「マカサルのスカルノ(1)」(2025年06月20日) 1945年4月28日から5月2日まで、スカルノはマカサルを訪れてインドネシア共和 国独立についての説明をスラウェシ島の住民に行った。スラウェシ島の歴史が持っている、 VOCの侵略とそれに対抗して王たちが抱いた愛国主義は、インドネシアというナショナ リズムの中に位置付けられなければならない。マカッサルの王たちが自分の王国を守り維 持するために侵略者に対して抱いた敵愾心は、インドネシア共和国というはるかに広大な 海と陸地を守護する広がりへと向かわなければならない。 その二度目のマカッサル訪問でスカルノはスラウェシ民衆のインドネシア共和国への帰属 意識とナショナリズムの強化を図った。そのためにはジャワ・スマトラで行われているナ ショナリズム高揚の動きにスラウェシ人も参加させてインドネシア共和国への連帯感情を 育むことが重要なポイントになる。 オランダ東インド植民地時代に全力を挙げて自国領の維持に努めてきた南スラウェシの諸 王に面会して、スカルノはインドネシアの独立準備のために編成される委員会にスラウェ シ代表者の参加を求め、代表者として適切な人材を推薦するように依頼した。 その結果、サム・ラトゥラ~ギ、ボネアルンポネ王のアンディ マッパニュッキ、南スラウ ェシの著名なナショナリストであるアンディ スルタン・ダエン・ラジャが指名された。 ボネアルンポネ王がジャカルタへ行けないためにアンディ パゲラン・パッタラニがその 代理人になり、かれらは独立準備調査会にスラウェシ代表として出席した。 8月17日に行われた独立宣言の場にかれらも立会い、かれらは帰郷してインドネシアが 独立したことを故郷のひとびとに伝えた。かれらはマカサルに戻ると、インドネシア共和 国独立宣言のニュースを印刷して街中に配布し、またあちこちの壁に貼らせたから、町は 沸き返った。 4月に来訪したスカルノを迎えてマカサルの民衆は30日に市内のハサヌディン広場で大 集会を開催し、スカルノの火の出るようなスピーチに酔った。そのとき紅白旗が広場を埋 めたのは、スラウェシの民衆も独立インドネシア共和国への帰属意識を十分に持っている ことを証明するものだった。それがマカサルに紅白旗が翻る事始めだった。 5日間のマカサル滞在期間中にスカルノは、マカサルに流刑されて生涯を閉じたディポヌ ゴロ王子の墓参を行った。ディポヌゴロの墓はワジョ郡カンプンムラユ町にある。カンプ ンムラユ町の南に建てられたロッテルダム要塞にディポヌゴロは21年間幽閉されて没し た。オランダ人がインドネシアを領有してその植民地主義と帝国主義で国土と人民を統治 支配したことに対する怒りは、ディポヌゴロと同じものがスカルノの心中を埋めていたは ずだ。 スカルノがマカサルを訪問した第一回目は1944年末のことだった。そのときスカルノ は、日本海軍の軍政統治下にあるインドネシア東部地方にもジャワに作られたのと同じよ うなPETA郷土防衛義勇軍を設立してほしいと要請したが、海軍は首を縦に振らなかっ た。 海軍は海軍兵補だけを運用する方針を固守した。日本軍の完全な統制下にある軍隊組織に プリブミ兵員を加えて組織を増強する方針がそれだ。現地民に独自の軍隊組織を作らせる ことは困難だった。 だが、海軍兵補という機構の名称がSudaraに変更された。Sumber Darah Rakyatの略語が Sudaraだ。スダラの本部がマカサルに置かれ、アンディ・マッパニュッキが名誉会長、サ ム・ラトゥラギが会長を務めた。スラウェシの青年たちがメインを占めるスダラのメンバ ーは地元民衆の政治意識とインドネシア独立を熱望するナショナリズムの高揚に大きく貢 献した。[ 続く ]