「バタヴィア娼婦殺害事件(1)」(2021年01月20日) 1912年5月17日金曜日、バタヴィアの街をセンセーションが走った。バタヴィア中 心部のパサルスネン地区の中を通って北に抜けるカリバルKali Baru水路で若い女の死体 が発見されたのだ。水門に引っかかった大きい米袋が不審を呼んで、それを引き上げたと ころ美女の死体が入っていた。首には絞殺された跡が歴然としており、しかも両手を縛ら れていた。殺人事件の被害者であるのは一目瞭然だった。 事件の報告を受けて警察が現場にやって来る前から、街のど真ん中で上がった女の死体の 噂が近隣に広まって、大勢の野次馬が集まって来た。顔が多少壊されていたため、色白で サルンとクバヤを着ていた死体を最初は誰もが華人だと思った。 警察はすぐに捜査を開始した。東インド植民地警察の組織改編が行われて間のない事件で もあり、トゥン・ルンポル警視長Commissaris Toen Reumpolが直々に捜査の陣頭指揮を執 った。行政上層部の期待に応えなければ、新組織の面目はない。そしてこれがその面目を 果たす絶好の機会なのだ。 被害者の身元はほどなく割れた。バタヴィアの夜の世界で著名な娼婦フィンチェ・ドゥ・ フェニクスFientje de Fenicks19歳が被害者だったのである。フィンチェはヨセフィン Josephineの愛称だ。バタヴィア住民はこのセックスと暴力の色濃い事件に興奮した。あ たかもそれが初体験であったかのように、センセーションは嫌が上にも盛り上がった。事 実、この事件はバタヴィア開闢以来最大のセックス暴力事件として後世に名を残すことに なった。 メディアがこの事件に飛びつかないはずがない。バタヴィアでは東インド日報Het Nieuws van den dag voor Nederlandsch Indieが、スラバヤではスラバヤ商業新聞Soerabaische Handelsbladが連日のように事件捜査の進捗状況を記事にした。新聞は飛ぶように売れ、 売れまくった。 フィンチェは1893年にバタヴィアで生まれた。父がオランダ人、母がプリブミの家庭 に生まれたインドIndoだったが、父親の家系がどうで、またどのような家庭環境で育った のかについては書かれたものが何もない。しかし若い身そらでそんな職業の世界に入って 行った事実を見るだけでも、どのような半生を送って来たのかは想像できるにちがいある まい。 フィンチェのぱっちりした目に高い鼻、官能的な唇、長い黒髪というその容姿に我を忘れ る男たちが続出した。特に金や権力を持つ男たちがファンになった。バタヴィアナンバー ワンとかの女を評価する声もあった。 フィンチェは娼婦上がりのジャンヌ・オーツJeanne Oortが経営する娼館のお抱えメンバ ーであり、その美貌と清楚な印象で大勢の常連客がついていた。種々の情報の中に、娼館 のオーナーとしてプリブミのウマル・オンポンの名前が登場する。ウマルはフィンチェの 行動に関する情報を警察に提供した人間として活躍しているが、ジャンヌ・オーツはまっ たく何もしていない。だから例によって、娼館のオーナーが誰でマネージャーが誰だった かということは、本当のところは闇の中だ。 警察の聞込み捜査の結果、事件の手がかりになるさまざまな情報が手に入った。フィンチ ェのその前夜の行動に関しては、ブリンクマンWillem Frederick Gemser Brinkmanという バタヴィア著名人と一緒にいたのが目撃されており、フィンチェが存命中に最後に接触し た人間に関する情報がそれだったのである。 ブリンクマンは社交場コンコルディアの上級会員であり、バタヴィア上流階層のひとりだ った。警察は最初、社会的有力者のブリンクマンを容疑者とすることに懐疑的だった。警 察は事情聴取を行ったものの、ブリンクマンは頑強に否定した。警察はブリンクマンに対 していささか及び腰で、かれを拘留することはしなかった。ところがブリンクマンの奇妙 な行動の話が聞こえて来たのである。[ 続く ]