「大郵便道路(終)」(2025年06月16日) 2008年8月のある夜10時、パナルカン港に1883年に建てられた灯台が入港して きた船の進路を案内したあと、灯台守は仕事場から離れた。もう入港船はないのだそうだ。 かつてジャワ島東部でもっとも盛んな港町だったパナルカンの面影は既に消え失せてしま った。 この港に入って来る船はたいていがマドゥラ島の塩、スラウェシ島の木材や貝殻などを運 んでくるだけ。植民地時代には輸出船積みが行われていたというのに、1960年代から 外航船の入港がなくなってしまった。今パナルカン港を利用しているのはジャワ島他県の 港との間の船と、近海の島々を結ぶ船だけになっている。 *** プリアガンの山岳部を例外としてジャワ島北海岸部を東西に貫いた大郵便道路は、ジャワ 島の農業生産を高めるのに大きく貢献した。農作物や収穫物は港に運ばれて、ヌサンタラ 域内ばかりか海外にも大量に拡散して行った。ダンデルスの道がその効率を高いものにし たのである。 ダンデルスが公用郵便と軍事用途を主目的にして大郵便道路を設けたとはいえ、道路は当 時の商業用作物の産地を網羅する形で作られた。その効用を最大限に活用したのがファン デン ボシュだった。1830年から始まったかれの栽培制度は大郵便道路のおかげで効 率の良い輸出活動に結びつけられたのだから。 そのころから1940年代初期まで、ジャワ島は高品質の商品作物を輸出する国際級の生 産地としてヨーロッパの消費市場の期待を集めていた。東インド政庁は各地方に特産物を 作らせて商品の多様化を推進すると同時に、各地方に特徴を持たせることに努めた。地方 の差別化という言い方ができるかもしれない。 たとえば、バンテンはコショウ、チルボンはサトウキビと砂糖、ドゥマッはマタラム産の 米、ルンバンとラスムは造船とチーク材、トゥバンはモジョパヒッの米をはじめとする諸 産品の輸出港、パナルカンはブスキ地方で産するタバコ葉の積出港などという特徴が歴史 の中で作られたのである。 ダンデルスがジャワ島に建設させた大郵便道路が植民地民衆であるインドネシア人の生命 と富と安寧を大量に破壊し奪ったという怨嗟の声がインドネシア正史の中で定説になって いることは上で述べた。 その一方で、20世紀が終わるころまでジャワ島北岸の道路交通が大郵便道路の恩恵を多 大に蒙っていたことも疑いのない事実だ。たとえ大郵便道路がそのまま現在のジャワ島国 道1号線になったわけでないにしても、だ。 道路が作られてから40年間、プリブミ庶民はその道路の通行を禁止された。道路を利用 するのは郵便馬車・軍隊・オランダ人官僚・そして中級下級官吏であるプリブミ貴族層、 いわゆるプリアイ階層だけだった。 道路はジャワ島の各地で生産される作物とその加工品をバタヴィアや他の大きい港を持つ 町々に集め、ジャワ島が産した富はオランダに向けて船積みされたのである。 大郵便道路の両側には住居が作られて街区になり、町々が道路に沿って伸びて行った。町 の広がりが細長く伸びる傾向を持つことになったわけだ。20世紀後半の初期にジャワ島 を自動車で横断した西洋人がいた。かれもジャワ島北岸街道を通った。運転している最中 に尿意を催したので、地元民がひとりもいない場所まで行けば立往生ができるだろうと考 えて走り続けた。ところがどこまで走っても家並みが続いているし、やっと家並みから外 れた水田地帯に来ても、住民が何人も街道脇を通行している。結局かれは停まる予定をし ていなかった田舎町の食堂に入って、口に合わないメニューを食べることになったという 話を物語る記事もあった。今は昔のできごとだ。[ 完 ]