「南往き街道(41)」(2018年08月03日) 1847年10月2日、オランダ政庁はチブブルの土地を没収した。広大な水田・水牛・ 馬そして言うまでもなく地主のカントリーハウスも含まれる。家具類一切から他の資産ま ですべてが没収された。その被害者になったのが誰だったのかはよくわからない。 政府が資産を没収すると、しばらくしてから競売に付される。コンセッションと呼ばれる 土地の使用権の貸与である。チブブルの土地の公開競売がいつ行われたのかはわからない が、そのころタンジュンオーストの地主だったアメント家が最高値を付けたにちがいない。 結局チブブル地区はアメント家の手に落ちた。 アメント家がこのメステル・コルネリスの南部に広がる広大なエリアの地主となった経緯 は次のようなことだったようだ。これから述べるストーリーは新たに得た情報であり、先 に述べてあるタンジュンオーストの由来に関する話とはいささか趣が異なっている。こち らの方が史実として整然としている印象が濃いため、既出の話と不一致な部分が出てくる だろうが、お赦し願いたい。 この一族は元々チルボンで製糖業を営んでいた。シェリボンセサイカー(Cheribonsche suiker = チルボン砂糖) という屋号で成功していた家系らしい。1821年にアメント 家の当主ハルメン・ティーデン・アメント(Harmen Tieden Ament)がタンジュンオース トの地主であるダニエル・コルネリス・ファン・リームスデイク(Daniel Cornelis van Riemsdijk)から15万ルピアで購入した。 ハルメン・ティーデン・アメントは息子のチャリン・アメント(Tjalling Ament)にタンジ ュンオーストの経営を委ねた。1801年生まれのチャリン・アメントは先に華人女性チ ョア・ジューニオと結婚して一女をもうけていたが、1826年にリームスデイク家の娘 ディナ・コルネリア(Dina Cornelia van Riemsdijk)と再婚した。そのときジューニオが 亡くなっていたのか離縁されたのかは判然としない。ディナはそのとき19歳だった。 チャリンとディナの間に1827年、長男のダニエル・コルネリス・アメント(Daniel Cornelis Ament) が生まれた。かれが成人するとタンジュンオーストのカントリーハウス では世代交代が行われて、ダニエル・コルネリスが父親の後を継ぐ。[ 続く ]