につけていたが、今回は大きく転落した。
東南アジアでのランキングを見ると、ガジャマダ大学は9位、インドネシア大学13位、バンドン工大15位、ブラウィジャヤ大学16位、ボゴール農大27位といった内容。
ウエボメトリクスが毎年二回行なっているこのサーベイでは世界の2万3千大学が評価対象となっており、インドネシアの一流大学はそこそこのレベルにあるように見える。


「義務教育から落ちこぼれる子供たち」(2015年3月5日)
小中学校という義務教育年齢の子供のうちで490万人が学校教育を受けていない。中央統計庁と教育文化省教育統計データセンターが公表したそのデータでは、学校へ行けない子供たちのほとんどは一家の経済を助けるために働いており、子供たちに労働を強いる原因はさまざまであるとのこと。
たとえばアリヤント14歳。北ジャカルタ市プンジャリガンのスラム地区に住んでいるかれは、2014年初に学校をやめてからプルイッダム公園で観光ベチャ引きをしている。父親はプルイッダム公園の用務員で、二週間ごとに80万ルピアの給料をもらってくる。母親は肺病を患っていて、定期的に医療費を支払わなければならない。アリヤントは11人兄弟姉妹の末っ子で、その11人はひとりも小学校を卒業していない。アリヤントが学校をやめたのは落第したことがあるからだ。かれはそれを恥ずかしいと感じ、学校から遠ざかった。仕事をしているが、毎日稼ぎがあるわけではない。時に5千ルピアくらいを手に入れて、母親に全額渡しているそうだ。
中部ジャワ州ブルブスから上京してきて中央ジャカルタのプタンブラン地区に住んでいるチャリヨト42歳とその妻シティ・ロハニ38歳には娘が6人いる。チャリヨトの職業はくず拾いだ。娘たちの中の三人は小学校しか出ていない。今19歳・16歳・15歳の三人の娘たちは、中学校へ上がるのを拒否した。中学校へ行くのは嫌だという娘にわけを尋ねたところ、「考えるのがめんどくさいから」という返事がかえってきたと父親は言う。それ以外に、中学へ進学できるような試験の成績でなかったということもある。
今16歳の娘は、中学校へ行きたいとかつて母親に洩らしたことがあるそうだ。国立中学へ入れないから、私立へしか行けない。しかし私立は学費が高い。一日15万ルピア程度の収入しかないくず拾いの家庭では、子供を私立中学にやれる経済的な余裕はない。毎日の収入で、一日二回の食費と、ひと月40万ルピアの家賃をまかなうための積立をしなければならないのだから。
貧困のために教育が受けられず、学歴がないために良い収入が得られない。そういう悪循環の中にいる子供たちは、金稼ぎのための仕事を選り好みするわけにいかない。家庭プンバントゥや商店の店員など小さな収入でも職に就けるのはまだましということになる。
教育問題オブザーバーのひとりは、無料義務教育というのは歴史的な神話だと語る。「学費がなくなっても、学用品をそろえたり、通学のための交通費や食費を親がまかなわなければならない。ジャカルタの交通費はロワーミドル層から下の家庭にとって、相当に大きい負担になる。アンコッに一回乗るだけで2千ルピア。ひと月だと12万ルピアになる。そして食費。月収が100〜200万ルピア程度の家庭にとって、その費用は重いものだ。学校生活が子供にとって快適かどうかという別の問題がある。いじめ、友達ができない、教師との関係がたとえ悪いものでなくとも子供にとって魅力がない、といった要因も、経済的なことがら以外に存在している。それらの上にある決定的な要因が、子供の教育歴を親が重要視していないことだ。子供に教育を与えるために親の経済負担が増えることと、子供が学校へ行かずに働いて家計を助けてくれることによる親の経済負担の軽減という比較のし方しか知らなければ、親の姿勢がどうなるかは想像に余りあるだろう。」
同オブザーバーは、貧困の悪循環と教育観の悪循環が義務教育から落ちこぼれた子供たちの存在を恒久的なものにしている、と述べている。


「海外留学意欲の高いマレーシア」(2015年3月25日)
前途有為の青年たちに国外留学させ、グローバル社会にふさわしい国際感覚を持つ人間に育てて、国家百年の計を担う指導的国民の層を厚くしていこうとする政府の政策と、それを受けて子弟を海外留学させる国民の能力や態勢の相互がうまくかみあったところに、海外留学の波が起こる。
アセアン諸国の中では、海外に送り出している留学生数のトップはマレーシアで、二位はベトナム、インドネシアは第三位になっている。しかし国民人口に対する比率をそこに持ち込むなら、インドネシアはあまりよい顔もできないにちがいない。
まず、国民人口総数を見てみよう。
インドネシア 2億5千5百万人
フィリピン 1億3百万人
ベトナム 9千2百万人
タイ 6千8百万人
マレーシア 3千1百万人
カンボジア 1千5百万人
シンガポール 5百5十万人
ティモールレステ 1百2十万人
ブルネイ 4十万人
国別の留学生国外送り出し人数は次の通り。(2012年/2011年/2010年)
マレーシア 55,579/55,037/54,724
ベトナム 53,802/52,028/47,272
インドネシア 34,999/33,888/34,507
タイ 24,491/25,1919/26,366
シンガポール 21,777/21,053/20,382
フィリピン 11,210/11,668/12,026
カンボジア 4,287/4,189/4,108
ブルネイ 3,423/3,298/3,198
ティモールレステ 3,292/3,686/3,708
インドネシア国民一般の海外留学に対する印象はどのようなものになっているだろうか?
コンパス紙R&Dが2014年12月27〜29日に全国12都市住民652人に電話インタビューして集めた統計によれば、高等教育は外国のほうが優れているという印象を持つ回答者が多かった。
質問1)国内と外国で教育を受ける場合、どちらのクオリティが優れていると思いますか?
回答1)
小学校〜高校まで: 国外46.8%、国内29.8%、違いはない19.4% ディプロマ〜博士号: 国外53.6%、国内26.1%、違いはない16.3%
質問2)もしあなた自身あるいは家族のだれかが外国で教育を受ける機会に恵まれたとき、その機会をつかまえるかどうかの判断に、何を最優先ポイントとしますか?
回答2)
卒業生のクオリティレベル 25.6%
教育ファシリティや支援環境 24.1%
カリキュラムや専攻課程 16.9%
卒業生の就職が確実かどうか 10.7%
留学先教育機関の知名度やイメージ 7.7%
卒業生のネットワークがどうなっているか 5.1%


