インドネシア「バリ特集」2015〜16年


「珍しいバリ島郷土料理」(2015年1月13日)
同じバリ島の中でも、北部地方の料理には独自のものがある。相変わらず国際観光地バリ島というのは南部地方に限定されており、南部から中部東部にかけてのバリを制覇した観光客もなかなかブレレン(Buleleng)県まで足を運ぶひとが少ない。行ってもせいぜいロヴィナ(Lovina)とシガラジャ(Singaraja)程度であり、おまけに北部の郷土料理まで探求しようという旅行者はたいへんなマイノリティであるようだ。
デンパサル市からバドゥン県南部地域でバリ料理を愉しむひとは、それがバリを代表する料理だと思っているにちがいないのだが、そんなことはない、とブレレン県出身者は反論する。スダンルプッ(sudang lepet)、ブラヤッ(Blayag)、ジュクトゥンディス(jukut undis)、ルジャッ(rujak)、ラッラッ(laklak)など、北部独特の美味いものには事欠かない、とかれらは言う。
スダンルプッはルプッという魚の身の薄切りを塩漬けにして乾燥させたものだ。それを椰子油で揚げる。焦げたり膨らんだりしたらアウト。うまく揚がったものをかむときの歯ごたえがこれの醍醐味なのだそうだ。揚がったまだ熱いものにサンバルマタを降りかけてご飯のおかずに。ご飯の代わりにロントンでもよい。おかずがそれだけで済むはずがない。ジュクトゥンディスに野菜のプレチン。店によっては、揚げた大豆まめが付き、そして野菜のプレチンは生野菜のウラップに代る。ルプッ魚は東ジャワ州バニュワギ(Banyuwangi)から取り寄せられ、ブレレン県サンシッ(Sangsit)村で作られるスダンルプッが一番美味だと定評があるそうだから、料理人の出身村をそこはかとなく尋ねるべきかもしれない。
そういう料理を味わいたいひとにも便利な時代になっている。デンパサル市内にもブレレン料理を食べさせてくれるワルンがあるのだ。食材はわざわざブレレンから取り寄せているものが多いそうだ。デンパサル市内カトゥラガン(Katrangan)通りにあるワルンミラ(Warung Mirah)がそのひとつ。店主夫妻はブレレン県出身で、10年以上前からデンパサルでこの食堂を始めた。今では27歳のお嬢さんが事業を引き継いでおり、タバナン県ブドゥグルに支店を開いている。大学で経営学を学んだかの女は、受け継いだ食堂ビジネスの発展に余念がない。
ワルンミラでは、コーヒーや紅茶の友にラッラッを用意している。ジャワ島にスラビ(serabi)という焼き菓子があるが、ラッラッはそれとよく似ている。椰子殻の熾き火の上に素焼きの容器を置き、そこにタネを流し込んで焼く。ダウンスジ(daun suji)の緑色に染まった直径5センチくらいのしっとりした焼き菓子は実に食べ応えのあるものだ。椰子の実のおろしたものとアレン椰子砂糖のシロップ状をかけて食べる。
独特の飲み物にダルマン(daluman)がある。ダルマンの葉を絞って採った液を固めたダルマンは仙草(チンチャウ)によく似ているが、色は暗緑色。それをグラスに入れて上からココナツミルクとアレン椰子砂糖をかけて食べる。仙草と同様、胃腸を心地よくさせる効果を持っている。ワルンミラは朝から開店し、夕方には閉まる。なぜ夜までやらないのか?たいてい夕方で売り切れてしまうからだ。このワルンの一番廉価なものは6千ルピア、セットメニューは2万2千ルピア。
デンパサル市内テウクウマルバラッ(Teuku Umar Barat)通りのダプルブレレン(Dapoer Buleleng)も北部の郷土料理を堪能させてくれる食堂だ。43歳の店主は、かつてホテルで働いた経験を生かしてそのワルンを始めた。「観光客はあまり北部に行きたがらないから、北部の郷土料理などまったく知らない。かれらに知ってもらうためにデンパサルに開店した。自分からアプローチしなきゃ、待ってても効果はない。」
ダプルブレレンではブラヤッを愉しめる。ブラヤッはクトゥパッに似ている。クトゥパッは椰子の若葉で包むが、ブラヤッはロンタルの葉を使い、大きさは6x10センチくらいで形は縦長だ。飯の塊をこま切れにして皿に置き、その上からサテパダンのソースのようなピーナツを主体に甘辛くしたたれをかけ、ピーナツと鶏のスウィラン(suwiran)、そしてバワンゴレンを降りかける。
実は、ブレレン県庁は2013年以来バリ島北部の郷土料理の発掘と開発に着手しはじめた。既に90種のメニューが記録されており、県庁はブレレンフェスティバルの一部門として郷土料理を紹介する催しを行なっている。バリ島北部のうまいものを味わってみたいひとは、ブレレンフェスティバルをターゲットにすればよいだろう。ブレレンフェスティバルは8月に開催されている。


「バリワイン」(2015年1月23日)
ブラジル、インド、タイ、ベトナム、インドネシア・・・。熱帯の国々で作られるワインに、近年、注目が集まっている。新たに世界に登場してきた熱帯産のワインは、その地理的な意味合いを踏まえてnew latitude wineと呼ばれている。ヨーロッパやオーストラリアなど伝統的なワイン産出地域とは異なり、この地域で栽培されるブドウは季節を知らず、さらにそんなブドウから生まれたワインは甘味が感じられるため、初心者には飲みやすい。
インドネシア産ワインは世界有数の観光地バリで作られる。世界的に認められたバリワインはHatten Wines, Bali Wein, そして彗星のごとく登場したSababay Wine。バリ州ブレレン県サババイ村で2010年に65Haのブドウ園を開いた事業主が175家族の地元農民の生計レベルを大きく引き上げることに成功したのは、サババイワインのクオリティが国際級のものであると認められた結果だ。シンガポールで開かれたワイン&スピリットアジア(WSA)ワインチャレンジ2014で、サババイのMoscato d'Bali は銀賞を獲得した。上海や香港でのコンテストでも、高い評価を得ている。
世界にあるおよそ7百種のブドウの中から、フランスとベルギーの種が選ばれてブドウ園で栽培されている。それらは原産地で年一回しか収穫できないが、熱帯の地ブレレンでは三度収穫することが可能だ。もちろん雨季の開花結実は障害が多く品質に問題が出るため、事業主はワイン用の収穫を年に二回しかしない。土壌や環境の違いから、同種のブドウで作られたワインでも原産地とブレレンでは風味が異なる。
好評のモスカトドバリは色がユニークで、それが熱帯産であることを想像させる。まるでライムジュースのような色にメロンとジャスミンの香りが混じり、ピーチの甘味とライムの酸味が溶け合ったようなセンセーションをもたらしてくれる。生牡蠣、ブルーチーズあるいはスパイス豊富なインドネシア料理にとても合う。
サババイは他にもさまざまなワインをコレクションに持っている。Black Velvet, Ludisia, Pink Blossam, Reserved Red, White Velvet, など、さまざまなTPOにぴったり合うものをコレクションの中から探すことができる。ブラックベルベットはどうだろう?樫とサクランボの香りの中に熟したベリーとナツメッグの味を感じさせるこのワインは有名なバリ料理アヤムブトゥトゥにぴったりなのだ。
バリで最初のワインメーカーは1994年にバリ人が始めたハッテンワインで、アジアのニューラティテュードワインの草分けのひとりだ。かれはスパイス豊かなインドネシア料理にふさわしいワインを熱帯の地で生み出したいと望んだ。ハッテンワインのトップ人気はAlexandriaで、これも国際コンテストで何度も入賞している。WSAワインチャレンジ2014では銅賞を得ている。熟したマスカットの香りと沈んだ色に口当たりの良い甘さを持つこのワインは、樫の香りが抜けている。辛口がよければ、Aga Whiteがお勧めだ。アレキサンドリアに熱帯果実の香りが加わったこのワインはフレッシュな酸味が醍醐味だ。
ハッテンの商品レンジにはスパークリングワインもある。Tunjung, Jepun, というスパークリングワインのうち、トゥンジュンはプロボリンゴビル(Probolinggo Biru)という種のブドウが使われており、独特の風味が楽しめる。
もうひとつあるバリヴェインはインドネシア産のさまざまな熱帯果実から作ったワインが好評だ。せっかくバリに来たのだから、ユニークなバリワインをお楽しみになってはいかがだろうか?


「バリ人の宗教祭事出費は巨額」(2015年1月27・28日)
中央統計庁バリ州支所のサーベイデータによれば、州民の出費の最大ポーションである住居費に次いで大きいのは宗教祭事のための出費であるとのこと。都市部住民の宗教祭事出費は2011年3月に9.95%だったが、2014年9月データでは12.11%に増加している。村落部は12%前後で顕著な変化は見られない。全国各州を見渡しても、バリ州のこのパターンはきわめて独特のものであり、宗教祭事のための出費が増加していけば日常生活が貧困化することは容易に想像できる。
古来から続けられてきているヒンドゥ文化のアダッ(慣習)を維持するのがバリ人にとってたいへん重要な意味を持っていることは明らかだが、出費は妥当なレベルに抑えて日常生活をより豊かに送ることを考慮しなければ、貧困者を減らして国民福祉を向上させようとしている政府にとってヒンドゥ教徒は政策の足を引っ張るファクターになりかねない、というのが中央統計庁バリ州支所長が鳴らす警鐘だ。そのため、地元政府はそのポイントに関する効果的な啓蒙と指導を州民に与えることをより積極化させなければならない、と支所長は提案した。中央統計庁が行っているサーベイは州内120ヶ村をサンプル対象として行なわれており、村という名前がついている行政区画も都市部の中に存在している。
マデ・マンク・パスティカ州知事は、中央統計庁のそのデータは州政府が今後採るべき方針に重要な意味をもたらすものだ、とコメントした。「宗教祭事が州民の生活に負担をもたらさないあり方が望まれている。宗教祭事がもっと質素に行なわれるのなら、その出費は自然と抑制の方向に向かうだろう。」
バリのヒンドゥ宗教団体パリサダヒンドゥダルマは、ヒンドゥ教徒層への啓蒙に努める意向を表明した。宗教祭事がヒンドゥ教徒の社会的経済的負担になるようなことはあってならない、というのが会長の意見だ。
バリ州の貧困者人口比は2013年9月の3.95%から2014年9月に4.76%に上昇した。とはいえ、貧困者比率の小ささでバリ州はジャカルタに次ぐ全国第二位のポジションを維持している。
バリ州バドゥン県クタウタラ地区に住むある住民は、昨年12月に金融協同組合から5千万ルピアを借りた。息子のヒンドゥ式結婚、新築家屋落成のムラスパス儀式、一家一族の聖所を清めるムラジャン儀式の費用をまかなうためだ。その後、金が入るたびに借金の返済にまわしていたかれは、残高がいくら残っているのかを組合に問い合わせ、そしてもらった残高通知書の数字を見て何度も胸をなでた。インドネシア人が胸をなでるのは、ほっと安心して胸を撫で下ろすのとはまるで正反対の、不安や不満あるいは困苦などを思って詰まった胸を解きほぐしたいために行なうしぐさだ。その通知書には、2千万ルピアを超える数字が記載されていた。
一方、かれの隣人は母親のガベン儀式を親類縁者たちと共同で、集団ガベン形式で行った。ガベン儀式を一度催行するためには数千万ルピアの費用がかかる。だが、かれが親類縁者たちから費用分担金として求められたのは、わずか100万ルピアだった。
バリの一般庶民ヒンドゥ教徒の間で、宗教儀式を集団で行なう傾向が強まっている。ガベン、ムムクル、ムサギなど、ヒンドゥ教徒が慣習に則して義務付けられた諸儀式を低所得層が実践するための対応策がそれであるのは言うまでもない。一軒の家庭でそれを行なおうとすれば、かれらにとってその経済負担は生計を傾かせるものになってしまうのだから。ヒンドゥ宗教儀式の多くは巨額の費用を強いる。わずか一日だけ実施される儀式催行のための費用が小さいものでないの加えて、少なくとも一週間前からその準備を始めなければならず、準備から当日の挙行まで共同体のひとびとの手助けを得なければならない仕組みが、社会交際費用を大きいものにしている。総費用が10億ルピアを超えるのは、決して不思議なことではない。
そこに、社会内での尊卑観念がからまってくる。インドネシアはどの地方へ行こうが、多かれ少なかれ、金持ちが尊敬される文化だ。富貴を世の中に示すことは、一家一族の誇りとなる。経済能力の優れた家庭が豪奢さや贅沢さを顕示すれば、勢力を競う相手も負けじと応じてくる。世の中でそういうハイレベルが示されたなら、経済力がはるかに劣るひとたちさえもが、それに引きずられて無理せざるを得なくなってしまう。あまりにも見劣りするのは恥であり、世間の嘲笑と侮蔑を招くことになるからだ。
そういう流れに呑まれた冒頭の住民は、月収2百万ルピアに満たない経済能力をカバーするために借金に走ったのである。中央統計庁バリ州支所は、バリ島ヒンドゥ教徒の宗教祭事が貧困化を促すことになるとして警鐘を鳴らした。
バリのヒンドゥ宗教団体パリサダヒンドゥダルマは、華美や贅奢を求めることは宗教儀式の本質とは関係ないのであり、生活や家計の負担にならないよう能力相応のことをすればよいのだ、と従来からも信徒を啓蒙しているが、その点についての理解をもっと広げて行かなければならない、とコメントしている。


