「続不死身の術(前)」(2017年11月30日) 不死身の術に憧れて、それを身に着けようと望む男は数多い。それは安全平和を第一優先 とする社会がインドネシアでまだ水面上のものでしかなく、水面下で世間の底辺にいる男 たちの多くが抱いている欲求はそれと正反対のものであるからだ。 「勝者こそが優れた男」なのであり、勝者になるために実力闘争で勝って見せて自己の存 在意義を確認し、また社会から称賛を得ることを希求して、あえて自分の生活環境の周り に実力闘争の機会を追いかけている、という姿勢が市井に充満しているのは、穏やかでな い社会である。インドネシアの路上で車を運転している外国人は、きっとそれを容易に感 得できるにちがいない。二輪にしろ四輪にしろ、喧嘩を売ってくる運転者が少なくないか らだ。 強い者が勝つという弱肉強食原理が男たちに「勝利者の栄光こそが自己の存在意義であり、 存在価値である」という観念を植え付け、敗者は死あるいは重度身体障碍が当たり前とい う観念が闘争の場を支配するとき、自分が負けるという状況を完璧に克服できるのが不死 身の術になるのは、だれにも明白だろう。 そんな実力闘争の舞台は、街中で意地と意地をぶつけあう喧嘩や、学校あるいはカンプン 同士で行われるタウラン(集団喧嘩)がチャンスを提供する。街中で見知らぬ他人と喧嘩 する場合、相手を殴り倒せばそれで勝負がつくような文明社会の喧嘩ルールはインドネシ アにまだ育まれておらず、相手を殺したりかたわにして再起できないようにするのが完璧 な勝利と見なされていることから、よほどの覚悟でそれを行わないと最悪の結果に至る可 能性を無視できない。ヨーロッパ人バックパッカーの若者が地方都市のパサルで地回りの 男にナイフで刺されて殺された事件は、喧嘩ルールの認識が間違っていたことを示してい るように、わたしには思える。 そんな社会では、思春期にさしかかった少年たちがそんな観念の洗礼をまず受ける。かれ らのその観念の実践舞台がかつて頻発していた学校間タウランだ。もちろんタウランだけ がそんな舞台でなく、中には鉈や鎌を手にして大人を叩っ斬りに来る十四五歳の少年もい るから、「子供だ」と甘く見ないほうがよい。 ところがそのタウランが文明社会にあるまじきものとされるようになってきたために、行 政と学校が抑え込みにかかり、今では大幅に減少している。しかし既に植え付けられた観 念を実践する舞台が幕を下ろされても、自己の存在意義や存在価値の観念が変化しなけれ ば欲求は隙間を見つけて噴出するだけだ。 多数の生徒を動員して行う学校間タウランがなくなると、今度は少数精鋭で密かに行う学 校間決闘スタイルの勝負の舞台が新たな幕を開いた。その決闘が死者を生んだために社会 問題となったのが、2017年1月にボゴール市北ボゴール郡フィラチトラ住宅地内バス ケットボールコートで行われたふたつの高校間の、素手で相手を叩きのめす一対一の決闘 勝抜き戦だった。[ 続く ]