「民族性はエゴの絶対自由(後)」(2020年02月07日)

パンチャシラは上で述べた振り子のバランス律なのである。パンチャシラは絶対自由と唯
一絶対支配のジンテーゼなのだ。インドネシア民族の歴史は、一部の民族は好むが他の民
族は嫌う絶対自由主義(リベラリズムと言うべきか)と、やはり同様の単一絶対支配の両
方を示している。われわれは常にその二つの事柄で諍うがために、公正と繁栄は1975
年にやっと国家建設を開始したベトナムにすら劣っている。

< 習慣の開始 >
自由は人間の本能である。個々人は自己の自由において選択したことがらに責任を負わな
ければならない。一方、支配は文化であり、人間の仕業だ。人間の自由に制限を与え、更
には自由を奪い去ってしまう単一支配は、それが求められるために必要になる。自由のタ
ガが外れて利益コンフリクトが起こった時、唯一の対策は単一パワーが強制的にそれを抑
え込むことである。その形態は問わない。

パンチャシラはその中間にいる。パンチャシラは緩急を操る技能だ。子供たちが自由に遊
ぶのを放任し、子供たちの間で危険が発生しないのならそのままにする。ところが、その
自由が遊びを危険なものに変質させはじめると子供たちに厳しい規制を与える必要が出て
くる。

現在のレフォルマシは行き過ぎの症状を示し始めている。絶対自由に保証された利益コン
フリクトは犠牲者を出し始めているのだ。村同士間・村と治安部隊・学部と学部・種族対
種族の間の暴力だ。メディアの自由はポルノを拡大させている。信教の自由は宗教間コン
フリクトを生んでいる。法廷の自由はコルプトルを無罪にさせている。振り子は極右へと
進みつつあるのだ。

国の放任政策は自由をますますジャングル原理に向かわせている。この国はリベラリズム
を奉じており、一緒に遊ぶことを危険に陥れ始めているにもかかわらず共同生活における
自由への規制を惧れている。自由放任崇拝は維持され続けて、強力な力を持つ一種のラト
ゥアディル(解放の女神)の出現を待ち焦がれている。

パンチャシラとは、振り子が極右や極左に向かわないよう自由と権力支配が共存するべく、
正確さ・注意深さ・英明さ・感受性、そして本能的なものと人為的なものとの間でバラン
スを保とうと決意する勇気に関わっている。パンチャシラは中道を歩むものであり、イン
ドネシアがジャングル原理で覆われるのを防ぐものなのだ。

インドネシア民族は鋼のように硬い政府を必要としており、そして同時に絹のように柔ら
かい政府を必要としている。男性的で、同時に女性的なものだ。厳格だが公正で、罰する
と同時に愛で包み、太陽と月のように明暗を超えたもの。アスタブラタ的であり、ラトゥ
アディル的である。「公正な王には膝まづき、暴虐な王には背を向ける」ということなの
である。[ 完 ]