「ヴェルテフレーデン(10)」(2020年04月27日) 戦争の後、イギリスがジャワ島を占領してジャワはイギリス領になる。ヨーロッパでオラ ンダ(バタヴィア共和国)がフランスの属国になっていたとき東インドはまだオランダ領 だったが、ナポレオンがバタヴィア共和国をフランス領に編入した1810年7月にフラ ンス領になった。続いて1811年9月からはイギリス領になっている。短期間ながら起 こったこの目まぐるしい転変は、「インドネシアは350年間オランダの植民地だった」 と語る人間の視野に入っていないだろう。350年間オランダ植民地説はホラ話である。 わずか数十年間オランダの支配下に置かれただけの地方(王国)もいくつかあり、更にV OC時代は国家を後ろ盾にした民間会社に侵略されていただけなのだから、オランダとい う国が350年間に渡って東インドを植民地にしたというのは事実に反している。 イギリス領になったとき、イギリス東インド会社インド総督のミントー卿Lord Mintoがジ ャワ島の第39代総督を兼ねた。ミントー卿はダンデルスの作った新バタヴィアを軍事的 見地から絶賛したという話が遺されている。ただしダンデルスの人間性については軽蔑的 だったようだ。 ミントー卿はほどなくラフルズにジャワ島の統治行政を全面的に委ね、ラフルズが第40 代総督として植民地行政の改革に腕を振るった。ラフルズの時代、ヴェルテフレーデンは ダンデルスが計画したままの形が維持されたようだ。ただし、ガンビル広場の名称をラフ ルズ政庁は、1815年に成立したオランダ王国を記念してコニングスプレインKonings- pleinと呼びはじめたことから、1818年にそれが公式名称にされた。 イギリス領になっていた東インドがオランダ王国に返還されたあと、ヴェルテフレーデン はダンデルスが作ったままの形で運営された。中央儀典プラザに遊びに来るエリート上流 層を対象にしたカフェがヴィッテハウスの左ウイングに店開きしていたが、1836年ご ろにコンコルディアMilitaire Societeit Concordiaと名付けられた軍人用社交場に変身 した。しかし決して軍人専用クラブでなく、軍人も文民もこのクラブのメンバーになって いる。 このヴィッテハウス左ウイングはインドネシア完全独立承認後、インドネシア連邦共和国 議会が置かれ、インドネシア共和国統一国家に変わった後も共和国議会がそこを引き継ぎ、 1965年にスナヤンのMPR−DPR議事堂ができるまで使われていた。 ところで、軍人用でなく文民用の社交場もまた別にあった。1776年に第30代総督 (臨時)になるレイニア・デ・クラークReinier de Klerkのとき、VOC社員のための社 交場がバイテンニューポートストラートBuiten Nieuwpoortstraat(今のJl Pintu Besar Selatan)に設けられていた。ところがプチナンに囲まれたそのエリアがゴミゴミしたス ラムになっていくのを嫌ったダンデルスがもっと環境の良いモーレンフリートの南端の先 のレイスウェイク地区に移転させることにしたのである。 モーレンフリート南端周辺の土地で水田が営まれていたため、その一帯は早い時期からレ イスウェイクという地名で呼ばれていた。1656年にバタヴィア城市の正面を防衛する ための要塞が作られてレイスウェイク要塞Fort Rijswijkと命名された。古い地図を見る と、この要塞はモーレンフリート南端の北西側に描かれており、ハルモニー社交場がその 跡地に作られたという説とは合致しない。レイスウェイク要塞はオランダ人がChinezen- moord、日本語訳が華人虐殺事件、インドネシア語はGeger Pacinan(華人街騒乱)と呼ば れるあの事件で激しく破壊され、それ以後放棄されたままになっていたようだ。その代わ りにレイスウェイク要塞の場所には騎馬隊の基地Cavelary Kazerneが置かれてStalmeester と呼ばれていた。[ 続く ]