「スピリチュアル制作」(2015年1月29・30日)
ライター: バリ在住文化人、ジャン・クトー
ソース: 2014年11月30日付けコンパス紙 "Pabrikasi Spiritual..."
たまたまゴミの中から手にした2012年5月16日付けジャカルタポスト紙第一面がこれから述べる風刺的なわたしの観照を生んだと言えば、信じていただけるだろうか?そこにあったのは、一頭の豚を引いて歩いているひとりのバリ人農夫の後姿だ。巨大な一対の○○○○が否応なく目の中に飛び込んできた。偽善的でないアンチポルノ法支持者の頬を赤く染めるに十分な大きさをしている。この写真、いったいどうして検閲をパスしたのだろうか?
その農夫は何をしているのか?かれはオス豚を引いて村を巡り、待ちかねているメス豚たちに交合させるのだ。取り立ててセンセーショナルなことではない。ただ、わたしが本当に驚いたのは、そのオス豚がバリ原産の黒豚でなく、赤みがかった肌色が示す通りの西洋豚(あるいは混血か?)だったことだ。オリジナルのバリ島黒豚は、今では内陸奥地の村にわずかしか残っていない。グローバリゼーションが生んだ予想外の犠牲者なのである。
バリ豚の西洋化がだれの抗議も受けずになされうるのであれば、文化の中でも同じようなことが起こっているのではあるまいか?
今やバリには、そこで何かと邂逅することを期待して多くの西洋人がやってくる。そのものズバリのバリ文化というのではなく、かれらが夢見ていた東洋的な何かだ。そして、そういう東洋的な何かに誰もが邂逅できたはずもない。期待してきたものに出会えなかったのなら、その期待に沿うものを制作してやればよい。
つまり、観光客にあまり多くを期待してはいけないのだ。カカウィン「アルジュナウィワハ」の中でアルジュナが唱えるバタラシワの美しい祈りの文句「ウィヤピウィヤパカ サリニン パラマタッワ ドウルラブハ キタ(一切の真髄を包み包まれ、汝「神」の届かざるところ)」が観光客を魅了するなんて、ありえないことだ。かれらにはややこしすぎる。しかしウブッ近辺を往来したり、チャングーのヴィラの塀の中を覗いてみたりすれば、何やらわからない霊が取り付いたように目をむき、身体を奇妙な形に動かしたり、あるいはかれら自身が理解不能な正体不明の神の言葉を口走っている西洋人をあなたは必ずや目にするにちがいない。実体は、法論功愛好者、こっちのリンポチェやあっちのサドゥ、アーナンド・クリシュナのファン、ルミやら他のだれかといった西洋が作り上げたひとつの東洋イメージから出現した異なる真理の周辺で競い合っている者を師と仰いでいる連中だ。カムチャツカのシャーマンや、実に奇妙なことに、キリスト教神秘主義者の弟子だけが、ここには見当たらない。
需要があるから供給が出現する。長い髭と総純白の衣装に片言の英語を織り交ぜたローカルの師たちがさまざまなヒーラーやコスミックエナジーアドバイザーあるいは諸人種のスーフー(師父)を伴って続々と登場する。現代西洋世界のスピリチュアル欠乏が東洋式スピリチュアルビジネス畑のチャンスと化すのである。中にはグルメ、フェスティバル、香り、セックスクンダリーニやら腸の掃除まである。一部のひとびとはクリエーティブ産業に位置付けている。実に面白い。
動物園のひとつ(もちろんこの島の動物園だ)でツーリスト向けに制作されたバリ様式はとても興味深いものだった。制作プロセスはまったく異なっており、突発的天啓のひらめきでなく、何百時間もの会議の結果インベスターの槌が振り下ろされるスタイルだった。さて、それはいったい何だったのか?
完璧でプロフェッショナルで、世の中にざらにあるものでない、『バリアグン』と題する150人を超えるバリ人の踊り手・演奏者・ダランが演じるひとつのショー。そのストーリーは?バリ王スリ・ジャヤパグスと中国王女の間の神秘的なラブストーリーで、バリではバロンランドゥン演舞の中にしばしば描かれている。その結果は?すばらし〜い。絶品だが・・・・
しかしナレーションとプレゼンテーションの構成から見るなら、それはバリのパフォーミングアートでなく、西洋と東洋(中国)のふたつのマーケットセグメントの嗜好を同時に満たそうとする味付けの加えられたデイズニーランドショーだったのであり、おまけにバリ人は単なる観光産業の被害者である添え物などではないのだというイメージをバリ人にもたらす効果をも加味していた。なんというブリリアントさだ!
要は、農業文化がアーバナイゼーションに蝕まれつつある中で、バリは最新資本主義のふたつの粉砕機の脅威に直面しているということなのだ。先進諸国のスピリチュアルクライシスのシンボルであるニューエイジと物質的貪欲さのシンボルであるオールドキャピタルがそれだ。それを克服する方法はあるのだろうか?わたしにはわからない。しかしこの歪んだ西洋文化がグローバル化の真っ只中に鎮座しているのを見る限り、わたしがあなたがたインドネシアの友人たちにこう申し上げることをお赦し願いたい。「未来よ、ようこそ」と。


「荒っぽさが身上のバリ人」(2015年1月29日)
2014年12月26日付けコンパス紙への投書"Penyulut Mercon di Bali Bebas Beraksi Tanpa Ditindak"から
拝啓、編集部殿。2014年9月28日、バリ州ロヴィナ観光地区にある我が家の裏手の畑で火事がありました。爆竹の火花が出火の原因です。火勢が大きかったために、消防車が二度も鎮火に来なければなりませんでした。
別の場所、バリ州カランガスム県に住むわたしの祖母は最近、一週間も入院しなければなりませんでした。心臓が弱ったからです。
子供・若者そして大人までもが11月はじめごろから絶え間なく、爆竹・花火そして竹やビニールパイプ製の爆発ツールで時間などお構いなしに轟音を響かせており、耳を覆いたくなる爆発音のショックを祖母が受け続けた結果でした。轟音を鳴らして喜んでいるかれらの言い草は、新年を迎えるためのお祝いです。
社会生活の中に音の暴力を撒き散らせるその行為は、ホリゾンタルコンフリクトを発生させかねません。バリでは住民が自由に爆発物に点火しており、当局がそれを抑制する動きをまったく示さないこの事実がわたしには不思議でなりません。[ バリ州ブレレン県在住、スリ ]


「ホテルが溢れるバリ」(2015年2月13日)
バリ州観光局のデータによれば、州内の商業宿泊施設は2,212軒あり、客室総数は5万室にのぼる。それはつまり、毎晩十万人の観光客を収容できる規模であることを意味しているのだが、はたしてバリ島内にそんな数の観光客が毎日満ち溢れているだろうか?バリ島のグラライ国際空港で入国する外国人観光客は毎年増加の一途をたどっている。
2009年 209万人
2010年 239万人
2011年 258万人
2012年 283万人
2013年 328万人
2014年 377万人
もちろんそこに国内観光客が加わって、夜な夜なバリ島の宿泊施設を利用しているわけだが、その結果としてのホテル客室稼働率を見ると、2014年は51%の稼働率になっている。2011年から2013年まで毎年平均して稼働率は62%あったから、客室供給が増えすぎて稼働率が低下し、ホテル事業経営に悪影響が出ているということを指摘しない経済評論家はいないだろう。
2009年 59.0%
2010年 60.2%
2011年 63.2%
2012年 63.2%
2013年 60.7%
2014年の稼働率低下は、州内のデンパサル市・バドン県・タバナン県・ギアニャル県・カランガスム県・ブレレン県などでほぼ一様な様相を呈している。ロヴィナを擁するブレレン県の2014年12月ホテル客室稼働率はわずか30.4%だった。
州観光局長は、「昔からなかったわけでもないが、ここ数年顕著に不動産開発が盛り上がり、州内に土地バブル現象が起こった。その主要因は観光開発で、ホテルやビラの建設が膨れ上がった。」と指摘する。その中には無届の宿泊ビジネスに使うことを目的にして個人が家屋やビラを建設したものが多数混じっており、おまけにそういうプロジェクトに外国人がからんでいるのはバリで常識になっている。外国人がインドネシア女性を妻にして、妻名義で不動産を買いビラを建てる。できあがったビラは外国人の本国でバリの宿泊施設賃貸オファーの中に加えられ、利用者は自国で支払いを行い、バリに遊びにきてそのビラの雇い人に空港で迎えられ、その後のバリでのお遊び一切はビラの雇い人や出入りの商人が面倒を見る。
支払いがインドネシア国内で発生しないから、税金もインドネシアに一銭も落ちないという寸法だ。登録も納税もなく、バリ島内が外国人を富ませるために利用されている実態に怒らない役人はいないが、法的に白黒をつけにくい状況と、観光振興に与える悪影響を恐れて、州政府はそのような不法ビラ営業の摘発を熱心には行なっていない。州観光局長はその種の非合法宿泊施設の客室数は1万室を超えているだろうと推測している。
インドネシア観光産業連盟バリ支部長は、州内特に南部地区の商業宿泊施設は既に過剰になっており、産業の保護育成の見地から現状の無制限な施設増加を抑制するべく地元政府が認識を改めるよう希望している、と発言した。ここ数年、デンパサル市内やバドゥン県観光センター地区には廉価で瀟洒なシティホテル・ビジネスホテルの新設が相次いでおり、ホテルが急増している印象が強い。
現バリ州知事は数年前から南部地区でのホテル新設モラトリアムを呼びかけ、バリ島北部の観光開発をはかるために北部への投資を勧めようとしたが、州内の全県市がそれを拒否した経緯がある。ふたたび湧き起こってきたホテル新設モラトリアム論議に対してバドゥン県は、そのように硬直的な方針は採らない、との姿勢を明らかにしている。「ホテル新設許可条件の中に、1Ha以上の駐車場を持たなければならないという一項を加えた。これだけでも、ホテル増加のスピードは低下する。」
新規参入してくる業界者の計算が甘いのか、業界の自然淘汰を抑制して行政が既存事業者を保護する必要が本当にあるのか、エゴと利害の衝突はどちらに軍配が上がるのだろうか?


「バリ空港に第二滑走路を」(2015年3月3日)
しばらく前に改装工事が終わって規模が拡張されたバリ州グラライ国際空港に早くも次の拡張計画があがっている。但しそれは航空管制に関わる話。2015年2月20日にバリ州知事と会談した国有事業体相は、グラライ空港は既にフルキャパシティに近付いており、次のステップとして既存の滑走路を延長することと、新規にもうひとつ滑走路を建設することについて州知事に説明したことを明らかにした。
グラライ空港の国際線発着便数は2012年から2014年まで年平均18%という伸びを示しており、現在の滑走路一本で捌ききれない状態になる日が早晩やってくるのは目に見えている。空港を利用する旅客数についても、2014年は一日当たり47,370人がグラライ空港で航空機を乗降した。年間の国際線旅客数は830万人、国内線は900万人というのが、2014年の実績だ。
観光産業を支えるための交通インフラとしてバリ州は、北部ブレレン県の第二空港建設や、東部カランアスム県タナアンポでの大型客船埠頭建設など、数件の企画を抱えている。北部に建設予定の第二空港は、グラライ空港のような海上に突き出した滑走路になる可能性が高いとリニ・スマルノ国有事業体相は語っている。


「バリ島ブノア港を国際客船基地に」(2015年4月8日)
港湾運営会社プリンドIII がデンパサル市南部にあるブノア港に客船入港のための施設を設ける企画を一歩前進させた。ブノア港一帯は水深が浅く、大型船の利用が難しいことから、バリ州政府はこれまでもっと東のカランガスム県パダンバイ港から更に東へ5キロほど離れたタナアンポに国際客船用の埠頭を設けたものの、港設備の破損・アクセス路の未整備・バリ島南部から遠すぎる、といったことからそこを利用する船はめったになく、バリ島に立ち寄る国際クルーズ船はたいていがブノア港を利用していた。
つまり、ブノア港は現実に客船の需要を持っているのだから、ブノア港に施設を設けるのが最適であるという姿勢がそこに見られるのだが、これは州行政の中にある、バリ島南部集中型観光経済を全島に均等化させるという方針をつまずかせる案件がまたひとつ増えたということをも意味している。実際にバリ島を一周してみると、北部も東部も観光開発はまだまだであり、集客も南部からウブッにかけての稠密さとは比べ物にならない状況で、全島均等化の道のりは大いに険しいものがあるように思える。
国有港湾運営会社プリンドIII は関連国有事業体とコンソーシアムを組んでブノア港に客船基地を設ける企画に着手し始めた。他の国有事業体とはPT Jasa Marga, PT Pengembangan Pariwisata Indonesia, PT Wijaya Karya, PT Adhi Karya, PT Hutama Karya, PT Pembangunan Perumahan の6社で、特にブノア港脇を通っている海上自動車道バリマンダラとの関連性がこのコンソーシアム編成の基盤をなしているようだ。自動車道をベースに置いたブノア港再開発というのがプリンドIII が立てている企画なのである。
プリンドIII 代表取締役は、国際クルーズ船用埠頭を設けてサービス性を向上させて外国人観光客の上陸場所を適切なものにしてから、その先の目標としてブノア港を国際クルーズ船基地とし、観光客がブノア港からクルーズ船に乗って出発する場所へとその機能を拡大させるようにしたい、と語っている。


