「独立宣言文起草博物館(前)」(2020年01月16日)

中央ジャカルタ市イマムボンジョル通りとタマンスンダクラパ通りの角地にあるパウルス
教会Gereja Paulusの隣にあるイマムボンジョル通り1番地の邸宅に入ると、1945年
8月16日から17日にかけての夜に起こった喧噪が空想の中に拡がる。ブンカルノBung 
Karno、ブンハッタBung Hatta、そして独立準備調査会メンバーで後に共和国初代外相を
務めたアッマッ・スバルジョAhmad Soebardjoがこの大邸宅の裏東側にある食堂の円卓を
囲んだ。かれらは翌朝発表されるインドネシア共和国独立宣言文をそのときそこで起草し
たのだ。

オランダ植民地時代にイマムボンジョル通りはナッソーブルヴァールNassau Boulevardと
呼ばれており、日本軍はその名をメイジ(明治)通りに替えた。イマムボンジョル通りを
まっすぐに東行するとスロパティ公園Taman Suropatiを越えたところでディポヌゴロ通り
に変わる。このディポヌゴロ通りがオランダ時代にオラニエブルヴァールOranye Boule-
vard、日本軍政期にショーワ(昭和)通りだった道路だ。


1945年8月16日22時ごろ、イマムボンジョル通り1番地の4,360平米の土地
に建てられた床面積1,645.3平米の壮大な邸宅に到着したかれらは憔悴しているよ
うに見えた。スカルニSoekarni、スバディオ・サストロサトモSoebadio Sastrosatomo、
スビアントSoebiantoら青年活動家たちに誘拐されていたカラワンのレンガスデンクロッ
クRengasdengklokからジャカルタに、かれらはほんの2時間前に戻って来たばかりだった
のだから。青年たちはブンカルノとブンハッタに対し、その日のうちに独立宣言を行うよ
う要求していたのだ。ブンハッタは自著Sekitar Proklamasiの中で、その夜そこには40
〜50人のひとびとが集まったと述べている。ひとびとはブンカルノたちが知恵をしぼっ
ている食堂の隣にある5x15メートルの広間を満たして、ことの成り行きを見守った。

かれらとは青年層や民族指導者、あるいは各地方を代表するひとびとであり、三人の独立
宣言文起草者の仕事が仕上がるのを、干渉することなくひたすら待っていた。一部は楕円
形の長いテーブルを囲んで話をし、座る場所が得られなかった大多数のひとびとは立った
り床の上に座ったりしていた。ラマダン月の深夜、ひとびとは疲労の影を濃く漂わせてい
た。中には冷たい石の床で眠っている者さえあった。

独立宣言文の出だしは、独立準備調査会が既に検討を行っていた文言をスバルジョが暗唱
した。だがそれだけではインドネシア民族の意志表明に過ぎない。ハッタは主権の移譲に
ついて触れておくべきだと考えて、第二文を提案した。

しかし三人の起草者はだれも紙とペンを持っていなかった。三人は集まっているひとびと
に紙とペンを求めた。だれかが小型サイズの小学生用ノートを差し出した。青い線が何本
も引かれたメモ用紙のようなものだ。スカルノはその一枚を破り取った。[ 続く ]