「塩のマドゥラ島(3)」(2023年06月07日)

20世紀に入ると、マドゥラの統治行政形態が変更された。プリブミ貴族が就任するアデ
ィパティによる行政から、オランダ東インド政庁が直轄する行政方式への移行だ。192
1年になって東インド政庁内に、オランダ東インドにおける塩の生産と流通を一手に握る
塩専売局が設けられた。

そして1936年に塩専売局は塩産業を独占する動きを開始した。1937年、アヘン塩
専売局に改組された塩専売局はマドゥラの製塩産業を官営に変える動きを進めたのである。
これは流通機構を支配している華人の意向が操ってきた塩生産のスタイルに風穴をあける
ものになった。

独占体制を構築する中で、政庁はマドゥラ人の土地を取り上げることをたくらんだ。地主
になって自分の土地から産出する産品の所有権を握ろうという企てだ。

政庁はピンギルパパス、マルガン、カランアニャルの塩田用地を50年間、スムヌップの
アディパティから借地した。ユリアナ王女に憧れているアディパティを巧みに口車に乗せ
て、先祖代々地元民が居住し塩田稼業を行っていた土地を住民に断りもなく借地させたと
いうのがこの話だ。借地契約書は1936年8月7日付で作られた。それまで自分の土地
で作った塩をオランダ人に売っていた生産者は、その日からいきなり日雇い労働者の立場
に落とされた。生産者の収入は激減し、政庁のあげる利益が大きく膨らんだのは言うまで
もあるまい。


政庁は塩の蒸留工場を2ヵ所に設け、そこで生産された塩は一部をブリケット状、のこり
は粉粒状で梱包し、工場から港に送り出して船積みした。工場が設けられた土地には西洋
人幹部が居住するための環境が設けられたため、プリブミの目にはオランダ村が作られた
ように映った。そのひとつがサンパン県トルジュン郡のクランポン村だ。

1905年、クランポン村に梱包工場が作られ、西洋人職員のためにオランダ風の住宅コ
ンプレックスが設けられたことで、ひなびた村がニュータウンに変身したのである。村の
中には教会が建てられてキリスト教の活動と布教が行われた。映画館・スポーツ施設・噴
水のある公園まで作られた。村の中を電気が通り、上水道が通った。県庁があるサンパン
の町にすら、まだ電気がなかった時代だ。県下でクランポン村だけが電気のある生活を享
受していた。


20世紀初期にサンパン県には1,377、パムカサン県1,547、スムヌップ県に1,
648枚の塩田があり、生産は最高潮に達していた。その時期、塩生産者は繁栄を謳歌し、
数千人のマドゥラ人が塩に関わって豊かな生活を楽しんだ。

マドゥラ島という辺地で生産される塩を消費地に配送するため、オランダ王国の国営船会
社Koninklijke Paketvaart Maatschappijが海上輸送と島内の陸上輸送に携わった。だが
官立の塩会社も自社所属の海運会社Oost-Java Zeetransportを興した。KPMの料金が高
すぎるというのがその理由だった。

そんな状況はまた別のビジネス冒険家たちを塩輸送事業に誘い込むことになった。マドゥ
ラ島南海岸部で蒸気トラムを走らせ、西端のカマル港からスラバヤに運べばよい。Madoera 
Stoomtram Maatschappijが設立され、線路敷設は19世紀末から開始されて、1901年
には東端カリアガッから西端のカマルまでがつながった。

こうして、マドゥラ島からの塩の配送はKPM・OJZ・MSMというオランダ系大資本
の三つ巴になり、さらに必要に応じてプリブミの帆船海運もそこに混じりこむ状態になっ
た。マドゥラ島の塩はさまざまな港からさまざまな手段で海を越えたのである。

20世紀初めの20年間はマドゥラ塩の黄金時代を画し、政庁は年間1.8億フルデンの
収益を計上した。30年代に入って世界不況の影響を蒙ったものの、政庁の塩事業は1.
5億フルデンのレベルを保ち、激減したアヘン収入を上回る底力を見せた。[ 続く ]