「大郵便道路(130)」(2025年06月12日)

プラムディヤは「私有地にされたのは長さと幅がそれぞれ40マイルの土地で、地主にな
った華人はマヨールチナの地位を得てその土地の開発に力を注いだから高い農業生産を生
み出す土地になり、ジャワ島東部地方に農業王国の栄冠をもたらした。おかげで住民が増
加して大いに栄えた結果、華人マヨールは1千万ドルの支払いを10年で終えた。」と書
いているのだが、ハンジョヨの語る説明とは少し違うニュアンスが感じられる。

住民はハン・ティコをオランダ人植民地主義者の手先になってプリブミ搾取の片棒を担い
でいる悪人と見なし、反乱を起こした。オランダ人がプリブミ貴族をブパティに据えて住
民統治させるのと、華人が金を払ってブパティになり、自分の私有地を統治するのと、統
治される民衆にとって本質的な差異はそれほど大きくないようにわたしには思われるのだ
が、プリブミ貴族がオランダ人植民地主義者の片棒をかついだからと言って民衆の反乱に
至った事件はどれほど起こっただろうか?1940年代後半の独立革命の時期になってや
っと、プリブミ貴族による統治に反対するコンセンサスが民衆の間に湧きおこるようにな
ったのではなかったか?共和国という政治体制が持つ意味がそこに色濃く反映されている
ようにわたしには思われる。


使いきれないほどの金が地主の手に入るようになり、この華人ブパティは西洋人行政高官
たちを招いてパーティ三昧に明け暮れた。プリブミ住民たちが質素な暮らしをしている一
方で、住民から取り立てた税で華人が華やかな暮らしを見せつけていれば、プリブミの反
感はいやがうえにも高まろうというものだ。

1813年6月18日、ブパティの館で小さいパーティが開かれていた。イギリス東イン
ド会社軍のフレーザー中佐夫妻、マクファーソン大尉、ロバートソン少尉とキャメロン少
尉が招かれて、ブパティ館で楽しんでいた。ところが夕方になって、山地から怪しい一群
の者たちが降りてきてプロボリンゴの町に接近したではないか。

イギリス人将校たちはそれを掠奪団だと考え、銃で追い払うことにしてブパティが用意し
た馬車に乗って集団に立ち向かった。ところがその考えは甘かったのだ。やってきたのは
掠奪団でなくて反乱軍だったのである。反乱軍は藪に隠れて馬車が近付くのを待ち、一斉
に馬車に襲いかかった。イギリス人はほとんどが死んだ。逃れてブパティ館に戻ったひと
りが危急を訴え、町を守るために人を集めて武装させるように命じた。しかしその努力も
水の泡になった。反乱軍はプロボリンゴの町を破壊して占領したのである。

イギリス軍はすぐにスラバヤから騎馬軍団をプロボリンゴに派遣して反乱軍を鎮圧した。
しかしそのような事件の反省は必ず行われる。住民武装蜂起の原因と見られたハン・ティ
コはブパティの座から滑り落ち、プロボリンゴの町は私有地からイギリス政庁の所有に移
された。住民が地主に対して持っていたすべての負債が帳消しにされたそうだ。


プロボリンゴ県レチェス郡にインドネシアで2番目に古い製紙工場があった。1939年
設立、1940年操業開始、そして2021年に会社が解散した。生産規模は1日10ト
ンだった。かつては新聞紙のほとんどがレチェス製紙工場で作られていた。新聞紙の需要
がなくなれば、工場経営に大穴が開くのも当然のことだったにちがいあるまい。[ 続く ]