「宗教戦争?」
ポソで何が起こったか


「協力して行動すればこの地上で自分たちに勝てるものはいない」と類人猿たちが悟ったとき、文明が生まれた。文明というのは、人類を他の動物よりも優れた存在たらしめるための基本原理だ。たとえ最初は生存本能に従ったサバイバル行動を行なっていたにせよ、肉体・知能・精神の三要素が相関的統合的に高まっていったその生物は、ケダモノとしての生き方から決別した。

協力して行動するための共同体が作られ、血縁を核原理とはしても擬似的血縁関係を是認し、更には無縁の人間集団をも受け入れて拡大の一途をたどり、ついには都市国家、そして封建国家へと進展して行ったのが人類の歴史の流れだ。人類にそのような歴史を歩ませてきたものをわたしは文明と呼ぶ。人口に膾炙している文明という語の定義から少々外れているので、その点をまずお断りしておこう。


本能的なサバイバル行動に従って行なわれていた狩猟や採取といった不安定な生産から農耕という、より確実で効率のよい生産へと移行したのも、人類により優れた生き方を求めさせた文明というものの恩恵だ。ケダモノ的なあり方で種の繁栄はなかなか実現されない。
種というような大仰な言葉はやめて視点をもっとリアルな位置に移すなら、自分と周囲の他者、そのそれぞれが持つ親子祖父母孫といった血統、そしてそういう共同体構成員のすべてが協力行動で得られた成果を不満なく分配して享受するために、共同体の中には何が優れているか劣っているか、何がして善いことであり、して悪いことは何か、あるべき正しい姿はどうで、間違った邪とされるのは何なのか、そういった価値の観念が必需品となる。
そういう抽象的な基本原理をわたしは文明と定義付けている。太古、地上にあまた生まれた人間の共同体が持った文明は、その地理や地学的位置、気象や天候、原生種のケダモノ、植生、その他ありとあらゆる人間のサバイバル行動に影響を与える要素から無縁ではありえない。ほんの数十キロしか離れていないにせよ、川沿いの平原に生じた文明と海寄りの台地に生まれた文明の内容は、だからまったく同一であることは極めて稀だと言えるだろう。


そういう種々の文明の間で、競争が起こる。人類がケダモノ的存在であることをやめて文明化したとは言っても、それはやっと端緒に着いたばかりなのであり、ケダモノ的習性を旺盛に残している人間からそう簡単にその要素が消えてなくなるはずがない。その後、共同体化した人間集団の間で戦争や殺戮は絶え間なく起こる。実際、荒地や砂漠など農耕の容易に行なえない風土に住まざるをえなかったひとびとは遊牧を行ない、それと併せて農耕集団の部落を襲って略奪した。

同じことは海でも起こっている。文明はかれらに漁労を命じ、クジラもがその対象とされたが、それと併せて海賊行為も行なわれた。そのような略奪集団の持った文明においては、略奪行為は農耕集団の採りいれと同じような収穫行為なのであり、かれらの価値観の中では善とされていたわけで、それを止めさせるには、かれらの持つ文明の価値観を変えてやらなければならない。

そのようなこととは別の、もっと本筋での文明間の競争というのは、異なる部落と部落の間、異なる村と村の間、などにおける対立と抗争の形をとり、そこでは上で述べた山賊・海賊・野盗などと同じような行為が堂々と行なわれていた。だから遊牧民が農耕民を襲うようなことが風土的要因によって起こった特殊なものだという見方はナイーブに過ぎるだろうとわたしは思う。また、部族文明はあくまでもその部族構成員の共同生活の秩序を支えるものでしかなく、異なる部族には適用されないものである、ということも忘れてはなるまい。


支配者になるほうが征服されて虐げられるよりはマシだ、とだれしも考える。だからかれらは共同体の効率を最大限に高め、自分たちの強さを増そうと考えた。そのために行われたのが共同体内の秩序を統制するための生活基本原理(つまり文明)の切磋琢磨である。そのようにして力を持った村や部族が周辺の弱い村や部族を征伐し、支配を拡大すると同時に文明の幅と深さをも拡張して行った。そのようにして、われわれはその時代を謳歌した世界の四大文明というものに行き着くのである。

上で見たように、文明は変化する。文明とは文化を生み出すための土台あるいは土壌と呼べるものであり、文化という構造物の姿かたちを文明が柱となり枠組みとなって支えているという関係にある。この定義も世間で流通しているものとは異なっているから、お断りしておきたい。
要するに、文化というのは人間の社会的個人的生活に直接関わっている具体的な事象であり、文明という種々の観念に従って構築された建造物なのであって、だからきわめて整合性に富み、且つ自己完結的なシステムなのである。われわれが具体的に触れたり感じたりすることができるものが文化であり、文明はあくまでも抽象的な概念にすぎない。その抽象的な概念には変化が起こり、栄え、衰え、そして滅びるということも起こりうる。

世界の四大文明というのは古代に栄えた大文明でしかなく、当時それらの大文明を栄えさせた価値観はすべて衰えあるいは滅びている。人間は変化するのだから、それは仕方のないことなのだ。価値観が変化すれば、古い価値観によって完璧に構築されていた文化であっても整合性や自己完結性を失い、隙間だらけの建造物となる。すると、従来の文化を新たな価値観に合わせて建替えなければ、その文化は滅びるしかなくなる。それまで自分たちの暮らしを律していた規範が変身をとげ、共同体構成員は新たな文化の中で自分たちの暮らしの様態を変えながら生き延びていくのである。

