「デリのニャイ(1)」(2025年06月21日) エスプラナーデ広場の端っこにある番小屋で鐘の音が5回鳴った。それは午前5時を住民 に知らせる時鍾なのである。夜明けはもうすぐそこに来ている。すると突然、夜の町中を 照らしていた街灯が一斉に消えた。町は暗闇に沈む。天が明るくなるまでの辛抱だ。 なにしろまだ早朝だから、サドの姿は町中のどこにも見当たらない。とはいえ、香港車な ら町中のあちこちの片隅に見出すことができる。かれらは家にも帰らずに徹夜で客を待っ ているのだ。香港車というのは場所によって人車とか力車などと呼ばれているもので、日 本人はひとつにまとめて人力車と呼んでいる。 朝の光が差し始めて、5階建てのハリソン商店の建物がはっきりと姿を現した。メダンの 町に美しい建物は少なくないものの、ハリソン商店の壮麗な建物は一頭群を抜きんでてい る。こんな背の高い建物は他にないのだから。 メダンを象徴するそのビルの裏にモスケーストラアト、別名ガンベンコッがある。そこは 昔から街娼の巣窟として知られていた。その通りの奥から香港車が一台、メダン駅に向か って走り出てきた。乗っている客は、美しい顔立ちのまだ若い娘がひとりだけ。 メダン駅の表には華人苦力が何人かいて、やってきた客の荷物を客車の席まで運んで何が しかの報酬をもらう。しかし駅の表で降りた娘は車夫に金を払うと、軽い包みをひとつだ け手にして駅の待合室に入って行った。クーリーに運んでもらうような荷物などひとつも 持ってきていない。 朝の列車に乗ろうとしてやってきたひとびとはすぐに切符売り場に取り付いて切符を買う。 切符が売り切れたりしたら、朝早くやってきた甲斐がなくなるのだ。切符を手に入れて安 心したひとびとが待合室の椅子に座る。 しかし娘は切符を買いに行こうともせず、不安げな面持ちで周囲を見渡しながら待合室に 座っているばかり。この娘はだれかと待ち合わせをしているようだ。待ち人はいまだにや ってこない。 待合室にいる男たちの多くはこの美しい娘にちらちらと視線をからませている。年齢は1 5歳くらいだろう。輝く大きな瞳と形良い眉毛がすべすべした色白の肌にシリの葉の形を した顔をいろどり、ちょっと高めの鼻と愛嬌のある口元が微笑ませてみたい欲望を見る者 にかきたてる。身体つきは小さめだがぽっちゃりと肉が付き、細い腰は柳の葉のようだ。 その愛くるしい身体は長いカインとスラバヤレースの上衣に包まれ、艶々した髷もピンク のスレンダンで覆われている。宝飾品こそ身に着けていないが、その天性の美に欲望を揺 さぶられない男はまだ子供だろう。 タンジュンバライ行き列車の出発を知らせる鐘が二回鳴らされた。そのときひとりの西洋 人男性があわただしくやってきて切符を買った。トゥビンティンギまでの切符を一等と二 等それぞれ一枚。娘の不安げだった表情にパッと明るさが差し、娘は西洋人のそばに近寄 って言う。「こんなに遅くなってやっと来たのね、トアン。わたし、今日は行かないのか と思っちゃった。」 「うんうん、ロスミナ、怒らないでくれ。わたしは用事がいっぱいあったので遅くなって しまった。さあ、この切符を持って、早くトレインに乗りなさい。」と言って娘に渡され たのは二等の切符。この西洋人トアンは自分だけ一等車に乗るのだ。 このトアンはトゥビンティンギにある一農園の管理人助手で、その農園の中では第二の権 威者だ。当然、近隣の農園管理人や管理人助手たちと親しく付き合い、互いに社会的地位 を高く誇示して地域の上流人士として生活している。このトアンを見知っている西洋人上 流層がこの列車にも乗るだろう。そして一等車の中でオランダ東インド社会の支配層とし ての会話を楽しむことになる。そんな場所へ、これからニャイにしようというプリブミ女 を連れて行けるわけがないではないか。[ 続く ]