「持続的なインドネシアのイスラム(後)」(2020年03月13日)

イスラムヌサンタラエリアの範囲は地理的文化的境界を超えるものだ。アシアリヤ神学
Asy'ariyah、フィキ・シャフィイfikih Syafi'i、タサウフ・アルガザリtasawuf Al-
Ghazaliからなるイスラムヌサンタラの正統性は十分な合法性を持っている。その正統的
な三要素の組み合わせが中道的イスラムヌサンタラの基盤である。アシアリヤ神学は神の
啓示と人間の理性の間に穏当な姿勢を育み、フィキ・シャフィイは真理への道amali・倫
理akhlaqiタサウフと手を取り合ってイスラム表現を抱擁的寛容的なものにする。

その三要素の組み合わさったイスラムヌサンタラの正統性は17世紀以来、統合され、安
定的で優勢な伝統となり、のちにスンニahlus sunnah wal-jamaahの名前で知られること
になる。インドネシアのほとんどのムスリムの教義実践はスンニが主流ではあるが、強弱
の差が見られる。ウラマの伝統に焦点を置くナフダトゥルウラマは自らをアスワジャ
Aswajaと呼ぶ。その呼称は後にかれらのブランドネームと化した。一方、スンニの流れを
背負ったムハマディヤは現代主義改革主義の面を強く持ち、イジュティハッijtihad的で
ある。

第二次大戦が終わった後、その語義と内容の両方においてイスラムヌサンタラはインドネ
シアについてのみ限定されて用いられるようになった。今日では、イスラムヌサンタラと
はインドネシアのイスラムだという理解になっているようだ。抱擁性が維持されているか、
あるいは排他的になってしまったか、というような各国におけるイスラムの位置付けと国
家政策との関係の違いによって、東南アジア諸国のイスラムに関する表現に変化が生じて
しまったのだ。

その文脈において、イスラムはインドネシアで公式宗教や国教にならなかったのである。
それゆえに、インドネシアのイスラムは政治および国家権力の一部になっていない。一方
マレーシアでは、イスラムは国家の公式宗教であり、そのためにイスラムは国家権力の一
部をなしている。

それゆえマレーシアでは、公共領域においてイスラムのみが取り上げられてよいものにさ
れ、「アッラー」の名はムスリムだけが使ってよいものになっている。ところがインドネ
シアではすべての宗教が公共領域に登場して良く、ムスリムに限らずキリスト教徒でも、
神を呼ぶときにアッラーの語を使ってかまわない。

< 進歩する文明 >
ナフダトゥルウラマやムハマディヤに代表されるインドネシアのイスラムは、全宇宙にと
っての神の恩寵を実現させるための進歩の推進に関するほとんどすべての潜在性を有して
いる。進歩の推進のための最大の原資は、国家と権力に相対して独立的なイスラム団体の
性格と特徴だ。自己を形成し、あるいは生計を得るために、権力に依存し、ましてや権力
の道具になるようなことをかれらはしなかった。

別の大きい原資は、ナフダトゥルウラマとムハマディヤが持っているモスクや礼拝所、学
校、マドラサ、プサントレン、大学、病院、クリニック、社会保護院、協同組合などに始
まって他の諸経済活動に至る、組織の豊かさとバラエティである。ムハマディヤとナフダ
トゥルウラマのような組織の豊かさと性格を持っている団体は、他のイスラム世界に存在
しない。

1980年代終わりごろから、米国シカゴ大学ファズルル・ラッマン教授のように、グロ
ーバルイスラム文明の進歩の最前線に立つための大きな潜在性をインドネシアのイスラム
が持っていることに世界の知識層が目を向けるようになった。中道イスラム文明によって
インドネシアのイスラムは、より平和で調和的な世界文明に貢献することができるのであ
る。

アラブ・南アジア・西アジア・アフリカのイスラム世界で、ムスリム諸国間で起こってい
る継続的なコンフリクトのさなかに、インドネシアのイスラムに対するその種の期待はま
すます高まっている。ナフダトゥルウラマとムハマディヤ並びに他の中道イスラム団体は
国内での思想と活動の向上を考えるだけでなく、世界各地に中道イスラムを拡張させる努
力を払うべきだ。そうすることによってインドネシアのイスラムは全宇宙にとっての神の
恩寵であるラッマタンリルアラミン実現の最前線に立つことになるのである。[ 完 ]