「大郵便道路(133)」(2025年06月15日)

< パナルカン Panarukan >
ブスキを離れた大郵便道路はバレス川が作った岬を左に見ながら一直線に東進し、そのあ
と凹凸のある海岸線伝いに北東に位置するパナルカンに向かう。その間、31キロの道の
りだ。現代の国道1号線はパシルプティ行楽地を通り抜けてから、いったん南に下った海
岸線に沿って走り通したあと、小さい町クンディッに入る。町の東を流れるパグドゥガン
川の橋を渡ってから道路はまた北東に向かい、1キロ足らずでパナルカン港の外縁に到達
する。

国道1号線はパナルカンの港に近寄らないで街区の南部を通るから、わたしは最初、左側
が港町だということに気付かなかった。何度かそこを通ってから、そこがかの有名なパナ
ルカンの港であることを知って驚嘆した。ただし、国道1号線から離れて港町に入ったこ
とは一度もない。

パナルカンの港町の北側にサンペアン川の河口があり、シトゥボンドの町中から西向きに
流れてくるその川に沿って国道1号線が港とシトゥボンドの町を結んでいる。そのおよそ
5キロにわたる区間もパナルカンの街区なのだ。国道1号線を通っているかぎり、シトゥ
ボンド県パナルカン郡にパナルカンの港があるとはなかなか信じられないかもしれない。
わたし自身、その5キロ区間にびっしり連なっている街区をパナルカンとは別の町と思っ
ていたくらいだから。


大郵便道路のパナルカン港へのアクセスルートがどのようになっていたのかは、現代地図
を見てもよくわからない。

VOCがやってくる前のパナルカンの歴史はよくわかっていない。1546年にポルトガ
ルの旅行者がドゥマッ船隊と共にこの港にやってきたという話が史的事実なのかどうか、
いまだ論争の中にあって歴史学界の宿題になっている。

はっきりしているのは、ヒンドゥブッダ王朝が倒れてイスラム王国の時代に入ったころ、
パナルカンでは相変わらずヒンドゥブッダ時代が続いていたということだ。1559年に
パナルカンを訪れたポルトガル人旅行者は住民がまだイスラム化していなかったと書いて
いる。オランダ人がはじめて訪れた1595年にも、同じ状態が続いていた。

一方、ポルトガル人のヌサンタラへの来航が始まってから、ジャワ島にカトリック教徒が
出現し始めた。ポルトガル人はパナルカンに教会と修道院を設けて住民への布教を行った。
パナルカン住民からカトリック教への歓迎の動きは最初、女性たちの間で起こった。夫に
先立たれた寡婦の火葬(殉死)とその結果子供たちが孤児になるのを防ぐための保護を、
女性たちは教会に求めたのだった。

18世紀後半になって、パナルカンからインド洋に面するジャワ島南岸地帯までの地方が
やっとイスラム化した。VOCはこの港にも要塞を構築したが、今その要塞は跡形もなく
なっている。

ダンデルスの時代、パナルカンはジャワ島北海岸部で最東端に位置する重要な港町だった。
そのころ、パナルカン川と呼ばれていた今のサンペアン川は海岸を持たないシトゥボンド
の町とパナルカンの港をつなぐ重要な交通路になっていた。

1859年にパナルカン港が一般商船に開放されたが、港で崩壊が起こって閉鎖され、そ
れまでの港は放棄された。その代替として東インド政庁は突堤を海に伸ばして新しい船着
き場を設けた。そんな形の商港になったとはいえ、今でもパナルカン港からコーヒーや砂
糖が輸出向けに船積みされているし、ジャワ島のバリ海峡沿いで生産される農作物の一部
もこの港に送られてくることがある。

東インド政庁は1886年に港湾運営会社Panaroekan Maatschappijを設立してこの重要
な輸出港を管理させた。ジャワ島東端の諸県で生産される砂糖・コーヒー・タバコ・ゴム
・トウモロコシなどがこの港から船積みされた。[ 続く ]