「インドネシア独立と日本の役割」(2019年10月22日)

ライター: インドネシア科学アカデミー会員、バンバン・ヒダヤッ
ソース: 2011年3月12日付けコンパス紙 "Penggantian Penjaga"

ものごとには、離れて距離を置くべき時がある。歴史の中のできごとにアプローチする場
合は特に、その事件を再構築するための異なるホライゾンが得られるからだ。

ある事件を離れて見ることのメリットは、感情が消去されて理性に取って代わられる点に
ある。その一方で、歴史の原資料に接する時、意識の新たな芽吹きが促されるメリットも
生じる。


1942年12月6日にラジオ放送されたウィルヘルミナ女王の演説を密かに聴いたイン
ドネシアの民族運動リーダーたちは少なくなかったようだ。女王の幻惑と綽名されたその
演説では、この戦争終了後オランダと東インドの国家関係を再編成するという内容が謳わ
れた。ブリティッシュ・コモンウェルスのような形態の連邦制を取る構想がそれだ。

その5年前にデヨンガDe Jonge第63代東インド総督(在任1931〜1936年)は「
オランダは東インドを3百年間統治してきた。更にもう3百年統治してから、インドネシ
アの民族主義の話をしょう。」と大口を叩いた。

プリブミの自尊心を傷つけたその言葉によって現地の民族主義は更に大きく燃え上がり、
さまざまな民族運動が一層活発化するとともに、インドネシアという言葉が故意に民衆の
口から出されるようになった。インドネシアという言葉はヌサンタラの地理的一体感を象
徴するとともに、そこに居住する沢山の種族の政治的一体感をもシンボライズするものに
なった。

インドネシアという言葉は1850年代中葉にアールとローガンがインドゥスindusとネ
ソスnesosという言葉を組合せて作り出した地名であることは既に知られている。192
0年代にその地名は民族アイデンティティを表明する尊称になったのである。

民族独立を目指すインドネシアの闘争は長い歴史を持っている。たとえば国民参議会
Volksraadは、民族自立の動きに対して聞く耳を持たない植民地政庁を相手にしなければ
ならなかった。1936年にスタルジョが国民参議会に提起した請願は1938年に拒否
され、フスニ・タムリンが糾合するインドネシア政治連盟GAPIの打ち出した構想も実を結
ばなかった。

1940年2月23日にはラデン・ウィウォホ・プルボハディジョヨが、民族主義者が希
望する国民議会設立の構想を国民参議会に諮ったものの、オランダ側は再びその案件を没
にした。こうして民衆の植民地政府に対する反感はますます高まって行ったのである。

< 監視人の交代 >
1942年3月10日、ヌサンタラの監視人が交代した。ヌサンタラの最高権力者の地位
を今村将軍が握ったのだ。チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタホウエルA.W.L. 
Tjarda van Starkenborgh Stachouwer第64代総督に代わって、かれが新たな総督になっ
た。

南方地域支配は、大日本帝国が鉱物資源の豊富な南方の併合を夢見るタナカドクトリンの
実践だった。更に1941年12月5日の指令にはジャワを日本にとっての大東亜戦争の
ための穀倉とする定義付けが行われている。

そのうちにインドネシア=ニッポンの共同戦線はだんだんと本性を見せ始めた。年上の兄
弟とプリブミの地位の差は天と地ほどの違いがあったのである。

プリブミ民衆の心を勝ち取るスローガンは最初、インドネシア人の心をつかんだ。公共の
場でインドネシアラヤの歌が流れ、集会や結社の自由が与えられた。ところが、プリブミ
の慣習や考え方を尊重する今村将軍は軟弱すぎるとされて、ソロモンに配置転換された。

1942年3月初めにバンテンに上陸して以来、中国人などとは同一視できないジャワ島
住民の社会習慣とビヘイビアを将軍はその目で見た。それゆえにかれは、ジャワ島プリブ
ミの親睦感情にふさわしい、より人間的なアプローチ方式を用いたのだ。

インドネシアはNippon tjahaja Asia, Nippon pelindoeng Asia, Nippon pemimpin Asiaと
いう3Aスローガンの時代に入る。この時代に民族建設の堰が切って落とされたのだが、
一方では民族と国にとって稀有な貧困の時代ともなったのである。

日本は議会政治や祖国をどのようにして持つのかというやり方を教えたものの、現実の議
会は見せかけのものでしかなかった。日本はまた、民族と祖国を愛する方法を教えたもの
の、それはすさまじい困窮生活の中で行われた。

それがヌサンタラのほぼすべての島々で民衆の力を結集させる梃子となったのである。ひ
とびとはインドネシア性が守り抜かれるべき究極のエンティティであり、他民族に支配さ
れることを今後は絶対拒否するという意識を心に刻んだ。

< 独立期 >
大東亜戦争の継続が危殆に瀕し、日本が連合国の前で絶体絶命の脅威にさらされたころ、
小磯首相が1944年に「将来」のインドネシアの独立を約束した。それに応じてインド
ネシアでは、独立準備委員会が結成され、スカルノは「日本と生死を共にする」というユ
ーフォリアの中に転落した。その結果、スカルノは日本の走狗だという烙印が長い間捺さ
れ続けた。

(大日本の指導下に)アジアを独立させるというスローガンは新世界を擁立するための滋
養豊富な孵卵器だった。日本は西洋に対するアジアの劣等感を消滅させることに成功した。

それはインドネシア民族が自立するための貴重な支えになった。忘れてならないのは、イ
ンドネシア民族の独立精神がインドやインドシナ半島での民族決起、およびフィリピンの
独立からも影響を受けていることだ。

フィリピン国家英雄ホセ・リザルが刑死する前に作った感動的な詩の一節「さらば、愛す
る祖国よ」はインドネシアの建国の父たちの心をつかんだ。その詩はわれわれに祖国への
愛を教えており、それこそがインドネシア民族統一の接着剤の役割を果たしたのである。

それゆえに、あれほど大量の血と涙を流した独立インドネシアの長い道程が一部の人間の
利益のために損なわれてはならないのである。