「ヴェルテフレーデン(4)」(2020年04月17日)

モッスルの没後、かれの親族が相続していたヴェルテフレーデンは1767年にファン・
デル・パッラPetrus Albertus van der Parra第29代総督の手に落ちた。ファン・オー
フェルストラーテンPieter Gerardus van Overstraten第33代総督がその次の地主とな
ったのは1797年のことだ。オーフェルストラーテンはクウィタン通り南の土地を合わ
せて購入したのだが、ファン・デル・パッラが入手した金額よりもはるかに高い出費をし
た。多分、スネン市場から地主が入手する地代家賃が相当巨額なものになっていたのでは
ないかと推測される。

18世紀後半には、狭く、不衛生不健康で、病気と死の巣窟と化したバタヴィア城市内か
ら外に移り住もうとするオランダ人の流れは、既に歯止めのきかないものになっていた。

旧バタヴィアから住民はヤカトラヴェフJacatraweg、モーレンフリートMolenvliet両岸、
グヌンサハリGoenoeng Saharie、そしてヴェルテフレーデンにまで居所を拡大していたの
である。1779年には、バタヴィア城市内住民人口12,312人、城市外住民人口1
60,986人という記録が残されている。ダンデルスは城壁に囲まれた瀕死の旧バタヴ
ィアに引導を渡したのである。


ダンデルスの構想では、ヴェルテフレーデン北部に総督官邸と主要政府機関を収容する白
亜の巨大な殿堂を建て、そこで国政を収攬するとともに、その殿堂の正面に国家行事を行
うためのプラザを設けることにしていたようだ。白亜の巨大な殿堂はヴィッテハウスHet 
Witte HuisあるいはビッグハウスHet Groote Huisとあだ名された。総督はヴィッテハウ
スに住んで植民地の統治行政を行うのである。

ダンデルスのバタヴィア移転で貧乏くじを引いたのがファン・オーフェルストラーテンだ。
ダンデルスはヴェルテフレーデンを国有地に変え、オーフェルストラーテンには賠償金と
して1万リンギッを与えて一件落着にしてしまった。

ヴィッテハウスの建設工事開始は1809年3月7日で、公式オープンは1828年にデ
ュ・ビュス・ドゥ・ジジニーLeonard Pierre Joseph du Bus de Gisignies第43代総督
がオープンを宣した。旧バタヴィア城市の城壁を撤去したのは、ヴィッテハウスの建築資
材として使うためだったという話になっている。その殿堂の正面に5.2Haのプラザが
作られた。それが今のバンテン広場だ。

左右にウイングビルを従えたヴィッテハウスにはすべての政府機関が入り、また国家印刷
出版局、中央郵便局、最高裁判所もその中に置かれた。最高裁判所は1848年に北隣に
できた新ビルに移転している。

ヴィッテハウスは完成後、ほぼダンデルスの構想通りの使い方がなされたのだが、最大の
齟齬は総督がそこで起居する総督宮殿として使われなかったことだろう。歴代の総督たち
は、バイテンゾルフ宮殿Paleis te Buitenzorgか、それでなければ今の国家宮殿Istana 
Negaraやムルデカ宮殿Istana Merdeka、当時のレイスウェイクホテルHotel te Rijswijk
やコニングスプレイン宮殿Paleis te Koningspleinを居所兼執務所にした。

とはいえ、ヴィッテハウスを総督が使わなかったということでは決してない。総督が賓客
に接見したり、あるいは政財界貴顕を集めての聴聞や対話、政治や法曹関連の査問や審議
などといった行事はヴィッテハウスで行われた。ヴィッテハウスは賓客の宿舎としても使
われ、賓客の外出用として120頭の優れた馬を集めた厩舎や馬車ガレージも備えられて
いた。[ 続く ]