「暴力学校」(2015年3月25日)
学校の中に暴力がある。教師が生徒に与える仕置き、生徒間でのいじめや暴力。それを根絶するためには、学校・父兄・周辺社会が手を取り合って真剣に取り組む必要がある。インドネシア教員同盟とジャカルタ法律援護機関が共同で開催した「教育の場と暴力」と題する討論会で、世代が代っても生徒間暴力がいつまでも存続している現状についての情報と意見交換が行なわれた。
暴力の被害者となった生徒は、だれが加害者かを訴え出ることを恐れ、それどころか、暴力を振るわれた原因はお前にあるのだと悪者にされることをも厭う気持ちが強いため、なかなか実態を物語ろうとしない。そのような状態に陥った生徒にとって、学校は安全快適な場所でなくなり、勉強に身を入れるどころでなくなるのが普通だ。
人格教育オブザーバーのひとりは、学校内で暴力が存在していることを生徒ばかりか教師までもが当然視している、と昨今の状況を語った。「教師も校長も、いじめが行なわれているのを目にしても、黙っているばかりで何をしようともしない。加害者生徒にせいぜい軽い警告を与えるだけで、それ以上は何もしない。教育的な効果をにらんで罰を与えるようなことは、法的な責任追及が起こったときのことを考えれば、怖くてできないというのが自然な反応になるのだろう。」
2015年3月に公表されたリサーチ結果によれば、インドネシアの子供たちの84%が学校で暴力の被害者になっているそうだ。このリサーチはインドネシアのジャカルタとセランの他に、ベトナムのハノイ、カンボジアのシエムリアップ、ネパールのスンサリ、パキスタンのウメルコッでも行なわれ、12〜17歳の学校生徒、生徒の父兄、教師、校長の総勢9千人がその調査の対象になった。それら全体の平均が70%だったことから、インドネシアは他国に比べて学校内での暴力行為が普通になっている国なのだという印象を関係者に与えている。
いじめは暴力を生み出す源泉であり、物理的心理的社会的ないじめ行為が克服されないかぎり、タウラン(集団喧嘩)やリンチなど一層激しい暴力へと発展していく。そのために現場の教育者はまず自分のいる環境にいじめ行為が存在していることを認め、いじめが撲滅されるべき共同の敵だという意識を持たなければならない。これまで生徒父兄と学校との間に信頼関係が育まれていなかったことが、いじめ行為を克服するための弱点になっていた、とNGO関係者たちは指摘している。
折りしも、西スマトラ州パダン市の第31国立中学校で、生徒同士の暴力事件があり、被害者生徒が脳内出血で重態に陥っている事件が報道された。事件発生は2015年3月12日のことで、8年生の生徒K14歳が同級のF13歳に1千ルピアを寄こせと命じたのがその発端。インドネシアの子供たちによく見られるのは、他の子供たちに対する金品の強要で、応じない子供は暴力の標的にされる。これは強盗恐喝行為の萌芽なのだが、周辺の大人たちは「子供がすること」と言ってそれを放置する傾向が高い。社会の中でそのような行為がまかり通っており、昔は運動靴が高価だったために道路を歩いている少年に暴力をふるって運動靴を取り上げるようなことも実際に起こっていた。インドネシアに住む場合、そういうワルがいる地域では、良家は子供をひとりで外へ遊ばせに出すことをほとんどしない。
FはKの要求を拒絶し、口喧嘩になったとき、突然KがFの頭を強打したためにFは意識不明になって床に倒れた。Fの母親によれば、息子の首と頭に打撲の痕があるとのこと。学校側はその事件を既に公にし、生徒双方の父兄と連絡を取っている由。


「海外留学の最大障害は何か?」(2015年3月26日)
中高レベルあるいは大学生、企業や行政機関などの職員が海外留学する際に、何が一番の問題になっているのだろうか?過去の留学生の実態についての情報が蓄積されているインドネシア共和国教育文化省ノンフォーマル・インフォーマル・早期教育総局によれば、留学生の英語実用能力が最大の障害になっているとのこと。
低学年の子供たちの国外留学は家庭の意向が反映されるケースが多いが、そのような家庭は一般的に両親の知的レベルが決して低くないため、子供たちの知的能力も決して劣ってはいない。ましてや、大学生や企業職員が選抜されて海外留学の機会を与えられるというのは、その知的能力が人並以上であるのが普通だ。そういう決して頭の悪くない人間が海外へ勉強に出て、十分な成果を獲得できないのは、言葉の問題、つまり英語の実用能力に不足があるためだ。
2009年に国家開発企画庁がオーストラリア大使館およびオランダ大使館の協力を得て海外留学生の調査を行なった際、海外留学で留学生が最も困っている問題のナンバーワンが言語であることが判明した。そのため海外留学生送り出しにあたって留学生の外国語能力、少なくとも英語、の実用能力を優れたレベルまで高めておかなければ、留学させた効果が劣化してしまうことを政府は関係諸方面に警告している。
世界の63カ国で英語教室を運営している国際英語教育機関EFエデュケーションファーストが2014年にその諸国の一般国民が持っている実用英語に関する能力を調査して番付をつけた。言うまでもなく、その63カ国というのは英語を母語としていない国々であり、たとえ英語が公用語のひとつになっていたとしても全国民が均等に英語を日常用語のひとつとして使っているわけでない国だから、そこに英語学習の需要が起こって英語教室の運営が行なわれるという現象が出現するのである。観念思考ばかりしている人間にはそういうメカニズムが想像の中にすら出現せず、具体性のない言葉の玩弄に精を出すばかりだから理解しきれないものになるのは間違いないだろう。
アジア・ヨーロッパ・中南米・中東・北アフリカそしてBRICを含む63カ国中でインドネシアは28位となった。ミドルクラスだ。東南アジア域内ではマレーシア12位、シンガポール13位といった上位者がおり、歴史的文化的に英語が国民の日常生活内に溶け込んでいるそれらの国に比べたら、インドネシアがずっと下に位置付けられるのは当然だと言えよう。
言語能力というのはきわめて大きな個人差を抱えているため、この種の国民比較をするとたいがい、ミスリーディングを引き起こして奇妙で歪んだ解釈を現実生活にもたらすことが多いため、データの使い方にはよくよく注意しなければならない。統計を作って公表したひとびとはそれをわきまえていると思われるが、そのレベルに達していない人間が山のようにいることを、ひとは往々にして忘れがちになるということだろう。
EFエデュケーションファースト役員のひとりは、英語教育というのは教員の能力が生徒の能力向上に大きな影響を与えるものであり、生徒の能力云々より前に教員の能力を高めることを優先しなければならない、と述べている。


「女性の修士・博士が少なすぎる」(2015年4月21日)
インドネシアの女性総人口のうちで小学校教育を終えた者は52%しかいない。年齢ブラケットが高いほど、そのパーセンテージは低下していく。つまり現在の老齢女性の大多数が学校教育を受けなかったということであり、インドネシアのその比率は驚くほど低い。インドでさえ61%あるのだ。女性の公教育というものをインドネシア社会が重視していない事実がそこからわかる。
類似の構図は大学教育にも顕れている。大学の学士課程の上に修士そして博士という上級資格が設けられているものの、いったいどれだけの女性が上級資格にチャレンジしているだろうか?教育文化省高等教育総局のデータによれば、2014年の学士号取得女性は239,339人いた。そのうちで修士課程に進んだ女性は516人しかいなかった。過去十年間の統計を見るなら、修士課程に進む女性は7%、そこから更に博士課程に向かう女性は3%しかいない。
調査研究に現を抜かすよりも、早々に結婚して子育てを行なう女の責務のほうが大切であり、それが幸福な人生に向かう王道であるとインドネシア人女性たちは考えているのだろうか?あるいは父権制社会が女性にそう思うように仕向け、思考をそんな方向に誘導しているのだろうか?
教育文化省ユネスコ国家コミッション長官は、男性に混じって調査研究の世界に邁進している女性たちの能力は決して男性に劣るものではないが、残念ながら人数があまりにも少ない、とコメントした。それはつまり、学術分野から産業経済分野に至る知的専門家の中の女性の層がインドネシアはきわめて薄いことを意味しているのではないのだろうか?女性政治家や女性実業家が多数活躍しているという事実と女性修士・博士がたいへん少ないことの整合性はどこにあるのだろうか?


「外国人留学生が増加」(2015年5月25日)
インドネシアの大学に留学する外国人は年間6千人にのぼる。たとえばヨグヤカルタの国立ガジャマダ大学には外国人留学生が2千人近くおり、日本人・オーストラリア人・東南アジア諸国の学生がメインを占めている。かれらはさまざまな奨学金制度や自費でインドネシアに学びに来ているのだ。短期留学や交換留学などのプログラムもある。ガジャマダ大学側も国際バチュラー資格をいくつかの学部で用意している。
バンドンのパジャジャラン大学には外国人留学生が1千3百人いる。そこでも、国際資格が認定されている学部学科に人気が集まっている。外国人留学生が増加し始めたのは2000年ごろからで、一番多いのはマレーシア人だが、最近はフィリピン・タイ・中東・アフリカなども増加し始めているそうだ。
ジャカルタ国立大学には外国人留学生が7人いる。かれらの中には入学選抜試験を通って入ってきている者や、言語文化学習奨学生プログラムで入ってきている者があるとのこと。
外国人留学生の増加はインドネシアの大学教育クオリティが国際社会で認められていることを示すバロメータだ、と大学教育オブザーバーであるバンドン工科大学教授は語る。しかし、本当に優秀な学生ばかりが集まってきているのだろうか、と教授は問いかける。
「外国人留学生の受入れは、適正で厳格な審査選抜を通して行なわれるべきだ。キャンパス内でインドネシア人学生に優れた知的影響を与えるためには、そのプロセスを経ることが必要不可欠なのだ。」
大学にとってのビジネスと、それをどのように教育クオリティに結び付けていくかという二本立ての視点が今や強く求められているということなのだろう。


