「ヴェルテフレーデン(終)」(2020年05月11日) ダンデルスがバタヴィア城市内からヴェルテフレーデンに行政と軍事のセンターを移した ことは首都移転と言えるかもしれない。VOCからオランダ植民地政庁への過渡期だった こと、イギリスとフランスの戦争がその地を襲ったことなどの要因がその移転を促したわ けだが、ダンデルスは最初、オランダ植民地の首都をバタヴィアからスラバヤへ移すこと を考えた。防衛戦にはスラバヤの方がはるかに有利だというかれの軍人としての戦略眼が そのアイデアを抱かせたわけだ。しかし切羽詰まった時期に悠長なことなどしていられな い。結局かれは現実的にならざるを得なかった。 植民地時代のもっと後にも、首都移転構想は出されている。ファン・リンブルフ・スティ ルムJohan Paul van Limburg Stirum第66代総督はバンドンへの首都移転を計画した。 植民地軍司令部・鉄道局・郵便電信電話局などがそのとき(早まって)バンドンに移転し た結果、共和国の国鉄や郵便会社がバンドンに本社を持つようなことになってしまった。 日本軍が進攻してきたとき、蘭領東インド植民地軍の本部がバンドンにあったのはそれが 理由だ。 インドネシア共和国初代大統領スカルノも、首都をジャカルタから別の場所に移すことを 考えた。植民地支配者がかれら自身のために建設した、支配者の驕りのしみ込んだ町、ジ ャカルタを、スカルノは嫌った。ヴィッテハウス+ヴァーテルロー広場の機能をムルデカ 宮殿+モナス広場に移してしまったことや、ヴァーテルロー広場とコニングスプレインの 間にあったヴィルヘルミナ公園Wilhelmina Parkとフレデリック・ヘンドリック要塞 benteng Frederik Hendrikを無くしてイスティクラルモスクに代えたことなどは、スカル ノのその感情の結晶と見ることができる。 1947年にスカルノは国都大委員会Panitia Agung Ibu Kota Negaraを作って首都の移 転先を検討させている。委員会はバンドン・ボゴール・マグラン・マランなどの候補地を 答申して、1954年に解散した。それらが候補地にされた理由の中に植民地時代に反オ ランダ闘争が行われたことが散見されたのは、スカルノの心を読んでの回答だったにちが いあるまい。 移転先候補地として話題になったのは、ブキッティンギ、パレンバン、パランカラヤ、な どだったが、煮詰められないまま大統領が交代した。スハルトレジームはスカルノの持っ たアレルギーと無縁だった。ところが晩年になって1990年代に突如、ボゴール県ジョ ンゴルJonggolの名前が浮上してきた。ジャカルタから50キロほど離れた寒村だ。その とき発生した土地投機売買は一般庶民までがその踊りに巻き込まれた感がある。庶民が踊 っているときに行政は既に口をつぐみ、突然だれもがジョンゴルの語を口にしなくなった ため、何がどうなったのか分からないままみんなが損や得を抱えて日常生活に戻って行っ た。 SBY大統領のとき、2012年にも首都移転の話題が出た。パレンバン・カラワン・南 スラウェシ・パランカラヤなどが候補地と騒がれたものの、SBY大統領は乗り気でなく、 大ジャカルタ地区のビジネスと経済の発展推進をかれは重要政策として実施していた。 [ 完 ]