「インドネシアは非イスラム国家」


2億人を超えて人口の大部分をムスリムが占めているインドネシアを、国全体の日常生活がイスラム教によって統御されていると考えるのは、誤ったものの見方であると言えよう。そういうものが存在するのはムスリム国民の一部にすぎないファナティックなアラブイスラム至上主義者たちの日常生活だけであり、決して国民のマジョリティではない。


インドネシアの国家原理がパンチャシラ理念を基盤に据えた世俗国家であって宗教国家でない、ということを知らないひとたちの想像が上で述べた見方のもとになっているように推測されるのだが、そう言うと、パンチャシラの筆頭に信仰というものが出てくるではないか、という反論が出されるにちがいない。パンチャシラの筆頭に登場するKetuhanan yang maha esa のスローガンが「唯一神への信仰」と日本語訳されているために起こっている誤解がその原因だろうと思われる。ketuhanan というインドネシア語は、KBBIによれば1.sifat keadaan Tuhan, 2.segala sesuatu yang berhubungan dengan Tuhan という語義になっており、神の側にあるものを指すニュアンスに満ちている。信仰という言葉が持つ「神を対象にして人間や社会の側に存在するもの」というニュアンスとは位置関係が正反対であることから、わたしにはその日本語訳が不適切であるように思えてならない。

国家原理の筆頭に置かれているそのスローガンは、全国民に大文字で書かれているTuhan(神)に対する信仰を命じているのでなく、Tuhanが存在することを国家の基盤に据えようという原理を示しているものであり、つまり有神論を国是とする国であることを宣言しているに他ならないのだとわたしは考える。だからこそ、国民マジョリティであるムスリム層の一派がインドネシアの国家体制をイスラム教で統治されるイスラム教国家にするよう望んだのに反して、建国独立時の国家指導者たちはそれを拒んで世俗国家を樹立したのであり、その種の一派が継続的に国家体制を変えようとテロ行為に走っているのを抑えこんでインドネシアは世俗国家の道を堅持している。世俗国家の基本理念として設けられたパンチャシラに特定宗教への帰依や信仰を命じる内容が置かれるほど、国家指導層の頭脳が混乱していたわけでは決してない。

だからこのKetuhanan yang maha esa という語句をわたしは「超独在的有神性」という日本語で解釈する。つまり、大文字のTuhanというのは実存する特定の神を意味しており、その神は独在的存在なのであって、人間が神とするものはその唯一の神的存在しかないということを意味する内容だ。現実にインドネシア人の多くは、イスラム教のアッラーとキリスト教の父なる神やヒンドゥ教のサンヒヤンウィディと呼ばれる最高神など長い歴史を持つ諸宗教が崇めている神を同じエンティティと見なし、ひとつのものをいろいろ異なった視点から見ているために起こっている違いでしかないという理解を持っている。それは明らかにサウジアラビアにあるイスラム思想とは異なっており、インドネシアのイスラムがサウジのイスラムと違うという論を端的に証明するものだとわたしは見る。だからインドネシア人の持つ倫理観の基盤を支えているものは、人間の個人生活社会生活が神の教える規範に沿って営まれることにあるのであって、その神は上のような国民の共通認識の上に作り出されたものであり、特定宗教に偏する姿勢が排除されている、ということになる。既に何らかの宗教の信徒になっているのがほとんどの国民に国が信仰を強制しているということでなく、宗教的社会生活を営んでいる国民の国家生活にもその有神性を反映させようということなのであり、国家の中味を満たす国民はそれぞれの宗教を踏まえて共存協力しながら国を推し立てて行くのだという、たいへん知的レベルの高いモダンなコンセプトがそこに置かれているようにわたしには思える。


すべての宗教は排他的なものだ。それは宗教というものが、人間を超越したはるかに崇高な存在に対して帰依と服従を誓い、その崇高な存在が命じているさまざまな規範に従って個人生活と社会生活を営むよう信徒に要求するという本源的な性質に由来しているためだ。神と呼ばれるその崇高なる存在への信仰を抱いた人間が構成する共同体社会はその神なるものが定めた内容に従って統御されなければならない。ひとつの宗教社会の中にその神に服従しない人間の存在を想定することが最初から矛盾を含んでいるため、異教徒や不信仰者のために居場所を用意するという発想が存在しないのは当然だろう。

