「大郵便道路(125)」(2025年06月07日) 長い歴史の中でパスルアンのステータスにいろいろと変化が起こった。モジョパヒッ王国 時代には東モジョパヒッの支配地域に含まれ、またブランバガンという名称で呼ばれる地 域の一部になった。VOCはスラバヤから東に伸びているジャワ島東端部をオーストフッ クと呼んだ。hoekというオランダ語はコーナーを意味する言葉だ。 KBBIは標準インドネシア語として認めていないものの、インドネシア人一般もこのフ ッと発音するオランダ語単語を日常生活の中でよく使っている。中でも、街区の中にでき た角地を表現する場合にだれもがhukという言葉を使うから、わたしはイ_ア語として認 められているものと思い込んでいた。インドネシア人が使うフッの語感からは、sudutの 語感に混じるinferiorなニュアンスが感じられない。東インド植民地時代のパスルアンは 周辺の諸県を従えたレシデン統治区の首府になった。 パスルアンの古名をGamdaと書いているパスルアン年代記には、この町の開祖がパテ スプ タッであり、16世紀の最初の10年間にパスルアンの町が築かれたと記されている。ジ ャワ年代記によれば、パスルアンは1545年にドゥマッのスルタン トレンゴノに征服 されてイスラム化し、ドゥマッのヌサンタライスラム化プロジェクトの尖兵としてパスル アン軍が諸方面に派遣された。中でもバリ島の王国と関係を持っているヒンドゥブッダ王 国ブランバガンの征服がドゥマッの重要方針になり、1601年にパスルアン軍がブラン バガンの王都を陥落させた。 17世紀に入ってパスルアンはカプルガンの支配を受け、キアイ グデ カプルガンという 名のトゥムングンが領主となって1617年から1645年まで統治した。カプルガンは 今、グンポル郡15村中のひとつの村でしかない。この領主はキアイ グデ デルモユド1 世を名乗った。 しかしカルトスロのマタラムスルタン国がパスルアンを攻撃したため、デルモユド1世は スラバヤに逃げてかくまわれ、そこで没した。1世の息子が2世となって領主を継ぐこと をマタラムが許したので、2世の時代にはマタラムに服属するパスルアンとして統治行政 が行われた。ところがスラバヤがそれを許さず、パゲラン プキッが1657年にスラバ ヤ軍を率いてパスルアンを攻め、デルモユド2世は死んだ。 今度はパゲラン プキッがデルモユド3世を名乗って、反マタラムになったパスルアンを 統治した。デルモユド3世は1671年に没したので、かれの息子キアイ オンゴジョヨ がその後を継いだ。だが1686年にパスルアンの統治権が、マタラムとVOCを相手に 戦ってきた歴戦の勇者の手に移譲されたのである。 パスルアンの歴史の中に一時代を画したできごとがある。VOC時代にパスルアンに王国 が出現したのだ。しかし王朝を築くまでにいたらず、1686年から1706年までの短 期間で滅亡した。王国を築いた人物は子供のときにバタヴィアに売られたバリ人奴隷だっ た。その名をウントゥン・スロパティと言う。 バリ島に寄港したオランダ船がひとりの少年を奴隷として買った。その船はバタヴィアに 入って奴隷市場で少年を売った。東インド参議会メンバーのエデレ・ヒール・モールがそ の少年を買い、家族の一員のようにして育てた。もしかしたら、オランダ文化を身に着け たヌサンタラ最初のプリブミがかれだったのかもしれない。オランダの生活習慣をしつけ られ、オランダ語を流ちょうに話すプリブミ青年が作られたのだ。いや、話すだけでなく、 かれはオランダ人並みの読み書き能力をも身に着けた。[ 続く ]