「北の黄色い小人(5)」(2022年12月28日) インドネシアの知識人たちは民衆への民族独立の教化と宣伝を続けてきたが、その中にジ ョヨボヨ王の予言も組み込まれた。1930年代には、オランダの植民地支配を終わらせ る北の黄色い小人は日本人だという説が一般的になり、インドネシア民族の解放者となる であろう日本と日本人をより深く知ろうとする動きが一部で起こり始める。 たとえば民族主義運動組織ブディウトモも日本への傾斜を起こした。ブディウトモは組織 の費用で日本に留学生を派遣し、その初代留学生サムシ・サストロウィダグドは日本と蘭 領東インドの経済関係を卒業論文にした。ブディウトモ会長のドクトルストモも1937 年に日本を訪問している。 日本を訪問したことはなかったものの、戦前のインドネシア民族運動の巨魁のひとりだっ たE.F.E. Douwes Dekkerがバンドンに開いたKsatryan Institutでは日本語が教えられる ようになった。このE.F.E.ダウウェス・デッカー(現代オランダ語発音)はマックス・ハ フェラールの著者ムルタトゥリの本名とそっくりだが、かれはムルタトゥリであるエドゥ アルト・ダウエス・デッケルの甥にあたる。 クサトリアン学院が日本語を教えたのは、優秀な生徒を日本に留学させてインドネシア独 立の機会を求める一助にしようとするダウウェス・デッカーの構想に発したものだったそ うだ。 1930年代後半にはインドネシアの諸階層で日本旅行が活発化し、オランダの傘の下に あったプリブミ政財界の中に日本との関係構築を図る者が出るようになった。政党主や政 界中枢のひとびと、財界の大物、おまけに国民議会メンバーまでが日本詣でを行うように なったのだから植民地政庁は大いに神経を逆なでされたにちがいあるまい。 インドネシアの一般民衆にとって、日本という国と民族はそれまでも決してなじみのない ものではなかった。これはアジア全域で言えることだろうが、日露戦争における日本の勝 利が白人との近代戦争でアジア人が白人を降した前代未聞の快挙とされ、日本という名称 を不朽のものにしてしまった。アジア人は白人に勝てないという劣等意識が崩壊し、日本 を英雄視する心理がアジアを覆った。日本人と身近に接したことも、あるいは見たことす らないひとびとでさえも、日本という言葉に好印象を抱いた。すべてが観念の中で起こっ たことであり、インドネシアでもそれは同じだった。つまり日本という名前が独り歩きし ていた時期がそれだったのだろう。 その好印象は日本人の優秀さという解説がバックアップした。明治維新後の半世紀も経な いうちに、日本は重工業化を達成し、強い軍隊を持ち、ヨーロッパ製の武器兵器に劣らな いものを自国生産するようになり、その結果が日露戦争の勝利となって輝いたという成功 譚がアジア諸国の知識人に更なる憧れを抱かせることになったのだ。ヨーロッパ諸国さえ もが日本は列強のひとつだと公然と語るようになったのだから、好印象ははちきれんばか りに膨れ上がった。 インドネシアの民衆もそんな話を認識していた。しかし好印象が観念の中で膨れ上がる一 方、現実の日本人というものとの接触はあまりたくさん起こらなかった。かろうじて起こ ったのは、町々にできたトコジュパンをはじめとする日本人経営の商店における日本人店 主や店員との接触くらいだったようだ。[ 続く ]