人類発展史における文明化の進展は、最初人間がサバイバルのために作った閉鎖的排他的な共同体をその出発点にした。宗教勃興以前に人類は既に閉鎖的共同体の中で生きることを基本に据えていたのだから、新たに起こってきた宗教が閉鎖的共同体の中で人類を文明化に駆ったという構図が見えてくる。宗教社会が後に発展拡大していく中で布教宣教が行なわれ、民族という枠を超えた人類の文明化が行なわれるようになるわけだが、宗教社会の排他性は相変わらず維持された。要するに、同じ信徒として兄弟になるか、それとも異教徒として滅ぼしあうか、という二者択一だ。その基本原理はいまだに現代世界の中でひとつの流れを形成している。
宗教がどうしてそこまで人間を魅了するのかということは、言うまでもあるまい。人間の心情の中に崇高なるものに対する憧憬が存在し、また善悪規範といった自己存在の意味を支える価値観をそれが与えてくれること、更にもうひとつある顕著なファクターとして自己卑下と奉仕の美学に人間が感動しやすいという点に見ることができる。

ある特定個人を共同体社会が優れた者と認め、その者にリーダーシップを仰いでその者の打ち出してくる構想を支え、それを実現するために奉仕する人間という位置に自らを置き、社会全体の成功と繁栄の成果を共同体が一丸となって祝福するという場面に出現する感動がそれだ。近い過去にも、ナチスドイツや極東の軍国主義国家でそういう要素を含んだできごとが起こっているとわたしは見る。しかし共同体が拡大していけば、生身の人間がいつまでも優れた者というイメージを巨大な社会の中で維持していくのは難しい。往々にして人間は失策を犯し、築き上げた尊敬されるべき指導者のイメージが崩れ落ちて叛乱や革命に至ることは限りなく起こった。神がその位置に置かれるとき、その種の弱点は消滅する。

そういう感動を与える美学が人間を卑下と奉仕の真っ只中に落とし込んでいる状況を客観的に見るなら、わたしはそこに奴隷と呼ばれるあり方が持っている構造の存在を嗅ぎつけるのである。奴隷制度が他の人間をご主人様としてその者の恣意に自己を委ねるという卑下と奉仕の人間関係を生み出しているのと同様に、神と信徒はそれとたいへんよく似た関係にあるようにわたしには見える。西洋文明発展史の中に起こった、宗教改革・ルネッサンス・人文主義あるいは「神が死滅し」たり神の存在が人間と無縁になっていくさまざまな思想の連発は、いかに西洋社会が神に隷属させられていたがんじがらめの鎖を断ち切ることに没頭してきたかを示す年表であるにちがいない。そういう変革を乗り越えて現代の世界文明にまで成育した西洋文明を正しく理解しているひとびとの抱いている宗教観は在来型の宗教観から大きく変質したものであり、それは人間がいつまでも一定の規範に縛られ続けることを許さないものになっているように思える。

そういう宗教の排他性と人間の心情の中にある自己中心性および崇高なる存在に抱かれて燃えつくすことへの美学などがからみこんで、現在中東地域の一部で大きい動乱が起こっているようにわたしには見える。過激派と呼ばれるひとびとの心底にあるものは、その種の奴隷化の美学がもたらす精神の酔いであるにちがいない。
宗教というものをそういう本源的な形で観得し、そこに肯定的な価値を置いているひとびとの精神性も本質的に同じものだろうという気がわたしにはするのである。つまり、イスラム教徒であるのなら、その宗教教義を完璧に実践し、その総本山であるサウジアラビアで行なわれているあらゆる現象に追随するのが正しいムスリムのあり方であり、インドネシアのイスラム教徒はどう見てもそれが高いレベルで行なわれていないから、宗教的な敬虔さが足りない似非イスラムではないか、という意見がその精神性を代表するものだと言えるにちがいない。


実際にインドネシアのムスリムの中にもそういう考え方の人々がおり、原理主義あるいはアラブ至上主義と位置付けられている。かれらはアラブ人を神の恩寵を受けた選民と見なし、自分たちもそれに倣おうとしてアラブ人としての暮らしをし、そういう自分のあり方を誇り、そうでないムスリムを見下そうとする心理傾向を持つ。
本当は、そこにあるのは人間の主体性の問題なのだ。宗教を絶対至上のものと見なし、その奴隷となって歓喜に心をうちふるわせる生き方が存在している一方で、宗教が提供しているものを好きなように取捨選択し、現代性や地域性あるいは生活環境に合致する部分だけを「よいとこ取り」し、無意味でありあるいは矛盾をもたらす部分は打ち捨てるという姿勢で生きているひとびともいて悪いわけがない。文明の受容というのは元来がそういうものなのであり、文明の一要素である宗教をそういう姿勢で受容することにおかしい点は何もない。ところが、宗教という何がしか崇高なものを取扱っているという点に目を奪われて「全面受容(つまり絶対的服従)か排斥か」というようなディコトミーに向かう精神は、人間が自らの主権者となることを否定する貧しい人間観ではあるまいか。

