「居留地制度と通行証制度(8)」(2024年05月03日) もちろんバタヴィアから送り返されるだけで済むはずがなく、25フルデンの罰金請求が かれを待ち構えている。この罰金を素直に納めなければ、今度はひと月間の刑務所暮らし がかれを待っている。刑務所に入れられて強制労働を科されるのだ。強制労働はたいてい 道路やパサルなど自分が住んでいる町の公共スペースの清掃や草取りあるいは補修工事な どをさせられた。今度は友人知人の目に恥をさらすことになるわけだ。 この通行証の機能としては、どこの町であれ見かけない東洋人在留者がうろついていると き、その者の身元を証明するものになる。警官は地元の東洋人在留者をたいてい見知って おり、そうでない者が街中にいると職務質問が行われる。そのときに通行証が提示される ことで法的措置の発生が防がれる。この仕組みがよりよく働くために、東洋人在留者は普 段から民族衣装を着て生活するように誘導されたという話もある。 通行証には目的地と交通手段が明示されているので、警官はその内容と実態を照合するこ とになる。バイテンゾルフからバタヴィアのガンビル地区へ商用で行くことを通行証が示 しているにもかかわらず、それを携帯している人間がバンドンに現れたら当然おかしいと いうことになるわけで、これも通行証不携帯と同じレベルの違反行為とされた。 通行証発行者は、発行した通行証が正しく使用されたかどうかを確認しなければならない。 それを使用者に証明させるために、目的地の行政管区長のサインを通行証に印させること が義務付けられた。自分の居所に戻った東洋人在留者はその通行証を返納して、申告通り の行動を行ってきたことを報告するのである。それらの各手続きを規定通りに実行しなけ れば、これまた通行証不携帯と同じレベルの違反行為に該当することになる。 通行証の目的地として町の名前が書かれるのが普通だ。それはつまりその町の境界線を越 えると通行証の目的地と異なる場所へ赴いたという理屈をもたらす。それがまた厄介な問 題を生む。たとえばバイテンゾルフからチチュルッへ行く通行証を手にしても、それはチ チュルッのパサルが限界線であることを意味している。それを越えてチムラティへちょっ と気晴らしに行って水遊びでもしたいと思ったところで、そのまま行けば通行証不携帯に されてしまうのである。だからチムラティへ行くための通行証をチチュルッで手続きしな ければならないのだ。リゾートへ行ったらのんびりひと晩過ごしたいのは人情だ。だから 水浴場周辺のカンプンでひと晩民宿したい。ところがチチュルッの役所はそんなことを華 人に許可してくれない。宿泊できなければチチュルッからチムラティへの日帰り行になら ざるをえない。もしも療養が目的であれば、医者の推薦状を持ってこいと言われる。それ なしでカンプンでの一泊(であれ何泊であれ)をチチュルッの行政官が許可したためしが ない。 1907年のムラユ語新聞プルニアガアン紙に中華会館発起人のひとり潘景赫Phoa Keng Hekが通行証制度批判の論陣を張った。その制度が現実にどのようなものであったのかと いうことをわれわれはそこから知ることができる。 かれは自分たち華人子孫がアラブ、モール、クリンなどと一緒に東洋人在留者として区分 されているのは心外であり、華人子孫は他の異民族在留者とは違っているのだと主張して いる。華人は最大の人口を擁しており、何世代にもわたってこの土地で生きてきた。先祖 の国のことなどろくに覚えておらず、先祖の言葉すら十分に話せない。 二番目に人口の多いアラブ人はイスラム教を信仰し、祖国のアラブには偉大なる預言者の 墓がある。かれらが祖国を忘れられないのは当然であり、ジャワ人ですら一生に一度はか れらの土地をその足で踏むことに憧れている。[ 続く ]