「大郵便道路(124)」(2025年06月06日) その動画の解説によれば、モジョパヒッ王国末期にイスラム布教が盛んになったころ、王 宮内でも宗教争いが激化してきたために、大王が家族や同心のひとびとと一緒に静かで落 ち着いた場所を求めようとして王宮を去って旅に出た。 山と森の奥深くに進んだ一行はブロモ火山の北麓に格好の場所を見つけた。そこは泉があ って川が流れているだけの、美しい霊気の漂っている土地だった。それが今のバニュビル だ。一行はそこで水浴を楽しみ、癒しの日々を送った。 それから数百年の歳月を経て、20世紀に入ってからオランダ人が今のバニュビルを開い てリゾートを作った。そして雰囲気を高めるためにヒンドゥ時代の石像や遺物をシゴサリ や他の場所からそこへ運んで飾り付けた。だからそこにチャンディは建てられていなかっ たということなのだそうだ。 パスルアン県ウィノガン郡ウンブラン村はブロモ火山の北麓にあり、パスルアンの町から 南東に14キロほど離れている。1915年に良質の飲用水が湧く泉を東インド政庁がそ の村で発見し、その湧水池を一般人から隔離して水をヨーロッパ人に優先供給する方針を 立てた。パスルアン行政府は1917年に水道会社Inlando Water Bedrijfを興して送水 設備を建設し、池にはポンプが設置され、送水パイプはパスルアンのみならず、スラバヤ まで伸ばされた。翌1918年に東インド政庁はパスルアンの町をスタッツヘメンテに指 定した。 ウンブランの水の利用が開始されたころ、水源の流水量は毎秒5千リッターあった。その うちの6百リッターはスラバヤとパスルアンに住むヨーロッパ人が消費し、3百リッター は灌漑と淡水魚養殖、50リッターはウンブラン住民用として利用された。残る4千リッ ターほどはただジャワ海に流出するのに任されていたと書いているイ_ア語記事もある。 一方、プラムディヤはウンブランの飲用水について、19世紀後半には巨大な鉄釜に入っ た水が鉄道貨車でスラバヤに運ばれていたと書いている。 1940年に政庁はウンブラン水源の所有権を有償でパスルアン行政府に移管した。パス ルアン行政府はその水を住民福祉ならびにパスルアン港における商工業活動の発展に資す る目的に使うようにというアドバイスがその決定に添えられていた。パスルアン行政府は 市営水道会社を設立した。 パスルアンの沿海部は生活用水の得にくい地域になっていた。地下水は塩分を含んでいる のだ。そのためにあまり清潔でない川水の使用に頼らざるを得ず、住民の健康は他地域よ り劣るものになっていた。市行政はまず沿海部住民への上水道設置プロジェクトをスター トさせた。 プリブミ民衆で占められている沿海部住民のための福祉はパスルアンの安定的な発展にと ってきわめて重要なものと見られた。ウンブランの水がその鍵の一つになるのである。プ リブミ民衆が健康な暮らしを送ることによって、社会不安や騒擾の種が減少するにちがい ない。騒擾が起これば、西洋人が襲撃のターゲットにされるのだ。 プリブミ民衆が満足した暮らしを営むかぎり、製糖工場・事務所・金融機関・港湾・郵便 ・鉄道などで働く西洋人の安寧も向上する。 共和国独立後、ウンブランの水源は国の管理下に置かれた。オルバ期には一般人の池への 立ち入りが禁止され、市民が近付くと兵隊が追い払ったそうだ。レフォルマシ時代に入っ たとたん、オルバ体制が行っていたことはすべて悪と見なされ、市民が好き勝手に池に入 って洗濯やマンディをするようになった。 オルバ崩壊のユーフォリアが落ち着いたころ、ふたたび池への立ち入りが禁止され、今で はパスルアン・シドアルジョ・グルシッの諸県とスラバヤ市への上水道供給源としてウン ブランの水が使われている。[ 続く ]