そもそも、世界の大宗教と呼ばれている宗教はすべて今から何十世紀も昔に作り上げられたものだ。その時代の人間が人類の文明発展史におけるどんなレベルにあったのかということは考えればわかるだろう。時代と共に変質していく人類にとって緊要なものは、その時代時代で調整されたものになるのが当然ではあるまいか?それが進歩と呼ばれるものの中味ではないのだろうか?何千年という歳月を超えて、昔のままの宗教教義を頑なに守るのが、本当に現代に生きているひとびとに有益なことなのだろうか?
あるイスラム系種族は大っぴらに酒を飲んでいる、ある国ではムスリム女性なのに人前で舞台に上がり、ミニスカートで歌い踊って肌や肉体のシルエットを男性の目にさらしている、などということをムスリムでもないのに非難めいた姿勢で指摘するひとがあとを絶たない。その民族の主体性ということがらに考えが至らず、宗教実践を形式至上主義の観点から見て、顕現している形式でもって価値をはかるという人間の多さは、実に危険な状態であるようにわたしには思えてしかたない。


ジョコ・ウィドド、ジャカルタ都知事が大統領選挙に勝利し、第七代インドネシア共和国大統領に就任した。都知事がいなくなれば、副都知事が都知事に昇格するという規則が発動されて、印華人であるバスキ・チャハヤ・プルナマ副都知事がいよいよ都知事の座に就く日が近付いてきた2014年10月3日、戦闘的イスラム民間組織のイスラム守護戦線(FPI)が昇格反対を叫んで都庁にデモをかけ、投石と破壊行為が行なわれた。
反対理由は例によってSARA感情で占められ、人種も宗教も異なるかれを行政統治者に認めることはできないというのが訴えのメインで、加えてジョコウィ=アホッのコンビが過去二年間行なってきた諸政策がムスリム都民の宗教生活を抑圧し、ムスリムにさまざまな不利益をもたらしたという見解にもとづく怨恨がそこに混じっている。もうひとつ、そのコンビが腐敗都庁行政にメスをふるっていることで多くの中上級都庁官吏の恨みを買っており、ジョコウィが抜けたいま、アホッも追い出そうという動きをかれらがしていることは想像に余りある。

TVで人気の高い公開討論番組ILCがそのFPI騒擾事件をとりあげ、政界・宗教界から一般知識人などを集めてFPI首脳部との間で討論を行なわせた。イスラム宗教生活内のロジックで社会生活を営んでいるFPI側の主張はそういう範囲でのものでしかなく、アラブ式の排他性に満ちた宗教教義の解釈にもとづいて、且つ又ムスリムが都民の大多数を占めているという優越感を交えての唯我独尊型議論が展開された。ところが、そこで行なわれた討論で、大多数のひとびとが「われわれの国は宗教国家ではないのだ」という原則論を表明したが、中でもイスラム民間団体の事務局長がその原則を主張し、宗教国家でない国民が宗教教義で国家生活を営むのは誤りであり、憲法に従って国家生活を営まなければならないのだ、とFPIを諭した姿にわたしは感嘆した。アルクルアンの章句とロジックを引用しながら、世俗国家としてのインドネシアの国家体制を論理構成上の矛盾なしに肯定している見解が見事に表明されている姿に接して、サウジと異なるインドネシアイスラムの本質をそこに実感する気がした。

最近起こったもうひとつの出来事も、興味深いものである。2014年度カリキュラムの高校11年生用保健体育身体教育科目教科書の「健全な男女交際」に関するページに、今年はじめてイラストが登場した。123から131までのページに解説されている第十章「フリーセックスの影響を知ろう」の中の129ページに掲載されているイラストのひとつは、滝や樹木のある行楽地を背景にしてイスラム服を着た男性と女性の若者が少し離れて立っている姿が描かれている。現実にインドネシアでは、そういう光景を目にするのは日常茶飯事だ。

