「大郵便道路(129)」(2025年06月11日)

バグル川の河口にできた港は昔、ボンドウォソやルマジャンで得られる物産を積み出す役
割を果たしていた。しかしこの港も泥土堆積を免れることができず、この港はパスルアン
よりもっと激しい泥土堆積に苦しんだために、東インド政庁は特別な対策を講じてこの港
の役割を向上させることにつとめた。港の手前で海に注ぐ1キロほどの水路を掘って岸壁
を柱と石垣でかため、河口には木の柵を並べて波浪対策にした。

しかし泥土がまた1858年にこの水路を使用不能にしたために結局閉鎖され、港は18
59年に再び昔の場所に戻された。プロボリンゴ港はTanjung Tembagaと呼ばれていて、
ジャワ島の港の異名に金銀銅が勢ぞろいしている。Tanjung EmasとTanjung Perakはどこ
にあっただろうか?


ジャワ島イギリス統治時代にプロボリンゴで反乱事件が起こった。5年間のイギリス統治
期で三年目のことだ。ダンデルスはあちこちのVOC領地を私有地として金持ちに売却し
た。イギリスによる海上封鎖のためにジャワ島のオランダ=フランス政庁とヨーロッパと
の連絡が思うに任せず、そのせいでジャワ島統治に必要な資金が入って来なくなれば何ら
かの方策を講じなければ国として成り立たなくなる。

私有地はVOCの時代からバタヴィア周辺にたくさん設けられ、VOCの高官たちが地主
になっていたから、ダンデルスが私有地制度を始めたわけでは決してない。しかしタング
ランをはじめとしてバイテンゾルフ・バンテン・カラワン・ブスキ・パナルカン・プロボ
リンゴなど、ダンデルスが私有地として売った土地は金額だけが尺度にされたから、地主
が華人である私有地が急増した。

大金をはたいて土地を買った者は地主としてそこを支配し、あたかも領主のように土地と
住民を私有した。私有地内の自治が原則にされたから、警察権や裁判権は領主に与えられ、
生かさぬよう殺さぬように地主が住民から税を搾り取るのは当然のことになった。地主は
搾取した富で贅沢にうつつを抜かした。

インドネシア大学歴史学者はダンデルス時代の私有地売却金額を40万から150万リン
ギッだったと書いている。ちなみにその昔、スペインの植民地になったメキシコで鋳造さ
れ、アジア貿易で使われたメキシコ銀貨には歯車の歯のような細かいギザ縁が付けられて
いたため、ムラユ人がその特徴をリンギッという言葉で表現したのがこの名称の由来だそ
うだ。

プロボリンゴの価格は100万リンギッだったとその歴史学者は言うのだが、プロボリン
ゴの町の沿革を調査した郷土史家チームは250万リンギッだったと述べている。プラム
ディヤ・アナンタ・トウルは1千万ドルだったと書いている。ともあれ、100万リンギ
ッとはメキシコ銀貨あるいは同等の重さの銀貨が100万個ということになる。

東インド政庁からプロボリンゴを買ったのはプロボリンゴの地元富裕商人ハン・ティコ別
名ハン・ケーコーだった。かれは20回の分割払いで政庁の言う金額を受けた。ハン・テ
ィコから7代目の子孫にあたるティエアント・ハンジョヨ、中華名ハン・コッティ氏は祖
先が買ったプロボリンゴの土地について、東はDringu、西はKetapang、北はWonoasih、南
はMayanganを境界にする地域だったと語っている。

土地がとても広大だったためにオランダ東インド政庁はハン・ティコを1810にプロボ
リンゴのブパティに任じた。しかし不本意ながらかれは1813年にラフルズのジャワ政
庁によってそのブパティ職から解任された。

現代地図でそれらの名前の付いている郡の位置を調べたところ、現在のプロボリンゴの町
の東北部から東隣にあるドゥリ~グ郡までをカバーする広さになっていた。ほぼ町の全体
がハン・ティコの私有地になったような印象だ。ただしハンジョヨの言う東西南北の位置
関係は合致していないし、インターネット情報が本当に正確なのかどうかはどこにも保証
がないのが通説になっていることは、きっと読者もご存知の通りだ。[ 続く ]