「ヌサンタラの紙(9)」(2024年04月15日)

父親は小学校教員だったがカマサン村で名の知られたガムラン演奏の名手であり、母親も
バリ舞踊が達者だった。芸術面の才能を受け継いだスチアルミはロンタルに書かれたバリ
語の文章を節をつけて読むmembanten wiramaを上手にこなし、踊りも人並み以上のものが
あった。だがかの女の才能は伝統絵画の分野で開花したのだ。

スチアルミがカマサン絵画の制作に入ったきっかけは、祖父や叔父たちがブラチュ布に描
いている絵に魅せられたからだ。米粉を溶いた水に浸けてから乾かせたブラチュ布は固く
なって、絵のキャンバスとしてふさわしいものになっている。その布の上に極彩色の絵が
描かれるのである。

そのころまだ9歳だったスチアルミは、絵の制作をしている祖父や叔父たちに混じって、
絵の手ほどきを受けて練習するようになった。スチアルミがそのようにしている姿を見た
叔母はやめるように強く言い聞かせたが、かの女は従おうとしなかった。あのころを振り
返ってスチアルミは、叔母は多分、まだ小さい子供が大人たちの仕事場で大人の真似をし
て遊んではいけないという考えで禁止したのだろうと言う。しかしかの女自身は自分がし
ていることを単なる子供の遊びとは思っていなかった。

かの女の絵の才能を最初に発見したのは小学校の先生だった。教室で生徒にワヤンの絵を
描かせると、スチアルミが一番上手にしかも一番早く描き終えた。その当時は日本軍政下
の時代であり、紙のノートなどなかったから小学生は教室で石板を使った。石板の上に書
かれたものは遅かれ早かれ必ず消える運命にあった。

父親がスチアルミの絵の才能を支持して、それを伸ばすのに協力を惜しまなかった。ただ
上級の公的教育を受けさせるだけの財力が親にはなかった。かの女は小学校を終えると自
宅で家事手伝いの暮らしに入らざるを得なかったのだ。かの女自身はそれを別に残念とも
思わなかったそうだ。


スチアルミのカマサン絵画は終わりがなかった。成人し、結婚してからも、カマサン絵画
を描き続けた。ヒンドゥの慣習祭祀はほとんど毎週行われる。そのための供物を定められ
た形式で作らなければならない。母はスチアルミに、バリの女が持たなければならない生
活技能を教え、そしてマスターさせた。祭祀のための供物作り、踊りができるのは当たり
前で、いかに上手に踊るかが本人の努力に委ねられる。料理が上手なことも基本条件だ。
そして金を稼ぐことも。

そんなさまざまな仕事に加えてスチアルミは6人の子供を育て、暇を見つけては絵を描き、
それをパサルの商人に売った。昔、バリの大衆社会ではクペン銭と呼ばれる穴のあいた古
銭が流通しており、かの女もクペンで代金を受け取るのが普通だった。

その子供たちもみんなつつがなく成人して、中には大学修士の資格を取った子もいる。母
として女性として、スチアルミの対人姿勢は常に優しくてソフトだ。だがその奥には硬い
意志と強い意欲が満ち溢れている。既に70代という年齢に入ったというのに、絵を描く
欲求は少しも衰えない。

残念なことに、両目に白内障を患ったため、自分のイメージの中にある光景をブラチュ布
に写すことができなくなった。自分の描く絵を自分の目で認識することが完璧に行えなく
なったのだ。まず左目の手術を受け、それが完治してから右目の手術を受けた。そして両
眼に正常な視覚が戻って来たとき、自分が手術前に描いた絵を見て笑ってしまったとかの
女は語る。笑ったあとで恥ずかしさがつのり、絵を隠したそうだ。

既に老齢に入ったというのに、スチアルミの絵心は強まるばかりだ。昔から描いてきたラ
マヤナやマハバラタの物語のシーンを自分の想像の中に描き、それをブラチュ布に写すの
である。想像の中に描かれるシーンは年齢がもたらす豊かさの高まりを感じさせれくれる。
絵の構想が固まれば、かの女は一気にそれを描き上げようとする。まるで自分をその画面
にぶつけるかのように。[ 続く ]