「バリの信頼できる病院」(2015年4月13日)
バリ州で病院認定コミッションから資格認定を得ている病院は、州内にある56病院中で公営の4病院と私営の6病院しかない。2012年のコミッションによる認定審査で合格したのがそれらの病院だ。そのリストは次の通り。
公営
サンラ中央総合病院 RSUP Sanglah
ワガヤ地方総合病院 RSUD Wangaya
バドゥン地方総合病院 RSUD Badung
タバナン地方総合病院 RSUD Tabanan
私営
シロアム病院 RS Siloam
外科内科病院 RS Bedah dan Penyakit Dalam
BIMC病院クタ RS BIMC Kuta
BIMC病院ヌサドゥア RS BIMC Nusa Dua
スルヤフサダ病院デンパサル RS Surya Husada Denpasar
スルヤフサダ病院ヌサドゥア RS Surya Husada Nusa Dua
州政府は州内の医療レベル向上のために、次のステップとして公営と私営の各4病院を認定候補者に指定した。病院として開業するための品質基準合格がこの資格認定であり、将来的には、認定の得られない病院は開業できなくなるとして政府は既存の病院に対し、資格認定取得に努めるよう叱咤激励している。


「バリ島の海岸線を守れ」(2015年4月17日)
バリ島の海岸線は2010年に470kmだったものが、2013年には593kmとなり、三年間で123kmも増加した。その原因のメインは海蝕によるものと見られており、陸地が増えているのでなく減少していることをそれは意味している。たとえて言うなら、まっすぐだった海岸線が入江状に内陸側に湾曲したために海岸線が長くなっている、という状態のようだ。
一部のエリアでは激しい海蝕を防止するための対策事業が行なわれているが、全島に渡って対策活動が行なわれているわけではない。また海岸線は住民に開放されているものの、観光産業界がビーチを売り物にしているために海岸線の利用については地元民との間に利害の衝突が起こり勝ちだ。たとえば、ヌサドゥアの南に広がるググルビーチの南詰めには海草養殖者の村があり、浅瀬での海草養殖から天日干しに至る生産活動が営まれていたが、大型ホテルが建設されたために村は縮小され、かつて百人以上いた海草生産農民は今や半分以下に減少している。
バリ州海洋漁業局長は、海岸線の維持のために海岸保存指定地区を7万3千平方キロまで拡張することを目標にしている、と語った。現在既に指定されているのは20,057平方キロにすぎない。海岸線の維持をはかるためには、法的バックアップが不可欠なのは言うまでもないことだ。
インドネシア観光産業連盟バリ支部長は、バリの観光産業にとってビーチはきわめて重要な観光資源であり、政府の海岸線維持方針はたいへんありがたいものだ、と政府方針への支持を表明した。バリ島のビーチが観光産業の脚光を浴びるようになったのは1960年代のことで、1955年にサヌール海岸にホテルスガラビーチがオープンしたのを皮切りに、海岸部にホテルやビラが林立するようになってからビーチの重要度が跳ね上がった。
バリ島南部地区に新たな観光開発を目論むブノア湾埋立て計画もバリ島のビーチを核にする商業化プロセスのひとつだ。バリ島では地元民や学術関係者が埋立て計画に反対しており、バリ州議会でも賛否両勢力の間で論戦が続けられている。その問題に関連して、バリ州西側にあるジャワ島東端のバニュワギ県ムンチャル地区住民が、ブノア湾埋立て計画への反対姿勢を表明した。とは言っても、埋立て計画そのものに対する反対でなく、埋立てにムンチャル海岸の砂が使われることへの反対。
ムンチャル海岸船着場周辺で学生と漁民が一般市民から署名を募ったところ、一日で2,015の署名が集まった由。その前にも、環境保護団体Walhi 東ジャワ州支部活動家がブノア湾埋立てとバニュワギ海岸からの砂採取計画に対する反対デモを行なっている。


「バリ島への国際郵便物から麻薬が」(2015年4月28日)
バリ州バドゥン県グラライ空港税関が、デンパサル市の住所宛に送られてきた国際郵便物4件の中にナルコバ(麻薬禁制薬物)を発見した。ギリシャから送られてきたものは大麻3.2グラムで、DVDケースの中に隠されていた。受取人のオランダ人男性70歳は警察が容疑者に指定して取り調べている。
他の郵便物については、中国からの3.1グラムのMDPV結晶が入っていたもの、南アフリカからの郵便物にはシャブ462グラム、米国からは大麻57グラムとコカイン7.2グラムが入っていた。絵画の額の裏側やランプの奥などに隠されているナルコバを見つけ出すのはたいへん困難なことであり、税関検査官の勘の利かせどころということになる。
国家麻薬庁バリ州支部長は、それらのいくつかは国際シンジケートがナルコバをバリ島内に送り込むために弱点を見出そうとして小手調べに送ったものではないか、との推測を語った。乗客手荷物の中に隠してグラライ空港を通過するナルコバに対する検問はきわめて厳重に行なわれており、そのルートを使うのはロスが大きくなるため、もっと効率のよい抜け穴を見出すのに国際シンジケートは躍起になっているということかもしれない。国家麻薬庁によれば、ティモールレステとインドネシアの国境線からインドネシアに入ってくる可能性がむしろ現在最大の懸案事項となっており、その対策が現在の緊急問題である由。


「バリ島内でナルコバ犯罪活動が盛ん」(2015年4月29日)
2015年4月21日、バリ州デンパサル市警はナルコバ(麻薬禁制薬物)ユニットが市内ススタン地区住民W、主婦30歳を逮捕したと発表した。8ヶ月の子供がひとりいて、夫は働いていないために衣料品のネット販売をしているこの主婦は半年ほど前からナルコバの使用を始め、報酬を得たいがためにナルコバのクーリエ仕事を行なっていた。一回運び届けるたびに5万ルピア程度の報酬を得ていたそうで、警察が逮捕したときかの女が所持していた39.1グラムのシャブは市価9千万ルピア相当であり、その落差には唖然とさせられる。これまでバリ島内のあちらこちらに品物を運び届けていたことをかの女は警察に供述している。
それとは別に、デンパサル市警はジャワ島からのナルコバ運び屋ひとりを逮捕している。その運び屋男性A34歳は運転手を職業としており、依頼主から電話で指示を受けると、指定された者から品物を受け取ってバニュワギからデンパサル行きのバスに乗り、やはり電話で指定された者にデンパサルで品物を渡していた。警察に逮捕されたとき、この運び屋Aは99.06オンスのシャブと950粒のエクスタシーを携帯していた。たいてい一回1千粒程度のエクスタシーを運ぶのが普通で、これまでにもう何度もその仕事に成功していたと本人は自供している。その仕事が成功するたびに、かれはおよそ5百万ルピアの報酬を手に入れていた。
デンパサル市警ナルコバユニットは2015年1月から4月の三週間までの間にナルコバ犯罪者110人を逮捕し、証拠品として大麻7キロ、ヘロイン30.3グラム、シャブ945.8グラム、エクスタシー2,036粒を押収している。
国家麻薬庁バリ州支部長は、バリ島内のナルコバ犯罪活動は増加しており、犯罪シンジケートに関与する者の中で30歳台の年齢層に顕著な増加が見られる、とコメントした。2010年のナルコバ流通者599人は2014年に677人にアップしているとのこと。また島内のナルコバマーケットも膨張しており、販売シンジケートは肉体労働者や自営業者と家庭の主婦をターゲットにして販促活動を行なっている。2014年に逮捕されたナルコバ使用者は780人おり、そのうち410人が民間会社員、221人が自営業者、そして年齢が30歳を超える者は677人いた。


「バリ島のオーストラリア人泥棒」(2015年7月28日)
2015年7月19日に、デンパサル市内の路上に停めてあったオートバイを盗んで逃げようとした白人を市民が捕らえて警察に引き渡した。この白人はオーストラリア国籍でジェームス・イアン・ラムジー50歳と名乗り、バリに観光に訪れたようで、バリ島の居住者ではない。ジェームスは警察の取調べに対してのみ言葉少なに供述し、報道関係者には口をつぐんでいる。
バリ州デンパサル市警南デンパサル署に拘留されたジェームスは、盗んだ理由を尋ねる取調官の質問に、鍵が鍵穴に差し込まれたままになっていたからだと答えた由。かれはパスポートを所持しておらず、またその他のアイデンティティを示す公的書類も一切持っていなかった。かれが持っていた財布の中にはオーストラリアの運転免許証と5万ルピア紙幣1枚だけが入っていた。警察はジェームスの精神鑑定を行なうことにしている。


「根強いバリ島の狂犬病禍」(2015年7月30日)
2008年後半から狂犬病禍に襲われたバリ州では、それ以来ほぼ7年間で159人の死者を出している。過去三年間を見ると、狂犬病の発症は2013年44件、2014年132件、2015年は上半期だけで227件と急上昇中。
州政府は狂犬病対策に17万人分のワクチンを200億ルピアかけて購入する予算を組んでいるが、州内の医療機関に配備するためのワクチン3万8千人分をワクチン生産者にオーダーしても1万3千人分しか入手できず、対応が順調に進んでいないのが実情だ。
抜本対策としての飼い犬の予防注射や野犬狩りと処分といった対策は行なわれているものの、いまだに狂犬病非汚染地区に復活することができず、反対に発症事例が増加するという皮肉な結果が現出している。
州政府畜産局動物保健課長は、州内9県市で840人を動員して狂犬病抑制に力を入れている、と語る。「過去7年間、年平均30万匹の犬に予防注射を行なっている。また野犬の処分にも力を入れており、患者が出た村はおよそ3千匹の野犬処理を行なっている。2008年から始まった狂犬病禍は5カ村がその幕開けになったが、今では狂犬病から無縁の村は島内にひとつもない。」
州民の中に、野犬処分に反対するひとびとがいる。たとえ野犬であっても、生命を尊ぶ人道主義に反する行為であるというのがその理由だ。だが「狂犬病対策」に関する2009年州条例第15号は既に制定されており、野犬処分をやめることはできない、と動物保健課長は言う。「飼い犬を正しく保育し、あるいはつないでおくことを飼主に義務付ける条項がその条例の中にあり、違反者は入獄刑に処せられることになっているが、そのような極端な措置はまだ採ることができない。」
バリ州では、2008年州知事規則第88号で狂犬病を媒介する犬・猫・猿の州内への移入が禁止されており、国内他州からも海外からも移入の禁止は同じ様に適用されている。また鳥フル対策として、鶏や家鴨などの家禽類も州内への移入が禁止されている。


