「植民地の学校制度(3)」(2022年09月27日) ヨグヤのAMS−Bは10年間に292人の卒業生を送り出した。292人中の168人 がプリブミだったそうだ。そのうちでバンドンのTHSに進学した者は50人で、その間 にTHSを卒業してIr.の学位を得た者は12人あった。オランダのデルフト大学に入っ た者は7人、残りのうちでバタヴィアのヴェルテフレーデンに設けられた医学と法学の高 等学校に入った者も少なくなかった。 そのようなエリートコースとは別に、オランダの倫理政策は草の根階層プリブミをもター ゲットにして3年間のVolkschoolを村落部に開いた。プリブミはこの学校をSekolah Desa と呼んだ。 この学校は完全無料だった。その時代、村落部の子供たちは親の農作業を手伝うのが当た り前の慣習だったから、行政側は子供の生活の何時間かを強制的に取り上げて学校へ来さ せた。村役が各農家に子供を学校へ行かせるよう命令したのだ。村の子供たちはそこで読 み書き算数を習った。 更に1914年、村学校を終えた者が進学できるVervolgschoolが各県の中心都市に設け られた。このフェルフォルクスホールを終えれば5年間の初等教育を終えたことになる。 この学校をプリブミはOngko Loroと呼んだ。後にスコラデサとオンコロロは合併されて名 称もSekolah Rakyatになり、日本軍政期にはKokumin Gakkoと呼ばれて修業期間が6年に された。インドネシア語記事の中にはフォークスホールをスコララヤッと述べているもの が少なくない。翻訳すればその通りになるわけだが、この項については対応関係があやふ やで、正確さにおいて確信が持ちにくい。 この草の根教育の領域内にあるフェルフォルクスホールがオンコロロと呼ばれたのは、植 民地政庁がこの分野を二級教育と形容したからだ。元々の発端は教育行政に関する決定書 の中でHIS/HCSが一級学校De Scholen der Eerste Klasseと呼ばれ、村学校は二級 学校De Scholen der Tweede Klasseと位置付けられた。その一級学校・二級学校をジャワ 人はジャワ語でOngko Siji・Ongko Loroと呼んだ。 各県の中心都市にはまた、5年制のSchakelschoolが開かれて、二級教育の生徒が通った。 このシャクルスホールと村学校の関係が良く分からない。村落部と都市部でという場所の 違いの上で並立していたのだろうか? またシャクルスホールはオランダ語を学びたい子供たちが通ったという話もあり、それは 課目の中にオランダ語の授業があったということを意味しているように思える。まさかオ ランダ語を教育の媒介言語にしたわけではあるまい。シャクルスホールの卒業生はHIS 卒業生と同じ学歴と見なされた。 上に述べたものが、一般的な公的教育における初等・中等レベルの学校の種類だ。学校が 設けられても、教員がいなければ教育活動は回らない。プリブミを教育するための教員養 成は、植民地政庁が村学校などのオンコロロ教育に着手するはるか以前から、教育行政と は異なる場で行われていた。キリスト教宣教団の布教にからめた信徒教育のための教員養 成がそれである。 宣教団が各地に拠点を置いたとき、そこに学校が開かれた。行政が関与したとしても、そ れは行政が主導権を持つ教育行政の範疇ではない。1834年、アンボンに教員養成学校 が作られ、全ヌサンタラに開かれた宣教団のプリブミ教育の学校で必要とされる教員の養 成が長期にわたってアンボンの一カ所で行われた。宣教団は1852年になってミナハサ にもうひとつの教員養成学校を設け、1855年にミナハサのタナワンコで三つ目が開校 された。[ 続く ]