たとえば、文明という種々の価値観は思想というものに結実する。文明がどのように変化するのかということの一例を思想の分野で見てみよう。日本文明が生んだ生命観は武士道という文化を構築する柱のひとつとなった。そこでは人間の生命の維持や保護が絶対的な優先度を与えられておらず、生命に優先するもっと大きな精神的価値がいくつか置かれていた。現象面では、ハラキリやカミカゼあるいはジバクタイなどという西欧文明では拒否され嫌悪される行動パターンが社会の中に優れたものとして位置付けられていたわけだ。
それが今から六十数年前に行なわれた戦争の中で文明の衝突に至り、敗れた日本は昔から持っていた生命観を西欧のものと入れ替えることを余儀なくされた。それが敗戦後の平和教育という一種の思想解体にもとづくものであったにせよ、日本人がその項目に関して西欧的価値観を持つに至ったという点では、明らかに西欧文明に浸されたことを意味しており、日本文明が連綿と伝承してきた生命観はここにきて変化をきたしたと言うことができる。

現代西欧文明が持つ生命絶対優先思想は、歴史的に見るならもちろん最近のものだ。西洋史の中にも武士道に類似の思想があるなどと言って反論するひとは、歴史における今古の時差、つまり文明の変化を認識しないひとだろう。現代西欧文明における生命尊重思想は衛生思想や栄養学あるいは医療分野の発展をも促している。そして世界中の非西欧諸国がそれに見習おうとして国をあげて追随している姿は当たり前のものになっている。


文明が人間にケダモノの生き方から脱却して生産的・効率的・知的で高尚な存在への進化を促し、さらに人間が形成する共同体が都市社会というものに発展したことで、文明は更なる進展を遂げた。無縁の人間、つまり従来の共同体ではヨソモノと呼ばれていた赤の他人との共存協働姿勢の構築である。
部族文明においては、安易に見知らぬストレンジャーを共同体の中に受け入れることはせず、そのような者が自分たちの領域に入り込んでくれば排斥しようとする。しかし都市が誕生し、それが発展する過程の中で、そこに流入してきた赤の他人たちは自分たちの価値観を個々に持ち込んでくるわけだが、都市の支配者・指導者は都市機能を最大限に高めるために各構成員集団がばらばらに持ち込んできた価値観を融合させてより開けた新しい価値体系を創出しなければならない。異なる文化体系に従って生活を営んでいる者たちの間に、相互繁栄をもたらすためには共存協働が必要だという思想が行き渡り、田舎の文化体系の中では角突合わせていたはずのヨソモノとの間に交流や協力が生まれるようになる。こうして文明は更に一歩高みに昇って行くことになった。


もともと文明とは、獣性を脱却してより高位の人間存在に向かおうという価値観を社会構成員に与えて精神的な文化体系を構築させるものであり、そのもっとも原初的な位置に設けられたのが宗教と呼ばれるものである。文明が紡ぎ出した諸価値は宗教によってその社会に固定化されていった。宗教は人間に社会生活における行動パターンと個人生活における精神性の拠りどころを教え、社会の秩序と発展およびそれを支える人間が持つべき価値を定めた。つまり宗教というのは、文化をもっとも根源的な基盤で支えているものであり、文明にもっとも近いところに置かれているものだと言うことができるだろう。

社会構成員は通過儀礼の形式や社会秩序を形成するための人間関係のパターンなどを超越的存在からの教えとして与えられた。加えてそれは、超越的存在との間の精神的照応の励行を社会構成員に勧めてポジティブな個人生活を営むようにも導いている。
だからたいていの文化では、宗教は社会生活の形式を律する規範としての機能に大きなウエイトが置かれており、信仰や帰依といった超越的存在との精神的照応は社会構成員のあり方を律するための前提機能なのであって、そこでとどまるものではないという性質を持っていた。もしそこでとどまってしまうのであれば、社会秩序を整えるための社会規範との間の整合性に齟齬が生じるおそれがある。

ただ、それは昔の話であり、現代グローバル社会は既にそのような時代から脱け出していて宗教を基盤に置かない社会秩序の形成が実現されている国が増えているため、宗教が個人生活の精神的救済という分野に限定される傾向が強まっているようにわたしには感じられる。
もちろん、その状況は在来型の宗教による社会構造をいまだに抱えている文化には適用できないものであり、そのような社会が現代グローバル社会の宗教傾向をまねると、哀しむべき社会秩序の混乱と崩壊に襲われるのは必至だろうという気がする。


もちろん、ここで言う宗教というのは、超越的存在に導かれる民の群れというコンセプトを持つ一神教文化のパターンだけを意図しているわけではない。宗教というものの機能を見る限り、文明という基礎観念によって世の中に構築された文化体系の礎石をなしている部分がそれなのであり、つまりは文化の中にあって文化の基盤になっている、もっと言うなら、人間に社会行動個人行動の規範を与えているものなのだ。
そのポイントに焦点を当てるなら、方法次第で「神」と呼ばれる超越的存在がいてもいなくても同じような結果が導き出せるにちがいない。
神があろうがなかろうが、社会生活を営んでいる人間の共同体が高いレベルで文明化しているとき、言い換えれば、その社会構成員が日常示す社会生活個人生活におけるケダモノ的要素がかなりの範囲で滅却されているとき、そこには優れた規範が広範に確立されていると言うことができるにちがいない。

その規範が○○教に由来していようが、△▽教に由来していようが、あるいは名もなくまた出所不明であろうが、社会が整合性と自己完結性を持って機能しているかぎり、超越的存在の支配に服従する民の群れという姿が世の中に浮かび上がって来なくとも、何ら問題にはならないとわたしは思う。

そういう意味で、信仰を持っているから、宗教的であるから、自分は文明人だということでは本来ないのであって、野蛮でないから、自己の内面にあるケダモノ要素がとても低いから、自分は文明人なのだ、という宗教の基本機能に沿った理解がもっとなされてよいにちがいない。ましてや、形だけの宗教祭祀行為を行なって宗教的であると自己陶酔しながら、ケダモノ要素丸出しの社会行動を行なっているひとびとを眼前にするなら、何をか言わんやであろう。もちろん、そんな社会から宗教要素を抜き取るととてつもないことになりそうだろうから、それはそれでよいのだろうけれど・・・


