「大郵便道路(132)」(2025年06月14日) < ブスキ Besuki > 海岸に沿って大郵便道路は東へ20キロ進み、シトゥボンド県ブスキの町に入る。家並み を抜けたあと、道路はブスキのアルナルンの南側を通過し、橋を渡ってから北上するとま た直角に右折して、東に向かって町を離れて行く。国道1号線は40キロ東方にあるシト ゥボンドの町を目指すのに対して、大郵便道路はシトゥボンドの町の手前にあるパナルカ ン港を目指した。とは言うものの、そこまでの大郵便道路と国道1号線はオーバーラップ している。 1882年に書かれたブスキ年代記によれば、昔のブスキはただのジャングルだったそう だ。モジョパヒッ王朝時代からブスキの地名が王都で知られるようになり、1331年に 大王に反抗する反乱が起こったために宰相ガジャ マダがそれを鎮圧した。トゥムングン ジョヨレドノがプロボリンゴのブパティ職を放棄した後、VOCはブスキを直接統治する 方針に変えて、そこをシトゥボンド・バニュワギ・ジュンブル・ボンドウォソから成るレ シデン統治区の首府にした。 ブスキという地名がタバコ葉の名前に添えられて世界に広まった。オランダの植民地時代 にBesuki Na-Oogstが葉巻タバコの世界でスターの座を獲得したのである。このタバコ葉 は欧米に輸出されてプレミアム葉巻生産者が欲しがる原料のひとつになった。葉巻を包む 葉として最適な品質を備えていると判定されたのだ。ナオーフストという言葉は「収穫の あと」を意味しているそうで、メイン収穫期が終わってから植えられて処理されたものを 指しており、熟成の度合いがより深いと説明されている。 ただしこの場合のブスキ地方というのはブスキレシデン統治区を意味しており、この統治 区はジュンブルを含んでいた。ジュンブルでタバコ葉の栽培が始まったのはファン デン ボシュの強制栽培制度が発端だそうだ。それを農園事業にしようと企画したジョージ・バ ーニー、マティセン、ファン へネップの三人がNV Landbouw Maarschapij Oud Djemberと いう会社を興してタバコ葉の生産と輸出を開始した。 ジュンブルで生産されたタバコ葉は世界の生産者からもてはやされ、ジュンブル地方の経 済は大発展を示した。人口も増加したために、それまでボンドウォソの一地方にすぎなか ったジュンブルがボンドウォソと並ぶひとつの県に成長して現在に至っている。 プラムディヤによれば、バスキナオーフスト葉はオランダに送られて競売されていたもの の、1950年代半ばごろからインドネシアとオランダの関係が対立的になり、オランダ 資産国有化に至った時期には、ナオーフスト葉はドイツに送られて競売場所はブレーメン に移された。1980年代には2万Ha近い栽培面積でナオーフスト葉生産が行われ、2万 5千人の労働力を養っていた。ドイツ向けの輸出はその後も続けられて17社が年間14 万バールを輸出した。競売もブレーメンで行われている。 ブスキという地名の語源はジャワ語のRembes Sukiに由来すると説明されている。スキと いうのはブスキの町の東方にある地域の名称で、昔はそこに部落があったものの今は無人 の森林原野になっているそうだ。 今のブスキの町に集落ができたころ、それ以前からあったスキの統率者がその新しい集落 をも統治したことから、新しい集落がルンブッスキと呼ばれたというのがこの説の示して いる内容ではないかと思われる。[ 続く ]