「チュチタガン」



< その一 >

     世界には手洗いの習慣を持たないひとがいっぱいいる。インドネシア語のチュチタガン(cuci tangan)は手を洗うという意味だ。エジプトからインドまで、エチオピアからインドネシアまで、手を洗うことの徹底していない国はそれがもたらす結果のために巨額の費用を支出することを強いられている、と医学保健界識者は指摘する。インドネシアでは毎年60億ドルが劣悪な衛生環境のために浪費されていると世銀は報告しており、発展途上国の多くは衛生観念が向上しないせいでただでも低い国民福祉のための支出がやせ細るという皮肉な現象を招いている。

     手洗いをしないひとびとは概して水の乏しいエリアに暮らしており、そのような環境下でひとは排泄物を自然の中に放り出すだけというのが普通のパターンであり、そのために伝染病のもとになるものがそんなエリアに持ち込まれるとたいへんな猛威をふるうようになる。その代表が下痢や肺炎で、下痢は年間に2百万人の幼児を殺しているのだが、石鹸と流水で手を洗うだけでその被害は半分に減る、と専門家は言う。手洗いを励行することで寄生虫を防ぐことができるし、SARSや鳥フル、チフス、コレラ、赤痢などの発症をより少なくすることができる。


     手洗いの習慣を身に着けることなく何世代にもわたって続いてきた家庭は、田舎から都市に引越しても培われた伝統を守って子々孫々に伝えていく。だからジャカルタは水の乏しいエリアではないといくら声だかに叫ぼうが、手洗いをしないひとがゴロゴロしているわけだ。モールのトイレで、その周辺のレストランやカフェのユニフォームを着た若い男女が手を洗わないまま職場に戻って行く姿を目にすることも少なくない。手を洗うことの意義や必要性を耳にしてはいるはずだが、幼いころから植えつけられた習慣はそう簡単に変わらないようだ。だから子供にその習慣を植え付けなければならないことになるのだがそれは親の役割であり、手洗いの習慣を身に着けていない親がそれをどこまでやりおおせるのかという問題がわれわれをあまり楽観的にさせてくれない。

     赤ちゃんのオムツを替えたり、トイレからそのまま出たり、あるいはそんな手と握手したりしてから、公共スペースでドアの把手に触り、エスカレータの手すりを持ち、エレベータのボタンを押し、公衆電話の受話器を握り・・・・・。だから公共スペースにいる間われわれは、手を洗う前に自分の口・鼻・目・耳などを触らないようにする必要がある。とはいえ、異常なまでに神経質になる必要も無いので、日本で暮らしているときより頻繁に手洗いを励行するように気をつければよいとわたしは思う。

     チュチタガンには比喩的用法があり、悪事を犯しておきながら自分はそれと無関係だという顔をするような場合に使われる。たとえば汚職高官が汚職撲滅討論会に出て声高に汚職を批難するといったようなものだ。手洗い習慣を持たないインドネシア人は、まさかそんなことを気にして手を洗わない習慣を頑なに守っているわけでもあるまいが・・・・・


     インドネシアにはチュチタガン文化(budaya cuci tangan)がある、と大勢のインドネシア人が言う。その割には国民の多くが手を洗わないようだが・・・・と誤解してはいけない。ここで言うチュチタガンは比喩的用法で使われているものなのだ。数年前に国会や地方議会で議員が本来もらうべき理由のない巨額の金を分配され、それが明るみに出て市民から喧々囂々の批難を受けた際、議員の中にその金を返すという行動を取る者が出た。またそれによく似たことだが、行政高官や民間著名人でコルプシとしか分類しようのない金銭を受け取ったことがマスメディアに暴かれたとき、かれらはその金を衆人環視の中で返却するという儀式を演じて見せた。そのようなことがチュチタガン文化が出現させている形態の一例なのである。

     この世で一度犯した悪行は消すことができないという考え方が今では国際スタンダードになっている。故意であろうとなかろうと悪行をはたらけば責任が追及される。冒した悪行で自分が得した分をその悪行のために損したひとに返せば責任が帳消しになるというものではないのだ。ところが、村人Aが私欲のために村人Bの財産を奪ったら村のみんなが村人Aを批難したから村人Aは奪ったものを村人Bに返し、それで元通り丸く収まってめでたしめでたしというものではないはずなのに、チュチタガン文化はそれを可能にしている。ものごとが財の分配という損得面からだけ計られ、社会生活の中で定められている律法に背いたことの責任をその人間に取らせるという観念が希薄な社会の姿がきっとそれであるにちがいない。責任観念の希薄な社会については、西祥郎ライブラリーの中に「責任」という論説があるので、ご一読いただければインドネシア社会における責任の意味に肉迫いただけるものと思う。