「大学教育クオリティが停滞」(2015年5月26日)
QS世界大学ランキングトップ500に入るインドネシアの大学が減っている。数年前は6つの大学名を見出すことができたリストも、昨今ではインドネシア大学とバンドン工科大学しか見当たらなくなっている。政府はガジャマダ大学、ボゴール農大、アイルランガ大学などの名前をそのリストに復活させるための戦略を検討しつつある昨今だ。
それほどまでにインドネシアの大学はグローバルレベルで進歩が色褪せてしまったという印象を与えている。大学のクオリティ評価に使われるインデックスのひとつ、出版物のボリュームをとってみても、スコーパスはインドネシアのトップ10国立大学の出版物合計は1万4千件しかなく、マレーシア国民大学が単独で1万8千件も実績を持っているのと比較するだけでクオリティレベルが見えてくる、とコメントしている。
国際舞台だけでなく国内でもやはり同じで、クオリティの停滞現象は学術界と行政をやきもきさせている。特にジャワ島内と外島のレベル差は拡大する一方だ。大学認定国家庁の2014年データによれば、全国にある4,274大学のうちで国家認定を受けた大学はまだ164しかない。そしてA級認定を受けた外島の大学は2大学しかないありさまだ。科目認定も同様で、外島の大学でA級認定を得た科目数は223件に過ぎず、ジャワ島内の1,478件に対して15%でしかない。
高等教育修了者を作り出し、あるいはリサーチを行なうのが大学の使命だった時代はもう過去のものであり、今ではイノベーション・プロフェッション・インダストリーを興隆し、国際経済面の強化をはかって国民福祉を向上させることに使命がシフトしている。大学のクオリティ向上は国家繁栄の基盤である、とリサーチテクノロジー高等教育省高等教育総局官房は述べている。


「国際競争力ある人材」(2015年5月27日)
世界経済フォーラムが行なっている国別競争力評価の中で、その国の生産性を左右するいくつかの項目についての分析があり、その中には大学教育のクオリティも含まれている。2013/14年度と最新の2014/15年度の順位を比較して見ると、インドネシアは上昇していることがわかる。アセアン諸国のランキングは次のようになっている。
国名: 2014/15年度ランキングとスコア (2013/14年度)
シンガポール: 2位 6.09ポイント (2位 5.91ポイント)
マレーシア: 46 4.80 (46 4.68)
ブルネイ: NA NA (55 4.52)
タイ: 59 4.58 (66 4.29)
インドネシア: 61 4.53 (64 4.30)
フィリピン: 64 4.45 (67 4.28)
ベトナム: 96 3.74 (95 3.69)
ラオス: 110 3.28 (111 3.31)
カンボジャ; 123 2.92 (116 3.12)
ティモールレステ: 133 2.52 (134 2.63)
ミャンマー: 135 2.44 (139 2.52)
*2014/15年度のランキングは144ヵ国中の順位。
*2013/14年度のランキングは146ヵ国中の順位
シンガポールは上のように世界第2位という評価を維持しているが、インドネシア人もそのことは重々承知しており、幼稚園の年代からシンガポールに子供を住まわせて教育を受けさせているインドネシア人家庭さえ存在している。シンガポールで教育を受けている外国人学生生徒の数はもちろんインドネシアの比ではないが、インドネシア人はむしろそこでの外国人学生生徒数の大きいシェアを担っていると言える。
年: インドネシア人 / 非インドネシア人
2011: 21,000 / 26,915
2012: 20,000 / 32,959
2013: 24,000 / 24,938
コンパス紙R&Dがインドネシア国内12都市住民652人から集めたアンケートでは、アセアン諸国の教育レベルナンバーワンは55%がシンガポールと答えたが、インドネシアと答えたひとは22%いた。マレーシアが一番と答えたひとは10%で、インドネシアと答えた人より少なかった。
上のアンケート調査からほぼ半年後にコンパス紙R&Dが行なった調査で426人から集めた回答からは、「インドネシアの現在の教育クオリティでグローバル競争力を持つ人材を生み出せるか?」という問いに悲観的な意見を示したひとが過半数を占めた。まだできないという回答は51.6%、できるという回答は43.7%、不明・無回答は4.7%だった。


「中国が人気留学先に浮上」(2015年6月12日)
中国の大学に留学するために故国を離れたインドネシア人青年の数は2010年以来13,689人に達する。中国の国際舞台における顕著な活躍がインドネシア人青年層に新たな国外留学先の出現を促しているようだ。
中国の経済力の強さや、文化的言語的にあまり違和感を抱かない印華人家庭の子女が中国へ留学する例は昔からあったが、昨今の留学生増はプリブミインドネシア人にまでその選択肢が広がってきていることを示すものであるにちがいない。
これまでインドネシア人学生生徒の海外留学先は米国・ヨーロッパ・オーストラリアがメインを占めていたが、昨今は中国が年々10%の上昇率でダッシュしてきている。
留学先の著名大学でインドネシア人学生が選択する学部は中国語あるいは中国文学が多かったが、その傾向はいまだに継続しているものの、技術工学や産業系あるいは医学を選択する学生も増えつつある。
中国を留学先に見定めるインドネシア人学生生徒たちの声を聞いてみると、中国文化、特に芸術分野を深く理解し、中国人の勤労精神が形成された過程をその関連から分析したいというインドネシア大学中国文学部在学中の学生や、あるいはある大学の物理学コースに在学中の学生は「現在の物理学の巨峰はドイツと中国であり、修士課程は中国で修めたいと考えている。」と述べる者もいる。中国の大学の多くは文化系の国際単位認定を持っており、それが学生たちの間で言語や文化の修得を希望する傾向を生んでいる要素のひとつになっているようだ。


「特定宗教に偏った国家試験問題」(2015年10月20日)
2015年5月13日付けコンパス紙への投書"Soal UN Abai Keindonesiaan"から
拝啓、編集部殿。最近の中学校修業国家試験国語問題の中で、わたしは第29番の問題を読んで唖然としました。生徒に対して、ジルバブを着る手順を正しく並べるよう求めている内容がその第29番の問題です。
1.首の部分を整え、後頭部を安全ピンで留める。
2.ベルゴ(クルドゥン)を着ける。
3.縁をすべて整え、見映えをよくする。
4.そしてベルゴの一辺を引上げてまち針で留める。
インドネシア人はもちろんジルバブを知っていますが、その着用手順を全国民が知らなければならないのでしょうか?
正直申し上げて、わたしは心穏やかでありません。国民教育省R&D庁教育評価センターが2007年に出した問題作成の手引きにはこう書かれています。「優れた問題は素材・構成・言語の関連性に留意したものである。また、全員に当てはまるべく、一般性を有していること。」
実態は、さまざまな種族・宗教・人種・階層で構成されているインドネシア性という面の意識がこの問題の作成者には欠けています。このようなことが再発しないよう、希望します。[ 南タングラン市トゥナスインドネシア中学校、ロベール・バラ ]


