「ジョン・リー(2)」(2025年06月18日) ジョンが任務に使った船は小型の高速艇で、The Outlawという船名が与えられた。あると き、ドラム缶に詰めたパームヤシ油18本の輸送任務に就いていたとき、かれはイギリス 軍に捕まった。 イギリスにとってインドネシア人のその行動は外国人の無許可入国行為と物品の密輸入行 為に該当するわけで、単なる法律違反なのだから違反者は逮捕されるのが筋道だ。言うま でもなくこれはインドネシアとオランダ間の独立を賭けた戦争とは無関係の問題として処 理される。シンガポールの裁判所で起訴されたものの、違反が立証されないとして判事は かれを釈放した。 あわや危機一髪という事態に遭遇しなかったわけでもない。半自動小銃を積んでジョホー ルからスマトラへ戻ろうとしていたとき、アウトロー号が座礁してしまった。そしてパト ロール中のオランダ軍哨戒機に発見されたのである。絶体絶命の危機がやってきた。 哨戒機の銃座に機銃を構えた兵士の姿が見える。ひとりは白人であり、もうひとりはマル ク人のようだった。ところが銃撃は起こらず、飛行機は間もなく基地へと引き返して行っ たのである。敵も燃料切れ寸前だったのではないか、とアウトロー号の乗員は語り合った そうだ。 スマトラに帰還したとき、海軍司令部からの公式通達がアウトロー号を待っていた。アウ トロー号は正式海軍艦艇として登録され、登録番号PPB 58 LBが与えられたのである。そ の一週間後、アウトローでなくなったその船はマラヤのポートスウェッテンハムに向かっ た。ジョンはその港にインドネシアの海軍基地を設ける任務を与えられたのだ。 ジョン・リーは密輸任務ばかり行ったわけでもない。戦略的な目的のために人間を送り届 けることもした。ジャワのインドネシア共和国はスマトラ北端の大国アチェを共和国側に 引き入れるために最大限の努力を払った。オランダ東インドは一丸となってオランダのく びきから脱け出し、ひとつの独立国家になるというのがスカルノの描いたNKRI(インドネ シア共和国統一国家)構想だ。 そのためにフェルディ・サリムが共和国使節として派遣された。フェルディは後に何カ国 もの大使を歴任した人物だ。ジャワからフェルディをアチェに運んだのもジョン・リーの 船だったのである。 フェルディとダウッ・ブルッの会談は成功し、アチェがペナン島に置いている外貨の引き 出し権をシンガポールにいるインドネシア共和国レップに与えることが合意された。イン ドネシア側の武器入手が活発化したことは言うまでもない。 米国雑誌ライフインターナショナルが1949年にジョン・リーの紹介記事を掲載した。 ジョンはアウトロー号を駆る任務を遂行する際に、常に聖書を携帯した。オランダ艦艇か ら銃撃されたときですら、かれは神に祈りを捧げることを忘れなかった、という人物評が その記事に書かれている。なにしろ記事のタイトルがWith One Hand The Bible and the Other a Gunというセンセーショナルなものだったのだから。 オランダとの闘争が終わった1950年の初め、バンコックにいたジョンはスラバヤの海 軍司令部に呼ばれた。軍艦ラジャワリ号の艦長の座がかれを待っていたのだ。その後起こ った南マルク共和国やTNNI/Permestaの反乱鎮圧のためにラジャワリ号はしばしば艦隊を 率いて出動し、共和国軍の威厳を誇示した。それらのインドネシア共和国存立の危機にあ たって海軍の現場指揮官を務めたのがジョン・リーだったのである。 ジョンの海軍退役は1966年12月のことで、最終位階は海軍少将だった。インドネシ ア共和国海軍史の中で輝く名前を残した人物のひとりがかれだったのだ。[ 続く ]