「デンパサル市の基礎知識」(2015年8月21日)
バリ州デンパサル市の行政基礎データ最新版は次のようになっている。
市の住民人口は84.6万人で、男性43.2万人、女性41.4万人がその内訳。
行政区画は4郡43町/村から成り、その下に209部落を抱えている。デンパサル市の地域は元々バドゥン(Badung)王国の一部で、インドネシア共和国が成立してバドゥン王国がバドゥン県になったときも、バドゥン県内の一エリアだった。デンパサルの町がバドゥン県の首府に指定されたのは1958年。更に1960年にはバリ州の州都に定められた。それ以前のバリ島の行政中心地は北海岸のシガラジャ(Singaraja)であり、ジャワ島との交通にもっぱら船が用いられていた時代の交通の要衝だった点からすれば、現在の観光中心地区であるバリ島南部地域とシガラジャの繁栄度合いは隔絶していたに違いない。バリ島民の中にいまだにシガラジャ復興と南北の経済バランス回復を求める声が強いのは、そういう歴史の推移を反映したものであるように思われる。
1978年にデンパサルは市に昇格し、バドゥン県から分離されて独立した。インドネシアの行政区画制度では、県(Kabupaten)と市(Kotamadya)は二級地方自治体として同格の位置に置かれている。
そのため、今やバドゥン県の行政区画はプタン(Petang)、アビアンスマル(Abiansemal)、ムンウィ(Mengwi)、クタ(Kuta)、クタウタラ(Kuta Utara)、クタスラタン(Kuta Selatan)の6郡に分けられ、県内の行政中心地はムンウィの町となっている。
クタ郡は、だからバドゥン県クタ郡であり、その下にクドガナン(Kedonganan)、トゥバン(Tuban)、クタ(Kuta)、レギアン(Legian)、スミニャッ(Seminyak)という5つの町を擁している。デンパサル空港と一般に呼ばれているグラライ国際空港は、昔トゥバン飛行場と呼ばれていたように、現在のバドゥン県クタ郡トゥバン町に位置しているということだ。
デンパサル市の総面積は127.8平方キロで、人口密度は平方キロ当たり6千6百人。世帯数は9,210戸で、貧困世帯はそのうちの11.5%を占めている。デンパサル市内にもスラム地区があり、市庁の把握によれば次の8地区に貧困地区が存在している。もちろんスラム地区の中にだけ貧困世帯があるわけではなく、ミドルクラス住宅地区の中にも貧困世帯は散在しているので、単純な結びつけをすることはできない。
1)Banjar Pemangkalan Gang Kelapa Muda Ubung Kaja (seluas 0,50 Ha),
2)Jalan Nusa Kambangan Dauh Puri Kauh (18 Ha),
3)Jalan Merta Sari sidakarya (95 Are),
4)Jalan Merta Sari Sanur Kauh (95 Are),
5)Jalan Padang Galak Sanur Kaja (105 Are),
6)Jalan Letda Reta Dangin Puri Klod ( 4 Ha),
7)Jalan Bubungan Gang II d kesiman Petilan ( 2,5 Ha),
8)Jalan Maruti Dauh Puri Kaja (4 Ha)
デンパサル市内でも、住宅密集地区に入っていけば、道路は驚くほど狭くて四輪車一台が通行するのがやっと、というのが普通だ。デンパサル市のモータリゼーションはおのずと二輪車という方向に向かい、四輪車は市外の新たな新興住宅地や新開発ビラ地域という限られた場所で進展することになる。市内の道路総延長は66万3千キロメートルで、そのうち87%が舗装されてはいるが、状態が良好なところは全道路の6割程度しかなく、18%が補修を必要とする状態になっている。
市内には一般銀行が28行、国民貸付銀行が14行ある。またパサルは51ヶ所あり、その内の村単位のパサルは35、村行政の関わっていないパサルは16ヶ所、パサルで販売を行っているパサル商人は7,542人にのぼる。市内サヌール地区にあるシンドゥ市場(Pasar Sindu)は観光地としての地の利を生かした観光パサルになっており、観光客が経済的なショッピングや食事のために立ち寄る場所として人気を集めている。
医療制度は公立病院2ヶ所、私立病院14ヶ所、専門病院1ヶ所、軍病院2ヶ所、保健所11、補助保健所24、巡回保健所12、ポシャンドゥ(保健センター)461。保健所に勤務している医師は43人、歯科医師35人、医療補助員176人。
学校の数は、大学(官立1、私立22)、普通科高校(官立8、私立27)、職業高校(官立5、私立26)、中学校(官立12、私立53)、小学校(官立168、私立64)、幼稚園(官立2、私立276)となっている。


「バリ空港で時限爆弾持ち込み?!」(2015年12月10日)
2015年12月6日(日)夜、バリ島グラライ空港国際線ターミナルは混雑していた。警戒レベルが高められたターミナルビル3階の出発ロビーでは、出発手続きを終えた搭乗予定者が手荷物チェックを受けている。
中年の西洋人カップルが手荷物のバッグをX線透視機に入れた。画面を見ていた警備員たちの表情に不審な色が走った。バッグの持ち主の男性に、バッグの中身を見せてくれ、と言う。その男性はバッグの中からひとつの品物を取り出した。包装が開かれたとき、その一帯を驚愕が襲った。ひとつに括られた4本の筒がデジタル時計のようなものと巻き線で連結されている。時限爆弾ではないか!
身構えた警備員たちにその男性は笑いながら言った。「ノー、ノー。これはトイですよ。」
警備員の手にその品物が渡される。およそ20cmの筒はまるでダイナマイトそっくりだが、仔細に調べると本物でないのが明らかになった。しかし、これは実によくできている。本物そっくりだ。このようなものを制限ゾーンに持ち込むことは許されない。ましてや機内になど。
警備員はその品物を没収し、カタール航空でドハへ出発する予定のカップルをそのまま放免した。ふたりは待合室に入り、搭乗案内が出たので機内に入って座席に座った。機体の扉が閉まる。ところがしばらくしてから扉がまた開き、空港警備員が数名機内に入ってくるとその西洋人カップルに近づき、機内から出るよう求めた。ふたりは諦め顔でおとなしく警備員に従った。ターミナルビルに戻ったふたりは空港警察署員に身柄を引き渡され、そこからデンパサル市警本部に護送された。
手荷物チェックポイントの警備員は、品物が玩具であり、所有者は害意を持っていないと判断されたため、問題のある品物を差し押さえただけでよいと考えたようだが、警戒レベルが高められているおりから、空港管理上層部は警察の取調べを受けさせるよう求めたようだ。
その西洋人カップルはイギリス国籍のフォリー・ダヴィデ48歳とイタリア国籍のコファノ・セレステ41歳で、観光目的でバリを訪れ、オーストラリアの友人たちとバリで落ち合い、セレステさんの誕生日を祝ったそうだ。ふたりは一週間スミニャッのホテルに滞在した。ダヴィデ氏は職業が芸術家、セレステさんは法律事務所勤務。問題の玩具についてダヴィデ氏は、スミニャッのトコポレッという店でその品物を見、たいへんユニークで面白いため100万ルピアでそれを購入した、と入手経路を警察に語った。その品物を機内に持ち込めるかとダヴィデ氏が店主に尋ねたところ「問題ない」という返事を得たそうだ。インドネシアの商店主から「それは難しいかもしれない」という言葉が出る可能性はまずあるまい。
警察はその供述の裏付けを取り、すべてが明白になったためにふたりを釈放した。カップルは12月8日未明のフライトでバリ島を去った。警察はトコポレッにもう一個あった同じ商品を没収した。


「デンパサルでやくざ出入り」(2015年12月22〜24日)
バリ州バドゥン県クロボカンにある刑務所内で、2015年12月17日16時15分ごろ、ふたつのグループメンバー間の喧嘩が起こった。このふたつのグループはインドネシアでオルマス(ORMAS =organisasi massa 大衆組織)と呼ばれる法的ステータスを持つもので、一応は地元政府の管理下に置かれている合法的組織だが、どのような人間がそこに所属しているのかは言うまでもあるまい。首都圏で名高いイスラム守護戦線(FPI)やブタウィ協議フォーラム(FBR)なども同じ合法的なオルマスだ。もちろん、オルマスのすべてが同類であると言っているわけでは決してない。
オルマスは一般大衆の生活向上意欲発露の場として設けられるもので、生活環境・法支援・宗教・文化・保健など何らかの分野における生活レベルの向上に奉仕するものと定義付けられているのだが、リーダーや統率組織内で参加メンバーをどのような方面に引っ張っていくかは、決して固定的硬直的に見ることができないものだ。参加する人間の資質と組織力のメリットが合体するとき、合法的な看板を掲げて非合法行為を行う可能性は無視できないものがある。世界中の犯罪組織は多かれ少なかれ、似たようなメカニズムで回転しているのではなかったろうか?
バリ州内の有力オルマスであるラスカルバリとバラディカバリは、勢力争いが両者の間にからみついているため、暴力抗争に火が付くのはあっという間だ。そして17日に刑務所内で起こった受刑者同士の喧嘩は、そのふたつのオルマスメンバー間のものだった。
犬猿の仲であるふたつのオルマスのメンバー収容はブロックを分けるのが当然だ。クロボカン刑務所内で、バラディカメンバーは主にCブロックに、ラスカルメンバーは主にDブロックに収容されている。16時過ぎ、Dブロックの者がCブロックの者に声をかけたが、Cブロックの者はそれを無視した。するとDブロックの者数名が無視した相手の身体に組み付き、別の者たちがその周囲を取り囲んだ。と思うまもなく、組み付かれた男は血を流しながら床に倒れた。凶器は刃物だった。
その直後、Cブロックの者たちが手に手に刃物や凶器を持ってDブロックに襲い掛かって行った。Dブロックの者たちが応戦しないわけがない。刑務所内で凶器を持った受刑者たちが乱闘を繰り広げるという、珍しい光景がそこに出現したわけだ。刑務所側がバリ州警察とデンパサル市警に出動を要請し、緊急出動した警察隊が17時ごろ、トラック7台で現場に急行して刑務所内を鎮圧した。バラディカメンバーふたりが死亡し、ひとりが重傷を負った。
ちょうど同じころ、刑務所の外でも、書記長に率いられたおよそ2百名のラスカルバリ集団が凶器を手にして刑務所内に侵入しようとした。市警本部長の談によれば、刑務所内から受刑者が本部に応援を求める電話をしたため、急遽支援部隊が編成され、戦闘態勢でそこへやってきたそうだ。刑務所内の問題は警察にまかせろという説得で、警察はその支援部隊を退散させた。
18時15分ごろ、ラスカルバリ戦闘隊は刑務所前から去った。しかし既に目を血走らせている戦闘隊が不完全燃焼のまま帰宅するわけがない。かれらがデンパサル市内テウクウマル通り方面に移動しているとき、バラディカバリのシンボルマークをつけた数台のオートバイが走ってくるのに出くわした。場所はシンパンアンペッ食堂前でクロボカン刑務所からはおよそ3キロ離れている。
ラスカルバリ戦闘隊は、前口上もなくバラディカバリのグループに襲い掛かった。バラディカバリメンバーふたりが死亡し、ふたりが槍と刀で重傷を負わされている。
この17日の流血抗争事件には伏線があった。2015年9月23日21時半に起こったバリ州デンパサル市ディポヌゴロ通りアルタクンチャナルフル住居店舗のスパ・カラオケ店ロイヤルパレス(RP)でオーナー兼支配人を殺害した犯人3名が前日の12月16日にクロボカン刑務所に入獄している。犯人3名はRPの警備員として雇われていたが、店側がかれらに自宅待機の措置を与えた。3人はそれを実質上の解雇と見なし、9月23日に店が営業しているときに支配人を訪れて措置に関する苦情を言い立てた。
そしてしばらく話し合ったあと、3人のひとりがいきなり支配人の後ろから刃物を背中に突き立て、他のふたりもそれぞれが刃物を握って支配人を襲い、死亡させた。3人は最初から刃物を隠し持って支配人に会っており、計画的犯行であるのは明らかだ。その事件に関して警察は、解雇されたのを恨んでの犯行であると発表したが、実は別の要素が伏せられていた。それは支配人がバラディカのメンバーであり、殺害した3人はラスカルのメンバーだったという事実だ。
16日に入獄した3人のうちのひとりの父親が、17日11時ごろ、息子に面会に来た。そのときバラディカの受刑者に面会に来ていたバラディカメンバーとその父親の間で殺気立った口喧嘩が起こっている。
ラスカルは12月17日の事件のおよそひと月くらい前から、威勢を示すデモンストレーションをコンボイの形で何回かグラライバイパスなどの大通りで行っており、かれらが攻勢態勢に入っていることがそこからも想像できるように思われる。
ところで、クロボカン刑務所内で多数の受刑者が刃物や凶器をふるって乱闘したのを目の当たりにした警察は、ありうべからざる事態に驚き、急遽刑務所内の捜索を行った。受刑者は武器・凶器あるいは携帯電話などを持ち込んではならないことになっている。
それについては、刑務所看守に対する金と脅迫という飴と鞭で、組織に属す受刑者たちは相当自由な振る舞いが可能になっていたという話だ。「おめえの妻子が・・・」という脅迫よりは、金をもらって目と口を閉じるほうがハッピーであるにちがいあるまい。
警察は刑務所内11ブロックを例外なく捜索し、レボルバー拳銃3丁、22口径自動拳銃2丁と銃弾90個、エアソフトガン7丁、百本を超える刀剣・短剣・槍、携帯電話機129個、ラップトップコンピュータ2台、大麻2キロ、鉢植え大麻ひとつ、現金5百万ルピア、貯金通帳3冊などを発見して没収した。
刑務所内での殺害事件では、19歳・23歳・28歳・29歳の4人のラスカルメンバーを警察は容疑者とした。その4人はデンパサル地方検察庁が殺人事件容疑者として拘留している者たちで、12月15日にクロボカン刑務所に預けられたばかりだった。
テウクウマル通りの事件では、警察は28人を捕らえて取調べを行っている。またこの抗争が互いの報復を繰り返してエンドレスにならないようにするため、警察は12月18日に両オルマスの統率者を招いて和解調停式を行い、事件は打ち切られて尾を引くことがないよう約束する覚書への署名がなされている。
17日の抗争で殺害された四人のバラディカメンバーの検死報告が公表されている。
デンパサル市サンラ病院法医学部門責任者が、17日に殺害された4人の検死結果を報告した。司法解剖は18日に三人、19日にもうひとりが行われている。
まず最初にクロボカン刑務所内でラスカルメンバー数人に取り囲まれ、組み付かれた際に刺されたプトゥ・スマリアナ通称ロボッ32歳は左胸を2回、左腹を1回刺され、頭・腕・膝・唇に擦り傷を負っていた。死因は、刺し傷が肺に達して肺に出血が起こったため。
もうひとり、刑務所内の乱闘で死亡したワヤン・プルナマ・ウィヤサ通称ドグレル32歳は背中を2回、腹を1回刺されている。
テウクウマル通りでの衝突で、突然の襲撃を受けて落命したふたりは、次の通り。
クトゥッ・ブディアルタ36歳は右胸を2回、右背を2回、左背を1回刺されていた。右腕下と右手のひら、左腕上部に相手の武器をはらったときについた傷があった。両膝に擦り傷があった。死因は肺の出血。
マデ・ムルタヤサ27歳は腹の傷が大きく開いて腸がこぼれ出した。両腕に斬り傷があり、背中には刃の切っ先による斬り傷と、深い刺し傷がひとつあった。腹の傷で腸の動脈まで傷つけられたために大量出血が起こったのがその死因。