「教授を増やせ」(2015年11月18日)
インドネシアの大学教育界では現在、23,076件の教育コースが開かれている。分野別の明細は次の通りだ。
教育学系 4,802
工学系 4,359
社会科学系 3,539
医学系 3,110
経済学系 3,052
農学系 1,573
数学自然科学系 838
宗教学系 799
人文学系 662
芸術学系 341
言語学系 1
一方、教官の数はストラタ3(S−3=博士号)を持つ者が24,642人いる。更に国内の博士コースに就学中の者が2,631人いて、妥当な層の厚さを示している。常勤教官は187,475人、非常勤教官は32,951人だ。ところがプロフェッサーの肩書きを持つ者は全国に5,133人しかいない。2014年は4,792人だったから、一年間で341人増加した。とはいえ、教授の層が薄すぎる、という悩みがいま大学教育行政を襲っている。
マナドのサムラトゥラギ大学学長は、S−3を持つ教官たちに対して教授の肩書きに挑戦するよう薦めている、と述べている。教官たちはそれに応じて適宜学長の助言や指導を受けてそれにアタックし、15人の教授が新たに生まれた。同大学には83人の教授がおり、今後年間15〜20人の教授を誕生させる、と述べている。
だが、困難がないわけでもない。教官の中には、S−1からS−3までの同一分野における連続性の条件を満たしていない者が散見されているし、中にはプロジェクトを担うことのほうが実質収入が大きくなるために研究や学術論文などに精を出す時間が惜しい教官もいる。後者の問題に対しては、政府はプロフェッサーの肩書きに対してより大きい報酬を与えるよう給与体系を改定している。
それよりもっと本質的な問題として上がっているのが、教授選考の際の評価基準のバラつきだ。「あんなに若くて、もう教授かい?」「わたしを教授にしたくないようだ。」「最近売り出し中のあの政治家は、いきなり教授になったぞ!」
そんな声が学術界でときおり飛び交っている。政府は「教授を増やせ」と大学界に呼びかけるばかりでなく、その問題も整備していかなければならないだろう。


「良き国民を育成するには」(2016年2月15日)
教育文化省は国民の読書習慣を涵養するため、全レベルの学校生徒に毎朝授業の前の15分間、教科書以外の読書を行うことを命じた。
それとは別に、国民が郷土と祖国をより深く愛し、また道徳的な社会生活を身に着けるよう、教室内で生徒たちが行うべきいくつかの作法をも命じた。
生徒たちは第一時間目の授業が始まるとき、一斉に祈りの言葉を唱和する。唱和の指揮は、教師の指導下に生徒が順番に回りもちで行う。そして、国歌「インドネシアラヤ」および/あるいは国民歌、あるいは祖国愛を鼓舞する最新ヒット曲のいずれかを斉唱する。
その日の授業が終了したとき、郷土の歌を斉唱し、祈りの言葉を唱和する。その指揮も生徒が、教師の指導下に順番に回りもちで行う。
コンパス紙R&Dが2016年1月27〜29日に全国12都市住民622人から集めたアンケートでは、アニエス・バスウェダン教育文化相の方針が国民に好評で受け止められていることが明らかになった。
質問1.国民歌を生徒たちに教えるのは、祖国愛の心情を養うのに有効だと思いますか?
回答1.有効77.8%、効果的でない21.1%、不明無回答1.1%
質問2.国旗掲揚や国民歌の斉唱のほかに、祖国愛を深めるための活動は何ですか?
回答2.
年齢17〜29歳;各地を訪れてそこの文化を知る31.5%、博物館見学24.6%、芸能/文化活動に参加する18.5%、家庭や学校で祖国愛を教育する8.5%、その他16.9%
年齢30〜49歳;各地を訪れてそこの文化を知る26.9%、博物館見学34.3%、芸能/文化活動に参加する13.4%、家庭や学校で祖国愛を教育する12.0%、その他12.0%
年齢50歳超;各地を訪れてそこの文化を知る29.7%、博物館見学26.1%、芸能/文化活動に参加する14.1%、家庭や学校で祖国愛を教育する13.4%、その他12.4%


「お好みは同質画一性」(2016年3月14日)
政府は学校生徒に制服着用を義務付けている。国立の学校は政府がデザインを決め、私立の学校は学校独自でそれを決めるが、ともかく生徒は制服を着て登校下校しなければならない。6−3制義務教育を高校まで延ばそうとしている一方で、制服は無料支給されないのである。貧困ライン周辺の家庭に生まれた子供も通学する義務を負わされるものの、制服着用を強制されて経済能力が追い付かなければ、義務不履行に向かわざるをえない。そんな仕組みはおかしい、と考えるひとが出てくるのも無理はあるまい。
貧困家庭のために制服制度は廃止せよという声は昔からあった。しかし私服を認めれば、教室内に貧富の差が歴然と同居するようになる。少数の最貧層を切り捨てるか、ミドルクラスの親に華美競争の負担をかぶせていくかという選択のいずれに、だれがどのように賛同していくのだろうか?
コンパス紙R&Dが2016年2月24〜26日に国内12都市に住む602人から集めた回答結果は次のようになった。
質問1.学校生徒の制服着用義務について、インドネシアにもっとも適しているのはどれですか?
回答1.毎日制服着用81.6%、私服通学日がある13.5%、毎日私服で整った服装3.5%、不明無回答1.4%
質問2.制服着用のメリット・デメリットは?
回答2.
メリット:貧富の差を覆う41.0%、生徒というアイデンティティを見分けやすい30.4%、規律を身に着けさせる21.6%、ふさわしくない服装を避ける4.2%、不明無回答2.6%
デメリット:出費が小さくない30.6%、子供の表現の自由/創造性を束縛する12.1%、学校間競争やタウランの発生を招く9.5%、不明無回答47.8%
デメリットに関する不明無回答の多さは、一考に値するにちがいない。


「日本は第二位の人気留学先」(2016年5月16日)
コンパス紙R&Dが2016年4月27〜29日に、全国12大都市在住者564人に電話インタビューして集めた統計によると、魅力を感じる留学先国のトップはオーストラリアだった。詳細は次の通り。
質問: どの国への留学生募集がもっとも魅力的ですか?
回答:
オーストラリア 14.4%
日本 12.8%
ドイツ 12.6%
米国 12.4%
シンガポール 5.3%
イギリス 4.8%
その他 16.4%
不明・無回答 21.3%
政府のインドネシア国民に対する海外留学オファーはさまざまな政府機関が実施しており、往時にくらべて門戸は広がっていると言えるだろう。しかし同じアセアン加盟国の中で、年間にはるかにたくさんの留学生枠を用意している国があるのに比べたら、インドネシアはまだまだ少ないという意見もある。当のインドネシア国民はそのポイントをどう感じているのだろうか?
質問: インドネシア国民は、他のアセアン加盟国民にくらべて海外留学の機会を得るのはむつかしいですか?
回答: むつかしい 45.9%、より容易 40.0%、 不明・無回答 14.1%


「やりすぎたのは、どっち?」(2016年6月16日)
西カリマンタン州クブラヤ県トゥルンタン郡スガイラダッ第2国立小学校の資格外女性教員に、担任している生徒の親が暴力を振るった。インドネシアの公式な教員はすべて教員資格を持つ国家公務員だが、絶対数が不足しているため、教員資格の有無にかかわらず非公務員が雇用されて教壇に立っている。資格外教員とはその非公務員のこと。
資格外教員のジャミラさん39歳は5年生のクラスを担任している。クラスの生徒の中に長髪の子がおり、風紀統制の上で見栄えのあまりよい状況でないために、生徒に髪を短くするよう注意した。ところが生意気盛りの生徒たちは、先生の言うことを聞かない。ジャミラ先生は3回注意を与えたのに生徒たちに無視されたから、実力行使に出た。
16年5月のある日、ジャミラ先生は長髪生徒の中の数人を呼んで、みずから鋏をふるい、生徒の髪を切った。髪を切られた生徒のひとりが、親に憤懣をぶちまけたから、その父親も怒った。その父親39歳は、鋏を持ってジャミラ先生の自宅を訪れ、息子の仇を討った。つまりジャミラ先生を押さえつけて、抵抗するかの女の頭髪に鋏を入れたのである。息子の担任教師にそのような無礼を働いた親は、その父親だけだった。他の髪を切られた生徒の親は、そのような反応を示さなかった。
この事件にインドネシア共和国教員ユニオントゥルンタン郡支部は激しく反発した。「義務教育における学校教員に生徒の父兄が暴力を振るうとはなにごとか!」と言うのである。ユニオンは被害者のジャミラ先生に警察への訴えを勧め、警察に対して加害者父兄に法的措置を執れ、と要求した。資格外教員であってもユニオン会員なのであり、児童教育に奉職している教員は保護されなければならない。そのような父兄の子供は教員の指導を尊重しなくなり、教育成果が上がらなくなることが深く懸念される。このような事件を放置すれば、学校教員の威厳は世の中から消滅し、それが教室での生徒の意識に影響を及ぼさないはずがないというわけだ。
クブラヤ県警トゥルンタン署は捜査に乘り出し、暴力行為が行われたことを示す証拠がそろったことから、生徒の父親を容疑者指定して逮捕した。警察が確保した証拠とは、犯行に使われたはさみ・目撃者三人の証言・被害者の髪を切られた頭の三つ。容疑者は抵抗せずに、おとなしく逮捕された。
容疑者は警察の取調べに対し、先生が息子に対して勝手なことをしたので腹に据えかね、仕方なく同じことをしてやった、とその動機を述べた。「ジャミラ先生は生徒の素行をどうして親に連絡しなかったのか?そうすれば親が必要な措置を執るだろう。生徒の髪の毛を自分で切るようなことをしないでよいではないか?」
この父親の行為は刑法典第351条と第335条に触れると警察は表明した。前者は最長5年、後者は最長1年の入獄刑だ。警察は調書をまとめた上で送検することにしている。


