「戦争が爆弾漁の火付け役(前)」(2019年12月05日) ニューギニア島西端地域は、その形状からオランダ人が鳥の頭vogelkop半島と呼んだ。マ ノクワリManokwariは鳥の頭の後頭部にある。その東の海がチュンドラワシCenderawasih 湾で、マノクワリからまっすぐ東にヌンフォルNumfor島があり、もっと東方がビアッBiak 島になっている。ヌンフォル島はオランダ時代にNoemfoorと綴られ、インドネシア共和国 になってインドネシア語綴りに変えられた。 この地域からフィリピン南部へは直線コースで1千3百キロ。そのコースのほぼ中間点に 北マルク諸島北端のモロタイMorotai島がある。フィリピン奪還を目指すマッカーサー大 将にとっては、フィリピンへの王手に当たるモロタイ島を確保するためにどうしても押さ えておかなければならない要衝がその一帯だった。 ビアッ島とヌンフォル島で激戦が繰り広げられた。空から爆弾が雨あられと降って来た。 海上の艦船から、陸上の砲座から、砲弾が飛び交い、地上で炸裂した。ビアッもヌンフォ ルも無人島ではない。しかも日本軍がわざわざ原住民のいない場所を選んで軍事基地を作 るはずもない、蘭領東インドを占領した日本軍にとって、原住民は利用できる労働力だっ たのだから。必然的に原住民も戦争に巻き込まれて、命を落とした。かれらが武器を手に して連合軍に対したというわけでもないというのに。 戦争が終わった後、たくさんの不発爆弾が地上や海中に転がっていた。その数は何百個も あったと言われている。農業と漁業をなりわいにしている原住民は、不気味な不発爆弾を 横目に見ながら生業に精を出すしかなかった。実際、住民が不発爆弾に手を出して爆発す るという事故もあちこちで起こっていたのである。死者が出ないはずがない。 行政が徐々に危険物を回収して行ったが、海の中にまではなかなか手が届かない。実に、 地上よりも海の底に突き立ったり転がったりしている不発弾のほうが多かったそうだ。 パライ周辺では、2000年になってもまだ爆弾が回収されないままになっていた。19 70年代に、東南スラウェシ州ブトンButonの漁民が爆弾を使って魚を獲ることをパダイ ド群島のひとびとに教えた。爆弾の材料は近辺のいたるところに転がっているではないか。 新知識に挑戦しようという者はどこにもいる。うまく爆薬を取り出して爆弾漁に成功した 話が口伝えで広まれば、挑戦者も増えようというものだ。しかしそう簡単に行くものでも ない。爆薬を取り扱うリスクは、爆薬の入手から持ち運び、そしていざ使用するに至るま で、持続し続ける。どのステップで生命を落とすかわからない。 50キロの爆弾を海底から拾い上げ、浜辺で爆薬を取り出そうとして失敗し、実兄は死に、 自分は左足と左腕を失った住民もいる。それ以来、かれは網と釣り竿の漁に戻り、爆弾に は二度と見向きもしなかった。 スラウェシ島では、北スラウェシ、東南スラウェシ、南スラウェシなどで爆弾漁が行われ てきた。昔から海に生きてきたバジョ、ブギス、ブトン、マドゥラなどの種族は、ひとつ 間違えば生命という高い代価を払うことになるにせよ、爆薬で漁労をしようとする者がそ の中から出たのも事実だ。 マカッサルの漁港にはスラム住宅地区の中に「やもめ小路」と呼ばれる場所がある。爆弾 で生命を落とした漁民の妻たちがそこに住んでいる。バンガイには、爆弾で生命を落とし た漁民専用の墓地がある。 最初は個人が自主的に行っていた爆弾漁も、高い危険性が知れ渡るにつれて実行者は減少 傾向を帯びた。ましてや、爆弾漁が違法行為であり、犯罪であるということが国民の末端 まで浸透してくれば、民衆は良民と犯罪者に二分されて行く。社会悪をなす犯罪者は常に マイノリティだ。もちろん、国法が犯罪としていることが社会悪に位置付けられていない 場合は話が違ってくるのだが。[ 続く ]