「北スマトラの食(4)」(2021年07月23日)

植民地時代にオランダ人が豪華な食事様式を作りだした。十数人の給仕がそれぞれ異なる
料理を捧げ持って並び、テーブルに座ったトアンたちの前に置かれている皿に料理を順番
に載せていくスタイルだ。トアンたちは自分の好き嫌いに応じて、「これはいらない。」
とか「これはたっぷり置いてくれ。」などと給仕に注文する。このスタイルを取って一躍
その名を高めたのが、ジャカルタのチキニに1968年にオープンしたオアシスレストラ
ンだった。


まずはアピタイザーが出て、それが一段落するとメインコースになり、メインコースはヌ
サンタラ各地の料理やアジア風に手直しされたヨーロッパ料理が何種類も皿に盛られる。

最後はデザートで締めくくって、フルコースの食事ができあがるのである。このようなヨ
ーロッパの正餐コンセプトの中身にインドネシア料理を当てはめて使うスタイルをオラン
ダ人はレイスタフルrijsttafelと呼んだ。英語に直せばライステーブルだ。

当然ながらヌサンタラの料理に合うコメの飯が主体になるが、別に強制されるものではな
くて、ジャガイモしか食べられないひとは無理強いされないから安心すればよい。このス
タイルをいったい誰が考え出したのか、由来は定かでないものの、白人観光客がオランダ
領東インドに続々とやって来た時代に、各地に次々にオープンしたホテルがこの食事を客
に供してヌサンタラのエキゾチックさを満喫させたのがその人気に大きく寄与したことは
間違いあるまい。その感動は多くの欧米人の心を奪ったらしく、インドネシアが完全独立
したあと、一時期インドネシアからレイスタフルは姿を消したが、オランダでしっかりと
受け継がれていた。

大勢の人間を使って客に給仕をさせるスタイルは多分、奴隷をたくさん持ったバタヴィア
上層階級の自己顕示につながっているように推察できるため、ホテル業界がその給仕スタ
イルを考え出したのではないかもしれない。現にすべてのホテルがその給仕スタイルを行
っていたわけでもなく、中には現代のビュッフェ方式のように、テーブルに全料理を並べ
て客に自由に取らせるところもあったし、グループ客が座ったテーブルに全料理が一斉に
並べられるパダンレストラン式のものもあった。

料理はアピタイザーがスープやクリームスープで、メインコースにはナシゴレン・ルンダ
ン・オポルアヤム・サテバビなどが定番として混じるのが普通であり、またクルプッとサ
ンバルは必ず添えられた。他には、バビケチャップ・ベベッブトゥトゥ・ガドガド・ルン
ピア・テンペ・ナシクニン・プルクデル・ピサンゴレン・スムルダギン・スルンデン・タ
フトゥルール・トゥルールバラド・サユルロデ・ルンプルなどが適宜バリエーションとし
てメインコースの中に入り混じった。


ところで、「北スマトラの食」というタイトルにレイスタフルはまったく関係がない。ど
うしてここに無関係のものを引っ張り出してきたかと言うと、北スマトラ州プマタンシア
ンタルPematang Siantarにあるシアンタルホテルでレイスタフルを愉しんだ記事が201
0年7月のコンパス紙に登場したからだ。

インドネシア共和国という民族主義の殿堂が植民地主義を打倒したという政治的なフェー
ズでレイスタフルを見るなら、レイスタフルがコロニアリズムのシンボルと見なされるの
は妥当な心理だろう。そもそもインドネシア人がヨーロッパ風のフルコースディナーの形
式で十数種類もの肉や野菜のインドネシア料理を少量ずつ食べるようなことをすれば、か
れらの腹がおかしくなるのではあるまいか。レイスタフルは原住民の食生活とまったくか
け離れた様式だからだ。

しょせん、レイスタフルは古き良きインディスを懐かしむヨーロッパ人のための豪華な食
卓でしかないのだろう。共和国独立後、レイスタフルはホテルレストランのメニューから
名前が消えてしまった。外国人報道関係者がスカルノ大統領に、ジャカルタでおいしいレ
イスタフルの店はどこかと尋ねたとき、スカルノは「ハーグへ行け」と返事したそうだ。
[ 続く ]