「大郵便道路(127)」(2025年06月09日)

< プロボリンゴ Probolinggo >
大郵便道路はまた東に向かって30キロ進み、マドゥラ海峡のもっとも広がっている場所
にできた海沿いの町プロボリンゴに至る。パスルアンからプロボリンゴまで国道1号線は
鉄道線路と並んで進む。パスルアンを去るとき道路の北側にあった鉄道線路は~ゴパッの
町を過ぎてから広い水田地帯の中で道路の南側に移動する。そして一旦は水田地区の奥に
離れて行って見えなくなった線路がプロボリンゴ県西端のト~ガス郡に入るとまた道路に
接近してきて、再び道路の北側に移動するのである。その踏切が実にユニークな、常軌を
外れた設計になっているようにわたしには感じられた。視点を変えて言うなら、これほど
危険極まりない長距離鉄道の踏切の類例がふたつとあるだろうか、と思わせるくらいのも
のなのだ。

パスルアンとプロボリンゴの二つの町のおよそ中間くらいの位置にその踏切がある。遮断
機のこちら側と向こう側の距離は50メートルを超えるくらい離れていて、道路の南側か
ら入って来た線路は道路上をゆっくり斜めにクロスして北側に移っていくのである。これ
では、まるで市内路面電車の線路みたいではないか。

この踏切のすぐ西北の場所にト~ガスアスリという名の巨大な食堂があり、この地方を通
過するときはよくそこで食事をした。わたしが初めてその食堂に入ったのは20世紀の終
わりごろで、ブロモ火山観光パッケージで火山見物をしたとき、スラバヤからブロモへ行
く途中に旅行社のガイドがそこへ昼食に案内してくれた。

その十年後にジャカルタ〜バリを往復するようになったとき、この食堂を見てノスタルジ
ーを感じ、ときどきそこに立ち寄るようになった。パスルアン〜プロボリンゴ街道にはラ
ウォン食堂がたくさんあって地域の名物料理になっていたから、有名なラウォン食堂の食
べ歩きをした方がよかったのではないかと今更ながら悔やまれている。


市内のプロボリンゴ鉄道駅は港の近くにあり、駅の真向かいにプロボリンゴのアルナルン
があって、その周辺が官庁街になっている。一方、現代の国道1号線はそのずっと南側を
一直線に通過して市街から去って行くのである。

アルナルンの南縁と国道1号線を1キロにわたってまっすぐ南北に結んでいるスロヨ通り
の中間地点にグレジャメラと呼ばれているプロテスタント教会があり、観光スポットにな
っている。公式名称はGPIBイマヌエルで、1862年に建てられた。鋼鉄製の建物がオラ
ンダで作られ、ノックダウン方式でプロボリンゴに運ばれて組み立てられたそうだ。建物
外観が赤色に塗られているのでグレジャメラと呼ばれている。


プロボリンゴという地名の由来について、こんな話がある。ある夜、強い光を放つ物体が
天から降ってきたので、住民の間で大騒ぎになった。ひとびとはその物体の正体を調べて、
流星であると判断した。それが落ちたとき、部落一帯は真昼のような明るさになった。

その噂は遠く離れた王都にまで伝わり、王たちはその土地を和平交渉の会談を行う場所と
して使うようになった。王宮の高官たちはその土地をProbolinggoあるいはProbolinggaと
呼んだ。サンスクリット語のprabaは光、linggaは印を意味している。その土地は和平を
生み出す印を持っていると考えられたにちがいあるまい。

プロボリンゴの町も川の河口にできた町であり、元々はBanger川の名前を取ってバ~グル
の町と呼ばれていた。モジョパヒッ王国第4代のハヤムルッ大王の栄光の時代(1350
〜1389年)を物語ったプラパンチャのヌガラクルタガマの書に、バ~グルの町は最初、
バ~グル川の河口にできた小さな集落だったものが、スコドノに本拠を置いてモジョパヒ
ッに服属するakuwuが統治するpakuwonに発展したと記されている。

kuwuというジャワ語は元々部落の長や統率者を意味していた。12世紀のクディリ王国時
代になってアクウという言葉が王国に服属する地方の領主を指す官位名称として使われる
ようになる。クウが統治するコミュニティがパクウォンなのである。[ 続く ]