「バトゥル山でサンライズを」(2016年2月9日)
インドネシアで唯一の国連指定ジオパークがバリ島にある。
朝暗いうちからホテルを出てバトゥル山に登り、朝日の中に浮かび上がってくる遠い山々の姿と、徐々にそのたたずまいを明らかにしはじめる、朝霧にけむる眼下のバトゥル湖の情景は、旅人たちを魅了して放さない。
バトゥル山頂に向かう道には、毎日夜明け前に光の筋ができる。大勢の観光客が列を成して山を登っているのだ。かれらが手にしている懐中電灯が、遠目に光の筋を作り出している。しかしそのラッシュアワーにも似た人間の大行進を避ける観光客もいる。かれらはもっと素晴らしい光景を獲得しようとして、その踏み分け道からはずれた別の道を、静かな闇の下をくぐって歩む。
星空が未明の大地にほのかな光を投げかけている8月の朝、グループのひとびとはウルンダヌ寺院より高い位置にあるバンジャルアレンコンに向けて出発した。車は四輪駆動車だ。クディサン村のホテルから高度1,525mのブブングデまで、およそ一時間の道程になる。
バンジャルウルンダヌに入ると、断崖に沿った急坂をひたすら登る。バンジャルアレンコンに着くころには、濃い霧で視界は1メートル。車は徐行するしかない。そうして車で行けるところまで行くと、あとは急坂を徒歩で登る。足場の悪い道を、大勢の観光客が懐中電灯を手にして登っていく。
この朝、大勢の観光客が待ち受けているというのに、濃い霧が太陽をさえぎった。闇はすでに乳白色に変わったが、なんという無情な霧だろう。霧が薄らぐと、そこに集まっている全員の顔に希望が輝いたが、ほんのわずかな時間だけ遠景を見せてくれただけで、ふたたび濃霧が一帯を覆った。湖の向こうにバリ島最高峰のアグン山が頭を出し、海のかなたにロンボッ島のリンジャニ山が遠望された。各観光客グループをエスコートしているガイドが自分の携帯電話で好天の朝撮影した風景を見せてくれる。実物が見えたらどんなに素晴らしいだろう。霧が晴れたのは7時ごろで、太陽はもう高く上がっていた。
霧の中から突然コーヒー売りが現れる。寒気払いに熱いバリコーヒーはうってつけだ。一杯5千ルピアのコーヒー売りは大人気。
このバトゥルカルデラトラッキングと題する早朝のバトゥル登山ツアーが始まったのは、およそ一年前。料金はひとり30万ルピアで、バトゥル湖を渡る船の料金まで含まれている。このツアーは外国人観光客にたいへんな人気で、ヨーロッパ・アメリカ・アジアの観光客がほとんど百パーセントを占めている。
バトゥル登山ルートはブブングデだけでなく、トゥルニャン村を通るルートがふたつ、ほかにもトヤブンカルートがひとつ、そしてプラジャティルートと、全部で5つのルートが用意されている。トゥルニャン村からアバン第1丘まで行くルートはおよそ45分かかる。トゥルニャン村は風葬がいまや観光資源となっているが、この登山ツアーは村にとって第二の観光資源となっている。


「バトゥル湖の味覚」(2016年2月10日)
標高1,050メートルのバトゥル湖は海抜1,717メートルのバトゥル山と海抜2,172メートルのアバン山に囲まれた盆地の中にできたカルデラ湖で、湖水は雨と周囲の山地から浸透してくる地下水だ。棲息している魚は数多い。
ニラ nila (Oreochromis niloticus)
ムジャイル mujair (Cichlidae)
マス mas (Cyprinus carpio) 鯉
タウェス tawes (Barbonymus gonionotus)
ワドゥル wader (Cyprinidae)
ドゥルッ delek(別名ガブス gabus (Channa striata))
レレ lele (Clarius batrachus melanoderma) 鯰
地元行政や民間が稚魚を定期的に放っているので、魚影は深まる一方。稚魚はおよそ6ヶ月で成魚になり、収穫できる。地元民の食糧は魚に関する限り、困ることがなく、伝統的な筏に乗って網を使う漁民の姿は日常の光景になっている。筏にせよ、モダンなファイバー製の小船にせよ、漁民は終日湖上で魚が網にかかるのを待つ。一日の収穫はたいてい10kg程度だ。
言うまでもなく、地元民の魚料理は発展進歩する。バトゥル湖畔住民の魚料理を楽しみたければ、バトゥル湖へ行けばよい。
バトゥル村村営の食事処、ワルンニラプレスト(Warung Nila Presto)は自前の生簀を湖上に持っており、客の注文に応じて新鮮な魚を調理してくれる。たいていのメニューは20分くらいで仕上がるが、屋号のニラプレストを注文したら、2時間半待たなければならない。2005年以来バトゥル村が経営するワルンニラプレストは、今や三ヶ所に支点を開き、毎日10キロ以上の魚を消費している。
どの魚にせよ、バカル(bakar)やゴレン(goreng)で素朴に素材を楽しむのもよいし、手の込んだ地元の美味を楽しむのもよい。あらゆるスパイスをたっぷりと混ぜ込んだ調理法を地元ではバサグヌップ(basa genep)と呼ぶ。そこに使われる薬味は、bawang merah(エシャロット), bawang putih(ニンニク), kunyit(ターメリック), jahe(ショウガ), kencur(カンフェリアガランガ), lengkuas(アルピニアガランガ), kemiri(ククイ), ketumbar(コリアンダー)。このワルンで働くトヤブンカ部落長は、バトゥル湖の淡水魚は他の場所のもののような土臭さがない、と語っている。
バサグヌップにもっとも良く合うのが、地元でニャッニャッ(nyat-nyat)と呼ばれている蒸し魚。このワルンでニャッニャッを注文すると、フィッシュヘッドスープとサユルジパン(sayur jipang)が添えられてきた。骨まで噛み砕けるのは、実に心地よい。地元で採れるテロンブランダ(terong belanda タマリロ)で作ったジューストゥウン(jus tuwung)で口中をリフレッシュする。
バトゥル湖畔名物ニャッニャッは個人経営のワルンでも賞味できる。夕食時になると混み合うワルンマカン(warung makan 食堂)プトリグナレスタリ(Putri Guna Lestari)には、地元民までがやってくる。厨房では、ニャッニャッとフィッシュヘッドスープが常にコンロの上に置かれている。高地の冷気は料理を容赦なく冷やしていくからだ。この店は一日におよそ30キロの魚を消費する。ルバラン・新年・ガルガンなどの祝祭日には消費量が跳ね上がるそうだ。
湖に浮かぶ水上ワルン(Restoran Apung)もある。自然保護のために湖底に柱を立てず、イカリで固定してあるだけだから、波のまにまに漂う雰囲気が強い。ここでは、客の注文に応じて生魚を湖からそのまま取ってくる。魚をどう料理しようが、船上のお食事のセンセーションは、バリ名物サンバルマタ(sambal matah)を添えて食べれば極上ものだ。
オーナーはバトゥル湖畔に生まれ育ち、ジャカルタで判事の職を勤め上げて定年退職した人物で、夫婦で厨房に立っている。2006年に開店したこの店は、できるかぎりバトゥル山の麓で取れた野菜やスパイス類を使うようにしているそうだ。他の場所から送られてくるものとは味が違う、とオーナー氏は語っている。
バトゥル湖の魚、バトゥル山麓の野菜類。そんな高原の地元の味を楽しまなければ、せっかくキンタマニへやってきた値打ちが半減しそうだ。


「水没するトゥルニャン」(2016年2月11日)
バトゥル湖の水位が上昇している。2013年のときから2年間で4メートルも上昇した。湖底の土砂堆積が激しくなっているらしく、昔は最深部で80メートルもあったものが、今では場所に拠って16メートルくらいに浅くなったところもある。水位が上昇するのも当然だ。
州環境インパクト統制庁データによれば、標高1,050メートルのバトゥル湖は表面積16.05平方キロ、水量8億1,538万立方メートル、水深平均50.8メートル、湖岸線およそ21.4キロ、陸地は起伏のあるカルデラ平地で海抜1,717メートルのバトゥル山と2,172メートルのアバン山に向かって丘陵になっている。
水位上昇によって、湖岸に建てられていたプラは次々と水中に没し、トゥルニャン村の岸辺は後退を続けている。ワヤン・チプタさんの家の表は村道があり、表門にはガプラが建てられていたが、今や家のテラスのほんの少し向こうが岸辺になってしまった。かなり広いエシャロット畑があったのに、今では何を植えることもできない。村の家屋も21軒減った。程度の差こそあれ、水没したのだ。
クムニャンの木の下に遺体を置く風葬の墓「セトラワヤ」は今や観光サイトになっているが、船からそこへ上陸する船着場が水没している。観光サイトを示す看板は、まるで水中に立てられたように見える。セトラワヤは高台にあるため、今のところは安全だ。「乾季だというのに水位が上昇している。これはいったいどういうことなのだろうか?」ワヤン・チプタさんは首をかしげる。
ウルンダヌ寺院と対をなして水守護の神ダヌ女神に捧げられたスガラウルンダヌバトゥル寺院の表門はもはや歩いて通ることができない。プラで身を清めようとする村人のために、丘を通る新しい道が作られている。寺院の表に広がっていたエシャロット畑も、今では湖底に沈んだ。ジャティ寺院も似たような運命をたどっている。
クディサン村のレイクサイドハットホテルは30バンガローのうち8つを諦めなければならなかった。レストランの建物も何回も地上げをした。水上レストランのオーナーでもあるワヤン・レナ・ワルダナ氏はジャカルタで判事の職を勤め上げたあと、故郷に戻って2006年に観光ビジネスを興した。2014年の水位上昇が異常に激しかった、とかれは語る。かれは自ら、巨大なパイプで湖水を吸い上げ、丘のかなたに捨てる試みを何度か繰り返したが、効果はなかった。
トゥルニャン村は道路を高くするなどして対策を講じているものの、水位上昇を阻むことができず、畑などの耕作地がどんどん水没していくのを防ぐことができない。村民の収入は低下する。2011年には438世帯だった貧困家庭は2015年に560世帯に増えた。村の総世帯数は785だ。
観光客を運んでバトゥル湖を横断する渡船事業は一回の運航が60万ルピア。そこから村に納められる課金は1万5千ルピアだけ。セトラワヤに観光客を運ぶ船は一日10隻程度だ。観光客が金づるになり、村人に話を聞くにも金を求められるようになれば、観光客の居心地は悪化の一途をたどる。村の民宿に泊まろうとするひとはいなくなるかもしれない。
問題はそれだけに留まらない。火山性土石採掘が観光ビジネスをつまずかせはじめている。
今から2万9千3百年前に火山のすさまじい爆発で最初のカルデラが生まれ、そして2万150年前の激しい爆発で第二のカルデラとその底にバトゥル火山が生まれた。バトゥル火山は1804年から2000年までの間に28回噴火している。
バトゥル火山が噴出した火山性物質は石化し、ひとびとはそれを採掘して建築資材に使う。その採鉱活動がバトゥルの自然を破壊し、更に観光ビジネスに悪影響を投げかけているのだ。
「観光客がここへ来るためには、土砂や石を積んだトラックの群れを潜り抜けなければならない。命がけの思いをしてまでわたしのホテルに泊まる義理はない。わたしのバンガローは採算ぎりぎりだ。採算線を浮いたり沈んだりだよ。」ワヤン・レナ・ワルダナ氏はそう語る。
毎日24時間休みなく続けられている採鉱活動が、安らかな高原の旅を期待してきた観光客を失望させる。日が落ちたら、観光客はウブッなどの静かな環境を求めて山を下りていく。必然的に、ワルンやレストランも日没閉店するところが多い。
バトゥル村民のひとりは2000年ごろ自分の土地20アールの土石を売り、2億5千万ルピアの金を手に入れた。土地は深さ20メートルほどの穴があき、そのまま放置されている。そこを埋め返せばまた農業生産に使えるのだが、2億5千万ルピアの金を使い果たしたいま、かれには大穴と貧困生活だけが残された。穴の埋め立てには巨額の費用がかかる。貧困者になったかれにそんな金の工面ができるわけがない。
バンドン工大地学テクノロジー教官は、バトゥル湖の水位上昇に関して包括的な調査を試みる必要がある、とコメントした。バトゥル湖には水が流れ出る川がない。湖水は湖底の岩石を通して浸透し、地下を流出していくというメカニズム以外に考えようがない。そのメカニズムを解明することによって、水位上昇の原因が見つかるかもしれない。
その問題は別にして、ジオパーク内での採鉱活動をいつまで放置するのか、という問題がある。両立し得ないものを放置しておけば、ジオパーク指定が取り消される可能性が高い。ところがインドネシア政府はそれを放置したまま、トバ湖やグヌンセウを第二第三のジオパークにしようと売り込んでいる。最初のジオパークがもし取り消されたなら、第二第三の指定が果たして起こりうるのだろうか?


