「大郵便道路(121)」(2025年06月02日)

< パスルアン Pasuruan >
バギルから東へ21キロの距離にパスルアンの町がある。町から町への街道は大郵便道路
と国道1号線がオーバーラップしているのだが、パスルアンの町中に入ると国道1号線は
町の中心部であるアルナルンを避けるルートになっていて、大郵便道路と少し違っている
ようだ。

バギルの町からパスルアンまでの街道を通ったわたしはまるで住宅地区の中を走っている
ような気分になった。つまりわたしが受けた印象では、バギルはパスルアンに付属する、
地理的にくっついている町のように感じられたということなのである。

大郵便道路はウレリ・シドアルジョ・グンポル・バギル・クラクサアンなどの新しい町を
生み出した、と歴史学者のひとりは語っている。それらの町は元々、大郵便道路と交わる
ローカル道路にあった小さい市場が、大郵便道路が作られた結果生じた道路交通の恩恵を
受けて大きく発展していったものだとかれは言うのである。言い換えるなら、その近くに
あった大きい町が大郵便道路に沿って小さい市場の方向に広がって行き、そこにひとつの
町を生み出したという言い方が可能なのだろう。

バギルはパスルアンの衛星地区であり、後に登場するクラクサアンはプロボリンゴの衛星
地区のような印象を、わたしが大郵便道路を走行する中で感じたことも確かなのだ。


パスルアンは火山性のたいへん肥沃な土壌に恵まれており、農業・農園・牧畜にきわめて
有益な地方だ。そして民衆の手工産業もこの地方に栄えた。パスルアンの木彫家具にも定
評がある。

植民地時代にパスルアンがジャワ島の砂糖生産に大きく貢献したという話がある。192
6年にジャワ製糖産業農業試験場事務所がパスルアン市内に開設された。インドネシアの
独立闘争期にオランダの第一次警察行動が行われた際、反抗するインドネシア民衆がその
建物を焼いたために、また再建された。現在の建物は再建後のものだ。

この試験場は世界で最初に、当時の東インド政庁チーフ監視官フリッツ・ソレヴェイン・
ヘルプケの強い後押しで設立されたものだ。それがわざわざパスルアンに置かれたのは、
この町がジャワ製糖産業の中に重要な位置を占めていると政庁の行政官たちが考えたから
にちがいあるまい。

ヘルプケはジャワ製糖産業の将来に不安を抱き、その問題を解説して試験場の必要性を訴
える論文をロコモティフ紙に寄稿した。その結果、パスルアンに東ジャワを所轄する製糖
産業農業試験場が開かれ、中部ジャワはスマラン、そして西ジャワはトゥガルに同様の試
験場が置かれた。

1880年代に入ってから、ジャワの製糖産業界は生産が需要を超過していることに気付
いた。業界者と行政官の頭の中をその対策問題が埋めた。世界の標準を下回っている品質
であるというのに生産量を絞らなければならない。その一方で、ジャワ島ではサトウキビ
にセレ病が蔓延していた。冒されたサトウキビの葉には斑点が表れ、やせて折れ曲がり、
幹は小型化して背が伸びなくなるのだ。

試験場の努力で病気に強く生産性の高い新種が発見され、崩壊に臨んでいた製糖業界に希
望の光がよみがえった。東インド国内のサトウキビ農園で続々と栽培種の切り替えが行わ
れ、国外でもこの新種を迎え入れた国で植え替えが行われた。パスルアンで発見されたそ
の新種はコロンビアで今でも栽培されているそうだ。[ 続く ]