文明が宗教を生み出した。つまり、人類はケダモノの生き方から脱却して生産的・効率的・知的で高尚な存在に高まることを宗教を通して行なうという手法が世界の多くの場所で行なわれたのだが、そこにひとつのパラドックスがまとわりついている。つまり、異宗教間での対立抗争や宗教戦争などであり、また同一宗教内における異端排斥や弾圧である。ケダモノ的行為から脱却するために作られたもののために、人間はかえってケダモノ的行為を行ない続けている、というのがそのパラドックスだ。
結局のところ、神は人間を文明化させるために登場してきたというのに、文明化を徹底させないまま中途半端な位置に人間を置き去りにし、あとはその人間個人の問題だと言って手を引いてしまった。もちろん神がものを言うわけがないから、それは単なる言葉の綾に過ぎないのだが・・・・

こうして、現代世界に残っているいくつかの大文明が持っていた異なる宗教の間で「わたしの神のほうがエライ」という馬鹿げたいがみ合いを人間が演じるようになってしまった。超越的存在に導かれる民の群れというコンセプトを持つ一神教文化のパターンが必然的に招き寄せた帰結がそれなのだろう。人間の文明化はそれを教えた神のエラサに関わっているのでなく、文明化を自ら実践する人間の偉大さに関わっているのだが、導かれるだけの民にそんな発想は無縁であるにちがいない。


インドネシアはイスラム国家ではない。イスラム国家というのはイスラム法に則して行政統治がなされている国だ。インドネシアでそれが行なわれているのはナングロアチェダルサラム特別州だけである。それだけを例外として、国内全土はインドネシアの国法が行政統治の基盤に置かれており、そこでは信教の自由が確定されている。つまりインドネシアが世俗国家であるのは疑いもないということだ。しかし共和国独立以来、この国をイスラム国家にしたい勢力の働きかけが国の内外から続けられており、かれらの地下活動が途絶えたことはない。

信教の自由が保証されているとはいえ、2013年上半期にインドネシアで公的に記録された宗教関連住民抗争事件は122件あり、それを違反の種別で見るなら160回にのぼる。つまりひとつの事件で複数の違反行為がなされたものがあるということだ。
被害者は例によって少数派勢力であり、イスラム系ではアフマディヤ派、シーア派など、また土着型プロテスタントの一派も被害を受けた。内容は、祭祀場所の強制閉鎖・祭祀行為の禁止・祭祀場所への訪問妨害・棄教の強要・暴力行使・社会的疎外などで、地域別では西ジャワ州が61件で最多、東ジャワ州18件、ジャカルタ10件、南スラウェシ7件、アチェ4件、西ヌサトゥンガラ4件、中部ジャワ3件、西スマトラ3件など16州で起こっている。


インドネシアは多種族国家である。インドネシア語における語法に従うなら、インドネシアにはインドネシア民族しかいないから、インドネシアを多民族国家と称するのは語法的に間違っていることになる。
インドネシアは言語や文化の異なる集団を政治的に統合して作られた国であるため、インドネシア国民がインドネシア民族と同義語になっており、言語や文化がさまざまに異なっている集団は種族と呼ばれて民族という概念のサブレベルに置かれている。その点が他の複合民族国家とは異なっていたようで、多くの複合民族国家が分裂して国の数を増やしたのに反して、インドネシアがインドネシア共和国統一国家(Negara Kesatuan Republik Indonesia = NKRI)を、紆余曲折はあれ、維持できているのは、その概念設定の巧みさに負うところも小さくないように思える。

ともあれ、ひとつの国の中に複数の民族であれ種族であれ、文化体系の異なる集団が並存すれば、集団間の軋轢が発生するのは言うまでもない。軋轢は往々にして力の衝突を引き起こし、物理的な力が行使されて殺戮破壊が渦を巻く。
インドネシアで昔から発生してきた住民間の衝突は、その衝突参加者が何らかの深さで意識しているアイデンティティ的要素によって火がつけられ、更にその火に油が注がれるという展開を示すのが普通だった。その要素を集約して命名されたのが、SARAという言葉だ。種族(Suku)・宗教(Agama)・人種(Ras)・階層(Antargolongan)という言葉を集めたこのSARAのうちで、宗教以外の要素は軟化傾向を示しているようにわたしには思える。これはそれらのアイデンティティ要素に対する構成員の帰属意識が、閉鎖的な時代に比べて開放的な方向に変化していること(別の言い方をすれば、それらのアイデンティティ要素への忠誠心が弱まっているとも言える)が下支えしているようにも思えるのだが、はたして間違っているだろうか?

実際、最近はマスメディアであまりSARAという語を見かけなくなっており、それは不寛容や狭量という言葉に置き換えられてきている。そして住民集団間の衝突や抑圧事件は宗教関連のものが目立つようになってきた。プライモーディアルなアイデンティティ要素が低下していくのは文明化の道程にちがいないが、宗教アイデンティティが薄まる色を見せず、人間の精神に強く固着し続けているのは、宗教が文明そのものであるというかれらの文明観がなせるわざであるにちがいない。


自分と同じ仲間でない人間を自分のものとは異なるアイデンティティのまま受け入れようとせず、他人に対して狭量で寛容性のない姿勢で接する人間がインドネシア社会に増加しているという点をコンパス紙は頻?にコメントしている。内務省データにある、住民間衝突発生件数が2010年99件、2011年77件、2012年126件、そして2013年は半年で122件に達したことがそれを裏付けしている。

