「マカサルのスカルノ(2)」(2025年06月21日)

スカルノの第三回マカサル訪問は1962年1月4〜8日だった。西イリアン解放闘争を
唱えるスカルノ大統領を迎えてマカサルの民衆はカレボシ広場で大集会を催した。スカル
ノはNKRIインドネシア統一国家を実現するためのナショナリズム意識の確立を呼びか
け、「鶏が鳴く前に西イリアンを奪い取ろう」と呼びかけた。

かれはインドネシア共和国にあるすべてのパワーを総動員して西イリアンをNKRIの中に取
り戻そうとし、西イリアン解放闘争の本拠をマカサルに置いた。イリアン闘争司令部がカ
レボシ広場から近い場所に置かれたのだ。1962年1月15日、3隻のインドネシア海
軍艦艇が西イリアンへの襲撃のためにアル島に向けて発進した。西イリアンの民衆を組織
して蜂起させるために、空挺部隊も西イリアンの上空に飛んでいる。

西イリアン解放闘争を記念するために1994年、イリアン闘争司令部跡地に高さ75メ
ートルの記念塔が建設されて、翌年インドネシア第2代大統領が完成式典を行った。


スカルノの読みは的中した。インドネシアの植民地支配の継続を自分たちのミッションと
考える歪んだ愛国主義者オランダ人たちがNICA政府を樹立してその監督下に傀儡のイ
ンドネシア連邦国家を編成しようと画策した。反オランダを旗幟鮮明に打ち出しているス
カルノが全国を一枚岩にしてしまえば、オランダの国益は消滅する。だからスカルノをジ
ャワに閉じ込め、他の諸地方をオランダの操縦下に置いてジャワに対抗させる連邦制国家
にしてしまえば、オランダの国益はまだまだ維持できる。

オランダはインドネシア東部地方に13の自治領から成る東インドネシア国を建国させた。
マカサルも自治領のひとつになった。しかし草の根民衆はすでにオランダの言いなりにな
る上流階層を見限っていた。マカサルのマジョリティ民衆はスカルノのNKRIを支持し
たのである。

1945年にインドネシア共和国独立のビラを読んだマカサル在住のマナド青年ロベル・
ウォルテル・モ~ギンシディは、戻って来るだろうオランダ人の画策からインドネシアの
独立を守らなければならないと心に誓ったそうだ。

オーストラリア軍がマカサルに上陸したのは1945年9月だった。1942年の日本軍
進攻のためにオーストラリアに逃げたオランダ植民地政庁と軍隊はオーストラリアでNI
CAを樹立してその日を待っていたのだから、オーストラリア軍が連合国軍の旗の下にマ
カサル進駐を行ったとき、NICAの軍人や行政官が連合国軍としてマカサルに戻って来
るのは当然のことだった。


インドネシア共和国統一国家を護持しようと望むスラウェシの青年たちはロベル・ウォル
テル・モ~ギンシディやランゴン・ダエン・ロモたちを中心にして武装集団を組織し、旧
態復帰に努めているNICAへの武力抵抗を強化した。かれらは1946年7月17日に
Laskar Pemberontak Rakyat Indonesia Sulawesi(LAPRIS)と名付けた戦闘部隊を発足させ
てオランダへの反抗闘争を行った。

モ~ギンシディはオランダ側に捕まり、死刑の判決が下されて1949年9月5日に銃殺
処刑された。最後の瞬間まで信念に忠実であること。モ~ギンシディが最後に書いた一文
は、後続者に向けて書き送ったメッセージのように思われる。

南スラウェシの王たちもインドネシア共和国独立宣言への支持を表明した。アンディ マ
パニュッキが音頭を取って、アンディ スルタン・ダエン・ラジャやアンディ ジェンマそ
の他の諸王のNKRI支持表明が出され、1945年10月15日にジョ~ガヤのマパニ
ュッキの家でジョ~ガヤ宣言が発表された。ラトゥラ~ギを知事にするインドネシア共和国
南スラウェシ地方の行政体に向けられた完全支持がその内容だった。[ 続く ]