「食糧危機(終)」(2020年09月28日)

スカルノ政権末期の1960年代、スカルノは再び食糧危機に見舞われた。それは195
0年代に始まっていた退化現象の帰結だったのだが、スカルノは政権維持のための政治レ
トリックに溺れてその問題への真剣な対応をおろそかにした。土地の細分化が進行して生
産性が低下したために、それが食糧危機の元凶になったのだが、政府は何もしなかった、
とメダン国立大学歴史社会学研究センター長は述べている。

1960年1月3日付け新報紙は政府のガソリン値上げを報じた。それまでのリッター当
たり1.6ぺラッは2ぺラッになった。その当時、タバコひと箱の価格は、Escort, Kansas, 
Kresta, Lancerが7.5ぺラッ、CommodoreとWembleyは9.5ぺラッだった。

続いて1月11日付け新報はスラバヤで米が市場から消え失せたことを報道した。見つか
ったとしてもリッターあたり10〜11ペラッという跳ねあがった価格になっていた。1
961年ごろのジャカルタでの一般庶民の生活は、たいていの家が米にトウモロコシを混
ぜて炊いていた。

スカルノは書いている。
「飢餓との闘いで、われわれは米の生産量を倍増させたが、それだけでは足りずに毎年百
万トンを超える米を輸入するのに百万米ドルを支出せざるを得なくなった。米生産を上回
る人口増が起こったためだ。加えて、植民地時代に住民は米の飯を一日一回食べていただ
けだったのが、一日三回食べるようになった。進歩が起これば、頭を悩ます問題がもっと
たくさん噴出して来る。」

米を使って自分だけがもっと儲けようとする商人たちも続出した。スカルノはかれらへの
対決姿勢を取った。
「最近、わたしは経済を混乱させる者たちを死刑で威嚇した。ある脱穀場オーナーが米価
格を引き上げたために市場で価格が高騰した。かれは6千トンもの米を隠匿したのだ。も
し法廷で有罪が宣告されたなら、わたしが、このわたし自身が、死刑執行命令書にサイン
してやる。」

とはいえ、民衆をただ甘やかすことがスカルノの希望ではなかった。かれは民衆に援助米
をばら撒くことを控えた。「苦難と窮迫が人間を強くする」という信念をかれは抱き続け
たのだ。
「民衆の腹を満たしてやるだけでなく、かれらの精神にも糧を与えてやらなければならな
いのだ。すべての金を食糧のために振り向けるなら、かれらの空腹は多分消滅するだろう。
だがそんなことはしない。もしわたしが5米ドルを手に入れたなら、そのうちの2.5ド
ルはかれらの腹でなく背骨のために使う。一民族を教育するというのは、なんと複雑なこ
とだろうか。」


米を輸入しないというレトリックは米自給を目指す意欲を示している。その意欲は尊いが、
米蔵確保の努力は見られなかった。食糧戦略という側面から見るなら、食糧危機への対応
としての妥当な手段はほとんど執られなかったと言える。メダン国立大学歴史社会学研究
センター長はそのように分析している。

1965年9月30日のG30S事件から1967年の大統領辞任に至る流れの根底にあ
った問題に関する緒論はそれとして、食糧(特に米)問題は大変重要な意味を持っていた。
食品カテゴリーのインフレ率は685.36%、米価格は900%の値上がりになってい
た。

民衆が割当米に長蛇の列を作っていた一方で、スカルノは自分の方針にたいへんな自信を
抱いていたように見える。ある新聞が米を奪い合っているシーンの写真を掲載したとき、
スカルノはその新聞社の大統領府担当記者を叱責したことすらあった。スカルノの失脚は
食糧危機と無縁ではない。[ 完 ]