「黄家の人々(51)」(2022年08月05日)

ある夜、ふたりのチェンテンに騙されたテジャは簡単に邸宅の外におびき出された。どん
どん暗く寂しい方へ導かれて行く。集落の灯りがまったく見当たらない寂れて広い場所ま
で来た時、テジャはおかしいと気付いたが時すでに遅かった。ピウンの手に握られた匕首
がテジャに姉の元に帰ることを許さなかった。テジャの死体はスロがサトウキビ畑の中に
埋めた。そのとき、ピウンはテジャが履いていた上等なバティックのサルンを欲しくなっ
た。上等な手描きのバティックサルンはマサユが作って弟にプレゼントした物だ。だがふ
たりはそんなことを知らない。

テジャの死体からサルンを脱がせ始めたピウンにスロは忠告した。「おい、やめとけよ。
そんな物から下手人の足がつく恐れは小さくない。身を危うくする元だぜ。」スロには何
か悪い予感があったのかもしれない。
「いや、大丈夫だ。これはシアに報告するときの証拠にもなる。オレが履いてたってだれ
にもわかりゃしねえ。おめえも弱気な人間になったようだな。」

ふたりは仕事の成果をタンバッシアに報告し、テジャが履いていたサルンを示して報告に
間違いのないことの念押しをした。タンバッシアは命令がすぐに実行されたことで気が晴
れ、ふたりに褒美をはずんだ。しかしタンバッシアもふたりに念を押すことを忘れなかっ
た。「おまえたち、スーキンシアについての命令を忘れたわけじゃあるまいな。オレの命
令をこのように手っ取り早く片付ければ、褒美は望むがままだというのに。」


その夜、弟が帰宅しなかったのをマサユはたいそう心配した。黙って外泊するようなこと
はこれまで一度もなかったのだ。弟から聞いた新しい知人友人の名前を思い出して、それ
らの家に探しに行くように下男に命じたが、どこの家にもおらず、どこも昨夜弟は訪問し
ていないことが判った。マサユは思い余ってタンバッシアに報告した。タンバッシアは驚
いて騒ぎ、マサユに協力してテジャを探すようパサルバルの住民に命じた。チュルッでは
その日騒ぎが続いたものの、何ひとつ情報が得られず、間もなくテジャの捜索活動は下火
になっていった。警察に届けを出すこともなされなかったから、リーシーの夫の時のよう
な警察の関与もまったくなかった。

マサユの涙に暮れる日々が始まった。だが、かの女には何が何だか分からなかったし、何
者かの悪意が働いた可能性も容易に推測できなかったから、リーシーが持った悲しみとは
違うものになっていたことだろう。弟に最悪の事態が起こったという想像はできても、そ
こに悪意や怨恨が関わった可能性はほとんど考えられず、偶然による悲劇という想像にな
っていたように思われる。


バタヴィア華人マヨールの懐刀になったスーキンシアは、華人社会の秩序と統制に対する
精神傾向が研ぎ澄まされていった。アヘン公認販売者の代理人の仕事をしていると、さま
ざまな人間からさまざまな情報が入って来る。スーキンシアが喜ぶ情報を持って行くとそ
のチップとしてひとかけらのアヘンをくれるのだから、アヘン好きの市民は治安関係の情
報を競ってかれの耳に入れることに努めた。

その中に、タンバッシアに囲われているプカロガンのタンダッ踊り娘マサユグンジンの弟
テジャの失踪事件があった。スーキンシアはプカロガン時代にマサユを知っていたが、接
触したことはない。テジャが姉の家に住んでいれば生活に困らないのだから、あえて失踪
するのはたいへんな事情が裏にあることが容易に推測される。しかしその事件は世間で騒
がれていないのだ。結局は本当の事件にならなかったのではないだろうか。スーキンシア
は備忘録にその情報をメモしただけで、すぐに意識を外してしまった。


ある夜、タンバッシアがマサユの家に来て泊まった。リーシーの家には足が向かず、昔な
がらに自分を愛して仕えてくれるマサユが、今のタンバッシアには大きい慰めになってい
たようだ。[ 続く ]