「世界の中心はバトゥル湖岸」(2016年2月12日)
トゥルニャン村はバリ人の原型だ。ヒンドゥバリ文化では遺体を焼くガベンの儀式が常識化しているが、トゥルニャンでは遺体をクムニャンの木の下に置いて風化させるだけ。住民はかれらがパンチュリンジャガッと呼ぶ世界の中心がその地にあると考え、パンチュリンジャガッの守護神を祀り、信仰している。ヒンドゥバリ文化に覆われた島内の他の場所にその思想がまったく存在していないのも、トゥルニャンがヒンドゥ渡来以前の文化を継承していることを示している。守護神はダトンタと呼ばれ、高さ4メートルの巨石がそのご神体とされた。プラパンチュリンジャガッがダトンタ神の住家であり、ダトンタを祀るための7層のチャンディの建設がサカ暦833年(西暦911年)に行われた記録が石碑に記されている。トゥルニャン村の地域組織としての歴史はそこまで遡れるようだ。しかし、この地には、石器文化を持つ人類が太古から生息していたことを示すものが多数見つかっている。
プラパンチュリンジャガッの周囲は密集した民家に取り巻かれ、そのエリアに入って行くには狭い小路を徒歩で進むしかない。その朝、居住地区の中では主婦たちがコンロにくべる枝木を用意して料理を始めた。住民たちは昔ながらの素朴な暮らしを営んでいるのだ。墓地セトラワヤが観光スポットになったが、観光地に特有のあの喧騒と開放感は、この地で影すら見出せない。ホテルや宿泊施設もなく、レストランもなく、あるのは住民が日常生活に使う包装済み飲食品を販売しているワルンだけ。
住民の一部はバトゥル湖岸の土地で野菜畑を作り、エシャロット・トウガラシ・トマトなどを栽培している。かれらには稲の栽培が禁じられているのだ。住民のおよそ4割はガイドや渡船業などの観光産業に従事している。
かつて湖岸に建てられていた家屋や畑が水没した。水没した家屋は放置されたままになっている。もちろんそこはもともと空家だったのであり、プラの創設日であるオダランの祝祭日に使われていただけなのだ。パンチュリンジャガッのオダランは10月ごろやってくる。オダランでは、二年に一度古代から伝えられたバロンブルトゥッの舞踊が舞われ、踊り手はトペンをかぶり、乾燥させたバナナの葉で作られた衣装を着る。
プラパンチュリンジャガッのジャバシシの広場にある集会所で行われるパチュルアンの儀式の際に欠かせないもののひとつが闘鶏だ。闘鶏用のにわとり「アヤムジャゴ」はバリで一羽40万ルピアもする。村人は飼っているアヤムジャゴを月一回湖でマンディさせる。にわとりの体に水をかけてから、村人はにわとりを湖に向かって空高く放り上げる。岸に向かって泳ぎ戻ってくることで、アヤムジャゴは健康で頑健なからだに成育し、優れた闘士となるのである。
観光スポットである墓地スムワヤへは、船で湖を横切って直接乗り入れる行きかたと、陸路をトゥルニャン村まで行く方法のふたつがあるが、たとえ陸路を行ったとしても、墓所の入り口に達するためには船を使わなければならない。陸路その墓所に入るルートはないのだ。
スムワヤでは骸骨や人骨が副葬品や金銭と一緒になって列を成している。遺体の中には竹網のシートに覆われたものもある。野獣に冒されないための工夫だ。周囲を圧倒してそびえているタルムニャンの巨木こそが死臭を中和させる秘密を持っているとのことだ。
スムワヤに葬られるのは自然死を迎えた者だけで、事故などの死者はスムバンタに葬られる。赤児から未婚の青年までの年代で死亡した者はスムムダが墓所になる。トゥルニャンの女性はそれらの墓所を訪れることが禁じられており、また墓所に行った者がそのままプラパンチュリンジャガッに入ることも禁じられている。清めのプロセスが義務付けられている。
風葬の墓を訪れる観光客は毎日およそ5隻のボートと5隻の小船でやってくる。7人乗りの船はチャーター料金が一隻60万ルピア。トゥルニャン村はその60万ルピアから1万5千ルピアを得ているだけだ。墓所への入場料は徴収されず、ただ寄付金だけが求められる。村人たちは墓所へやってくる観光客にほとんど関心を払わず、毎日の営みをひたすら続けているばかり。


「バリの山と海」(2016年2月22・23日)
バトゥル湖畔のソガン村にウルンダヌ寺院がある。プラの表に置かれた木板には古い石碑に彫られた文章が書き写されている。
グニジャヤはここにて、バリの民衆にのたまう。汝らはいま、命の水を与えられた。ウルンダヌでアムルタを乞うことを忘れてはならぬ。なぜなら、われこそがバリの全民衆を生かす者であるからだ。われにアムルタを乞う者はだれであれ、かならず繁栄を得るであろう・・・・
サカ暦380年(西暦458年)に建てられたプラウルンダヌバトゥルは、ダヌ女神の宮殿だ。それを建てたのは女神の弟でルンプヤン山に住むサン・ヒヤン・グニジャヤと、アグン山のブサキに住むサン・ヒヤン・プトラジャヤ。かれら三人はスムル山に住むサン・ヒヤン・パスパティの子供たちだ。サン・ヒヤン・パスパティは別称サン・ヒヤン・トリ・プルサとも呼ばれる。父神は子供たちに、バリ島の繁栄を守護するように命じた。
ダヌ女神が祀られているのはバトゥル湖畔のプラウルンダヌバトゥルともうひとつ、キンタマニ街道沿いに設けられているプラウルンダヌバトゥル。バリのヒンドゥの民は今でもまだ、農業が順調に行われて災厄から免れるために、バトゥル山への供物祭祀を忠実に継続している。ロンタルスサナバリによれば、バトゥル山はダヌ女神の宮殿にするためにマハメル山の頂が移されたものだと信じられている。そしてダヌ女神がわが姿を示現させたものがバトゥル湖だそうだ。
毎年プルナマカパッのたびに催されるピオダランや十年に一度のワリクラマのような賑わいはないものの、プラウルンダヌは常に参詣者の姿が絶えない。この寺院はプラスバッ(Pura Subak)の総元締めでもあるのだ。ヒンドゥの民は装飾された竹筒で聖水を汲むムンダッティルタの儀式を行い、得られた聖水は故郷に持ち帰って地元スバッでの儀式に使われる。
2015年8月のある日、数組の夫婦がアムルタを乞う祈りを捧げていた。かれらはまずバトゥル湖北東岸にあるプラスガラウルンダヌで身を清めた後で、はじめてプラウルンダヌバトゥルに入ってジュロ・マンク・グデ・ウルン・ダヌ・バトゥルの統率下に祈りを捧げることができる。プラスガラウルンダヌは、清めの水の潔癖さを維持するため、表門から百メートル以内の場所で無関係の者がマンディすることを禁じている。
ジュロ・マンクは礼拝の指揮を終えたあと、履物を脱いでプラの上層部に上がる。そこには、プラ自体と同じ古さの聖所パリンギパッマティガがあり、そこはサン・ヒヤン・トリ・プルサの宮殿になっている。パッマティガのすぐ脇には十一層のメルがあって、隣には聖水の入った甕を持つ豊穣のシンボル、ダヌ女神の像が立っている。
ダヌ女神はウィスヌ神を象徴するチャクラを持っている。プラウルンダヌはもちろん、繁栄の源泉としての神とされるウィスヌ神に捧げられたものだ。かれは豊穣のシンボルなのである。空であるが満たされており、始まりも終わりもなく、果てもない。それこそがサン・ヒヤン・ウィディ・ワサであり、つまり唯一絶対神にしてアムルタの中心をなす者だ。アムルタに接したいのなら、ウルンダヌで礼拝するべきなのである。
ピオダランの儀式が催されるとき、ひとびとの精神生活の中にある自然との調和が示される。バトゥル湖畔の丘の上で、プラダルムブアハンのピオダランは清めのプロセスにバトゥル湖の聖水と恵みの水が用いられた。祖先への供物にもバトゥル湖の魚が使われる。「祖先への供物として魚を捧げるのなら、地元バトゥル湖の魚が使われるほうがよい。鶏肉は禁じられている。」ブアハン村長はそう述べている。
供物バントゥンララパンの山の間から、衣服・タバコ・練り歯磨き・飲み物などが顔をのぞかせている。参詣者のひとりはバトゥル湖の魚2尾を椰子スパイスで調理したものをその山の一番上に置いた。その祖先への供物は、祖先が存命中に食べたのと同じものだ。
ピオダランの日、儀式が開始される前、男たちはサン・ヒヤン・ウィディ・ワサに捧げるバントゥントゥガナンを運ぶのに忙しかった。女たちもバントゥンララパンやアジュガンを頭上に載せていた。プラにやってくるひとびとは家族の人数分のケペン銭を納め、記帳してもらう。
ピオダランはヒヤン・ウィディを象徴するすべての像を清めることから始まる。グンタが鳴らされると、ひとびとのざわめきは一瞬にして静寂に変わり、1千8百人を超えるブアハン村民が行う礼拝の儀式バクティプパウォナンが始まる。
ピオダランの儀式のあと、ひとびとは村のニュピに入る。32日間、婚姻の儀式も行われず、動物を殺すことも禁じられる。昔は、村のニュピの期間中、外部者が村に入ることも禁じられた。村を通り抜ける者には罰金が科された。今、村道は公道となり、外部者への強制力は失われている。
バリ文化研究者は、バリ人の精神生活の中に山と海の二重構造という対立コンセプトがあると説明する。「山は北、海あるいは湖は南に位置付けられる。山は神聖さを象徴し、上あるいは頭(かしら)と理解される。神々が地上に降りてくるとき、一番高い場所が山だ。山と海が同じ強さの聖性を持っているとしても、平衡コンセプトに従って海は世俗のものと理解される。
水というもの自体、山から生まれ出てくるものだ。泉となって山から滲み出し、たまって湖となり、流れて大海に至る。民衆にとって、水は宗教生活に不可欠なものだ。火と水は精神にエネルギーを与える源泉でもある。」
バリ文化のコスモロジーにおいて、海と山は相互に補完する重要なカップルをなしている。バトゥルでは、バトゥル山とバトゥル湖がそのカップルを形成しているということなのだ。


「バリ島の交通渋滞軽減策は効果なし」(2016年3月7日)
バリ州は島内南部地区の交通渋滞軽減策として州民の四輪車保有抑制方針を開始し、2014年6月から自動車税の累進税率方式をスタートさせた。これは、一家族が保有している四輪車が複数の場合、一台目は1.5%、二台目は2.0%、三台目は2.5%というように0.5%ずつ税率が引き上げられていくシステムで、一家族が保有しているということの定義は、KK(家族登録証)の住所と同じものが自動車登録の住所になっていること。
すると州民は節税対策を行うようになった。一家族が二台目三台目の四輪車を持とうとする場合、自動車登録を州内の交通警察でしなくなったのである。かれらはジャワ島のどこかで登録と納税を行い、その車をバリ島内に持ち込んで使うから、交通渋滞軽減の実は上がらず、おまけに自動車税収入が減少するというおまけまでついた。
2015年の地元地方税収入は30.9億ルピアあったが、税収目標達成率は103%でしかなく、2013年の達成率123%はもはや手の届かない過去の栄光となってしまった。そのためバリ州政府は、どうせ四輪車が増えるのなら税収も増やそうと考えたようで、累進税率適用はKTPを規準に採るように改定された。つまり一家族でなく一個人が保有する二台目三台目に累進税率がかけられるということになったわけだ。
しかしバリ州政府はあくまでも州外からの四輪車を制限したい意向であり、かつて出されたアイデアは、州外ナンバー四輪車がギリマヌッ港に上陸した際、島内にどのくらい滞在するのかを申告させ、妥当と思われる期間を表示したステッカーを添付させて、期限切れ車両が島内を走っているのを取り締まるという構想だったが、それは実現していない。しかし2015年11月に州知事は州外ナンバー四輪車の島内常駐を禁止する意向を表明し、州外ナンバー四輪車に対する取締り検問さえ行われたことがある。国民が知恵を使って政策をかわすようなことをすると、国民の自由を金縛りにかけようとしてゴリ押ししてくるのは、ジャカルタのスリーインワン制度と類似の精神構造のように思われる。為政者の開化度合いが問われるゆえんだ。
一方、二輪車はこの累進税率システムの対象になっていない。バリ州の二輪車登録台数は250万台あり、四輪車の40万台とは桁違いだ。そして、全国的に二輪車オーナーの大半が購入と登録時に自動車税を納めるだけで、二年目以降は忘れ去っている。だから税率をどのようにしようが、それで税収がアップするわけではないということを関係者は熟知しているようだ。
それでも取れる限りは追及したいという意欲的な人間はいるもので、二輪車購入の消費者ローンを行っているファイナンス会社に対し、ローン返済金の中に自動車税を盛り込むよう協力を要請している、と州庁収入局長は語っている。


