「デリのニャイ(3)」(2025年06月23日) ラブハンというのは船が投錨する場所を意味する言葉であり、ヌサンタラのいたるところ にその言葉の付いた港町がある。デリ川に面するラブハンはしばしばLabuhan Deliと呼ば れ、全国各地のラブハンという地名と区別するためにそんな扱いがなされてきた。しかし ラブハンデリには大きい弱点があった。 船が内陸部に向かって川を遡行することを余儀なくされ、川が泥土堆積で浅くなり、また デリ川の氾濫が港湾活動に影響を及ぼすことも少なくなかったのである。ラブハンデリが 河口の港ブラワンにその地位を譲る必然性のあったことはすでに誰の目にも明らかになっ ていたはずだ。 ラブハンデリはかつてのデリスルタン国の王都であり、そこで取引が行われ、物資が集散 し、船積みが行われていた。デリスルタン国にとっては古くからの重要な港町だったのだ。 しかしその地域一帯が発展する中でデリスルタン国が政治と経済のセンターを新興の町メ ダンに移し、そしてまた要港をラブハンからブラワンに移すことでメダンの町がスマトラ 最大の都市に発展する基盤が作られたと言えるだろう。 今のメダン市は元々、人間のほとんど住んでいない4千Haほどの広大な湿地帯と原野の中 にあった。Sei Deli, Sei Babura, Sei Sikambing, Sei Putih, Sei Badra, Sei Belawan, Sei Sulang Salingなどのたくさんの川がその地域を流れてマラカ海峡に注いでいた。 しかし現在メダン市と呼ばれている町の領域の中のデリ川とバブラ川に挟まれた場所に、 1590年に既に集落ができていた。その集落はいつごろからか分からないものの、メダ ンプトゥリという名称で呼ばれ、最終的にメダンという都市名になって今日に至っている。 今のメダン市を含むそのエリア一帯がデリ地方と呼ばれていたころには、メダンデリと呼 ばれる習慣があった。 デリ地方というのは元来、デリスルダンのスガイウラルからランカッのスガイワンプまで の地方の呼称だったらしい。ところがデリスルタン国の発足した当初はその地方が自領に 含まれていなかったそうだ。 メダンプトゥリの集落を開いたのはカロ族首長Tuan Si Raja Hitaの息子のGuru Patimpus だったという話があるのだが、年代がしっくりしない。グル パティンプスはイスラムに 入信して科学と神秘主義を深めようとしたために父親の後継者になれず、家と故郷を後に して安住の地を求めたのである。かれは西暦1614年から1630年までイスラムの修 行を積み、その地方を治めるタリガンの妹を妻にしてメダンプトゥリと名付けられたその 集落の開祖になり、その村を統治した。イスラムの師になったため、ひとびとはかれにグ ルの称号を与えた。そういう話がバタッカロ族の古文書Riwayat Hamparan Perakに記され ている。原本は竹簡にカロ文字で書かれたものだ。 昔のスマトラでは人間の移動が河川交通によってなされていた。メダンプトゥリは河川交 通者が立ち寄るのに好都合な位置にあったのだろう。短期間に大きく発展したそうだ。と は言っても、1860年にメダンプトゥリの住民人口は2百人だったそうだから、発展と いう言葉だけを耳にして勝手なイメージを作り上げるのもアブナイことに違いあるまい。 また別の話としてHikayat Acehには、1590年にその地にある港町をアチェ軍が攻撃し て破壊したと語られている。アチェが攻撃したのはHaru王国だった。ハル王国はGhuriに 名前を変え、領民の多くがアチェに肉体労働者として連れ去られたために王国領の人口が 激減した。そのグリ王国地域が後にデリという名前で呼ばれるようになった。 ハル王国の名前はそれなりに知られていたようだ。マラヤ半島の諸王国からも侵略された し、おまけにジャワからもパマラユと名付けられた軍事作戦の進攻を受けた。プラパンチ ャの筆になるヌガラクルタガマには、Pane(Panai), Kampe(Kampai),Harw(Haru)が征服さ れたと記されている。そういうことを書いているイ_ア語記事もあるのだが、この話の年 代上の整合性もよくわからない。 ともかく、北スマトラの東岸部地方はそれらの戦争や住民の強制移住などで人口が減り、 内陸高原部からカロ族がランカッ、スルダン、デリに移住してきた。シマルグン族はバト ゥバラ海岸やアサハンに、マンダイリン族はクアル海岸、コタピナン、パナイ、ビラに住 み着いた。[ 続く ]