「暴力学校」(2016年6月17日)
学校教員が長髪生徒の髪を自分で切るという措置はしばしば起こっている。そして、それがゆえに警察に訴えられて処罰を受けた教員もいる。先生もいつ被害者になったり、加害者にされるかわからない。
2012年3月には西ジャワ州マジャレンカの小学校教員が、長髪生徒4人の髪を切った。4人のうちのひとりがその措置を容認できず、親に憤懣をぶちまけた。ジャミラ先生のケースとまったく同じだ。そのときは、親が教員の行為を行き過ぎだとして警察に訴えたために教員が加害者とされ、教員は逮捕されて裁判にかけられ、有罪判決を受けた。
2016年4月には、南スラウェシ州スラヤルの中学校で宗教教員が生徒を虐待したと訴えられ、有罪判決を受けた。次いで5月には南スラウェシ州バンタエンの中学教員が、生徒をつねったり叩いたりしたと訴えられ、有罪判決を受けている。そして6月、南シンジャイ国立高校教員が生徒に対して傷害事件を起こしたとして訴えられ、これも有罪判決を受けた。傷害事件とは言うものの、これも長髪生徒に対する散髪体罰で、教員がはさみを持って生徒の髪の毛を切ろうとしたところ、生徒が手ではさみを払ったために怪我をした、という事件だ。それで教員に非があるとされるのだから、教員は生徒に体罰を与えることを躊躇するようになる。果たして法廷で判事がそこまで狙って判決を下したのかどうかわからないが、教員が生徒に体罰を与えることは頻繁に行われており、往々にして行き過ぎたものになることが少なくなかった。生徒たちにとって、上級生や同級生からの侮蔑・いじめ・虐待・喧嘩・しごき・搾取・セクハラ・レープ・SARAベースの暴力、学校間タウラン、そして先生からの体罰、などが渦巻いている学校という場所は疑いもない暴力世界であり、学問を学ぶことに並んで、いや時にはそれ以上の優先度で、暴力世界で自分がどう身を処していくかを学習訓練される場になっている。
教育文化省データによれば、インドネシアの学校生徒の84%が何らかの暴力被害者になっており、50%がいじめの被害者になったと告白している。インドネシアには「籐棒の先端には真珠がある」ということわざがある。イスラム宗教法廷でむち打ちの刑が下ると、むちでなく籐棒で背中を打ち据えられる。学校でもそれに倣って先生が生徒に棒叩きの体罰を与えるのだ。
教員はさまざまなことがらを考慮した上で生徒に体罰を与えるのだが、少なくとも生徒に対して先生はそうする権利を持ち、生徒のためになることだと信じているひとが多い。
アニエス・バスウェダン教育文化大臣は、もはやそんな時代ではなく、学校は暴力学校であることをやめて生徒に優しい教育施設にならなければならず、教員たちはそのことを理解して体罰をやめるとともに、生徒間あるいは他校間で起こっている暴力に対する感受性を強めて生徒たちから暴力を取り除いてやらなければならない、と強調した。教育文化省は全国すべての学校に対し、校長・地元教育局・地元警察・学校運営委員会の電話番号を記した80x120cmの掲示板を学校表門に掲げることを義務付けており、学校環境内で起こった暴力行為を目撃したり、あるいは被害者になったりした住民がそれらの連絡先に届出を行うことを励行するよう、要請している。


「学校内暴力緊急事態」(2016年6月20・21日)
ライター: インドネシア教員労連事務局長、教育家、レッノ・リスティヤルティ
ソース: 2016年5月12日付けコンパス紙 "Gawat Darurat Kekerasan di Sekolah"

2016年5月2日の国民教育記念日の当日、われわれは子供が被害者である暴力事件のニュースに二度も驚かされた。二つの事件のうちのひとつは、ブンクル州レジャンルボン県で14人の若者が14歳の女子中学生ユユンさんをレープ殺人した事件。もうひとつは、ジャカルタの第3国立高校で上級生が下級生をいじめている姿を撮影したビデオが公になった事件。被害者生徒はただ言葉でいじめられただけでなく、喫煙を強制された。
それらの事件は、子供への暴力事件の長大なリストを更に長いものにした。死者が出るに至らなかった事件であっても、ひとつひとつの暴力事件は必ず被害者にトラウマを残している。物理的暴力が伴われなかったとしても、いじめは必ず子供の成長に悪影響をもたらすのだ。
< 学園喪失 >
学校で起こる種々のいじめ事件は、生徒たちにとって学校が安全快適な場所でなくなっていることを示している。International Center for Research on Women が2014年に行った調査はその事実を裏付けている。インドネシアの学校生徒の84%が学校で暴力を受けた体験を持っており、また生徒たちの43%は、環境内で暴力行為を目にしても自分は何もしない、と告白している。
2014年に東ジャカルタ市マカッサルの第9国立小学校でリンゴくんが死亡したできごとは、学校が生徒にとって安全な場所でないことを示す例証のひとつだ。上級生は校内で休憩時間中にリンゴくんに暴力をふるい、級友たちはそれを見ていたが、その行為を止めようとする者はひとりもおらず、教員にそのできごとを告げることさえ怖がっていた。
一年後、級友の暴力で生徒が死亡する事件がまた起こった。南ジャカルタ市北クバヨランラマの第7国立小学校午前校の生徒が次の被害者になった。この事件は校内で行われた図画大会の最中に起こった。小学生で、学校の中で、しかも授業中にこのような事件が起こったのは、実に信じがたいことだ。
物理的暴力以外に、子供たちは他人を卑しめる言葉、暴力言語、その他感情面での形態のものを分かち合っており、それも学校を安全快適でない場所にしている。
たとえば、ブカシのいじめ事件では、「お粥売りの子」と侮蔑され続けた小学生が抑圧と恥ずかしさのために自殺した。教員も担任教師もそれが行われていたことを知っていたが、それをやめさせようとする感受性を持ち合わせていなかった。そのことが学校にいる大人はみんな冷たいと被害者生徒に思わせ、その心理を絶望に導き、そして唯一の逃げ道と考えた死に向って、その子を駆った。
さまざまな事件から、暴力は当たり前のものとされていることがわかる。それが子供たちの日常性となり、当たり前のことをわざわざ大人に報告する子はいなくなり、そしてそれが悪いことだとだれも思わない。たとえばヨグヤカルタでは、ヘローキティのキャラクターグッズを持っていただけで、級友数人がその女子生徒に暴力を振るった。級友たちは被害者を閉じ込めて痛めつけた。その暴力に加わったのは全員が女子生徒だったのである。学校はその事件の解決能力を持っていないと被害者の親は考えて、警察に被害届を出した。
学校でのいじめ問題は、ひとつのセクターだけで解決することができない。その解決には諸方面からの協力が不可欠なのだ。教師だけでなく、親と生徒にもいじめを遠ざけることを教育し、子供の精神形成にいじめが危険をもたらすことを認識させなければならない。
親も教師も、子供の態度が普段と異なって来たことを知る感受性を持たなければならない。子供が暴力被害を受けたとき対応措置が早急に取られるために、その感受性はたいへん重要な役割を果たす。自分が陥った立場を訴えることのできる大人が周囲にいないと子供が思うような環境にしてはならないのだ。
暴力行為解決のための感受性と能力を教員や校長に持たせるのは、中央/地方の行政機構が努力しなければならない。なぜなら、過去に起こった事件の多くが、教員や校長が校内暴力をどう扱ってよいのかわからないという事実を示しているのだから。たとえばジャカルタ第3国立高校校長がいじめ加害者の12年生生徒に対する罰として取った、卒業証書を渡さない、という措置は適切でない。いかなる理由があろうとも、卒業証書を生徒に渡さないことは許されないのだ。そんなことをしても、いじめ加害者は決して懲りない。
< 暴力の連鎖を断つ >
学校が校内暴力の鎖を断ち切ることを教育行政がサポートするのは、劣らず重要なことだ。残念ながら、地方行政の多くはそのことにまだ目が開かれていない。たとえばジャカルタ都庁教育局高官が表明したような、学校の外で行われるいじめは、生徒が学校の制服を着ていたとしても学校運営者側のミスではないという考え方があげられる。
2015年教育文化大臣規則第82号は、学校と地方政府が暴力行為防止対策を行うよう命じている。その対象は、生徒への暴力・学校内の暴力・学校の外で行われる学校のプログラム内における暴力・学校間タウランまでをカバーしている。
複数の者が共同で行う暴力は普通、計画的であり継続性を持つ。たとえインスタグラムにビデオがアップロードされて公衆の知るところになった後でも。いじめはたいてい突発的に起こるものでないのだから、学校運営者はそれが現れる兆候を探知できなければならない。下級生が集まっている場合、上級生はいつどこに集めるかということを前もって、少なくとも前日には、決めているはずだ。それを放置するのは、学校運営者の怠慢である。
暴力加害者の子供たちも、かれらの上級生から暴力被害を受けた犠牲者なのだ。かれらは加害者であると同時に被害者でもあるのだ。生徒に対して公正さに欠ける教育システムがそれを生んでいる。学校というのは、文化を育成するのにもっとも肥沃な土地であり、育成されるべきはヒューマニズムの価値観に奉仕するポジティブな文化なのである。
暴力はどのような形態で、いかなる理由があろうとも、ヒューマニズムの価値観に背くものだ。学校は生徒にとっての安全快適ゾーンにならなければならない。教育は思考を研ぎ澄まし、ヒューマニズムの心を研磨するものとなるべきなのだ。


