「ヌサンタラのドイツ人(1)」(2020年10月01日) ヌサンタラに関わったドイツ人は、初期の時代にはたいていVOCとの関連で足跡を印し ている。フランス人との大きい違いは多分それだろう。 ヘッセンHessen出身のドイツ人ギオーグ・イーバーハルト・ルンプGeorg Eberhard Rumpf はVOCのアンボン地区ナンバーツーを務めた人物であり、同時にアンボンの植物カタロ グ「アンボイナ植物誌」Herbarium Amboinenseを遺した植物学の大家だ。かれはRumphius という名前でも知られているが、これはルンプのラテン語式表記であり、インドネシアで はもっぱらルンピウスという名で呼ばれていて、ルンプの名前は一般的でない。 かれはVOCに入社して軍務に就き、1653年7月にバタヴィアにやってきた。そして 1654年アンボンに移って技術将校のポジションにあったが、文民職への異動を申請し て二級商務員に移された。1662年に一級商務員に昇進している。そのころからかれは このスパイス諸島の動植物に興味を抱いてカタログの作成を開始している。 1666年、ヨーン・マーッサイカーJoan Maetsuycker第13代総督はかれを総督直属の アンボンナンバーツーに指名した。つまりアンボンのVOC組織内でかれはトップの地位 に就いたことをそれは意味している。 1668年、かれのVOCとの雇用契約期限が来たが、かれは自分のライフワークを投げ 捨てて故郷に帰る意志を持たなかった。かれの研究がアンボンの風土病の治療に効果をも たらす薬用植物発見につながるものであるからには、VOCにとっても大きな意味を持つ ものに相違なく、無理やりそれをやめさせることは社会的な損失につながる。VOCはこ のドイツ人元社員の継続滞在を認めた。 1674年2月17日、中華正月祝祭期間が終わりに近づいたころ、激しい地震と巨大津 波がアンボン島とセラム島を襲った。かれの居宅は壁が倒壊し、妻とふたりの娘がその下 敷きとなって死んだ。その災害の犠牲者は2,322人で、巨大津波は高さ80メートル に達し、インドネシア史上最大のものとされている。かれはそのときの様子をアンボイナ 植物誌の中に書き残した。 1千2百種の植物を集めたアンボンの植物カタログは27年の歳月をかけて1690年に 完成した。時にルンピウスは63歳になっていた。かれはそれをバタヴィアのVOC本部 に送り、ヨハネス・カンパウスJohannes Camphuys第15代総督はその複写を作らせてか らVOC本社に送った。バタヴィアからオランダに送られたのは1697年であり、複写 作りは7年かかったことになる。 ところがVOC本社はその内容が敵を利することになると考えて、公開を禁止した。その 間に制作者のルンピウスは世を去ってしまう。自分の生涯をかけた作品がVOC本社の倉 庫の中でただ眠っているだけであることを、かれは知っていたのだろうか? ルンピウスのアンボイナ植物誌が出版されたのは1741年だ。この大作の公開はほぼ4 4年間の休眠のあとでやっとなされたのである。印刷部数はわずか5百部で、セット価格 100フルデンで販売された。現在のユーロ価に直すと2万ユーロになる。アムステルダ ムの医者の年収の三分の一だったそうだ。[ 続く ]