種々の種族を統一してひとつの国民ひとつの民族にするためには、異なる文化背景を持つ人間との共存協働が不可欠になる。そのためには、少々自分と違っていても、互いに尊重しあい、互いに宥和して、大きな利をはかり、小さな違いは受け入れて呑み込む姿勢が必要である。つまり他者に対する寛容の精神であり、同一民族としての仲間意識である。
建国当初には旺盛にあった寛容の精神と仲間意識は、70年近く経過するうちに色褪せてきた。宗教に関して言えば、不寛容さはラディカリズムを育み、その頂点に座すテロリズムへと信奉者を駆る。建国間もない時期に起こったテロ事件は政治指導者や行政機構を狙ったものがほとんどだったが、ここ十数年盛んに行なわれているテロはまた異なる色合いを感じさせるものだ。


2012年3月にスタラ・インスティチュートが行なったサーベイでは、首都圏住民に不寛容の傾向が見られたが、ファンダメンタリズムと宗教の名における暴力には反対する意見が多かった。しかし不寛容の精神が深まれば、強いアイデンティティを感じている宗教の名において特定一派が隠された利益のために社会行動を煽動した場合、本人が自覚しなくともモブとして動員される人数は増えていくだろう。
2012年6月にCSISが23州2,220人に対して行なったサーベイでは、異宗教の祭祀場所を設ける場合、地元民の了承を得ることを条件にせよという意見が91.5%を占めた。ならば了承を求めたら許すのか、という質問に68.2%は了承しない、と答えている。それに輪をかけて、回答者の25%は、異宗教者は信用できない、と述べているから、宗教アイデンティティによる仲間意識は甚だ閉鎖的だと言えるにちがいない。

西ジャワ州チクシッのイスラム系アフマディヤ派女性三人が2011年に他のイスラム宗派から受けた虐待や差別についてアンチ女性に対する暴力国家コミッションに届出を行なっている。それによれば、居住地区からの追い出し、宗教祭祀を行なうことの禁止、夫の雇用者に対して夫を解雇させるための圧力、そしてその年2月に起こった具体的な暴力攻撃へとエスカレートして行った。
やはりアフマディヤ派であるボゴール在住の五人の女性教員は、地元宗教有力者から退職するよう強く求められ、そこから遠い場所へ転職したが威嚇や嫌がらせは絶えることがなく、警察も安全を保証することができないと言ってさじを投げている。
ロンボッの大学に入ったボゴール県出身の女子学生は、2005年のアフマディヤ宗派に対する暴力攻撃の結果すべての財産を失った両親がひそかに逃亡して居所を変えたため、大学生活を続けられなくなってしまった。アフマディヤ派の親を持つ小さい子供たちも、学校で教員や級友たちから疎外と差別を受けている。


コンパス紙R&Dが2013年7月31日〜8月2日に、17歳以上の12都市住民672人を対象に行なったサーベイ結果が報告されている。
政府が国民に多様性を受け入れるよう指導する努力の度合いがレフォルマシレジームより前のものと比べてどうか、という質問について、次の四つの回答の中から回答者に選択させた。
四つの回答とは、A:上昇している、B:良好なまま維持されている、C:悪いまま変わらない、D:下降している、というもの。
回答者の学歴レベルによって区分してみたものが、下に示されている。数字はパーセント
a.低学歴者: A32.4、B14.1、C14.0、D33.8
b.中学歴者: A25.6、B11.3、C13.1、D46.4
c.高学歴者: A20.6、B16.1、C13.5、D47.9

一方、2013年7月10〜12日に715人を対象に行われたサーベイで、国と宗教の関係についての質問がなされた。
まずこの質問。
宗教関連で発生した住民間の衝突・対立への政府の対応はレフォルマシレジームより前のものと比べてどうか?
A32.0、B11.6、C32.4、D17.5
宗教分野におけるインドネシアの国民生活がうまく行なわれているかどうか?
良好73.3、劣悪23.2
あなたの信仰する宗教とパンチャシラは相容れないかどうか?
相容れない8.0、相容れる90.3
(上の統計数値の中で、不明無回答は除かれています。)
これを見ると、自分自身が被害を蒙っていないという状況下での、ひとびとの楽観性が透けて見えてくるような気になるのは、はたしてわたしだけだろうか?


中部スラウェシ州ポソ(Poso)で起こった住民間の抗争による大動乱が、日本では「宗教戦争」と呼ばれている。日本で宗教戦争と呼ばれているのは、日本のマスメディアが欧米メディアに盲従したためだろうが、そうなると欧米メディアがどうしてポソの住民抗争に限って宗教戦争というラベルを貼ったのかという疑問が湧いてくる。

宗教戦争という言葉の定義は、宗教上の差異によって引き起こされる戦争、あるいは宗教上の差異を正当化するための戦争であるとなっているが、どうしてもわたしは「宗教を主目的として行なわれる戦争」だという理解を持ってしまう。つまり、宗教のために行なわれる戦争だから宗教戦争ということではないのだろうか?日本語ウィキペディアは宗教上の問題が原因で生じた戦争という定義付けを行なっており、宗教上の問題という表現の含みがどこまで及ぶのかという点が内容を曖昧にしているような気がする。
もしも、宗教が異なる集団が行なうから宗教戦争だというのであれば、世界各地で起こった紛争の多くは宗教戦争と呼ばれてよいものになってしまうだろう。ところが現実に、欧米メディアですらそれらの戦争や紛争あるいは内戦を一律に宗教戦争と呼んでいないのだから、宗教戦争という語の定義はいまひとつ解りにくいもののように思える。
宗教の異なる集団が宗教上のことがらとは別の目的で戦争を行なった例は歴史の教科書の中にあふれているし、中世より古い時代にも宗教を主目的にして行なわれた戦争が存在しているのだが、古代史を解説した歴史書に宗教戦争という言葉は、はたして出てきただろうか?
事実、ユーゴスラビアの紛争から最近のロヒンヤ(欧米からインド、中韓さらに東南アジア一帯の諸国語はそろってRo[?o]-hing[hi?]-ya[j?]と発音しており、日本語で標準とされている語尾のギャの音を耳にすることがない。かれらが自称する発音を聞いてみたいものだ。)族と仏教徒の衝突に至るまで、宗教の異なる集団が行なっているそれらの抗争に宗教戦争というラベルは貼られていないのだから。