「正直さと成績は反比例」(2016年6月22日)
2016年度中学校レベル修業全国テストの結果が公表された。そして、成績は一様に昨年から低下したことが明らかになった。2015年との平均点比較は次のようになっている。(2015年平均点 ⇒ 2016年平均点)
中学校 62.18 ⇒ 58.57
マドラサツァナイヤ 60.97 ⇒ 59.06
公開中学校 51.04 ⇒ 48.36
教科別の結果は次の通り。
国語(インドネシア語) 71.06 ⇒ 70.75
英語 60.01 ⇒ 57.17
自然科学 59.88 ⇒ 56.27
数学 56.28 ⇒ 50.24
数学の低下が激しいようだ。算数・数字に弱いインドネシア人というのは、昔から定評がある。ただし、釣銭の勘定は間違えないし、かれらの勘定間違いはいつも自分の取り分を多めに間違える内容になっており、その定評との整合性はきわめて不可解。
ところが、教育文化省はもうひとつ別のデータをそこに突き合わせて、結果は悪くないとほくそ笑んだ。教育国家行政が喜んだ別のデータとは何だったのか?
それは全国テスト正直度インデックス測定結果。昔からインドネシアで不正受験は交通違反と同様に、監視者に見つかる者だけが損する世界になっていた。カンニング行為や替え玉受験が行われ、更には不正な方法で問題と解答を手に入れ、闇正解リストを作って受験生に売る者まで現れる始末。受験日の数日前にはそういうものが世の中に飛び交い、警察に捕まるケースも少なくない。おまけに闇正解リストを詐欺に使うケースもあって、教育関係者が闇正解リストをチェックしたら間違いだらけだった、という笑い話もある。
そういう構図の中に、学校がからんでくるケースも少なくない。どんな教育機関も、自校の生徒の成績が優秀であることを望む。それは教育者側の優秀さを証明することに使えるからだ。校長から担任教師までが一丸となって、生徒に特訓を与えるのでなく、不正に走る。おまけに地元教育局も、それが地域の優秀さをアピールする材料に使えることから、その不正にかみこんでくることもある。結局、小は試験場での受験生の挙動監視レベルから、大は出来ない生徒への個人的バックアップに至るまで、さまざまな形態の不正が行われてきた。
だから教育文化省は、そういう不正が行われた可能性の有無を受験生の解答用紙に現れる解答パターンから測定しようと考え、トライアルが開始された。その測定結果数値が全国テスト正直度インデックスだ。同じ解答パターンを多数の生徒が提出するのは、なんらかの不正な共同行為もしくは不正な指導が行われているという見解がそこにある。証拠はないが、可能性というレベルでのものだ。
2016年度テストでは、全国の72%の学校で正直度インデックス値の向上が見られた。正直度が80ポイントを超えた学校は全体の44%にのぼり、2015年度テスト時の状況からほぼ倍増している。
教育文化大臣はその結果について、「昔のテスト平均値が不正によって押し上げられていたことは明白で、真の姿を教育界と教育行政がつかめなければ、的確な国民教育政策の設定は不可能だ。われわれはやっと真の姿を見定める位置に近付きつつある。テスト平均値が低下するのは、その産みの苦しみだ。」と評した。


「新学期がスタート」(2016年7月15日)
いよいよ全国的に初等中等学校教育の新年度が始まる。新学期のスタートは、この2016年は7月18日(月)だ。学齢児童を持つ家庭では、愛児の新学期に必要な品物を取りそろえなければならない。兄姉がいれば、中にはそのお下がりを利用する家庭もあるだろうが、どうしてもそれが不可能というものもある。だから、学校の新年度スタートは物入りの季節なのであり、今年はたまたまルバランがその間近にあったから、ルバランボーナスの一部を学用品購入に充てるべく、使い残したボーナスでそのやりくりを行った家庭も少なくないそうだ。
しかし中には、そんなことをまるでほったらかしの親もいる。親と学校と児童生徒が共同で新学年開始の準備を怠らないようにすることを文部大臣がわざわざ警告した事実は、何を示しているのだろうか?
コンパス紙R&Dが2016年6月20〜21日にジャボデタベッ在住の小中高校児童生徒を持つ家庭の親447人に対して行った調査で、次のようなことが明らかになった。
質問1.?新学年の準備(必要品購入)を行うのは誰ですか?
回答1.親と子供が一緒に46.6%、親42.3%、子供5.6%、親と学校2.6%、誰も何もしない1.3%
質問2.教科書以外に最重要な準備は何ですか?
回答2.制服と新しい靴の購入48.7%、筆記具とノートの購入36.3%、新しいカバンの購入4.7%、入学再登録2.1%、子供の散髪1.7%、学校側が全部用意し、親は金を払うだけ0.9%
質問3.教科書の準備はどのようにしますか?
回答3.所得階層別の比率
(A:月間2百万ルピア未満、B:2〜5百万ルピア、C:5百万ルピア超)
*書店で購入 A25.6% B59.0% C15.4%
*教員・学校に依頼する A36.3% B42.5% C21.2%
*図書館から借りる A25.9% B44.4% C29.7%
*親戚・知合いから借りる A0% B50.0% C50.0%
*用意などしない A0% B100% C0%
教育文化省が提案しているのは、学校側が国費の教育援助資金を申請して引き出し、それで人数分の教科書を用意して児童生徒に貸し出す方式で、この方式に従えば児童生徒の親には経済負担がまったく生じない。しかし、?中央政府本省の意向で現場が一律右へならえとならないのが、インドネシアのお家の事情であるようだ。


