「国籍政治(前)」(2017年06月28日) ライター: ジャカルタ神学哲学アカデミー教官、ヨンキー・カルマン ソース: 2017年4月10日付けコンパス紙 "Politik Kewarganegaraan" ナショナリズムは民族の政治的経済的自立を妨げる異民族の支配に対する反抗闘争の活力 源泉である。民族という織布には、宗教・種族・人種・カースト・職業・ジェンダー等々 に基づく政治アイデンティティのさまざまな模様が描かれている。 植民地支配層の資本主義宣伝の威力をへし折るために、ナショナリストは社会主義的批判 思想を借りることまでした。民族主義政治の相においては、インドネシアは独立を達成し、 それは現在まで堅持されている。ところが国籍アイデンティティの外側での自己完結的な 定義の場で、ナショナリズムは宥和的性格を失ってしまった。 ヒトラーはドイツのナショナリズム(ナチズム)をアーリア人種の土台の上に構築した。 国は代々の国民であったユダヤ系子孫を、憲法の与える権利のはく奪された集団として扱 った。ミャンマーでは、ロヒンヤ族のひとびとに対して同じことが行われている。 差別とは、国籍と無関係な単一アイデンティティに基づいて国民を扱うことだ。国民は民 族生活の崖っぷちに追い詰められる。国のバーティカルな差別にバックアップされた同じ 国民構成員間のホリゾンタルな差別が、国民生活における歪みの修正に失敗している。 1945年憲法に記載された「pribumi」という語が現代に持つアナクロニズムを理解し て、独立以来続けられてきた憲法上での差別は廃止された。憲法改正は複合種族複合文化 であるインドネシアの民族性を確認している。 < ナショナリズムパラドックス > インドネシアの民族闘争は宗教精神と分離することができない。民族構成員マジョリティ のアイデンティティの一部として、宗教は民族主義との対極に置くことのできないものだ。 インドネシアのモダン化への道は、宗教をプライバシー空間に切り離す世俗主義でもなけ れば、モダン化の障害だという疑惑の目を宗教に向けることでもない。宗教の公共性は祝 福され、奨められていることなのである。 宗教国家でもなく、また世俗国家でもないインドネシアにとっての中道は、宗教的ナショ ナリズムだ。しかし宗教のユニバーサルな価値は実践の場での宗教個別主義を消滅させな かった。信仰者と非信仰者、宗教的と世俗的、ひとつの信徒集団と他の信徒集団を分離す る社会的境界線を宗教は形成した。 宗教が排他的に民族性の模様を決めるとき、宗教的ナショナリズムには隠れたパラドック スが発生する。世俗的ナショナリズムの事実と可能性が否定されるのである。宥和的民族 主義の模様が捨て去られるのだ。反対に、信徒のナショナリズムが世俗的ナショナリズム や浅い宗教性あるいはマイノリティ宗教に関わる者より上位に置かれることになる。 ところが、われらが母なる国は、掛け値なしのインドネシア百パーセント独立を闘い取ろ うとするタン・マラカなる人物を産んだのである。ナショナリズムと宗教の間に直接的な 相関関係はない。ナショナリズムは、抑圧と共同闘争の歴史の中で一蓮托生だと感じてい る民族の子孫が持つ赤心の中に、豊かに育まれる。 宗教的ナショナリズムのパラドックスをオルラレジームはナサコム(ナショナリズム・宗 教・共産主義)イデオロギープロジェクトで解決しようとし、その野心的なプロジェクト は失敗した。続くオルバレジームは共産主義を閉めだした。ナショナリズムの強化のため に、宗教的ナショナリズムに関しては共産主義に対抗する単一アイデンティティを出現さ せることで、また経済ナショナリズムに関しては「プリブミ観念」を生み出すことで行わ れた。宗教は開発政策を成功させるために、国家の統制下に置かれた。[ 続く ]