未婚の若い青少年ムスリムが異性を知ることを目的にして行なうパチャランと呼ばれる男女交際が、イスラム教義で厳しく禁止されているにも関わらず、全国的にかなり自由に行なわれているのは事実である。結婚して家庭を営むことの準備段階として、青少年男女が交際するのは自然なことであり、現代世界では既に常識と化している。しかしイスラム教義を厳しく実践している国では、社会がそれを禁じているために、世の中にそういう姿を見出すことはできない。必然的に、国民の知的能力を高めるための学校を男女共学にすることに困難が生じ、男女別学にすることへの効率上のロスを小さくしようとするなら、少女たちに教育の機会が与えられないようになっていく。その点でイスラムは既に現代社会にそぐわないものになっているわけで、国民への教育機会均等をはかるならイスラム教義に従ってはいられないということになる。インドネシア人が敬虔なムスリムになろうとしない原因がそこにもあるということが見えてこないだろうか?

共学が行なわれるなら、少年少女の間で異性との接触が起こるのが当然であり、もっと異性をよく知ろうとして学外での交際へと発展していくのは当然の成り行きと言える。インドネシア国民なのだから、義務教育に従うのは国民の義務なのであり、ムスリム家庭にとってもそれは例外でない。国民は憲法と国法に従い、たとえ宗教戒律で禁じられていることがあったとしても、国民の義務を果たさなければならない。それが、世俗国家という言葉が意味している原理なのである。そういう国家構造を作り上げなければ、国民の育成に国家の手が届かなくなり、国家の発展が実現できなくなってしまう。だから国民が従うべき原理の最上部に憲法を置き、そこで国家の有神性を保証しておき、宗教はその下位にあって国民の生活の場である共同体の内部構造を定める柱として機能させるというデザイン作りを行なったインドネシア建国独立の父たちの思考内容がどれほど驚嘆するべきものであったかということを、われわれは今実感するべきだろうと思う。
宗教によって律せられているだけでは、よき国民になれない。宗教を絶対視していては、よき国民になれない。よき国民となり、国家をより優れたレベルに高めるためには、よき宗教信徒に納まっていては足りないのである。よき宗教信徒でありつつ、それを乗り越えたより高いレベルでの国民、同じ国民である異教の徒と共存協力して国家を推し立てていく人間になるという国家観・人間観・宗教観がひとつのコンセプトとしてそこに出現している。


イスラムの婚前男女交際の厳格な禁止は万人周知のことだ。イスラムが持った人間観・男性観がそういうものなのであり、男が女に対して求めているものの中味がそこに透けて見えている。その対策としてあのような無菌状態にしていくがために、その点における男の感受性はさらに研ぎ澄まされ、定義の中味がどんどんとエスカレートしていくのである。女が乳房を丸出しにして世間を闊歩していた慣習の民、そんな環境の中で成長した男たち、がアラブの男たちと同じような視覚面での性的感受性を抱くはずがないのは明らかだ。そんな異文化受容の際に既存の価値観と衝突する矛盾が出現したなら、デフォルメが起こるのは目に見えている。「全面受容か排斥か」というようなシンプルなディコトミーが現実性に欠けているのは明らかではないだろうか。
教科書のイラスト問題は、教育現場から教育文化省にクレームがつけられた。理由は、宗教教義で固く禁止されているムスリム男女の婚前交際を無条件で承認し、それを奨めているような印象をかれらに与えるためだというのである。相変わらず、タテマエとそれから外れた現実の双方を二本立てにし、タテマエを現実にあわせることも、現実をタテマエにあわせることもしないでそのまま放置し、タテマエはタテマエで維持し続けるというインドネシア人の民族性をわれわれはここにも見ることになる。


それはともあれ、上で見たインドネシアの国家構造コンセプトが明確に理解できている国民はあまりいないように見える。中でも、ムスリム国民に関して言うなら、国家転覆をはかってイスラム教国家に変身させようと画策している過激派、イスラム至上主義者で忠実なイスラム実践者たらんとしているFPIのような唯我独尊型熱血漢、寛容さと度量の深さでイスラム教の排他性を乗り越えることに努める穏健派がその構成要素をなしているようだ。穏健派の中にも、イスラムを自己のアイデンティティとしてその深化を目指し、宗教意識を深めて原理派的体質に向かっていく傾向を持つひとびとと、イスラムの禁欲的あり方よりも現世快楽に傾こうとするひとびとの二方向に分化しているような印象を受ける。その後者こそが、インドネシアの国家構造をもっとも近いところで実践しているということになりそうだ。もちろんかれらが、国家構造原理を正確に把握しているかどうかは想像するしかないのだが。

(2014年10月20〜24日、ジェイピープル< http://www.j-people.net >に掲載、一部加筆訂正)