「インドネシアの子供音楽教育」(2016年9月8・9日)
ライター: ヨグヤカルタインドネシア芸術学院教官、音楽人類学者、チトラ・アルヤンダリ
ソース: 2016年2月6日付けコンパス紙 "Teror Pendidikan Musik"

音楽は人間の左脳の生育を促進させる力を持つ媒体だと信じられている。従って大都市に公的私的な音楽教育機関が林立するようになったのも不思議はない。
子供に幼児期から音楽教育を与えなければならないという固定観念を現代の親たちは優れた指針であると受け止めた。インドネシアで妍を競っている私的な音楽教育はたいてい、生徒を年齢で区分するいくつかのプログラムを提供している。幼児期、たとえば2〜3歳のときに音楽に親しむことは頭脳の向上を促進させてくれる。4〜6歳になればドレミを認識できるようになり、もっと大きくなれば自分の好みの楽器を学んでグレードという技能レベルの向上を追いかけるようになる。
インドネシアでアッパーミドル経済層に属す親たちは、子供のための音楽教育に強い関心を抱いている。好むと好まざるとに関わらず、高額の月謝が独自の社会階層を作り出す。子供に音楽教育を与える親の目的に、トレンドや見栄が浸み込んでくることも稀でない。インドネシアで音楽を学ぶことは、時代の波に乘り、あるいは趣味を深めるためがほとんどで、それを自分の生活の土台に据えるひとは少ない。
音楽家としての人生を歩むことは、まだインドネシアの子供たちに人気のある理想になっていない。医者やエンジニアがまだまだ子供たちの夢になっている。インドネシアの大学や高校レベルの音楽教育機関を見渡してみるなら、生徒のほとんどが音楽家の子供と大学の別の学科あるいは普通科高校に入れなかった子供たちで占められていることがわかる。
もともと音楽教育が子供の頭脳を向上させると言われているにも関わらず、結局のところ逃避先にされているというのはなんというイロニーだろうか。何よりも、かなり高額の費用が親のふところを脅かすのである。高額の出費を行ったあげく、結局はいっときのトレンドに引きずられているだけでしかない。
台湾の音楽教育はまた違っている。しばらく前にシンガポールのロイヤルミュージック協会が開催した「音楽の異文化間移転」と題するシンポジウムで発表されたパン・リーミン博士の「西洋と東洋の出会い:台湾における西洋古典音楽の学習とその意味」と題するリサーチは、クラシック音楽を演奏できる娘は価値ある資産であると台湾社会で考えられている事実を伝えている。
借金をしてでも、最高のクラシック音楽の教育を与えることが親の義務にされている。資産という意味は、優れたクラシック音楽の能力を持つ娘を男性の医師や弁護士が妻に望むことに関わっている。それによって娘のファミリーは社会階層の上昇にあずかることになる。
< あらゆる場で >
音楽教育はあらゆる場で独自の意味を持っている。インドネシア社会は涎の出そうな資本主義の夢に囚われている。子供にとって最善のものを選択する際にトレンドと見栄が強迫観念を呼び起こす。音楽学者エリー・スティアワンの言葉を引用すると、流行と見栄をベースに置いたインドネシアの音楽教育で子供たちは巧みに音楽を演奏するが、善良な精神、優れた人格、リーダーシップを持つメンタリティなどへの志向があるかどうかはまた別だ。
つまり、公的私的な音楽教育機関で音楽を学んでも、その子供はただ身体機能を訓練しているにすぎないということだ。ピアノの鍵盤を叩き、あるいはバイオリンを弾く技術がどんなに巧みであっても、音楽的な精神や感性は磨かれていない。この論説の当初に述べた「音楽は子供の頭脳の向上を促進させる」という期待とは正反対になっている。
家族の中の子供と親の関係というミクロの場を描き出してみるなら、子供は親の要求を満たすために音楽を学び演奏しているだけという皮肉な姿が浮き上がってくる。音楽的な精神が磨かれないために、子供は真の音楽を奏でることができない。国や国民という広い場を見渡すなら、真の音楽教育で育てられなかった子供たちは、その頭脳や精神を国家社会に役立たせるような貢献ができない。なぜなら、かれらが演奏する音楽はただ音楽の形式があるだけで、感性が伴われていないのだから。
音楽教育を終えた子供たちは、最終的に確立された資本主義音楽の渦に巻き込まれるしかない。親のトレンドと見栄の強迫観念によって音楽を学び、音楽教育を終えてからは、世の音楽愛好者たちに審美性や優れた音楽性に欠ける資本主義音楽を提供して強迫観念を与え続けるようになる。なんという災厄だろうか。
伝統文化の世界に、見習うべき音楽学習モデルがある。バリだ。バリ社会では音楽を単なる芸術表現にとどめず、精神活動に高めている。子供たちは親に強制されてカラウィタンを学ぶのではない。カラウィタンは芸術形式であると同時に人生のために重要な精神活動でもあるということをかれらは幼児のころから認識している。その結果、バリのカラウィタン伝統音楽は永続性を持ち、種々の宗教儀式を支える精神活動として演じられ、同時に観光分野にも参加して小さくない経済的効用すらもたらしている。音楽家は医師や弁護士など非芸術的職業に負けない社会ステータスのある職業になっている。
今こそインドネシアの親たちは、音楽をもっと広い意味で理解し、見栄を捨てて子供を音楽教育機関で学ぶよう勧める姿勢を持つべきだ。本気で音楽を学びたい子供が音楽を自主的に自分の内面に取り込むために、親は子供と相談して決めなければならない。そうすることによって、子供は幸福な音楽家になることができる。
音楽教育の月謝が高いことを怖れる親は、私的な塾を探してもよい。集団で音楽を学ぶのを目的にする音楽コミュニティや音楽グループは容易に探し出すことができる。普通かれらは高額の会費を要求しない。
音楽教育と教育法は、今という時代に成長しつつある子供たちの現代性にもっと適合した音楽学習戦略を考えるときがきている。子供たちに音楽を学ばせるのは、抑圧された雰囲気の中ではない。世の中に強迫観念をもたらすのでなく、かれらは音楽を愛好する広範な一般大衆に有益な作品を生む音楽家になることができるのだ。


