「大郵便道路(128)」(2025年06月10日) ヌガラクルタガマに描かれたハヤムルッ大王の東モジョパヒッへの視察旅行では、大王は 車に乗り、大勢の供揃いを従えてバ~ギルからプロボリンゴまでマドゥラ海峡沿海部の旅 を楽しんだそうだ。つまり14世紀半ばごろ既に十分大きな街道がバギルからプロボリン ゴまで通っていたことがそこから推察できる。大郵便道路が作られたとき、その部分の道 路建設は7.5メートル幅という基準を満たすことに尽きたのではないだろうか。 モジョパヒッ王国設立のためにラデン ウィジョヨに協力したアルヨ ウィロロジョに、ウ ィジョヨは約束通りモジョパヒッ王国領の東部地方を治めさせた。東部地方は東モジョパ ヒッと呼ばれるようになる。ウィロロジョはルマジャンに都を置いた。ところが1316 年にルマジャンでナンビの反乱が起こり、ウィジョヨの王子ジョヨヌゴロがそれを鎮圧し て東モジョパヒッを西側の完全な統治下に置いた。 ハヤムルッの時代、大王の母の実妹の夫になったウィジョヨロジョソがポノロゴの領主に 任じられ、ブレ ウンクルとして王宮政治の中でひとつの勢力を築き始めた。1388年 にウィジョヨロジョソが没すると、ハヤムルッの側室が産んだ男児がブレ ウンクルの後 継者になった。この人物の実名がよく解っておらず、ブレ ウィロブミという名前で古文 書に登場する。古ジャワ語のBhreは敬称を意味しており、モジョパヒッ時代には領地名を それに付けて貴族領主を呼ぶことが行われていた。 1389年にハヤムルッ大王が没すると、大王の甥で娘婿でもあるウィクロモワルドノが 第5代目の王位に就いた。ブレ ウィロブミと新大王は互いに憎み合った。ウィロブミに 大王への野望があったのかもしれない。1401年にふたりは面と向かって喧嘩し、それ 以来口をきかなくなったそうだ。ブレ ラスムが亡くなったために王宮が新任者を赴かせ ると、ウィロブミも別の貴族をブレ ラスムに任じた。モジョパヒッ王宮の混乱が始まっ たのである。そして両者の戦争が1404〜1406年に起こり、旧東モジョパヒッを領 地にしたウィロブミが敗れて死んだ。モジョパヒッは再統一されるが、財政は破綻し、多 くの人材が戦死し、王国は衰退に向かいはじめる。 ウィロブミがブランバガンと呼ばれた東モジョパヒッの支配者になったころ、バグルは東 側に属す境界地帯だった。後にパレッレッ戦争と呼ばれるようになるこの戦争で、東側を 倒した西軍はバグルを蹂躙したにちがいあるまい。 古文書にはバ~グルと記されていた地名が17世紀末からプロボリンゴと書かれるように なった。プラバリンガというサンスクリット語の意味は上に記した通りだが、その地名の 交代現象を古文書から読み取るのは不可能らしい。 VOCはパクブウォノ2世に約束を果たすよう求めて1743年にパスルアンの東側地方 を割譲させた。そして1746年にキアイ ジョヨレドノをトゥムングンとしてバグルの ブパティに任命した。今のクボンサリクロン村がその中心エリアであり、国道1号線がそ の村の北縁を通っている。 パスルアンに王国を築いたウントゥン・スロパティの腹心の部下になったキアイ ブン・ ジョロドゥリヨの息子がこのジョヨレドノであり、VOCはかれに言い含めてトゥングル 族の幹部になったウントゥン・スロパティの子孫パヌンバハン スメルの征伐を行わせた。 しかしVOCの走狗になってパヌンバハン スメルの生命を奪った自分を悔いたジョヨレ ドノはブパティの職を捨てて放浪の旅に出た。 VOCはジョヨレドノの後継者としてスラバヤ第10代目のブパティであるラデン トゥ ムングン チョンドロヌゴロの息子ジョヨヌゴロを指名した。VOCは初代ブパティだっ たジョヨレドノの反抗を許さず、ジョヨヌゴロに命じてジョヨレドノを逮捕させ、牢獄に つないでその死を待った。 トゥムングン ジョヨヌゴロの治世下にバグルは大いに栄え、人口も増えて大きい町にな った。ジョヨヌゴロは1770年、町の中にジャミモスクを建設させている。 VOCは最初、プロボリンゴをオーストフック州の州都にした。その後、レシデン統治区 の首府になり、共和国独立後はプロボリンゴ県の県庁所在地になっている。[ 続く ]