宗教上の問題が原因で生じた戦争というのは、どのようなものなのだろうか。たとえば、自分のアイデンティティとなっている信仰内容を異教徒に強制するために、あるいは逆に異教徒から自分の信仰を放棄せよと迫られた人間集団が自己のアイデンティティを守ろうとして、互いに武器を手にするという形が一般的なものだろうという気がする。
迫った側と迫られた側の勢力がある程度戦争遂行の要素を満たしているから戦争になるのであって、圧倒的マイノリティであれば上述のアフマディヤ宗徒のように迫害に甘んじるしかなくなるにちがいない。

ともあれ、その場合に、たとえば海岸地方に住む集団がよそから来た異教徒の殲滅戦に直面しており、同じ宗教であるがゆえに山岳部に住む別種族集団が海岸部種族の味方をしようとして、武器を持ってよそから来た異教徒に戦争をしかけるというのもはたして宗教戦争に含まれるのだろうか?
このケースでは、山岳部の別種族集団の戦争は同じ文化アイデンティティを共有する同胞・兄弟に対する連帯と支援の感情が発端となっているのだから、宗教という要素は二次的なものなのではあるまいか。だから、このようなケースがはたして宗教上の問題という言葉に当てはまるのかどうか。もし当てはまると言うのであれば、宗教の異なる集団が宗教でない目的のために行なった戦争までそこに含まれてしまうのではないかとわたしは危惧するのだが、はたして間違っているだろうか?


宗教はプライモーディアルなSARA要素のひとつであり、人間社会に強いアイデンティティ意識を植え付け、宗教によるムラビト式仲間意識とヨソモノ(異教者・異端者)に対する排他意識の源泉となってきた。宗教が他人も同胞・兄弟なのだと教えるとき、そこには「同じ信徒ならば」という前提条件が、口に上らせるかどうか別にして、意識の中に枠組みを作り上げる。だから異教徒は信用できないのであり、同じ信徒仲間のだれかに異教徒が害を与えたなら、信徒仲間は一致団結して異教徒の非道な行ないに抗戦しなければならない。それが同じ共同体社会を担う者の示すべき連帯なのである。

ポソにしろ、ユーゴスラビアにしろ、ロヒンヤにしろ、そこで行なわれた殺し合いの根底にあるのがそれだ。宗教を異にする集団間で起こった衝突や抗争は、宗教アイデンティティがもたらす連帯感情のゆえに規模が拡大していく。その中で宗教戦争というラベルがポソだけに貼られているのである。ポソで起こったのはいったい何だったのか?ポソの住民間抗争について、その実態がどうだったのか、更に光を当ててみることにしよう。


アルファベットのKの縦棒の先端を右に曲げて伸ばしたようなスラウェシ島の、右斜め上に向かう棒の付け根にあるのがポソの町だ。トミニ(Tomini)湾のもっとも奥まった海岸に位置し、マナド/ゴロンタロとマカッサルの間を結ぶ海上交通路の中間点に当たり、おまけにスラウェシ島中部の西岸にあるパル(Palu)一帯からスラウェシ島東岸部の諸地方へ海上ルートでアクセスするための港にもなっていて、スラウェシ島の扇の要の位置を占めている。必然的に東西南北に流れる貨物が集散する中継港となり、経済的潜在力は高い。

オランダ植民地政庁は1880年代になってポソの重要性を政治的に確保する動きに出た。まず最初は、その地域一帯を治めている小王たちの力を封じ込めることから着手され、ポソ(Poso)、ナプ(Napu)、モリ(Mori)、トジョ(Tojo)、ウナウナ(Una Una)、ブンク(Bungku)などを領地としていた小王の上に、植民地行政機構が張り出されてきたのである。
そしてマナドのレシデン統治区の管轄下にあったスラウェシ島中部地方は1919年になってより緻密な統治体制に変更され、ドンガラ(Donggala)に中心を置くドンガラ行政地区とポソを中心とするポソ行政地区が設けられて東西に二分された。ドンガラ行政地区にはドンガラ、パル、パリギ(Parigi)、トリトリ(Toli Toli)などが含まれ、ポソ行政地区にはポソ、ルウッ(Luwuk)、バンガイ(Banggai)、コロノダレ(Kolonodale)などが含まれた。ドンガラ行政地区の中心は後になってパルに移されたが、ポソ行政地区はポソに置かれたまま1952年までその行政管区割りが続けられた。
1957年に中部スラウェシ州が成立したとき、パルが州都となる。しかしポソは中部スラウェシ州の中央部に位置する政治経済の要衝として、長期にわたってその立場を保持し続けている。


ポソ一帯に住んでいた先住民はトラジャ系種族だった。アルベール・クロイツによれば、トラジャ系種族は大きく三つに分類される。ひとつはトラジャパリギカイリ(Toraja Parigi-Kaili)とも呼ばれる西トラジャ部族、もうひとつはトラジャポソトジョ(Toraja Poso-Tojo)とも呼ばれる東トラジャ部族、三つ目はトラジャサッダン(Toraja Sa'dan)とも呼ばれる南トラジャ部族であり、南トラジャ部族は今でもトラジャ族の名前を冠して南スラウェシ州タナトラジャに定住している。