「文字言語障害民族」(2016年10月17・18日)
ライター: コンパス紙記者、アフマッ・アリフ
ソース: 2016年9月28日付けコンパス紙 "Bangsa Tunabaca"
読むということは単に文字を音にすることではない。それは学問への入り口なのだ。それどころかパウロ・フレイレにとって読むことは解放のプロセスであり、また批判的思考の実践でもあった。Reading the Word and the World.
問題は、インドネシアの非識字者人口比率が縮小している〜教育文化省によれば2014年末で597万人、国民総数の3.7%〜とはいえ、リテラシーレベルは暴落しているのだ。
リテラシーとは、書かれた文章を理解し、価値判断をし、世の中でコミュニケーション媒体として使い、且つ知識を発展させる能力のことを言う。
2012年ユネスコデータは、インドネシアの読書意欲インデックスを0.001とした。それは読書意欲を持つ者が1千人中にひとりしかいないことを意味している。米国中央コネチカット州立大学の2016年世界文字言語能力国別ランキングを見ると、サーベイ対象国61カ国中でインドネシアは第60位に置かれている。インドネシアの下にいるのは、アフリカの小国ボツワナただひとつ。
読書意欲の低さが明らかにリテラシー能力に影響を与えている。OECD(経済協力開発機構)のPIAAC(国際成人力調査)2016年版を見ると、学歴高卒以上のジャカルタ在住の大人(25〜65歳)はヨーロッパの小学生より能力が低い。サーベイ対象34カ国中でジャカルタの大人は最低のリテラシー能力になっている。
PIAACサーベイはサトリオ・スマントリ・ボジョヌゴロが入手した経済開発拡張促進国家計画と教育セクタープログラミングの結び付け(ACDP−016)が裏書きしている。サーベイ対象企業の92%が従業員の読解能力の低さを嘆いており、90%が作文能力を嘆いているのだから。
インドネシア人のリテラシー能力の低さがインターネット利用の激化と軌を一にしている点に着目するのは興味深いことだ。インドネシアはインターネット利用者の多さで世界のトップ10に入っているが、インドネシアのインターネット利用者の90%はソーシャルメディアの利用をメインにしている。インドネシアインターネットサービスプロバイダ―協会とインドネシア大学通信研究センターが2014年に行った調査結果では、インターネット利用者8,810万人中の7,900万人がアクティブなソーシャルメディアメンバーだった。
インドネシアはフェイスブック利用者数で世界第4位(6.030万人)、ツイッターで世界第3位(5,000万人)であり、毎日410万件以上のツイートがインドネシアから出ている。デジタルテクノロジーの最前衛であるインターネットは情報と知識へのアクセスに便宜を与えるものであるとはいえ、シェリー・タークル(2011年)によれば、そのテクノロジーは同時に論理思考能力を浅薄なものにしている。
ソーシャルメディア研究者であるかの女は、いつも他人と接触している環境の中でひとは常にコメントを述べることに衝動を抱き、真剣に思考する時間が持てないでいる、と言う。あげくの果てに、このデジタルテクノロジーの嵐によって、ニコラス G カーが怖れたような、浅薄思考世代が誕生するのである。
論理思考の習慣が失われ、ますます複雑化する世界の情報洪水を統御し見分ける力がわれわれから去って行く。イメージが現実を押しのけ、宣伝やプロパガンダがニュースと溶けあい、さらにゴシップや欺瞞が事実と肩を並べるのだ。
結局のところ、われわれはあきめくらになり、事実と意見を区別できなくなる。プロパガンディストの騙し、ミーム、侮蔑さえもが情報空間にはびこり、文字言語障害社会はそれを真実として鵜呑みにしてしまう。
文字言語障害が世迷いを引き起こすのは、デジタル世界の中ばかりではない。インドネシア民族の自己の定義付けをも失敗させてしまうだろう。読むことの貧困は明らかに、書くことの生産性の低さに関わっている。読まれないのであれば、誰が書こうと思うだろうか?
だから、学術出版が貧困なだけでなく、インドネシアは質の高い書籍までもが貧困なのである。歴史・自然・文化などインドネシアに関する書籍は、外国人もしくは外国に住むインドネシア人が書いたもののほうが多い。われわれは、他民族によって定義付けられている民族なのだ。
最近起こった大事件のいくつかも、文書にされていない。2004年にアチェで起こった津波大災害についてでさえ、質の高い書籍はほとんど生まれなかった。繰り返された一連の天災についても同様で、それらの事件からわれわれが学ぶべきことがらがほとんど文書にされていない。そればかりでなく、1998年のレフォルマシ運動に至るまでのオルバ支配下の32年間も、正しくドキュメント化されていない。書籍の印刷部数の小ささと社会の読書意欲の小ささは悪循環に陥っている。オルバ期の人物やそのビヘイビアが現代政治体制の中に容易に潜入していることは不思議でも何でもないのである。
過去に起こったできごとがドキュメント化されず、そして思い出されもしないなら、われわれは体験から何も学ぶことができない。われわれの学習源泉となるべきものはいったい何なのだろうか?


「進学しない、進級できない、小学生」(2016年10月18日)
9年間の義務教育が定められているにも関わらず、小中学校中退者が多数おり、更に小学校から中学校に進学しない者はもっとたくさんいる。この問題を解決しないまま義務教育12年を実施したところで、画に描いた餅になるばかりだろう。中退者減らしは効果をあげているが、不進学者の多さが気になるところだ。過去三年間のデータは次の通り。
小学校       中退者(人) 卒業者(人) 不進学者(人)
2013/14年  293,045    4,392,638  1,132,879
2014/15年  176,909 4,369,343 993,310
2015/16年   68,066 4,381,997 946,013

中学校
2013/14年  137,436    3,060,211  156,030
2014/15年   85,000 3,075,589 196,319
2015/16年 51,541 3,274,813 99,406

2015/16年の小学校中退者68,066人のうちで、1年生中退者は16,447人にのぼり、2年生中退者は12,714人で、低学年ほど数が多い。
ドロップアウトはしなかったものの進級できなかった小学生数は全国で422,082人おり、この留年者数も中退者と同様に低学年ほど多い。1年生は194,967人、2年生89.561人、3年生56,493人で、1〜3年生だけで全体の8割を占めている。
教員の指導訓練専門家である教育家のひとりはその現象について、「小学校低学年を受け持っている教員の多くは、読み書き計算の基礎を生徒に教えない傾向にある。しかしすべての小学生が幼稚園を経て来たわけではない。多分この要素が今起こっている現象の裏側にあるのではないだろうか?各学校は低学年を受け持つ教員に、経験豊富でもっと子供の中に深く入って行ける人材を用意する必要があるように思われる。」とコメントしている。


「外国留学のための奨学金制度に改善を」(2016年12月7日)
2016年7月23日付けコンパス紙への投書"Sulit Kuliah ke Luar Negeri"から
拝啓、編集部殿。わたしは今年、ヨグヤカルタ特別州スレマン県プランバナン第1国立高校を卒業しました。豊かな家庭ではありませんが、高校を出たら世界のトップ100大学で学びたいと小学生のころから夢見てきました。世界のトップ大学の学士課程の入学条件を、わたしは中学校8年生のときから調べていましたし、それを実現させるために頑張ってきました。
2016年初には、イギリスとオーストラリアのトップ大学入学申込を行い、選抜プロセスを受けました。2016年3〜4月にメルボルン大学とモナシュ大学から招かれ、入学を許可されましたので、わたしはメルボルン大学を選びました。しかし、インドネシアを含む発展途上国からの新入生は10カ月間ファウンデーションクラスを受けなければなりません。
2016年8月からの開講に従うなら、わたしは7月17日までにメルボルンに到着していなければなりません。わたしは八方手を尽くして探し回りましたが、ファウンデーションプログラムのための奨学金は見つかりません。インドネシア政府のものを含めて奨学金は一般的に、S−1(三年間)、S−2、S−3だけが対象になっているのです。その状況は、わたしのような豊かでない高校卒業生にとって、たいへん不利なものになっています。今わたしは留学の機会が失われるかどうかの岐路に立たされています。そして同じような困難に直面している若者がきっと大勢いると確信しています。
わたしは教育文化大臣に要請します。外国への留学に際して、即S−1のコースに入ることができるよう、インドネシアの教育を整備してください。ファウンデーションスタンダードの専門予備教育学習を各州都に設置し、S−1コースを外国で学びたい若者たちがそこで基礎的な力をつけることができるようにするのが、きっとその方法なのでしょう。この方策はインドネシアの貧しい若者が世界のトップクラスの大学で学ぶことを容易にするばかりでなく、負担しなければならない費用を小さくすることにも貢献するはずです。もちろんジャカルタのカレッジの中にはファウンデーションプログラムを実施しているところもありますが、費用はとても高く、億の単位に達することも起こりえます。
豊かな家庭のインドネシア人高校卒業生の多くは外国のファウンデーションプログラムを直接受けに行っています。しかし政府が各州都にファウンデーションスタンダードの専門予備教育コースを設けるなら、インドネシアの高校卒業生が外国の大学で学ぶ機会は扉が大きく開かれることになります。加えて、生徒の親が外国に向けて出費していた金の一部が国内で使われることになり、わが国経済にとってネガティブな要素が減少する効果も期待できるはずです。
もしファウンデーションコースつまりOレベルの予備教育を各州都に設けることが無理であるのなら、政府がファウンデーション期間を含めた奨学金を用意してくれるように、切にお願いします。[ ヨグヤカルタ州バントゥル県在住、ヴィタサリ EW ]