     さて、チュチタガンのこの比喩的用法は、一説によるとオランダ植民地支配者がインドネシアに持ち込んだものだそうで、古代ローマ時代に権力者が邪魔者の生命を奪いその血塗られた手を衆人の見守る中で水で洗ってきれいにし、その邪魔者の抹殺は自分とは関係のないことだ、と無言で主張したのに由来しているらしい。つまりその手が冒した悪行も水で洗えば跡形もなし、というのがこの言葉の比喩的用法が意味するもののようだ。


     日本語の「足を洗う」に似た語感をこのチュチタガンに感じるかもしれないが、チュチタガンの場合は前非を悔いて身を清めようとするのでなく、悪事で得た金を返したり、批難されたことを自分は無関係だと偽証したり、そのような言い逃れやごまかしを行なって自分の行為の責任を免れようとするニュアンスが強い点に大きい違いがある。チュチタガンはむしろ日本語の『口をぬぐう』に近いものだろう。識者たちが言う「現代インドネシアはチュチタガン文化に覆われている」という言葉は、責任逃れを行なうのが社会常識になっているということを指しているのだろうとわたしは思う。

     チュチタガンは、冒した悪事が明白にせよ薄々にせよ、世間周知のことになっているのを、嘘をついて空っとぼけるスタイルだが、それと本質的に類似しているがもう少し陰険なものもインドネシアでは広範に行なわれている。インドネシア人はそれをlempar batu sembunyi tangan(石を投げて手を隠す)文化と呼んでおり、わたしはそこに「闇の中から手だけ伸ばして他人にダメージを与える」イメージを抱く。そこには正々堂々と個人が自分の責任において何かを行なうという精神が欠けている。たいていの国でこの投石隠手文化は卑怯卑劣なサイテーの行為として断罪されているし、インドネシア人の多くも口をそろえてそう批難するものの、世の中では投石隠手行為がやむこともなく続けられている。

     文字通りの投石行為としては、高速道路をまたぐ陸橋の上から疾走してくる車に石を投げては身を隠し、線路上を走っている列車に遠くから石を投げては物陰に走りこんで身を隠す。その犯人は何らの物質的な利益もその行為から得ることはないだろうし、純粋にただのイセンで行なっているにすぎないものとわたしは思うのだが、その行為によって大怪我をしたり生命を失う何の罪もない人間が何人も出ている。イセンについては、やはり西祥郎ライブラリー内の「バビ・アンジン・モニェッ」や、「人と文化」と題する記事の中に「イセン」で検索をかけると出てくるものがあるので、ご参考いただければ幸いです。

     さて、会社の中で行われる投石隠手行為ももちろんあるのである。会社の中で行われる投石隠手行為には、誰が発信源かわからない形で特定の人間を誹謗中傷する噂を流したり、会社の責任者に密告や脅迫のブラックレターを出したり、あるいは深夜上司の自宅に無言電話をかけたり、といったようなものがある。投石隠手文化はだれが犯人かわからないために責任の取らせようがなく対抗行動さえむつかしいというのがその本質であり、一方のチュチタガン文化は誰に責任を追及するのかがかなりはっきりしているというのに本人が否定したり巧みにごまかしたりするために責任追及の手が緩むというのがその中味だ。インドネシアでチュチタガン文化が成立しているのはインドネシアの民族文化の中にそれを支える要素があるためであり、これもインドネシアの特異性のひとつにあげることができるにちがいない。


     政府は携帯電話番号使用者登録制度を開始し、すでに番号を持っている数百万の使用者に1年がかりで登録を命じた。しかしそのデータ検証を政府が電話オペレータに命じたことから、タダ働きを嫌ったオペレータはその作業に熱が入らず、ましてやそれが虚偽データ登録だと判明すれば自分の客に引導を渡さなければならないわけで、だれの目から見てもその作業は非誘導的であるのが一目瞭然だった。その結果使用者登録制度は信頼度が低いまま形骸化しつつあるようだ。これは責任というものを関係者がみんなしてババ抜きのババにしてしまった例だろう。

     不思議なことに、投石隠手行為と同じようにチュチタガン行為も清潔で透明、そして責任感に満ちた人間のなすまじき行為として社会的にもネガティブに位置付けられているというのに世の中から消滅する気配はさらさらなく、それは高位高官社会的著名人たちにとって常識的行為になっている。同じことは腐敗行為(コルプシ)についても言える。だれもが悪行だ犯罪だと言うにもかかわらず、機会さえ与えられればだれもがそれに手を染めていく。これこそがモフタル・ルビスの言うインドネシア人に特徴的な性向のナンバーワン「偽善性」の実例であるにちがいない。Do'sはお題目通りのことを言うが実際には行わず、Dont'sも能書通りのセリフを吐くもののこれは励行するというのが天邪鬼の偽善性であるのであれば、衛生面でなされるべきとされている手洗い励行が行なわれないのは当たり前かもしれない。


