「最初の将軍(5)」(2023年02月24日) 日本陸軍は1943年10月にプリブミだけの軍隊である祖国防衛軍「ペタ」を発足させ て日本軍を補助する役割を与え、訓練に訓練を重ねて育て上げた。思いがけず無条件降伏 の日を迎えたあと、占領以前の旧態に復帰させることを命じる連合国からの指令に従って ジャワ軍政監部は1945年8月18日にペタを解散させた。 すると独立宣言したばかりのインドネシア共和国はすぐに共和国の軍隊を編成した。この 共和国軍はBadan Keamanan Rakyat(国民保安団:ベーカーエル)と名付けられ、194 5年8月23日にスカルノ大統領がそれを公表した。国民保安団には日本軍が育成したペ タ・兵補・青年団・警防団、そしてオランダ東インド軍やオランダ東インド警察などで有 能だったひとびとが参加した。司令官にはチマヒのペタ大団長だったアルジ・カルタウィ ナタが任命された。 最初、敗戦のショックで自己を含めた在留日本人の保安と保護に気を取られていた日本軍 は、全土に広がり始めたインドネシア人の動きに対して、何かをしなければならないとい う思いに駆られたようだ。各地に作られたペタ組織はそのままBKRに移行し、祖国防衛 を担うというペタ兵員ひとりひとりに叩き込まれた精神をモットーにして、武装レベルを 高めるために日本軍を武装解除し、武器兵器を手に入れる行動を始めたのだ。 まったく無血でそれを成し遂げたのがスディルマン大佐率いるバニュマスBKR第5師団 であり、反対に統率に欠けた烏合の衆が城戸部隊に反撃されて大量の犠牲者を出したのが スマラン5日間戦闘と呼ばれているスマラン事件だろう。しかしそんなことだけでなく、 民生の諸機能についても日本人の命令と監督に従って動いていたメカニズムから日本人の 管理監督者を追放することが起こるようになった。住民管理行政・鉄道・郵便・電信電話 などの実務機構がインドネシア人に奪取されるようになっていった。 連合軍は大日本帝国に対し、すべての占領地を戦争前の状態の形で連合軍に引き渡すよう 命じた。引き渡すまでの治安は日本軍が責任を負わされた。それは敗軍になって権威の失 墜した日本軍にとって容易なことではなかっただろう。ジャワ軍政監部はその「言うは易 し」の命令に唇を噛んだのではあるまいか。 インドネシア側に対してジャワ軍政幹部は1945年9月10日、声明を発表した。「イ ンドネシアの国家行政はインドネシアに譲渡せず、連合国に引き渡す。」 インドネシア共和国にとってその声明は、ジャワ島にいる日本軍がNICAの手先になっ たことを意味していた。日本軍ははっきりと共和国の敵になったのである。スラバヤの東 部ジャワ地区司令部、ヨグヤカルタの地区司令部に向けてインドネシア共和国軍と民兵に よる攻撃が行われ、スラバヤは10月2日、ヨグヤは10月7日に降伏した。 BKRは元々、軍隊色の薄い、国民の保安を担うものとして設けられた。建国の父たちの 持った平和主義の理想が生み出したものだったにちがいあるまい。ところがそんなもので 現実を乗り切るには無理があった。 植民地の復活をもくろんでヌサンタラに戻って来たオランダ人植民地主義勢力が最初から インドネシア共和国を敵視し、武力によって共和国を潰滅しようとかかってきたのだから、 国防のための軍隊を持たなければおさまるはずがない。こうしてBKRは1945年10 月5日にTentara Keamanan Rakyat(国民保安軍:テーカーエル)となって名実ともに軍 隊としてのスタートを切った。しかし、保安機構から軍隊にコンセプトが変わったという のに依然として保安の名称を残しているのはおかしいということになったのだろうか、1 946年1月16日にTentara Republik Indonesia(インドネシア共和国軍:テーエルイ ー)にまた名前が変更されている。 ともあれ、TKRの名前で軍隊ができたとき、スカルノ大統領が総司令官に任命したのは ペタの対日反乱を立案指導したスプリヤディだった。日本軍政末期に一躍国民のスターに なったものの完全に消息を絶ってしまったスプリヤディを世の中に引き戻そうとスカルノ は考えたようだ。スプリヤディには内閣の国防大臣の椅子まで用意され、ラジオで全国津 々浦々までこのニュースが流されて、スプリヤディが名乗り出てくるのを国中がかたずを のんで待ち受けた。しかしスプリヤディは姿を現さなかった。スプリヤディ小団長が起こ したペタの反乱事件は拙著「ブリタル反乱」をご参照ください。 《 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-26Blitar.pdf 》 [ 続く ]