一方、西トラジャ部族と東トラジャ部族は中部スラウェシ州に昔から住んでおり、結局はトラジャの名を冠することなく今日に至っているのだが、ポソ、モロワリ、トジョ、ウナウナなどの一帯にかけて居住していたのはその東トラジャ部族と西トラジャ部族のひとびとだった。
トラジャというのは低地に住むブギス人の言葉で「山の人」を意味するそうだ。南部のタナトラジャからスラウェシ島中部の中央高原一帯に住んでいた部族が一様にトラジャと呼ばれたのはそういう理由にもとづいていたからだ。

タナトラジャに住むトラジャ族の祖霊祭祀の慣習を見ても明らかなように、中央高地一帯に住む部族たちももともとは部族神を祀っていたのだが、そこにイスラム信仰が入ってきた。17世紀はじめごろからイスラム布教がスラウェシ島中央高地で活発化していったらしい。
しかし、宗教を替えることは文化体系を取り替えることであり、往々にして新しい宗教を完璧に取り入れるのは困難になる。新しい宗教は新しい社会秩序をもたらすわけだから、その転換はじっくりと時間をかけなければならず、おまけに古い価値観と新しい価値観の融合が起こってどっちつかずの中途半端な価値観が社会に定着する可能性もある。つまり中途半端なイスラムを実践する先住民と、そこへ移住してきた、より深くイスラム化したひとびとの間に、コンフリクトが起こる火種がそうして作られていくこともあるわけだ。同一種族の中でさえ、完璧なイスラム化を求める集団と伝統を残そうとする折衷的な集団の間で内戦が起こった実例をわれわれは知っているのだから。


ポソの町一帯に移住してきたひとびとというのは、ジャワ・バタッ(Batak)・ブギス(Bugis)・マナド・ゴロンタロ・バリなど広範にわたっており、長い歳月の間にポソは移住者と地元民が共存する種族と宗教の坩堝と化していく。
スラウェシ島南部海岸地方を本拠としたブギス族は通商交易の才にたけており、かれらが移住するとその地方の通商ルートを短期間のうちに握ってしまうと言われている。その面をとらえてかれらをブラックチャイニーズと呼んだひとがおり、一部のひとびとの間ではその呼称が今でも通用しているようだ。
かれらが経済の活発なポソに移住してきたことで、先住民の貧困化が進んだ。おまけに熱心なイスラム教徒であるかれらは、住みついた町々の自分たちの部落に必ず礼拝所を設けてイスラムの教義を実践した。だから先住民の中にイスラム化したひとびとがいるとはいえ、同じイスラム教徒の移住者たちとかれらとの間が一枚岩だということには決してならないのである。

一方、オランダ植民地政庁の進出によってキリスト教の布教も活発化した。更に、反植民地的動きを示すイスラム教徒住民よりもキリスト教徒住民に経済力をつけさせて植民地統治のバックアップをさせようとする政庁の方針が加わり、布教者宣教者たちの活動が政治的な追い風をはらんだことは疑いもない。ポソ一円に住む先住種族に向けられたキリスト教化の成果は政治権力の後ろ盾を得ていやが上にも盛り上がったにちがいない。
植民地統治機構はキリスト教系地元民を優遇し、行政機構内への登用もキリスト教徒が主流をなした。そんな地域行政スタイルは共和国独立後も継続した。独立以後の地元自治体行政は以前からその行政機構内にいたキリスト教系住民が担うことになる。かれらが民間経済におけるキリスト教徒優遇政策を従来通り継続したのはきわめて当然のことだったにちがいない。結果的にポソはキリスト教徒の町として名を知られ、行政機構の要職もキリスト教徒が就任する伝統が続けられた。ポソに関する叙述の中でキリスト教徒というのはプロテスタントを指している。

1938年にポソのキリスト教徒人口は全体の41.7%を占めたが、以後その宗教別住民人口比率は下降を続けることになった。1997年データでは、キリスト教徒人口は34.8%、イスラム教徒人口62.3%、カソリック0.5%、仏教ヒンドゥ教はその残りという構成比率になっている。その宗教別人口比率の推移は移住者がメインとなった人口増による市域拡大の結果行なわれた行政区域分割が原因であって、改宗の結果ということではない。


高い経済力を持つ地域に外の地域から移住者が集まってくる。かれらの多くは少なくとも、経済競争という面で場慣れしているひとびとだ。それに慣れていない先住民は必然的に市域の端に追いやられる。先住民の貧困化はだれの目にも明らかだろう。同じストーリーはジャカルタのブタウィ人にも当てはまるにちがいない。
そしてパロポ(Palopo)とパルの間を結んでポソやテンテナ(Tentena)を通過する街道が作られたことで、ポソにやってくる移住者たちの出身地が拡大した。ポソやテンテナはオランダ植民地政庁によって非キリスト教の大海の中に人為的に作られたキリスト教徒の町なのであり、そこへやってくる移住者たちは必然的にイスラム教徒がマジョリティを占める。
このようにして、経済的な動機がプライモーディアルなアイデンティティ共同体の勢力規模に変化をもたらすことになったために、ポソの町が新たな変化に直面することは避けられなくなる。 共和国独立以後、教育制度の拡充によってムスリム知識層が厚みを増してくると、ポソで行なわれてきた不公平で差別的な行政に対する批判が強まった。その結果、地元行政機構の中にもムスリム層の拡大が始まる。キリスト教徒であることが官僚機構の要職を保証していた時代が幕を閉じ、キリスト教徒とイスラム教徒の間で激しい競争が展開されるようになった。

政治家や官僚の世界でそのようなことが起これば、市民の一般生活にそれが影を落とさないはずがない。ましてや、地元公共予算があらゆる入札を通して地元事業者にばら撒かれるのだから、行政と議会がどの業者を使うことを支持するのかということが地元民間経済の重要関心事となるのは明白だ。
プロジェクトが大きくなればなるほど、地元業者が自分の力だけでそれを行なうのは難しくなるし、州政府の予算がそこに関わってくれば、最初から州都の有力者がひもをつけてくるということもインドネシアでは当然のように行なわれる。ポソの町の内部行政問題とはいえ、そこに州やあるいは中央政府が絡む要素が口を開いている。


