「マラッカ海峡(1)」(2021年05月06日)

総面積6.5万平方キロ、全長8百キロ、幅は南縁の65キロから北縁の250キロまで
テーパー型に広がっていて、深さは概して27メートルで37メートルを超えず、北の広
がりに向かうほど深まって200メートルに達する。そのマラッカ海峡はスンダ海棚にあ
ってあまり起伏のない開けた平地だったものが、それ以前の7百万年間たいした地質構造
的変化を受けないでいたというのに、260万年前に最後の氷期が終わったときに海底に
沈んだ。ブリタニカ百科事典にはそのような説明が見られる。

このマラッカ海峡はインドと中国というふたつの古代文明の間に存在する海上交通ルート
の急所をなしたと同時に、それらふたつの文明ピークに集まる近隣世界からの海上交通網
にとっての関所にもなった。中国人が主張する海のシルクロードはそこを通る。


長い歴史を通じてマラッカ海峡を通る船の多さが海峡沿いの岸に寄港地を生み、そこが商
港や補給港になって繁栄した。古い時代にはマラユ半島西岸部にランカスカLangkasuka、
ルンバブジャンLembah Bujang(ケダッKedah)、対岸のスマトラ島東岸部にはパレンバン
Pelembang、マラユMalayu(ジャンビJambi)などが栄え、もっと後の時代には半島部にム
ラカMelaka、スマトラ島側にはラムリLamuri、パサイPasai、ピディPidie、コタチナKota 
Cinaなどの港ができた。

コタチナというのは現在のメダンMedan市とその外港ブラワンbelawan間の海岸寄りに位置
する場所で12〜14世紀に栄えた港町であり、ペルシャ・インド・中国の船が交易に訪
れた。ペルシャや中国の陶器、セイロンや中国のコイン、インドの仏像などが発掘されて
いる。

この港町は華人移民が作ったものらしく、そのためにコタチナという名称が与えられたよ
うだ。しかし諸外国の船がやってきて停泊し、商人たちが一定期間その町に定住したこと
は疑いない。ジャワ人・ジョホール人・ビルマ人・タイ人たちが華人やプリブミと共にそ
こに住んでいたという話になっている。

土砂堆積のために港の機能が十分果たせなくなってコタチナは衰退し、デリのスルタンが
1814年にラブハンデリLabuhan Deliを建設して港町を復活させたというのが歴史の流
れであり、19世紀後半には、コタチナは数十軒の家屋が集まった華人プラナカン部落と
してデリスルタン国の領地の一画を占めていた。

ラムリ・パサイ・ピディなどアチェの北から東に連なる海岸線にできた港町も、13〜1
5世紀に黄金時代を迎えている。


西暦紀元671年にマラッカ海峡を通過し、また滞在した体験を書き残した義浄の記述は、
古い時代の状況をわれわれに教えてくれる。かれはインドのナーランダに赴くために廣東
から船に乗り、途中に室利佛逝の王都に半年間滞在してサンスクリット語を学んだ。室利
佛逝はスリウィジャヤ王国を指し、王都はパレンバンにあったとされている。そこからマ
ラユMalayuに移って2カ月滞在し、インドに向かう船が出るケダッに移動した。マラユの
街は今のジャンビJambi州にあった。

義浄はインドから故国へ戻るために、再びマラッカ海峡を通過した。685年ごろ、義浄
の乗った船はインドからマラユの港に入った。15年ほど前、マラユはスリウィジャヤに
服属していなかったものが、かれが戻って来た時にはスリウィジャヤの属国になり、イン
ドから廣東へ行く船がそこに寄港するようになっていたのである。

スリウィジャヤ王国の発端はよく分からない。歴史上で最古の文献が義浄の旅行記なのだ
から。それに次ぐ古い文献が、パレンバンで発見された西暦紀元682年の年号を持つク
ドゥカンブキッKedukan Bukit碑文であり、文はムラユ語で記述されている。[ 続く ]