「ブレレンの塩」(2016年3月16・17日)
バリ島の塩と言えばクルンクン県クサンバが名高いが、いまブレレン県の塩が脚光を浴びている。バリ島北海岸部に横たわるブレレン県の東端にあるテジャクラ郡と、西端に位置するグロッガッ郡で作られている精製塩がノベルティアイテムとしてヨーロッパに輸出されはじめた。バリ島を訪れて、その塩をお土産に買い求めるヨーロッパ人旅行者も増えている。
古来からの伝統製法で作られた粗塩はクロソッと呼ばれる。そのクロソッに丹念に磨きをかけるだけで、キロあたり1,600〜3,000ルピアの価格がなんと、6〜20万ルピアという価格に跳ね上がる。そこに大きな付加価値がつくのを、黙って見逃す手はないのである。
グロッガッ郡プムトゥラン村のウヤブレレン製塩グループは5年前から、地元で作られているクロソッに磨きをかける事業を開始した。生産者から買い上げたクロソッを清水で洗い、まず汚れを分離してきれいな塩水にする。そのきれいな塩水を浸透膜の装備された桶に溜め、ビニールやガラスで囲われた温室に入れて三〜四日間、灼熱の日光を浴びさせる。より白くクリーンな塩の結晶が、そのようにして得られるのである。
塩の結晶は一粒一粒、その形に従ってよりわけられる。ピラミッド型、キュービック型、その他の形が選り分けられ、付加価値のついた商品ができあがるというわけだ。20キログラムのクロソッから、製品が10キロできる。
ウヤブレレン製塩グループは現在10人のメンバーを擁し、そのうちの4人が女性だ。この事業の発起人は地元プムトゥラン村民のふたりで、かれらも当然、そのメンバーの一員になっている。かれらは平均ひと月6トンの製品を市場に送り出している。
発起人のひとりカンテン氏38歳は、自分たちは決してパイオニアではない、と語る。ブレレン県東端のテジャクラ郡でそれ以前から、PTネオロギススラバヤという企業が、同じような事業を行っていた。
ブレレン県の海岸線は150キロに及んでおり、ロヴィナビーチやプムトゥランビーチをはじめ、多くの海洋観光資源を擁している。県民の製塩事業も盛んで、県の産物としてクロソッ塩、パルガン塩、クリスタル塩の三種類が県庁海洋漁業局に認知されている。2015年クロソッ塩の生産量は9,827トンだった。クロソッ塩の大半はそのままクルンクンなど他県に販売され、塩魚などの水産加工品製造に使われている。それが県内で高級品に加工されれば、たいへん素晴らしいことであるのは言うまでもない。
ウヤブレレン製塩グループのような、民衆ベースの一種の協同組合事業がどんどん拡大して行けば、県民の所得向上に大きく貢献することだろう。ウヤブレレン製塩グループメンバーのひとり、二・クトゥッ・インドリアルティ二さん32歳は、毎月140万ルピアの定常収入が得られるため、生計の安定と増収にたいへん役立っている、と語っている。
ウヤブレレン製塩グループの製品は、ピラミッド塩とキュービック塩を中心にして、ドイツ・イタリア・トルコ・シンガポールに輸出されている。国内では、ジャカルタへの出荷量が最大だ。
かれらの製品には、白さ・見た目の綺麗さ・土臭さがない、といった賛辞が寄せられている。また製品多様化をはかるために、トウガラシ味、コショウ味、ニンニク味をはじめ、さまざまなバリエーションの精製塩も作られている。
フランスのストラスブールからやってきた親子連れのふたりの女性は、さまざまな味のバリエーションに誘われて、ターメリックソルト・スモークドソルト・ブラックソルトなどを買っていた。お土産のためがメインだが、一部は自分で料理に使うつもりだ、と語っていた。
Bali Artisan Salt というのが、ウヤブレレン製塩グループが世に送り出しているブレレン産プレミアムクリスタル塩のブランド名だ。


「ニュピツアーはほどほどにせよ」(2016年3月16日)
バリ州で行われるニュピの宗教催事を商業化しないよう、州内ホテル業界をはじめとする観光業界に対し、バリ州ヒンドゥ教統率機関パリサダヒンドゥダルマインドネシアが要請した。
ニュピパッケージツアーの多くは二泊三日の日程で、前夜のオゴオゴ見物ツアーを頂点とし、ニュピ当日はホテル内に引きこもって島内がチャトゥルブラタを実践しているのを肌で体験するという内容になっており、料金は最低でも150万ルピアで販売されている。ツアー販売はおよそ一ヵ月前から開始され、稀にしかできない体験に興味ひかれる国内外観光客も少なくないようだ。
しかし、島民のニュピの行を実践するわけでもない観光客にとって、ただ部屋でおとなしく過ごすなどというのはできない相談であり、ホテル側もそんな客のために何らかのサービスを行う必要が出てくる。そのようなファクターはニュピの行に逆行するものになるわけで、そういう方向性が強まる結果を避けるためには、ニュピパッケージの販売は最低限にとどめるようにし、決して行き過ぎを起こさないように、というのがパリサダヒンドゥダルマからの要請。
ニュピ当日、特に夜には、客室の灯りは薄暗くし、宿泊客のための催しは一切やめ、また電気電子機器やガジェットなどの使用はニュピの行の本意を理解して極力控え目にし、ヒンドゥ教徒州民への協力と尊重を示すことが求められている。
パリサダヒンドゥダルマはまた州民ヒンドゥ教徒に対しても、オゴオゴの催事の行き過ぎに留意し、さらには政治色あるいは政党宣伝などをそこに持ち込まないように、と注意を呼びかけた。
ヒンドゥ教徒にせよ、非ヒンドゥ教徒にせよ、宗教上の本源的な意味合いから外れていくことをもたらす要因を警戒する宗教指導界の悩みは、どの宗教であっても違いがないようだ。
2016年のニュピも例年のように、当日午前6時から翌朝午前6時まで、バリ島内を出入りするすべての門戸が閉じられた。デンパサル空港ではニュピ当日午前1時半のフライトを最後とし、翌朝は午前8時の便が再開のスタートを切った。
観光業界者によれば、ニュピの日にバリ島内に滞在したい観光客については、国内観光客はだいたいニュピの意義を理解して協力的にふるまっているが、外国人観光客はそれ以前からバリ島にやってきている者が多く、ニュピの宗教的意味合いを理解している者は少ない、とのこと。ニュピが非ヒンドゥ教徒にもたらすセンセーションはたいへん魅力的な面があり、州内の業界にとっては大いにメリットがある、とも述べている。


「クタの無許可マネーチェンジャー」(2016年3月28日)
中銀がライセンスを与えたバリ州のマネーチェンジャーは594あり、そのうちの300がクタ地区に集中している。ところが実際にクタへ行ってみれば、はるかに多数のマネーチェンジャーが看板を出して営業しているのを目にする。レギアンやスミニャッでは5百メートルも歩けば必ずマネーチェンジャーのひとつふたつが見つかるし、小さい路地に入ってすらマネーチェンジャーの看板にお目にかかることができる。
言うまでもなく、中銀から許可を得ないで営業している違法事業者たちがそれなのだが、かれらは白昼から堂々と看板を出して営業しているから、インドネシアの闇ビジネスがどういうものなのかは、そこからでも想像がつくにちがいない。
それが単に許認可を得ているかいないかの問題であるなら、インドネシアの行政内部問題であって外国人観光客には関係のない話となるのだが、われわれが住んでいるのは、そんな生易しい世界ではない。闇ビジネスマンの法外な儲けに対する執着は、並大抵のものではないのだ。
相場よりはるかに高い交換レートを掲示して旅行客を誘い込み、客にそのレートに従ったルピアを渡すかのように装いながら、実際には相場より低いレート分のルピアしか渡さないという詐欺マネチェンの被害にあった外国人は少なくない。わたしはこの種のマネチェンを手品マネチェンと呼んでいるのだが、被害を受けた旅行者はそれを苦情する。苦情の行き着く先はクタ地域の行政管理を行っているクタ村役場だ。もちろんインドネシアのビジネスはすべて地元行政の管理下にあり、金融業種も例外ではない。クタ村にとっても、その行政管区でまったく無届で事業を行っている者は管理秩序上で必要な制裁措置を独自にとらなければならないものなのである。
今や国家事業となっている観光産業の筆頭に位置するバリ島南部地区にそのような汚点があってはならないのであり、中銀はクタ村役場と共同で闇マネチェンの粛清に取り掛かる意向を表明した。すでに明らかになっている十数軒の違法業者ばかりか、明らかになっていない違法業者をも摘発する所存である由。また中銀は外貨両替を行おうとしている外国人観光客向けに、安全な両替のための注意事項を英語・中国語・インドネシア語で作成し、要所要所に掲示することにしている。


「ヌサペニーダ島でインフラ開発計画」(2016年4月20日)
バリ州クルンクン県ヌサペニーダ島のインフラは2018年に大きく改善される、とクルンクン県許認可事務所長が表明した。ヌサペニーダ島の観光開発投資に関する引き合いが顕著に増加しており、現在まだまだ不足しているインフラがいつどうなるのか、というポイントが投資家にとっての重要な問題になっている。県庁側にしても、ヌサペニーダ島の観光促進がヌサレンボガン(Nusa Lembongan)島・ヌサチュニガン(Nusa Ceningan)島の近隣二島に比べて困難なのはインフラ建設の遅れが原因であることを理解しており、ヌサペニーダ島のインフラ建設に注力することを県庁とバリ州政府が合意した。
元々、起伏の激しい丘陵をメインにするヌサペニーダ島のインフラ建設が遅れていたのはその地理的要因が大きかったためで、今回、県は州政府の支援を得て島内の総合的な開発に着手することを決めた。まず、全長60.15kmの島内周遊道路を建設すること。そのために65Haの土地収用が行われる。また既存道路55kmの修復も行われる。路面状態が良好な既存道路は42%しかない。新規道路建設は2015年から17年までの間に49kmを完成させる予定になっているが、起伏の激しい丘陵という地理的条件がネックになっている由。
それとは別に電力の安定供給もインフラ建設に不可欠の項目であり、既存の発電は7.76MWの能力を持つ石油発電機が実際には5.5MWの供給を行っている。その状況を改善させるために、県庁は10MWの能力を持つマイクロガス発電機を設置して供給量を二倍以上に増やす計画。
病院は最近改装されたが、住民は本島側に患者を搬送する救急ボートを完備するよう求めており、それは県庁側の宿題となっている。
バリ本島からヌサペニーダ島に渡るためには、個人や企業が行っているローロー船・高速艇・モーターボートあるいは観光船などが利用でき、航海時間は30分から1時間くらいだ。宿泊施設は現在のところ、地元民が行っている民宿ばかりで、質素なものがほとんどだ。しかし外資系ホテル会社が25Haの敷地にリゾートを建設中で、島内のインフラが充実すれば高級リゾートもさらに増えていくことが期待される。


「ケチャがバリダンスの一番人気」(2016年5月20日)
ユネスコは2015年12月2日の会議でバリ島の伝統舞踊9種を無形文化遺産に認定した。その9種とは次の通り。
1.ルジャン(Rejang)
2.サンヒヤンドゥダリ(Sanghyang Dedari)
3.バリスウパチャラ(Baris Upacara)
4.トペンシダカルヤ(Topeng Sidhakarya)
5.ドラマタリガンブ(Dramatari Gambuh)
6.ドラマタリワヤンウォン(Dramatari Wayang Wong)
7.レゴンクラトン(Legong Kraton)
8.ジョゲッブンブン(Joged Bumbung)
9.バロンケッ(Barong Ket)
しかしインドネシア国民一般の好みは少々違うところにあった。コンパス紙R&Dが2016年4月27〜29日に17歳以上の全国12大都市住民564人に電話インタビューして得られた回答を見ると、好きなバリダンスのトップはケチャッの圧勝だった。これは観光客向けのショーとして上演される演目の選択に深く関連していることであるにちがいない。信仰に関わる奉納としての舞踊、バリ人自身が踊って楽しみ、見て楽しむ娯楽としての舞踊、そして内外の観光客向けに選択されるショーとしての舞踊・・・全種の舞踊がそれらの異なる目的に同じウエイトで演じられているわけがない。一介の観光客が見聞できるバリダンスの種類はどれほど広いレパートリーをカバーしているのだろうか?
バリダンスの踊り子たちは、鍛え上げた舞踊を上述のようなさまざまなシチュエーション下に示すが、そのそれぞれに対して異なる心構えをしているそうだ。寺院での祭事における奉納としての踊りでは、己の損得など捨て去り、自己の最高のものを創造主に捧げることに専心するが、かの女たちがヌリス(nuris)と称している観光客向けのショーでは、プロのダンサーとして自分の舞踊力に見合うギャラを得ようと強く意識している。
質問1)あなたが好きなバリの伝統舞踊は何ですか?
回答1)数字は%で、女性/男性の順
ケチャ(Kecak) 44.0/52.7
プンデッ(Pendet) 32.2/20.8
バロン(Barong) 5.6/5.8
レゴン(Legong) 1.2/1.2
ちなみに回答者の81.4%が実際にバリの伝統舞踊を見たことがあり、見たことがないひとは18.1%だった。