もうひとつ見逃せないのは、ポソが植民地時代から歩んできた歴史がインドネシア国内でマジョリティを占めるイスラム教徒の目から見て、植民地統治のアンフェアな圧制の生き証人であるという側面だ。それは特に全国組織のイスラム急進派民間団体に被差別の典型例という悪感情を育み、それをてこにしてポソの同胞・兄弟への惜しみない支援を生み出す母胎と成りうるものだったのである。

そういう状況が存在しているということは、おのずとキリスト教徒側にも自己防衛の口実を与えるものとなる。仮想敵が存在しているというのに、ただ手をこまねいて攻撃されるのを待っている者はいない。両勢力のどちらが発端を作るかは別問題として、一旦火の手があがれば両勢力ともにきわめて迅速に戦闘態勢に入れるような準備が進められたのは間違いないことだ。ポソで起こる住民間の集団抗争が外部者の手を引き寄せるそれらの要因は、局地的な衝突事件が治安部隊の圧力を免れたときにはあたかも内戦と呼べるほど大規模なものに発展する根源になりうるのである。


ポソの住民間集団抗争事件、それを住民暴動と呼んだ記事もある、は1992年と1995年に既に起こっている。1992年の事件はイスラムを棄教したポソ県令とその息子がイスラム教を批判したことが発端になった。
1995年2月に起こった事件は、マンダレ村のキリスト教徒の若者グループがトゥガレジョ村のモスクとプサントレンに投石したことが発端となった。トウガレジョのイスラム教徒の若者グループはマンダレ村を襲撃し、家屋数軒を破壊して報復した。そのような事件はジャワ島でもスマトラ島でも頻?に耳にする、ある意味で日常的な村落間タウラン(集団喧嘩)であり、同じイスラム教徒の隣り合う村がタウランを行なって家屋を放火破壊しあうことも頻?に起こっているから、決してポソでの特殊な現象ではない。
ポソで起こったそれらの抗争が外部者の参入による規模の拡大に至らなかったのは、オルバ期の強権的住民統治手法がそれを許さなかったからだ。政治支配者が望まない騒乱はただちに軍治安部隊が出動して火を消してしまう。そんなとき、基本的人権違反という勇み足が出ることも稀でなかったのだが。


1998年5月暴動でオルバ体制が崩壊した。レフォルマシと名付けられた自由と解放の時代の息吹の中で、それまで軍治安部隊が行なってきた、抑圧的手法ではあっても秩序維持という面では有効だった、国家生活安定のための武力行使は、諸方面からの轟々たる非難を浴びて自縄自縛に陥ってしまう。
そんな時代の変化の中で、1998年12月、ポソ県令というトップポストの人選に関連していくつかのできごとが起こった。その結果、これまでさまざまな軋轢を乗り越えて宥和のある住民生活の実現に努めてきたポソ住民の間に、混乱の谷間へと転がり落ちるスタート台が姿を現しはじめたのだ。

ポソは8千7百平方キロの広さを持つ県であり、ポソの町はその県庁所在地である。県内の行政と経済活動がポソの町に集中していることから、住民の生活レベルはポソの町とそれ以外で大きな差が開いている。自ずと移住者が集まってくるのはポソの町となり、ポソの町が拡大することによって宗教別住民人口比率はイスラム教徒がますます優勢になっていった。

ポソの町にゴロンタロ、ブギス、マカッサル、ジャワなどからやってきた移住者たちは、経済活動の活発な海岸部を生活の場とし、そこにいた先住民は経済競争から脱落して内陸高原部へと移ることになる。宗教的要素はそこに関わっていない。一方、ミナハサやトラジャからきた移住者は、同じキリスト教文化が優勢な内陸高原部に住み着く傾向が強かった。中央統計庁のデータでも、ポソ一円の沿岸部地域はイスラム系住民の人口比率が高く、反対に内陸高原部の諸郡はキリスト教系住民の人口比率が高いとなっている。

きわめて大雑把な見方になるが、沿岸部はやってきた移住者が獲得し、先住民の多くが郊外に押し出されて行った結果がそれであるにちがいない。だから、あたかもポソの住民抗争は宗教上のディコトミーで認識される傾向が強いものの、先住民と移住者の対立という種族間の要素がそこにかぶさっていることを忘れてはならないだろう。この構図は2001年の中部カリマンタン州サンピッ(Sampit)でのものを代表にカリマンタン各地で起こった住民抗争や、最近では2012年にランプン州で起こったものまで、数多い。


ポソ県のアリフ・パタンガ県令が辞職したあと、県令の椅子は空席状態が続いていた。中部スラウェシ州知事が県令代行にハルヨノ氏を指名したが、そのとき県民の声が割れた。更に、中部スラウェシ州議会ゴルカル会派のアブドゥル・ムイン・プサダン議員が州行政上層部からの折り紙付きで県令候補としてポソに登場したことで、住民間の対立が激化を始める。地元民は地元のムスリム著名人で、キリスト教側と融和的なアブドゥル・マリッ・シャハダッ氏を県令に望んでいたが、外部から押し付けられたプサダンが県令に就任し、シャハダッはかろうじて副県令の座を得るにとどまった。住民間の対立に宗教アイデンティティが大げさに貼り付けられるようになり、ひとびとの意識はその対立を宗教上の抗争と位置付けるようになっていく。

