「大郵便道路(126)」(2025年06月08日)

だが、ヒール・モールの娘との間で恋愛沙汰が起こり、娘が妊娠したために父親がかれに
奴隷としての仕打ちを加えた。不良奴隷はバタヴィア市庁舎の地下牢に投げ込まれること
になっていた。オランダ人にされていたプリブミがプリブミに戻る転機がそれだったにち
がいあるまい。かれは地下牢で仲間を集め、オランダ人に反抗するグループを組織して牢
獄を押し破り、逃走した。

ウントゥンはグループを引き連れてカラワンのジャングルで逃亡者暮らしをしつつ盗賊働
きで食っていたが、オランダ人への反抗にはオランダ式戦術を学ぶ必要があると考えたか
れはタンジュンプラ要塞駐屯軍に入ってVOCの軍務に就いた。そこでかれは自分のグル
ープを統率する指揮官になり、少尉の階級を与えられた。

そこから逃亡したウントゥンは反VOCのプリブミを糾合してひとつの軍勢となり、カル
トスロの王宮に迎え入れられる。ウントゥンを追うVOC軍はカルトスロ王宮にウントゥ
ンを引き渡すよう要求し、仕組まれたウントゥン軍と王宮軍のニセ戦闘の罠にかかって大
敗を喫する。VOC軍指揮官タック大尉はカルトスロで戦死するのである。

ウントゥン軍と王宮軍の敵対芝居は続けられ、ウントゥン軍は東の果てのパスルアンに至
ってそこを支配地にし、ウントゥン・スロパティの王国が作られたのだ。


その王国の滅亡の年、スラバヤに司令部を置いたVOC軍はパスルアンへの進攻作戦を行
い、パスルアン軍はバギルに要塞を築いてそれを迎え撃った。その戦闘中に手榴弾の破片
がウントゥンの肩を貫き、かれは戦死する。VOCは埋められたウントゥンの遺体を掘り
返して焼き、海に捨てた。ウントゥンの子や孫はVOCへの抵抗戦を続けるが、戦死し、
あるいは捕らえられてセイロンに流刑された。

スリランカの旧名Ceylonはジャワ語に摂取されてSelon(発音はセロン)になった。そこ
から、セイロンへ行くことをselongと言うようになり、diselongという言葉が流刑される
という意味で使われはじめた。

ウントゥン・スロパティの生涯を描いたオランダ語の小説Van Slaaf tot Keizerならびに
Robert, de Zoon van Soerapatiをムラティ・ファン ヤファという筆名のオランダ系プラ
ナカン女流作家が執筆し、インドネシアの著名文学者アブドゥル・ムイスがSurapati dan 
Robert, anak Surapatiというムラユ語作品を原作に準じて書いたものが後に出版された。
民族運動が活発化した時代、ウントゥン・スロパティのストーリーはクトプラッやワヤン
クルチル(木製人形のワヤン)の舞台でしばしば上演された。

スロパティに関する別の資料はウントゥンとオンゴジョヨの因縁を次のように記述してい
る。カルトスロがウントゥンにパスルアンの領主になることを勧めたので、ウントゥン・
スロパティの軍団ははるか東方のパスルアンに入って領主のキアイ オンゴジョヨから統
治権を移譲させ、ラデン アディパティ ウィロヌゴロを名乗った。

カルトスロとウントゥン・スロパティの軍団はVOCに対して敵対関係の芝居を演じて見
せていたから、キアイ オンゴジョヨがかれを反マタラムと見なしたのも当然だろう。か
れはウントゥンを反マタラムという点で自分の同志と考えたようだ。

ところが、ウントゥン・スロパティの討伐に躍起になっていたVOCがついにパスルアン
の領主になっているウントゥンを発見したのである。そのころには、カルトスロとウント
ゥンの間の芝居をVOCは見破っていた。

VOCの統治下に組み込まれているスラバヤに司令部を置いたVOC軍はキアイ オンゴ
ジョヨの息子のオンゴジョヨにスラバヤ軍を率いさせてパスルアン攻撃の先鋒に立たせた。
この話に従うなら、VOC軍に支援されたスラバヤ軍がバギルの要塞を攻撃した主力だっ
たということになりそうだ。[ 続く ]