「大郵便道路(122)」(2025年06月04日)

パスルアンの町の北側にあるマドゥラ海峡に面した海岸地域も、ジャワ島北岸地方が宿命
付けられた泥土堆積の例外にはならず、陸地を海に押し出し続けている。だから大郵便道
路の北側にできた幅広い入江に注ぐグンボン川の河口に位置するパスルアン港もその影響
を蒙り、浚渫工事が何度も行われた。

19世紀にパスルアン港は泥土堆積の激しい第四級港のステータスを与えられ、大型船は
徐々に海岸から遠ざかって投錨するようになり、荷役量に減少が起こった。そしてスラバ
ヤ〜マラン間を鉄道が走るようになってからは町の産業が寂れて行った。

1882年に3万8千人あった住民人口が1905年には28,300人まで減少したこ
とに、パスルアンの町の寂れようを窺い知ることができるだろう。


東インド政庁は1845年にパスルアンに要塞を築いたものの、1892年にそれを取り
壊した。パスルアンの安全が確保されたことをそれが物語っているようだ。19世紀半ば
ごろ、オランダ人はパスルアンに大型の建物を建設した。町中にはカトリック教会、プロ
テスタント教会そしてモスクがたくさん建てられている。

19世紀半ばごろまで、オランダ人の書くパスルアンという地名の表記は定まらなかった。
VOCの記録にはPasuruwanあるいはPesuruwanという綴りで記されている。ラフルズ統治
下の時代にイギリス人はPassarouangと綴った。それらの綴りから地名の由来を推し量ろ
うとする現代人が、suruh→suruhanから作られたpasuruhan/pesuruhanはあれこれ仕事を
命じられて言われたことを行う人間、つまり下男下女を提供する土地であると推察し、ま
たpasar uwongは人間を売買するマーケット、pasar ubongは小銭マーケットなどという解
釈を行った。しかしsirihの古語であるsuruhを推測した者はシリのパサル、またはシリの
畑という解釈を下した。

エルランガ王のカフリパン王国の時代、パスルアンはParavanという名で呼ばれていたそ
うだ。そのころからパスルアンの港は寄港地と同時に商港としてにぎわい、金持ち貴族や
商人たちが利益を求めてその地に移住してきた。パスルアンも古くから異文化の人間がコ
ミュニティを作るマルチ文化都市になっていたようだ。Gembongと呼ばれた時代もあって、
その名称が川の名前として現代まで続いている。


パスルアン県にもたくさんチャンディがあるが、有名どころはグンポル〜マラン街道の西
側に建てられていて、ヒンドゥブッダ時代の文明あるいは直接的な王権の限界がそのあた
りになっていたことを推測させている。

そんな状況であったとはいえ、タパルクダ地方と呼ばれて後進文化地域と見なされていた
グンポル〜マラン街道の東側にチャンディがまったく作られなかったわけでもない。バギ
ルの北西に位置するパスルアン県ベジ郡グヌンガンシル村に建てられたKeboncandiという
名のチャンディは大郵便道路から7百メートルほどしか離れていない場所にある。このチ
ャンディはエルランガ王の時代に、その村を興したニ スリ ガティという名の寡婦女性の
功績を王が称揚して建てたものと言われている。

他にも、ブロモ火山の北側山腹に位置するパスルアン県ルンバン郡にLulumbangと名付け
られたチャンディがある。現代のブロモ山一帯に住んでいるひとびとはTengger族と呼ば
れていて、ヒンドゥ教をコミュニティの宗教にしている。

ジャワ語でトゥングル族、インドネシア語でテンゲル族と呼ばれるこのひとびとは、モジ
ョパヒッの王都がイスラム軍によって陥落したとき住民の一部が難を逃れて山奥に入り、
その地の原住民と混じり合ったと信じられており、今でもジャワ島内に残っている数少な
いヒンドゥコミュニティのひとつとされている。チャンディルルンバンの歴史的背景につ
いて探したが、イ_ア語ネット内で情報を見つけることができなかった。[ 続く ]