続いて県官房局長の座が空席になると、キリスト教系とイスラム系住民が異なる候補者を推し立てて争った。こうしてポソ県行政機構内における権力中枢がイスラム系に偏する形が明確化するようになる。オルバ期には競争が激化したとはいえ、キリスト教系とイスラム系の間では最終的に権力分配が行なわれて折り合いがつけられていたというのに、オルバレジームの崩壊によってその伝統が破壊されはじめ、権力壟断への露骨な姿勢を対立陣営の住民たちは鋭敏に感じ取ったのである。
その不公平さがキリスト教系住民の心に憎しみの影を宿すようになる。そんな背景の中で、ラマダン月にプサントレンのモスクでムスリム青年とキリスト教青年が誤解の元に喧嘩を行い、ムスリム青年が刃物で斬られる事件が発生した。この事件は両勢力の市民有力者たちが鎮静化に努め、治安部隊の配備も迅速だったことから、大きな衝突は避けられた。しかし、神聖なるラマダン月にムスリムがモスクで斬られるという事件はムスリム社会にとってイスラムに対する冒涜と挑戦以外のなにものでもない。事件直後に事態は鎮静化したように見えたものの、怨恨は心の奥底でくすぶり続けた。
1999年4月、若者に煽動されたイスラム系群衆がロンボギア村のキリスト教系住民居住地区を襲撃して破壊放火した。そのとき暴動鎮圧に出動した県警機動旅団の発砲でイスラム系暴徒ふたりが死亡したことから、イスラム系住民の怨恨は更に深まって行く。

2000年4月にキリスト教系住民によるポソ沿岸部のイスラム系住民居住区への襲撃が開始された。キリスト教系住民がブギス・ジャワ・ゴロンタロ・カイリなどから移住してきた諸種族をポソの地から追い出そうとしてはじめられたのがその暴動だ。
この武力抗争は5月から7月にかけてポソ一円を戦火の渦中に投げ込み、死者577人以上、家屋の焼失破壊7,932軒、大破1,378軒、中小破690軒という損害を出した。また焼失したモスクは27ヶ所、そして教会55ヶ所寺院1ヶ所、また自動車239台が燃やされ、県内の主要産業である黒檀産出林も経済性を喪失するほど痛めつけられた。ポソ一円から住民が続々と避難をはじめ、2万7千人がパル、マカッサル、マナドなどに戦火を避けたと報告されている。

それまでポソで起こっていた住民集団間の衝突とはまるで様相が変り、武器を手にして敵対陣営を皆殺しにしようとする、血で血を洗う殺し合いが5月から活発化しはじめたのである。当然、敵対陣営の女子供も殺戮の対象にされた。
東トラジャ部族のメインをなしているトラジャバレッエ(Toraja Bare'e)族は大昔から首狩りを行なっており、戦争で敵を倒すとその首を切断して持ち帰る風習を持っていた。1859年6月10日にマナドを訪れたアルフレッド・ラッセル・ウォーレスは、マナドの住民から聞いた話として、スラウェシの中部高原地帯に住む首狩り族のことを書き記している。
だからかれらの殺人方法の中には最初から刀で相手の首を斬りおとす作法も含まれており、2000年5月ごろから激しくなった皆殺し抗争では、首のない死体や胴体のない首だけという遺体が多数見つかっている。
日本で一大センセーションを巻き起こした2005年10月のキリスト教系女子高校生3人の首切り殺害事件はポソの動乱の中で決して特殊な現象でなく、2001年12月のマリノ合意以降も各地で散発的に継続された殺し合いの中で頻発した首切り殺人事件のひとつなのだ。
似たようなことは、上述の中部カリマンタン州サンピッで起こった暴動をも彩っている。首狩りで名を知られたダヤッ(Dayak)族も、21世紀になったにもかかわらず、かれらの伝統風習を示して見せてくれたのである。

2000年5月以降の、ほとんど内戦とでも呼べそうな住民抗争で、刀ばかりが使われたわけでは決してない。双方の陣営で火器爆薬が当然のように使用された。
ポソ市内で燃え上がった住民抗争には、ポソ周辺にある諸郡から応援者が武器を手にして集まってきた。イスラム陣営にはポソ周辺のアンペナ、パリギ、ラゲ、パモナなど県内諸郡からはてはドンガラ県に至るまで、俄か仕立ての戦闘要員がポソの町中に進出してきたのである。もちろんポソ周辺地域で両陣営の勢力がある程度拮抗しているところにも戦火は飛び火する。広域的に戦力を比較すれば、圧倒的にイスラム陣営が数の上では有利だ。必然的にキリスト教系はフローレス、トラジャ、マナドなど他州から応援部隊を得ることになる。
だがポソ市内での戦闘で最初の核になったのは、大勢の一般市民や学生たちだった。かれらが銃刀を手にして戦闘に参加したのである。ポソの一般市民と武器の関係はいったいどうなっていたのだろうか?

もうひとつの大きな疑問は、治安部隊は何をしていたのかということであり、その問題をブラックホールに置く論調が少なくないように思われるのだが、忘れてならないのは、どの地方とも同じように、ポソ県治安部隊の構成員のほとんどが地元民であったということだ。治安部隊は中立的立場に立脚して、地域の秩序と全住民の安寧に貢献するものであるというのは理想論であり、インドネシアの官憲を理想論の物差しで測ればなかなか真実が見えてこないにちがいない。ましてや、地元出身の治安部隊構成員はひとりひとりがその親族や係累を動乱の嵐の中にさらしているのだから。


宗教戦争という言葉に相応するのは、2000年4月から2001年12月までの期間のできごとだろうと思われる。戦争と呼べる規模の事件はその期間がメインをなしているからだ。もちろんそれ以降も、同じ構図の上での殺し合いや爆弾テロは継続しているし、更にはジャワ島での活動を主体にするイスラム急進派テロリストグループの本拠地としての役割をもポソは持つようになった。

ポソに平和が戻ってくる気配は今のところまだない。それはともかくとして、はたしてポソの動乱は本当に宗教戦争というラベルが貼られて妥当なものなのだろうか?
(2013年10月)