「マカサルのスカルノ(終)」(2025年06月22日)

それらの成果はスカルノが読みを入れたスラウェシ人の伝統的な観念が的を射ていたこと
を証明している。スラウェシの王と民衆は外敵の自領への侵略に対して身も心もひとつに
して抵抗戦を行っていたという歴史的な事実がそれだ。スラウェシの王と民衆の心情はほ
とんどのケースでひとつに溶け合っていたのである。故郷の山河が異民族に踏みにじられ
るとき、同郷人の尊厳にかけて全身全霊で敵と戦うのがスラウェシ人の美徳だった。

ゴワ王スルタン ハサヌディンはインドネシア東部地方の諸王国を糾合してVOCの侵略
に敵対した。そして何度も戦争に敗れ、ボ~ガヤ協定に署名せざるをえない破目に陥った。
しかし、署名したということの責任を負って侵略者の言うがままに服従するようなスラウ
ェシ人ではなかったのだ。何を約束しようが、機会さえあれば抵抗者たちは約束をあっさ
りと覆して侵略者に立ち向かった。南スラウェシを平定しようとしたオランダ人は、近代
契約精神よりもっと深いところにある有理と無理の実体を理解しなかった。

オランダ人は頭を横に振りながら、「スラウェシという島は実にde onrust eilandだ」と
いう述懐を19世紀末に語った。オランダ語onrustは英語unrestの意味だ。


1667年11月18日に締結されたボ~ガヤ協定の中に、ゴワ王はソンバオプ要塞を取
り壊すという一項がある。しかしいつまでたっても、スルタン ハサヌディンはそれに着
手しようとしなかった。1669年6月24日、VOCは実力行使の挙に出た。1千発を
超える砲弾が撃ち込まれて、強力なソンバオプ要塞は崩壊した。

1998年にこの要塞の修復工事が行われた。ところが修復とは名ばかりで、破壊された
要塞の姿をそのまま保つために自然崩壊を最小限にとどめるための工事がなされたのだっ
た。ゴワ王国最盛期の偉容を復元することを南スラウェシ人は望んでいなかった。州政府
は州民に対して、歴史を忘れるな、という教訓を与えようとしているのだ。


スラウェシを含むインドネシア東部地方をスカルノのジャワから切り離すために、194
6年12月27日にNICAが作った東インドネシア国は1950年8月17日に分解し
てインドネシア共和国の中に納まった。

ハーグ円卓会議でオランダがインドネシア連邦共和国への完全主権を与えたことで、イン
ドネシアはオランダの植民地という立場から脱け出した。そして一年も経たないうちにオ
ランダの思惑は粉砕されたのである。連邦制は霧消し、NKRI統一インドネシア共和国
へと移行したのだった。[ 完 ]