< その二 >

cuci tangan。インドネシア語で「手を洗う」を意味する。この言葉にはまた別の意味があり、自分は悪事を犯しておきながらその悪事と自分は無関係だという印象を他人に与えようとする行動を指してよく用いられる。たとえば腐敗高官が汚職撲滅を声高らかに唱えたり、あるいは地域のモスク建設に大枚をぽんとはたいて献金するといったことだ。悪事に汚れた手を洗ってきれいな手を周囲のひとに示しているが、犯した悪事がそれで消えるわけではない、というニュアンスなのだろう。つまりそれは自分の行為の責任を免れようとすることではあるものの、他人の告発に偽証をもって免れようとするのでなく、自分は潔白というイメージ作りを先に行って他人から嫌疑を受けないようにしようとする趣を漂わせているようにわたしには思える。この意味のチュチタガンを日本語で言うなら「口をぬぐう」「何食わぬ顔をする」「頬かぶりする」といったところだろうか?それらの日本語には盗み食いのイメージがつきまとっているのがなんとなく哀れさを誘う。

チュチ(洗う)という単語が人間の身体部位と一緒に使われて比喩的な意味を表すことがある。たとえばcuci otakは字義通り洗脳を意味しており、そしてcuci mulutは食後のデザートを食べることを意味している。インドネシア語学習者に一番有名なのはきっとcuci mataだろう。美しいものやすばらしいものを目にすると「目が洗われる」のは日本もインドネシアもどうやら同じようだがそれの能動形がこのチュチマタで、きれいなものを見に行くとき日本で「目を洗いに行こう」とは言わないがインドネシア人は「チュチマタに行こう」という表現を使う。男どもにとって女性の姿は美しきものの代表格だからそんなシチュエーションで使われることが多いのも確かだが、この言葉自体は決して好色性の色合いを帯びているわけではない。

チュチという言葉の用法を調べているとインドネシアの小噺に遭遇したのでご紹介しよう。この場合のチュチはすべて原義通りの意味なので、慣用句的用法ではないかと考えすぎないようにしていただきたい。

ひとりの未婚婦人が教会に懺悔にやってきた。その婦人が言う。「わたし、ペニスを見たのです。」すると神父は言った。「チュチマタをせよ。」「ええ、でもわたし、それに触ったんです。」神父は言った。「チュチタガンをせよ。」するとその婦人は立ち上がり、「わたしチュチムルッ(cuci mulut)しなきゃ・・・」と言い残してその場を去った。

インドネシアで代表的な病気のひとつは下痢とされている。世間一般には下痢を病気と呼んでいるが本当は症状を指す言葉であって医学界では下痢症状を招く原因をいろいろと分類している。ともあれ、さまざまな原因で発症する下痢はその大半が不衛生に起因しており、細菌の経口伝染が防げるなら発病は大幅に減少するとインドネシアの医学界も認識している。コレラやチフスあるいは有害な細菌類はチュチタガンを励行することで体内に入らないようにすることができる。世界的な統計調査を見ても、石鹸を使った手洗いを励行すれば下痢発症は47%減少すると言われている。だから手洗いを励行せよ、と政府保健省は声を嗄らして国民に呼びかけている。

第二次大戦後の早い時期にインドネシアに長期滞在したアメリカ人医師は、「インドネシア人はきれい好きだが衛生観念がない」という有名な警句を残した。その伝統習慣は60年以上たった今でも根強く生き延びている。2006年の保健サービスプログラムサーベイ結果を見ると、石鹸はインドネシアの各家庭に普及していて石鹸を置いていない家庭はほとんどないのだが、どうしたことか石鹸を使って手を洗う習慣を持っているひとは国民の3%でしかない。大便のあとの手洗い12%、赤児の大便をきれいにしたあとの手洗い9%、食事前の手洗い14%、赤児に食事を与える前の手洗い7%、調理(食事を用意する)前の手洗い6%。

2001年のWHOグローバルサーベイで世界の5歳未満幼児にとって最大の死因は下痢であるとされ、ユニセフは毎秒ひとりの子供が下痢で死んでいると報告している。インドネシア政府公共事業省は国民の健康生活に欠くことのできないきれいな水の供給施設を農村部や低所得層居住区に設置することに努めている。インドネシア語でMCK(mandi, cuci, kakus)と呼ばれる水の欠かせない生活行為を支えるための施設を設ける運動は着々と進められており、そして保健省も石鹸を使ったチュチタガン励行キャンペーンを全国的に展開している。ハードとソフトの両面から国民への衛生向上運動が実施されているから国民は手を洗うことの意味合いは理解している。しかし知識が態度や行為に反映されないというインドネシア特有の状況に保健関係者は頭を痛めている。