「バリ島の津波対策」(2016年9月5〜7日)
地震と津波の脅威にさらされているインドネシアの中に、バリ島もある。バリ島で観測された年間の地震件数は次の通り。
2010年 124件
2011年 135件
2012年 170件
2013年  99件
2014年 119件
2015年 171件
バリ島で観測される地震のほとんどは海底を震源地とするもので、津波が付随する恐れが高い。
バリ島から260km離れた南方海域を東西に走る海溝があり、北はミャンマーからスマトラ島西側に沿い、そしてジャワ島・バリ島の南側を通ってオーストラリア大陸の近くまで続くおよそ5千5百キロの断層の一部分をなしている。スンダメガスラストと呼ばれている収束型境界の沈み込み帯がその大型断層だ。そこはインド・オーストラリアプレートがユーラシアプレートにもぐりこんでいく境界になっており、地球上で屈指の地震発生構造をなしている。
そして最近確認されたバリ島北部海底からジャワ島北部の陸地へとつながるクンデン断層が動きを活発化させており、バリ島は北と南から地震の巣にはさまれているということになる。
バリ島はホテルをはじめ観光施設の多くが海に近く、グラライ空港も海の上と言ってよいくらいの位置にある。バリの主産業である観光は、津波に襲われたらひとたまりもない。もっと強い不安は、観光客が災害の被害者になることだ。もしもそんなことになったら、業界の再起は可能でも、観光客の再来に難点が生じる可能性が高い。観光客に対するバリ島の災害対策はどうなっているのだろうか?
グラライ空港にほど近いトゥバン地区にあるホテルパトラジャサは、災害避難対策に熱心だ。全従業員に対して、少なくとも月に一回は災害対策訓練が行われており、この要素が従業員評価の項目内に盛り込まれている。言うまでもなく、自分たちの身を護るための行動にしてはならず、宿泊客の身を護ることも含まれている。
津波が起こった際の避難場所も高所に設け、ホテル施設内の誘導路標示も掲げられ、客室内にも説明が用意されている。地学気候気象庁バリ支所の協力を得て、ホテルロビーに置かれているTVモニターには気象情報が表示されている。
バリ州地方災害対策庁活動統御センター早期予報課長は、災害対策ホテル認定証を最初に得たのがホテルパトラジャサだと語っている。
災害対策ホテル認定制度は2013年から開始された。2014年には州内の23ホテル、2015年には更に15ホテルが認定証を得ている。この制度では、3年ごとに審査が行われて、審査をパスできなければ認定が解かれることになる。この制度はインドネシア国内で最初にバリ島で始められたもので、世界でもはじめてではないだろうか、と地学気候気象庁長官は述べている。
地学気候気象庁は全国で津波のおそれの高い地区に警報サイレンの設備を作った。全国に52ポイントあり、その中の9ポイントがバリ島にある。ヌサドゥアBTDC、タンジュンブノア、クドガナン(Kedonganan)、クタ、スミニャッ(Seminyak)、スラガン(Serangan)、サヌール、ブララン(Belalang)、スリリッ(Seririt)がそれだ。その維持のための予算を組んだのはバリ州政府だけだそうだ。
全国各地で観光開発は盛んに行われているものの、地震と津波に対する災害対策に地元を挙げて官民が取り組んでいるのはバリ州だけだ、と地学気候気象庁地震津波センター長は述べている。西ジャワ州で津波対策説明会を開いたとき、地元ホテルレストラン会はその動きに抗議したそうだ。このようなことを公けに言い立てると消費者が怖がって寄り付かなくなるからやめてほしい、という声が聞かれた。現実はそうかもしれないが、実際に存在するリスクへの対策を放置していてはならないのだ、とセンター長は弁じた。
ヌサドゥアにあるグランドハイヤットホテルのセーフティ&セキュリティマネージャーは2016年3月末にあった出来事を物語る。アメリカ政府の派遣したバリ島訪問グループが全員、他のホテルからグランドハイヤットに移って来た。アメリカから予約を入れてあったそのホテルは、災害対策に関する態勢を質問されて何一つ答えることができなかった。災害対策が長期経営方針にどれほど重要な項目になりつつあるかということをそれが示している、と同マネージャーは強調する。「当方が災害時の避難路を掲示し、また対応態勢を説明していることが、宿泊客の当ホテルに対する評価を高める一助になっている。災害対策ホテル認定証を見て、宿泊客は安心する。外国人観光客の多くは、そういうポイントに触れる質問をしてくる。この問題は今や、市場から業界への要求になったと見るべきだろう。バリ島が地震津波災害のリスクを抱えていることは、周知の事実だ。要点は、それに対してわれわれがどう対応するのかというところにある。」
クタにあるホテルハードロックでも、同じような話を耳にする。このホテルでは、地学気候気象庁が設けた津波警報サイレンのテストが行われる毎月26日に、模擬訓練を行っている。宿泊客にも参加が求められる。サイレンはホテルからほんの数十メートル離れた場所に置かれているのだ。宿泊客の多くは、喜んでそれに参加している。ホテル側の災害対策姿勢が客に満足を与えている、ということのようだ。
このホテルは津波に襲われたときの避難所を上階部分に設定し、そこには緊急食糧と水、そして発電機までが用意されている。
2004年に起こったインド洋津波で、プーケットなどの観光地では観光客がたくさん犠牲になった。地元の地理や様子に不案内な観光客は、導く者がいなければ、そんな緊急事態にどうすればよいのかわからないひとが大部分を占める。地元民に比べてはるかに条件が悪い。
バリ島の南北をはさんでいる地震の巣について地学気候気象庁地震津波対策部長は、「南方のスンダメガスラストは長期にわたって地震空白域になっており、かなりのエネルギーがたくわえられていると推測される。北方の断層は何度も地震を起こし、津波の被害も出している。1815年にはM7規模の地震が海底で起こって津波をもたらし、1万人を超える死者が出た。そのあとも1818年11月、1857年5月、1917年1月、1976年7月とバリ島北部は頻繁に揺さぶられ続けている。」
バリ島南部への観光ビジネス集中がまだまだ分散されていない今、スンダメガスラストという眠れる巨獣が起き上がったときのこの島が持つリスクは、いやがうえにも高まっていると言えるに違いない。


「庶民化が進むバリ島観光」(2016年9月21〜23日)
観光旅行先としてのバリ島は、過去10年くらいの間に庶民化が激しく進んだ。かつてのバリ島はインドネシア人にとって、小金を貯めて豪勢な旅を楽しむために行く場所という印象が強かった。
もちろん昔でも、夜行バスに乗って車中泊し、バリでは廉くごみごみしたロスメンに泊まり、島内をベモと呼ばれるアンコッで回るという廉価旅行がなかったわけではない。ただ、そういう廉価旅行と豪華旅行の中間がなかったということだ。
ちなみに、ベモというのはダイハツミゼットの後部を改造して乗合自動車にしたもので、インドネシアでは1962年から使われ始めた。ジャカルタのみならず全国の地方都市へも普及し、デンパサルでも使われた。1970年代初めごろ、遊びに来たサヌールからデンパサル市内へわたしはベモで往復した記憶がある。1970年代終わりごろに四輪のミニバス型乗合自動車がベモの座を奪い始めるのだが、ジャカルタではその四輪ミニバスタイプがアンコッやミクロレッと呼ばれるように変わったにもかかわらず、地方都市の中には車種が変わったのにベモという名称を使い続けたところがいくつかあるらしい。デンパサルもそのひとつだ。だからジャカルタ住民にとって、バリでベモという言葉を聞かされるのは違和感が強い。
昨今の2百万ルピアというのは、小金を貯めるという表現にふさわしい金額ではない。その2百万ルピアでジャカルタから二泊三日のバリ島旅行ができる時代がやってきている。
ジャカルタに住むリニさん39歳は四人の子供を持つキャリアウーマン。かの女は友人5人と二泊三日の経済的バリ島旅行を計画した。宿泊・航空券・バリ島での現地ツアー・食事。それらの費用の中でメインを占めるのは、やはり宿泊と航空券。6人は手分けして、割引宿泊とプロモ航空券を探し回った。インターネット情報を探る方法がもっとも多用された。
そうして立地条件にすぐれ、安全性も問題なく、施設もまあまあという物件がクタに近いレギアンで見つかった。一泊6人で20万ルピアだという。更に廉価なプロモ航空券を見つけ出した次は、現地での観光ツアー。インターネットでブログや観光地紹介記事を探し回り、いくつかの訪問先をみんなで合議した。
クタビーチ、ウルワトゥ寺院、パンダワビーチ、サゲ(Sangeh)モンキーフォレスト、タナロッ(Tanah Lot)寺院、タマンアユン寺院、サヌールビーチ、ウブッ(Ubud)の街、スカワティ市場。観光の足は運転手付きレンタカーを使う。料金は時間制だから、時間のロスを出さないように訪問先をうまくまとめる。こうして6人の熟女たちはひとり2百万ルピアの予算をまっとうしたのだった。
そのようなことが可能になった背景には、バリ島側での受け皿が充実したことが大きい要因だ。たとえば過去数年間に、バリ島南部地域ではシティホテルが街中に雨後の筍のように林立した。観光スポットから離れてはいるが、一泊一部屋30万ルピア台という料金と、まだ新しい施設がもたらす快適さは、既に古くなった5〜4星級老舗ホテルの強敵であり、また安かろう悪かろうのロスメンにとっても強敵となる。
廉価にして最大の効用を引き出そうとするミドルクラスが経済性を考えながら観光旅行を楽しむための受け皿が、バリ島にも増加してきているのである。それを受けて立つ側も、商戦をこなさなければならない。こうして、昔は出さなかった価格レンジに既存業界も降りてこざるを得なくなっている。
中部ジャワ州ソロにある旅行代理店は、オンラインパッケージの中に150万ルピアのバリ島旅行を掲載した。時代は既に廉価パッケージツアーへとシフトしており、廉価でありながら味わい応えのある内容にしなければ、消費者はそっぽを向いてしまう。昔のような「廉くて貧相」では相手にしてもらえなくなっているのだ。その廉価パッケージは航空券料金が含まれておらず、宿泊・運転手付きレンタカー・観光地の入場券がセットになっている。
マデ・マンク・パスティカ州知事はその状況について、バリ島が安物観光地になり下がることを懸念している、と語った。観光客数は大きい数字になっても、経済面から質的に悪化することが州知事の心配だ。
州知事は2013年から、バリ島南部地域は既にホテル客室数が過剰供給になっているため、新規のホテル建設を禁止させようとしたが、南部ばかりか州全域にわたって知事の意向に服す県令がいなかった。そのためにホテル建設申請は基本条件さえ満たしていれば許可され続け、最後にやってきた波がシティホテルで、結果的に街中にホテルが林立する姿が作られてしまった。
客に高い料金を払わせ、しかしインドネシアで最高レベルの顧客サービスとホスピタリティを提供することでバランスを取っていたバリ島の観光産業だったが、今や昔ながらのスタイルでは車輪が回らない状態へと押し流されつつある。少しでも低い料金で同じ内容の楽しみが得られるなら、ミドルクラスは高い料金を言う店に背を向ける。昔ながらのスタイルが実現させていたものは、足元が揺さぶられるようになる。
バリ島への憧れというのは、単なる空気や雰囲気あるいはエキゾチシズムが醸成しているものでなく、インドネシアでトップクラスのサービスを外国へ行かなくとも愉しむことができるという要素がその中に混在していた。意識するとしないとに関わらず、ミドルクラス庶民はバリ島への憧れを求めてやってくるが、かれらがバリ島で買う、ホテルを含めたあらゆるサービスと物品はおのずと庶民化したレベルのものになる。やってくる観光客はどんどん増加するものの、ひとりひとりが落とす金は小さくなっていくのだ。観光産業で支えられているバリ州経済にとって、これは州知事でなくとも不安を抱く材料となるにちがいない。
タクシー業界も、水揚げの減少傾向に悩んでいる。タクシー運転手たちは、運転手付きレンタカーにタクシービジネスが侵食されつつあると確信している。
中央統計庁バリ支所のデータによれば、2016年7月にグラライ空港に到着した国際線フライトは2千5百便あり、46万人を運んできた。国内線はと言うと、3千5百便あってジャカルタとスラバヤ発が主体をなし、51万1千人を運んできた。
観光客の平均宿泊日数は、10年前は一週間前後だったというのに、今では3日を割ってしまっている。いかに庶民化が進んでいるかをそれらのデータが如実に示しているのではないだろうか。